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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #199

【心を神と一つにするための祈り】イエス様のことば 24

 山上の垂訓・第18回

 今日の箇所は、教会の礼拝などで必ずと言って良いほど、皆で一緒に声を出して祈る「主の祈り」の箇所です。
 主の祈り・・、それは「心を神と一つにするための祈り」・・これが今日のテーマです。

" 〜 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』"
  マタイの福音書 6章8~13節

 イエス様は「父は求める前から、あなた方の必要をご存知」だと言われ、「だから」こう祈りなさいといって、この「主の祈り(と一般的に言われている)」を教えられました。
 今日は、イエス様の祈りの話の3回目ですが、前の二回では「心を注いで祈る」「父なる神に祈る」ということを確認させられる話でした。
 そしてあなた方は必要なものをくださいと祈るけど、それを父なる神は分かっておられのだから、とにかくこう祈りなさいと言われた「主の祈り」。それは、まずあなたと神との関係において、あなたを正しい位置に導く祈り。そしてそれが、神から必要なものを受け取る者となるための土台なのだ、というのがイエス様の話の流れです。
 必要なものは、物や資金などだけではなく、力、心、人、知恵、知識、そして愛、と様々です。

 主の祈りの一つ一つについては、#37〜#48 (市原のブログ「ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ」2020.1.17-1.30で確認できます) でゆっくり見てきましたが、ここに簡単にまとめてみたいと思います。
 この主の祈りも「弟子たち」に言われたことで、それはクリスチャン(神を主とする者)に言われていることであると受け止めての解釈です。

1 天にいます私たちの父よ。・・祈る対象は、天地万物を創造され自分を愛してくださる「父なる神」なのだ、という確認。そしてこの祈りは「私たち」が共有している祈りだということの表明。

2 御名が聖なるものとされますように。・・世界中で主の御名があがめられることを願う。すなわち、福音が全世界に広がっていくことを願う祈り。

3 御国が来ますように。・・イエス様は再び来られます。それから御国が来ます。しっかりイエス様の再臨を忘れないようにする祈り。

4 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。・・地上ではサタンの妨害によって神の御名に覆いがかけられていますが、そこに圧倒的な聖霊の働きによって、地上でも天上のごとく、神ご自身にそこに立っていただく・・そのような光景を見ることができるように願う祈り。クリスチャンはこのことをリバイバルと呼んでいます。

5 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。・・自分たちの必要はこれだけあれば、父は全て備えてくださるという、父への信頼を言い表す祈り。

6 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。・・私たちはイエス・キリストの十字架のあがないによって、全ての罪が赦されている者です。そのことを覚えて自分の心に「赦さない」心がないかを点検する祈り。

7 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。・・悪から守られる基本、それは聖霊に満たされていることです。聖霊を求めるべきであることを覚える祈り。

 そして、聖書には記されていませんが「主の祈り」には最後に「国と栄と力とは、とこしえにあなたのものだからです。」という一節が加えられます。
 それは最後に父なる神の偉大さをほめたたえることば、そして自分が祈り求めているのはそういうお方であることを覚えるため。だからあなたに祈るのです・・と。

 主の祈りは、日々逸れて行ってしまう私たちと神との関係を修正して、正しいところに戻す祈りなんですね。

 主の祈り・・それは心を神と一つにするための祈り。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.05.Wed 10:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #198

【祈る対象】イエス様のことば 23

 山上の垂訓・第17回

" また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。
 彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。
 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。"
 マタイの福音書 6章7~8節

 祈りについてのイエス様のお話の2回目です。

 今日のテーマは「祈る対象」です。

 イエス様は、同じことばをただ繰り返す祈りを「異邦人のように」と表現されています。

 異邦人のように祈る・・、それはまことの神についての知識を持っていない人が闇雲に祈るというようなイメージでしょうか。祈りの対象がはっきりしていないんですね。
 祈りとは、「天地万物を作られた全能の神・主」に祈るということです。

 しかしこれは、まことの神との関係を明確に意識して生活する人でなければ、よくわからないことなのかもしれません。
 例えば、特に日本人が「祈る」という言葉を使うとき、その祈りの姿勢自体に何か神聖なイメージがあって、そういう心が大切なのだ・・といった考え方があります。日常の雑事に心が奪われていることに気がつき、ふと我に帰り、静まって祈る・・。その姿勢が大切なのだといったイメージです。
 神を知らない人の多くは、祈りという言葉をそんな風に受け止めているように思います。

 祈りは、祈る対象があって初めて「祈り」になります。祈りというのは、全能の神である主にことばをかけるということなんですね。

 同じことばをただ繰り返す異邦人・・それは、祈るべき対象である全能の神をはっきり意識せず、ただことばを繰り返す。・・ですから、彼らと同じようにしてはいけません、とイエス様は言われているわけです。

 祈りの対象・・それは「あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられる方」なのだというのです。
 ならば、祈る必要などあるのでしょうか・・となりますが、ここで神が求められているのは、あなたの神への正しい姿勢なんですね。
 あなたを愛する神、あなたのためにひとり子を送り、そのいのちをあなたの罪の代償としてくださった神に祈って、その父なる神との関係を深めていく・・、それが「祈り」のうちに神が求められていることなのです。

 そしてこのことを異邦人ではなくて弟子たちに話されたということは、まことの神を知る者でも、その対象がぼんやりしてしまうということがあるということなんですね。
 私たちは、私たちを知り、私たちの名を呼んでくださる「父なる神」に祈るんです。

 父なる神は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」(イザヤ43:1) と言ってくださるお方なんですね。

 直接はっきり祈ることのできる、「父なる神」がおられるのです。

 ハレルヤ ! (主の御名をほめたたえます)


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.08.04.Tue 10:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #197

【ストレートな祈り】イエス様のことば 22

 山上の垂訓・第16回

" また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。
 彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。
 まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。
 そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
 そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
 マタイの福音書 6章5~6節

 イエス様は弟子たちに、祈りのことについて話し始められました。

 この話は、会堂や大通りで祈る人の話です。私たちは二人三人で心を一つにして祈ることがあますが、ここではそういう祈りではなく、一人で祈っている様子を人が見ている・・という状況の話です。
 
 私たちは複数で祈る時にも、自分の祈りがちゃんとしているか、、とても人の目が気になることがあります。でもこれは仕方のないことです。
 祈りは格好をつける必要はないのですが、自分の祈りを聞いて人がどう思うか、ある種の恐れを持ってしまうんですね。人の目が気になれば当然、祈る言葉は不自然になってきます。心が完全に神に向かっていないからです。

 ですからイエス様は、一人で祈りなさいと言われました。でもそれは、複数で祈ることを否定するものではありません。複数で祈るということにはまた別の意味があります。
 イエス様は、二人でも三人でも、わたしの名によって集まり祈る時に、わたしはそこにいる・・と言われているのですから。(マタイ18:19-20)

 ここで言われている「報いをいただける祈り」とは、神にストレートに、心を注ぎ出す祈りのことを言っているんですね。だったら、神はその祈りに報いてくださるというのです。

 イエス様は、祈りが偽善者たちのようであってはいけませんと言われました。
 前回、偽善者とは自分が罪人であることを認めていない人のことだと書きました。
 そうだとすると、偽善者たちのような祈りをするということは、自分が罪人であることを認めていない・・すなわち、心がまだ砕かれて粉々になってはいない状態なのだ、ということになります。
 心が粉々になっていたら、人の目がどのようであっても、どのように低く見られても、それは当たり前のことになってしまうんですね。だったら、人の前で祈っても人の目を気にする必要がなくなるわけです。信仰生活が浅くて、自分の祈りが幼い・・それも当たり前のこととして、自分で受け入れてしまう者になってしまうんですね。
 そうすると、たった一言でも、それは神に向かってのストレートな言葉になるわけです。心からの祈り、それは熱心な祈りとか、そういうものではなくて、ただ神にまっすぐに向けられた祈りなんですね。

 ですから戸を閉めて、隠れたところで祈る祈りでも、もしその心がストレートに神に向けられていないのだったら、それは報いられる祈りとはならないわけです。でも、少なくとも人の目を気にする必要はありませんから、その場所は心からありのままを神に申し上げることができるところになり得るんですね。

 イエス様は弱い私たちをご存知で、そのように言われたんですね。私たちは、ほぼ100%、砕かれきってはいないのですから。一人で、誰もいないところで、思いっきりあなたの心を父なる神に注ぎだしてごらん・・と。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.03.Mon 09:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2005たいむ


YouTube動画
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #12

賛美歌 Amazing Graceから 〜あなたに語られる神〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=G9pBZDak1mE&t=3s


God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

2020.08.01.Sat 09:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #196

【レッテル貼り】イエス様のことば 21

 山上の垂訓・第15回

" さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。
 見なさい。自分の目には梁(はり)があるではありませんか。
 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。
 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。"
 マタイの福音書 7章1~5節

 6章では、人の行動に隠れている「下心」を見ました。そして今回のこの箇所「さばいてはいけません・・」は、心の奥で王様のように振舞っている「傲慢」の指摘です。

 ここで言う「さばく」とは、人を評価するという意味です。
 そして、さばいていたら同じように厳しい目で人からの評価を受けることになりますよ、というのです。評価をするというのはいわゆる「レッテル貼り」をすることです。それは、あの人はああいう人なんだからと、人の評価を固定してしまう行為です。そしてそれが自分に返ってくるというのです。
 人を量る人は、自分が量られて、自分自身も身動きが取れなくなってしまうんだよと言っているわけです。

 あなた方は、人の目にあるチリはよく見えるくせに、自分の目の中に梁があることには気がつかない・・。梁とは、天井に使われる太い丸太です。
 それは、あなたの目には梁が入っていて、見えるものも見えない状態であることに、あなたは気がついていないのだという指摘です。
 そしてまずそのことに気付きなさいというのです。そしてその梁を取り除けば、目に入っているチリで困っている人を助けることができるというのです。
 目にチリが入るとは、小さなことで物事がよく見えなくなってしまっている状態なのではないでしょうか。自分の目に梁が入っていたら、そんな人を助けようと思うこと自体がお門違いですよ、というわけです。

 この梁・・どうやって取り除くことができるのでしょうか。
 聖書は、すべての人は罪人(つみびと)だと言っています。それはあなたを愛する神がおられるのに、その神から離れ、自分を中心にして物事を見て、すべてを自分で解決しようとする人で、そこには必ず罪があるというのです。
 自分がこの罪人であることを認めること・・実はそれが「自分の目にある梁」を認めることなんですね。それは人の弱さや愚かさというものが自分の中にも基本的にあるのだということを、はっきり認めるということなんです。

 偽善者・・それは自分が罪人であることを認めていない人のことです。

 梁を取り除く・・それは自分ではできないことなんですね。しかし、その罪を背負ってくださったイエス・キリストの十字架はそのためだったんだと知る時、それが梁を取り除く時なんですね。そしてそのイエス・キリストをあなたの内にお迎えする時、それがあなたの内に実現するのです。

 祈り・・「神さま、私の目に梁があること、罪人であることを、もっとよく知ることができますように。」

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.07.31.Fri 11:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #195

【心が求めていること】イエス様のことば 20

 山上の垂訓・第14回

" あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
 マタイの福音書 6章21節

 今日のテーマは「心が求めていること」です。

 前回の内容はこうです。イエス様の話の矛先がパリサイ人と律法学者に向けられて行き、「兄弟をバカ者というな」「情欲の目で女を見るな」「姦淫以外の理由で離縁するな」「誓うな」「悪い者に手向かうな」「自分を迫害する者のために祈れ」と言われた。でもそれは実は私たち自身に向けられていることばだけど、そんなことはとてもできない・・。しかしイエス様を信じる者は聖霊を受け、「神によって、神の形に変えられて行く者」とされる。その歩みの中でこれらのことが実現して行く・・。

 その一つ一つのことはここでは飛ばして、次に行こうと思います。次の6章でもその話は延々と続くのです。
 「善行」「施し」「祈り」「断食」「蓄え」・・。(6章1-34)
 6章を読んで行きますと、私たちの行動には全て「下心」が隠れているのだということを示されます。良いことをするにも、結局自分のためだと言う、その究極の「本音」がそこにはあるというのです。

 それらの話の中で言われているイエス様の言葉が今日のみことばです。

 ・・あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある・・

 宝とは、あなたが一番大切にしているもののことです。そして、人はそのことのためにもっぱら「心」を用いるのだというのです。
 そしてそのポイントは、自分を喜ばせようとしているのか、それとも神を喜ばせようとしているのか、という視点でこれらのことが語られています。
 先ほどの「善行、施し、祈り、断食、蓄え」は、実は自分のために行うこともあり、また神のために行うこともある、、そのどちらもあり得るというわけです。
 結局これらのことを、自分はどういう動機でしているかということをもう一度静まって、その心のうちを観察してごらんなさい、、ということなんですね。

 あなたはなんのためにそれをしているのですか・・と。
 
 神に仕えるパリサイ人や律法学者。その神のための働きの内にも、自分を喜ばせることと神を喜ばせるという、二つの動機が隠れているというのです。
 これは弟子たちに語られたイエス様の山上の垂訓です。ですからそれは、今のこの時代においても、イエス様に仕えて行こうとする者、すなわちクリスチャンに対しての、とても重たい指摘なんですね。

 祈り・・詩編139:23-24(口語訳聖書)から
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。
 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.07.30.Thu 11:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #194

【無理ないましめ】イエス様のことば 19

 山上の垂訓・第13回

" ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"
 マタイの福音書 5章48節

 イエス様の山上の垂訓と言われるところに入ってから13回目になりました。

 今日のテーマは「無理ないましめ」です。

 このイエス様の説教は、一般の人に対してではなく、弟子たちに対してであるという観点から、一つずつ見てきました。
 そしてこれらのことを考えるときにイエス様は、「パリサイ人や律法学者」を物差しとして見せられた、というのが前回です。
 あなた方はパリサイ人や律法学者を何か偉い存在のように思っているかもしれないが、その内側を見るのでなければ全てを見誤るから気をつけなさい・・というわけです。

 そしてこの後に、有名な箇所がいくつも出てきます。「兄弟をバカ者というな」「情欲の目で女を見るな」「姦淫以外の理由で離縁するな」「誓うな」「悪い者に手向かうな」「自分を迫害する者のために祈れ」・・

