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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #71

【聞いてもわからない】

"あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。
 見るには見るが、決して知ることはない。
 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。"
 使徒の働き 28章26~27節

 今回のこの聖書の箇所は、話を信じようとしないユダヤ人たちに向かって、パウロが言った言葉です。
 それはイザヤ書(6:9-10)に書かれていることを、そのまま彼らにぶつけたものでした。
 このイザヤ書は、パウロの時代から遡ること700年、すでにこの時イスラエルの民がいかに神のことばに対してかたくなであるかを指摘しています。

 しかし同時に、イスラエルの民であるユダヤ人たちにとって、自分たちが神に選ばれた民であるこという自負は、揺るがないものでした。
 実際、神はイスラエルを特別に取り扱ってこられました。そんなユダヤ人にとって、イエスが本当にキリスト (イスラエルの歴史の中で預言されてきた「来たるべきお方」) であるかどうかは、命をかけるほどの重大事だったわけです。
 来たるべきお方が、その当時の世の中に登場したというのですから、にわかには信じがたい話であるのはわかります。

 そこでパウロは、聖書に書いてあることと、イエス様のすべてのことを照らし合わせ、それは一致しているのだということを示し、イエスこそが本当にそのメシヤであるのだと話したわけです。
 ですから、そのことが一番はっきりわかるのは、聖書に精通したユダヤ人であるはずなのです。ですが彼らは、その上でパウロの言うことを拒んだのです。
 彼らはパウロのことばを聞いても、それがわからなかったのです。


 話は飛びますが、今の世においても、福音を聞いて、ある人たちはそれを受け入れますが、ある人たちは受け入れません。
 それはどういうことなんだろうと考える時、「あるものを捨てなければならないことを直感するから」・・なのかなぁという考えに思い至ります。
 それは「今までの自分」です。

 イエスを自分の救い主として受け入れるということは、自分の生活を「自己中心から神中心へ」と切り替えることです。
 それって、言ってみれば、今まで自分が立っていた土台がなくなってしまうということです。
 自分には助けが必要だとわかる人であれば、自分を切り替えることは、進んでできるかもしれません。しかし今のままの自分に何の問題も感じない人は、今の自分が揺らぐようなことは、決してしないんですね。

 神という存在を認めること。それは自分の土台を崩してしまうことなんですね。
 福音の大前提は、この神がおられるということです。
 ですから、私は神を信じることにしようという決心は、一大決心であるわけです。

 神からのメッセージは、神を認める者の耳に、初めて聞こえてくるのです。

 あなたを愛し、あなたの帰りを待つ、父なる神がおられる・・。
 これも神を信じる者でなければ、意味のない言葉なんですね。

 神を信じる・・ここが「真理」の要なのです。

 祈り・・「神さま、もしあなたが本当の神なら、信じてみようと、思えるようにしてください。」

 God Bless You !
 
 
2020.02.26.Wed 16:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #70

【愛する】

"愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章7~8節

 愛する人というのは、神から生まれて、神を知っている人だということを、ヨハネは強調しています。
 さらに、「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」と言っています。
 神を知っている、神を信じていると思っていても、そこに愛がないなら、クリスチャンとしては失格ですと言われているようです。
 しかし、自分の中に愛がないことを感じているクリスチャンも、少なからずおられるのではないでしょうか。

 クリスチャンは、イエス・キリストを内にお迎えして、キリストにあって死に、キリストにあって新しいいのちに生きるようになった者です。
 ですがクリスチャンは、その時から突然神のようになるわけではないんですね。
 新しく生まれたクリスチャンは神の取り扱いの中で「変えられて行く」んですね。(第二コリント3:18 参照)

 だから安心してください。自分がどうあろうと、大船に乗ったつもりで、自分を主に預けることに専念すれば良いのです。
 そして主との交わりが深まることによって、主ご自身を内にいただいていることが喜びとなり、力となり、愛が形になって出てくるようになるわけです。

 イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。
 (ヨハネの福音書 13章34節)

 ならば、主がどのようにして愛してくださったのかを知らなければ、愛するということが何のことだかよくわからなくても、仕方がありません。
 だったら、主の愛がどのようなものなのかを知ることを求めなさいということです。
 
"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章10節

 この愛がわかるようにしてくださいと、祈り求めましょう。 
 主にすべてを預け、「主よ。私に、あなたの愛がわかるようにしてください。」と。

 人の愛を求めても、そこには限りがあります。人は弱い者ですし、その愛も変わっていってしまうこともあります。

 愛されることの中にではなく・・

 愛することの中に、本当の満たし、豊かさがあるんですね。
 愛することの中に、自分の癒しがあるんですね。
 愛することの中に、力があるんですね。
 そして、愛することの中にすべての解決があるんですね。

 自分の内に愛がないことに気付くなら、それは大きなプレゼントなのです。
 なぜならその人は、自分を主にゆだねるしかないことを知るからです。
 
 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.25.Tue 12:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #69

【天の御国】

"ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。
 その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。"
 マタイの福音書 18章23節

 今日の箇所は、全財産と家族、あらゆるものを差し出しても返せないほどの、とてつもない額の借金の清算を迫られた人の話。その冒頭の部分です。

 清算を迫られた時に、その男はとても返せなかったので、平伏して「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言います。
 その様子を見て、金を貸した主君は、かわいそうに思って彼を赦し、その負債を免除したというのです。
 そうです。借金が帳消しになったのです。
 普通ではあり得ない、哀れみを伴った赦しを、この男はいただいたという話です。

 ところが彼は、100デナリの金を貸していた男に出会い、「借金を返せ!」と迫るのです。1デナリは1日分の労賃です。ですから100日分の労賃ということになるわけで、結構な額の借金です。それを返せ!と迫るわけですが、それは無理な話でした。それで彼は「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言う男を、怒って牢に放り込んだというのです。
 100万円貸しているのに返さない人。腹が立ちませんか?
 この男は怒って、彼を牢に放り込んだんですね。分からないでもない話です。

 ところがこの男は1万タラントの借金を免除してもらっているんですね。1タラントは1デナリの6000倍です。1デナリが仮に1万円だとすると、1万タラントは間違っていなければ6兆円になります。
 すなわち、返し得ない借金だということです。
 
 とても返せない負債を負っていたのを、なんとこの男は、免除してもらっていたんですね。
 ところが100万円を自分から借りているのに返せない人を、この男は許すことが出来なかった・・。

 私たちが罪を赦されるために、支払われた額は、神ご自身が人の子という姿で御子を遣わし、十字架にかけるというものでした。それが6兆円に例えられているんです。
 ところが日常の生活の中に立ったとき、「許されるべきではない人」に向き合うことがあります。その時に迷わず「許さない人」になってしまう・・。そのことの例えであるわけです。

 要は、神に対する自分の借金が、本当に6兆円だと思っているのか、さらにそれが帳消しにされたと、本当に思っているのか・・。それが問われる話なんですね。

 主君の最後の言葉はこうです・・。

"私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』" 33節

 私たちにはもともと、そのようなあわれみの心はないんですね。でも自分があわれみを受けた「額」を知れば、あなたはあわれみをもって人に接する者となるんですよ、と言っているわけです。
 
 許せない人がいますか? それは、あなたが主の赦しの額が分かっていないことの印なんですね。
 ですが、主はそんな私たちをもあわれんでくださるお方です。
 ですから、次のように祈りましょう。

