" モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」"
出エジプト記 14章13~14節
海を目の前にし、エジプト軍を背にするという窮地に追い込まれ、イスラエルの民はいきなり不平を言い出します。それが前回の箇所でした。
「荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れてきたのか。〜 エジプトに仕える方が良かったのだ」などと、人々はここまで導いてきたモーセに、そこまで言うかというほど辛辣なことばを投げつけました。
それに対してモーセは答えました。それが今日の箇所です。
それは、民を神のもとに導くリーダーにふさわしい、力強いことばでした。
そしてこのことばは、私たちもそのまま受け取ることができることばです。
恐れてはならない・・。
私たちは、もう恐れる必要のない者とされているのです。死という最大の難関をクリアし、決して見放さず見捨てないと言われる主が共におられるのですから。
あなた方は、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない・・。
私たちは、以前の世界とはすでに切り離された者なのです。
神から離れたまま滅びるという定めからは完全に贖い出され、天の御国の住民とされた者なのです。
主があなた方のために戦われるのだ・・。
私たちの力は主の内にあるのです。その主が私たちの内にいてくださるのです。
このことが曖昧になっているのだとしたら、本当にそうなのだとはっきり心に言い聞かせる必要があります。
そしてとどめのようにモーセは言いました。・・あなた方は、ただ黙っていなさい・・。
私たちは窮地に追い込まれると、口から余計なことばがいくらでも出てきます。
そのときこそ口を閉じ、心を主に向け、信仰を働かせるときなんですね。
窮地に追い込まれたとき・・、それは黙るとき。そして共にいてくださる主に目を向けるときなのです。
主があなたを導かれ、救い出してくださるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」"
出エジプト記 14章11~12節
イスラエルの民が去ったことを知らされたファラオとその家臣たちは、再び心を頑なにして、すべての戦力をそこに注いで、イスラエルを追いました。
一方、「イスラエルの子らは臆することなく出て行った」とあります。(8節)
イスラエルは雲の柱に導かれて、自信をもってエジプトを出て行ったのです。
ところがいざエジプト軍が後ろから迫ってくるのを見、さらに前方は海で逃げ場がないことを知ると、途端にその口からひどく不信仰なことばが出てきます。
それが今日の箇所です。
この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方が良かったのだ・・。
主ご自身があれほどの奇跡をもって導き出されたのだから、目の前にエジプト軍が迫り、絶体絶命の状況におかれたからといって、どうしてそんな不信仰なことが言えるのか・・と、傍観者としては言いたくなります。
しかも民はこのあと、海の中を渡るという奇跡の中で助けられたときには、そこで主への賛美を歌ったというのです。(15章1-18節)
なんだか情けないような気がしてきます。
しかし私たちに、果たしてそんなことを言う資格があるのでしょうか。
出て行くときには「臆することなく」出て行ったはずのイスラエルの民・・。ところがいざ窮地に追い込まれると、人が変わったようになってしまう・・。
それって実は、私たち自身の姿なのではないでしょうか。
窮地・・、そこで私たちは自分の本当の姿を見せられます。
私たちはそこで、自分の愚かさを見、しかもそんな私たちを忍耐をもって助け出してくださる主に出会うんですね。
大前提・・それは私たちは弱い者であるということ。
そしてそんな私たちの上に、主の変わらぬ愛があるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。"
出エジプト記 14章4節
主はモーセに告げられました。
引き返して、海辺に向かって宿営せよ・・と。(2節)
そしてファラオが追ってくるからねと、主は言われるのです。
それが今日の箇所です。
二百万の民が海辺に向かって宿営するとは、その追っ手に背を向けて、さらに目の前は海だということです。
それはいわば八方塞がりの状態ですが、イスラエルの子らはその通りにした・・とあります。
彼らは出発してまだ数日・・。ただひたすら自分たちを導く雲を見てそれについて行ったわけです。
しかし突然引き返し、宿営したと思ったら、目の前は海だったというのです。
民の心はどれほど不安に襲われたことでしょうか。
しかし主がモーセに言われたことは、その時「わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す」ということでした。
それは、ご自分が全能のまことの神であることを、エジプトにも知らしめようとされているという意味です。
天地万物は、主が造られました。
そしてこの世は主がお造りになられ、今もサタンが暗躍することを許されています。
そして聖書に記されている終わりのときの筋書きは、神である主がご自身を明確に現され、神の民を滅びから救い出すというものです。
その終わりのときに、主はこの方に背を向けるすべての者たちにも、ご自身をはっきり現されると、聖書は言っているんですね。
まことの神である主は、人々にご自身を現すお方なのです。
その第一弾が、御子イエス・キリストのマリヤからの誕生、そして第二弾が終わりの時のイエス・キリストの再臨なのです。
結局このあとにおきる紅海での出来事も、この終わりの時の「型」なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。"
出エジプト記 13章21~22節
ラメセス〜スコテ〜エタムと、出エジプト二日目です。(12:37,13:20参照)
この一団は「女.子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった」とありますから、すべてを合わせれば、少なく見積もっても二百万人はいたのではないでしょうか。(12:37)
さて、いよいよ出発した民には、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導かれた。そしてその柱の中には主がおられたというのです。それが今日の箇所です。
この柱は、たとえ民が二百万人だとしても、小さな子供でさえ目を上げさえすれば、誰もが見ることのできた「神のしるし」でした。
こんな心強いことはありませんね。
神はそのようにして、ご自分の民を導かれたのです。
さて、私たちクリスチャンにも、実は主はそのようにしてくださっているんですね。それが御霊(みたま)すなわち聖霊です。
昼は雲の柱・・それは目を上げさえすれば見えるのです。
夜は火の柱・・それはたとえ真っ暗闇の中に落ちてしまったとしても、目を上げさえすれば必ず見えるのです。
しかし、もし下ばかり向いていて上を見上げなければ、この雲の柱は見えないんですね。
同様に私たちも、問題ばかりに目を向けて下を向いているのではなく、目を上げて主という方の存在に目を向けるならば、私たちには御霊が見えるのです。
私たちには、それが真っ暗闇の中であったとしても、火の柱としてはっきり見える「御霊」が伴って、私たちを導いてくださるのです。
下を向かずに、上を見て歩みましょう。
その時に、御霊がそこにおられることがわかるのですから。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。"
出エジプト記 13章17~18節
二百万の民はいよいよ約束の地に向けて出発しました。
エジプトから約束の地カナンまでは直線距離にして200キロメートルくらいのもので、それは東京から浜松までもないくらいの距離です。
しかしこの民は、この目と鼻の先にある約束の地に入るのに、実に四十年もかかってしまうんですね。
それはなぜかというと、イスラエルの民が約束の地の近くまで行って偵察隊を出したときに、敵があまりに強そうなので怖じ気(おじけ)づき、「こんなことならエジプトで死んだ方がましだった」などという不信仰のことばを発した・・。
それに対して神の怒りが下ったというのが、その原因でした。
主はこのような民の性格を、初めからご存じだったようです。
「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」と主は考えられたというのです。
それで主はこの民を、直線コースであるペリシテ人の地へは導かずに、「葦(あし)の海に向かう荒野の道に回らせた」・・。
しかし葦の海とは紅海のことで、それはもっと悪い、いわば行き止まりのコースでした。
主はどうしてこのような逃げ場のないところまで民を追い込んだのでしょう。
それは、民をまず完全な八方塞がりの状態に置き、そこであの世界中の誰もが知っている「紅海の水を分けて民にそこを通らせる」という、出エジプト最大のクライマックスの場面をわざわざ作られ、ご自身が決して裏切ることのない、まことの神であるということをそこに見せつけられる・・、そのためだったということが、このあとを読んでいくとわかります。
しかしこれって実は、いつもの主のなさり方なんですね。
そのことを私たちは、創世記以来、何度も何度も見てきました。
絶望・・それは、主がご自身を現される前夜なのです。
私たちは絶望に直面したときには、このような主が共にいてくださることを思い、感謝の声を上げるべきなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
モーセは民に、主がエジプトでなされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた「その日」に、そしてその後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。(4-10節)
そして今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこのことが記された聖書があるからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きた神である主のこの大いなるみわざ「出エジプト」・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちに、そして全世界の人々にも、この聖書を通して語り継がれてきたというわけです。
