GraceCafeたいむ #155 から #158 までがアップされていませんでした。
大変申し訳ありません。
過去分につきましては、カレンダーから毎週土曜のアップ分をご覧になれますので、そちらからご覧ください。
今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
グレイスホームチャーチ 市原康
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グレイスホームチャーチ 市原康
"彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。"
創世記 48章20節
エジプトに安住の地を得たヤコブは、自分の死期が近いことを知り、ヨセフの二人の息子を自分のところに来させます。
長男マナセと次男のエフライムです。(48章〜)
しかしヤコブは、ヨセフの長男マナセよりも次男エフライムの頭に右の手を置いて、その祝福の筆頭としたのです。(13-20節)
それはまさに「預言」でした。
カナンの地を征服するために選ばれた神の器ヨシュアはエフライム族の人でした。
また、預言者サムエルもエフライム族で、彼はイスラエル王国を確立する時に重要な働きをする、これもまた選びの器なんですね。
生まれながらにして与えられていた長子の権利が、ヤコブの手によって一瞬にしてひっくり返されたのです。
しかも長子の権利を兄から奪い取ったヤコブの手によってというのが、何とも皮肉な感じがしますが・・。
人の人生はどうも、既得権によって決まるものではないようです。
このような家に生まれた。これだけの財産を手にした。これだけの実績を積んだ・・など。
これらのことは、私たちの人生を保障する何の力も持っていないんですね。
それらの「既得権」は、あっという間に消滅してしまうことがあるのです。
こんなみことばがあります。
"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。" (箴言10:22)
人生の鍵は、主の祝福すなわち、主との関係にあるのです。
私たちはイエス・キリストによって、永遠の祝福を約束された者となりました。
ですから、私たちが第一に優先すべきは主イエス・キリストとの関係なのです。
その結果として、家庭の祝福、仕事の祝福、人間関係の祝福、教会の祝福があるんですね。
順番を間違えないようにしましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それでヨセフは、エジプトのすべての土地をファラオのために買い取った。エジプト人に飢饉が厳しかったので、人々がみな、自分の畑地を売ったからである。こうしてその土地は、ファラオのものとなった。"
創世記 47章20節
ヨセフはイスラエル=ヤコブの一族を、ゴシェンの地でも一等地のラメセスに住まわせ、彼らを養いました。
イスラエル一族は、この飢饉という危機的な状態の中から、一人も漏れることなく救い出されたのです。
さて、飢饉が続いたために、とうとう全地から食料が尽きてしまいました。
それで、ヨセフは豊作であった七年間に貯めた穀物を民に放出するわけですが、初めは民が持つ銀と引き換えに彼らに食物を与えます。そしてその銀が尽きた時には、今度は民の持つ家畜と引き換えに食物を与えます。
それでも飢饉は続いたので、ヨセフは彼らの土地と引き換えに穀物を与えたというのです。
こうしてなんと、ヨセフはこの七年間の飢饉によって、このエジプトの国を完全に国有化してしまったのです。
そして飢饉も終わりになる時に、ヨセフは民に穀物の種を与え、それを耕させます。そしてその五分の一をを税として収めさせるということをしたのです。(13-25節)
ヨセフはファラオが見た夢を解き明かし、やがて来る七年間の豊作と七年間の飢饉を知ることを通して、完全に国の体制を強固なものとし、ファラオの権力を絶大なものとしたのです。
こうしてヨセフの地位は不動のものとなりました。
なんという知恵でしようか。
この偉大な知恵は、神から与えられたという以外に、何一つそれに当たるものはありません。
私たちは、自分の知恵や能力に頼っている限り、このような神の偉大な御わざに携わることはありませんが、神とつながるならば、この小さな私たちの想像をはるかに超えた神の偉大な御わざに、私たちも携わる者とされるのです。
あなたは自分の知恵と神の知恵と・・どちらを選びますか。
“「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる。" (ゼカリヤ書 4章6節)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。」"
創世記 47章6節
カナンの地からエジプトに向かったヨセフの家族は総勢70人でした。
ヨセフは彼らをゴシェンの地という、家畜を飼う者にとってはエジプトで最良の地へ導きました。
そして彼らがゴシェンに着いたのちに、ヨセフは彼らに会いに行き、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:27-29)
ヨセフが彼らをまずゴシェンの地に導いたのは、恐らく彼らがエジプト人たちに忌み嫌われる羊飼いだったからだと思われます。
ヨセフはまず兄弟の中から五人を連れてファラオのところにやってきて、自分たちの仕事は羊飼いなのですが、カナンの地は飢饉で牧草もなく、どうかしもべどもをごシェンの地に住まわせてくださいと、彼らに言わせます。(4節)
そこでファラオが言ったのが今日の箇所です。
元々嫌われるはずの者たちが、最良の地を与えられ、しかもファラオ直属の家畜の係という仕事も与えられたのです。
神はヨセフを奴隷に売られるという苦難に合わせ、そのヨセフを最悪の場所である監獄から、一夜にしてファラオに等しい権力を持つエジプトの支配者へと「よみがえらせた」のです。
そしてそのヨセフが仲介者となり、嫌われ者扱いをされるはずの羊飼いであるヤコブの全家は、あの飢饉の地から別天地とも言えるゴシェンの地に移され、その地での生活が保証され、王に仕える仕事まで与えられたのです。
ここにも「型」がありますね。
キリストは苦しみを受け、よみにくだり、三日ののちによみがえられて、天に上り、神の右の座に着かれた。
そして神はこの御子イエス・キリストを介して、元々滅びに向かう罪びとである私たちを天の御国の民とされ、主に仕える者とされたのです。
ヨセフ=キリスト、ファラオ=父なる神、忌み嫌われる羊飼い=罪びとの私たち、ファラオに願い出たヨセフの兄弟たち=罪を認め信仰告白をする人、ゴシェンの地=天の御国・・。
聖書はこの救い主イエス・キリストの「型」で満ちているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」"
創世記 46章3~4節
イスラエル(ヤコブ)は自分に属するすべての者を伴い、エジプトに向かいました。
その途中、べエル・シェバに来た時、ヤコブは父イサクの神にいけにえを献げました。(1節)
このべエル・シェバはアブラハムそしてヤコブの父イサクが長く住んだ地です。
その夜、神はイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけます。
そのときにヤコブが答えた返事は「はい、ここにおります。」でした。(2節)
はい、ここにおります・・。
それは、私はいつもあなたに目をとめ、あなたが仰られる事に耳を傾けています・・という意味です。
その時主がヤコブに語られたのが、今日の箇所です。
それはアブラハム、イサクに示され、またヤコブにも二度にわたって示された祝福・・「あなたを大いなる国民とする」・・でした。
そしてそれだけではなく、エジプトからこの地に再び連れ戻すという、最終的な神のご計画についても語られます。
そしてヤコブ自身については、「ヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう」と、ヤコブの地上における生涯についても主は語られたのでした。
それはまさに、至れり尽くせりの神からの祝福のことばでした。
神は私たちクリスチャンに対しても、私たちを大いなる国民「神の民」とされたこと、そして「天の御国」に連れ帰ること、また私たちの地上の生活においても、神は私たちの歩みを守り、その生涯を全うさせてくださること・・この至れり尽くせりの約束をしてくださっているのです。
あなたはそのことを、いつも確信をもって歩みたいと思いませんか。
「はい、ここにおります」・・実はこれがその秘訣なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。"
創世記 45章27節
ヨセフの兄弟達は、エジプトの王ファラオからの贈り物を携えて、父ヤコブのもとに帰ってきました。
兄弟達は、ヨセフがエジプト全土を支配する者となっていたという話を父ヤコブに聞かせるのですが、そんな話をヤコブは信じることができませんでした。
それでもヨセフが送ってくれた車を見て、ヤコブはようやく納得するんですね。(26節)
父ヤコブは元気付き、「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」と、その心は定まるのです。(28節)
ヤコブはヨセフに会ったわけではありませんでした。
しかし車を見て元気づいて、それが信じられないような話だけど行く事に決めたというわけです。
私たちはまだ天の御国を見たわけではありません。
しかしそこから送られてきたものを見て、それで天の御国に向けての歩み始めることを決心した者です。
送られてきた車・・それが神の御子キリストです。
エジプトから送られてきた車は、エジプトの繁栄が一目でわかるような車でした。それでヤコブは決心をすることができたのです