「主よ、私が赦されるのに、どれほどの大きな犠牲が払われたのか、私がそれほどの罪びとであること、それがはっきり分かるようにしてください。」

 私たちをあわれみ深い者としてくださるのは、主ご自身なんですね。

 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.24.Mon 17:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #68

【人を量り見る】

 私が初めて聖書を読み始めた時、最初に立ち止まって、そこから目が離せなくなってしまったことば。それが今日のみことばです。イエス様は言われました。

"さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。"
 マタイの福音書 7章1~3節

 さばくとは、ある秤(はかり)で人を計り、その数値に従ってその人を評価する、すなわちその人の存在価値を、自分が決めるという行為です。

 秤にはいろいろなものがあります。学歴とか家柄とか、また感性などもそのひとつかもしれません。自分と合わない人は存在価値がない。この世にいることの意味さえも認められない・・。
 私はこのみことばに出会った時に、そんな感覚が自分の中にあることがはっきりわかったんですね。

「自分が量(はか)るその秤で量り与えられる」とあります。
 秤が厳格な人は、人からも厳格な評価を受けるということです。
 でも私たちの実態は、そんな評価を受けたらひとたまりもない、欠けだらけの人間なのではないでしょうか。

 目の中にちりとかホコリがあれば、なかなか景色も見えにくいものです。まっすぐに物事が見えないんです。
 そんなことは、自分だっていくらでもあります。
 なのにあなたは、そういう人の様子を見て、秤の材料にしているでしょう・・という指摘です。
 それを秤に使っていながら、なんとも思わないでいるあなた。そのあなたの目。それは、何も見えていない「梁の入った目」だというのです。

 梁(はり)とは、家の柱の上に横に渡し、屋根を支えるための太い材木です。そんなものが目の中に入っているんだったら、正しい秤ではかるとかいうことよりも、まずその太い梁を外しなさいという話です。
 片っ端から人をさばき、評価をして、一体あなたはどこに座っているんですか、と問いかけられているのです。
 
 そのことを私は、がつ〜んと言われたんですね。
 私は、この言葉に逆らえる何ものも持ち合わせていませんでした。ですから、「はい、その通りです」と、素直に思いました。

 イエス様は「まずその梁を取り除きなさい」と言われました。でもみなさん。その梁・・取り除けますか。
 イエス様はいろいろなところで、私たちにはでき得ないことを「しなさい」と言われています。
 どうすればいいんでしょうか。そこでイエス様が言われている答えがあるんですね。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
 (マタイ9:13)

 イエス様のもとに行って、その赦しといやしと、聖められる者としての歩みをいただくことができるのは「罪人」すなわち「自分が罪人だと認めた人」だというのです。

 今日の結論・・
 イエス様は、梁を取り除きなさいと言われているのですが、実はそれを取り除くことができるのは、イエス様ご自身なんですね。

 悪魔がやってくる所について書くつもりが、イエス様が来られるところの話になってしまいました。こっちの方が大事です。(笑)

 次回は「天の御国」です。

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 God Bless You !
 
 
2020.02.22.Sat 10:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #67

【成功を収めた時】

"あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"
 申命記 8章17節

 私たちは成功した時、何かを成し遂げた時、何を思うでしょうか。
 もし人の内に、神という存在がなかったら、この成功は自分の努力の賜物だと思うでしょう。それが一般的な考え方です。

 しかし、今日のみことばは、富を手にした時、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」とは思うな、と警告しています。

 こんなみことばがあります。

"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。"
 箴言 10章22節

 国が栄える時、それはその国民が勤勉だったからだと考える。また会社で昇進した時、それは自分の能力とか努力によって得たのだと思う。
 でも実際は、もっと違う要素が絡み合って、その国.その人は栄えたのだということが、後になって分かったりすることがありますよね。

 聖書は、祝福は神によるのだと、初めから終わりまで、口を酸っぱくして言っているのです。
 しかし聖書の中でも、残念なことに殆どの場合、祝福を手にすると心に奢(おご)りが入り、不遜になり、神の怒りをかって、その祝福が取り除かれてしまうというパターンが、ずっと繰り返されて来ているんですね。

 私たちは、どれだけ謙虚に生きようと思っても、心の奥の奥では、「おれなんだよ、これは。。。」と思っちゃうんですね。
 それを神は、ダメ・・と言われるんです。

 なぜかというと、そうやって神を忘れてしまうからです。
 努力が報われない人だっているんです。また、才能があるにもかかわらず、世に埋もれて死んでいく人もいるんです。
 人の成功の秘訣は、一にも二にも、努力しかないんだよ・・という考えは、間違っているということです。

 聖書は次のように言っています。

"あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。"
 箴言 3章6節

 簡単に奢りの方向に向いてしまう私たちの内に主がいてくださる。
 その主は、肉の性質を釘付けにした死と、今までの自分にはなかった新しいいのち、そのものであるお方なんですね。

 その名はイエス・キリスト。

 この主を見上げるときに、「あなたの道はまっすぐにされる」んですね。

 祈り・・
「主よ、私が成功した時、富を得た時、どうかあなたを忘れることがないように助けてください。
 その時には、返って、あなたの御名をほめたたえる者でいられますように。」

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 次回は、「計り見る」です。
 
 
2020.02.21.Fri 11:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #66

【神の武具 まとめ】

"悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。"
 エペソ人への手紙 6章11節

 今日のみことばは、7つの武具の前置きの部分で、このシリーズの最初に引用したみことばの一部です。

 ここでは、神のすべての武具を身につけなさい、と言っています。
 そうです。「すべての」です。
 ということは、ひとつひとつの武具は、どれも欠かせないものだということです。

 その目的は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」と言っています。
 悪魔の策略、それは、まことのいのちである主なる神のもとにいるあなたを、暗黒の世界に転落させようと、あらゆる手を尽くして張り巡らされた罠のことです。
 悪魔の手口は実に多岐に渡っていて、常に警戒しているということが、なかなか難しいんですね。

 悪魔がやってくる入り口の中には、とても分かりづらいものがあります。
 例えば成功を収めた時、知識があると思った時、悪を見た時、人の愚かさを見た時、人の成功を見た時など・・。
 分かりやすいものだと、各種の誘惑、失敗、絶望、怒り、高慢、批判、貧困、劣等感など・・、並べたらきりがありません。
 これらを並べれば分かるように、悪魔に足を救われる場面は、生活のあらゆる場面に、地雷のように埋め込まれているんですね。

 でも、神が示された7つの武具をしっかり備えれば、このようなすべての状況の中にあっても、足を救われることなく、しっかり乗り切ることができるというわけです。

 そんな地雷群の中で「堅く立つ」ことができたら、それはもうスーパーマンです。
 
 では、7つの武具のおさらいです。簡単な言葉で頭に叩き込みましょう。

1 真理の帯・・全能の神である主を信じていることを思い起こせ。

2 正義の胸当て・・神の御心がなんであるかを、常に知ろうとせよ。

3 平和の福音の備え・・福音についての明確な理解を、いつも求め続けよ。

4 信仰の盾・・ハッとしたら、いつでも主に目を向けられるように心備えをせよ。

5 救いのかぶと・・「恵み」によって救われた自分の身分を思い起こせ。

6 御霊の剣・・聖書を読め。

7 御霊による祈り・・どんな祈りも、共にいてくださる聖霊を覚えて祈れ。

 私自身、これらの武具について毎回書くごとに、新しい認識をいただいてきました。

 主の御名を心より賛美します。

 皆さんが、主にあって与えられる武具を備え、堅く立つ者とされますように・・、心より願っています。

 次回は「成功を収めた時」です。
 
 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.20.Thu 08:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #65