 これらは、私たちには到底できそうもないことばかりです。そしてその共通点は、心のコントロールということなんですね。
 そして、これらの話の最後にまとめのようにして言われているのが今日のみことば・・天の父が完全であるように、完全でありなさい・・です。

 結局、心をコントロールできるならそれは「完全な人」であるのかもしれません。でもこれらはほとんど「でき得ない」ことばかりです。
 所詮私たちは、天の父「神」のように完全になれるわけがない・・これが普通に行き着くところです。
 それでもイエス様は「完全でありなさい」と言われたんですね。

 イエス様が人々に言われたこと・・それらはわけがわからないこと、できそうにないことばかりだと言っても過言ではないように思います。
 ところが・・です。イエス様が十字架で死なれ、よみがえって天に上られ、そして弟子たちの上に激しく聖霊が下った・・その時に、あのわけがわからない話の意味が突然開け、見えるようになり、また、この世的な欲の中にいた弟子たちが完全に変えられ、その心は主なる神にのみ向く者とされたんですね。

 イエス様が言われたことはみな「あらかじめ」なんですね。後になって、ああこういう意味だったのかとわかる・・。それは聖霊によってわかるものであるわけです。
 要するにこれらのことは、イエス・キリストを救い主として自分の内にお迎えして後のことだ、というわけです。
 今日のみことばをよく見ると、「あなた方の天の父」と言っています。それは「信じた者」というのが前提の話だということです。

 その意味は次のみことばに集約されています。

" イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」"
 ルカの福音書 18章27節

 あなたを変えるのは、あなたの努力や力ではなく、神なのだということです。 
 わたし(イエス・キリスト)を信じる・・ここが完全になる入り口なんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.07.29.Wed 11:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #193

【天の御国に入る資格】イエス様のことば 18

" ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。
 しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
 わたしはあなたがたに言います。
 あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。"
 マタイの福音書 5章19~20節

 今日のテーマは「天の御国に入る資格」です。

 前回の17-18節では、イエス様の話の矛先が律法学者やパリサイ人に向けられたということを見ました。今日の箇所は、まさにそのことがわかる箇所です。
 この文脈から見ますと、このユダヤ人の指導者たちは天の御国に入れない、ということになります。

 神からの戒めは、本来ならきっちり従うことが求められているものです。イエス様も律法の一点一画も消え去ることはない(18節)と言われました。
 彼らパリサイ人や律法学者は、民衆に対して神の言葉を伝え教える者として立てられた人たちです。その彼らに対して言われているこの言葉は、それをあなた方は全くしていないではないかという指摘です。完全に失格だということです。

「律法学者やパリサイ人の義」とはどういうものなのでしょうか。
「義」とは正しさのことです。「それで良しとしていること」のことです。

 イエス様は彼らを評して「白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。(マタイ23:27)」と言われました。簡単に言ってしまえば、その心は外見を繕うことで一杯になっていて、内側の「汚れ」について、悲しもうともしていない。そしてそれで良いと思っている・・ということになります。

 厳しいですね。でもこれって・・他人事ではないんですね。パリサイ人や律法学者というのはそういう人たちだったんだぁ、とか言って見ている場合ではないのです。これは実は私たちに言われていることなんですね。

 私たちの心の基本は「自分ファースト」なんです。それはパリサイ人や律法学者に限ったことではなく、私たちもそうなんです。人はそのような「肉の性質」を背負って、この世では生きていくしかない者なのです。
 イエス様は、この話を弟子たちにしました。それは彼らが後に聖霊を受ける時に備えるために、このことをあらかじめ語られたんですね。イエス様の十字架の意味を知る土壌は、自分を直視するところにあるからです。そうでなければ、十字架は必要なものではなくなってしまうのです。

 十字架で死んでよみがえられ、天に上り、今も生きておられるイエス・キリストご自身が、人の罪の性質に関しての完全な解決なんです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの身代わりの死となり、よみがえりとなってくださったからです。

 天の御国に入る資格は、自分の罪を認める人であるということなんですね。
 そしてそのためには、イエス・キリストを自分のうちに迎えれば良いのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.07.28.Tue 11:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #192

【聖書の成就】イエス様のことば 17

" わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。"
 マタイの福音書 5章17~18節

 弟子に対しての山上の垂訓。初めの8つの「幸いな者」は、イエス様の弟子としての資質のことだという観点から見て来ました。その結論は、この世で「愛の行い」をして、人々が父なる神をあがめるようにしなさいということでした。

 そしてここからイエス様の話の矛先は、パリサイ人や律法学者の方に向けられて来ます。この後に出てくる有名な話、例えば「右の頬を打たられたら、左を出しなさい」などは、全てこの土台、すなわちパリサイ人や律法学者たちを意識して言われているのだという視点で見ると、イエス様がこの話をしている時のお気持ちに触れることができるような気がします。今日の箇所はそのイントロであるわけです。
 実は、イエス様が話される大半のことは、このパリサイ人や律法学者というユダヤ人たちの指導者層に対する厳しい糾弾という意味合いが含まれているんですね。そしてこの糾弾の姿勢は「上席を選ぼうとする」という、指導者になれば人の上に立とうとしたがる「人」の傾向に対して、これからイエス・キリストを宣べ伝えるであろう弟子たちに対するいましめでもあったわけです。

 当時のユダヤ人にとって、律法を守るということはとても重要なことで、それに反するということは神様に対する反逆に等しい行為とみなされました。安息日には働いてはならないというのもそのひとつです。ところがイエス様が色々な奇跡のわざをされた時、それが安息日だったというので、パリサイ人や律法学者たちはイエス様を「神に反逆する者」とし、そのとどのつまりがあの十字架だったわけです。
 ところがイエス様は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と言われたのです。

 ここでイエス様が言われた律法とは、モーセが受けた十戒を含む創世記に始まるモーセ五書のことです。そして預言者とはその後に出てくるイスラエルに対して警告を発した多くの預言者たちのことです。すなわち「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことを指しているんですね。
 ところが当時のユダヤ人の生活を支配していた律法は口伝律法という、生活上のこまごまとした、あとから付け加えられた規則でした。安息日は働きをやめて休む日だというところから、重たい物を持って歩くことも禁じるという、ただ生活を縛るだけのものになっていたわけです。そんな彼らは安息日に病人を癒すイエス様を「安息日を破る不遜な者」だとしたのです。ところが人々は安息日にも牛やろばの世話をし、水を飲ませたりしていながら、それは問題にしていませんでした。

 イエス様の指摘はこうです。あなたがたは神に従っていると言いながら、その心は神から離れ、こまごまとした規則に縛られるだけの者になってしまっているが、聖書(旧約聖書)に記されていることは、主なる神だけを神とし、愛せよということで、あなたがたは実はそこから大きくそれてしまっている・・ということなんですね。

 そしてさらにイエス様は聖書に記されていることについて、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」と言われたのです。
 それは、聖書の全ては成就するということであり、それは天地が消え去る最後の最後まで、きっちりその通りになるんだと言われたんですね。
 それは一言で言えば、キリスト(わたし)は今ここに来て、終わりの時にも再び来るのだということです。

 わたしが来たのは「聖書が成就するため」なのだ。そこから目を逸らせようとするすべてのことに気をつけなさい・・と、これがイエス様の教えの始めなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.07.27.Mon 11:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

2005たいむ

GraceCafeたいむ#11 / YouTube動画

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #11

賛美歌 Amazing Graceから 〜わたしはあなたを愛している〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=eUqXpvL-3mM&t=4s


God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.07.25.Sat 07:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #191

【良い行いとは】イエス様のことば 16

" あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。"
 マタイの福音書 5章13~16節

 イエス様は、弟子たちに向かって八つの「幸いな者」の話をされました。それは「心の貧しい者」から始まり、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者・・。こうしてみると「幸いな者」とは、イエス様の弟子としての資質のことを言っているのだということが見えてきます。

 それに続いて言われたのが、今日の「地の塩」「世の光」の話です。
 今日の13節から16節までは、文脈から言えばこれで一括りです。最後にその目的が書かれているからです。それは「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるため」だというのです。

 ですから、「地の塩」とか「世の光」「灯をともす」というのは、ここで言われる「良い行い」のことなんですね。
 そしてその良い行いとは、人がそれを見ると「天の父をあがめる」ような行いだというわけです。
 良い行いをする人は、世の中にはたくさんいます。しかし善行一般では、ここで言われる「地の塩」や「世の光」にはならないんですね。
 弟子たちに求められる「良い行い」・・それは、その行いがイエス・キリストから来ているのだということがわかる必要があるというわけです。

 イエス・キリストという旗印をはっきりさせないことには、それは世の中に埋もれていってしまうんですね。ですから塩気とは、イエス・キリストご自身のことを言っているわけです。要するに「塩が塩気をなくす」というのは、自分がキリストの弟子であることを忘れるということなんですね。 
 また世の光になり得るのもの・・それは、イエス・キリストをおいて他にはいないんですね。イエス・キリストを標榜したら、それは決して隠れることなどできないんです。
 そして、家の中でもイエス様の御名を明確にするとき、それは家にいるすべての人(家族)にイエス・キリストを見せるのであって、そのためにあなたはいるのだということです。

 イエスに従う者の上にある大きな神の愛・・、それはいのちをかけてその人の全人格を受け入れるという、大きな愛です。ですからそのイエス様に従う者の「行い」は、種類は様々であってもすべて「愛の行い」なんですね。

 これまでは、弟子の資質について見て来ました。そしてここからは弟子がすべき「行い」の話に入ったわけです。

 イエス様の御名によって愛の行いをする・・。
 それで人々は、そこに神を見る・・。
 そのためにあなたがたは世に置かれるのだ・・というわけです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.07.24.Fri 08:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #190

【義のために迫害されている者】イエス様のことば 15

" 義のために迫害されている者は幸いです。
 天の御国はその人たちのものだからです。"
 マタイの福音書 5章10節

 イエス様が弟子たちに言われているという前提で、ここまで7つの「幸いな者」を見てきました。そして今回が最後の八つ目ですが、ここでいよいよ、キリストに従う者に向けて言われているということが鮮明になります。

 義のために迫害されている者については、この後さらに二節を用いて語られています。その迫害とは、人々にののしられる。ありもしないことで悪口を浴びせられる。過去の預言者たちが受けたと同じような迫害を受ける・・というのです。その時に、その者は幸いだと・・。
 天の御国はその人たちのものだから。天での報いは大きいから大いに喜びなさい・・となります。

 改めて「義のために迫害されている者」について考えてみますと・・
 義とは、「神が良いとされること」です。そしてそのことのために迫害されるというのです。

 神が良いとされていること。それは人に関しては次のようなことです。
 まずは人が聖であること。そして聖くない状態に対しては見逃すことができないということ。そしてそのためにご自身が備えられた「赦しの道」を人が受け取ること。これが「神が良しとされること」なんですね。
 すなわち、人は神の前に赦されるものではないけど、特別な方法で「赦す者」を選び出し、聖い者としてご自身のもとに帰らせるという、一見逆のことが同時に存在している・・これが「神の義」なんですね。
 そのために具体的な道を備えられた方・・それが御子イエス・キリストです。

 ですから、義のために迫害されてるというのは、イエス・キリストの故に迫害を受けるということに他なりません。

 そしてその者は天の御国を受け継ぐというのです。さらに「天においてその報いは大きい」(12節) と。
 このことばには、天における報いには大小があることを予感させます。そしてそのことをさらに強調するように、このあとの19節には「天においての偉大な者と小さい者」(マタイ5:19) という言葉が出てくるんですね。
 これはびっくりですね。イエス様によって救われ従っていく者には、みな天の御国を約束されているけど、その働きに応じての報いには差があるというわけです。

 イエス様は、ご自分に従っていこうとする者は、迫害を受ける、ののしられる、ありもしないことで悪口を浴びせられる、と言われたのです。
 すなわち、この世において、神のしもべには苦難が伴う。しかし天における大いなる報いを期待して、この世で受ける苦難を受け取りなさい・・。イエス様は、弟子たちに向かってそう言われたんですね。
 わたしに従う者には苦難が伴う。しかし死の先には、気休めではない具体的な、その働きに応じた報いがあるのですよと・・。

 このことをイエス様は、弟子たちにあらかじめ言われたわけです。

 聖書はこの世における価値観をひっくり返してしまうんですね。

 神の与えられる「希望」は永遠の中での話なのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2020.07.23.Thu 08:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #189

【平和をつくる】イエス様のことば 14

" 平和をつくる者は幸いです。
 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。"
 マタイの福音書 5章9節

 今日のテーマは「平和をつくる」です。

 世界平和という言葉を、最近はあまり聞かれなくなりました。最近の世の中は、平和を叫んだところで「焼け石に水」の様相を呈しているように見えます。

 人の世界には常に戦いがあります。しかし聖書の言う「罪人」は、神から離れて、自分の力で自分を守るという基本的な姿勢があるから、そこに戦いがあるのは当たり前といえば当たり前なんですね。そして、すべての人が罪人だというのです。
 そのように考えると、平和を作るというのは並大抵のことではないということが見えてきます。

 世にあって、平和は作れるものなのでしょうか。こうして世の中を見渡す限り、どんなにしても人の力で平和はつくれないと思ってしまいます。
 いや、だからこそ、がんばりなさい・・という考え方もありますが、神の目から見た「人」の心は、それこそ見せられるようなものではなく、綺麗事など言ってられないというのが正直なところなのではないでしょうか。
 私たちは、平和を作ろうと思うならまずあなたの心を正しなさい・・と言われてしまうような者なんですね。

 イエス様の弟子たちも例外ではないわけです。その弟子たちにイエス様は「平和をつくる者」という言葉を投げかけられました。
 平和を作るという意識は大切なことだということは示されています。しかしそれは、それを作る力など私たちのうちにはない・・そのことも織り込み済みでイエス様は語られているのではないでしょうか。
 ですからイエス様が言おうとされていることは、そこに平和があるように「わたし」に願い求め、そこに神が立ち上がってくださるという場面を招く者となりなさい、ということなのではないでしょうか。

 私たちに「平和を作る」力など、どこにもないのです。平和のないところに行って、あなたは平和をつくれますかと問われたら、それは家庭の中でも国のレベルでも、お手上げなのではないでしょうか。

 イエス様は言われました。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27ほか)

