FC2ブログ
FC2Blog | RSS1.0 | ログイン | 投稿 

ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

" ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。"
 使徒の働き 2章36~37節

 このときに人々が見たこと・・。それは大音響が聞こえてきてそこに行ってみたら、あのガリラヤの田舎者たちが近隣のあらゆる国のことばで神をほめたたえているという光景でした。
 それを人々はただ驚いて見ていましたが、それは朝から酔っ払っているのだと言う人たちもいました。

 それに対してペテロは聖書のヨエル書のことばを引用して、それは預言に語られているとおりのことが今あなた方の目の前で起きているのだと言って話し始めます。そしてさらに詩篇のことばを引いて、このイエスこそがまさにそのお方「キリスト」なのだということを解き明かして語ったのです。
 聖書のことばとの一致・・それはユダヤ人たちにとっては、他の何よりも説得力のあるものでした。

 ペテロは、ですからあなた方がしたのはこういうことなのだと、単刀直入に言い切ります。
 神が今や主ともキリストともされたこのイエスを・・「あなたがたは十字架につけたのです。」・・と。

 人々はこれを聞いて心を刺され・・とあります。
 それは、自分は神に敵対し、キリストなるお方を十字架にかけてしまうという、取り返しのつかないことをしてしまったのだということに気がついたということなんですね。

 そして人々は恐れ、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と、おじ惑うようにしてペテロに尋ねるのです。

 次回はその答えです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.05.07.Fri 09:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』"
 使徒の働き 2章33~35節

 ペテロの話はさらに、詩篇110篇1節(旧約聖書)のダビデのことばも引用して続きます。

 「主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」

 ダビデが言ったのは、主「父なる神」は、私の主「御子キリスト」に言われた・・そういうことなのだと。
 そして、その父は御子に「わたしの右の座に着いていなさい。」と言われ、わたしは「あなたの敵」すなわちサタンを完全に制圧させるから、その時まで「わたしの右の座に着いていなさい」と言われたと・・そういうことなのだと。

 イエス・キリストは天に上られ、再び来られ、人々を惑わし続けてきたサタンを「火と硫黄の燃える池」に投げ込み、サタンが支配する今の天地はその時点で終了する・・。
 これは黙示録に書かれていることですが、この詩篇のダビデのことばと完全に一致しています。

 ダビデが天に上ったのではない。ダビデは来たるべき救い主、よみがえって天に上られ、神の右の座に着かれる「イエス・キリスト」のことをこの時既に見て語っていたのだ・・というわけです。

 ペテロの初説教の時点で黙示録はまだ存在していませんが、聖書は新約から旧約まで、太い一本の線でつながっているんですね。

 そしてペテロのことばは、次の36節の決定的なことばで締めくくられます。

 それは明日のお楽しみ・・。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.05.06.Thu 09:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ダビデは、この方について次のように言っています。
『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
 あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』"
 使徒の働き 2章25~28節

 使徒たちと120人ほどの人たちが、大音響ととに聖霊を受けたとき、ペテロは大胆にイエス・キリストについての教えを宣べ始めました。
 この聖霊を受ける様子は聖書 (旧約聖書) に書いてあるではないか (ヨエル書2:28-32) ・・と。
 そしてペテロは続いて、イエス・キリストについてダビデはこう言っているということを、やはり聖書から引用して話を始めます。それが今日の箇所です。
 それは旧約聖書の詩篇16篇の8〜10節のことばでした。

 これはダビデが神である「主」のことを賛美して歌ったものですが、イスラエルの王であったダビデは神の預言者でもあったからこそ、千年後に降誕する「主」のことを、復活のことも含めて具体的に「よみに捨て置かれず、滅びをお見せにならない」と歌うことができたのだ・・とペテロは話を続けます。(30節)

 要するにこのペテロの説教は、イエス・キリストのことはとっくの昔に聖書の中に書かれていて、それを今あなた方は目にしているのですよ・・ということを言っていたわけです。

 ユダヤの人たちは、誰もが聖書のことについてはよく知っていましたから、その話は彼らの耳を釘付けにしました。

 さらにペテロの話は続きます。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.05.05.Wed 09:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

“『 〜 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』"
  使徒の働き 2章18~21節

 ペテロは大胆に語り始めました。
 ヨエル書には、すべての人に「わたしの霊」すなわち聖霊が注がれる日がやってくると書かれているが、それが今あなた方が目にしていることなのです・・と。

 このヨエル書にはそれに続いて「主の大いなる輝かしい日が来る前」のことが記されています。

 イエス様は、弟子たちが見ている前で天に上られました。その時に弟子たちに現れた御使いは「天に上げられたのをあなた方が見たのと同じ有様で、(イエス様は)またおいでになります。」と言いました。
 実は、イエス様は再び来られますが、そこには二つの出来事があることが、イエス様のお言葉や、パウロの書簡、黙示録などからわかります。

 一つ目は、イエス様が雲に乗って来られ、「キリストにあって死んだ者」をすべてよみがえらせ、その時生きている者と共に空中に引き上げるという「携挙(けいきょ)」と言われる出来事です。
 これが「弟子たちが見たのと同じ有様で来られるイエス・キリスト」で、もう一つは、終わりのさばきの時に来られるイエス・キリストです。
 この時のキリストの有様は、恐ろしいほどの威光を伴った「王の王、主の主」と言われる方で、「全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれる方」だと記されています。
 そしてそれは神の憤りが極みに達した時であると同時に「子羊の婚宴の用意ができた時」だというのです。(黙示録19章)

 これが最後のチャンスの瞬間です。

 主の御名(イエス・キリスト)を呼び求める者は「みな救われる」・・これが福音なんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.05.04.Tue 09:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。〜
 使徒の働き 2章16~18節

 ペテロをはじめ、120人ほどの人たちが祈っているところに、大きな響きが起こり、炎のような舌が分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまったかと思ったら、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他国のいろいろなことばで話し始めた。それがこの直前に書かれていることです。(2-4節)

 そこでペテロは「これは酔っ払いの集団ではない。この光景こそヨエルの書(旧約聖書)に書いてあることが今、あなた方の目の前で起こっているのです」・・と大胆に語り始めた。それが今日の箇所です。

「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ・・すると彼らは預言する。」

 預言とは、神から預かったことばのことです。
 そこにいた人々は、彼らが知りもしない外国のことばで、「神の大きなみわざ」をひとりひとりが語り始めた(11節)・・それは紛れもなく預言でした。

 これが「終わりの日」起こることだというのです。

 終わりの日・・それは救いの時、良き知らせが訪れるとき、すべての人々がそれを受け取れるようにその知らせが全世界に響き渡るとき・・なんですね。
 それが「今」というこの時まで、二千年続いているわけです。

 神はこの「今」を、「終わりの日」だと言われているのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.05.03.Mon 10:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 50.jpg


 ミュージシャンにもわかる聖書の話

 ・・死といのちの二択の中で、選ぶ権利が与えられている・・


 賛美歌「主とともに歩む」その3
 アップしました・・

 みなさまのお越しをお待ちしています。

 https://www.youtube.com/watch?v=VV24sP7LGuk

 
2021.05.01.Sat 09:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。"
 使徒の働き 2章12~16節

 大音響と共に聖霊を受けた人たちは、それぞれが自分が話せるはずのない外国語で神をほめたたえ始めました。それはまるで居酒屋のような騒ぎであったので、彼らは朝から酔っ払っているのだと思う人たちがいました。
 そこでペテロは十一人と共に立って声を張り上げて人々に語り始めました。

 あの「情けない男」であったはずのペテロの宣教の第一声です。
 
 ペテロはその時受けた聖霊によって確信したんですね。これは聖書のヨエル書にある預言のことばの成就なのだ・・と。(15-21節)

 聖霊は私たちの目を開いて、私たちの内に起こった新しいことを見させて下さいます。
 そして、それを確証してくれるのがみことばなんですね。
 書いてあるとおりでしょ・・と。

 人はイエス・キリストによって救われ、新しいいのちに歩む者となります。そしてそれが一体どういうことなのか・・
 それを丁寧に説明して確信を持たせてくれるのが「聖書」なんですね。

 聖書は神の霊感を受けた、神のことばなんです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2021.04.30.Fri 07:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。"
 使徒の働き 2章1~4節