イエス・キリストの十字架と復活・・それは私たちのためにいのちを捨てるという神の愛と、よみがえりによる永遠のいのちを指し示すものでした。
私たちは、天の御国をまだ見ていませんが、それを確信させるものを見て、それを信じ、天の御国への歩みを踏み出したんです。
そしてその歩みを、今日も私たちは歩んでいるのです。
そのことを日々忘れないで、今日のひと時ひと時を過ごしたいものですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」"
創世記 45章24節
そして今日の箇所・・、それはヨセフがエジプトから兄弟達を送り出すときに言った言葉です。
・・道中、言い争いをしないでください。
それはこの一連の出来事について、兄たちがヨセフを奴隷に売り渡した当時の過去を振り返り、なぜこうなったのか、誰の責任でこうなったのかなどと言って言い争いなどはしないでくださいね・・ということなのではないでしょうか。
私たちは過去の失敗を、この後の歩みのために役立てるなら良いのですが、それを自分を責めるための材料にしてしまうことがあります。
あのとき、あんなことをしなければよかったのに・・など。
私たちは罪深く弱い者で、いくらでも失敗する者なのです。それが私たちについての大前提なんですね。
ヨセフと兄弟達の場合、神はヨセフの愚かさ、そして兄弟達の愚かさをも用いて、神はこの最善の計画を成就されたのです。
私たちクリスチャンには今、「全てを益としてくださる主」が共にいてくださるのです。(ローマ8:28参照)
私たちは実に、主とつながっていることによって、自分の愚かささえも恐れずに前進していくことができる者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」"
創世記 45章20節
ヨセフは兄弟達に、急いで父と家族をエジプトに連れてくるように言います。
さらに王であるファラオもヨセフの家族にエジプトの最良のものを与えると約束してくれました。
そして、父ヤコブと子供たちと妻たちのために車も用意して、迎えに行きなさいと・・。
その時にファラオが言った言葉が今日の箇所です。
カナンの地にいるヤコブと家族達にとって、それまでに蓄えた財産は大切なものでした。ですから、移住するとなるとできるだけのものを持って行こうとすることは当然予想されることでした。
それを見越してファラオはこのように言ったわけです。
家財に未練を残してはならない・・。
エジプト全土の最良のものは、あなた方のものだから・・と。
ヤコブと家族は、エジプトから送られてきた贈り物を見ました。
それは、家族を乗せてくるための車、ひとりひとりに晴れ着と末っ子のベニヤミンには銀三百枚と晴れ着5着。さらに父ヤコブには、エジプトの最良のものを積んだロバ十頭、穀物とパンと、父がエジプトに行く際のための食料を積んだ雌ロバ十頭・・。(21-22節)
ヤコブはエジプトに移住した際に与えられるものの一部をここに見たんですね。
それでなんの迷いもなくエジプトに行くことができたわけです。
これって、天の御国を約束された私たちの型のように思いませんか。
私たちクリスチャンは、神から送られた救い主、イエス・キリストを見て安心し、もう地上で蓄えた財産などには未練を残すことなく、天における最良のもの・・、すなわち永遠のいのちと天の住まい、そして神の驚くべき光の中に生きる者となることが約束されているのです。(第一ペテロ2:9参照)
ファラオは、ヤコブとすべての家族を招きました。
私たちの家族も、すべての者が天に招かれているのです。
だったら私たちは家族に、「さあ旅の準備をしよう」と言わなければなりませんね。
天にあるある最良のものは、あなた方のものだから・・。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。"
創世記 45章5節
ヨセフは、ユダが自分をベニヤミンの代わりに奴隷にしてくださいと懇願するのを見て、もう泣かずにはいられなくなって、周りにいた従者達を部屋の外に出します。
そしてヨセフは兄達に「私はあなた方がエジプトに売ったヨセフです」と、泣きじゃくりながら告白しました。(1-3節)
彼らは初めはポカンとしていましたが、目の前にいる王にも等しい人物とヨセフが、突然ひとつの人となったわけです。
そのときヨセフが言った言葉が今日の箇所です。
さらにヨセフは、飢饉はまだ5年続くことが神が示されてわかっていることを話し、こう言いました。
" ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。" (8節)
すなわち、あなた方は私を奴隷として売ったけれど、それは私たちのいのちを救うために、神がなさった事なのですと言ったのです。
心の中の悪がとんでもないことをしでかす・・、しかしその先には思いもよらない神のご計画があったというわけです。
この時ユダをはじめとする兄達は、策略などを巡らすことはせず、自分たちのことを包み隠さず告白し、私たちはあなたの奴隷となりますと言える人になっていました。(44:16)
そしてここから全てが始まり、今までの苦しみを一挙に吹き飛ばす喜びと希望へとつながった・・、それが44章から45章にかけての話です。
自分の愚かさや弱さ・・それは初めからあるもので、神はご存知です。
その私たちが自分を守ることなどは捨て、ただ神と人の前に自分を低くするなら、神のご計画はそこに現れ始めるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」"
創世記 44章4~5節
ヨセフは家の管理人に、兄弟達に食料を十分に与え、末っ子のベニヤミンの袋にはヨセフの銀の盃を入れるようと命じます。
そして彼らが出て行った後、ヨセフは家の管理人に彼らの後を追わせて・・、というのが今日の箇所です。
家の管理人は、袋の中から盃が見つかった者だけを奴隷とし、他の者は赦すと言います。
もちろん彼らはそんなことは身に覚えがないことなので、もしそのような者がいたらその者を殺してください、そしてもしそんなことがあれば自分たちはご主人様の奴隷となります・・と誓います。
ところが、ベニヤミンの袋の中からその盃が見つかるのです。(9-13節)
ヨセフはもう一度、自分を売った兄達を試したんですね。
彼らはベニヤミンと共に再びヨセフのところに戻ります。
ユダは、父ヤコブが上の子(ヨセフ)を失った後、ベニヤミンを自分の命のように愛していることを伝え、自分がベニヤミンの代わりに奴隷となることでどうか赦してくださいと懇願します。(44章全体を参照)
それは兄達の、末の弟ベニヤミンと父ヤコブに対して最大の誠意を尽くす姿でした。
それでヨセフはもう耐えきれなくなって、家の者達を外に出し、兄弟達に自分のことを打ち明けるのです。(45:1)
彼らは突然、自分たちを赦す弟のヨセフと再会したのです。
永遠の暗黒としか思えなかった状況が、突然晴れたのです。
主なる神は、そのような方法をもって私たちを取り扱われることがあるんですね。
あくまでも主を信じ、主と隣人(家族)に誠意を尽くして歩むこと・・それが主が私たちに求めておられることなのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。"
創世記 43章33節
ヨセフの家の管理人は、それまで留置されていた次男のシメオンを含む十一人の兄弟達を丁重に扱い、ヨセフの食卓に着かせます。
彼らは指定された場所に座りました。
そうしたら驚くべきことに、自分たち兄弟の年齢の順番通りに席が指定されていたというのです。
一同は互いに驚き合った・・。
それはヨセフが実の兄弟だったからわかったことではありますが、それは兄弟達にとっては、すべて見抜かれているという、どちらかというと畏怖の念さえ覚えた出来事だったのではないでしょうか。
自分たちしか知らないはずのことに従って、自分たちが取り扱われている・・。。
私たちの人生にも、このようなことって、ないでしょうか。
何か自分が知らない存在が自分のことをちゃんと見ていて、その通りに自分の歩みが導かれている・・。
神はあなたのことを、あなたが自分について知っている以上にご存知で、それに従ってあなたを取り扱っておられる・・。
しかもその上には、守りと祝福の約束があるというのです。
" (神は)あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。" (申命記8:16)
神は、あなたのことをはっきり見ておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。"
創世記 43章23節
ヨセフの兄達は、自分たちがヨセフの家に連れて行かれたので、とても恐れました。(17-18節)
彼らをヨセフの家に連れて行ったのは「ヨセフの家を管理する人」です。(16節)
それで彼らはこの人に、以前に行った時に袋に入れられていた銀について(42:26-28)正直に話し、それを返しに来たことと、さらに穀物を買う銀も持って来たことを伝え、なんとか自分たちのうちに非はないということを彼に伝えようとします。
そこで家を管理する人が答えたのが今日の箇所です。
彼は「安心しなさい、恐れることはありません」と、妙に確信に満ちたことを言います。
さらに彼は、「あなた方の父の神が、あなた方のために・・」という言い方をしています。
ということは、この管理人は「あなた方の父」すなわちヤコブを知っていて、その神のことも知っていて、その神があなた方のために・・袋の中に宝を入れてくださったのですと言った・・ということになります。
この管理人は、彼らがヨセフの兄弟であることをすでに知っていたんですね。
ですから一人だけ残されて、おそらく半年以上留置されていたシメオンも丁重に扱われていたに違いありません。
ヨセフはこの管理人に、自分に関わる全てのことを話していたのです。