【神の武具 その7】祈り

"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
 そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章18節

 神の武具の最後に登場するのは「祈り」です。大体において、一番最後に出てくるものは、一番重要なものなんですね。

 祈りが戦いのための武具になるというのは、なんとなくわかりますよね。でもここでは「どんな時にも御霊によって祈りなさい」と言っています。
 御霊によって祈るって、どういう祈りなんでしょうか。

 祈り始める時、共におられる御霊を覚えて祈ると、自分が思っていたこととは違うことを祈っているということが、よくあります。
 御霊によって導かれる祈りというものがあるんですね。
 それは、御霊の思いと波長を合わせて祈っていると言ってもいいかもしれません。演奏家が共にリズムを合わせて合奏する、といった感じですか。。

 そしてその祈りは、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも」・・と言っています。
 ということは、祈るのだとしたら、それらはすべて「御霊によって祈る」というスタイルで祈りなさい・・ということになります。

 そうなるともう、一日中御霊の思い、すなわち主に寄り添って過ごすという話になってきます。
 でもこれこそが、私たちがさまざまな武具を、いつでもさっと取り出して的確に使えるために、欠かせない環境だというわけです。

 だとすると「御霊による祈り」は武具のひとつというより、あらゆる武具を、いつもさりげなく使えるようにするための土台だと言えるのかもしれません。


 そして今日のみことばの後半は、すべての聖徒のために祈りなさいという話になっています。聖徒とは、主と共に歩む同胞のことです。
 ですから、ここで言いたいことは、日常の「御霊による祈り」を、さらにあなたの身の回りの、戦いを共にしている人たちのためにも祈るというところまで広げなさい、ということになります。

 ですからパウロはこの流れで、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っているわけです。

 御霊によっていつも祈り、主の御思いの中にいつも自分を置く・・。
 これで、あなたはいつでも、さりげなく日常的に、神の武具を取り出して使う人になる、というわけです。

 これで、武具のシリーズは終わりですが、次回は今までに見てきた7つの武具を、もう一度まとめて目直してみたいと思います。

 祈り・・「主よ、御霊による祈りを教えてください。」

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.19.Wed 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #64

【神の武具 その6】御霊の剣

" 〜 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章17節

 神の武具の6番目は「御霊の剣である神のことば」です。

 剣(つるぎ) というのは、攻撃をして、とどめを刺すための武具です。
 私たちは、サタンの息の根を止めることはできませんが、その攻撃の力に対しては、とどめを刺すことができるんですね。

 イエス様ご自身も、聖書に書かれているみことばを用いて、サタンの攻撃を封じています。それは・・
 イエス様が四十日四十夜の断食をされ、空腹を覚えられたとき、なんとサタンがイエス様の前に現れて、誘惑の言葉をいくつも投げかけるんですね。 
 それらのすべての言葉に対してイエス様は、「〜と書いてある」と言われて、サタンを黙らせているのです。 (マタイの福音書4章)

 サタンの特技は「嘘」です。しかも巧妙です。うっかりそれに乗ってしまうこともあります。しかしみことばには、その巧妙な嘘や脅しを見分けて、一刀両断する力があるのです。

 この剣=神のことばとは、聖書の中のみことばのことなんですね。ですから先ずは聖書を読まなければ剣を受け取ることは期待できないわけです。
 でも、初めて読み始める人でも、聖書を読む時、突然ある箇所の意味がわかったりすることがあります。
 また何十回も聖書を読んでいる人でも、見慣れたみことばが突然迫ってくることがあるんですね。
 それは、私たちの目を開かせ、神のみこころを示し、みことばを通して語りかけてくださる聖霊の力です。 

「御霊の剣である神のことば」とは、そういう意味なんですね。

 ですから先ず聖書を読む、ということから始めましょう。
 日々聖書を読むという生活の中で、私たちは御霊を知り、さらに主との深い交わりへと導かれて行くのです。

 みことばという剣を使う人になりましょう!
 そのために、自分に与えられたみことばを暗唱するというのも、大きな力になります。
 ですが、あまり「務め」として自分に課してしまうと、返って重荷になったりしますので、「やりたくなったら」やりましょう。

 参考までに・・、ユダヤ人の子どもは詩篇をそっくり暗唱していたりするんですね。彼らのみことばへの思いは、私たちの想像をはるかに越えています。
 
 祈り・・「主よ、聖書を読む力を与えてください。」

 次回は、神の武具の7つ目。「祈り」です。

 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.18.Tue 10:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #63

【恵みの故の成長】

"この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。"
 コロサイ人への手紙 1章6節

 前回の、神の武具の5番目「救いのかぶと」の駄目押しです。

 価なしに義と認められる・・。これが「恵み」だという話をしました。

 今回も同じみことばです。
「神の恵み」を理解したときから、福音は広がって行った・・。そのことについて、もう少し考えてみたいと思います。

 福音における「恵み」とは、「神から何かをいただくには全く相応しくない者」が、とてつもない大きな宝をいただく、という意味での恵みです。

 その認識がないと、私たちが神のみもとに帰る対価として、なぜ十字架という犠牲をもってのあがないを「自分が」ではなく「キリストが」支払わなければならなかったのか、というところには到達しないんですね。
 キリストの十字架は、支払うことのできない私たちのために、支払うべき対価を、神が支払われたことのしるしなんです。

 その理解の上で、イエス・キリストを救い主として自分の内に迎えれば、キリストの十字架の死と、復活のいのちをいただいて、その人は新しく生まれ変わるのです。 (コロサイ 3:9-10参照)

 これが「福音の実」です。

 そして、その実は成長し、世界中に広まって行くというのです。

 ところで、何度も何度も書いてきましたが、私たちは平穏無事に生活できている時には、「恵み」とかいう話は決して受け入れられないものです。ましてや、この世において成功をおさめている人にとっては、全く閉ざされた発想です。

 私たちは、本当にどうすることもできない事態、貧困、病の中、絶望の中に置かれたときに初めて、自分の思いをはるかに超えた全能者の御力によって生かされている、ということに思いが至るんですね。

 イエス様は言われました。

"「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
 マルコの福音書 2章17節

 自らを正しいと思っている人(丈夫な人) は、救い(医者)など不要だと思うわけです。必要だと思うのは病人、すなわち罪びとです。
 イエス様は、罪人を招くために来たと言われました。それは、自らを罪人だと思う人のために来られたということです。
 でも招きの対象は、本当は「すべての人」です。問題は、人が自らのことを罪人(病人)、すなわち滅びゆく者だと思っていないところにあるんですね。

 自らを罪人と知ること。それは実は奇跡に近い出来事です。
 それは、神に背を向けているあなたに寄り添う、聖霊の働きによってもたらされるものです。

 自分が罪人だという思いに至ったら、それは、主の奇跡が始まったしるしなんですね。

 罪が、恵みが、はっきりしないという時には、次のように祈りましょう。

「主よ、私が罪人であることがはっきりとわかるようにしてください。」

 次回は神の武具の6つ目。「御霊の剣」です。

 God Bless You !