 だから、私たちにできることは、そこに神をお招きすることなんですね。
 もしそのようにして平和をもたらす人がそこにいるのだとしたら、その人は言うまでもなく「神の子」と呼ばれるわけです。
 ですから、ここで言われている幸いな者とは、平和をつくろうとする時にも神に依り頼む者・・ということになりそうです。

 旧約聖書は戦争の歴史でもあります。しかし主なる神を信じ、他のものに依り頼むことなく、主にのみ従うところにいつも「平和」があったんですね。

 平和をつくるのは神なんです。ですから私たちは、神の陣営に属する者にならなければ「平和をつくる者」とはなり得ないんですね。


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2020.07.22.Wed 09:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #188

【神を見る者】イエス様のことば 13

" 心のきよい者は幸いです。
 その人たちは神を見るからです。"
  マタイの福音書 5章8節

 心のきよさとはどういうことでしょうか。
 聖書を見ると「聖」ということばは千回以上出てきます。なんとなくその意味をまとめてみると、それは「神の側に聖別された」というようなイメージになります。
 
 ということは、心のきよい者・・それは、その心が神の目から見て、いつも神の側に立っている者というような意味になるのでしょうか。
 それは神の御心をいつも慕い求める心。神の喜ばれることを喜ぶ心。そのような心を持つ者・・ということになます。

 その人たちは幸いです。その人たちは神を見る・・と、今日のみことばは言っているわけです。
 しかしヨハネは、福音書でも手紙の中でも「いまだかつて神を見た者はいない。」と言っています。ならば、神を見るとイエス様が言われたその言葉には、どういう意味があるのでしょうか。

 イエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。
 
 ところがイエス様を見ている弟子たちにはそのことがわかっていなかったことは明白です。しかしイエス様が十字架にかかられ、死んでよみがえり、天に上られた後に、弟子たちの上に激しく聖霊が降ってから弟子たちは、このイエス様の上にある神の栄光を見るようになったんですね。
 弟子たちはその時に初めて、イエス様の「わたしを見た人は、神を見たのです。」ということの意味がわかったのです。

 こうして見ると、神を見るとは「イエス・キリストが神であるということを知る」ということであることがわかります。

 心がきよい・・。それは、いつもイエス様を見上げ、イエス様の言われたことに心をとめ、イエス様に従おうと心に決めるということなんですね。
 その人たちは、イエス・キリストの上に神の栄光、すなわち神そのものを見るようになるというわけです。

 では、私たちは果たして「心のきよい者」なのでしょうか。そうでなかったら、どうすれば心のきよい人になれるのでしょうか。
 
 弟子たちの上に聖霊が激しく降ってから、彼らは聖霊に満たされる人になりました。それ以来、彼らの心はもっぱらイエス様の方を見る者となりました。それまで彼らは恐れて戸を閉めて隠れていたんですね。その心はイエス様ではなく恐れの方に向けられていたわけです。

 私たちは、自分の心を一生懸命イエス様に向けようと努力しても、それがなかなかできない自分に出くわします。そんな私たちにイエス様は、聖霊を叩くようにして求めなさいと言われました。そうすれば聖霊は与えられることを保証しておられるんですね。

" ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」"
 ルカの福音書 11章13節

 結局「心のきよい者」とは、聖霊をいつも、これでもかというほどに求める者で、その人は幸いだたということになります。イエス様は、聖霊は求めるものだと言われているんですね。

 だったらそれに従う・・。従うというのは、イエス様を愛しているという意味です。

 イエス様は、そのような人は幸いな人だと言われたわけです。


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2020.07.21.Tue 07:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #187

【神のあわれみ】イエス様のことば 12

" あわれみ深い者は幸いです。
 その人たちはあわれみを受けるからです。"
  マタイの福音書 5章7節

 キリストに従おうとする者への言葉「幸いな者」シリーズの5つめです。

 もしあなたが「あわれみを受けるから幸いだ」と言われたとしたら、どのように思われますか。
 私はあわれみを受けるような者ではないよ・・という思いがわいてきませんか。
 イエス様は、ご自分のもとに集まってきた弟子たちに対して、そのように言われたんですね。

 あわれみを受けるとは、どいういうことなのでしょうか。あなたは人からあわれみを受ける必要があるような者ではないと思っていませんか。そこには何かチャレンジ的な匂いさえ感じられます。

 あわれみ深い・・。辞書を見ましたら、他人の辛苦に同情し、いたわろうとする心にあふれているさま・・とありました。ということは、そういう人は今度は、他人に同情され、いたわられるようになるから幸いです・・という文脈になるわけです。

 毎回書いていますが、これはイエス様が弟子たちに言われた言葉です。ですから、弟子たちに「あわれみの心」を持つように奨励していることには違いありません。

 イエス様は・・
" また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。" マタイの福音書 9章36節
 ・・とあります。

 イエス様に従う彼らも、その心で多くの人々に接しなさい、ということになるわけです。

 またイエス様はこのような例え話をされました。
" すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』" (マタイ25:40)
 
 これは、小さい者に示すあわれみ、それは実はイエス様にしているのだという話です。そして、その者は神の御国を受け継ぐというのです。これはあのマザーテレサの基本理念でもありました。
 その者が受けるあわれみ・・それは天の御国を受け継ぐ者となることだというのです。

 もともと私たちは、またイエス様のもとに集まってきた弟子たちも、神の前にふさわしい者ではありません。聖書はすべての人は罪人だと言っています。そしてすべての人は神に背を向けて、自分中心という、保身が基本の歩みの中で歩んでいる者だというのです。その者を神はご自分のものとされ、神中心に歩む者と変えられるというのです。そのためにキリストは十字架にかかられた・・。

 私たちが受けるあわれみ、それは、そんな私たちが神のもとに帰るための御子キリストが受けたあの苦しみ・・他に何かあるでしょうか。

 ここで言っている「あわれみ深い者が受けるあわれみ」・・それは神のあわれみなんですね。


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2020.07.20.Mon 12:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

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GraceCafeたいむ#10 / YouTube
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」

賛美歌「Amazing Grace」から
 〜この身の汚れ〜

 お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=g7T8mBqgzvg&t=5s


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2020.07.18.Sat 09:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #186

【満ち足りるための条件】イエス様のことば 11

" 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。"
  マタイの福音書 5章6節

 キリストに従おうとする者への言葉「幸いな者」シリーズの4つめです。

 今日のテーマは「満ち足りるという約束」です。

 イエス様は、義に飢え乾く者は満ち足りるようになると言われました。これは約束であり、保証なんですね。
 満ち足りるとは、必要なものについて、不足しないという以上に満ちて溢れるばかりになるということです。

「義に飢え渇く」とは、どういうことでしょうか。

 義というのは、簡単に言ってしまえば「正しさ」です。しかし、人によってその尺度は様々ですよね。ここでいう「義」とは、神の目から見ての「正しさ」です。

 イエス様を救い主として信じる者は、その信仰が「義」とされるのだと、聖書は言っています。だったらもうこれ以上に渇く必要などないでしょう・・ということになってしまいます。しかしここでは、すでにイエス様に従っている人・・その人が義に飢え渇くことについて言っているんですね。
 もしそのような義があるとするなら、イエス様が言われた二つの大きな戒めにヒントがあるかもしれません。二つの大きな戒めとは、主なる神を心と思いと力を尽くして愛すること。そして、隣人を自分自身のように愛すること。
 このことをとにかく第一に求めることとして主に従っていくこと・・。それをするなら、あなたは神の目から見て「正しい」とされるのだと、イエス様は言われているわけです。

 ここで言われていることは、そのことに「飢え渇いているか」ということなんですね。
 神が喜ばれることを、どのくらい強く自分の喜びとしているか・・。
 義に飢え渇く者は・・と言われるときには、そこを問われているわけです。

 そして、神の思いと自分の思いが一つになることを切に求める者は、必ず満ち足りるようになるんだよ・・というのが、今日のみことばの約束であるわけです。
 飢え渇くというのは、それが足りなくて、からっからになって、死にそうになっている状態です。

 その心をいただいている者・・それは本当に幸いだというんですね。その人は必ず満ち足りるようになる・・。
 
 聖書には、その戒めを行う者となるために何をすれば良いか、いろいろな答えが書いてあります。
 それは自分を主に預け、主を信じて主と共に歩むなら、神の栄光を映し出す者として変えられて行く。また、熱心になって聖霊を求めなさい。また絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。みことばを慕い求めなさい・・と。

 この原動力は、やはり渇きなんですね。それは神を愛したいという渇きです。
 なぜ、そんな渇きがやってくるんですか・・。
 それは、神が御子を送ってくださり、神に背を向けていた私が父のもとに帰るためにいのちを差し出してくださったという、このあり得ないほどの大きな愛を知るからなんですね。

 ということは「満ち足りるための条件」は何かというと、どれだけ神の愛を大きなものとして受け取っているか・・なんですね。

 その人は、愛で、喜びで、希望で、確信で、、、満ち足りるようになるのだと、イエス様は約束されているわけです。


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2020.07.17.Fri 09:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #185

【地を受け継ぐ】イエス様のことば 10

" 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。"
  マタイの福音書 5章5節
 
 この「幸いな者」シリーズを、キリストに従おうとする者への言葉として、その意味を見てきました。

 キリストに従う弟子たちの中には、おそらく柔和な者もいれば、気性の荒い者もいたのだと思います。彼らに向かってイエス様は、「柔和な者は幸いです」と言われました。そしてその理由は、「地を受け継ぐから」だというのです。

 聖書の中で「柔和な者」を探して見ますと、イエス様ご自身が「わたしは心が柔和でへりくだっている」と言われています。
 
 "わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。" マタイの福音書 11章29節

 イエス様は、柔和を「わたしから学びなさい」と言われたわけです。くびきとは家畜の首にはめて家畜をコントロールする横木のことです。ですからイエス様のくびきを負うというのは、イエス様のコントロール下に置かれるということです。そしてそのくびきの本質は「柔和」「へりくだり」だというわけです。

 聖書には「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10) と書かれています。全ての人は神から離れて、心の中は自分を守ろうとすることが最優先の「罪人」だというのです。
 そこに柔和というのはありえないんですね。でも、世の中にはクリスチャンでなくても柔和な人は結構いるように見えるのですが、聖書はそこのところを見抜いているのではないでしょうか。
 でもイエス様のくびきを負うなら「柔和な人」になって、たましいに安らぎが来るというのです。

 そしてここでは「柔和な者」は「地を受け継ぐ」と言っているわけです。

 私はここでハタと思ってしまうのですが、クリスチャンが柔和な者とされ、地を受け継いだという事例は、これまでにあるのでしょうか。それとも将来のことなのでしようか。
 この世はサタンの支配下にあると書かれています。(エペソ2:2) そして教会というのは、サタンの支配から神の支配地として奪回したところです。それはあくまでもその一部を奪い取ったのであって、受け継いだわけではないんですね。
 また、クリスチャンは地上では旅人であり、寄留者である(ヘブル11:13) とあります。これも「地を受け継ぐ」という言葉にはそぐわないことです。

 だったらクリスチャンが地を受け継ぐとはどういうことなのでしょうか。

 そのような出来事を聖書の中に探し求めると、一つだけこんな箇所があります。それは黙示録20章に記されている「千年王国」においてです。
 
" 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。 " (黙示録20:4)

 ここで「彼ら」というのが全てのクリスチャンであるかどうか、それは私には判断できません。彼らは「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。」その人たちだというのです。

 千年王国はサタンが縛られてしまって、キリストと共に治める者たちに引き継がれた国です。それならば「地を受け継いだ」と言えるのではないでしょうか。

 ただし・・、私はこのような解釈は聞いたことがありません。ただみことばから与えられたこととしてここし記したいと思います。

 どちらにしても、「柔和な者」となるためにキリストのくびきを負って歩む者は、「地を受け継ぐ」ということがどういうことなのかを知るようになる・・、それだけは確かなことのようです。


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2020.07.16.Thu 08:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #184

【主に従えない悲しみ】イエス様のことば 9

" 悲しむ者は幸いです。
 その人たちは慰められるからです。"
  マタイの福音書 5章4節

 前回と同じ箇所、「悲しむ者」のところです。
 キリストに従う者が世の光となるという流れの中で出会う悲しみ、考えてみれば、それにはもっと個人的なことがありましたね。

 それはキリストに従いたいのに従えないという悲しみです。あるいは従う力がないという絶望・・。

 イエス様が私たちに命じられた二つの大きな命令、それは心と思いと力を尽くして主なる神を愛すること。
 そしてもう一つは、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する。

 この両者ともに、私たちの内にはそれを妨げるものがあります。それは「自我」。聖書ではそれを「肉の性質」と呼んでいます。

 神を愛するとは、神が喜ばれることはなんだろうと、いつもそういう思いの中で自分の行動も決まってくる・・そういうことなのだと思うのですが、これがなかなかできない。
 隣人を愛するとは「自分がして欲しいと思うことをその人にもしてあげる (マタイ7:12) 」、すなわち人が何を必要としているのかにいつも心を用い、そのように行動することです。ところがそれもやっていない・・。

 さあ主に従って行こう! と勇んで歩み始めても、自分がそれとは程遠いことを知り、がっかりしてしまう・・。
 しかし、もしあなたが熱意や誠意でそれを行おうとするなら、おそらくその通りになってしまうのだと思います。

 だいたいこの後(マタイの5章)に出てくる、イエス様が言われていること・・。そのほとんどは、私たちがそんなことできるのかなと思うようなことばかりです。それを自分の力で一生懸命にやろうとすると、自分との大きなギャッブを見せつけられて、悲しみと絶望にという結果になるというわけです。

 でもあなたがもしそうなら、あなたは慰められる・・、と今日のみことばは言っているんですね。

 主に従いたいという思いが強ければ強いほどがっかりする・・それは慰めに通じるということになるわけです。それは何故かというと、自分の力や能力に期待することをあきらめる人になるからなんですね。普通の人ならそのまま諦めるしかないわけですが、イエス様を信じて内にいただいている者は、そこで初めて「イエス様の力」に委ねるというところへと導かれるわけです。

 その時に初めて自分の内に、自分を新しくする力をいただいたいるということを目の当たりにするんですね。
 
 逆に言いますと、主に従うことができなくて悲しむ者でなければそこに到達することができない。だからこそ、そうして悲しむ者は慰めを受けると言っているわけです。自分はこんなに無力で、しかも相変わらずのどうしようもない者でも、そのまま主にすべてを開け渡せばいいのだ・・と。それは大きな慰めです。