 五旬節は過越の祭から50日目。よみがえられたイエス様が多くの人々にご自身を現されたのは40日間ですから、皆が祈っていたのは10日間ということになります。
 そこに大音響と共に炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった・・。

 祈っていた人々の上に最初に起こったことは、「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」ということでした。

 このことから聖霊という存在は、私たちの内に「満ちる」ものなのだということがまずわかります。
 そして聖霊は人々に「語らせ」たというのです。ということは、聖霊は人々の内に満ちて何かをさせる働きをするということです。
 そして彼らがしたそのことは「他国のいろいろなことばで話し始めた」ということでした。
 
 大きな物音を聞いて集まってきた人々の中には外国からきた者も大勢いました。そして彼らは「私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは」と言って驚いたと書かれています。(7節) 
 要するに、聖霊を受けた人々は、自分が知らない外国のことばで、しかも「神の大きなみわざ」を語ったのです。(11節)
 ここに聖霊がなされることの三番目があります。それは、その人の知識や経験や力によるものではない「神の力の表れ」がそこにあるのだということです。

 キリストの教会はこうして始まったんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.29.Thu 09:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。"
 使徒の働き 1章26節

 イエス様を天に見送った後、弟子たちはただ主を見上げるようにして礼拝をささげていました。
 その時、十二人いた使徒たちは、ユダの裏切りによって十一人となっていました。
 ペテロはそのことについて示されたのでしょう。使徒は十二人でなければいけない・・と。

 そこで彼らは、イエス様がヨハネからバプテスマを受けた最初の時から行動を共にしていた者から候補を二人立てました。
 しかしながらその二人のどちらがふさわしいのかは、主がお決めになることです。
 そこで彼らは主にゆだねる祈りをし、くじを引いたというわけです。

 十二にこだわる理由は、イスラエルの部族の数に由来します。
 黙示録21章に出てくる「天から下ってくる聖なる都、新しいエルサレム」の神殿の高い城壁には十二人の御使いがいて、東西南北に面する十二の門には十二部族の名が記されています。
 さらに驚くべきことに、城壁の十二の土台石には「子羊の十二使徒」の名が記されているというのです。すなわちイエス・キリストの十二使徒です。

 マッティアは、その十二の土台石の一つに名が記されることになったというわけです。

 これはヨハネが後に天からの啓示によって示されたこと(黙示録)ですから、マッティアはそれを知る由もありません。

 神はあなたが思ってもいない、大きな大切なみわざを託される方なんですね。
 神を愛し、神を慕い、神に仕えたいという思いは、あなたの想像をはるかに超えた、栄えある務めにつながっているのです。

 神が自分をどのように用いようとしておられるのか・・。
 それは今わからなくても、神に尋ね求めていくべきことなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.28.Wed 09:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。"
 使徒の働き 1章12~14節

 イエス様が目の前で天にのぼられ、そして天使が現れ、イエス様は同じ有様で再び来られると告げられた彼ら・・。
 そして近くの宿まで戻って「屋上の部屋」に上がったその時の彼らの祈りとは、どんなものだったのでしょうか。

 おそらく神への畏れの中で、ただその前にひれ伏すのみだったのではないでしょうか。
 どんなことばもふさわしいことばが見つからない・・。
 それは互いに何か話をするなどという空気とはほど遠い、ただ主を見つめるしかない、そんな礼拝の時間がずっと続いたのではないでしょうか。

 この圧倒的な礼拝が十日間続けられたとき、ものすごい大音響と共に、聖霊が炎のようにひとりひとりの上に臨んだのです。

 〜 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで 〜 (8節)
 
 その時彼らは「イエス・キリストの証人」となっていたのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.27.Tue 07:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
 使徒の働き 1章9~11節

 今地上で見ていたイエス様が雲の高さまで上がって行かれた・・。そして雲がイエス様を包んで、もう見えなくなったというのです。
 ですから使徒たちは空を見上げていました。そして、そこから目が離せないでいたんですね。「見つめていた」のです。
 そこに天使が二人現れて言いました。どうして天を見上げて立っているのか・・。
 
 それは、「さあ心を切り替えなさい。今はもう、天を見上げて立っているときではなくて、同じ有様で再び来られるイエス様を待つという、新しい段階に世界が切り替わったのです」ということでした。

 イエス様は、ご自分に属する者 (クリスチャン) を再び「雲に乗って」迎えに来られるというのです。そのとき既に死んだ者たちはよみがえり、その時生きている人と共に天に引き上げられるのだと。

 イエス様がよみがえられて天にのぼられたというこの出来事は、そのことを保証するものでもあったんですね。

" 神に向かって歌い御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主。その御前で喜び躍れ。" (詩篇68:4)

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.26.Mon 11:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #49


 わたしが来たのは〜罪びとを招くためです。(イエス・キリスト) ・・究極のパラドックスの世界です。

 GraceCafeたいむ #49 【招かれている人】

 賛美歌「主とともに歩む」その2 アップしました・・

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://www.youtube.com/watch?v=ko6N8uWmJEA
 
 
2021.04.24.Sat 08:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。"
 使徒の働き 1章6~7節

 使徒たちが一緒に集まったときにイエス様に尋ねた・・ということは、それが彼らの一番の関心事だったということがわかります。

 主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。・・

 イエス様に「父の約束を待っていなさい」と言われた彼らの思いは、これでイスラエルの国がローマから開放されて、名実ともに神の国となる・・という期待でした。
 しかしイエス様のお答えは、「あなたがたは聖霊を受け、そして地の果てまで、わたしの証人になる」という、彼らの期待にはつながりようのない内容でした。
 
 神のご計画とは、常に私たちの想像力や限界をはるかに超えたものなんですね。

 ですからそれが聖書にはっきり書いてあっても、弟子たちも私たちも、それを受け止めるのはとても難しいことなのです。

「聖霊があなた方に臨むとき、あなたがたは力を受け、〜 さらに地の果てまで、わたしの証人となります」・・

 それは聖霊というお方が、私たちの限界のある理解力を越えて、私たちの目を開かせ、見えないことを示して下さるお方だということなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.23.Fri 10:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。
 〜 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
 使徒の働き 1章4-5節、8節

 これはイエス様が天に上られるまさにその時に、弟子たちに言われたことです。

 それは、あなたがたはまもなく「聖霊によるバプテスマ」を授かるから、エルサレムを離れないでそれを待っていなさい(4節) ということでした。
 水によるバプテスマ(洗礼) では水に浸(ひた)ります。ですから聖霊のバプテスマというのは「聖霊に浸る」ということです。

 その時にあなた方は力を受ける。そして「わたしの証人」すなわち「イエス・キリストを宣べ伝える人」になり、それはエルサレムから発し、地の果てに至るすべての人にまで伝わって行くというのです。

 伝道する力は神から来るということです。

 イエス・キリストのことが人に伝わる・・それは単なる宣伝活動や努力によって実現するという、営業的なものとはまったく別物です。
 ですからそのために祈りが必要なんですね。
 彼らが聖霊のバプテスマを授かった時、彼らは祈っていました。

 聖霊の働きがなかったら、神に背を向ける人々が神の方に振り返り、信じてみよう思う・・その様なことは起こり得ないのです。

 これからしばらくの間、この聖霊の働きをご一緒に見て行きましょう。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.22.Thu 08:06 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。
 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。"
 使徒の働き 1章1~2節

 今日から、ルカの福音書に続き、「使徒の働き」に入ろうと思います。
 この「使徒の働き」もルカによって書かれたもので、ルカの福音書の続編でもあることが、両方とも「テオフィロ」という身分の高いと思われる個人に宛てて書れていることから分かります。

 書物の名は「使徒の働き」となっていますが、実際に出てくる「使徒」はペテロとパウロを中心とした人たちで、実際には少なくとも12使徒がいたわけですから、ほかにも後世に伝えられていない、多くの働きがあったはずです。
 実はこの書物は、誰がどのような働きをしたかということよりも、聖霊がどのように働かれたのかということを書こうとしているんですね。

 ルカが書いたこの二つの書物が聖書の中の他の書物と異なるところ・・、それはひとりの人物のために書かれたという点です。
 しかしそれらが聖書66巻の中の二つの書物として加えられ、全世界の、そして2000年の歴史の中の数え切れない人々に読まれることとなったんですね。