そしてこの出エジプトの出来事は、私たちクリスチャンの救いをそのまま「型」として表しているのです。
私たちはこの神の大きな計画のただなかにいるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
ですから「その日」というこのことばは、結構近い未来の話であったわけです。
モーセは民に、主がエジプトでされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。
ところが、近い未来であったはずの「その日」は、民の不信仰が原因で、四十年も先に引き延ばされてしまうんですね。(民数記13章以降参照)
それはさておき、今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこの聖書の箇所があったからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きたこの「神である主」の大いなるみわざ・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちにも、そして私たちクリスチャンにも聖書を通して語り継がれているというわけです。
代々語り継がれてきたこと・・、それを今の私たちは見ているのです。
さらに私たちクリスチャンの救いは、この出エジプトから直接つながっている話なのです。
私たちは、この偉大なみわざを世界中に示された主に属する者とされているのだということを、いつもはっきりと自覚していたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。"
出エジプト記 12章46節
主は「過越に関する掟」をモーセとアロンに与えられます。(43-50節)
この掟を見ると、イスラエルの民の中には寄留者や雇い人という、十二部族以外の人たちも混入していたことがわかります。
それらの人たちに対して主は、もし過越のいけにえをささげようとするなら、その男子はすべて割礼を受けなければならない。
それはこの国で生まれた者も、寄留している者や奴隷も同様に、とにかく割礼を受けよ・・と。
そして割礼を受けるなら、「彼はこの国に生まれた者と同じになる」というのです。(48節)
そして今日の箇所で強調されているのは「これはひとつの家の中で食べなければならない」ということです。
それは、その人がたとえ異民族の寄留者であっても、割礼を受けるなら、なんの差別もなく一つの家の中の家族となるということを示すものです。
このことを教会に当てはめて考えると、全く出自(しゅつじ)や性格の異なる人であっても、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けるなら、それは神の家族となり、「私たちは主にあってひとつ」と宣言できる者となるということです。
そして家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない・・。
それは、その救いはこの神の家族というつながりの中でのみ、それは形成されていくことを示しているのではないでしょうか。
さらに・・その骨を折ってはならない。
それは、イエス・キリストの十字架までも暗示しているわけです。
ささげ物となられた神の子羊イエスは、十字架から下ろされるとき、通常の習慣であるところの脚の骨を折られるということはなかったのです。
こうして主イエス・キリストにある神の家族は、真の家族となり、同じ目的地、天の御国に向かって、歌いながら歩む者となるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。"
出エジプト記 12章42節
ファラオがエジプト脱出を許可したのが真夜中で、その脱出行は夜を徹して行われました。
すなわちイスラエルの民は一睡もしないでエジプトをあとにしたのです。
いけにえの羊を用意するという時点から、それは主が言われた通りのことを行うということで、人々の心は主と共にありました。
そしてそれを焼いて食べて、残りはすべて焼き尽くす・・。これも主を覚えてのことでした。
そして主のことばに従って、エジプトの民から金銀衣服を剥ぎ取り、いよいよ出発に備える・・。これもあり得ない発想ですが、ただ主が言われたことに従った結果として、多くの財宝を手にして出発することになります。
要するにそのすべてのことの内に、主が共におられ、民はその主を肌で感じながら、その脱出行を果たしたというわけです。
一睡もしなかったその夜から翌日まで、主の圧倒的な臨在が民と共にあったのではないでしょうか。
「主が寝ずの番」をされたとある通りです。
ところで、主は眠るお方なのでしょうか。
" 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。" (詩篇121:3-4)
主が寝ずの番をなさった・・、それは主が寝ないでということではなくて、夜を徹して主が決して離れずに共に進んでくださるのを、民は本当に目の当たりにしながら出発したということなのではないでしょうか。
それでイスラエルの民は、それから後も出エジプトのその日には、そのことを決して忘れることのないように「主のために寝ずの番をする」すなわち夜を徹して主を覚える祭りをするようになったというわけです。
このことを私たち自身に置き換えれば、私たちが古い自分を捨てて主のもとに一歩踏み出したそのとき、主はそこにずっとそこにいてくださったということに他なりません。
救い出されたとき、あのときのことを、私たちはいつも覚えていたいものです。
主がずっと共にいて、私たちをまことのいのちへと導いてこられたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。"
出エジプト記 12章42節
ファラオがエジプト脱出を許可したのが真夜中で、その脱出行は夜を徹して行われました。
すなわちイスラエルの民は一睡もしないでエジプトをあとにしたのです。
いけにえの羊を用意するという時点から、それは主が言われた通りのことを行うということで、人々の心は主と共にありました。
そしてそれを焼いて食べて、残りはすべて焼き尽くす・・。これも主を覚えてのことでした。
そして主のことばに従って、エジプトの民から金銀衣服を剥ぎ取り、いよいよ出発に備える・・。これもあり得ない発想ですが、ただ主が言われたことに従った結果として、多くの財宝を手にして出発することになります。
要するにそのすべてのことの内に、主が共におられ、民はその主を肌で感じながら、その脱出行を果たしたというわけです。
一睡もしなかったその夜から翌日まで、主の圧倒的な臨在が民と共にあったのではないでしょうか。
「主が寝ずの番」をされたとある通りです。
ところで、主は眠るお方なのでしょうか。
" 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。" (詩篇121:3-4)
主が寝ずの番をなさった・・、それは主が寝ないでということではなくて、夜を徹して主が決して離れずに共に進んでくださるのを、民は本当に目の当たりにしながら出発したということなのではないでしょうか。
それでイスラエルの民は、それから後も出エジプトのその日には、そのことを決して忘れることのないように「主のために寝ずの番をする」すなわち夜を徹して主を覚える祭りをするようになったというわけです。
このことを私たち自身に置き換えれば、私たちが古い自分を捨てて主のもとに一歩踏み出したそのとき、主はそこにずっとそこにいてくださったということに他なりません。
救い出されたとき、あのときのことを、私たちはいつも覚えていたいものです。
主がずっと共にいて、私たちをまことのいのちへと導いてこられたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。"
出エジプト記 12章41節
イスラエルの民はラメセスからスコテに向かって旅立った。そのとき、女、子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人だったとあります。(37節)
ということは、すべての民はその妻と子供たち、また老人なども入れると、ざっと二百万人にはなるかと思われます。
ところでこの六十万人の壮年男子について、この41節では「主の全軍団」と記されています。
さっきまで奴隷であったイスラエルの民が、ここでは「主の軍団」とされているのです。
イスラエルの民は奴隷であったとはいえ、それまでの12部族の系図をきっちり守り、それぞれの族長以下の組織は、きっちりできあがっていたものと思われます。
それまでは、耐えがたい労働に押しつぶされそうになり、それを乗り越える「自分」というレベルでしか物事も考えることができなかったイスラエルの民・・。
ところがそれが一夜にして「主の軍団」としてよみがえったのです・・。
それは、強力なリーダーシップをもって導いてくださる「主」という方の名のもとに、民がひとり残らず聞き従って、行動を開始したということに他なりません。
ところで、私たちクリスチャンは、以前は自分のことで目一杯という者でした。
しかし今は「どうやって自分を救うか」というようなことからは解放されて、主という方に従うという、全く新しい行動の規範の中でその歩みを出発させた者です。
私たちは、主という方のみこころに従う、この世にあっての「主の軍団」なんですね。
主は四百三十年経った「ちょうどその日」に、イスラエルの民を主の軍団としてこの地から導き出されました。
ちょうどその日・・それは、主が完全にその御手の中でこのご計画を進められるのだということを示すものです。
教会・・、それはこの世にあっての「主の軍団」なんですね。
そして、「終わりの時」すなわち主のもとに行くそのときは、それがいつだかは私たちは知りませんが、とにかくきっちりと決まっているのだということを、心に刻んで歩んで行きたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。
おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」"
出エジプト記 12章31~32節
イスラエルの民はモーセが告げたとおりに、子羊を屠(ほふ)り、それを焼いて食べ、残りは全て焼きつくし、出発の用意をしました。
それが夕刻です。