 主を愛するなら従いたい・・。そこが出発点になり、そこに当然のようにして悲しみと絶望がやってくるわけですが、そのことを通るからこそ、それが慰めに変わるのだというわけです。だから幸いだというのです。

 ですから、そのような意味でこのみことばを受け取る時に、あなたにとって問題はなんでしょうかといえば、それはあなたはそこまで主を愛してますかということになるんですね。

 私たちがまず最初に求めること・・それは、

「主よ、あなたを愛すること・・それを心から願う者とさせてください。」ということになるのかもしれません。
 まずそのスタートがあれば、あなたは主が与えてくださる「幸い」を実際に受け取る者としての歩みが始まる、ということになるわけです。


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2020.07.15.Wed 12:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #183

【滅びゆく魂への悲しみ】イエス様のことば 8

" 悲しむ者は幸いです。
 その人たちは慰められるからです。"
  マタイの福音書 5章4節

 イエス様が弟子たちに言われた言葉、「幸いです」の二番目。
 悲しむ者・・。

 この一連の幸いな者・・それは、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え乾く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者、イエス様のゆえに悪し様に言われる者と続いて、それらの者は幸いであるというのです。
 そして、この話の結論は、それらの者は世の中では光り輝く者となって、人々があなたを見て、天の父をあがめるようになる・・。

 要するに、この話はキリストに従う者たちへのことばなんですね。

 キリストに従う者として、もし悲しみがあるならそれは慰められる・・という文脈になります。

 キリストに従う時に、悲しみがそこにあるのだとしたら、それはどのような悲しみでしょうか。
 その筆頭は、自分の周りにいるほとんどの人たちが、神を知らずに滅びに向かっているところを、自分の声にまったく耳を傾けてくれず、そのまま本当に死の恐怖の中で滅んでいく・・それをただ見ているしかないのだとしたら、これ以上の悲しみはありません。

 私の母は、昨年92歳で天に召されました。イエス様が迎えにきてくださることを信じて、最後の最後までそれをしっかり見届けようと、目を大きく見開きながら、呼吸は荒くなりましたが、すっと召されていきました。
 母との別離は悲しみですが、それは私にとっては大いなる喜びでした。母は確実に神のもとに幸いを得て、今もいることがわかるからです。

 このことは私にとって、大いなる慰めです。

 本当に魂の滅びを悲しむ者は、一人でも多くの魂が神に立ち返り、永遠のいのちをいただき、希望をもって天の父なる神のもとに帰ることが一番の深い願いとなる。そのためにわたし(イエス様) についてくるなら・・

 その者は慰められるからね・・。
 神のみわざをあなたは見ることになるからね・・。

 そういう意味なんだと、、実は私はこれを書いて初めてそのように受け取りました。

 悲しむ者は神と共にあるなら、神はその人を顧み、神からの具体的な慰めが必ず与えられるという、大きなくくりでの解釈があることはもちろん知っています。
 ですがここで言われている「悲しむ者」、それはこれから「キリストに従って行こうとする者」に対してイエス様が言われたことであると受け止める時、このような捉え方になったんですね。

 キリストに従う者は、必ず大いなる慰めをいただく者となる・・。

 これが私が受けたことです。


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2020.07.14.Tue 09:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #182

【心の貧しい者】イエス様のことば 7

"心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
 マタイの福音書 5章3節

 ここから「山上の垂訓」と言われている箇所が始まります。これはイエス様が群衆を前にして語られたことのような印象がありますが、よく読んでみると、イエス様が多くの群衆を癒された後に「山に登られた」とあります。そして腰を降ろされたら、そこに弟子たちが来たんですね。そして話し始められたのが「山上の垂訓」です。
 この山上の垂訓は民衆に語られたことではなくて、イエス様に従い、イエス様の語られる言葉を聞きたいと思っている人たちに語られたことなんですね。

 この話では冒頭に「幸いな者」が九つ挙げられています。

 「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え乾く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」「イエス様のゆえに悪く言われる者」

 弟子たちには様々な人たちがいました。自分のことで悩んでいる者もいれば、世の様を見て義憤を感じている者、そしてそのために実際に人々からあざけられている者、またイエス様に従うというだけで悪く言われる者・・。
 実に様々な人がいるけれど、皆イエス様に従っていこうとしている人たち。その人たちにイエス様は、あなたがたは幸いだと言われたんですね。

 その筆頭が「心の貧しい者」です。

 心が貧しいという言葉は、一般的にはさもしいとか小さな器だとかいうイメージで使われることが多いですよね。しかしそれはイエス様に従おうとする人たちに似合う言葉ではありません。彼らはさもしい心で、また狭量の故に金銭だけを求めるような人たちとは正反対の人たちであることは、ここに書かれていなくても明白です。

 心が貧しい人・・、それは自分の心の中にまだ足りないものを感じている人、また満たされる必要があるけれども、それを満たすのは何なのかわからないで探し求めている人。そういう人のことなんですね。

 その人たちにイエス様は「幸いです」と言われました。なぜかというと「天の御国はその人のものだから」だというのです。

 自分の心が何かで満たされているのなら、心の貧しい人ではありません。心というのは色々なもので満たされたり、それが不足するから求めたりします。しかし何で満たそうとするのか・・それは、人によって様々です。
 億万長者になっても、オリンピックで金メダルを取っても、、、それが本当に自分の心を満たすものではないことに気がつく人は多くいます。でも実はそこに「幸い」の入り口があるというのです。

 あなたの心を本当に満たすもの。それは、あなたが今まで損なっていた「いのちなる神」という存在以外にはないんですね。

「心の貧しい人」は、求めるから幸いなんです。

 あなた、心の渇きを感じているあなたは、天の御国をいただく者になれるんですというのが、今日の神様からのメッセージなんですね。なぜなら「求める者」だからです。

 どうしたらそれをいただけるんですか・・。それは自分の罪のために十字架にかかられたイエス・キリストを救いとして信じて、心にお迎えする・・それに尽きるんですね。


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2020.07.13.Mon 09:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

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GraceCafeたいむ#9 / YouTube

 〜逃げ込め港に〜

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」

 お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=EilGzAL3W_8&t=3s

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2020.07.11.Sat 08:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #181

【新しい役割】イエス様のことば 6

" イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
 人間をとる漁師にしてあげよう。」"
  マタイの福音書 4章19節

 今日のテーマは「新しい役割」です。

 人はこの地上において、それぞれが何らかの役割を果たす者として生きています。その役割が一瞬にして変わった・・。それが今日のみことばの出来事です。

 世の人々は何も知らずにこの世を浮遊するように歩んでいて、どこから来たかもわからず、どこへいくかもわからない。また、おそらく最終到着地点は「死」であろうことは感じつつも、その死を本能的に忘れようとしながら、あるいはそれを目前にした時には必死になってそこへ行くまいとしながら、いろいろなものにすがりながらもその先は結局わからずじまいで、善良な人として、あるいは悪の限りを尽くしながら、人々はその一生を終えるわけです。

 聖書は言っています。人は死の後に「その行いに応じたさばき」があって、すべての人は今のままでは「まことのいのちを失った」ままで、その魂は滅びゆくしかないのだと。そしてそれは、自分が善良と思っている人たちも例外ではないというのです。
 まことのいのちは、まことの神という、いのちの源なる方のもとに立ち返った時に与えられるものだけれど、人と神との間には深い溝ができてしまっているというんですね。それは、人が神を認めないという「罪」からくるもので、父なる神はそのために御子を遣わして、その罪の解決のために、十字架の身代わりの死という、想像を絶する方法をもって人々が神のもとに帰ることができるようにされたのだ。この御子キリストの十字架が自分の罪のためだと信じる者が救われる・・。これが聖書に書いてあることです。

 漁師の仕事は魚を「とる」ことです。魚は何も知らずに湖の中を悠々と泳いでいるわけですが、そこに上からさっと網が降りて来て、気が付いた時には捕らえられて、陸に引き上げられしまうわけです。魚にとっては「一巻の終わり」です。
 人間をとる漁師とは、この世を浮遊していた人生をある意味で「一巻の終わり」にさせ、想像さえしなかった新しいいのちと希望の世界に、さっと引き上げてしまう・・それがその仕事だというんですね。

 イエス様が声をかけられたアンデレとシモンについて、他の福音書を見ると次のことがわかります。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でした。すでにある種の志(こころざし)を持っていた人であることがわかりますね。
 ヨハネは「見よ、神の小羊」と、イエス様を指して言います。それを聞いていたアンデレはイエス様について行き、その日にイエス様のところで一晩過ごします。そして帰って弟を見つけ「キリストに会ったぞ」と言って彼をイエス様のところに連れていったら、イエス様はその弟シモンに向かって「あなたはペテロと呼ばれるようになる」と言われました。(ヨハネ1:35-42)
 イエス様が活動を開始されたのはバプテスマのヨハネが捕らえられた後ですから、今日のみことばの出来事はその後のことであるわけです。
 漁師である彼らはガリラヤで網を打っていました。そこにイエス様が現れたのです。彼らはその時すでにイエス様を知っていたんですね。その時には何か期待感で一杯になったことは容易に想像できます。
 そこでエス様が言われたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らは喜び勇んで、網を捨ててイエス様に付いて行きました。

 全ての人は、イエス・キリストを信じることで、その罪は赦され、永遠のいのちをいただき、死を通り越した永遠への希望が与えられます。しかし同時に、それらの人はこの地上において「新しい役割」が与えられるんですね。

 それは、「人間をとる漁師になる」ことです。

 
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2020.07.10.Fri 10:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #180

【悔い改める】イエス様のことば 5

" この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。"
 マタイの福音書 4章17節

 今日のテーマは「悔い改める」です。

 イエス様は、宣教を開始してまず最初に「悔い改めなさい」と言われました。
 その理由は「天の御国が近づいたから」だというのです。

 天の御国のことを、それはイエス・キリストという救い主を受け入れて実現する「神との歩み」だといった、心の中の出来事のことだと主張する人たちがいます。
 しかしイエス様が言われている「神の国」や「天の御国」のたとえ話は、ほとんどすべてがこの地上での話ではなく、最後のさばきの時から救い出される人によって構成される「新しい神の国」の話ばかりなんですね。

 ですから、天の御国が近づいたということは、裏を返せばさばきの時が近づいたということになるわけです。近づいた・・これは時間のことなんですね。
 これを逃したら、もう他に救われる手立てがない。だから今悔い改めなさいと言っている・・。
 そして天の御国が近づいたとイエス様が言われたのは、まさにその要であるところのキリストが、いよいよ人々の前に現れたんだよと、ご自分のことを言われているわけです。

 悔い改めなさいとは、ただ引っかかるだけでもいいから、神のことばに心を向けて見なさい・・という風に受け止められてもいいかもしれません。本当は切実な、いのちが関わった話なんですが、多くの人々はそんなこと夢にも思っていないわけです。でも、そのみことばに少しでも引っかかるなら、私たちは神のもとに導かれていくんですね。

 悔い改めなさい・・。それは悪いことをしていないで、もう二度とそんなことをすることのないようにと、心に決めなさいというのとは、ちょっと違うんですね。
 でも普通はそのように受け止めますよね。確かにそのことも悔い改めの結果として心の中に起こる出来事の一つかもしれませんが、私たちはそんなことを心に定めて「良い人」になることなどできないんですね。

 真の意味の悔い改め・・それは、本当にあなたを作られ、あなたを愛する神・・がおられるんだよというメッセージに耳を傾けた時に、「ああ、それなら、その方のもとに帰ってみようかな」と思うところからはじまり、神がそのために用意された「帰り道」、それを知った時に、自分の大きな罪に気がつく・・そのことなんですね。
 その罪とは、父なる神からまったく目を背けていたこと。そして心の暗闇の従って歩み、その結果を白いペンキで何度も何度も上塗りをすることに専念していた自分・・。

 そこから解放されなさい。
 罪から解放されなさい。
 恐れから解放されなさい。
 わたしが救いとなったから・・。

 これがイエス・キリストの叫びなんですね。

 悔い改めなさい。天の御国は、あなたが手を伸ばせば届くところまで近づいているのです。


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2020.07.09.Thu 10:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #179

【サタンの正体】イエス様のことば 4

" そこでイエスは言われた。
「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」"
 マタイの福音書 4章10節

 今日のテーマは「サタンの正体」です。悪魔は三つ目の誘惑で、とうとう本性を表します。

"悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」" (8~9節)

 悪魔とかサタンとかいうと、私たちはおとぎ話やアニメ、また映画などで今までに刷り込まれた色々な印象があるので、返ってストレートな理解を難しくしているように思います。
 聖書は、エデンの園の「蛇」から、世の終わりに火の池に放り込まれるところまで、ずっと悪魔=サタンの存在を認めています。

 サタンとは、神に仕える天使が堕落したものだと言われています。預言者イザヤはその預言の中で、このサタンを「明けの明星、暁(あかつき)の子」と呼んでいます。その暁の子に対して「お前はどうして天から落ちたのか」と言っているんです。さらにイザヤはサタンに対して「お前は心の中で言った『私は天に登ろう。〜 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 だがお前はよみに落とされ、穴の底に落とされる。」と宣告しています。(イザヤ書14章)

 サタンは聖書によれば、実在する霊的な存在です、しかも神に敵対し、自らが礼拝されることがその奥底にある願いであるという「究極の勘違い野郎」だというのです。イエス様がサタンと対決したというこのシーンは、おとぎ話や逸話などではないんですね。「本当にあったこと」だし、「本当にあること」なのです。
 しかも驚くべきことに、人々はこの世においてサタンの霊的な支配下にあるというのです。(エペソ2:1-3)

 自分が賞賛の的になりたい。栄誉を受けたい。羨望の眼差しで見られたい。その感覚・・覚えがありませんか。これがサタンの支配の中に生きる「人」の内にある、秘めた願望なんですね。サタンは。自分が礼拝されることを喜ぶという、現実にある霊的な存在なんですね。
 賞賛されるべきは神のみ。すべての栄光は神に帰せられるべきものである。そして、礼拝されるべきはこの天地万物を造られたまことの神、ただおひとりなのだと、聖書は初めから終わりまで叫び続けています。しかしもともとの「人」の中には、この感覚がないんですね。

 またサタンは光の子に変装するとも言われています。

" しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。" (コリント人への手紙 第二 11章14節)