 私たちクリスチャンは、イエス・キリストについて証言をするように神から召された者たちです。そして、たとえその証言相手が「ひとりの人」であっても、神様がそれを用いられると、とんでもない大きな働きにつながる・・、このルカの書物はそれを私たちに示してくれているのではないでしょうか。

 これからしばらくの間、聖霊がされたみわざについてご一緒に見て行きましょう。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.21.Wed 07:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
 いつも宮にいて神をほめたたえていた。"
 ルカの福音書 24章52~53節

 弟子たちが天に上げられて行くイエス様を礼拝した・・、その後の話です。

 弟子たちは、自分たちを捕らえようとしている者がいるのではないかと恐れて部屋に鍵をかけて集まっていたのですが、よみがえられたイエス様に導かれてガリラヤに戻るなど、外に出て行くようになり、そこでもイエス様にお会いし、そして最後にはオリーブ山の麓のベタニアでイエス様を天に見送ります。

 自分の身を守ることと恐れで一杯になっていた彼らは、今や大きな喜びとともにエルサレムに帰りました。
 宮にいて・・それは多くの人々の前でということです。そして人々が「神を礼拝する」その場所で、イエスの弟子として喜んで堂々と、神を礼拝する者となっていたのです。

 彼らの態勢は整いました。

 その十日後です・・。約束の助け主、聖霊が激しく彼らに下り、彼らはイエスとはどういうお方なのかということをはっきり証言するようになったのです。

 彼らの喜び・・それは「私たちは礼拝すべきお方を確信できた」という喜びだったんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.20.Tue 09:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。"
 ルカの福音書 24章50~51節

 キリストは、地上に人の子の形をとって来られ、その目的を果たされた後、初めからおられた「神の右の座」に帰られました。

 イエス様ご自身、ご自分がそのキリストであることを、祭司長カヤパの尋問を受けた時にはっきりおっしゃっています。

" だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」" (ルカ22:69)

 さらにイエス様はご自身についてはっきりと証言されています。

" 彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」" (ルカ22:70)

 イエス様は「神の子である神」であることを自ら証言され、そして弟子たちの見ている前で天にのぼられたのです。
 イエス様はここまで丁寧に、ご自身がどういう方であるかということを最後まで弟子たちに見せて示されたんですね。

 さらにそれは、イエス・キリストを信じる私たちも、同じようにして神のみもとに帰るということを、これ以上ないというほどにはっきりした形で、それを示し、その約束が本当であることを見せて下さったのです。

 イエス・キリストは再び来られ、そのときには、私たちをイエス様と同じようにしてよみがえらせ、天に引き上げてご自身のもとに迎えてくださる・・これが聖書に書かれている約束なのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.19.Mon 08:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #48


 ミュージシャンにもわかる聖書の話 GraceCafeたいむ #48

 【真の楽しさ 】 〜 世とは真逆の世界がここにある 〜

 賛美歌「主とともに歩む」その1 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

 https://www.youtube.com/watch?v=6W6xs3nHrhk
 
 
2021.04.17.Sat 08:53 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」"
 ルカの福音書 24章49節

 この「高きところから着せられる力」について、ヨハネがかなり詳しく福音書で書いています。

" そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。” (14章16節)
・・ここでは「高きところから着せられる力」のことを「助け主」と言っています。そして父は、その助け主がいつまでもともにおられるようにしてくださるというのです。

" しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。" (14章26節)
 ・・この助け主とは聖霊のことであり、その聖霊があなたの心の目を開いてすべてのことを教え、以前にイエス様が話しても全然ピンとこなかったことの意味もはっきり分かるようになる、というのです。さらに・・

”わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。" (15章26節)
 ・・聖霊はイエス様が父のところから遣わすのであり、そこで分かることの核心は、イエス・キリストがどういうお方なのかということだというのです。

 彼らが都にとどまって祈りはじめ、その助け主が天から突然激しい力を伴って来られたのが、その十日後でした。
 この時から弟子たちは、イエス・キリストについて大胆に語り始めるんですね。

 イエス様は言われています。「聖霊を求めなさい」と。(ルカ11:13)
 だったら私たちも熱心に求めようではありませんか。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.16.Fri 10:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
 エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。"
 ルカの福音書 24章45~48節

 イエス様はよみがえられた後に、改めて弟子たちに教えのことばを述べられました。
 そしてこのことを話されたのは、彼らに「聖書を悟らせるため」だというのです。
 彼らは聖書が本当はどんなものなのか、まだ「悟っていなかった」んですね。

 聖書にはキリストのことが書かれていて、そこに書かれていることはすべて実現しなければならないということ。さらに、今聖書を手にするあなたがそこに書かれていることの担い手となるのだ・・ということをイエス様は話されたわけです。(44-48節)

 実は彼らは、聖書に対して心を開いていなかった・・。
 その彼らの心を「イエス様が開いて」と、ここには書いてあるわけです。

 聖書がまだ、あまりに大きな存在で、自分でそれを受け取れるような気がしないという方は多くおられるのではないでしょうか。
 聖書に心を開くこと・・ひょっとしたら、それがあなたにとって必要なことなのかもしれません。
 しかし心を開くというのは、イエス様がしてくださることなのだと、ここには書いてあるわけです。
 だったらそれをしてくださる方に願いましょう。

「主よ。わたしが聖書に心を開き、大きく口を開けて、あなたのみことばを受け取れるようにして下さい」と。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.15.Thu 05:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」"
 ルカの福音書 24章44節

 鍵のかかった部屋にいたところにイエス様が現れて、ただただ驚いている弟子たちに話を始められます。
 モーセと律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりませんと、わたしはあなた方に常々話していたでしょう・・と。 

 モーセの律法と預言者たちの書と詩篇とは旧約聖書のことです。
 その聖書にはやがて来られるキリストについてのことが書かれていて、今がまさにその第一幕が開けて、それが目の前に起こっているのだというわけです。

 この後、世界中にイエス・キリストが宣べ伝えられていく時代が来ます。
 イエス様はこの後天に上られ、神の右の座に着かれますが、もう一度来られるということが聖書には書かれています。

 イエス様はそれもこれもすべてが「成就しなければなりません」と言われたのです。

 それは、これらのことがすべて神の計画の中にあり、すのすべては神の権威のもとで確実に進められていくのだという意味です。

 なぜか、いつの世にも戦争はなくならず、悲惨なことは起こり続けています。しかしその中で神は、人が神に立ち返る機会を与えられている・・。

 これが創造主なるお方がなされることで、私たちが口を挟む領域のことではないんですね。

 すべては創造主の権威の中で進められる・・。
 そう考えた時「すべて成就しなければなりません」というイエス様のことばはいきなり権威を帯びた響きとなって私たちに迫ってくるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.14.Wed 09:03 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」"
 ルカの福音書 24章36~39節

 ヨハネによれば、皆が集まっているこの部屋の扉にはいつも鍵がかけられていました。そこにイエス様が突然「真ん中に立たれた」んですね。
 幽霊だと思っても仕方がないかもしれません。でもイエス様は「どうして心に疑いを抱くのですか」と言われ、ご自分のからだを弟子たちに見せ、さわらせ、さらに魚を食べられたというのです。(43節)

 イエス様のからだには、確かに骨や肉がありました。ですが同時に、鍵のかかった部屋に突然入ってこられたり、パウロによれば、500人の弟子たちに同時に現れるというようなお方でした。(第一コリント15:6)

 イエス様は「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(第一コリント15:20)

・・そのことの意味は、私たちが与えられる復活のからだをイエス様が先頭を切って「初穂」として見せて下さったということです。
 そしてそのイエス様は、弟子たちが見ている前で天に上げられました。(51節)
 さらにそのイエス様は再び私たちを迎えに来られ、その時には私たちを空中に引き上げられるというのです。(第一テサロニケ4:17)

 ですからイエス様は、死からの復活と同時に「天に上っていつまでも主とともにいる」というところまでも含め、その「初穂」となられ、私たちに見せてくださったということなんですね。

 なんだかわくわくしてきます。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.13.Tue 10:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」"
 ルカの福音書 24章30~32節