 
2020.02.17.Mon 11:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #62

【神の武具 その5】救いのかぶと

"救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章17節

 神の武具の5番目、救いのかぶと。

 かぶとは頭を守るものです。頭はいろいろなことを考えるところです。かぶとはそれを守る防具です。
「救いのかぶと」ということは、救われていることの確信が、かぶとの役割を果たして、頭すなわち思考を守るということになるわけです。

 私たちは、救いについて理解したつもりでいても、微妙に違う考えが入りこんでくるということがあります。教会の中にもそういうことがあって、その結果、信仰の土台が揺るがされるということが、歴史の中でも常に起こっていたようです。
 パウロや使徒たちの書簡にも、一番大事なところを骨抜きにする違う考え、すなわち「異端」の教えとの戦いが記録されています。

 救いの理解とは、福音の理解と言っても良いと思います。

"この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。"
 コロサイ人への手紙 1章6節

 このパウロの言葉によると、福音が広がるかどうかは「神の恵み」の理解にかかっていて、それが本当に分かると「実を結び成長」するのだというのです。しかもそれが世界中で起こっているのだと言っています。

 恵みというのは、無償で与えられるという意味です。
 神の「恵みによる」救いについて、パウロは次のように述べています。

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
 ローマ人への手紙 3章23~24節

 義と認められるというのは、神の家の子として認められるということです。

 それが「価なしに」というのです。それはその人が、神に迎えられるにふさわしい能力や行いが伴っているかどうかということは、問われないということです。

 では、誰もかれもが神の家に迎えられるのかというと、そうではなくて「キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して」だというのです。

 あがないとは、あなたの身代わりになって身代金(みのしろきん)を払うという意味で、それは紛れもなく、私たちの罪のために十字架で死ぬという、イエス・キリストによる「なだめの供え物」のことです。

 そのあがないを通して・・と書いてありますが、どうなれば「通して」ということになるのかと言えば、そのあがないを自分のためのものだと認める(信じる)ことによって・・です。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とある通り、アダム以来、その性質を受け継いでいる私たちは、神の前には「罪びと」であって、神の前に出られるような者ではないというのが、「人」についての見方の大前提であるわけです。

「そういう私たち」が「あのあがないを」、「信じるだけで」、義と認められたんです。

 これが「恵み」ということばの根拠です。
 ですから、私たちには、誇れるものは何もないのです。

 救いのかぶとをかぶりなさいとは、そこのところをしっかり押さえて、その上で色々考えるようにしなさい、という話なんですね。

 祈り・・「主よ、あなたの恵みについて、もっとはっきり知ることができるようにしてください。」

 次回はこの続きで、なぜ「恵み」だから成長するのか・・というところを見たいと思います。

 God Bless You !
 
 
2020.02.15.Sat 09:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #61

【神の武具 その4】信仰の盾

"これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。
 それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。"
 エペソ人への手紙 6章16節

これらすべてとは、「真理の帯」と「正義の胸当て」、そして「平和の福音の備え」です。
 しかしこれらのこと、すなわち神を信じること、神の思いを受け取ること、福音を理解すること、それらは信仰なしにはあり得ないことです。

 でもさらに、それらのことの上に「信仰の盾」を取ると、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができるというのです。

 悪い者が放つ火矢とは、サタンが私たちの心を狙って飛ばしてくるものです。その矢が刺さってしまうと、心にダメージを受け、最初の三つの武具も使用不能に陥っしまいます。
 心を傷つける言葉や出来事。それは予期せずしてやってくるんですね。

 また火矢には、心を傷つけるものだけではなく、様々な誘惑というものもあります。
 それらは肉(肉体)が持っている古い性質を目覚めさせ、そのことで心を一杯にさせてしまいます。

 性的誘惑、金銭欲、支配欲、また怒りへの誘惑というのもあります。さらにパソコンのゲームのように、時間を忘れて夢中にならせるもの、私たちの世代でしたら麻雀とか。もちろんたまには頭の体操になりますからいいですけど、体力や集中力の限界を超えても気がつかなかったりするほどに、心が持っていかれてしまうようなことって、ありますよね。
 それからもっと直接的なものとして麻薬.ドラッグなどへの誘惑もあります。

 これらの火矢の目的は、とにかく私たちの心を神から引き離すこと・・結局その一言に尽きるんですね。

 さて、それらをかわす「信仰の盾」については、どのように考えたら良いのでしょうか。
 次のようなみことばが詩篇にあります。

"主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。
 わが盾 わが救いの角 わがやぐら。
 ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。"
 詩篇 18篇2~3節

 ここでは、主ご自身を、使える限りのことばをもって言い表しています。その中に「盾」という言葉が出てきます。
 ですから、信仰の盾とは、主ご自身であることがはっきりわかりますね。

 盾は常に持ちあげて構えているものではありませんが、いつでも使えるように、手元に置いておきます。そして火矢が飛んできたら、さっとそれを持ち上げて身を守るのです。それを押し入れにしまっておいたら、逃げる間も無くやられてしまいます。
 そう考えると、信仰の盾を使うためには、普段から主を近くに覚えていて「有事」の時にはさっと、盾である主のもとに隠れる用意ができていることが必要であることがわかります。

 主に目をとめること、それが「盾」なんですね。
 すると飛んできたはずの火矢は・・、消えているのです。

 祈り・・「主よ、どんな時にもあなたに心を向けていられるように、私を聖霊で満たしてください。」

 次回は神の武具の5つ目。救いのかぶとです。

 God Bless You !
 
 
2020.02.14.Fri 10:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #60

【神の武具 その3】平和の福音の備え

" 足には平和の福音の備えをはきなさい。"
 エペソ人への手紙 6章15節

「平和の福音の備え」が、武具になると言っているわけです。

 今のこの世は、神から目を外らさせようと、懸命になって人々に働きかける、悪しき力の影響力の中にあります。
 しかも人々はその中にいながら気づいていないという世界で、私たちはそこに福音を携えて出ていくわけです。

 要するに、福音を宣べるということは結局どういうことかというと、もちろん神の愛を伝えることなのですが、実はサタンの要塞に攻撃を仕掛け、そこに切り込んでいくことなんですね。
 
 ここでは、平和の福音の備えを「はく」と言っていますが、履くというのは出ていく前の準備の行為です。
 ですからそれは、福音を明確に理解して、それを語ることができるように備える、という意味になります。

 ここで、福音という言葉の前に付いている「平和の」ということについて、考えてみたいと思います。

 福音は、人々に「神との和解」をもたらすものです。今まで父なる神に敵対していた者が、一気に父の家の財産を相続する長子として迎えられるのです。(ヘブル人への手紙 12章23節参照)
 ですから「平和の」とは、神との平和という意味で捉えることができます。

 そしてもうひとつ意味があります。
「平和の福音」という言葉が使われている箇所が他に一つだけありますので、見てみますと、

"そこで、ペテロは口を開いてこう言った。
「これで私は、はっきり分かりました。
 神はえこひいきをする方ではなく、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。
 このイエス・キリストはすべての人の主です。"
 使徒の働き 10章34~36節

「すべての人の主」というのがキーワードです。ここで言いたいことは、神に受け入れられるのはユダヤ人だけではなくて「すべての人」ですよ、ということです。
 ユダヤ人と異邦人は同じ恵みを受けたのだということは、ユダヤ人に対して、はっきり言っておかなければならないことでした。
 ここで使われた「平和の福音」という言葉には、そういう意味があるわけです。すなわちユダヤ人と異邦人がひとつになる、という平和です。

 そういうわけでここでは「神との平和」、それと「ユダヤ人と異邦人との平和」という、二つの意味が考えられるわけですが、
 どちらにしても、すべての人々が神と和解し、キリストにあってひとつとなる、ということを意味しているわけです。