そして真夜中になったときに、主はエジプトのすべての長子を・・すなわちファラオの長子から囚人の長子、また家畜の長子まで、それらをことごとく打たれたというのです。
その夜、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こりました。「死者のない家はなかった」のです。(28-30節)
それでファラオはモーセとアロンを急いで呼び出します。それは翌日ではなく、主がエジプトの家のすべての長子を打たれた、その真夜中です。
この一晩で主は、イスラエルの民がエジプトから出て行く態勢を整えられたのです。
ファラオはやっとイスラエルのすべての民と、すべての家畜が出て行くことを認めました。
そしてエジプトの民も、これ以上こんな恐ろしい民に一緒にいてほしくはないので、「せき立てて、その地から出て行くように迫った」というのです。(33節)
さらにイスラエルの民はエジプトの民に「銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた」とありますが、これも主が命じたことです。
主はエジプトがこの民に好意を持つようにされた・・とありますが、それはもうこれ以上いてほしくはないという感じで、とにかくエジプトの民はイスラエルの民に乞われるままに、喜んでありったけのものを与えたというわけです。(36節)
イスラエルの民は団結して奮い立ち、ときの声を上げてエジプトから脱出したというのではなく、追い出されるようにして、しかも財宝付きで「せき立てられるようにして」エジプトを出たというのです。
神の御手の中で起きる出来事・・、それはいつも「圧倒的」なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
前回に記したことを、これに続く出エジプト記の記事から改めて確認をすることができます。それを追って見ていきましょう。
" あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。" (12章11節)
この食べ方というのは、明らかに普通の食事ではありません。
帯を硬く閉めたらおなかを圧迫するし、履き物は脱がなければリラックスできません、ましてや食事をするのに手に杖を持つ必要などもないわけです。
しかしそれに加えて主は、「急いで食べよ」と言われたのです。
これは言ってみれば臨戦態勢での食事です。
そしてこの食事は「主への過越(すぎこし)のいけにえだ」と主は言われました。
「過越」という名がここで出てきて、その意味がこのあとに語られています。
“ その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。" (12章13節)
家の門柱と鴨居に塗った血・・それがしるしとなるのだと、主は言われました。
何のためのしるしかというと、主が見分けるためのしるしです。
わたしはその血を見たならば、「あなた方のところを過ぎ越す」・・。
それは、わざわいはあなたがたにはおこらない・・という意味です。
"この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。" (12章14節)
主はこの出来事を、永遠に守るべき「祭り」としなければならないと言われたのです。これが「過越(すぎこし)の祭り」です。
まだ脱出前であるのに、主はそれを記念する祭りのやり方まで、事細かくモーセとアロンに教えておられるんですね。(17-20節)
さらに主は、約束の地カナンに入るときにもこの祭りを掟(おきて)として守るようにと、そして子孫がその祭りの意味を尋ねたときのことまでに触れて語られているのです。(25-27節)
主のご計画は必ずなる・・これが大前提なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。"
出エジプト記 12章5~7節
モーセはファラオに最後通告をしましたが、ファラオの頑なさは変わることがありませんでした。
そこで主は、いよいよ出発のために準備すべきことをイスラエルの民に示されました。
それは家ごとに羊(あるいはやぎ)を用意するということでした。(3-5節)
またそれは「傷のない一歳の雄」でなければならない・・と。
そしてそれを主が指定した日に、一斉にこの羊を屠(ほふ)らなければならない・・と。
そしてその血を、それぞれの家の二本の門柱と鴨居に塗れ・・と。これが今日の箇所(5-7節)です。
そしてその夜、その肉を火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べ、残ったすべてのものは焼き尽くせ・・と。
出発前夜です。(8-10節)
そして主は最後のわざわいすなわち、エジプトの家のすべての長子は殺されるというわざわいを、鴨居に小羊の血が塗られている家には下さずに通り過ぎられた、すなわち過ぎ越されたというのです。(13節)
このことを記念して、ユダヤ教では今でも「過越(すぎこし)の祭」が行われています。そしてイエス様が十字架にかかられる前に弟子たちと共にしたあの最後の晩餐も、あれは「過越の祭りの食事」だったのです。
そしてそれは決して偶然の事ではなかったのです。
出エジプトという出来事は、神の圧倒的な御手のわざをもってイスラエルの民を奴隷という身分から救い出し、約束の地カナンへ導き出すという出来事です。
そしてここに、神が用意された本当の救いのみわざの「型」がある んですね。
本当の救いとはすなわち、父なる神が「その人の心に御子が十字架で流された血が刻まれている」のを見るなら、父はその人の罪に対する罰を過ぎ越され、おまけに罪の奴隷という身分からも解放し、約束の地すなわち天国に入る者としてくださるという、あの福音のことです。
それがこの出エジプトの出来事とぴったり重なるのです。
御子イエス・キリストこそが、神が私たちのために備えて下さった「傷のない小羊」なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。"
出エジプト記 11章7節
これはモーセがファラオに言ったことばです。
今度おまえの顔を見たら生かしてはおかないと言っていたはずのファラオの所に、再びモーセは行って、ファラオに直接宣告したようです。
モーセはファラオに、エジプトのすべての長子が死ぬことを伝え、ただし・・といって付け加えたのが今日の箇所です。
そしてさらに、あなたの家臣たちは私の所に下ってきて、どうか出て行ってくださいと懇願するだろう・・と啖呵を切り、怒りに燃えてファラオの所から出て行った・・。これが4節から8節までに記されていることです。
イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、主はエジプトとイスラエルを区別される・・。
主が選んだものはすべて、きっちりと主の御手の中にあって守られる、というのです。
「犬でさえ」というのが印象的です。
この当時の犬というのは、今の時代のペットのような愛される存在ではなく、忌み嫌われる存在でした。
ところがその犬でさえ、神である主の名のゆえに守られるというのです。
クリスチャンは「敬虔な」とかいう言い回しをされて、何か違う人のような受け止め方をされることがありますが、それは全くのお門違いで、クリスチャンというのは神の前に罪びとだということを認めたからこそ、神の赦しを受け取って、神に立ち返った・・そのような者です。
それがたとえ世の中の人からは忌み嫌われるような存在・・、ヤクザとか売春婦とかホームレス、あるいは障害をもっていて人々の冷たい偏見の目にさらされている人であったとしても、それらのことは全く関係なく、ただ「主の名」の故に、その人たちは世の滅び行く人たちとはきっちり分けて取り扱われるというのです。
私たちはただ「恵み」によって、「イエス・キリスト」の名によって救われているのです。
" イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義・・、そこに差別はありません。" (ローマ3:22参照)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。"
出エジプト記 11章3節
神である主は最後の十番目のわざわい(奇跡)について、モーセに語られました。
そのときにはファラオは「本当に一人残らず」イスラエルの民をエジプトから追い出すことになる・・と。
そしてイスラエルの民に対しては、「男は隣の男に、女は隣の女に、銀や金の飾り物を求めよ」と言われたというのです。(1-2節)
隣とは、エジプトのことです。
これまでのファラオとモーセのやりとりは言うまでもなく、エジプトの民衆にとっての最大の関心事でした。
モーセはファラオと対等に渡り合い、しかもファラオに圧勝し続けているのです。
そして今日の箇所・・。エジプト人たちはもはや、イスラエルの民に対し畏敬の念を抱くほどの好意を持つようになり、モーセはエジプトの民とそしてファラオの家臣たちにまで、たいへん尊敬されていた・・、すなわち英雄として慕われるほどになっていたというわけです。
しかしながら、実際にモーセによってもたらされた奇跡はそのエジプトの民を散々苦しめていたはずです。
そして最後の十番目の奇跡・・それは、ファラオの長子(長男)からすべての民の長子、そしてエジプトの家畜のすべての初子(ういご)がみな死ぬというものでした。
民はどんな気持ちだったのでしょうか。
ファラオが頑なであるが故に、自分たちの上に、そしてエジプトの国全体に恐ろしい災いを招いてしまった・・。
彼らは、「われわれはみな死んでしまう」と言い、イスラエルの神を恐れ、その民をせき立てるようにして追い出したとあります。(12:33)
彼らは、自分たちもこのまことの神の民であったらどんなに心強いかと思ったのではないでしょうか。
私たちは、この恐るべきまことの神のことを知るにつれ、この神が愛と哀れみの神であることを知り、そしてその神のもとに帰っていった者です。
私たちは今や、この完全なる神の民となったのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」"
出エジプト記 10章28節
ファラオは漆黒の闇にはとても耐えられず、再びモーセを呼んで言います。
家族もみな行って主に仕えるが良い・・、ただ家畜は残しておけ・・と。(24節)
しかしモーセは、家畜の中から最上のものを選んで主にささげるので、すべての家畜も共に行かなければならない・・と答えます。
それでファラオはとうとう頭にきてしまって、というのが今日の箇所です。
このファラオについて、ここまでずっと語られてきたことがあります。