 暗い顔をしてエマオへ向かう二人の弟子たちにイエス様が現れるのですが、彼らはそれがイエス様だとは気がつかないでいます。しかし彼らは「その人」の話をもっと聞きたかったので、無理に一緒に泊まるように勧めます。

 そして彼らが食卓に着くと・・。これが今日の箇所です。

 イエス様がパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された・・。それはまさにあの最後の晩餐でのシーンそのままです。

 イエス様が裂かれたパン・・。最後の晩餐の時にイエス様は「とって食べなさい。これはわたしのからだです」と言われ、十一人の弟子たちに渡され、弟子たちはそれを食べました。
 そして、ぶどう酒の杯も渡され、「多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われ、弟子たちはそれを飲みました。
 教会で執り行われる聖餐式は、イエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われたそのおことばに従って、二千年を経た今も行っていることなんですね。

 イエス様がパンを取って神をほめたたえ、それを裂かれて、弟子たちに渡した・・その時に彼らの「目が開かれ」イエス様だと分かったのですが、その途端にイエス様の姿は見えなくなりました。
 そして彼らは思い起こします。イエス様が聖書の話をしておられた時、「私たちの心は内で燃えていた」と。
 
 私たちもこの聖餐式でパンをいただくたびに、私たちの心を燃やしてくださるイエス・キリストの存在を、目には見えなくとも確信し、ともに歩む力をいただくんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.12.Mon 10:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 #47

 【キリストの復活がどうして望みにつながるのか? 】

 ・・それは、私たちの死が復活につながるしるしだから。

 賛美歌「よみがえられた主に仕えて」その2 アップしました・・

 https://www.youtube.com/watch?v=MtYH57MHQCw
 
 
2021.04.09.Fri 21:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。"
 ルカの福音書 24章25~27節

 二人の弟子は、近づいて来たその人が、よみがえられたイエス様だとは気付かず、自分たちの心境をその人に話します。そこでイエス様は彼らに・・
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るんじゃなかったの?」と言われたわけです。

 弟子たちはその話をすでに、イエス様ご自身からしっかりと聞かされていたはずなんです。
 そこでイエス様は改めて「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」というのです。

 優しいお方ですよね。

 キリストについて・・それは旧約聖書全体を通して300箇所以上にわたって相当はっきりと語られているんですね。

 キリストが世に来られることと、そして再び来られること、その目的・・、聖書にはそのすべてが書かれているのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.09.Fri 09:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。
 そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。
 彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。
 そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」"
 ルカの福音書 24章21~24節

 彼らのこのことばを聞いていると、明らかに彼らは落胆していると同時に、理解のできない出来事が起こっていて、それをどう解釈したら良いのか分からないといった様子です。
 彼らは近付いて話しかけられるイエス様に対し、「暗い顔をして立ち止まった」とあります。

 完全に落胆してしまっていたのです。
 そこに不思議な話が飛び込んできても、それは彼らにとって明るいニュースとはなりませんでした。このとき、彼らの目はまだ開かれていません。

 その彼らにイエス様は話を始められたのです。

 そしてイエス様がパンを裂かれるのを見た時にやっと彼らの目は開かれ、目の前におられるのがイエス様だと分かったというのです。

 目が開かれていない彼らにイエス様が近づいてこられて話しかけられたように、なんのことだかさっぱりわからない人に、聖書のことばは語りかけているんですね。

 是非その言葉に耳を傾け続けてください。

 突然、そこにおられるのがイエス様だと「見える時」が、あなたのために用意されているのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.08.Thu 09:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

  " ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。"
 ルカの福音書 24章13~16節

 イエス様は復活されたあと、弟子たちやイエス様に付き従っていた女性たちにご自身を現されるのですが、彼らはそれがイエス様であることが分からなかったという記事がいくつもあります。

 三年半も毎日一緒にいたなら、思わぬところで出会ってもそれがイエス様だと気付かないというのは、ちょっと理解に苦しむのですが、このエマオに向かう二人の弟子もイエス様とさんざん会話をし、イエス様は彼らに聖書の解き明かしまでされているのに、それでも気付かず、無理矢理一緒の宿に泊まるように「その人」に勧め、そして食卓でイエス様がパンをとって神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されたその時・・やっと彼らの「目が開かれイエスだと分かった」・・。そしてその途端にその姿は見えなくなったというのです。

 イエス様が復活された後は、人々は単に肉体の目で見るだけでは、それがイエス様だとはわからなかったようです。彼らは「目が開かれる」必要があったんですね。

 私たちが神に目を向けたり、主を見たり、信仰を持ったりする・・、それらのことって、すべて神からのものなんですね。
 私たちから発したことではなく、神「が」私たちの目を開かせ、話しかけられ、触れて下さるのです。
 それは神のあわれみ、神の方から与えて下さる神からのプレゼントなんです。

 イエス様はあなたが一人で歩んでいるその時、あなたに近づいてこられ、しかもともに歩き始めて下さるるお方なんですね。

 いま、これを読んでいるあなたに・・。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.07.Wed 03:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。 "
 ルカの福音書 24章11~12節

 天使が現れて、イエス様はもう墓にはおられないという女性たちの報告を聞いて、墓に走って行ったペテロ・・。

 人々の前で主を否んでしまったペテロは、ただ建物の中に隠れているしかありませんでした。
 ペテロにとってイエス様の死は、既に取り返しの付かない、動かしがたい事実でした。
 ですから彼女たちのイエス様はよみがえられたという証言は、ペテロにとっては予想もしていなかったものでした。

 落胆し、自信を失い、希望を失い、この先についてのビジョンを失っていたペテロが、気がついたらそちらに向かって走っていたんですね。
 彼は疑いつつ歩いて行ったのではなく、何かに突き動かされるようにして走って行ったのです。
 ペテロが見たのは空の墓と、遺体を包んでいたはずの亜麻布だけでしたが、それはイエス様のよみがえりを示す驚きの光景でした。
 
 ペテロの心に再び灯がともったんですね。
 それは説明のできない漠然とした希望でしたが、その希望にはその先があることだけは分かったのではないでしょうか。

 福音・・そこには光があります。
 しかしそんなはずはないと、「たわごと」として扱う私たちのこの「常識の世界」に、実はとんでもなく大きな真理が隠されているんですね。

 私たちに語られる神からのことば、「イエス・キリストはよみがえられ、天にのぼり、今も生きておられる救い主なる神」・・この情報に心の目を向けるとき、あなたは走り出すかもしれません。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.07.Wed 03:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
 彼女たちはイエスのことばを思い出した。"
 ルカの福音書 24章5~8節

 よみがえりのところは、このルカの福音書を見ていきたいと思います。

 日曜日、マグダラのマリアほかの女性たちは、夜の開けるのを待ちかねるようにして、香料を持って墓に来ました。
 その時既に、一人や二人ではとても動かすことのできない墓を塞いでいた石が転がされ、「まばゆいばかりの衣を着た人が二人」近くに来たと記されています。
 彼女たちの前に神の御使いが現れたのです。

 そしてその御使いは言いました。
「どうして生きている方を死人の中に探すのですか」と。
 そしてはっきり言ったのです。「ここにはおられません」と。「よみがえられたのです」と。
「イエス様は何度も言っておられたでしょう・・。十字架で死なれ、三日目によみがえるということを」・・と。

 彼女たちは、イエスの言葉を思い出した・・と書かれています。
 少し前まで、彼女たちは香料をもって墓に来て、既に死んでしまった「あの方」のためにできるだけのことをしたいという・・それ以上のことは何も考えていない人たちでした。
 しかしこの瞬間から、彼女たちは既に思いもしなかった世界の中に自分たちがいることを悟ったんですね。

 見る方向が違っていた・・。彼女たちはそのことに気付かされたのです。

 生ける神・・その方に目を向けるなら、既にあなたは今までとは全く違う、神の光の世界の中に一歩足を踏み入れることになるんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.04.05.Mon 09:06 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」"
 マタイの福音書 28章8~10節

 日曜日の早朝。イエス様の復活。

 墓を見に行ったマリアたちに御使いが現れます。
「イエス様は・・ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」