 サタンは、良い人、良い考え、良い思想、良い組織を装って私たちを騙すことを、パウロはこの時代にすでにしっかりと指摘しています。
『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』というみことばは、ふわふわしたイメージの言葉ではないんですね。

 初めはサタンの言葉に答えておられたイエス様は最後には「下がれ、サタン」と、しっかりサタンに立ち向かい、命令をしています。
 言うまでもないことですが、イエス・キリストの権威は圧倒的なんですね。
 そしてイエス様は「〜と書いてある」と、最後まで聖書の御言葉をもってサタンに立ち向かわれました。これは私たちへのとても大切な教えです。

" すると悪魔はイエスを離れた。" (4章11節)

 祈り・・「神様、聖書をもっと知りたいという思いを与えてください。」


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2020.07.08.Wed 10:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #178

【絶対的に信頼すべき神】イエス様のことば 3

" イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」"
  マタイの福音書 4章7節

 今日のテーマは「絶対的に信頼すべき神」です。

 今日の聖書の箇所は、イエス様に対する悪魔の二番目の誘惑のところです。
 イエス様は最初に、聖書のみことばを使って悪魔の誘惑を封じました。そうしたら次は、悪魔も詩編のみことばをもってこう言ったのです。(詩篇91:10-12参照)

「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」

 詩編の91編は、主に信頼し、主を賛美して、主への堅い信仰を言い表しているところです。それを悪魔は逆手にとって、それだったら神殿の屋根から飛び降りてみろ・・とイエス様に言ったんですね。

 悪魔はみことばをもってしても巧妙な罠を仕掛けてきます。神はどんな時にも信じる者を顧み,守り,支えてくださるお方です。そういう信仰を持つ者に対して、悪魔はこう囁くわけです。「だったらそれが本当かどうか試してみよ」と。本当に信じているんだから、もし屋根から飛び降りても、神のみ使いが足を支えてくれるんだよね、みことばにはそう書いてあるよね・・と。

 これに対してイエス様が悪魔に対して言われたみことばは、申命記6:16のみことばでした。
" あなたがたの神である主を試みてはならない。"

 荒野の旅をしていたイスラエルの民を、神は水も何もない荒野に導かれます。それを見た民は、自分たちはエジブトで奴隷になっていた方がましだった・・と、モーセをのろい始め、殺そうとまでします。それに対してモーセは「あなた方はなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか。」と答えています。

 主を試みるとは、主を信頼しきっていないということ、そこに疑いを持っているということなんですね。民の怒りは神に対する疑いから来ていたわけです。
 モーセは主に助けを求め、主はモーセを通して岩から水を流れ出させます。これは不信仰な民に示された、神の哀れみでした。民は確たる信仰をもって、神が何をなされるか待てばよかったのですが、残念なことに民はそれを待つ信仰を持ち合わせていなかったのです。

 悪魔の言葉は、私たちの信仰をくじこうとします。思い通りにならなかった時に信仰を失いかける・・。これはよくあることです。悪魔はそこに必ず付け入ってくるのです。ほら、神なんかいないだろう・・。これで神が愛だなんて言えるのか・・と。
 神を信じていながら、失敗や、不幸や、絶望に陥った時、私たちはその誘惑の言葉にふらふらと乗っかってしまいます。

 私たちの神を試みてはならない・・その意味は、絶対的な信頼を置けということなんですね。イエス様が墓からよみがえられたこと・・そのことを通して、誰もが人生の線引きをする「死」というポイントさえも、主は無意味なものとされたのです。

 神殿から飛び降りる・・その行為自体に「神に対する疑い」が入っていることを私たちは見抜けるでしょうか。サタンの誘惑は、本当に巧妙なんですね。

 神は絶対に信頼すべきお方なのです。イエス様のお答えは「そんなことする必要は、どこにもないよ。」というものだったわけです。


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2020.07.07.Tue 10:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #177

【霊の食事】イエス様のことば 2

" すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"
 マタイの福音書 4章3~4節

 イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受け、「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。」(マタイ 3:16) ということがありました。今日の箇所は、その後イエス様が聖霊に導かれて荒野に出て行って悪魔の試みを受けたという話で、その悪魔との三つの問答のひとつ目です。

 悪魔の試みを受けるというのは、人ならば必ず通るところ・・そこをイエス様も先ず最初に通られたんですね。

 イエス様は「神の子である神」が、徹底的に「人の形」になって来られた方です。悪魔は「人の形で来られた」というキリストの第一目的を、とにかく台無しにしたかったんですね。ですから、悪魔は三つの誘惑の中のふたつは「あなたが神の子なら・・」というところから切り込んでくるわけです。
 キリストとしてのイエス様は、五つのパンと二匹の魚を五千人分の食料にすることができるお方なんですが、この時のイエス様の答えは徹底して「人」としての答えだったわけです。サタンは、これで一敗となります。
 そしてイエス様は、このサタンへのことばを通して、人である私たちが受け取るべき真理を語ってくださっているんですね。

 今日のテーマは「霊の食事」です。

 肉体のための食料は誰に言われなくても欲しくなりますが、「神の口から出る一つ一つの言葉」について、私たちは毎日いただかなくても平気でいたりします。
 神の口から出る一つ一つの言葉、それは聖書から受け取るみことばのことなんですね。
 そのみことばは生きる上で欠かせない「霊の食事」だというのです。

 あの分厚い聖書を読むのは至難の技ですが、神の助けを得て読み続けることができます。しかしあの全部を一回読んだだけでは、とてもその概要は分かるものではありません。毎週の礼拝説教や、教会での学びの時間、またいろいろな参考書物に助けられながら自分で読むことを通して、なんとなく全体像が見えて来ます。
 ところが「神が与えてくださるみことば」は、初めての人でも読んでいく中で個人的に与えられるものなんですね。聖書全体を知ってから初めて分かるというものではないのです。
 聖書は何度読んでも、いつも初めて読んだ人のようなんですね。常に神は新しいことばを聖書を通して私たちに与えてくださるのです。

 今日の箇所をよく見てください。イエス様は「〜と書いてある」と言われているのです。聖書が神の言葉なんですね。

 神の口から出る一つ一つの言葉・・、忘れないで、しっかり霊の健康体を維持したいものです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.07.06.Mon 10:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

たいむサムネイル

YouTube動画 GraceCafeたいむ#8
〜ミュージシャンにもわかる聖書の話〜
「自我に死ぬことはできるのか」
・・アップしました。
ご訪問いただけましたらこの上ない喜び!
https://m.youtube.com/watch?v=Rma7EUL8t28
2020.07.06.Mon 10:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #176

【キリスト・イエスの始まり】イエス様のことば 1

" しかし、イエスは答えられた。
「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」
 そこでヨハネは言われたとおりにした。"
  マタイの福音書 3章15節

 今日から「イエス様のことば」シリーズを始めたいと思います。四つの福音書を初めから順番に見て行きます。

 イエス様はベツレヘムでお生まれになり、そこからは北へ約100㎞のガリラヤ湖近く、ナザレという小さな町で大工の家の子として育ち、イエス様ご自身も大工をされていました。当時約30歳。
 このころ、バプテスマのヨハネという人が「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えていました。それは、もうすぐ「来たるべきお方」キリストが来られる・・、だから悔い改めて、そのキリストを受け入れる備えをせよと民衆に警告し、ヨルダン川の水でバプテスマ(洗礼)を施すというものでした。
 そこになんとイエス様が来られ、しかもバブテスマを受けたいと言われたんですね。ヨハネはびっくりしてしまって、とんでもない、私の方こそあなたからバプテスマを受けなければならない者なのに、とイエス様に言うのですが、イエス様は「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われたんですね。そうしてイエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。これが今日のみことばの箇所です。

 今日のテーマは「キリスト・イエスの始まり」です。

 イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けることを「正しいことを実現すること」だと言われました。
 神のみもとにおられたキリストは、人の子の姿をとって、赤子として地上に来られ、そして30年かけて成長されるという、人間の姿そのものの形をとってここまで来られたわけです。そしてここでさらにされをはっきりお示しになるために「人」であるヨハネから洗礼を受ける・・。それは神の御子であり、同時に神であるイエス様が、徹底的に「人」のレベルにまでくだって来られたことを示される出来事なんですね。

 これが、イエス様の言われる「正しいこと」であったわけです。

 キリストは神であるのに、人でなければいけなかったんです。
 それは最終的な目標、十字架と復活ということが、人の形の上になされるためだったんですね。しかも神の子なる神がそれをしてくだるというのです。

 ここにキリストが人の形をとって来臨されたことの意味があるんですね。すべての人の罪を背負うという、人の体によってしか出来得ないこと・・それを神がしてくださるために・・キリストは人として来なければならなかったというわけです。

 そこで起こったことが次の16節に記されています。
" イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のようにご自分の上に降(くだ)って来られるのをご覧になった。"

 ここから御霊に満たされた「人」として来られたキリスト・イエス様の公生涯が始まるんですね。


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2020.07.03.Fri 12:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #175

【コントロールできない感情】マイナスの出来事シリーズ22

"しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。"
 ガラテヤ人への手紙 5章22~24節

 今日のテーマは「コントロール出来ない感情」です。

 今まで、マイナスの出来事について見てきましたが、そのほとんど全てに伴う「コントロール出来ない感情」・・怒り、憎しみ、蔑み、反発、恐怖、混乱・・それらの感情をコントロール出来ないから、これらの出来事が大きく問題としてのしかかってくるわけです。どんな状況に置かれても、心が全く平静でいられるなら、ほとんどの問題は問題ではなくなるのかもしれません。

 今日のみことばは、イエス・キリストを信じる者には聖霊(=御霊/みたま) すなわち神の霊が宿り、その霊の支配下に自分を置くことによって「実」が実り始めるというのです。
「キリスト・イエスにつく者」は、自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたと言っています。それはどういう意味かというと、キリストに自分を任せるという心の選択をした者は、キリストの十字架と死と復活が自分のうちに実現するのだということです。すなわち古い自分は死ぬのだというのです。(ローマ6:6) これは自分の努力ですることではなくて、信じるということで人の内にそれが実現するというわけです。

 でもキリストを信じた者でも「肉の性質」を引きずっていますから、怒ってしまったり、恐怖にとらわれたらということはいくらでもあります。しかしそれでもキリストに目をとめつづける者は、御霊によってそれらの感情から優しく解放されていくんですね。

 そしてもう一つの視点・・それは、イエス・キリストを信じていないあなたに、これらのマイナスの感情がもしなくなったら・・、その時にあなたの心には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というものが果たしてあるのか・・ということです。
 いや、ありますよ・・という声も聞こえてきそうですが、この一つ一つの実に「本当の」という言葉をつけると、ちょっと正直な思いになれるのではないでしょうか。本当の愛、本当の喜び、本当の平安・・がありますか。

 人は基本的に罪人(つみびと)なのだと聖書は言っています。罪人とは、神に背を向け、心の中も含めて実際に罪を犯す人です。その本質は自分中心です。自分で自分を守らなければならないと思う心です。そこに本当の平安はないんですね。

 今日まで、マイナスの出来事について書いてきました。そしてそれに伴うコントロール出来ない心について書いてきました。でも毎回の結論、それは「解決はイエス・キリストにしかない」ということなんですね。

 "この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。" 使徒の働き 4章12節

 本当の平安、、それはイエス・キリストのところにあるのです。


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2020.07.02.Thu 10:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #174

【落ち込み】マイナスの出来事シリーズ21

"しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。
 ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。"
 コリント人への手紙 第二 12章9節

 今日のテーマは「落ち込み」です。落ち込むというのは、一言で言えば自分にがっかりするということです。
 引き金はいろいろあるのだと思います。自分がやってしまうことが実はやりたくないことだったり、誰にでもできるようなことが自分にはできなかったり・・。
 人は状況次第で自分の存在価値が揺れ動くんですね。

 パウロという人は、イエス様から直接、イエス・キリストについての真理の掲示を受け取り、神によって福音を述べ伝える器として用いられました。彼はその中で石打ちの刑にあって奇跡的に助かったものの、顔はボコボコだったはずです。また「肉体の棘」と言っている、どうしても取り除いて欲しい何かがあったことが、当人の言葉からもわかります。

 パウロがそのトゲを取り除いて欲しいとイエス様に願った時、イエス様は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われた・・。それが今日のみことばです。
 私たちは状況の中で落ち込んだりすることもありますが、そんな中でも与えられている恵みを数えるなら、それはこの世に生かされたことをはじめとして、数え切れない大きな恵みをいただいて、こうして生を受けています。
 詩篇にはこのようなことばがあります。”わが神主よなんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。" 詩篇 40篇5節

でも・・、今日のみことばで主が語られたことはそうではなくて、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と言われたのです。わたしの力とは、神の力、神の栄光、ここに神がおられるという、神ご自身による証言が、その人を通して、しかもそれは弱さのうちに現れる・・と言われたのです。そして「だから、わたしの恵みはあなたに十分だ」と、イエス様はパウロの願いを一蹴されたんですね。

 人は、自分の栄光のためにそこに立つのではなくて、神の栄光を表す器としてこの世に置かれた・・。これが神が言われていることなんですね。それも「弱さのうちにそれが実現する」」と。
 人が自分の力と意思を用いて神の栄光などを表すことは到底できないことです。そんな「人」は、弱さを覚えることでもなければ、全てを神に預けるなどということはできないのです。
 人が神にすべてを預けることができる時に初めて、神はその人を通してご自身をそこに表すことがおできになるんですね。

 弱さ・・それは、必要なものなんですね。自分の足りなさや愚かさ、そのほか全て自分についてマイナスに感じること・・それはむしろあなたに必要なことなんだと言うのです。

 問題はこの世に立つ目的なんですね。自分の栄光を求めている限り、落ち込んだりすることは当然のこととしてやってきます。しかし神の栄光を表す器として世に立つことを望むなら、「弱さ」・・それは大いなる恵みとなるんですね。

 「弱さを誇ることができる」、なんと幸いなことでしょう。

 
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2020.07.01.Wed 09:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #173

【過失】マイナスの出来事シリーズ20

"「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。"
 ヨシュア記 20章2~3節

 過失・・それは、自分が意図しないことをしてしまうこと。辞書を見ると、不注意,怠慢などのためにおかした失敗、とあります。
 私はこの辞書の解説を見たときに、なんだか妙な違和感を覚えました。私のイメージにあった過失というのは、全く予期できない中でしてしまったというものです。不注意とか怠慢というのは、頭の片隅でその後に起こることを予期しているという面があるのではないでしょうか。