それは「主がファラオの心を頑なにされた」ということでした。
それはファラオが頑なになることによって、さらに大きな奇跡を人々に見せ、それによって全能の主の名を全地に知らしめるためだっだというのです。(9:16)
ならばファラオは自分の意思などとは何の関係もない、ただの操り人形だったのでしょうか。
ならば例えば、人が神を信じるときにも、それは神が初めから決めておられたことで、自分で決めたことではないということになるのでしょうか。
しかし私たちにしてみれば、それは確かに「自分で決めた」ことです。
ところが神の側から言うなら、神が最初からこの器を選んでいたということになるわけです。
神は、私たちが主体的に心の行動をすることによって、すなわち自分で決めることによって、神と人との関係ができるようにされたのです。
私たちは、それについて注文をつける立場にはないのです。
私たちは被造物であり、神が私たちを造られた神なのですから・・。
ファラオにとっては、それまでのすべてのことは自分で決めた行動でした。
しかしそのすべては、神の御手の中で、神のご計画のために、神がなされたことだったというわけです。
私たちはどんなにあがこうと、この神の御手の中にあり、そしてしかも、その愛の中にあるんですね。
神の御手の中で、私たちはひれ伏し、その神を喜ぶ者となる・・、これが神の御心なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。"
出エジプト記 10章23節
ファラオはモーセの前に降参したかのように見えたのに、いなごが去ったのを見て再び心を頑なにします。
そこで主はモーセに「闇がエジプトの地の上に降りてきて、闇にさわれるほどにせよ。」と命じられました。(21節)
それで・・というのが今日の箇所で、これが九つ目の奇跡となります。
真っ暗闇というのは、その空間にあるはずのものが全く見えない状態ですが、そのことさえ感じることのできない「さわれるほどの闇」・・。
それは想像するだけでも恐ろしいものです。
エジプトの民は「自分のいる場所から立つこともできなかった」というのです。
"地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。" (創世記1:2-3)
光というのは「被造物」なんですね。
私たちは太陽の恵みを受けて、地上で暮らしています。
しかしこの太陽というものも、神には初めからあった概念としての「光」のために神が創造されたものであって、そもそも光自体が神による被造物だというわけです。
神は「あるかないか」決めることのできるお方なんですね。
いのちがあるかないか、心の内に光があるかないか・・。
ここでは「イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」とあります。
光は神から来るのです。。
そしてこの創造主なる神を覚えること・・、それこそが知識の初めなんですね。
" 主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。" (箴言1:7)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。
どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」"
出エジプト記 10章16~17節
ファラオは、イスラエルの民が全員出て行くなどということは到底認めることができず、結局いなごの害(8番目の奇跡)を招くことになってしまいます。
モーセが祈ると、エジプト中にいなごがあふれ、せっかく雹の災害を免(まぬが)れた作物が全部食い尽くされてしまい、エジプトから緑が消え失せてしまいました。
それで・・というのが今日の箇所です。
おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ・・。
今度こそファラオは、本当に神の前に悔い改めたように見えますが、残念なことにこの後も、モーセの祈りによっていなごが去ると、ファラオは再び心を頑なにするんですね。(20節)
滅びることと救われることの狭間であることを予感しつつも、それでもなお頑なになる・・。
私たちの体に刻まれている「罪の性質」・・それは、自分を守るという性質です。
だから頑なになるわけですが、本当に自分を守りたいなら、自分を捨てよ、すなわち自分の守りを解除せよ・・というのが、神の救いの論理です。
大事なのは、自分を守ることではなく、いのちの源、力の源、そしてあなたを完全に赦すお方を認めるということなんです。
しかしながら、自分を守ろうとする「肉の性質」がそれを邪魔しようとするわけです。
私たちクリスチャンも主を認めて、主の前に降参しておきながら、自分の肉の性質と主の御心との狭間(はざま)に置かれて、結局は主とは逆の滅びに向かう選択をしてしまうこと・・、よくあることなのではないでしょうか。
だからこそ、私たちはその都度思い起こさなければならないのです。
主の死はこの私のためにあるのだ・・ということを。
私たちは、私たちのために死んでくださった主によって、生きる者とされたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【あなたの心を埋めるもの】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=OBrYmSpYYWY&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」
モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」"
出エジプト記 10章8~9節
ファラオの家臣たちは、今度はいなごの害だという話を聞いて恐れ、ファラオに進言します。
このままではエジプトは滅んでしまいます。どうか彼らの言うことを受け入れてください・・と。(7節)
そこでファラオはモーセとアロンを連れ戻し、彼らが礼拝のためにエジプトを出ることを許します。
しかしよくよく話を聞けば、この民全員がここを出ていくという話ではありませんか・・。それが今日の箇所です。
それでファラオは、そんな話はとても受け入れられないと言って、再びモーセとアロンを追い出してしまうのです。
ファラオにとって、奴隷であるイスラエルの民というのは莫大な財産なんですね。
結局それを捨てるという選択肢はなく、8番目の奇跡、いなごの大群を招くことになってしまうのです。
私たちは、自分の財産と自分のいのち・・どちらを取りますかと言われるなら、躊躇こそするかも知れませんが、やはりいのちを取らざるを得ないわけです。
しかしファラオは、財産を取り続けたというわけです。
この話を永遠という物差しの上で語られる「福音」に重ねて見るならば、自分の財産とは 「自分」あるいは「自我」のことです。そしてそれよりも大切なはずの「自分のいのち」というのが永遠のいのち、すなわちまことのいのちのことであるわけです。
あなたはどちらを取りますか?・・そう問いかけているのが福音です。
人は、今持っている財産すなわち「自我」を捨てることができず、結局永遠のいのちを失ったままになってしまう。
これこそがこのファラオのパターン、すなわち私たちの「型」なんですね。
" 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。" (マタイ10:39)
まことのいのちをいただくためには、捨てなければならないものがあるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" いなごが地の面をおおい、〜 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。"
出エジプト記 10章5~6節
モーセとアロンは心を頑なにしたファラオのところに再び出かけていって、主によって告げられた8番目の奇跡について警告します。
それはいなごが地の表を覆い、先の雹(ひょう )の害を免れた穀物や野に生えている木もみな食い尽くす。そしてそのいなごは全エジプトの家に満ちる・・というものでした。
そしてその様は「あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである」というのです。
このことば・・、なんだか今の私たちには聞き慣れたことばのような気がしませんか。
今のこの地球は温暖化ならぬ、沸騰化しているということばまで使われ始めました。
現に日本に限らず、様々な災害が起きたときに、その土地のお年寄りがテレビに出てきて、こんなのは自分が生まれてから今まで見たことがないと言っている・・、そんなニュースが日常的になってきているような気がします。
エジプトを脱出して約束の地カナンに入るこの出来事・・、神の十の奇跡、そしてその後の出エジプトの際に紅海の水が分かれたという出来事・・それらはみな、「今までに見たこともなかったようなこと」だったわけです。
イエス様は言われました。
"いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。" (マタイ24:32)
今はまさにこの「夏」すなわち「終わりの時」を目前にして、「葉が出てくる」すなわちその前兆を見せられている、まさにそのときなのではないでしょうか。
今はもはや、世のことに心を奪われているときではない、身を引き締めて主に近付いて歩むことに専念するときであるという警告のように感じるのは、私だけでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。"
出エジプト記 10章3節
ファラオはモーセに降参したはずでしたが、災いが過ぎ去ると結局もとに戻ってしまい、心を頑(かたく)なにして、イスラエルの民を行かせようとはしませんでした。
そのファラオに対して、主はこう言われたわけです。
あなたはわたしの前に、身を低くしていないよね・・と。
身を低くする・・、それは形としては頭を上げなかったりひれ伏したりするというものですが、こと心の中に関しては、私たちもこのファラオのように、低くしたつもりでいながら、本当は低くなっていないということ・・、なんとなく思い当たることはないでしょうか。
私たちには、心にまで、うわべと本音があるようです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節) とありますが、それは、主が見られるのは心の本音の部分だということです。