ですから、ヨセフはこの管理人を全面的に信頼して、家の全てのことを任せることができたのではないでしょうか。
ここから教えられること・・それは、まず家の者すなわち家族に、自分についての全てを知ってもらうことこそが、その生活に平安と安定をもたらすということ・・なのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」"
創世記 43章18節
やっとのことで、ヨセフの兄たちは末っ子ベニヤミンを連れてエジプトに向かいました。
そして彼らはヨセフの前に立ちます。
その時ヨセフは自分の弟ベニヤミンを見て、盛大に食事会を開くことにしました。
それで彼らはヨセフの家に招かれるのですが、彼らにとってはそんなことは全く思いもよらないことで、そこには何かきっと落とし穴が待っているのだ・・と恐れを抱きます。
自分たちはきっと、ヨセフの家で銀のことで問いただされ、その場で捕えられ、結局奴隷とされてしまうのだ・・と。
彼らは起こってもいない「悪いこと」に心が捕えられ、恐れと不安でいっぱいになってしまったのです。
主はあなたに関わるすべてを成し遂げてくださる・・。(詩篇138:8参照)
それが約束であるのに、この先に起きると思われる「悪いこと」を勝手に想像して、恐れと不安に襲われてしまう・・。
そういうことって、おそらく私たちクリスチャンの誰にもあることなのではないでしょうか。
悪いことを考えてしまう・・。
それは神からくるものではありません。
絶望を持ち込むのはサタンです。
その罠にはまって、それに捕まってしまう・・。
私に関わるすべてを成し遂げてくださる主が共におられるのに・・。
私たちの努めは、ただひたすら主に目をとめることだけなんですね。
悪い考えに心を奪われる時間・・それは不要な時間なのです。
「信仰」に立ちましょう。
ここにのみ、望みがあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。
全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」"
創世記 43章13~14節
ヤコブは息子たちに説得され、ようやく最愛の子ベニヤミンを連れていくことを承諾します。
それでヤコブは、できる限りの土産物と二倍の銀を持っていくこと、そして袋の中に返されていた銀も持って行って返すように・・と息子たちに指示します。
さらに言ったことばが、今日の箇所です。
「私も、息子を失う時には失うのだ」と。
そしてかろうじて言えた信仰のことばが、「全能の神が、その方(エジプトのヨセフ)の前でおまえたちをあわれんでくださるように。」でした。
しかしここでヤコブは、大きなことを忘れていました。
それは、ヤコブが兄エサウから逃げて伯父のラバンのもとに行く旅の途中で、夢の中で主に語られたこと・・。
主はヤコブに、あなたの子孫はちりのようになる・・と約束されているのです。(28章13-15節)
しかしこの最悪の状況の中で、そんな神の約束など、ヤコブの頭の中からは消え去っていたようです。
私たちクリスチャンは、地上においても、死後においても、永遠の祝福の約束をいただいている者なのです。
私たちも最悪の事態に直面した時・・それは、ヤコブのように主の約束を忘れてしまうのではなく、その神の約束に心の焦点を合わせるときなのです。
神である主は、私たちに真実を尽くしてくださるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。"
創世記 43章9節
七年間続くと預言された飢饉が三年目に入ろうとしている時、ヤコブの家にも食べる物が再び尽きてきました。
それでヤコブは息子たちに、もう一度エジプトに行って食糧を調達してくるように言うのですが、息子たちは弟のベニヤミンを連れていかないことには行けませんと、父ヤコブに詰め寄ります。
ベニヤミンを連れていくことは、エジプトにいるヨセフの絶対命令であると同時に、父ヤコブはベニヤミンだけは連れて行くなと命じていたからです。
そこで最後に決定打を出したのはユダでした。
ユダは「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。」と言い、それに続いて言ったのが今日の箇所です。
私自身が保証人となる・・。私が責任を負う・・。ベニヤミンを連れて帰らなかったら、自分が一生罪ある者となる・・。
どこかで聞いたような感じがしませんか。
イエス・キリストは、私たちの罪を全面的に負われ、父なる神の前に完全に保証人となって下さった方です。
そしてイエス様が、私たちの罪の責任をあの十字架の上で永遠に負ってくださったのです。
実にこのことの型でもあるかのように、ユダは自分が保証人になり、自分が一生罪ある者となる・・と、父ヤコブに言ったのです。
不思議なのは、それを言ったのがユダだということです。
来たるべき方、メシヤ=キリストは、このユダ族から出るんですね。
聖書に書かれている出来事・・それは神の計画から一つもブレていないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"するとヤコブは言った。「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」"
創世記 42章38節
9人のヤコブの子たちは、次男のシメオンをヨセフのもとに囚人として残し、末の弟ベニヤミンを必ずヨセフのもとに連れてくると約束して、エジプトをあとにします。
ヨセフは彼らの旅のための食糧も用意させて、彼らをカナンの地に帰しました。(25-35節)
彼らは帰って、父ヤコブにすべてのことを報告するのですが、ヤコブは一番可愛がっているベニヤミンをエジプトに連れて行くなど、決して承服できることではないと言ってそれを許しませんでした。(38節)
帰ってきた兄弟たちにとってみれば、完全に八方塞がりです。
エジプトに残してきたシメオンは諦めなければならなくなるし、もう二度とエジプトに食糧を買いに行くこともできない・・。
しかし次の扉は意外な時に開きました。
それは、再び食糧が尽きた・・そのときでした。
父ヤコブは子たちに、再びエジプトに行って食糧を買い求めるように言います。
それでやっと、ベニヤミンを連れて行くということについて、子たちは父を説得し、ベニヤミンを連れていくことになったのです。
希望が絶えたこの重苦しい時間・・そこには二つの道があります。
それを絶望の時間とするか、それとも、主は必ず良きことをしてくださる方であるという信仰を捨てず、感謝をする時間とするか・・です。
あなたはどちらの道を選びますか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」"
創世記 42章21節
ヨセフは、食糧を求めてきた十人の兄たちに会ってから、父ヤコブとその家族全員をエジプトに来させる算段を始めます。
ヨセフは先ず、彼らにスパイ容疑をかけ、三日間監禁してしまいます。
その後ヨセフは彼らに、ひとりだけここにとどまり、他の者は食料を持って帰り、そして末の弟ベニアミンを連れてきなさい・・と命じます。(6-20節参照)
そのとき彼らが互いに言ったことばが、今日の箇所です。
彼らは、今のこの最悪の出来事は自分たちがしたことのゆえの、神からの罰なのだと思ったのです。
しかしそれは、全くのお門違いでした。
彼らがヨセフを奴隷に売り渡したこと・・、それはすでに神のご計画の始まりであり、ヤコブ一族を飢饉による滅びから救い出すためのものであったわけです。
私たちも最悪の出来事の中に立たされることがあります。
そんなときに私たちは、自分が神を怒らせるようなことをしたのだろうかと、思いを巡らしたりします。
しかしあなたと共にいてくださり、永遠にいのちとなってくださっている神は、あなたの上に良きことをしてくださるためのご計画の中で、そのようなすべてのことを起こされるんですね。
あの兄たちのように、これは神の罰なんだという感覚があるなら、それはきっぱりと捨てるべきです。
いまのその「最悪の時」は、私たちが主を絶対的に信頼して歩む時なんですね。
主は、私たちの地上の生活と死とそのあとの永遠の生活まで・・、そのすべてを保証しておられるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
彼らは言った。「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。"
創世記 42章9~10節
42章からは、エジプトに穀物があることを聞きつけたヤコブが、穀物を買ってくるように10人の子たちを送り出した話になります。
10人の子というのは、12人の兄弟の中のヨセフと末っ子のベニヤミンを除いた10人です。
彼らは穀物を買うためにエジプトに来て、なんと弟のヨセフと対面するんですね。
ヨセフは穀物を買いに来た自分の兄たちにすぐに気がつくのですが、兄たちにとってはまさか目の前にいる人が弟のヨセフだとは思いもよらないことです。
ヨセフはこの兄たちにあえて荒々しい言葉で接し、スパイの嫌疑をかけます。
それが今日の箇所です。
そのときヨセフは、家族とともにいたころに神からの幻として見た夢を思い出したのです。
それは、畑で作っていた束の中で、兄たちが作った束が自分の束の周りに来て、その束を伏し拝んでいる・・という夢でした。(37:7)
この瞬間にヨセフは悟ったに違いありません。
神は今のこの時のことを自分に知らせ、それまでの苦しい行程の中で、必ずこの先に何かあるという思いを捨てることなく、ここまで歩むように導いてこられたのだということを。
私たちクリスチャンの上に与えられているまぼろし・・、それは永遠の御国です。