 そしてこの「平和の福音」を携えていくことが、実は戦いだというのです。
 福音が宣べ伝えられるところから平和を奪うのは、サタンの悲願なんですね。

 ですから、戦いに出て行けるように、福音を明確に自分の言葉で語れるように備えること。それが「備えをはく」ということで、
 そしてそのことが、世に出ていくに際して、忘れてはならない武具となることを、知りなさいと言っているわけです。

 祈り・・「主よ、私が福音をはっきり説明できるように、私の目から覆いを取り除いてください。」

 次回は神の武具の4つ目。「信仰の盾」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.13.Thu 10:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #59

【神の武具 その2】正義の胸当て

" 胸には正義の胸当てを着け、"
  エペソ人への手紙 6章14節

 私たちには、胸当てすなわち、最も大事な心臓部を守るための武具が与えられているというのです。その名は「正義の胸当て」。

 聖書で正義と言えば「主の正義」、すなわち主が義とされる(正しいとされる)ことを指します。
 
 私たちは御霊をいただいて、御霊に導かれて歩む者です。
 旧約聖書のエレミヤ書には、このように書かれています。

"これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである
 ──主のことば──
 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。"
 エレミヤ書 31章33節

 これは、神がイスラエルと新しい契約を結ぶとき、すなわちキリストが来られ、キリストによって新しく「神の民」が起こされる時の事を預言したものです。(キリスト降誕の600年前)
 神はその時になると、モーセの律法のように石の板にではなく、人の「心に」律法を書き記すというのです。
 それは、信じる者の内に宿る御霊によって、神の思いが心に書き記されるのだということです。

 ですから私たちは、心の内に正義をいただいているのです。要するに御霊によって与えられる神の正義が「胸当て」になるというわけです。

 では、その胸当てを着けるとは、どういうことでしょうか。
 それはどんな時にも御霊に心の目をとめ、御霊を求め、神が喜ばれることを自分も喜ぶ者となることを願い求めること。それが「正義の胸当て」を着けるということなんですね。

 それは実に「神と共に歩む」ことに他なりません。
 
 胸当ては、私たちの心臓部を守ります。要するに、神の御思いが私たちの思いを守るのです。

 祈り・・「主よ、いつも私があなたの喜ばれることを求めるようにしてください。」

 次回は三つ目。「平和の福音の備えをはく」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.12.Wed 11:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #58

【神の武具 その1】真理の帯

"腰には真理の帯を締め、〜 "
 エペソ人への手紙 6章14節

 腰のベルトは締めておかないと、着ている服がバラバラになっちゃうんですね。要は、基本にこれがないと、後のものはしっかり使えない、ということです。

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
 ヨハネの福音書 14章6節

 わたしが真理だなどと言えること自体、ちょっとイレギュラーというか、聞いたことのない言い方だと思いませんか。
 普通でしたら、人に対して真理という言葉は使えません。ところがイエス様は、イエス様ご自身すなわちイエス・キリストという存在そのものが真理なのだと言い放っておられるんですね。

"いまだかつて神を見た者はいない。
 父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"
 ヨハネの福音書 1章18節

 父なる神の子である神=キリストが、人の子という姿をとって来られた。それがイエス様です。
 そのイエス様が、ご自身を真理だと言われるのは、「まことの神がここに立っているのだ」と、自ら宣言されたということに他なりません。

 イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました、(ヨハネの福音書 14章9節)

 真理とは神を指し、イエス・キリストを指しているのです。この真理の帯を締めていなければ、他のものはなんの役にも立たないのです。
 すべてのもの、すべてのことは、この真理の上にあるのです。

 サタンの攻撃は、先ずこの帯をめがけてやってくるのです。サタンは真理に対しては何の力もありませんが、真理を忘れさせてしまうことに関しては、得意中の得意なんですね。
 ですから、惑わされずにこの真理の帯を締めること。それが武装の始めなのです。

"わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。"
 ヨハネの福音書 10章14節

 イエス・キリストを主とする者は、「主のもの」なんです。

 この第一番目の武具「真理の帯」の使い方とは、全能の神である主が共におられることを、先ず第一にしっかり覚えることなんですね。

 祈り・・「主よ、あなたがまことの神、主であることが分からなくならないように、私を守ってください。」

 次回は二番目の武具、「正義の胸当て」です。

 God Bless You !

 
2020.02.11.Tue 06:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #57

【神の武具】

"終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。"
 エペソ人への手紙 6章10~12節

 今日のみことばから、クリスチャンの信仰生活には「格闘」なるものが伴うのだということがわかります。
「血肉に対するものではない」ということの意味は、人間を相手にした闘いだと思っているかもしれないけれど、その正体は、霊的な領域で暗躍するさまざまな悪の力との闘いなのだ、と言っているわけです。
 そして、そのために「神の武具」というものがあるのだから、それを使って「悪魔の策略」に立ち向かえば、堅く立つことができるというのです。

 なんだか映画で見る世界みたいですよね。でもそれは反対で、西欧の多くの映画は、実は聖書からネタをもらってきているんですね。
 クリスチャンは、霊の世界における闘いの現場に立たされるんです。今までは闘いなんてなかったのに・・。
 なぜ以前には闘いがなかったのかというと、神に敵対する霊の世界の支配下にいたので、なんの問題もなかったというわけです。

 例えば、悪徳企業の従業員が、ただ与えられた仕事をやっているだけだったら、なんの問題もなかったけど、ちょっと正義感をもってなんらかの行動をしようと思った途端に、ものすごい闘いに巻き込まれる・・といったイメージです。

 今日のみことばは、私たちは確かに闘いの世界に巻き込まれるけれども、そこから逃げるのではなくて、立ち向なさいと言っています。
 だけど神は、そのための武具を用意されているのだから安心して、そして勇気を出して、先ず「神の武具」を受け取りなさい、というのです。
 受け取ったら、その使い方を学ばなければなりません。そして実際に使用するというところまで行かないと、せっかく武具が与えられているのに、宝の持ち腐れになってしまいます。

 今日の箇所のあとに続いて、7つの武具が列挙されています。

"そして、堅く立ちなさい。
 腰には真理の帯を締め、
 胸には正義の胸当てを着け、
 足には平和の福音の備えをはきなさい。
 これらすべての上に、
 信仰の盾を取りなさい。
 それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
 救いのかぶとをかぶり、
 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
 そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章14~18節
 
 すなわち、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣(みことば)、御霊による祈り、の7つです。

 あなたは、それを受け取って、その取扱説明書であるところの聖書を読んで、実戦で使う人になることができるのです。
 
 次回からそのひとつひとつを見ていきましょう。
 最初は「真理の帯」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.10.Mon 08:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #56
  
【力の条件 弱さ】

 "しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。"
 新約聖書 コリント人への手紙 第二 12章9節

 私たちは「行い」のこととなると、真面目な人であればある程、自分はきっちりした人であろうと、一生懸命に努力しようとします。
 ところが、自分はどうすることもできない「弱い者」だと、初めから分かっている人なら、「行い」を人に見てもらおうとかいうことは、あまり考えないものです。実は「弱い」ということは信仰者にとって、マイナス要素ではないんですね。なぜなら、そうでもなかったら、本当の力であり知識であり癒しである方のところに、行こうと思わないからです。

 本当の力、解決は「主にある」ということを、私たちは経験をいくら積んでも、また知識として知っていても、なかなかそこに行かないんですね。でも「弱さ」という、自分が認めざるを得ない状況に置かれると、主の方に行ってみようかなと・・初めて思うわけです。