もともと肉の性質を持った私たちは、自分をかばうという性質を持っているので、自分で自分の心の奥を見るということはとてもむつかしいのです。
ところが、私たちクリスチャンには「キリストの心」である聖霊が与えられているというのです。(第一コリント 2:16 参照)
私たちは自分の心の奥までを見ることはなかなかできませんが、共にいてくださる聖霊=御霊(みたま)は、私たちのすべてを見て下さるんですね。
この御霊に寄り添うとき、私たちも自分の心の内にある本当のことを知ることができるのです。
そのときに、頑なな私たちに「素直な悔い改め」がやってくるのです。
主は私たちにかかわるすべてのことを、成し遂げてくださるのです。(詩篇138:8)
このいつも共にいてくださる御霊に、力を尽くして、目を注いでいたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 10章1~2節
七度の軌跡を見せられたにもかかわらず、ファラオは再び心を頑なにします。
そのとき主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
わたしがファラオとその家臣たちの心を硬くしたのだと、主は言われました。
それはこのあとも、彼らの中でしるしを行うためだ・・と。
また、そのすべてのしるしをイスラエルの民が見て、それを子孫に語り継げ、こうしてわたしが主であることを人々が知る・・、そのためにわたしはこれを行うのだと、主は言われたのです。
イスラエルの民はエジプトで四百年近くも奴隷の身として苦しみ、出エジプトにおいて神を見ました。
出エジプトをしたイスラエルの民は、四十年間荒野の生活を強いられ、神の御手によって約束の地を占領しました。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見ました。(マタイ4:16) キリスト来臨です。それ以来全世界の無数の人々が神に立ち返りました。
さらに、世の終わりには七年間の大艱難時代がやってきます。そのとき、神はこの苦しみの中でご自身を表され、この最後のチャンスに多くの人々が神に立ち返るというのです。
これらすべてのことの中にはみな、人々の苦しみがあります。そして神は、その苦しみの中にご自身を現されるということのようです。
そうでなければ人は神を認めようとしないことを、主はご存じなのかも知れません。
世の始めから終わりまで、神のなさること・・特に苦しみや悲しみはみな、人々が「わたしが主であることを知る」ためだというわけです。
人々を苦しみの中に置き、そこで人は神のみわざを見、このまことの神に立ち返り、永遠のいのちの中に救い上げられる・・これが神のなさることの「型」であるようです。
神である主を知る・・そこからすべてが始まるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」"
出エジプト記 9章30節
前回の箇所に続いてモーセがファラオに言ったことばです。
ファラオもその家臣も、あなた方はまだ神である主を恐れていない。そのことが私にはよくわかる・・と。
モーセがファラオに向かって確信をもって、このように言えた理由・・、
それは彼らが「自分がこの神の手から逃れることしか考えていない」というところにとどまっていて、その先に行き着くべきところ、すなわち、この主に助けを求めるべきだというところには全く思いが至っていないということが、見て取れたからではないでしょうか。
結局ファラオは、モーセの神を認めたにも関わらず、それが絶対者である神であり、すべての者がひれ伏すべき方だという概念は、どこにもなかったわけです。
ファラオはモーセに、「今度は私が間違っていた。主が正しく私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ」(27-28節) と、さも降参したかのようなことを、家畜の疫病の時に続いて二度も言っているわけですが、だからと言って自分がこの神の前にひれ伏すなどということは、頭の片隅にもなかったというわけです。
私たちクリスチャンは、身の回りに起こる様々な出来事を、神との関係の中で考えます。
そしてその都度、神と自分との関係について新しいことを教えられていくわけですが、結局行き着くところは、「神を本当に信じる」ということなんですね。
それは、絶対者である神を信じるということです。
世の中の人は、自分を助けてくれるのならこの神に頼んでもいいと思ったりもするわけですが、それができないなら信じたってしょうがない・・。
結局その神を恐れ、この神の前にひれ伏すなどという概念は、微塵もないわけです。
一番大切なこと・・それはこの神を信じ、まことの父として絶対的にいてくださるこの方を恐れ、この方の前にひれ伏すことなんですね。
「あなたは髪の毛一本さえ、白くも黒くもすることはできないのです」(マタイの福音書 5:36から)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。"
出エジプト記 9章29節
七番目の奇跡・・激しい雷を伴う巨大な雹・・。
これにはファラオも参ったようで、ファラオはモーセとアロンをを呼び出し、「わたしが間違っていた」「主が正しく、私と私の民が悪かった」「主に祈ってくれ」「おまえたちを去らせる。もうここにとどまってはならない」(27-28節) と、完全降伏の様相です。
それに対してモーセがファラオに言ったことばが今日の箇所です。
今回の雹による災害については、翌日とかではなくて、町を出たらすぐに自分は主に手を延べ広げるから、そのとき即座に雹はやむのだと、モーセは宣言します。
そしてそれは、この地が主のものであることをあなた方が知るためだ・・と。
モーセは「この地(エジプト)も主のものである」とその王ファラオの前で大胆に宣言したんですね。
結局モーセが言ったことは、この大自然に起こるすべての現象も、神である主の御手の中にあり、あなたが王だと思っているこのエジプトの地も、元々はこの神があなたに与えたのであり、この神が許しているのであなたはこのエジプトの王となれているのだ・・ということでした。
モーセは、この神である主こそが、万物をその手に収められるまことの神であって、ほかに神はいないのだ・・と大胆に宣言したのです。
しかし自分が助かることしか考えられなくなっているファラオに、恐らくそんなことばは、心の奥まで届くことはなかったのではないでしょうか。
私たちは、聖書の最初の一行目には「はじめに神が天と地を創造された」と書かれているのを知っています。
しかし果たして、この短い一節がどれほど私たちの内に響いて伝わっているでしょうか。
「はじめ」があって、そこに天と地を創造された絶対的な唯一の神という存在があって、いまのすべてがあるのだ・・というところから、この神の書は始まっているのです。
私たちは、このファラオのようにではなく、もっと心を引き締めて、この神の言葉に向き合う必要があるのかも知れませんね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。"
出エジプト記 9章20~21節
七番目の奇跡・・それは「雹(ひょう)」でした。
それもただの雹ではなく、火が雹の中をひらめき渡ったというのです。
それは稲光の真っ只中に立たされ、そこに非常に激しい雹が降ってくるという、恐ろしい光景でした。
この雹によって家畜は死に、木も打ち砕いたとあります。(23-25節)
ところで、神はこの警告をファラオとその民に与えたとき、家畜と野にいるすべての者を避難させよと言われているんですね。
しかし民の反応は、二つに分かれました。それが今日の箇所です。
この両者の違い・・、それは「主のことばを恐れた者」と「主のことばを心に留めなかった者」です。
主のことばを恐れた者は言われた通りに、しもべたちも家畜も家に避難させました。一方、「主のことばを心に留めなかった者」がいたというのです。
そして主が言われたとおり、野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜は、みな雹に打たれて死にました。
ここにも聖書全体が言おうとしていることの小さな「型」が見られます。
聖書は警告しているのです。
今あなたを愛する父なる神のもとに立ち返りなさい・・。
神は御子キリストによってあなたが立ち返る道備えをされたのだから、それを受け取りなさい・・。
さもなければあなたは苦しみの中で滅びることになる・・と。
エジプトの民は、それがどんな人であるかということには関係なく、ただ主を恐れ、主の言葉に聞き従った者が守られたのです。
この二つの道・・それは資格とか運命とかによって決まることではなく、あなたが自分で決めることなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。
しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。"
出エジプト記 9章15~16節
これはファラオに対する主のことばです。
ファラオは、エジプトの民の家畜が疫病で大量に死に、しかもイスラエルの民の家畜は一頭も死んでいないのを見たにもかかわらず、さらに心を硬くし、民を去らせることをしませんでした。
それで主は、続けざまに第六番目の奇跡を起こされます。
それはモーセがかまどのちりを天にまき散らすと、そのちりは人と家畜につき、うみの出る腫れ物となるというものでした。
それでもなお、ファラオは心を頑なにし続けます。(8-12節)
そこで主は、ファラオに対して言われました。
「わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ」 そうでなければ「わたしのすべての災害を送る」と。
そしてそれは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである」・・と。(13-14節)
さらに主は、ファラオに対して決定的なことばを告げます。
それが今日の箇所です。
それは、「あなたのいのちはわたしの手の中にあって、わたしがそうするならばあなたのいのちは即座に消え去るのだ」という意味です。
しかし今はファラオをさらに生かすことによって、「わたしの力をあなたに示し、わたしの名を全地に知らしめるのだ」と、神は言われたわけです。
このファラオと神の一連のやりとりを見ていると、私たちと神との関係を思い起こします。
それはすなわち、「自分が折れるか、自分の思いを守るか」にかかっているということです。