私たちには、その幻がまさに目の前に実現していることを見る時が、必ず来るのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 飢饉は地の全面に及んだ。ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売った。その飢饉はエジプトの地でもひどくなった。
全地は、穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た。その飢饉が全地で厳しかったからである。"
創世記 41章56~57節
七年の豊作の後、エジプトとその周辺国は、ヨセフによる夢の解き明かしの通り、七年間の大飢饉に見舞われることになります。
ヨセフは有り余るほどに蓄えられている倉庫を開け、民に穀物を売ったというのです。(24-57節)
そしてその結末は、ここから6章ほどあとの47章の13節〜26節に記されています。
その間の41章〜46章には、ヨセフと、父ヤコブとその一族の再会の話が細かく記されています。
ここでは47章に飛んで、ヤコブの取った政策の結末を見てみたいと思います。
ヨセフは、蓄えた穀物を民に売ることによって、全国の銀をファラオのもとに集めます。(47:13-14)
さらに飢饉は終わらず、ヨセフは今度は家畜と引き換えに穀物を民に与え、民のすべての家畜もファラオの所有となります。
さらに飢饉は終わらずに、民は穀物と引き換えに自分の耕している畑を差し出すのです。それですべての畑はファラオの物となりました。
そしてヨセフは民に穀物の種を与えるのです。これで畑を耕し、その収穫の五分の一をファラオに収めなさい・・と。
このようにしてファラオの権力は、不動で強大なものとなったのです。
神はあの空気を読むことさえできなかったヨセフを、一国を強大な国家にしてしまうような人物へと、しかも飢饉という最悪の試練を通して、変えられたんですね。
"ただひとり大いなる不思議を行われる方に。主の恵みはとこしえまで。" (詩篇136:4)
" 飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。
ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。"
創世記 41章50~52節
最初の大豊作の七年間、ヨセフはその収穫の五分の一を徴収して(34節)、町の周囲にある畑の食料をそれぞれの町の中に蓄えました。
そしてその穀物は量りきれないほどになり、「ついに量るのをやめた」とあります。(48-49節)
そして後の七年の飢饉が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれます。
その子たちにつけた名前の由来が記されているのが、今日の箇所です。
確かに、今まですなわち、兄弟によって奴隷として売り渡されたその記憶は本当に自分を苦しめた・・。
そして本当についさっきまで、このエジプトも苦しみの地でしかなかった・・。
しかし神は「父の家でのすべてのことを忘れさせて下さった」「この奴隷となったエジプトで実(みの)り多い者として下さった」とヨセフは言い、二人の子にその名をつけたのです。
神は一挙にヨセフを考えられないような地位に引き上げられましたが、その直前まではただひたすら苦しみの連続だったんですね。
苦しみ、叫ぶ・・それは自分で自分をコントロールできるような状況ではありません。
しかし、主はその先に、とんでもない祝福を用意されていたというわけです。
私たちは苦しむ人に向き合う時、みことばによって希望を捨てずに、ただ主の御名を呼び求め続けよ・・と言うことしかできないわけですが、確かにその先には考えられないほどの祝福があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。"
創世記 41章46節
ファラオはヨセフに全幅(ぜんぷく)の信頼を置き、ヨセフに「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」と言ったのでした。(44節)
それはヨセフが自らの判断で、エジプトを支配できることを意味します。
神はエジプトの将来について、ファラオとヨセフに、七年の豊作と七年の飢饉のことをはっきりと示されていたわけですから、ヨセフにとって第一にするべきことは明確でした。
それで、ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った・・。
クリスチャンが「なすべきこと」について、力強く進むことができるのは、そこに神の約束と、将来についての幻が与えられているからなんですね。
神は聖書を通して全世界の人々(クリスチャン)に、世の終わりについての幻をはっきり与えておられます。
さばきが近い、麦と毒麦がふるい分けられるそのときが迫っている・・。
ですからクリスチャンは、そのことに基づいて行動するのです。
しかも、"あなたがたは選ばれた種族、王である祭司 " とあります。(1ペテロ2:9)
私たちもヨセフのごとく、ただ主に与えられたまぼろしのゆえに、主の務めを思いっきり果たすべく、王に等しい権威を持った者として出て行く者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」"
創世記 41章39~40節
ヨセフの進言は、ファラオとすべての家臣たちの心にかないました。(37節)
それでファラオが言ったのが今日の箇所です。
ファラオはヨセフが生ける神とともにいるのだということがわかったんですね。
ならば、このヨセフ以上にさとくて知恵ある者は、ほかにはいない、とファラオは確信したわけです。
「その人」ではなくて、その人の能力をはるかに超えた力がそこにあるということを、ファラオはヨセフの上に見たわけです。
そしてファラオは、だったらこの神とともにある人が国を治めるならば、それは誰が治めるよりも完全なものとなると考えたわけです。
それはすなわち、自分(ファラオ自身)が治めるよりも完全だという判断です。
そして王のこの判断は賢明であったことが、七年の豊作のあとに七年の飢饉が起きることになって分かるのです。
王は自分の判断力や能力を、ヨセフと共にある神に対する信仰の故に、いさぎよく捨ててしまったんですね。
これは私たちの信仰の「型」とも言うべきものです。
私たちはこのファラオのように、自分の判断力や能力、また恐れや不安のすべてに関して、この共にいて下さる神にその舵取りをおまかせするならば、飢饉すなわちどんな難局も、乗り越えて行けるのです。
難局に必要なのは、この全能の神に対する信仰なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。"
創世記 41章37節
ファラオはヨセフに、自分が見た夢を詳しく話します。
その夢は二種類で、ひとつは七頭の肥えた雌牛と七頭の痩せ細った雌牛。もう一つはよく実った七つの穂と、七つのしなびた穂の夢でした。
ヨセフはその解き明かしをファラオにします。
ヨセフは先ず、この夢は神がこれからなさろうとしていることをファラオにお告げになったのだ、ということを話します。
そして二つの夢を見させられたということは、神が速やかにこれをなさることを知らせるためのものである・・と。(16-25,32節)
その解き明かしとは、初めの七年間の大豊作と、その後の七年間の大飢饉を示すものだということでした。(25-31節)
そしてヨセフは、これに対処するための具体的な方策をも王に進言したのです。
その進言とは、さとく知恵ある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置き、全国に監督官を任命し、豊作の七年間に収穫の五分の一を民から徴収し、後の飢饉の七年間に備えよというものでした。(33-36節)
そして、このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった・・。
これから後に起こることを示される神・・。
そこでなすべきことを示される神・・。
私たちはこの神とともに歩む者とされているんですね。
私たちも生活の中で、神の知恵と神の存在を言い表し、周りにいる人たちの心にかなったことをする者とさせていただきたいと思いませんか。
だったら、そのような者とさせてくださいと、主に願いましょう。
主はそれをかなえてくださるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」"
創世記 41章16節
ついにヨセフはエジプトの王ファラオの前に立つことになります。
ファラオはヨセフに言葉をかけました。
「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と。(5節)
そのときにヨセフがファラオに答えたことばが今日の箇所です。
このファラオの問いかけに対して、もし自分だったらどう答えるだろうかと考えると、「はい、そうです」と言ってしまいそうです。しかしヨセフの答えは違いました。
ヨセフの答えは、「私ではありません・・。神が・・」というものでした。
圧倒的な権威を持つ王の前に自分が立ち、その王がなんと「私」に声をかけている・・。
そんな状況で自分を保つのは容易なことではありません。
しかしヨセフは、王を目の前にしているその瞬間、心は主を目の前に置いていたんですね。
私たちの日常生活の中で、急に大変なことが起きた時、また、思いもしないときに自分が脚光を浴びた時・・、私たちはその状況に心を奪われてしまいます。
しかしそのときこそが、主に目を向けなければいけない時なんですね。
" 私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:8)
それさえできれば、私たちはどのような状況に置かれた時にも、不動の岩である主とともに立つ者となるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。"