 そのことを前回の「愛する力」に照らし合わせてみますと・・。
 自分には愛する力などこれっぽっちもないと、心底思い知ったとしたら、その人は、「愛さなきゃ」という思いから解放されて、ただ御霊との深い交わりを求める中で、主から与えられる「御霊の実」である愛を実らせることができる・・、となります。

 私たちがするべきことは「絶望の中にいるなら、主に目を向けること」なんです。じたばたしている場合じゃないんです。腹の底から生ける主に叫び求めるのです。
 人はそこまで行かないと、主に叫び求めないんですね。でも主は、それを待っておられるのです。そして絶望と八方塞がりの中で、奇跡的に脱出の道が備えられ、どん底から切り抜ける・・。これはどこからみても主が働かれたとしか言いようがない・・。そして「主よ、これはあなたがなさったことです。あなたの御名をあがめます。」となる。
 これが、主がなさるいつものやり方なんですね。

 結構暗闇の崖っぷちを私たちは通らされたりします。でもそのことを通して主は「わたしが神である。ほかにはいない」ということを、私たちがあからさまに見ることができるようにされるのです。

 次のみことばは、多くの人に愛されている有名なところ(抜粋)です。

"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。"
 詩篇 23篇1~4節

 主は、とこしえに真実なお方です。

 次回から、神が与えられる武具について見ていきたいと思います、

 God Bless You !

 
2020.02.08.Sat 07:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  
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    ■□■ いちはらやすし・こんなことしてますNEWS ■□■

           □□ 2020 / 3 〜 4 月号 □□

 
  あっという間に春ですが、いかがお過ごしですか。
  市原、3-4月は比較的のんびり出来そうです。

  只今、6月に計画中のTRIO' (トリオッ)のツアーの準備に追われています。
  取りあえず、簡単な日程をお知らせしておきますので、チェックしていただけましたら幸いです。

● TRIO’ (トリオッ) ツアー2020「pf,福田重男、bass,森泰人、ds,市原康」

6/18(木) 高崎 スイング・セカンド
 19(金) 軽井沢 オーベルジュ・ド・ノームの森
 20(土) 東京・浜松町・サンミケーレ 開成ライブ + 市原ひかり
 21(日) 横浜 ドルフィー
 22(月) 東京・南青山 Body & Soul
 23(火) 新潟 ジャズフラッシュ + オーベ・インゲマールション
 24(水) 柏崎 KEN’S CAFE
 25(木) 熊谷 スペース1497
 26(金) 東京・代官山 LEZARD
 
 以下は3月4月のライブ、コンサートの予定です。ほぼすべて大野雄二トリオとなっています。一日だけ、「サムエル・カン ワーシップコンサート」。今度は大阪でやることになりましたので、とても楽しみにしています。

 では皆様にお目にかかるのを楽しみにしております。

● 大野雄二関連
 3/ 5(木) 大野雄二トリオ 鎌倉ダフネ
 3/13(金) 大野雄二トリオ 東京・池袋 リビエラ東京
 3/19(木) 大野雄二トリオ お茶の水 NARU
 3/26(木) 大野雄二トリオ 新宿 ジャズスポットJ
 3/28(土) 大野雄二トリオ モーションブルー横浜
 4/19(日) 大野雄二トリオ 調布・柴崎さくらんぼ
 4/24(金) 大野雄二トリオ 新宿 ジャズスポットJ
 4/29(水) 大野雄二トリオ お茶の水 NARU 
   
● その他
 4/ 4(土) サムエル・カンワーシップコンサート 東大阪市・文化創造館ドリームハウス

 以上、ライブの詳細は
  ドラマー市原康のホームページ http://i-produce.net 「ライブ」をご覧下さい。
  みなさまのお越しをお待ち申し上げております。

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 【G-Cafe 聖書のことば】当ブログにて、2019.12.4より毎日連載中
 
 
2020.02.07.Fri 20:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #55
 
【愛する力】

 行いのある信仰・・。その行いのトップは愛することだと、前回書きました。
 さて、愛する力・・私たちにはあるのでしょうか。

 私たちは、自分を愛してくれる人のことは、大体において愛するものです。
 特別に愛してくれる人には、愛をもって返したいと思うものです。
 その人とさまざまな思いを共有して、さらに親しくなりたいと思う。そして喜びをもって、その人のために行動します。
 
 神は、私たちのためにいのちを投げ打って愛してくださった方です。
 もしその愛が少しでも見えたら、この方に付いていこう、この方が望まれることを私はしたい、自分の全てを投げ打ってこの方に従いたい。なぜなら、その方は私を愛し、私の歩みが喜びと愛で満たされるために、御霊によって私を導いてくださるのだから・・となるわけです。
 これが主の愛に捕らえられた者の姿なんですね。

 ですから、主の第一番目の命令は「主なる神を、心といのちと知性を尽くして愛すること」なのですが、それは主が言われたから従うというようなことではなくて、神の愛を知って喜んですることなのです。

 そして二番目に「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令が続きます。

 私たちは、主なる神を愛し、神との交わりを深める中で、神と共に歩むことを少しずつ心得ていきます。
 それは御霊が導かれることに常に思いを向け、それに従って行くという歩みの中で実現して行くんですね。
 こうして私たちは、いろいろな実を実らせる者へと、変えられて行くのです。
 その実のことを聖書では「御霊の実」と言っています。

"御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。"
 ガラテヤ人への手紙 5章22~23節

 御霊の実の筆頭に「愛」が出てきます。筆頭というよりも、それ以降の喜びから自制までのすべてを、この「愛」がカバーしていると言ってもいいかもしれません。試しに、喜び 平安 寛容 親切 善意 誠実 柔和 自制というそれぞれの言葉の前に「愛があっての」と付け加えて読んでみてください。

 要するにこれらすべて、すなわち愛は、御霊によって実るものなのだ。そういう形で私たちに与えられるものなのだ。と言っているわけです。

 ですから、自分の内にはそんな愛はないと、悲観する必要は全くありません。もともとそんなものはない私たちの内に、その愛が御霊によって与えられるのです。

 神の愛は、背を向ける者に対する愛です。そしてそれを受け取った者は、今度は自分に背を向ける者を愛する者になる、というわけです。
 私たちクリスチャンは、神の愛で愛され、神の愛で愛する者へと、少しずつですが、変えられて行く者なのです。

 みことばが最後になりましたが・・。

"愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。"
 ヨハネの手紙 第一 4章7節

 祈り・・「主よ、あなたの愛がわかるようにしてください。」

 次回は「力の条件 弱さ」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.07.Fri 09:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #54

【信仰と行い】
 
"行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。"
 新約聖書 ヤコブの手紙 2章18節

 人は何かを「行う」ことによって救われるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じるという「信仰」によって救われる・・。
 これが福音のメッセージですが、この「救い」の話が「信仰生活」の話とごっちゃになってしまうことが、よくあるようです。

 救われたというのは、罪とサタンの支配から解放されて、神の子として聖霊の支配のもとに入るということです。
 そうなると当然、クリスチャンはこの世に於いては、ある意味で特異な存在となります。

 イエス様は言われました。あなた方は世の光、地の塩です・・と。それは、この世に於いては、ある役割があるのだということです。
 ぼ〜っと生きてんじゃねえよ、という言葉が巷で聞こえてきますが、クリスチャンこそそういう風に叱咤されるべき存在なのかもしれません。私たちはぼ〜っと生きるために、神に召されたのではないのです。  