人が神に立ち返るということは、大きな奇跡の一つですが、しかしそこで起きることと言えば、それは自分が折れるという単純な一つのことなのです。
神はこのようにして、いつも私たちに迫っておられるんですね。
そしてそのたったひとつのスイッチによって、人の運命は変わるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。
しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」"
出エジプト記 9章3~4節
ファラオはアブの大群にほとほと悩まされ、とうとう降参し、私のために祈ってくれとモーセに言います。
そしてモーセは祈り、アブの大群は一匹もいなくなったのに、主が言われた通り、ファラオはまたもや心を硬くして、民を行かせることはしませんでした。
そして五番目の奇跡です。
それはエジプトのすべての家畜の上に「非常に重い疫病」が起こるというものでした。
今日の箇所は、主がそれを予告して言われたことばです。
主はアブの奇跡の時に続いて、この疫病もイスラエルの子らの家畜には何の影響もないと言われました。そしてその通りになります。(6節)
イスラエルの民は、神である主が自分たちを特別に扱われていることを目(ま)の当たりにします。
そしてそれが最後の奇跡まで続き、その極めつけがあの紅海の水が分かれて、イスラエルの民はそこを行き、後から入ってきたエジプト軍は、水が元に戻って彼らをすべて飲み込んでしまう、という出来事でした。
その後イスラエルの民は、荒野の旅に出て様々な壁にぶち当たります。
しかし、彼らは神である主が自分たちを特別に扱われ、守ってくださることを知っていたので、その信仰は少しも揺らぐことはありませんでした・・、と行きたいところですよね。
ところが、彼らはこのすべての主のみわざを忘れて、荒野で主に対する不平を言い始めるのです。
前回のタイトルは「学習しない人」でしたが、このイスラエルの民もファラオと同様、学習しない民だったんですね。
主はまことの神であり、私たちの叫びをご存じであり、私たちの盾となり、岩となってくださるお方なのです。
その主が私たちを、決して見放さず見捨てないと言われて、私たちに伴ってくださるのです。
私たちが忘れてならないのは、そのことなんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」"
出エジプト記 8章28節
ファラオはとうとうモーセに降参します。
神にいけにえをささげても良いから、この国の中でせよ・・と。
しかしモーセは、荒野に三日の道のりを行ってそれをしなければならないと告げます。(26-27節)
だったら、遠くへ行くのでなければ良い。私のために祈ってくれ・・。
これが今日の箇所です。
そして主はモーセのことばの通りにされ、アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れ、いなくなりました。(29-31節)
ところがファラオはまたも心を硬くし、民を去らせなかったというのです。(32節)
降参したのに、また心を頑(かたく)なにするという、学習しない人ファラオ・・。
とは言え、それは私たちの姿そのままを映し出しているような気もします。
神は絶対なるお方。そしてその神は私たちを愛し、私たちに良きものを与えてくださろうとしておられるお方です。
なのに私たちはその大きな存在を忘れて、ただひたすら自分の願うことを求め、結局満足できないでいる・・。
でもそれは、「神を信じていない」ということに他ならないわけです。
神は私たちに必要なものを、一つ一つ順番に与え、そして最後にはどのようにされようとしておられるかというと、私たちを「神の聖さに与(あずか)る者」とされるというのです。(ヘブル12:10参照)
神は私たちに必要な良いものから、順番に与えてくださるお方なのです。
学習しましょう。その主が今も、あなたと共にいてくださっているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。
わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖(あがな)いをする。明日、このしるしが起こる。』」"
出エジプト記 8章22~23節
四番目の奇跡はエジプトの地がアブの群れで満ちるというものでした。
アブに噛まれると二三日後には、激しい痛みを伴います。
ブヨは体長数ミリですが、アブは大型のハエといった感じです。
これが全土を覆うというわけです。
しかし主は、イスラエルの民がいるゴシェンの地だけを特別扱いをすると言われたのです。これが今日の箇所です。
そしてこのことは、十番目の奇跡に至るまで続くのです。
ここで主が言われている
「わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする」
「こうしてあなた(わたしを信じない者=ファラオ)は、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る」・・。
それは実は「終わりの時」に起きることとして黙示録に記されていること、そのまんまなんですね。
終わりの時に際してイエス様の救いを信じて神のもとに帰ったクリスチャン・・それが「わたしの民」です。
そして最終的には、この民を永遠の滅びから救い出し、天の御国の民としてご自分のものにする・・、それが「贖う」ということの意味です。
しかも、頑なに神を拒み続けた民は、この終わりの時の最後になって、本当にこの方こそまことの神であったということを知る・・というのです。
今日の主のことば、そのままなのです。
アブの群れは、ファラオの家とその家臣の家、またエジプト全土に満ち、その地は荒れ果てましたが、ゴシェンの地だけは全くの無傷でした。(24節)
これは終わりの時の「型」だというわけです。
これから後に起きることに対する警告が、ここにすでに書かれているのです。
神である主は「ご自分の民」を罪の世界から救い出し、約束の地に導き入れる・・そのことを知らせるために聖書が与えられているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
前回と同じ箇所です。
ある方から、次のような感想をいただきました。
・・古代エジプトって多神教?だから、ファラオも(神というものを)信じているのかと思っていました・・と。
モーセの時代はほぼBC1400年くらいです。
この年代を調べると、アメンホテプ三世という王の名が出てきます。
この時代の人々は、地方神アメンを崇拝していたようで、それが太陽神としての属性を帯びるようになったとのことです。(ウィキペディアより)
どちらにしてもこれらの神は自然崇拝から生まれた神、すなわち天地万物を作られた聖書の神からしてみれば、太陽という被造物を拝む偶像崇拝だったわけです。
ですから、この出エジプト記に出てくるファラオも、この偶像崇拝をしていたことは間違いありませんし、その神を信じていたのだと思われます。
前回私はこのように書きました。
・・王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです・・。
エジプトの王はその神を崇拝していたのかも知れませんが、その神は言うまでもなく、王の意向に反することを言う神である可能性は非常に低いわけです。
偶像の神とは、人の考えで作られたものであって「神」ではないのです。
しかし聖書の神は、人の都合に合わせて言うことが変わってくるような神ではないことは、言うまでもありません。
呪法師たちが言った「これは神の指です」ということばは、自分たちが拝んでいる神とは違う、まことの神がここにその御力を現されたのです・・という、恐れを伴った畏怖の念でのことばだったに違いありません。
この「聖書のことば」シリーズでは、まことの神のことを「神」とか「神である主」とかいうことばで言い表していますが、それは言うまでもなく「全知全能の、天地万物を造られた、しかも私たちのような小さな存在の一つ一つを愛される、唯一のまことの神」という意味が込められているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
前回と同じ箇所です。
ある方から、次のような感想をいただきました。
・・古代エジプトって多神教?だから、ファラオも(神というものを)信じているのかと思っていました・・と。
モーセの時代はほぼBC1400年くらいです。
この年代を調べると、アメンホテプ三世というエジプトの王の名が出てきます。
この時代の人々は、地方神アメンを崇拝していたようで、それが太陽神としての属性を帯びるようになったとのことです。(ウィキペディアより)
どちらにしてもこれらの神は自然崇拝から生まれた神、すなわち天地万物を作られた聖書の神からしてみれば、「太陽という被造物」を拝む偶像崇拝だったわけです。
ですから、この出エジプト記に出てくるファラオも、この偶像崇拝をしていたことは間違いありませんし、その神を信じていたのだと思われます。
前回私はこのように書きました。
・・王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです・・。
エジプトの王はその神を崇拝していたのかも知れませんが、その神は言うまでもなく、王の意向に反することを言う神である可能性は非常に低いわけです。
偶像の神とは、人の考えで作られたものであって「神」ではないのです。
しかし聖書の神は、人の都合に合わせて言うことが変わってくるような神ではないことは、言うまでもありません。
呪法師たちが言った「これは神の指です」ということばは、自分たちが拝んでいる神とは違う、まことの神がここにその御力を現されたのですという、恐れを伴った畏怖の念でのことばだったに違いありません。
この「聖書のことば」シリーズでは、まことの神のことを「神」とか「神である主」とかいうことばで言い表していますが、それは言うまでもなく「全知全能の、天地万物を造られた、しかも私たちのような小さな存在の一つ一つを愛される、唯一のまことの神」という意味が込められているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章19節
川が血になり、蛙が全土を覆い、今度は三番目の奇跡、「地のちりがブヨになる」というものでした。(16-17節)
ブヨとは体長数ミリの小さいもので、まさに土のちりがそのままブヨになったという感じです。
刺されると半日後には、激しいかゆみに悩ませられます。