創世記 41章14節
エジプトの王ファラオはある夢を見ます。
それは余りに明確で、しかも意味が分からない夢でした。
その夢で目を覚ましたファラオは、再び眠ると、また別の夢を見ますが、それも同様に明確で、しかも意味の不明な夢でした。
ファラオは心が騒ぎ、国中の呪法師や知恵ある者を呼び集め、その話を聞かせるのですが、誰もその夢の意味を解き明かすことができませんでした。(2-8節)
その時あの献酌官が、二年前にヨセフが夢の解き明かしをしたことを思い出すのです。
それでヨセフは、王の前に出ることになった・・それが今日の箇所です。
ヨセフの心はどれほど躍ったことでしょうか。
しかし王の夢の解き明かしをするために、ヨセフにとって大切なことは、神に目をとめているということでした。
でなければ、解き明かしなどはできませんから・・。
私たちも神の時が及んで、やっと扉が開かれることがあります。
そんなとき、私たちは心から喜び、新しい歩みの中を夢中で走り始めるのですが、うっかりすると、神がこの扉を開かれたのだということを忘れてしまうことが往々にしてあるんですね。
私たちは、苦しい時にはひたすら神を求めますが、うまくいくとあとは自分でやりたくなってしまうんです。
" あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。" (申命記 8:12-14)
私たちは、どのような時にも、心を尽くして主を覚え、主に信頼して歩むという、その姿勢を忘れてはいけないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" それから二年後、ファラオは夢を見た。彼はナイル川のほとりに立っていた。"
創世記 41章1節
ヨセフの夢の解き明かしが本当にその通りであったことを見た献酌官は、ヨセフから「私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」と言われていたにもかかわらず、すっかりそのことを忘れてしまいました。(40:23)
ヨセフは毎日神に祈っていたに違いありません。
ところが二年間、何の音沙汰もなかったのです。
しかもそこは牢獄の中でした。
" (主は)あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。" (申命記 8:16)
これはイスラエルの民が荒野に導かれて過ごした40年間のことです。
荒野の40年・・それは苦しみの中で信仰が試されるという、気が遠くなるような年月でした。
その中で、エジプトを出て、しかも約束の地に入ることができたのは、ヨシュアとカレブという二人のだけでした。
神はこの二人の信仰を見て、それを実現させてくださったのです。
この二人が、カナンの地を偵察して怖じ気づいている同胞に言い放ったことばが、民数記 14:7-9 に記されています。
それは、主は必ず良い地を与えられるということ。ただしその歩みの中で主に背くことのないようにするべきこと。
すでにこの地は自分たちに与えられている・・。だから恐れてはならない・・、というものでした。
たとえその時間が長くても、約束を信じ、主から離れず、恐れることなく信仰の道を大胆に進め・・、というのです。
たとえ現状が絶望的でも、主は必ず「ついにはあなたを幸せにする」というのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」"
創世記 40章14~15節
ヨセフは牢獄の中で、エジプト王ファラオの怒りに触れて投獄された献酌官と料理官長が見た夢の解き明かしをすことになります。
献酌官が見た夢は良い夢で、三日の後に再びもとの地位に戻されるというもので、料理官長が見た夢は、三日の後に死刑に処せられるというものでした。
果たしてそれは、その通りに実現します。(20-22節)
夢の解き明をした時に、ヨセフは献酌官にあることを願い出ました。それが今日の箇所です。
ヨセフは、これを機会に自由の身になれるかも知れないという一縷(いちる)の望みを抱いたのかも知れません。
ヨセフは奴隷に売られた時も、また投獄された時でさえも、特別な地位に就くという神の御手の働きを見てきたにもかからわず、この牢獄にはどうしてもいたくないと思ったわけです。しかしその結果は23節にある通りでした。
” ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。"
自分の思いで、人(献酌官や王)の力を用いて事を進めようとしたヨセフに、神はさらにヨセフに時間を科せられようです。それがこのあとの41章を見るとわかります。
それは確かに、神の御手によって進められたのだとしか言いようのない展開なのです。
ですから私たちは苦しみの中にいる時も、自分で扉を開こうとするのではなく、神の主権のもとで神は必ず良きことをしてくださるお方・・感謝しますと、堅い信仰をもって進んで行けば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【知恵と愛の神】・・です。
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God Bless You !
" あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」"
創世記 40章14~15節
ヨセフは牢獄の中で、エジプト王ファラオの怒りに触れて投獄された献酌官と料理官長が見た夢の解き明かしをすことになります。
献酌官が見た夢は良い夢で、三日の後に再びもとの地位に戻されるというもので、料理官長が見た夢は、三日の後に死刑に処せられるというものでした。
果たしてそれは、その通りに実現します。(20-22節)
夢の解き明をした時に、ヨセフは献酌官にあることを願い出ました。それが今日の箇所です。
ヨセフは、これを機会に自由の身になれるかも知れないという一縷(いちる)の望みを抱いたのかも知れません。
ヨセフは奴隷に売られた時も、また投獄された時でさえも、特別な地位に就くという神の御手の働きを見てきたにもかからわず、この牢獄にはどうしてもいたくないと思ったわけです。しかしその結果は23節にある通りでした。
” ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。"
自分の思いで、人(献酌官や王)の力を用いて事を進めようとしたヨセフに、神はさらにヨセフに時間を科せられようです。それがこのあとの41章を見るとわかります。
それは確かに、神の御手によって進められたのだとしか言いようのない展開なのです。
ですから私たちは苦しみの中にいる時も、自分で扉を開こうとするのではなく、神の主権のもとで神は必ず良きことをしてくださるお方・・感謝しますと、堅い信仰をもって進んで行けば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」 ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」"
創世記 40章8節
ヨセフは無実の罪で投獄されましたが、そこでも主はヨセフを祝福され、ヨセフは監獄で行われるすべてのことの管理を任されます。(39:21-23)
そんなときに、エジプト王ファラオの献酌官と料理官長がファラオを怒らせ、二人が投獄されてしまうという出来事が起きます。
そしてなんと王の侍従長は、同じ牢にいたヨセフを、この二人の付き人にしたのです。(1-4節)
ところがある晩、この二人がそれぞれ不思議な夢を見ます。
二人の顔色が優れないのでヨセフはどうしたのですかと尋ねます。(5-7節)
そのときの二人の答えが、今日の箇所です。
解き明かしは、神のなさることではありませんか・・。
神はヨセフがまだ若い時に、夢をもってまぼろしを示されています。
兄たちを示す畑の束(たば)が、自分の束を伏し拝んでいたとか、父母と十一人の兄弟を表わす星が、ヨセフを伏し拝んでいたとか・・。
それは神から与えられたまぼろしには違いありませんが、それを臆面もなく家族に話したことでヨセフは兄たちから恨まれ、エジプトに売り飛ばされてしまうのです。(37:7-10)
ところが今度は「夢を解き明かす」という賜物を用いることで、一介(いっかい)の奴隷がファラオの前に立つという奇跡が起きるのです。
結局ヨセフに与えられた神からの賜物を本当に発揮するのは、兄たちに奴隷として売り飛ばされるという悲しい出来事を通して、徹底的に心を低くされた、そのあとだったのです。
"主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。" (詩篇34:18)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。"
創世記 39章21~23節
ヨセフは監獄に入れられるのですが、そこでも主はともにいてくださって、ヨセフを祝福されました。
それは投獄される前の主人の家での出来事と全く同じです。
そしてそれは、このあとにエジプトの王と出会うときにも同じことが起きるのです。
実にヨセフは、このまったく異なる三つの場所で、すべてを任される人となったのです。
実はクリスチャンというのは、このような旧約聖書に登場する特別な人たちと同じ待遇をいただく者なんですね。
私たちが信じたイエス様というお方は、世の終わりまでいつもでもあなた方とともにいると言われるお方です。(マタイ28:20)
この方は、私たちがどのような境遇に置かれても、そこにともにいてくださるというのです。
富めるときにも貧しいときにも・・。
健やかなときにも病んでいるときにも・・。
ならば、主イエス様にいつも手を伸ばし、主を見上げて過ごそうではありませんか。