 前から言っておられたとおり・・。

 弟子たちに知らせに走る女たちにイエス様は現れ、声をかけられます。
 女たちはイエス様に近寄りました。そして「足を抱き」とあります。それはイエス様が実際に抱くことのできる身体をお持ちになっていることを示しています。

 聖書は、人の形をとって来られた神の御子が、その肉において本当に死なれ、そしてよみがえられたことをはっきり証言するものです。
 この出来事が示した最も重要なこと・・それは、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリント15:20) とあるとおり、私たちもその「初穂」に続く者として、死の後、よみがえりのからだがイエス・キリストによって与えられるということが、ここで示されたということなんですね。

 いよいよこれからが、イエス様が弟子たちに常々言っておられたことの本番なのです。

 今日から「よみがえられた主」シリーズを始めます。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.04.Sun 09:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
 #46
 
 GraceCafeたいむ #46 「死からのよみがえり」

 ・・キリストの復活が絵空事なら、これ以上にむなしい話はない・・

  キリストの復活は死んだ私たちも復活することの保証であり、キリストご自身がその力なのです。

  賛美歌「よみがえられた主に仕えて」から、その1 アップしました・・

 https://www.youtube.com/watch?v=5yEyQjPQtjU
 
 
2021.04.03.Sat 15:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。
「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
 ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」
 そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。"
 マタイの福音書 27章62~66節

 祭司長たちは策略の通り、イエス様を十字架につけることに成功しました。
 しかしもし、弟子たちが遺体を盗み出し、キリストはよみがえったと吹聴するなら、自分たちは誤ったことをしたということになり、困った立場に置かれてしまいます。
 それで彼らは、兵士たちを墓の番のために出動させるようにピラトを説得し、それにも成功しました。

 ところが、キリストは本当によみがえられ、その話はユダや中に広まっていったわけです。
 結局彼らはその後も、その新しい「教え」を取り締まるしかありませんでした。
 その筆頭となって破壊的な行動に出たのがパウロだったんですね。ところが、イエス様はパウロに直接現れて、パウロはイエス様の使徒としてガラッと変えられてしまうんです。

 自分を守ろうとする人の知恵や策略は何の役にも立たないんですね。
 人は自分を守ろうとして、嘘に嘘を重ね、その嘘の奴隷になってしまう・・これが罪びとの行き先です。

 しかし、キリストにある者は、もう嘘をつく必要はなくなるんです。
 自分が罪びとであることを隠す必要がなくなるんです。

 その罪のためにキリストは十字架にかかられて、あがないとなってくださったので、それを信じる私たちはすべての罪が赦された者となるんです。

 ですからもう、自分を守る必要はなくなるんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)  
 
 
2021.04.03.Sat 08:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。"
 マタイの福音書 27章50~51節

 今日の金曜日、正午から暗闇が続き、そして午後三時、イエス様は再び大声で叫んで霊を渡されたました。
 イエス様は夕方の6時までに、金持ちのアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されます。そして翌々日の日曜日・・明後日の朝が復活の朝です。
 ですので、明日と明後日も配信を続けようと思います。

 イエス様が「霊を渡された」とき、実にいろいろなことが起きたことが記されていますが、最も大きな出来事は「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということではないでしょうか。

 神殿の幕は聖所と至聖所を仕切る幕で、高さ20メートルほど、そして幕は厚さが10センチほどあったと言われています。
 その幕は、聖所と至聖所を仕切る幕で、馬につないで両方に引っ張っても決して破れることはないほどのものでした。それが上から下まで真っ二つに裂けたというのです。

 至聖所は大祭司しか入れない最も神聖な場所で、大祭司はそこで神と民とのとりなしをするわけです。人々は大祭司なしには、神との関係を持つことはできなかったんですね。

 その聖なる場所を仕切る神殿の幕が「上から下まで」裂けた・・。

 それは神殿の至聖所の意味がその時点で終わり、まことの大祭司イエス・キリストという方によって、人々と神との関係が成立するという新しい時代に突入したことを表しているわけです。
 しかもそれはユダヤ人だけではなく、全世界の地の果てに至る民にまで、その救いの扉が開かれたというのです。
 
 まさに「新約の時代」の幕開けです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.02.Fri 06:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。"
 マタイの福音書 27章45~46節

 金曜日、正午から午後三時まで「闇が全地を覆った」と書いてあります。

 それは、光なるキリストが一旦地上から消え去ることを象徴しているようでした。
 イエス様ご自身のことばは・・
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。

 本当に父は、御子をお見捨てになったのでしょうか。
 このことは父と御子とでの、初めからの計画であったはずです。
 だったら、なぜイエス様はそんなことを叫ばなければならなかったのでしょうか。

 神がよみに下るなどということは、あり得ないことです。
 しかし、それこそが必要なことだったんですね。
 人の形をとって、本当に人が行くべき「よみ」にご自身が行く・・、それこそが、イエス様の使命だったわけです。
 御子イエス様は、一旦父から切り離されなければならなかったのです。

 よみがえりとは、ここからのよみがえりなんですね。
 神から切り離されて死んでしまっている者が、よみがえって再び父の元に帰るにふさわしいからだを与えられる・・イエス・キリストはその最初の人となったのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」・・それは神から切り離された人が行くところへ、イエス様ご自身がまず行かれることの宣言だったんですね。

 人を死の底から救い出すことのできるお方は、イエス・キリストをおいて、他にはいないのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.04.01.Thu 07:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。"
 マタイの福音書 27章39~44節

 金曜日の昼前。この光景はイザヤ書に、まるでこの時の解説のようにして書かれている箇所があります。このイザヤ書は、その時から700年も前に書かれたものです。53章3-4節・・

" 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。"

 人々はイエス様の十字架の姿を見て、「この人はやはり罰を受けるような者だったんだ」と思ったというわけです。ところが・・と、イザヤ書は続けます。5節・・

"しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎(とが)のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。"

 人々は、聖書のことはよく知っていました。祭司たちはその筆頭であるべき人たちだったのですが、まさか自分の目の前で起こっている出来事が、聖書の預言のまさにその成就の瞬間であるとは、思いもしなかったんですね。

 彼らの目は「塞がれていた」のです。

 キリストの十字架は、わたしたちのためのものなんです。
 あれは「私たちの咎(とが)のために砕かれた」、その姿なんです。
 そして「その打ち傷のゆえに私たちはいやされる」のです。

 それは、イエス・キリストが私たちのすべてとなってくださるお方だからです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.31.Wed 09:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。"
 マタイの福音書 27章35~37節

 金曜日午前9時。
 福音書の四人の記者たちは、イエス様が釘付けにされるその時の様子を、だれ一人として言葉にしていません。

 囚人が着ていたものを分けるのは兵士たちの特権で、そのこと自体は特別なことではありませんでした。しかし詩篇22篇18節には、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。」とあります。
 これはダビデ王が苦難の時の苦しみをうたったものですが、この22篇は「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」という所から始まっています。
 これは実に、イエス様が最後に息を引き取られる時に言われた言葉なんですね。

 そしてこの22篇の最後には・・
 子孫たちは主に仕え 主のことが 世代を越えて語り告げられます。
 彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。
 ・・となっています。

 子孫たち、それはキリストの時代から今に至るまで、キリストによって新しくされた者たちのことで、彼らは「主が義を行われたこと」すなわち、主の愛の故になされた十字架と復活のみわざを「生まれてくる民に告げ知らせる」というのです。
 詩篇22編はキリストと、その救いの福音が全世界に広がることについての預言なんですね。

 そして総督ピラトが書かせた罪状書き、それは思い通りに行かなかったピラトのせめてもの抵抗でしたが、その思惑がどうであろうと、イエスがキリストであるとの宣言が十字架の上に、人々に見えるように、世界中に告げ知らせるように掲げられたのです。

 すべては神の御計画の中にあるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.30.Tue 07:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。
 イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。"
 マタイの福音書 27章32~34節

 金曜日、午前8時前後。いよいよゴルゴタへの沿道を整えるためにまず兵士が出て行きます。
 ゴルゴタには十字架のための柱が三本立てられていました。そして囚人はその場所まで、見せしめとして十字架の横木を担いで行かなければなりませんでした。
 先に出ていった兵士は、肉体的に瀕死の状態のイエス様を見るに見かねたのか、担げそうな人を見つけて、彼にその木を無理矢理負わせます。

 ゴルゴタまで400メートルほどの道程を歩かれたイエス様のからだは、すでに40度のむちを打たれてぼろぼろでした。
 ゴルゴタに着き、兵士たちが十字架の横木を取り付けている間・・彼らはイエス様に苦(にが)みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした、とあります。
 これも兵士たちの侮辱の行為の一つと見る向きもありますが、十字架の苦しみを少しでも和らげるためのぶどう酒だという説が有力です。

 そのぶどう酒を、イエス様はなめただけで飲もうとはされなかった・・。

 イエス様は、苦しみを受け、罰を受けるために・・それは私たちの罪の身代わりとして受けるために・・そのために十字架にかかられたんですね。ですからぶどう酒を飲んで、苦しみを軽減するなら、その意味がなくなってしまうわけです。

 イエス様はこのことのために・・十字架にかかられるために、人の形をとって来られたんですね。

 受難週に入りました。それは今週の金曜日がその日であることを覚え、この一週間を私たちのために十字架にかかられたキリストを思う週です。

 そしてこの暗いニュースの後に、神の栄光が輝く驚くべき出来事が待っているんですね。

 ハレルヤ!