それがエジプト全土を覆ったというのですから、たまったものではありません。
今度はさすがに呪法師たちも土のちりをブヨにするということはできませんでした。(18節) そこで呪法師たちがファラオに言ったことばが今日の箇所です。
これは神の指です・・。
呪法師たちはこの奇跡の出所を「神」と認めたわけです。
しかしファラオの心は頑なになった・・。
ファラオは「王」でした。
王が誰かにひれ伏すなら、その途端にファラオは王でなくなるわけです。
ですから神を認めることは絶対にできないのです。
私たちすべての者は罪びとであると、聖書は言っています。
それは他でもない、私たちすべての者は、絶対にほかの誰にも譲ることのできない「心の王座」という、固い城壁で守られている部分があるということを指摘するものです。
それが砕かれないことには、その上におられる存在、すなわちまことの神を認めることなど決してできないというわけです。
神を認める・・、それはある種の降参、また敗北なのですが、実はそれこそが「賢明さ」という世界への入り口、すならち知恵の始まりだと聖書は言っているのです。
"知恵の初め、それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。" 詩篇 111篇10節
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 8章15節
ファラオはモーセに降参して、モーセに祈るように要請します。
それでモーセは、ファラオが言ったとおりに翌朝、主に叫び、蛙を取り除いていただくように祈りました。
果たして主はモーセの祈りを聞かれ、地上にあふれるほどにいた蛙はみな死に絶え、「地は悪臭で満ちた」とあります。(8-14節)
ところが・・。それが今日の箇所です。
ファラオは「一息つけると思うと」とあります。
一息つくとは、言ってみれば「我に返る」ということです。
それまでファラオは、蛙のことで全く気持ちの余裕がありませんでした。
自分がモーセの神に祈ってくれと言ったなど、いったん我に返ったときには、あれは本当の自分ではなかった・・といった感覚なのでしょうか。
ファラオは我に返った瞬間、この神を認めないという、最初の状態にあっという間に戻ってしまったわけです。
モーセに祈るように求め、一見降参したかのように見えたわけですが、結局ファラオはこのモーセの神を信じたというわけではなかったんですね。
このファラオは、言ってみれば「罪びと」の象徴です。
人は何か切羽詰まったことがあれば神を信じるというところに立とうとするわけですが、それがなくなってしまうと、いとも簡単に「神不在」の以前の自分に戻ってしまう・・、それが「罪びと」です。
そんな身勝手な人(私たち)がクリスチャンになった・・。
それは、我に返ったら、私は罪赦され、神の子とされているんだ・・というところに返る者になったということです。
実にそれは「人」の一大変革なんですね。
元々の自分にはそんな力は全くないのに、神の御力によって、私たちは古い自分に死に、新しいいのちをいただいて歩む者とされたのです。
神の奇跡によって、私たちは「新しい者」へと変えられたのです。
そのことをいつも覚え、主の御名をほめたたえ、歌いつつ歩む者とされたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" こうしてモーセとアロンはファラオのもとから出て行った。モーセは、自分がファラオに約束した蛙のことで主に叫んだ。"
出エジプト記 8章12節
ファラオはモーセに降参し、エジプト中にあふれる蛙を除くように祈ってくれと頼みます。
それでモーセは「祈るけど、いつが良いか」とファラオに尋ねます。(9節)
ファラオは「明日」と答えました。それは「一番早いとき」という意味のようです。
そしてモーセは言いました。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。蛙は、あなたと、あなたの家、家臣、民から離れて、ナイル川だけに残るでしょう」と。(10-11節)
そしてモーセとアロンはファラオのもとから出て行き・・、というのが今日の箇所です。
ここには「自分がファラオに約束した蛙のことで・・」と記されています。
それは、モーセが神に言われてその通りに言ったのではなく、自分の考えで約束したということのようです。
それでモーセは主に叫ばなければならなかった・・。
主よ、私はファラオに明言してしまいました。どうかその通りになさってください・・と。
しかしそれはモーセの勝手な考えというより、信仰から来たことばであったことは疑う余地もないことです。
しかし信仰の故にとは言え、神に先んじて口がことばを発してしまうこと・・、私たちには結構あることではないでしょうか。
でもそれは、自分がこの先のことを決めてしまうということであって、それが神がなさることと一致するとは限らないわけです。
さいわい神は、モーセの叫びに答えられ、蛙は一掃されます。(13-14節)
しかしそのためにモーセは、叫ばなければならなかったんですね。
私たちの信仰生活に於ける確実な歩み・・それはすべてのことを一つ一つ主に聞きながら進んで行くことであることを、ここでは教えてくれているのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙(かえる)を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」"
出エジプト記 8章8節
ナイル川の水が血になって一週間。その後その水がどうなったかは記されていません。
今度はその水から蛙を、ファラオの家の寝台の上にまで上らせ、家臣とエジプトの民の上に這い上がらせるとファラオに警告せよと主は言われます。
果たしてアロンが水の上に手を伸ばすと、蛙が這い上がってきてエジプトの地を覆いました。(6節) 二度目の奇跡です。
そして今度も呪法師たちが水を血にした時のように、同じことをした・・と記されています。(7節)
これも、水が血になった時と同様に、小規模なものだったのでしょう。
すでに蛙がエジプトの地を覆っていたのですから・・。
考えてみれば、ファラオは呪法師たちに蛙を除くように命ずればよいのに、同じように蛙を這い上がらせたというのですから、なんとなく変な感じがします。
イスラエルの神に対抗する力はどこにもなかったというわけです。
それでファラオはモーセとアロンを呼び寄せて・・というのが、今日の箇所です。
ファラオはすでにイスラエルの神に降参していたわけです。
しかしこの祈りが聞かれ、一息つくと、ファラオは再び心を頑なにします。(15節) そして残りの8回の奇跡を見る際にも、ファラオはその度(たび)に心を頑なにするのです。
結局ファラオは主に降参しながらも、主への恐れというものが全くなかったんですね。
それは、「神を神と思っていない」ということです。
神が私たちの想像主なのですから、私たちはそのほんのひとかけらしかわかっていない者なのです。
ファラオにとっての「神」は、自分が考える範囲の中の神に過ぎませんでした。
しかし、このイスラエルの神は、それを遙かに超えた、恐るべき全知全能の主なる神なんですね。
このまことの神は、私たちがまずその前にひれ伏すべきお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙(かえる)を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」"
出エジプト記 8章8節
ナイル川の水が血になって一週間。その後その水がどうなったかは記されていません。
今度はその水から蛙を、ファラオの家の寝台の上にまで上らせ、家臣とエジプトの民の上に這い上がらせるとファラオに警告せよと主は言われます。
果たしてアロンが水の上に手を伸ばすと、蛙が這い上がってきてエジプトの地を覆いました。(6節) 二度目の奇跡です。
そして今度も呪法師たちが水を血にした時のように、同じことをした・・と記されています。(7節)
これも、水が血になった時と同様に、小規模なものだったのでしょう。
すでに蛙がエジプトの地を覆っていたのですから・・。
考えてみれば、ファラオは呪法師たちに蛙を除くように命ずればよいのに、同じように蛙を這い上がらせたというのですから、なんとなく変な感じがします。
イスラエルの神に対抗する力はどこにもなかったというわけです。
それでファラオはモーセとアロンを呼び寄せて・・というのが、今日の箇所です。
ファラオはすでにイスラエルの神に降参していたわけです。
しかしこの祈りが聞かれ、一息つくと、ファラオは再び心を頑なにします。(15節) そして残りの8回の奇跡を見る際にも、ファラオはその度(たび)に心を頑なにするのです。
結局ファラオは主に降参しながらも、主への恐れというものが全くなかったんですね。
それは、「神を神と思っていない」ということです。
神が私たちの創造主なのですから、私たちはそのほんのひとかけらしかわかっていない者なのです。
ファラオにとっての「神」は、自分が考える範囲の中の神に過ぎませんでした。
しかし、このイスラエルの神は、それを遙かに超えた、恐るべき全知全能の主なる神なんですね。
このまことの神は、私たちがまずその前にひれ伏すべきお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。
ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。"
出エジプト記 7章20~21節
いよいよここから、出エジプトに至るまでの神の十の奇跡の始まりです。
最初はモーセの杖でナイル川の水を打つことによって、ナイルの水はすべて血に変わる・・というものでした。
ところで、このあとの22節には「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした」とあります。
この前後の文章をそのまま読むと、エジプト全土にわたって血があった(21節)のなら、この呪法師たちが血にした水はどこにあったのか、という疑問がわいてきます。
私たちの聖書の読み方・・、それは聖書のことばをそのまま受け取るというものです。
ですからそこに矛盾した二つの記述がある場合には、その両方が正しいという観点で、どのような状況だったのかを推測するということになるわけです。
初めにナイルの水を杖で打ったのはモーセです。
しかしその前の時点で、主はモーセに対し、アロンに命じて川や水路、貯水池の上に杖を伸ばように言いなさいと命じておられます。