主はあなたを決して見放さず、見捨てないお方なのです。(申命記31;6)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。"
創世記 39章20節
奴隷となったヨセフは、その主人の全面的な信頼を得、すべての財産を任されるまでになりました。奴隷がその家の最高の地位に就いたのです。
しかしそこに、思いもしなかった誘惑がやってきます。
主人の妻が毎日のようにヨセフに言い寄ってきたのです。
そしてあるとき、家にはこの妻とヨセフ以外は誰もいないときに事件は起きます。
言い寄る妻がヨセフの上着をつかんで離さないので、ヨセフはそれを捨てて逃げ去るのですが、この妻はヨセフの上着を帰ってきた夫に見せて、なんと「ヨセフに襲われた」と訴えたのです。(11-18節)
それで、ヨセフは主人の激しい怒りを買い、一気に囚人という身分へと転落しました。それが今日の箇所です。
この主人は王の宮廷に仕える者でしたので、ヨセフを「王の囚人が監禁されている監獄」に入れることができたんですね。
そしてこのことが、ヨセフが王の前に立つというシナリオの最初のステップとなるのです。
私たちの目には、どう見ても悪いことのようにしか思えない・・。
しかし主は、そのようなことを通してご自身のご計画を成し遂げられるんですね。
その一番の型がイエス様の十字架の死です。
この死は、復活と全世界の人々の救いのために、どうしても必要なステップだったのです。
主を求める者にとっての最悪の事態・・そこには、主がおられるのです。
そして主は「そのことによって」良きことをされようとしておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。"
創世記 39章5節
ヨセフは奴隷として売られ、エジプト人の主人のものとなりますが、この主人は、主(神)が彼(ヨセフ)とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た・・これが前回の3節です。
それで主人はヨセフにその家の管理をさせ、全財産まで任せ切ります。(4節)
そうしたら主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家に関わるすべてのことを祝福されたというのです。
自分の全財産を任せるというのは、完全なる信頼です。
そしてその信頼は、ヨセフの神である主に対するものでした。
それで神である主は、この主人の財産のすべてを祝福されたというわけです。
次のようなみことばの約束があります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
家族の救いのための条件・・それは「主イエスを信じる」ことだというのです。
しかし「信じる」というのは、全財産を任せるほどの信頼を意味するんですね。
結局ここに表わされている祝福の秘訣・・それは「本当に主イエス・キリストを信頼する」ことだというわけです。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる・・というのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。"
創世記 39章2~3節
39章から再び、エジプトに奴隷として売られたヨセフの話に戻ります。
成功する者・・それは、やることなすこと確実に結果を出す者、というようなことなのでしょうか。
とにかくヨセフはそのことで特別に目立った存在だったようです。
それで「主人の家に住んだ」というのですから、奴隷としては異例の出世です。
そしてヨセフの主人は、「主が」ヨセフと共におられるのを見たというのです。
なぜヨセフの主人には、主がヨセフと共におられるということがわかったのでしょうか。
それは、ヨセフはその時点で、自分には今まで導いてこられ、共におられる神である主がおられるということを主人に話したからなのではないでしょうか。
そうでなかったら、主人はヨセフの能力を賞賛したことでしょう。
しかし主人が見たのは、ヨセフ自身ではなく、ヨセフを成功させてくださる主を見たというのです。
私たちは成功したとき、自分がやったのだと言ってその栄誉を自分に帰(き)そうとするのか、それとも神によるものだと言って神にその栄光を帰そうとする者になるのか・・どちらでしょうか。
ヨセフにはこのあと、とんでもない高い地位が与えられます。
それは今までの長い苦しみのあと、ただ主に栄光を帰すというという者にヨセフが変えられた結果なのではないでしょうか。
もしヨセフがこのことを自分の力であるかのように誇っていたら、ヨセフのその後の歩みは違うものとなっていたに違いありません。
主に栄光を帰すということ・・、それは自分の能力をはるかに超えた、神との歩みへの入り口となるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
GraceCafeたいむ・・しばらくアップされていないことに気付きました。
大変申し訳ありません。
バックナンバーはこちらからどうぞ。
http://ichiharablog.blog83.fc2.com/
今週は、【闇から差し込む光】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=7oca1G31hfE&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

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" 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。"
創世記 39章2~3節
39章から再び、エジプトに奴隷として売られたヨセフの話に戻ります。
成功する者・・それは、やることなすこと確実に結果を出す者、というようなことなのでしょうか。
とにかくヨセフはそのことで特別に目立った存在だったようです。
それで「主人の家に住んだ」というのですから、奴隷としては異例の出世です。
そしてヨセフの主人は、「主が」ヨセフと共におられるのを見たというのです。
なぜヨセフの主人には、主がヨセフと共におられるということがわかったのでしょうか。
それは、ヨセフはその時点で、自分には今まで導いてこられ、共におられる神である主がおられるということを主人に話したからなのではないでしょうか。
そうでなかったら、主人はヨセフの能力を賞賛したことでしょう。
しかし主人が見たのは、ヨセフ自身ではなく、ヨセフを成功させてくださる主を見たというのです。
私たちは成功したとき、自分がやったのだと言ってその栄誉を自分に帰(き)そうとするのか、それとも神によるものだと言って神にその栄光を帰そうとする者になるのか・・どちらでしょうか。
ヨセフにはこのあと、とんでもない高い地位が与えられます。
それは今までの長い苦しみのあと、ただ主に栄光を帰すというという者にヨセフが変えられた結果なのではないでしょうか。
もしヨセフがこのことを自分の力であるかのように誇っていたら、ヨセフのその後の歩みは違うものとなっていたに違いありません。
主に栄光を帰すということ・・、それは自分の能力をはるかに超えた、神との歩みへの入り口となるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこでユダは、カナン人で名をシュアという人の娘を見そめて妻にし、彼女のところに入った。"
創世記 38章2節
ヨセフがエジプトに売られた話の次に、ヨセフよりずっと上の兄であるユダの子孫についての話が38章として挿入されています。
ユダとは、エルサレム12部族のなかでも最も祝福される家系、すなわちダビデ王から、さらにメシヤが出るその家系です。
しかしその最初の人ユダはヤコブやイサクの意向に反して、異邦人であるカナン人の女を妻とするんですね。(2節)
ユダには三人の子、エル、オナン、シェラがいました。
このユダ長男エルは「主の前に悪しき者であった」という理由で、命を絶たれてしまいます。
この時妻であったタマルは未亡人になるわけですが、兄が子を残さずして死んだら、弟が兄の分を果たすというのが当時の風習であり、後のモーセの律法にもそのことが記されています。
しかし次男のオナンは弟の分を果たそうとしなかったことにより、神はこのオナンの命も絶たれてしまいます。
タマルは三男シェラによって子孫を残さなければならないということになるわけですが、この子はまだ幼く、成人するまでは、タマルは「やもめ」のままであることになります。
そこでタマルがしたことが、考えられないようなことでした。
タマルは遊女を装って、ユダによって子を儲けようとしたのです。
結局、タマルの思惑通りになり、このタマルによってユダの王の家系に載るユダの子ペレツが生まれるのです。
この38章には、どぎつい出来事が次から次へと具体的に記されています。
神の計画と人々の愚かさや罪深さが、ここでも同時に、対照的に出てくるというわけです。
すべては、神のあわれみと恵みでしかないことが、ここでも示されているんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" あのミディアン人たちは、エジプトでファラオの廷臣、侍従長ポティファルにヨセフを売った。"
創世記 37章36節
ヨセフを奴隷として買い上げてエジプトまで連れて行ったミディアン人は、彼をファラオの廷臣、侍従長ポティファルに売り渡します。
ヨセフは兄たちの仕打ちに、その心は打ちひしがれていたことでしょう。
しかも「空気を読まないヨセフ」でしたから最初は寝耳に水・・。
その内にだんだんと事情が分かってくる・・。
兄たちは自分を憎んでいたんだ・・。
自分がいることは望まれていなかったんだ・・。
でも自分は兄たちを憎んでいたわけではなかったのに・・。