 イエス様の例え話の中に、主人からお金を預かって、主人が旅に出ている間に、そのしもべがそのお金をどのように使うか・・という話が出てきます。(マタイ25:14-30)
 これは、この世に於いて与えられたものを使って、何をするかが問われるのだという話です。そしてそのチェックを受けるのが「主人が帰ってくる日」すなわち、キリスト再臨の時だというのです。

 主が私たちに望まれる行いの筆頭・・それは愛することだと書いてあります。それは、福音を宣べ伝えることなどよりも、ランクが上だというのです。(1コリント12章参照)
 結局この話は、御国に入れる入れないの話ではなくて、あなたは御国に入れるんだけど、地上での働き「どれだけ愛したか」は、あとで評価されるんですよという話です。

 もう一つ、パウロが書いたコリント人への手紙第一の3章12-13節には、キリストという土台の上に家を建てる人の話が出てきます。

"だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
 それぞれの働きは明らかになります。
「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。"

 そしてこの後には不思議なことが書いてあって、その火を通って家が残ればいいけど、もし焼けてもその人は「火の中をくぐるようにして助かる」というのです。

 この、財産を預かる話も、家を建てる話も、救われる救われないの話ではなくて、クリスチャンが地上でどのような信仰生活をするかという話なんですね。救いは決定しているのです。けれども主人が帰ってくる日に「火」を通して、地上での行いに評価が下されるのだというのです。

 主が私たちに、行うように求めておられることはすべて、次の二つにかかっています。
 ひとつは、主なる神を心といのちと知性と力を尽くして愛すること。
 そしてもうひとつは、隣人を自分自身のように愛すること。
 です。(マルコ12:29-33)

 主を愛して、人を愛するんです。人にランクなどはありません。
 キリストと共に十字架に掛けられた強盗の一人は、その日のうちにパラダイスに招かれたのです。

 冒頭の「行い」とはそのことなんですね。

 祈り「主よ、あなたが私を愛してくださっている、その愛をもっと教えてください。」

 この話、もう少し続けましょう。

 次回は「愛する力」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.06.Thu 10:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #53
 
【正しいとされる人】

"義人はいない。一人もいない。"
 ローマ人への手紙 3章10節

 ここでちょっと一息入れて、神との関係における基本的なことを、ひとつ思い出してみましょう。
 
 聖書に登場する人物を見渡しますと、ほとんどが皆ひどい失敗を犯してしまう、情けないと言われても仕方がないような人ばかりが出てきます。
 アブラハムにしてもモーセにしてもダビデにしても、そしてソロモンにしても、ひどい失敗をしています。失敗というのは、正しくないことをしてしまったということです。
 また、新約聖書の書簡の多くを書いているパウロなどは、自分を罪人の頭であると断言していますし、12弟子の筆頭のペテロなどは「私はイエスなんて人は知らない」と、何度も証言してしまったような人です。
 でもこういう人たちが、神がなされる大きなみわざのために、神の器として用いられているんですね。

 神が彼らを用いた基準は何だったのでしょうか。次にそのわかりやすい二つの例があります。

 イスラエルが王国となった初代の王はサウルと言います、そして二代目がダビデです。
 二人は神に選ばれ、王としての自覚を持ち、神に仕え従う王として、その歩みを始めます。ところが二人とも、神の前に大きな罪を犯してしまうんですね。しかしこの二人の間には、決定的な違いがありました。
 サウルは罪を示されてもなお、自分を弁護し、最後まで保身の姿勢を変えませんでした。それに対しダビデは、罪を指摘されたときにそれを認め、神の前にひれ伏し、悔い改めたのです。
 結局サウルの王位は退けられ、ダビデの家系は「ダビデの子」と言われるメシヤの家系となるという、この上ない祝福に預かるのです。
 
 ダビデの悔い改めの根底にあるもの、それは・・
 主は本当にまことの神、自分の上におられる、あがめられるべき神であり、自分がどのようなさばきを受けようとも、絶対的に神は神、不動の神であり、神に不正など絶対にないということをはっきり認めている、そういう信仰なのだと思います。
「自分は悪くとも、神は絶対に正しい」・・これがダビデの姿勢です。

 私たちは神の前に、一人たりとも「義人」と言えるような者はいない・・。このことを今日のみことばは断言しています。
 イエス様は、終わりの時に御国に招き入れられるのは、どういう人なのかということを、多く語っておられます。
 ところが、義人はひとりもいないのだとしたら、それでは絶望状態です。

 ところが聖書のメッセージの最大のポイントは、このことの上にあるんですね。
 そんな私たちのことを主はあわれみ、顧みられ、ご自分を私たちの罪のための犠牲とされ、これがあなたを赦したしるしだよと、世に示され、そにある神の大きな愛を表された・・これが福音=Good News であるわけです。
 救われる道があったんだ!という話です。

 ダビデは、自分の罪を認めた・・ここがミソです。そして神をあくまでも神と信じる人を、神は「義」とされるんですね。
 ですから逆に言えば・・
 あなたが神に「義」とされる資格、すなわちクリスチャンとなる資格がないなどということは、有り得ないのです。
 条件は、イエス・キリストを救い主として信じること。それだけなのですから。

 明日も基本的なところ「信仰と行い」について見てみたいと思います。

 God Bless You !

 
2020.02.05.Wed 12:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #52

【祈り-6 とりなしの祈り】

"そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。"
 テモテへの手紙 第一 2章1節

 ここでパウロは、すべての人のために祈りなさいと言っています。
 またエペソ人への手紙の6章でも、すべての聖徒 (主にある兄弟姉妹) のために、またパウロ自身のためにも祈ってほしいと言っています。
 
 私たちクリスチャンは「とりなしの祈り」という言葉をよく使います。それは、自分のためにではなく、人のために祈る祈りです。
 聖書においては 「とりなす」とは、罪を犯した人間のために神に取り持つという意味があります。
 ですからイエス・キリストが罪人のために身代わりに自らが犠牲となられ、神との関係を回復させるという、その役割そのものが、とりなしであるわけです。

 クリスチャン同士で、互いの必要のために祈るということをします。それは相手の人のために、またある人のために、代わって神に祈るということです。それは日常生活の中の、困難や願いのためにということが多いかもしれません。
 しかしその根底には、その人の神との関係が正しいところに向かうように、という思いが必要なんですね。なぜなら、誰にでも常に最大の必要は「主ご自身」だからなんです。

 こうして見ると、とりなしの祈りは、御霊によっていただいている、救霊の思いや兄弟姉妹に対する愛から出てくるものであることがわかります。
 それはすなわち、イエス様の心をもって、また御霊の思いをもって祈る祈りだということなんですね。

 今日の箇所で、特に注目したいところがあります。それは「王たちと高い地位にあるすべての人」のためにも願い、祈り、とりなし、感謝をささげよ、というところです。
 次の節にはこんなことが書かれています。「それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。」と。

 この文脈を見ると、王たちや高い地位にある者・・それは逆に言うと「不安で落ち着かない生活」の原因となる可能性のある人たち、ということになります。
 それはすなわち迫害する側の人のことで、その人たちのために祈れと言っていることになります。
 そしてその祈りは、命の危険のある状況の中でも「敬虔と品位と平安と落ち着きのある生活」につながるのだというわけです。

 これを、今の私達の生活に当てはめますと、自分を害する人、自分に敵対する人、自分を嫌う人のために祈る、というところに通じるのではないでしょうか。
 そして、その祈りをすることは、あなたが「敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を保つ」ことにつながるのだというわけです。