そしてその結果として「エジプトの全土で木の器や石の器にも血があるようになる」と主は言われています。(19節)
要するに、モーセがファラオの前でナイルを打ったときに血となったのは、ナイル川の水で、「ナイル川の魚は死に、川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった」・・(21節)
それでもまだ、水路や貯水池の水はアロンが杖を伸ばすまではまだ血になっていなかったということが考えられるわけです。
それで呪法師たちも、目の前にあった水を血に変えるという秘術を見せたという話で、呪法師たちの秘術はナイルの水が血に変わるという大きな奇跡には遙かに及ばない小さなものに過ぎなかった、・・ということで、話の整合性は取れることになります。
「聖書は神の霊感によって記されている」ということをそのまま受け止めるなら、そこにさらに具体的な状況が見えてくるというわけです。
聖書の記述は「そのまま受け入れるに足るもの」なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。"
出エジプト記 7章13節
モーセはファラオのところに行って、杖が蛇になることを見せたら、ファラオも呪法師たちを使って同じことをして見せました。
しかしその呪法師たちの杖から出た蛇は、モーセの杖である蛇に飲み込まれてしまったというのです。(12節)
勝負で言うならば、ファラオの負けです。
しかしそれでもファラオの心は頑(かたく)なになったというのです。
頑な・・それは自分の負けを認めないということです。
そしてそれは、このファラオを見ての通り、まことの神を認めないということに通じているわけです。
ファラオはこの後、十度にも及ぶ奇跡を見せられても、その心は頑ななままでした。
ファラオが負けを認めたらファラオは王ではなくなってしまうというわけです。
すべてのものの上に自分を置く者、すなわち王にとって、神を認めるというのは、ほかの誰よりも難しいことなのかも知れません。
それは自己否定につながることだからです。
そしてそれは、私たちにとっても、同じことが言えるのかもしれません。
神を認める・・、それは今まで自分の考えと価値観をもって、自分の力の限りを尽くして生きてきた者にとって、この全能の主を認めるというのは、ある意味で自己否定になるからです。
だからそのような人が神を認めるというのはとてもハードルの高い、超難関であるわけです。
ですから、とことん自我が砕かれるという出来事があったとか、あるいは自分自身に、また生きている環境に絶望してしまった・・、そのようなところで神を認めることになる人はとても多いのです。
そこはすでに自我を守るというような場所ではないからです。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34篇18節)
自我が砕かれる・・そここそが神と出会う、恵みの場所なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。
彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を吞み込んだ。"
出エジプト記 7章11~12節
モーセとアロンは主が言われたとおりにファラオのもとに行きました。
主はモーセとアロンに、「ファラオが『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、杖を取ってファラオの前に投げよ」と言われていたので、モーセとアロンはその通りにします。
そしてその杖は、主が言われていた通り、蛇になりました。(9-10節)
そこでファラオも・・というのが今日の箇所です。
なんと、エジプトの呪法師たちも「彼らの秘術を使って同じことをした」というのです。しかしモーセの杖による蛇は、呪法師たちによる蛇を飲み込んでしまった・・。
とは言え、そのようなことを呪術者もすることができるのだということに、少なからず驚きを覚えます。
新約聖書 第二テサロニケ2章9-10節には、こんなことが書かれています。
・・不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。
世の終わりには不法の者が「偽りのしるしと不思議」をもって滅びる者たちに臨むというのです。
まことの神からあなたを引き離そうとする「不思議な力」というのは、今も存在し、この世に働いているんですね。
しかし不思議な力というだけで、私たちはそれに心を開いてはいけないのです。
主イエス・キリストの御名だけが、唯一信頼できる力、私たちが依って立つべき名なのです。
その御名だけが、サタンから来るあらゆる力を飲み込む力があるのです。
私たちクリスチャンは、常に「霊の戦い」の中に置かれているのです。
いつもイエス・キリストの御名を手に取って、悪しき霊の力を見分け、戦いに臨む者となりましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 7章5節
神である主はモーセに、ファラオは心を頑(かたく)なにしてモーセの言うことを聞かないこと、そしてそのファラオの上に主ご自身が御手を伸ばし、イスラエルの民をエジプトの地から導き出すということを、これまでにも何回か語ってこられました。
今回もまたそのことを語られ、さらに言われたことが今日の箇所です。
エジプトは、わたしが主であることを知る・・。
200万もの民がエジプトから脱出するなら、イスラエルの民はこの方こそ自分たちの父祖の神、今までその話を聞いてきた、まさにその神であることを見せつけられるわけですが、このことで主は、当のイスラエルの民だけではなく、エジプトも「わたしが主であることを知る」ことになるのだと言われたのです。
出エジプトという出来事において、エジプトは裁かれる側です。
その裁かれる側のエジプトの王およびその民にも、神である主はご自身を現され、まさしくこの方こそが、天地万物の創造主である正真正銘の神であることを示されるのだというのです。
このことを見ると、黙示録の中のある箇所を思い出します。
終わりの時に、さらに心を頑なにして神を認めようとしなかった民の叫びの声です。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(ヨハネの黙示録 6:16-17)
神は終わりの時に至って、この出エジプトの出来事のように、心を頑なにする人の上にも主はご自身を現されるというのです。
この出エジプトの時代から、今に至るまで、そして終わりの時に至るまで、神はすべての人にご自身を表される・・、それでこの方こそがまことの神であることを知ることになる・・それが神がなさることなんですね。
主を恐れ、主を信じ、そして私たちに真実を尽くしてくださるこの神である主を信じて、歩んでいこうではありませんか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 7章5節
神である主はモーセに、ファラオは心を頑(かたく)なにしてモーセの言うことを聞かないこと、そしてそのファラオの上に主ご自身が御手を伸ばし、イスラエルの民をエジプトの地から導き出すということを、これまでにも何回か語ってこられました。
今回もまたそのことを語られ、さらに言われたことが今日の箇所です。
エジプトは、わたしが主であることを知る・・。
200万もの民がエジプトから脱出するなら、イスラエルの民はこの方こそ自分たちの父祖の神、今までその話を聞いてきた、まさにその神であることを見せつけられるわけですが、このことで主は、当のイスラエルの民だけではなく、エジプトも「わたしが主であることを知る」ことになるのだと言われたのです。
出エジプトという出来事において、エジプトは裁かれる側です。
その裁かれる側のエジプトの王およびその民にも、神である主はご自身を現され、まさしくこの方こそが、天地万物の創造主である正真正銘の神であることを示されるのだというのです。
このことを見ると、黙示録の中のある箇所を思い出します。
終わりの時に、さらに心を頑なにして神を認めようとしなかった民の叫びの声です。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(ヨハネの黙示録 6:16-17)
神は終わりの時に至って、この出エジプトの出来事のように、心を頑なにする人の上にも主はご自身を現されるというのです。
この出エジプトの時代から、今に至るまで、そして終わりの時に至るまで、神はすべての人にご自身を現される・・、それでこの方こそがまことの神であることを知ることになる・・それが神がなさることなんですね。
主を恐れ、主を信じ、そして私たちに真実を尽くしてくださるこの神である主を信じて、歩んでいこうではありませんか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。"
出エジプト記 7章1節
モーセは自分を信用しなくなってしまったイスラエルのかしらたちと、また自分の言うことに全く耳を貸そうとしないファラオに向き合わなければなりませんでした。
そんなモーセの思いにもかかわらず、主はモーセにこれからするべきことをどんどん告げていくのです。
それでモーセは主に「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」と申し上げます。(6:12)
そして6章30節でも、モーセが同じことばで主に訴えている場面が出てきます。
この尻込みするモーセに主が言われたのが今日の箇所です。
あなたをファラオにとって神とする・・、それは主がモーセを、神の完全な代理人として保証したということです。
神の言葉を人々に伝える人・・それを聖書では預言者と言います。
預言者は神の言葉を伝えるにあたって、自分の思いをそこに差し挟む余地は全くありません。
モーセはその預言者として神から任命されたというわけです。
「わたしは口べたなのです」と言って尻込みするような人物を、神はどうして選ばれたのでしょうか。
口べた・・それは、自分の考えや意見をそこに差し挟むという発想が全くないということです。
こうしてモーセは、紅海の海を分けて、イスラエルの民をエジプトから救い出すという、大きなみわざを神の代理人として成し遂げるのです。
自分の思い、計画を捨てるなら、神の大いなるみわざがそこに現わされる・・、これはどうも原則のようです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)