そしてヨセフは、じわじわと自分の心の奥深くにナイフが刺さっていくのを感じていたに違いありません。
エジプトに着いたころ、ヨセフは死んだも同様の人になっていったことは、想像に難(かた)くありません。
しかしその後、主はヨセフを祝福し、間もなく彼は主人に信頼される最も高い地位に置かれるまでになるのですが、ここでもまた落とし穴がやってきます。
それでヨセフは今度は牢獄の人となり、さらに何もできない状況に置かれるのです。(39章)
これが主の訓練だとするならば(前回参照)、ヨセフの上にある主のご計画は、はよほど大きなものであるに違いありません。
しかしそのためには、自己中心で空気を読むことさえ知らなかったヨセフは、一旦完全に自分というものに死んでしまう必要があったようです。
" まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。" (ヨハネの福音書 12:24)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。"
創世記 37章35節
ヨセフの兄たちはヨセフを殺そうと企みますが、長男のルベンの反対によって、殺さずにヨセフを穴に放り込みます。(23-24節)
ところが、ルベンが何か他の用事をしている間、そこに「イシュマエル人の隊商」が通りかかり、四番目の兄ユダの提案により、彼らはヨセフをこの隊商に奴隷として売り渡してしまいます。
そしてヨセフが着てきた長服に雄やぎの血を浸して、それを父の元に送り届けます。
それで父ヤコブは、ヨセフが獣に食い殺されたのだと確信し、衣を引き裂き、何日もその子のために嘆き悲しみました。(31-34節)
そして言ったことばが、今日の箇所です。
イスラエルの名をいただき、最大の祝福をいただいたはずのヤコブの歩みは、希望を失い、生きる気力もなくすほどの所を通らされることとなったのです。
私たちの信仰生活の中でもそのようなことは、少なからずあるようです。
そこに主の守りの約束があるとは言っても、その時には苦しみでしかありません。
しかし聖書はこのように言っています。
" すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。" (ヘブル人への手紙12:11)
クリスチャンが受ける苦しみ・・、それは主の訓練だというのです。
今のこの苦しみの時を「私が信頼する主が、私を訓練されている」と・・、そのように受け止めるなら、その苦しみの質も変わってくるのかも知れません。
どのようなときにも、主への信仰は捨ててはならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやって来た。
さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」"
創世記 37章19~20節
ヨセフの兄たちは、シェケムで父の羊の群れを世話するために出かけて行きました。(12節)
父ヤコブはヨセフに、兄たちの様子を見て報告するようにと、ヨセフを兄たちのところに遣わします。
ヨセフはやっとの事で兄たちを捜し当てるのですが、遠くからそれに気付いた兄たちは、ヨセフを殺してしまおうと相談するのです。
そして言った言葉が、「あいつの夢がどうなるかを見ようではないか」でした。
兄たちにとっては不愉快極まりないヨセフに臨んだ夢でしたから、そんな夢は自分たちの手で打ち砕いてやろうとしたわけです。
しかしこの話の結末は、あのヨセフの夢がその通りであったということを、彼らが目の当たりにするというものです。(これ以降の創世記全部参照)
ヨセフの夢・・それは主から与えられた幻であり、後に必ず起きることでした。
私たちクリスチャンも、これから後に必ず起きることがみことばによって示され、それを信じる者です。
必ず起きること・・それは、後の終わりの時に起きること。
そしてもう一つは、今の私たちの歩みの中において「決してあなたを見放さず、見捨てない」(申命記31:6) という主の約束が見える事実として実現すること・・、それもその一つなのです。
主が語られたことは、目の前の状況がいかに不本意なものであったとしても、必ず成るのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。"
創世記 37章9節
兄たちはヨセフの最初の夢の話を聞いて、「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」と言いました。(8節)
まさにヨセフが見た夢は、そうとしか考えられないようなリアルな夢でした。
そしてその後ヨセフはさらに別の夢を見て、それを兄たちに告げた・・それが今日の箇所です。
太陽と月と十一の星・・それはまさに、父と母とヨセフを除いた十一人の兄弟を指すことは明白でした。
今度は父と母までが「私を伏し拝んでいた」と、ヨセフは言ったのです。
それでヨセフに対する兄たちの憎しみは、決定的なものとなります。
ヨセフは空気を読まない、末から二番目で一番可愛がられていた子に過ぎませんでしたが、主はそのヨセフを「選びの器」とされ、そのご計画を実現される・・、そのことがこのあと最後の50章まで、実に創世記の四分の一を費やして記されているのです。
しかしその初めは、ヨセフがこのあと非常な苦しみと悲しみの中に置かれるという出来事でした。
結論から言ってしまうと、主はとてもその役を果たすには相応しくないような者を選ばれ、その者を苦しみの中に放り込み、そうして整えられたその者を用いてみわざを成し遂げられる・・、これこそが主のなさり方バターンなんですね。
ヤコブもモーセも、そしてパウロも、みなそうです。
私たちクリスチャンも突然苦しみに襲われることがあります。
しかしそこには私たちが想像する以上に大きな意味があるのだということを、ここでは教えてくれているのではないでしょうか。
苦しみは、主から見放されたことのしるしではないのです。
信仰をもって、主を見上げ続けていきましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。"
創世記 37章5節
ヨセフが兄たちに嫌われるようになっていたところに、この夢の話が出てきます。
そしてこのことによって、兄たちはますます彼を憎むようになったというのです。
その夢とは、皆が畑で束を作っていたら、私(ヨセフ)の束が突然起き上がり、まっすぐに立ち、そして「兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだ」というものでした。(6-7節)
こんな話をそのまま兄たちに告げるなら、その関係がますます悪くなることくらい、ちょっと考えればわかりそうなものなのに、ヨセフは臆面もなく兄たちにその話をするのです。
もしヨセフがこの話を心の奥にしまっておけば、その関係はそれほど悪くはならなかったかも知れません。
しかしそうだとしたら、エジプトにおけるヨセフの奇跡的な出世と、ヤコブ一家のエジプトへの避難という話はあり得ないということが、このあとの話の展開からわかります。
ヨセフの浅はかさなくして、この話はあり得なかったんですね。
主はそのご計画を果たすためには、人の愚かさをも用いるというパターンがまた出てきました。
私たちは、神の前に、良い人であろうとしても、それはもともとかなわないこと・・それが神のストーリーの大前提なんですね。
そして、そんな愚かで罪深い私たちのすべてをカバーして、私たちに祝福をもたらす・・これが神様のなさり方、すなわち「恵み」なんです。
その一番大きなしるしが、あの御子イエス・キリストの十字架と復活なんですね。
神のなさることは、ただ「恵み」の一言に尽きるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。"
創世記 37章4節
ヨセフは兄たち、特に女奴隷が生んだ子たちを見下げ、彼らのことを悪し様に父に「チクって」いたような若者でした。
そんなヨセフを父ヤコブは溺愛し、彼だけを特別に扱っていました。
それは「彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。」という3節のことばからも分かります。
これだけでも、兄たちの嫉妬と憎しみを受ける条件としては十分です。
ヨセフは可愛がられていた方の立場ですから、兄たちからの逆風はそれほどには感じていなかったかも知れません。
自覚がなくて、気がついたら嫌われていた・・。
なんとなく、自分自身や、周りに起きることで、そういうことってあるような気がしませんか。
夫婦を始め、兄弟、親子、親戚、そして友達関係と、必ずこのような問題を見たり聞いたり、あるいは自分自身の問題として苦しんだりすることがあるわけです。
人間の弱さや罪深さ、あるいは狡猾さや、もっと行くと底意地の悪さ・・。
それらは、もともと人の中にある罪人の性質だと聖書は言っています。
そしてこのような人との関係の傷や苦み、怒りなどは、自分ではどうすることもできず、持て余してしまうのが私たちです。
クリスチャンであったとしても、そのようなことはいくらでもあります。
しかしクリスチャンの場合は、その解決を実はいただいているんですね。
それがあのイエス・キリストの十字架です。
私たちは、憎しみ、怒り、そして恐れ・・それらすべてを、自分の内に形作られた十字架の上に負ってしまうなら、そこに復活と新しいいのちを見るのです。
" まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。"
ヨハネの福音書 12章24節
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。"
創世記 37章2節
37章からは「ヤコブの歴史」としての記述が始まります。
ヨセフはヤコブの11番目の男の子で、ヤコブが一番愛したラケルによって授かった、12人の兄弟の中でも特別な存在でした。