 過失について、聖書はなんといっているのでしょうか。

 今日のみことばは、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったときに、部族ごとに割り当てる地について、神が語られたことばです。
 「逃れの町を定めよ」というのです。それは「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込めるようにするため」だと。

 神は結果だけを見て人の扱いを決めるのではなく、その心を見られ、それに従って人を扱われる方だということが、このことからうかがい知ることができます。

 人は、心のことは隠しておけばわからないという感覚を漠然と持っています。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル 16:7) 心は神の前に隠すことはできないんですね。
 神の判別の基準がその心であるというのは、私たちにとって弁解の余地のない厳しいことであると同時に、救いでもあるように思います。

 神はちゃんと心を見ておられる・・というのです。このことは私たちの心を本当に慰めてくれます。批判や中傷の的になっても、神はちゃんとあなたのことを知っておられる・・というわけです。
 だったらどうして神は、心にもなかったことでその人を苦しめるのかと思いますよね。でも神が与えてくださるものって、いつも私たちにとっては予想外の形でやってくるんですよね。
 神はボロボロに砕かれた、心までが砕かれた、その人の上に最も大切なものを与えてくださるんです。それは「神を知る」という知識です。

 過失は、自分が全てをコントロールする者ではないということを教えてくれます。
 これって、実はものすごく大きな恵みの入り口なんですね。自分中心に生きる「罪びと」の心の壁が砕かれるための大きなチャンスになるからです。

 人はそのようにして、神が与えようとされている救い、永遠のいのち、喜び、平安を受け取るんですね。

 これは全ての「マイナスの出来事」について言えることなんですけどね。


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2020.06.30.Tue 10:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #172

【いじめ】マイナスの出来事シリーズ19

 今日のテーマは「いじめ」です。
 いじめたい心・・自分の中に見たことがありませんか。

 人を潰そうとする心が自分の中にある・・恐ろしいことですね。そんなことないと、きっぱり言える人はよほど幸いな人か、あるいは自分を見つめることのほとんどなかった人です。普通の場合、そのような心は隠れているので、まさか自分の中にそんな心があったなんてと驚く・・そういう人は多いのかもしれません。
 人は一旦「いじめてもいい立場」に立ったとき、そのいじめ心は頭をもたげて姿を表します。例えば相手の落ち度で、自分が責めてもいい立場に立ったとき・・のような。
 その力は、人を叩きのめします。こういった場合、叩かれる人は反論はできないので、叩かれるままになって「自分」というものを失っていきます。

 もうひとつ、「自分たちと違うところ」または「自分たちよりも劣るところ」を見るとき、人は群れになってその人を集中的に叩きのめすということがあります。最悪のケースは、それが昂じて死に至らしめるという「事件」。よく耳にします。

 今まで、多くの「マイナスの出来事」をテーマにしてきましたが、そのほとんどは「罪の性質」と関係があります。罪の性質とは人が生まれながらに持っている性質のことです。聖書は、全ての人が罪びとだと断言しています。

 ローマ人への手紙 3章17~19節には、こう書かれています。
"「彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。"
 
 このみことばの前半は罪人の性質の指摘です。平和に向かうことを知らないし、神を認めない・・。
 後半が少しわかりにくいですね。「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」というところ。これは、守るべき「律法」というものがあって、自分がそれに反していることを認めることによって、人は自分が「さばかれるべき者」だと知るのだ、と言っているんですね。

 人はどうしようもない罪人なんですね。そしてあなたも私も、そこから漏れることはないと、聖書は言っているのです。
 だからこそ人は神の前に、「キリストの十字架」のあがないがどうしたって必要なんですね。自分の悔い改めや行いで神の前に良しとされる道は、あり得ないというのです。
 人は神のさばきの下にあるんですね。その魂は滅びに直行だと示しているのが、あのキリストの十字架なんです。そしてもうひとつ意味があって、わたし(イエス・キリスト) がその身代わりになったのだと示しているのが、あのキリストの十字架なんですね。
 
 いじめの事件に心が痛みますか。それだったら、まず自分の罪を知りなさいと聖書は言っているのです。問題の根は事件を起こす社会ではなくて、人の心の性質にあるんですね。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
 使徒の働き 4章12節

 人は、このキリストが成し遂げられたあがないを、神が与えられた救いの道だと信じることで救われるのです。
 そしてキリストは実際に死んでその後、死の力を打ち破ってよみがえられたんです。

 イエス・キリストは「生ける救い主」なんです。


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2020.06.29.Mon 11:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 GraceCafeたいむ#7

 YouTube動画シリーズ。7回目となりました。
 今回のタイトルは「帰るべきところがある」です。
 そこに行くには、ただ一つの決断が・・。
 
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2020.06.27.Sat 08:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #171

【劣等感】マイナスの出来事シリーズ18

" 弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。"
  ルカの福音書 6章40節

 今日のテーマは「劣等感」です。

 誰しも、他人と自分を比べる時、その差を見せつけられるということはよくあります。しかしそれが劣等感となり、自分を卑下し、そこに希望を見出せなくなる人と、そのことを受け入れて、そのことをきっかけにして、自分の中にある新たな可能性に目を移していく人と、二種類あるようです。

 イエス様は「誰でも〜師のようにはなれます」ということを言われました。そしてそれに続いて「兄弟の目にあるちり」の話をされています。それは、他人のことに目を奪われていることへの警告の話です。

 私たちが師とすべき存在は、イエス・キリストのみです。イエス様は弟子たちに、あなた方は先生と呼ばれてはならない、師とも呼ばれてはならないと言われました。先生も師もただひとり、キリストだけだと言われました。(マタイ23:8-10) そしてその方を師とする時、人は十分な訓練を受けて、その方のようになるとイエス様は言われたのです。

 このことの裏にあること・・。それはキリスト以外の存在を師としてはいけない、先生としてもいけない、ということです。それはキリスト以外の存在を、先生や師として自分の目標にしてはならないということです。

 ある人を目標にしている限り、その人以上にはなれないんですね。ですから、人と自分を比較するということは、その人以上にはなれないという、とても狭い世界の中に自分を置くということになるのです。

 私は大学でドラムを教えていますが、本当にドラムを悔いのないライフワークとしてやって行こうと思うなら、自分に与えられているものが全開になるようなスタンスに自分を置くようにしないといけない・・ということを常に言っています。
 最初はある人を目標にして、色々と勉強しますが、ある時からはそこから脱しないと「その人以上にはなれないよ」と言っているのです。それは、最初から限界のある世界に自分を置くことです。

 私はある確信を持っています。それはどんな生徒でも、その子が自分の感性を全開にした時、それは世界中のどこにも見られないタイプのドラマーが生まれるはずだということを。しかも、100人いたら、その100人が、皆違うタイプの、しかもカラフルで美しい、見ていて嬉しくなるような「世界一のドラマー」になるのだということを・・。
 ドラムは単純で、誰でもすぐに演奏できる可能性のある楽器なので、その点がとてもわかりやすいんですね。

 この「ドラマー」を「人」に置き換えれば、自ずと答えが出てきます。人は他人と比較している限り、自らを狭い世界に閉じ込めたままになるのです。だれでも、こだわりというものがあります。そのこだわりを神様に忠実に取り扱っていく時、人は神の栄光を表す、きらきら輝く星のような存在としてこの世に立つ者になるんですね。「こだわり=どうしても気になって仕方がないところ」は、神が与えてくださった賜物(たまもの)を見出すヒントなんです。

 人を見ないで、私たちのためにいのちを捨てられたイエス・キリストを師として歩む時、私たちは「神の栄光を表す」という、思ってもいなかった役割を果たす者に作り上げられるんですね。

 劣等感は「余計なお荷物」なんです。
 

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2020.06.26.Fri 10:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #170

【嫌な先生・上司】マイナスの出来事シリーズ17

" 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。"
  ヨハネの手紙 第一 4章18~19節

 どの世界にも嫌だと感じる人というのはいるものです。ましてやそれが先生だったり上司だったりすると、本当に自分は不運だと思ってしまいます。

 先生や上司というのは「教育や指導をするために任ぜられた人」であるわけです。しかし先生とか上司とかいっても、所詮人は人です。
 世の中には理解のできない人の行動とか、心を痛めるような出来事というのが実に多く見られます。そのような時、聖書が言う「罪人」という視点に立つと、その行動の謎が解けることが少なくありません。
 罪人の基本は「神を外に置いて自分で自分を守る」というところにあります。
 先生も上司も、自分の役割をしっかり果たし、愛される人になりたいと思うのが普通です。ところが、人を前にした時に、特に自己防衛の傾向が強かったりすると、まず人をねじ伏せてから言うことを聞かせようとしてしまったりします。
 尤も、そこのところが人の上に立つ者の資質を決定する部分なのだと思うのですが、そういうことを教える学校などはなく、実際に上に立った者はその時からほとんど「指導者一年生」としてスタートするわけです。

 いやな先生、上司・・どうして神様はこういう人を自分の前に置かれたのか思うことがありますが、それは先生や上司にとっても同じことなのかもしれません。人の扱いというのは難しいものなんですね。
 上司、先生との関係は言って見れば上下関係なのですが、その関係を良くすること・・それは上下関係ではないんですね。関係を良くするのは、上に立つ者であることもあれば、下に立つ者であることもあるということです。

 聖書は「人」について、とても重要なことを教えてくれています。それは、人は罪人であり、自分を守ろうとするものであり、そのゆえに失敗するような「弱い者」であること。まただれしも「愛されること」を求めているということ。そして「恐れる者」であるということ・・。
 そこが見えてきた時に、関係悪化の事態についての真相が見えてくるんですね。

 そしてここにつける妙薬、それは「愛」だということがわかってきます。愛があるなら人を恐れることはなくなるのだと、今日のみことばは言っています。
 そして「神がまず、私たちを愛してくださった」のだと・・。キリストの十字架は人が考え出したものではないのです。あれは神の方から先に提示された愛のしるしです。その愛の中に移された者は、「先に愛する者になる」ことの大きな力を見させられるんですね。

 これが答えなのかもしれません。

 我が家のトイレには、マザーテレサに仕えていたことのある日本人の神父(カトリックの教職者) 片柳弘史という方がマザーの言葉を意訳した日めくりがかかっていますが、それ以上めくらなくなってしまい、止まってしまったページがあります。そこにはこう書いてあります。

「愛されるためには、心を開くだけでいいのです。」と。

 ・・これって実は、すべての対人関係全てに言えることであるわけで、これで「マイナスのできごと」の多くが解決されるのではないかと思う、大事なポイントなのではないでしょうか。

 でも、私たち自身にはそんな力はない・・。これも現実です。
 その力は、私たちをまず愛してくださった神の内にあるんですね。

 ここに救いがあるのです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.25.Thu 11:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #169

【失敗】マイナスの出来事シリーズ16

" 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"
 ローマ人への手紙 8章28節

 今日のテーマは「失敗」です。この失敗というのは、世の中においても比較的肯定的に受け取られているようです。
「失敗は成功のもと」ということわざにある通り、失敗がなければ次には進まないという受け止め方をもって、それをバネにして次に進むんですね。
 ただ、「取り返しのつかない失敗」というものもあります。自分の過失によって人を死に至らしめてしまった・・。これは次につなげるなどということ以前に、一生の重荷を負ってしまうという失敗です。
 そのような失敗は、それなりの償いをすれば社会に復帰することも許されますが、自分の心の傷はいつまでも残ってしまいます。そして自らの存在の価値を見出すことさえできなくなってしまいます。

 きょうのみことば、「すべてのことがともに働いて益となる・・」などということを、このような場合に果たして当てはめることはできるのでしょうか。

 罪の縄目ということばがあります。自分の罪で自分が縛られ、動きが取れないというのです。この罪というのは、神から離れているという「原罪」を表す言葉ですが、実際に起こしてしまった罪もそこから派生したものです。
 この罪のゆえに自由を失ってしまう。その失敗は大きいです。

 その人はおそらく神に聞きますよね。「神様、どうして私がこんなことをしてしまうことをお許しになったのですか」と。

 しかし神のもとに起こる出来事に偶然はないんですね。神は全能の神ですから、神を愛するあなた、あるいはまだ神を知らなくとも「神のご計画に従って召されたあなた(エペソ1:4)」の上にそのことが起きた・・。ならば神はそのことが起きることを許されたんですね。

 このことの上に神がおられることを認めるか否か・・。普通の人でしたら、神も仏もあるものか・・これが結論です。しかしそのことの上におられる神を認めるのだとしたら、これ以上の「認める」はありません。絶対者に対する完全なへり下りです。絶対にしてはならないようなことを自分にさせてしまう神を、神として認めるのですから。

 このようなことは、私などに言えることではもちろんありませんし、誰にも言えることではありません。ただ、これが聖書が言っていることなんですね。

 信仰をもって、改めて神とともに歩む決意をするなら、神はその人を天の御国の一員としてくださる・・これは神の不動の約束なんです。

 ここに理屈抜きの癒しが、そして新たな希望があるんですね。

" 神へのいけにえは砕かれた霊。
 打たれ砕かれた心。
 神よあなたはそれを蔑まれません。"
  詩篇 51篇17節


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.06.24.Wed 10:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #168

【憎しみ】マイナスの出来事シリーズ15

" 憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。"
 箴言(しんげん) 26章26節

 今日の主題は「憎しみ」です。

 前回は妬(ねた)みからくる憎しみについて見ましたが、他にも憎しみの理由はいろいろあります。でもどんな種類の憎しみであれ、一旦憎しみを持ってしまうと、それは自分では管理できない、心の中のモンスターになってしまいます。

 さて、今日のみことば・・、ドキッとしませんか。

 ここではまず、憎しみは隠そうとするものだと言っているんですね。もし憎しみを表に出したら、それは憎む相手を殺すということにつながるからです。だから隠すこと自体は賢明なことなのかもしれません。しかしここではその憎しみそのものが「彼の悪」だと言っています。
 そしてその悪は「集いの中で現れる」というのです。集いとは人々がいるところです。それがそこで表に出る・・というのです。

 憎しみの原因が妬みなどであるとすれば、それは人々の集いの中で現れて、その人はその心の内を皆に見られてしまうということになって、言って見れば自業自得だよという話になるのですが、これが加害者に対する「正当な憎しみ」のようなものだと、それは実に辛い状況です。
 憎しみ自体が、その人を一生の間さいなむことになり、おまけにそれが人々の間では隠そうとしても、表に現れてしまうというのです。