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.29.Mon 10:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #45


 ・・十字架がわかると神の愛がわかる・・

 賛美歌「ためらわずイエスを」その2 アップしました・・

 https://www.youtube.com/watch?v=Ir0glJ2_x40
 
 
2021.03.26.Fri 22:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。"
 マタイの福音書 27章27~30節

 ピラトはイエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した・・とあります。(26節)
 むちの先には骨の破片が付けられていました。ですからそのむちで打たれたら、背中の皮などあっという間に破れ、骨が出るほどになります。それだけでも死んでしまうほどの残虐なものでしたから、その回数は40回までと定められていました。

 総督の兵士たちはその後イエス様を総督官邸の中に連れて行き、侮辱の限りを尽くします。

 人は、目の前の人物が、もう生きるにふさわしくない者だと認識すると、ほんとうにひどいことをするものです。
 殺してはならないとか、見下してはならないとか、ごく普通に働くはずの良心というものが、ひとたび外れてしまうと、心の底にかくれていたものが見事にその姿を現すのです。

 彼等のしたことは、イエス様を死なせないギリギリの範囲で、体と心をさらに深く傷つけようとするものでした。

 心の底にある陰惨な性質・・それは自分でも見たことがないかもしれません。
 戦場での残酷な行為・・殺人が合法化されているという異常な環境の中では、国や民族を問わず、そのようなことは多かれ少なかれ、見られることのようです。

 人は・・罪びとなんですね。

 人は罪から救い出され、その赦しをいただく必要があるんですね。

 祈り・・「神様、私の心の奥を照らし、そこにある罪を示して下さい。」


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.26.Fri 06:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"
 マタイの福音書 27章25~26節

 ピラトが「この人の血について私には責任がない」と言ったのに対し、民は「その人の血は、私たちや子どもたちの上に。」と答えます。
 耳を疑うような言葉です。
 イエスを死刑にすることの責任は、自分だけでなく、自分の子孫に及んでも良いというのです。

 イスラエルの民は常に、神に背き、神を怒らせた結果、神のさばきを目の当たりにし、そしてもう一度神のもとに帰る・・これを何度も何度も繰り返しています。
 そして彼等は到頭、神が最後に送られたキリストであるイエスを拒んで、その血の責任は私たちの上にあっても良い・・と言ってしまうのです。

 それでも神は、この特別な民イスラエルを決して見放すことはしないと言われているんですね。
 詩編にはこのように書かれています。

 まことに主はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。(94:14) 

 しかし残念なことに、このまことの神のもとに居続けようとする者はいつも「少数の者たち」でした。

 イエス様は言われました。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイの福音22:14)

 そしてこれは、私たちにも当てはめることができるわけです。

 この少数の者たちは、自分の意思で、神のもとに立つことを選んだ人たちなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.25.Thu 11:08 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。"
 マタイの福音書 27章19~20節

 ピラトが裁判の席に着いている時・・それは金曜日の早朝6時頃です。彼の妻は「あの人」イエスのことで夢の中で苦しい目にあい、ピラトがこのことに関わるべきではないことを確信します。そして人を遣わして「あの正しい人」と関わらないで下さいと言いました。
 ピラトの妻は夢で、イエスは「正しい人」だと知ったというわけです。

 イエス様とそしてバラバ、この二つの存在はどちらも、ユダヤの民衆にとっては期待できる存在でした。死刑囚バラバは闘争によってローマからの独立を果たそうとして、民衆を巻き込んで革命を果たそうとした者でした。当然「群衆」の中にはこのバラバの支持者たちもいたと考えられます。
 そしてイエス様については、まさに民衆がこの方こそ来たるべき方「キリスト」で、自分たちをローマの圧政から救い出して下さる方だと期待したわけです。

 ですから、祭司長をはじめすべての人々は、来たるべき方キリストが、まさか全人類のための救い主となるために来られたとは夢にも思っていないんですね。

 今の世においてもイエス・キリストという人物について、実に様々な評価がなされています。しかしそのすべては「イエスという人」ということが大前提で話されますので、ただ聖書を説明したという「上から目線での話」で終わり、あとには何も残らないわけです。

 イエス・キリストが神の子なる神だという前提で語ろうとするのは、聖書とそれを信じた人だけなんですね。結局他の説明はすべて、イエスを葬り去ろうとするというところに立っているんです。これが罪びとの立ち位置なんです。

 間違えないで下さい。

 イエスは神の子、今も生きて働かれる救い主なる神、キリストなんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2021.03.23.Tue 10:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。"
 マタイの福音書 27章15~18節

 群衆が望む囚人を総督が釈放する・・いわゆる恩赦ということが当時から行われていたようです。総督ピラトは「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。」と彼らに問いかけます。

 ビラトは確たる証拠をもって判決を下さなければいけないのに、この話を恩赦という方向に持って行ってしまったわけです。
 もともと証拠などないことは分かっている・・。しかもそれは彼らのねたみからであることを「知っていた」というのです。
 結局裁判をする価値などない案件だけど、これをこじらせると暴動が起きかねない・・。
 恩赦の話を出したというのは、ピラトにとって「逃げ道」でしかありませんでした。

 結局、正義のためではなく、自分を守るためにこの審判を行ってしまうピラト・・。

 罪びとの行動の基本・・、それは自己保身です。

 保身という人の行動が原因となり、世の中の不条理や、弱者の犠牲・・それがいつの時代にもずっと続いてきた。これが「この世」なんですね。
 そして保身は、自分自身にも何も良いものをもたらしません。

 両親の愛の中で安心して暮らしている子どもは、保身のことなどは考えません。
 それと同じように、クリスチャンは父なる神の御手と愛の中に安んじている者なんです。

 この方への信仰が、保身からの解放をもたらしてくれるのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.03.22.Mon 10:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #44


 GraceCafeたいむ #44 【すべてが新しくなる】

   ・・キリストの愛は掛け値のない愛・・

 賛美歌「ためらわずイエスを」から、その1 アップしました・・

 https://www.youtube.com/watch?v=rIcJvRqd2F0
 
 
2021.03.20.Sat 07:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」"
 マタイの福音書 27章11節

 金曜日、午前6時頃。イエス様は縛られたまま総督ピラトの前に立たれます。(2節)
 祭司長たちはイエス様が「自分は王キリストだと言っている」と訴えました。(ルカ23:2)
 それはローマの皇帝カエサルに対する侮辱で、彼は死刑に値します・・という訴えでした。

 総督ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王なのか」と。
 それに対しイエス様は「あなたがそう言っています。」と答えられました。新解約聖書の一つ前の版では「そのとおりです」となっています。
 この方がことばとしてはわかりやすいのですが、新しい訳では敢えて直訳のことばに変わっています。

 あなたがそう言っています・・。その言葉にピラトはハッとしたかもしれません。
 それは「あなた自身はどう思っているのか」と迫ることばだからです。

 この総督であるピラトも、イエス様にとっては一人の罪深い人間に過ぎなかったわけです。ご自分が審問される場でイエス様はこのピラトに、「真理」に目をしっかり向けることを促されているんですね。