3節には、“イスラエル(ヤコブ)は、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。” とあります。
そんな可愛がられていたヨセフでしたが、言い変えればわがまま放題に育った子だとも言えそうです。
ヨセフはまだ兄たちの「手伝い」で、父の妻ビルハの子らやジルバの子らとともにいたと書かれています。
ビルハはラケルの女奴隷、そしてジルパはレアの女奴隷です。
そしてその子たちはガド、アシェル、ダン、ナフタリという、5番目から8番目までの四人の子たちです。
ヨセフは「彼らの悪い噂を彼らの父に告げた」と書かれています。
ヨセフには、この四人の兄に対して「女奴隷の子」という、見下げた思いがあったのかもしれません。
このようなことは、私たちの日常にありがちなことのように思えますが、それが「ヤコブの歴史」の始まりとして書かれているのです。
結局このことが、主がなされる大きなみわざの発端になったのだということを暗示しているかのようです。
人の弱さや高慢さが様々な出来事を招く・・しかし主はそれらのことを通して、主のご計画を着実に進められていくという、ここでも「いつものパターン」を見て行くことになるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" イスラエルの子らを王が治める以前、エドムの地で王として治めた者は次のとおりである。"
創世記 36章31節
創世記に戻ります。
次の36章は、この一章をかけてヤコブの兄エサウの系図とその子孫のことが記されています。
エサウの一族はそれなりに大きな勢力を持つ民族となり、さらにエドムという王国にまで成長していったことが記されています。
そして今日の箇所の「イスラエルの子らを王が治める以前」というその時代は、ヤコブの時代から少なくとも500年後のことです。
ということは、この創世記はその500年後に書かれたということになります。
創世記から申命記までの五つの書はモーセによって書かれたとされています。
モーセに率いられて出エジプトをしたイスラエルの民は、約束の地カナンに入っていく際に、エドムの国を通らなければなりませんでした。
とのときエドムの王はそれを拒み、イスラエルに敵対して出てくるという出来事が、民数記には記されています。(民数記20章参照)
このエドムがヤコブの兄エサウの子孫なのです。
結局は約500年後の子孫の時代に及んでまで、ヤコブの父イサクが長男よりも弟のヤコブを祝福したそのことばがそのまま生きており、さらにその通りになっいく様子が、それ以降の旧約聖書には記されているのです。
神がその計画において用いられる年月は、私たちにとっては気の遠くなるようなスケールですが、しかし神のご計画は確実に成就されていくということを見させられているような気がします。
そしてそれは、今の私たちの時代においても言えること・・、神のご計画は5000年をかけて「始め」から「終わり」に向けて、着々と進められているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」"
ルカの福音書 23章35節
今日はイースター(復活祭)の前々日、イエス様が十字架にかかられた日に当たります。
十字架にかけられたのは午前9時。
それから三時間後、天は新しい時代に入るその区切りとして、全地を暗黒で包みました。
そしてそれまで神がご自身を現される場所であった神殿は、その聖所の幕が真っ二つに裂けることで、その役割の終わりを自ら告げます。(45節)
そしてイエス様は「完了した」と言われ、息を引き取られたのです。(ヨハネの福音書19:30)
神の子なる神イエス・キリストは、人の子として来られたというその役割においてはすべて完了し、あとは天の父の御手にゆだねられたのです。
そして父はこの方をよみがえらせ、イエス様は弟子たちにご自身を現されました。
イエス・キリストは十字架にかかられて死に、そして三日目によみがえる・・実にそのことのために、赤子として生まれ、この世に来られたのです。
しかし人々はイエス様の十字架の姿を見て、キリストなら自分のいのちくらい救えるだろうに・・程度のことしか考えることはできませんでした。
しかし、神は人の思いを遥かに高く超えたところで、次のことを実現されたのです。
それは、すべての人の罪のために父に向かって献げられたあがないの供えものとしての、御子キリストの十字架による死。
そして、よみがえられることによって、人々の内に永遠にいのちとして生きるその存在。
人はこの方イエス・キリストを信じて心に迎えることによって、完全なる罪の赦しと、永遠のいのちを賜るのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
次の日曜日はイースターです。(2023年4月9日)
ということは、イエス様が十字架にかかられたのは明日の金曜日、そして今日木曜日は「最後の晩餐(ばんさん)」の日です。
ということで、今日は創世記をちょっとお休みして、イエス様の受難週の最後の時を覚える日としたいと思います。
コリント人への手紙 第一11章23~25節
主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、同じように杯(さかずき)を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
イエス様はユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、十字架かかられて「死ぬ」のですが、実はこのことは初めからイエス様が何度も予告しておられたことでした。
しかも「死ぬ」だけで終わるのではなく、その後によみがえるのだということもはっきり、しかも何度も語られていたのです。
その捕らえられる日の夜にイエス様は十二人の弟子たちと最後の晩餐の時を持たれ、遺言に等しい大切な多くのことを弟子たちに話されました。
今日の箇所はそのひとつ、パンと杯の話です。
パン・・、それは私たちが受け取ることのできるイエス様ご自身を象徴するもので、それは私たちがすでにこの方をいただいて、内にお迎えしていることを覚えるためのことでした。
そして杯・・、それは、十字架で流されたイエス様の血が、私たちの罪のためのささげ物として流された血であることを覚えるため・・、すなわち、私たちの罪はこの血によって赦されていることをいつまでも覚えるために飲む杯でした。
これが現在の教会で行われている聖餐式(せいさんしき)です。
神の御子イエス・キリストは、私たちに赦しを与え、新しい永遠のいのちに生きる者となるため・・実にその目的のために、人の子のかたちを取ってこられたのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところに着いた。そこは、アブラハムとイサクがかつて寄留していたところである。"
創世記 35章27節
ヤコブはやっと父イサクのもとに帰ってきました。
ベテルで神の祝福の言葉を受けてからここに帰るまでには、ラケルがヤコブの十二人目の子ベニヤミンを産んで亡くなり葬られたこと(16-20節)、そしてもう一つは長男のルベンが父の側女(そばめ)ビルハと寝たことをイスラエル(ヤコブ)は聞いた(21.22節)・・という出来事などが記されています。
そして父イサクが死に、ヤコブは父を兄のエサウとともに葬ったというところで35章が終わります。
そしていよいよヤコブの世代、すなわちイスラエルの時代の始まりです。
しかしヤコブは大いなる祝福の約束をいただいた者ではありましたが、このあともその生涯は波乱に満ちていました。
ヤコブは最後には、エジプトの王に次ぐ権力者となった息子ヨセフの手でミイラとされて、祖父アブラハムとサラが葬られている墓地で盛大な葬儀が行われ、そこに葬られるのですが、そこに行き着くまでの生涯は辛いことの連続だったのです。
しかしその全ての出来事が、エジプトで栄えるイスラエル民族というところに繋がっているんですね。
私たちはこのあと、ヤコブの上に起きるとんでもない出来事の中に、神の御手があることを見ていくことになります。
私たちもこのことを通して、たとえ地上の生涯がどのようなものであったとしても、主が約束された祝福は永遠に変わらないことを、しっかりと覚えて歩んでいきたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」"
創世記 35章11~12節
ヤコブとその家族は問題が起きたシェケムを出て、ベテルに来ます。
それは、ヤコブが兄から逃れて旅に出たとき、神の使いがはしごを上り下りしている幻を見たという、その場所です。
ここで神は再びヤコブに現れて言われました。
・・あなたはもうヤコブとは呼ばれない、イスラエルがあなたの名となる・・と。
それに続いて神である主は、アブラハムに(12-22章)、そしてその子のイサクにされた(26章)のと同じ約束をヤコブにもされた・・、それが今日の箇所です。
主は三代にわたって同じ約束をされ、それが実に千年後にその通りに成就するのです。
神の約束がどれだけ確実で、あらかじめ定められたことであるかを、ここに見ることができます。
さて、私たちに約束されている天の御国・・、それは世の終わりの時を迎えて、そのあとにやってくるということが、聖書の随所に記されています。
それは三回どころの話しではありません。
旧約聖書の後半の預言書群にも、イエス様ご自身も、パウロを初めとする弟子たちも、さらに聖書の最後のヨハネの黙示録には、その時の様子がリアルに記されているのです。
聖書を手にしている私たちは、その約束をすでに知っているだということを、いつも覚えていたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)