 こうなると前回同様、ここでも私たちは「私は本当にみじめな人間です。」と言わざるを得ません。

 自分の家族を殺した加害者への憎しみに苛まれている人は少なくないと思います。
 そんな人が、キリストに出会い、人の罪のために自分のいのちをささげたその方を信じたとき、思ってもみなかった「許す心」が与えられた・・。
 そのような話を聞くことが何度もあります。心から許したときに、その人は自分を縛っていた憎しみから本当に解放されたという話です。
 もちろん、その間の葛藤は他人が想像できるようなことではないと思いますが、その暗黒の中でその人たちはイエス・キリストという、まことのいのちに出会ったんですね。

 どのような正当な理由があろうとも、憎しみは私たちを縛り、死へと導くんですね。

 私たちは「罪の縄目」の中で生きています。それは自分の罪であり、人の罪である・・言ってみれば罪のネットワークが張り巡らされている世界のなかで生きているんです。
 要するに人の世は、「許さなければならないこと」で満ちているんですね。しかし同時に、許す力など私たちは持ち合わせていないことを見せつけられます。

 この悪の循環を止めるのがキリストの十字架なんですね。

 家族を殺した者を許すなんて・・それはあり得ない、絶対にしたくない、望まないこと・・それをする人に変えられる・・。そしてそこにしか真の解放がないことを知る・・というわけです。これは神の奇跡以外のなにものでもありません。

"イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」"
 ルカの福音書 18章27節

 救いは「神の力」なんです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.23.Tue 14:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #167

【妬み】マイナスの出来事シリーズ14

" 私は本当にみじめな人間です。
 だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。"
 ローマ人への手紙 7章24節

 妬(ねた)み・・辞書には「他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む」とあります。そう、、憎むんですね。

 もし憎んでしまったら、その憎しみがその人の心を支配してその人を動かします。そしてその人に与えられている貴重な時間は、その憎しみに囚われた行動で埋め尽くされてしまうのです。
 はたから見れば、なんと哀れな状態かと思うのですが、本人は囚われている状態であることすら、わからないわけです。

 パウロは言いました。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と。

 これは罪の奴隷になっている「人」の状態、すなわち罪びとについてパウロが語ったところです。妬んでしまうというのも罪なんですね。

 パウロはまずその状態を「この死のからだ」という言葉で表現しています。もはや、自分にとって良きことを選択できない哀れな性質の中に閉じ込められた「罪びと」の姿です。
 そして、そこから救い出してくれる、そんな存在はどこかにあるのでしょうか、と言っているわけです。そして続くのがこの言葉です。

" 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
 こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。"
 ローマ人への手紙 7章25節

 それは、そのような惨めな自分を救うことができるイエス・キリストに私は出会ったのだ。私はその方を信じたことによって「そうした性質から来る縛り」から解放されました。神に感謝します!・・と言っているわけです。
 そしてそのあとに、不思議な表現があります。心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている・・と。それは、クリスチャンになっても、そのような昔の性質は残っていますが、キリストと共にあることによって、神の喜ばれることを喜ぶ自分は、キリストの力によってそのような性質から解放されているのです・・というわけです。

" 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。" ローマ人への手紙 6章23節

 イエス・キリストは滅びに至る者を、罪から解放し、永遠のいのちを与えるために人の姿をとって来られたんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.22.Mon 10:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
たいむサムネイル


YouTube動画 「GraceCafeたいむ」
〜ミュージシャンにもわかる聖書の話〜 #6「変えられていく」

https://www.youtube.com/watch?v=kf5-UeL_4b4&t=13s

2020.06.20.Sat 07:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #166

【不遇】マイナスの出来事シリーズ13

" なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。"
 マタイの福音書 6章28~29節

 今日のテーマは「不遇」です。その意味が自分の中でも漠然としていたので、調べてみましたら、このように書いてありました。
 不遇・・実力や才能はあるが運に恵まれず、他者や世間一般に認められないさま、あるいは表に出ることなく苦難の時を過ごすさま。

 そうだとすると、それはある種の「不幸」と言えるのかもしれません。でも実はそのような人の存在は、表に出てくる人よりもはるかに多いのではないでしょうか。
 努力をすれば必ず報われるということを聞くことがあります。でも現実はそうではないように思うのです。だいたい努力できること自体がその人に与えられた才能、また力なんですね。
 才能を発揮するのは、努力ではなくて、自分に与えられているこだわりに忠実に生きることによってなのだと思うのです。つまりやってしまう・・ということです。だから一人々々やることがそれぞれ個性があって、みな違うんですね。
 その時には、世間に認められようが、忘れられていようが、野の一輪の花のように、凛として咲いているわけです。

 要は、不遇という考えは、野の花のように、虫めがねで見ればびっくりするような創造者の作品として咲いているにも関わらず、それがひっそりと人知れず咲いていて、世間に認められないのだったら、それは不幸だ・・という考えです。

 一輪の花として咲くのは「栄華を極めたソロモン」の装い以上のものだと、イエス様は言われました。
 あなたは何を喜ぶかで、それが「不遇」か「喜び」かに変わってしまうというわけです。

 世に認められなくとも、それが自分にとってのマイナスのことにはならない・・不遇というものの意味がどこかに消えてしまう・・。これは、天に国籍が移された者が確実に手にする、大きな恵みのひとつなんですね。

 あなたは「人の称賛」から解放されるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.19.Fri 10:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #165

【差別・偏見】マイナスの出来事シリーズ12

" さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。"
 マタイの福音書 7章1~2節

 今日のテーマは「差別・偏見」です。

 私たちは偏見をもって見られたり、差別扱いをされたりすると、深く心が傷つきます。この人はこういう人だ・・と、決めつけられてしまうわけです。そうなってしまった時、自分が語る言葉や行動、すべてが何の力もなくなり、太刀打ちのしようがないという「理不尽」を体験するわけです。
 そんな時に「死ね」などという言葉を受け取ってしまった日には、底なしの虚無感の中に放り出されたようになってしまいます。
 先日も女性プロレスラーがそのような心ない言葉で自分の命を絶つという、痛ましい事件がありました。彼女は強靭な肉体を持っていました。しかし心は、言葉の刃物をはね返すことはできなかったんですね。

 そのようなことは、決してしてはならないことですよね。しかし、イエス様は言われました。あなた・・あなたは、それをやってるんですよ・・と。

 さばいてはいけません・・とは、人を「この人はこういう人だ」と決めつけることです。人種的偏見、犯罪者に対する偏見、肢体不自由者に対する偏見、学歴に対する偏見、身なりを見ての偏見、果てはマンションの住んでいる階数を見ての差別、レストランで王様のように振る舞うお金持ちなど・・、本当に挙げていたらきりがありません。

 イエス様は、あなたがさばく、そのさばきであなたはさばかれるのだと、きっぱりと言われました。人をさばくのはあなた。そしてあなたをさばくのは神なんですね。
 あなたが人を見る目、その目盛りを使って神はあなたを評価するというのです。それはとても厳しい秤になるのではないでしょうか。

 でも私たちは、人を量り見てしまうという、その罪深い性質を指摘されたからと言って、反省して「良い人」になることはできないんですね。哀れなものです。どうしようもないです。

 キリストの十字架・・それは父なる神に対しては「あがないの供え物」です。と同時に、それはあなたに対して与えられた「肉の性質の釘付け」なんですね。
 私たちは、自分ではどうすることもできないこの罪の性質を、イエス様を信じてその全てを託す時に、キリストの十字架と復活は私たちにとっての現実となるんです。すなわち、古い自分に死んで、罪の性質からは解放された、新しいいのちに生きる者となるんです。

 あっ、それから忘れてました。偏見によって傷ついたあなたの心・・。
 これもイエス様は十字架の上で負ってくださったんですね。その傷を受けた心もキリストと共に死んでしまい、傷のない新しい心によみがえるというのです。

 そのことのために神は御子を遣わしてくださり、神の目から見て「アウトッ ! 」という私たちのために、御子に激しい苦しみを負わせて、罪を負わせられて・・、それを私たちが受け受け取ることができるようにしてくださったんですね。
 ここに神の愛があるのだというのです。神は罪をそのままで赦すことはおできにならないんです。

 この神の愛を受け取る・・それがイエス・キリストを救い主として信じるということなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.18.Thu 09:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #164

【戦争】マイナスの出来事シリーズ11

" イエスは言われた。
「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。
 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」"
 ルカの福音書 21章8~9節

 今日のテーマは「戦争」です。

 神が平和の神なら、何故この世から戦争が絶えないのか・・と聞かれることがあります。神が全能者なら、あの悲惨な戦争をなくすことなど朝飯前だろうに・・ということなのだと思います。
 その理屈で言えば、神が永遠のいのちを与えるというのなら、最初から与えておけば良いのに・・ということになります。
 しかし、聖書は冒頭からこのことに触れ、今のこの世の有様が、このようになっていることの説明をちゃんとしているんですね。

 人の歴史は、神への反逆から始まったというのです。それは食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」から実をとって食べたという出来事のうちに、全てが語られています。アダムは善悪の判断は自分でするという意思表示をしたということなんですね。言ってみれば「神からの独立宣言」です。
 しかしアダムは、神から離れて生きるということがどういうことかということを、すぐに身をもって知ることになります。早速自分の子どもが殺人を犯してしまいます。それも兄が弟を・・です。それから今の今に至るまで、実に争いは絶えていないのです。

 義(正しさ)は神のところにあるんですね。そして平和もそこにあるのです。

 アダムもエバも自分で正しくあろうとしてもできないような者でした。しかし神と共にあることを受け入れて歩んでいる限り、アダムと神の関係はなんの問題もなかったのです。
 ところが何故か神は、最初から蛇の姿をしたサタンを登場させます。そしてそのサタンによって騙されて神に反逆してしまう・・そこから「人」の歴史が始まったというんですね。
 でも神は全能者ですから、このことも神の許可なしにはあり得ないことです。
 結局神の許しの中で、サタンも人類の歴史の中に生き続け、今に至っているわけです。そしてそのサタンが滅ぼされるのは、世の終わりのさばきの時だというのです。

 このことは、初めから終わりまでを、神の計画という視点で今の世を見ないことには、理解ができないことです。今のこの世は、人の罪とそこに働きかけるサタンの支配から成り立っている世界だというのです。(エペソ2:2)
 そして、神はそこに救いのロープを投げた・・。だからそれにつかまりなさい。救いがここにあるんだという知らせ・・これが福音なんですね。そしてその救いを通して集められた「神の民」によって、永遠の御国を実現する・・。これが神の計画のあらすじです。

 今日のみことばからもわかりますが、イエス様は終わりの時が近づいても戦争は絶えることがないということを、初めから言っておられます。
 そのことは何を示しているかというと、着目すべきは「戦争」とか、この世に起きている不条理なことではなくて、人の罪だということなんですね。

 人が罪と死から解放される・・このことが土台になければ、他のことの意味は何もわからないんですね。
 希望は神にあり、「永遠」というところにある・・そこに目を止めないと、私たちは世の中の不条理の中に埋没するしかなくなってしまうのです。

 神が与えようとしておられる希望を、これを読まれる方々が受け取ることができますように。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

2020.06.17.Wed 16:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #163

【攻撃を受ける】マイナスの出来事シリーズ10

"『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。
 悪い者に手向かってはいけません。
 あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。"
 マタイの福音書 5章38~39節

 今日のテーマは「攻撃を受ける」です。

 人から言葉の攻撃を受けると、自分の心にナイフが刺さったような心持ちになります。そしてそれは心持ちだけではなく、本当の傷となり、それが癒されるまで痛みで苦しむことになります。
 人はそのことを知っているので、即座に防御体制に入ります。傷つくのが怖いからです。ごく当たり前の反応ですね。でもその先に待ち受けているのは、言葉で傷つけ合うという泥沼です。

 攻撃は最大の防御だというのを聞いたことがあります。人が攻撃するのは、その裏に防御という意識があるのかもしれません。神から離れた罪人の行動の基本は保身です。神不在ですから、自分で自分の身を守るしかないのです。
 ですから争いは絶えず、自分、家族、民族、国家ファーストの世界へまっしぐらなんですね。因みにグローバリズムというのは会社ファーストです。武器の会社はもちろんのこと、薬の会社も、水を扱う会社も、植物の種を扱う会社も、国家よりも会社、人の命よりも会社なんですね。だから国境を取り除こうとする。税金は自国に収めようとしない・・。グローバリズムというのが会社のための思想であることが、だんだん見えるようになってきました。
 そこに神が不在なら、行き着くところは殺戮の世界なんですね。これがこの世のさまであり、人のさまです。そこにあるのは、罪から来る負の連鎖です。

 イエス様は驚くべきことを言われました。「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」というのです。・・死んじゃうじゃないですか。でもイエス様はさらに、次のようなことを言われています。

 あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(43-44節)
 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。(46節)
 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(48節)

 とてもできないことです。でもここが「罪から来る負の連鎖が止まるところ」なんですね。
 イエス・キリストは私たちの罪のために、その罪のからだを私たちの身代わりに釘付けにしてくださったのです。
 私たちは自分で行う力がないのは明らかですが、それをはっきり自覚するなら、イエス・キリストに全てを明け渡して、自分の内にお迎えすることができます。その時に、私たちは「何もする力のない、罪の奴隷である自分」の内に、全てのものの上に力ある主、「人にはできないが、神にはできる (ルカ18:27)」と言われる主がおられることを見るんですね。

 自分が死んだところに、新しいいのちがあるのです。
 そしてそこにこそ、真の平和があると聖書は言っているのです。

"どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。" ローマ人への手紙 15章33節

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.06.16.Tue 08:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #162

【窮地に立たされる】マイナスの出来事シリーズ9

" ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。"
 サムエル記 第一 30章6節
 
 ダビデは、主君サウルが自分の命を狙うので、あらゆる手を尽くして逃亡の生活を続けていました。その中で、サウルの命を取るチャンスは幾度もありました。それでもダビデは決して「主に油注がれた人」サウルに手を出すことはしませんでした。
 そんな中、ダビデは隣国の王アキシュの元に身を寄せます。ところがその王がユダの王サウルとの戦いに出て行くことになってしまいます。ダビデはユダを敵に回して戦わなければならなくなってしまったわけです。しかも、王アキシュの護衛として・・。
 しかしそれは多くの領主達の反対に会い、住んでいたツィクラグに戻ることになって窮地を逃れます。ところが今度は留守中にその街が襲われ壊滅させられ、妻達や家族は皆連れ去られていた・・。
 その時ダビデに従っていた兵達は、ダビデを殺そうと言い出します。踏んだり蹴ったりとはこのことです。