 私たちクリスチャンはイエス様のことを「救い主キリストだ」と言っています。
 その私たちがイエス様に「あなたがそう言っています」と言われたら、身が引きしまる思いがしませんか。

 私たちは、もっともっと真摯に「イエス・キリスト」というお方に向き合わなければならないのではないでしょうか。
 もっともっと真心をもって、まことの神というお方に向き合う必要があるのではないでしょうか。

 心と知恵と力を尽くして主なる神を愛せよ・・この意味を改めて噛みしめたいものです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.19.Fri 10:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。"
 マタイの福音書 27章6~7節

 ユダはイエス様を裏切ったことを後悔し、受け取った銀貨三十枚を神殿に投げ込み、自分は首をつって死んでしまいます。
 それは、ユダの自分の考えに基づく悔い改めの方法でした。神殿に銀貨を投げ込み、自分で自分を罰する・・。それは徹底的にイエス・キリストという方を無視して、神との関係の問題を解決しようとしたということです。

 そして祭司長たち・・。彼等は返された銀貨三十枚を神殿の金庫には入れず、異邦人のためにこの金を使うことにしました。それはイスラエルの神に関わることに、この金は使わないということです。
 これもイエス様という存在を、徹底的に「神」から切り離そうとしていることを表しています。

 ユダも祭司たちも、イエス・キリストを徹底的に拒んだのです。

 救い・・それは、滅びからの救いです。
 人は神の怒りのもとにある・・。それは最も大切な情報です。怒りによるさばきがあるから、そこからの救いがあるのです。 

 なぜさばかれなければならないの・・?
 それは、神に背を向けていることそのものが「罪」だからです。
 あなたを造られた創造主なる神がおられ、しかもあなたの心の動きにまで心を配られるお方がおられるなら、それを無視することは高慢の極みです。
 
 すべての人は罪人だと聖書は言っています。
 罪人の基本・・それは高慢ですが、その正体はまことの神を認めないことなんですね。

 まことの神、それを表された御子イエス・キリストのもとに立ち返りなさい・・。

 これが聖書のメッセージです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.18.Thu 09:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。"
 マタイの福音書 27章3~5節

 なぜユダは、イエス様を捕らえる手引きをしたのに、いざイエス様が死刑と確定したら後悔したのでしょうか。
 考えられるのは、予想していたのと違う展開になったということです。

 ユダは、イエス様がこれから起こると話されていたことには耳を傾けず、自分で勝手に先の筋書きを決めていたということです。もくろみが外れたのです。

 聖書にはこの先のこと、すなわち世の終わりのことについて、実に多くのことが書かれています。
 私たちはそれらの記事に対して、勝手に「自分なりの展開」を考えていないでしょうか。
 それらの記事をつなぎ合わせれば、終わりのことについてもかなり具体的にその筋書きが見えてくるのに・・です。

 みことば・・それはいのちへの道です。
 それを自分の物差しで解釈するなら違う道にまっしぐら、というのがユダがしたことでした。
 その行く先は「死」だったのです。

 ユダは祭司長たちのところに行って「自分は無実の人の血を売って罪を犯しました。」と言っています。それは罪の赦しを乞うために祭司長たちのところに行ったということです。
 ユダが行くべきところ・・それは祭司長のところではなくイエス様のところだったのではないでしょうか。イエス様を裏切ったのですから。

 イエス様は、横で十字架にかけられている死刑囚が、イエス様を救い主と認めただけで、彼を文句なしにパラダイスに導かれた・・そういうお方です。
 悔い改めは・・たとえそれが死の直前でも、遅くはないんですね。

 死を選ばずに、イエス様のところに行っていのちを得なさい・・。
 これが福音のメッセージです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.03.17.Wed 10:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。"
 マタイの福音書 27章1~2節

 金曜日の夜明け、イエスを死刑にするにはローマの許可が必要なので、彼らはイエス様を当時の行政長官である総督ピラトに引き渡します。

 イエス様を捕らえて死刑にしようとしている彼等・・その一人一人は一体どんな心境だったのでしょうか。物事が動き始めてしまった。そこにいる一人一人はその動きに合わせて進むしかなかったんでしょうか。その中で、これはいけないんだと声を上げる人はいなかったんでしょうか。

 私たちはこの世の大きな流れの中で、薄々いけないと思いながらもその当事者になっていることって、ないでしょうか。

 今の世は巨大な金融システムの中で、ほんの一握りの人たちが世界中の富の99%を握っているという、よくよく考えれば異常としか言いようのない世界の中で、とにかく「平和」でさえあれば良いという、裏を返せば最低限の平安さえままならないという感覚の中で、大多数の人々が過ごしています。
 しかしその行く先は黙示録に書かれているとおり、終わりに向かっているというのです。
 黙示録の最後には驚くべきことに、その「富を我が物とした者たち」とそれを喜んで享受している人たちに容赦ない鉄槌が下ると書いてあるのです。(18章)
 
 福音というのは、その抵抗のしようのない大きな流れの中で眠っている人たちを、一人一人その頬を叩いて目を覚まさせるようにして、そこから飛び出なさいと言っているものなんですね。
 このままでは滅びなんですよと。そしてここに脱出する道が用意されたのだから・・と。

 そしてそれは死の先にある「永遠」というスパンでの、私たちの想像を遥かに超えた話なのです。

 なんという驚くべきことが、聖書には書かれているのでしょうか。

 一人でも多くの方が、そのことばの一つにでも捕まって、神が提供してくださっている助けの情報を受け取ることができますようにと、日々祈るものです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.16.Tue 12:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。"
 マタイの福音書 26章74~75節

 イエス様があらかじめ言われていた通りのことが起こってしまいました。
 ペテロは、自分に限ってそんなことは絶対にありませんと否定していたのを思い出し、「外に出て行って激しく泣いた」とあります。

 この出来事は、ペテロにとっては全ての土台を失ってしまうほどの落胆の時となってしまうわけですが、このことでペテロはあることをはっきり自覚することになります。

 今まで起こってきたことは、すべてイエス様に由来することなのだ・・。ところが自分が何かをしているような錯覚に、いつの間にか陥っていた・・。
 自分に何かの力があったわけではないのだ・・。十二弟子の筆頭としての地位も、すべてが「恵み」として、ふさわしくない「こんな自分」に与えられていたものなんだ・・ということを。

 私たちは、いつの間にか、自分の成功が自分の力だけによって達成したものであるかのように思ってしまうことがあります。
 しかし、とんでもないことが起きて、気がついてみると、こうして成功してきた自分の周りには、陰で自分を助け、良い巡り合わせを自分のために用意してくれた人がいたことに気がついたりすることがあるわけです。

 自分のプライドが砕かれた時・・それは絶望という深い淵を通らされるような出来事ですが、実はそれが祝福の入り口なんですね。

 ペテロは聖霊の力を受けて、名実ともに十二弟子の筆頭としての働きを始めます。
 しかしこのことがあったからこそ、ペテロはイエス・キリストという方に自分の思いや考えのすべてを明け渡すという、真のキリストの弟子としての働きを始められたのではないでしょうか。

 イエス様のなさることは、実に至れり尽くせりなんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.15.Mon 10:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 #43

 ・・神は「今」というところにおられる・・

  賛美歌「主イェスのみそばに」その4
  アップしました・・

  主催:Grace Home Church
  お話/市原康、うた/市原よしみ

  みなさまのお越しをお待ちしています。

  https://www.youtube.com/watch?v=bu6DLtJmFcQ
 
 
2021.03.12.Fri 21:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒瀆した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう思うか。」
 すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。
 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。"
 マタイの福音書 26章65~68節

 イエス様は「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」と言われました。
 それはまさしく、ご自身が神の御子キリストであるということの宣言でした。
 これを聞いて大祭司は「衣を引き裂いて言った」とあります。

 衣を引き裂くとは、激しい怒りのしるしです。どうしてそんなことが言えるのか。どうしてそこまで神を冒涜することを臆面もなく言えるのか・・。
「彼等」律法学者や長老たちはイエス様の顔につばをかけたり、拳で殴ったり、平手で打ったりして、「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」とまで言って侮辱の限りを尽くし、思惑通りにイエス様を死刑に定めます。