 窮地に立たされる・・これが今日のテーマです。

 ダビデはどのようなことが起ころうとも、終始「主が中心」でした。

 ダビデは自分の兵士たちが自分を殺そうとしているという窮地に立たされた時も、自分の神「主によって」奮い立ったというのです。そこで何をしたかというと、あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうかと「主に伺った」のです。
 そして「行きなさい」という主からの言葉を得て、600人の兵を連れて彼らを追い、そして彼らを打ち破り、家族全員と戦利品を持ち帰りました。ところがその戦利品の分配についても一悶着あります。しかしこの出来事を通して、ダビデが全ての人々に心を配る人であることを人々が知るようになる機会となるんですね。

 ダビデにとって、主がなされることは、常に自分の考えとは別の、絶対のことでした。
 ダビデはサウルに手をかけようとはせず、主がサウルを滅ぼされるまで、とにかく「主がなさることに忠実であった」んですね。
 それで、彼はユダの地に帰って、人々の信頼を得て、全ての民をまとめて王として立つことができたわけです。

 神の段取り・・それは私たちが計り知れるようなものではなさそうです。今の窮地・・それも神の御手のうちにある・・。そのように受け止める者にとっては、その意味は全く別のものになるんですね。神はすべてのこと益としてくださるという約束が、私たちには与えられています。

" 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"
 ローマ人への手紙 8章28節

 ダビデにとって主なる神は「絶対的な主権者」であるお方。自分の家来までが自分を殺そうとしたその時にもその方を思い起こして「奮い立った」のです。ダビデはこの方が、この窮地の中にあっても主なる神に目をとめることを忘れませんでした。

 あなたを愛し、あなたをご自分の元に帰るために御子を遣わされた神が今、窮地に立たされているあなたの上におられる・・。その信仰を持つ者に、神は実際に応えてくださるのです。

 聖書の神は、生きて働かれる、あなたと共に歩み、あなたを忘れることのない神なんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.15.Mon 12:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 https://www.youtube.com/watch?v=xw7bXfmkLeQ&t=22s

 今回は「天国はある」です。
 賛美歌の「主われを愛す」という、私たちのおじいちゃんおばあちゃんでも知っている有名な賛美歌の1番から4番までの、今回は3番のお話です。

 今までのテーマは、
#1 たましいの求め
#2 心の平和
#3 あなたを愛される神
#4 十字架は神の愛のしるし
 となっています。

 YouTube 「GraceCafeたいむ」 チャンネルにてご覧ください。
 
 
2020.06.13.Sat 10:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #161

【猜疑心】マイナスの出来事シリーズ8

" 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。"
 ローマ人への手紙 7章19-20節

 猜疑心・・これはとても厄介なものです。ある意味では「自分でコントロールできない自分の思い」というものをとてもわかりやすく見せつけられるものでもあります。

 猜疑心は、それが当たっている場合もあるし、全く見当違いのこともある・・。でもそのことで人は心が奪われてしまうのです。
 例えば夫の浮気、妻の浮気。一度その疑いを持ち始めると、病魔が体を蝕むように、猜疑心は心を蝕み始めます。

 パウロは今日の箇所で、自分は「したくない悪」を行なっている・・。悪だとわかっていながら、やってしまうのだと言っています。

 既婚者であっても、異性に惹かれてしまうことはあります。それは、人の肉の性質がそのようにできているからです。しかし同時に、もし相手を裏切れば深く傷つくということもわかっているわけです。それは特別なものではありません。だからこそ猜疑心も正々堂々とやっと来るんですね。
 相手の行動をいつも監視していられるなら、ああやっばり自分の勘違いだったと思うかもしれません。しかし神のように、その心までを監視できたとしたら、その行く先は絶望になってしまうのではないでしょうか。

 人は罪人なんですね。罪人とは、まことの神から離れてしまっているというのがその本質です。そして「肉の思い」に支配されて「罪の奴隷」となって歩んでいる・・それが罪人だと聖書は言っているんですね。猜疑心はその一番わかりやすい心の有り様の一つかもしれません。自分でどうすることもできないのです。

 パウロは「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。」と言っています。(18節)
 そして「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24節) と言っているのです。
 自分ではどうにもできない「この死のからだ」から救い出してくれるものなど、一体あるのでしょうか・・。そのようにパウロは告白しているわけです。

 しかしその話の結末は何かというと、「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節) というのです。
 普通なら、この話の結末は「もうどうしようもありません!」です。ところがパウロは、「イエス・キリストを通して、神に感謝します」と言っているのです。
 それは、肉の性質はありながらも、心は罪の管轄下ではなく神の管轄下に入ったのだと言っているわけです。自分は神の律法に仕える者になり、罪の管轄下からは解放されたのだと言っているわけです。

 猜疑心はお友達のようにしてやってきます。そして自分の人生を、心を、時間を、不要なもので浪費させてしまうんですね。
 ここから解放してくれるのは、神ご自身以外にないというのです。これは修行とか精神力とかいったものでは絶対に無理だということです。
 罪の性質は釘付けにされてしまう必要があるんですね。そうでないと、本当に「したくない悪を行う人」という、「罪の奴隷」の状態から抜けられないというわけです。

 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につかれました。それは、父なる神に対しては私たちの罪のためのあがないの供え物。そして私たちに対しては、肉の性質を釘付けにして、死んでよみがえるという「新生の力」なんですね。

 罪と死の力からの解放を実現してくださったイエス・キリスト。ここでも言えるんです。
「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない。」(使徒の働き4章12節)・・と。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.12.Fri 10:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #160

【敗北】マイナスの出来事シリーズ7

" しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。"
 ローマ人への手紙 8章37節

 今日のテーマは「敗北」です。

 敗北というと、いわゆる勝負での「負け」を意味するわけですが、それは単なる「負け」では終わらず、負けてしまってもう先がないといったイメージがあります。
 何か「決定事項」的なイメージでなんすね。この語源を調べましたら、「北」は二人の人が背を向けあっている様で、元々は「背を向けて逃げる」という意味なのだそうです。逃げてしまっては、次がないんですね。

 要するに、次を失った状態。希望がそこで無くなってしまった状態です。それは、もうあなたの価値はないという判決が下された、という感覚。それが敗北だと言えるのではないでしょか。

 しかしパウロは、そんな世界とは全く無縁のところにいるようです。
 パウロは「これらのすべて」・・それは苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣・・それらの中においても(35節)、私たちは「圧倒的な」勝利者なんだと言っています。
 どうやって、そんなことが実現するのか・・と思ってしまいますよね。ここでのキーワードは「私たちを愛してくださった方」です。

 愛してくださった・・それは過去形の表現ですが、主は今も変わらず私たちを愛し、守り、導き、全ての悪いことの中にも最善を約束しておられる方です。
 ではこの過去形にはどういう意味があるのかというと、考えられるのは「キリストの十字架」ですね。

 イエス様は私たちをご自分のものとされるために、ご自分のいのちを代償として支払われた方です。私たちは主のものとなり、永遠に至る約束・・それは「キリストの花嫁となること」、をいただいている者なんですね。花婿である主は決して私たちを見離すことはなさらないんです。

 キリストは、私たちの地上の生活を祝福してくださる・・。それもありますが、同時にあらゆる困難の中にあっても、それは敗北とはならず、勝利を見させてくださるお方なのだというのです。キリストにあって「敗北」という世界はないと言っているようです。これは驚くべき約束です。

 じゃあ実際にどうすればいいのよ、早く教えてよ・・となるわけですが、それはずっと言ってきました「信仰によって」です。
 神は絵に描いた餅ではない・・と言ってきましたが、信仰も絵に描いた餅ではないんですね。

 本当に信じて、心にキリストを迎えるとき、キリストイエス様は、私たちの内に働き、外に働き、私たちが寝ても覚めても共にいて、いのちの道へと導いてくださるお方なんですね。
 そしてこのイエス様は「死」さえも無意味なものとされたお方なんです。

 もし敗北というものがあるとしたらそれは、「死」が「死」として大手を振って歩いているところ・・それはイエス・キリストを救いとして受け取っていないところ・・。そこでは敗北も大手を振って歩いているかもしれません。

 勝利はイエス・キリストにある。いや、そこにしかないと、聖書は言っているんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.11.Thu 11:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #159

【挫折】日常の悩みシリーズ 6

" 人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。
 人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。
 あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。"
  箴言 16章1~3節

「失敗は成功のもと」という格言があります。失敗があるからその次のステップに行けるのだという意味なのだと思います。確かに失敗は成功のもとには違いないと思うのですが、そのまま成功しないケースもありますよね。
 また、努力こそが成功への道だと断言する人もいます。でもそれって、「努力によって成功した人の言葉」なんじゃないでしょうか。

 私はこの歳までドラマーという仕事を続けることが許されてきたわけですが、そこには多少の「努力」もあったかも知れません。同じような職業を続けている人たちも、おそらく相当の努力をしてきたんだと思います。
 でも、実際自分の中では「努力」という言葉はピンと来ないんですね。努力じゃなくて、こだわっちゃってやめられなかった・・という方が的を得ているように思います。
 努力すること、、。それは確かにあったのかも知れませんが、それさえも「与えられたもの」なんですね。

 今日のみことばは「人は心に計画を持つ」というところから始まっていますが、その計画がどんな努力や正しいという確信によってそれを行おうとしても、それが叶う人と、叶わなかった人がいて、その答えは主から来る・・と言っているわけです。
「人には自分の行いがみな純粋に見える」かもしれません。けれど主は「人の霊の値打ちを量られる」というのです。
「霊の値打ち」とはどういう意味でしょうか。神の人に対する一番の興味・・それは、人が神に目を向けるかどうか・・なんですね。霊の値打ちはそこにあるということです。
 そしてその人、すなわち神に目を向ける人は「そのわざを主にゆだねよ」と、みことばは言っています。「そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」というのです。なんという力強いことばでしょうか。結局、主が全ての解決のカギだというのです。

 素晴らしいビジョンが与えられて、それに邁進して・・そして挫折してしまう。それはとても痛いことです。けれどもそれは「自分の行いの純粋な動機」をもう一度点検させられる時なのかもしれません。でも私たちは「純粋な動機」といわれても、おそらくその判別さえもできないような者です。

 今日のみことばは、一つだけ確かなことがここにある、と言っています。それは「主にあって歩む」ということ。それは自分のわざを「主にゆだねる」ことができる人になるということに他なりません。

 この箴言の箇所の少し後にはこんなみことばがあります。

" 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。" 箴言 16章9節
 
 これを読まれる方が、すべてこの主イエス・キリストに出会われること・・、それが私たちの心からの願いなんですね。

 私たちを愛してくださる主が、全ての要なのです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.10.Wed 11:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #158

【恐怖】日常の悩みシリーズ5

" イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」"
  マタイの福音書 14章31節

 今日のテーマは「恐怖」です。

 ある時、イエス様の弟子たちだけで、舟でガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしていました。夜です。一晩中漕いでいたのに、向かい風のため舟は一向に進みません。夜明け近くになって、そこにイエス様が湖の上を歩いてこられたんです。
 弟子たちは幽霊だと思い、「恐ろしさのあまり叫んだ」と書いてあります。そうしたらイエス様が、「しっかりしなさい、わたしだ。恐れることはない。」と言われたというのです。
 この話には続きがあって、まだ水の上におられるイエス様を見たペテロは、「自分にも水の上を歩かせてください。」とイエス様に言います。イエス様はなんと、「来なさい」と言われたんです。そうしてペテロはイエス様に向かって水の上を歩き始めました。その時・・
 ペテロは「強風を見て怖くなり、沈みかけた」というのです。そこでペテロは叫びます。「主よ、助けてください。」と。するとイエス様は、すぐに手を伸ばし彼をつかんで「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。・・この話が今日のみことばの箇所です。

 彼らが幽霊だと思って恐れた時、彼らは「イエス様は一緒ではない」という状態でした。少なくとも彼らはそう思っていたわけです。それは彼らにとって「何も助けがない」という状態です。そこに「恐怖」が来たんですね。
 恐怖は「助けてくれる存在がない」というところにやってくるというわけです。

 歩いて来たのがイエス様だとわかり、彼らは勇気付けられます。そこでペテロは、自分にも水の上を歩かせてくださいと言い出すんです。そうしたらなんと、イエス様は「来なさい」と言われる。・・まさに信仰をもって奮い立ち、ペテロはイエス様を信じ、イエス様の方に向かって、水の上を歩き始めます。ペテロはイエス様から目を離さず、「水の上を歩いた」のです。
 ところがイエス様を見ていたのに、あろうことか「強風を見た」と書いてあります。イエス様ではなく、強風を見たのです。それはイエス様から目を逸らしたということです。そうしたら怖くなって、ズブズブと沈みかけたというのです。

 その時のイエス様のことばが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」です。

 イエス・キリストを信じる者には、決して離れることのない主ご自身が共にいてくださいます。この話からわかることは、それを覚えている限り「恐怖」は来ないということです。
 ペテロが不信仰だと言われたのは、なぜでしょうか。それは「疑った」からだというのです。イエス様に向かって、イエス様にはっきり目を留めて進んでいたのに、それ以上に力があるように見える「強風」に気を取られた・・というのです。
 
 「信仰の薄い者よ。なぜ疑うのか。」この一言に尽きるんですね。疑うとは、ともにいてくださるイエス・キリストから目をそらし、他のものに目を移すということなんです。
 しかし、突然のできごとに恐怖にかられることは、ありがちなことです。その時にイエス様を信じた者なら、はっきり思い起こせば良いのです。
 主がともにいてくださるんだ・・。主は「恐れてはならない、おののいてはならない、わたしがともにいるのだ。」と言ってくださる方なのだ・・と。
 それが主に目を留めるということなのです。

 問題は、私たちがその時「主に目を留める者」であるかということ・・ここが問われていることなんですね。

 イエス様を信じておられない方にご紹介したい・・。これが私たちの主イエス・キリストなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.09.Tue 09:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
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