 イエス様は彼等を徹底的に糾弾し続けていました。ですから彼等が敵意を抱くというのは、当然のことといえるのかもしれません。
 しかし神を信じ、神に仕える者だったら、どうするのが神の御心にかなうことなのか・・。それはモーセ以来、神が民に忍耐をもってずっと教えてきたことでした。
 自分の安全が脅かされようとしているなら、まず神に祈り、そこにある問題を神に示していただく・・。
 するとその時にはいつも、まず悔い改めなければならないことがあったんですね。

 神の前に出て、ひざまづく・・。
 そこに至るなら、それはすでに救いの入り口に立ったことになる。

 これが聖書の教えの基本です。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.12.Fri 11:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
<< 2021.05 >>
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
ENTRIES
G-Cafe 聖書のことば #394【取り返しのつかない罪】聖霊の働き13(05/07)
G-Cafe 聖書のことば #393【すべてがつながっている聖書】聖霊の働き12(05/06)
G-Cafe 聖書のことば #392【ダビデは既に「主」と呼んでいた】聖霊の働き11(05/05)
G-Cafe 聖書のことば #391【最後のチャンス】聖霊の働き10(05/04)
G-Cafe 聖書のことば #390【終わりの日】聖霊の働き9(05/03)
GraceCafeたいむ #50 【いのちを選びなさい】(05/01)
G-Cafe 聖書のことば #389【聖書の役割】聖霊の働き8(04/30)
G-Cafe 聖書のことば #388【聖霊の働き】聖霊の働き7(04/29)
G-Cafe 聖書のことば #387【あなたの上にある神の計画】聖霊の働き6(04/28)
G-Cafe 聖書のことば #386【圧倒的な礼拝】聖霊の働き5(04/27)
G-Cafe 聖書のことば #385【再び来られる保証】聖霊の働き4(04/26)
 GraceCafeたいむ #49 【招かれている人】(04/24)
G-Cafe 聖書のことば #384【目を開かせて下さるお方】聖霊の働き3(04/23)
G-Cafe 聖書のことば #383【伝道する力】聖霊の働き2(04/22)
G-Cafe 聖書のことば #382【たったひとりの人のために】聖霊の働き1(04/21)
G-Cafe 聖書のことば #381【礼拝すべきお方】よみがえられた主 13(04/20)
G-Cafe 聖書のことば #380【約束を見せて下さった主】よみがえられた主 12(04/19)
 GraceCafeたいむ #48 真の楽しさ (04/17)
G-Cafe 聖書のことば #379【聖霊を求めなさい】よみがえられた主 11(04/16)
G-Cafe 聖書のことば #378【聖書を読むには】よみがえられた主 10(04/15)
G-Cafe 聖書のことば #377【成就しなければならない】よみがえられた主 9(04/14)
G-Cafe 聖書のことば #376【よみがえりのからだ】よみがえられた主 8(04/13)
G-Cafe 聖書のことば #375【裂いて渡されたパン】よみがえられた主 7(04/12)
GraceCafeたいむ #47 【キリストの復活がどうして望みにつながるのか? 】(04/09)
G-Cafe 聖書のことば #374【聖書に書かれていること】よみがえられた主 6(04/09)
G-Cafe 聖書のことば #373【見える時】よみがえられた主 5(04/08)
G-Cafe 聖書のことば #372【近づいてこられるお方】よみがえられた主 4(04/07)
G-Cafe 聖書のことば #371【光の予感】よみがえられた主 3(04/07)
G-Cafe 聖書のことば #370【見る方向が違っていた】よみがえられた主 2(04/05)
G-Cafe 聖書のことば #369【いよいよ本番】よみがえられた主 1(04/04)
GraceCafeたいむ #46 「死からのよみがえり」(04/03)
G-Cafe 聖書のことば #368【安泰の確保のために】十字架への道49(04/03)
G-Cafe 聖書のことば #367【新しい時代の幕開け】十字架への道48(04/02)
G-Cafe 聖書のことば #366【父から見捨てられる】十字架への道47(04/01)
G-Cafe 聖書のことば #365【人々の思い違い】十字架への道46(03/31)
G-Cafe 聖書のことば #364【神のご計画】十字架への道45(03/30)
G-Cafe 聖書のことば #363【苦しみを受けるために】十字架への道44(03/29)
GraceCafeたいむ #45 「なんで十字架?」(03/26)
G-Cafe 聖書のことば #362【罪の性質】十字架への道43(03/26)
G-Cafe 聖書のことば #361【人の側に託されたこと】十字架への道42(03/25)
G-Cafe 聖書のことば #359【神の子キリスト】十字架への道40(03/23)
G-Cafe 聖書のことば #358【保身からの解放】十字架への道39(03/22)
GraceCafeたいむ #44 【すべてが新しくなる】(03/20)
G-Cafe 聖書のことば #357【もっともっと真摯に】十字架への道38(03/19)
G-Cafe 聖書のことば #356【滅びか救いか】十字架への道37(03/18)
G-Cafe 聖書のことば #355【死を選ばずにイエス様のところに】十字架への道36(03/17)
G-Cafe 聖書のことば #354【脱出する道】十字架への道35(03/16)
G-Cafe 聖書のことば #353【至れり尽くせり】十字架への道34(03/15)
GraceCafeたいむ #43 「今」を生きる(03/12)
G-Cafe 聖書のことば #352【救いの入り口とは】十字架への道33(03/12)
COMMENTS
CATEGORY
ARCHIVES
2021年05月(6)
2021年04月(28)
2021年03月(26)
2021年02月(24)
2021年01月(25)
2020年12月(27)
2020年11月(24)
2020年10月(27)
2020年09月(26)
2020年08月(26)
2020年07月(27)
2020年06月(26)
2020年05月(27)
2020年04月(27)
2020年03月(28)
2020年02月(26)
2020年01月(25)
2019年12月(30)
2019年11月(21)
2019年10月(2)
2019年08月(3)
2019年06月(2)
2019年05月(1)
2019年04月(2)
2019年02月(1)
2019年01月(2)
2018年12月(1)
2018年10月(2)
2018年09月(3)
2018年08月(1)
2018年06月(1)
2018年04月(1)
2018年03月(1)
2018年02月(1)
2017年12月(1)
2017年11月(1)
2017年10月(1)
2017年08月(2)
2017年06月(1)
2017年05月(1)
2017年04月(2)
2017年02月(1)
2017年01月(2)
2016年12月(2)
2016年11月(2)
2016年09月(3)
2016年08月(1)
2016年07月(3)
2016年06月(1)
2016年05月(4)
2016年04月(2)
2016年03月(1)
2016年02月(1)
2016年01月(3)
2015年10月(1)
2015年09月(2)
2015年07月(1)
2015年05月(1)
2015年04月(1)
2015年03月(2)
2015年02月(1)
2015年01月(3)
2014年11月(3)
2014年09月(2)
2014年08月(2)
2014年07月(1)
2014年05月(1)
2014年04月(1)
2014年03月(3)
2014年02月(1)
2014年01月(4)
2013年12月(1)
2013年11月(1)
2013年09月(1)
2013年08月(4)
2013年06月(2)
2013年05月(2)
2013年03月(3)
2013年02月(2)
2013年01月(2)
2012年12月(1)
2012年11月(1)
2012年10月(1)
2012年09月(1)
2012年08月(1)
2012年07月(2)
2012年06月(3)
2012年05月(1)
2012年04月(2)
2012年03月(3)
2012年02月(1)
2012年01月(2)
2011年11月(8)
2011年10月(3)
2011年09月(1)
2011年08月(3)
2011年07月(1)
2011年06月(3)
2011年05月(1)
2011年04月(16)
2011年03月(4)
2011年02月(1)
2011年01月(2)
2010年12月(1)
2010年11月(3)
2010年10月(2)
2010年09月(2)
2010年08月(2)
2010年07月(2)
2010年06月(2)
2010年05月(4)
2010年04月(8)
2010年03月(6)
2010年02月(9)
2010年01月(5)
2009年12月(8)
2009年11月(15)
2009年10月(5)
2009年09月(7)
2009年08月(18)
2009年07月(11)
TRACKBACKS
LINKS