 今日から「あの人」、特に自分に悪くする人のために祈ってみませんか。
 祈り始める時に、あなたは御霊に満たされて、その人の上にある主の愛を体験するに違いありません。
 それは、御霊の思いそのままなのですから・・。
 そしてその祈りを続けましょう。
 これは、主にある者たちの義務なのですから。

 祈り・・「主よ、あの人のために祈る力を、私に与えてください。」

 祈りシリーズはこれで終わります。
 もう一つの候補に「異言の祈り」というのがありますが、また機会を見て書きたいと思います。

 次回は、「正しいとされる人」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.04.Tue 11:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #51

【御霊によって歩む】

"御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。"
 ガラテヤ人への手紙 5章16節

 前回は「御霊によって祈る」でしたが、それに関連して「御霊によって歩む」を見てみたいと思います。

 私たちの内には、罪びとの時代に従っていた古い肉の性質が残っているので、肉の欲望の方に心が動いてしまうことが時々あります。でも「御霊によって歩む」ならば、それは完全に回避できるというのです。
 本当だろうか。だってそんな歩み、できそうな気がしないもん・・という声が聞こえてきそうです。

 次の17節には、こうあります。

"肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。"

 願っていることとは、肉が願っていることです。
 前回の祈りの時と同じように、御霊に自分の思いを預けてしまえば、私たちは御霊の支配下に置かれます。そしてこの17節では、御霊と肉とは互いに対立していて、共存はできないのだと書いてあるわけですから、御霊の支配下において、肉の思いは一緒にいることはできないわけです。だから肉が願っていることはどこかへ行ってしまって、肉の欲望を満たすことはない、というわけです。

 ここで私たちがやらなければならないことは、御霊の方を「選ぶ」ということなんですね。
 私たちは、古い自分がキリストと共に十字架で釘付けにされた者です。そこに与えられているのは御霊の思いで、基本的には、いつもそちらを選択する人になっているはずなのです。
 でも、そこに登場するのがサタンなんですね。肉の時代の記憶をバンバン弓矢で飛ばしてくる。ホントなんですよ。
 うっかり肉の思いに心を奪われてしまうと、今度は御霊が共にいられなくなるというわけです。でも主は、決して見捨てず、見放さないと言われていますので、御霊が出て行ってしまうということはないのですが、残念ながら、見えなくなってしまうんですね。
 ここに、自分の中での戦いがあるわけです。

「心で御霊の方を選ぶ」・・、なかなか難しいかもしれません。ちょっと気を許すと、心が肉の方を慕っていたりするからです。
 実に私たちは、御霊の方に心を向けることさえも、主の御力に依り頼まなければできないような者なんですね。

 これはもう「すべて」を主に明け渡すしかない、という話なんです。
 その時に与えられる御霊によって、信仰が与えられ、主を選びたいという思いが与えられ、そして実際に選び取る力が与えられ、主と共に歩む者とされるわけです。
 こうして私たちは、ますます主を愛し、主と共にいることの幸いを深く知り、それを求め、他のものは「ちりあくた=塵芥」に過ぎないという思いに近づいて行くんですね。

"まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。"
 詩篇 84篇10節

 この「前味」をみなさんと分かち合うことができたら、それはもう、この上ない喜びです。

 祈り・・「主よ、あなたに明け渡すことを教えてください。」

 次回は祈りに戻って「いのり-6 とりなしの祈りです。

 God Bless You !
 
 
2020.02.03.Mon 14:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #50

【祈り-5 御霊による祈り】

"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章18節

 御霊によって祈るとは、どういう祈りなのでしょうか。
 御霊によって・・ですから、それは「御霊の力を得て」ということになります。

 クリスチャンの内には、いつも聖霊がおられます。
 イエス様は天に上られるとき、わたしはあなた方に助け主を送ると言われました。それが三位一体の神の内の聖霊=御霊(みたま)です。聖霊様と呼ぶこともあります。
 聖霊は、知恵であり、力であり、実際に私たちに語りかけたり、行動を促したり、それを助けたりするお方です。
 要するに、御霊は神の意志そのものなんですね。

 ですから、御霊によって祈るということは、神の意思で祈るということになります。 
 ならばその時には、自分の思いはちょっとしまっておく必要があるわけです。

 今、内におられる御霊を覚え、主に向かって口を開いてみてください。
 自分の段取りではない、さまざまな思いとともに、いろいろなことばが口から出てくるかもしれません。それが「御霊による祈り」です。

 それは悔い改めの祈りになるかもしれないし、またある人のためや、教会のためや、まだ神のもとに帰っていない多くの人々のための祈りだったりするかもしれません。
 祈った者自身も、思わぬものが出てきたりしますから、その祈りで神のみこころを知ったりするわけです。

 ヨハネはこんなことを言っています。

"何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。"
 ヨハネの手紙 第一 5章14節

 ならば、御霊による祈りは神のみこころそのままですから、確実に聞かれる祈りだということになります。
 だったら、どんどんしたいですよね。

 さらに今日の聖句(みことば)には、「どんな時にも」と書いてあるんですね。
 これ・・ひょっとすると、祈るならいつも、御霊によって祈りなさい、という意味にも取れますよね。

 ともかく、御霊による祈り・・、是非チャレンジしてみてください。

 祈り・・「主よ、御霊による祈りを教えてください。(後は省きます)」

 次回は「とりなしの祈り」です。

 God Bless You !
 
 ※ 御霊によって祈る時、口から意味不明のことばが出てくることがあります。それは「異言/いげん」である可能性があります。
 異言は聖霊に満たされた者の口から出てくるもので、聖書の中でも見られるものですので、心配なさらないでください。異言についてはいずれ触れたいと思います。(コリント人への手紙14章参照)
 
 
2020.02.01.Sat 10:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #49
 
【祈り-4 応答の祈り】

"主が来て、そばに立ち、これまでと同じように「サムエル、サムエル」と呼ばれた。
 サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。"
 サムエル記 第一 3章10節

 これは、預言者サムエルが少年の頃、祭司エリに仕えていた時のことで、サムエルが初めて、神から直接語られた時の話です。
 サムエルは、自分が呼ばれる声を聞いて、それをエリが呼んでいるものと思い、何度もエリのところに行くのですが、エリが呼んだのではありませんでした。その様子を見ていたエリは、サムエルが神に呼ばれているのだと気付くのです。それでエリは「今度呼ばれたら『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」とサムエルに告げたという・・その話の中の一節です。

 エリは、神に語られるということを知らなかったサムエルに、神の御声に耳を傾けることを教えられたわけです。

 私たちが聖書を読む時や礼拝でメッセージを聞く時、この「主よお話しください。しもべは聞いております。」という姿勢は、その時が実のある時となるためには、とても重要です。
 その時に私たちは、ある特定のみことばが心に響き、それが離れなくなってしまうことがあるんですね。そしてそれを繰り返すことで、主が語ってくださるとはこういうことかと、徐々にわかってくるというわけです。

 さて、ここからが主題なのですが、それは、そのような時に私たちは、返事をすることが求められている、ということなんです。
 例えば「主よ、それが本当なら、本当だとわかるようにしてください」とか「わかりました。ただ、私にはそれをする力がありませんから、それを実行する勇気と力をください」とか、またあるときには「私は本当に罪深い者でした、悔い改めて、今再びあなたの十字架を見上げます。私の罪をお赦しください」ということもあるかもしれません。
 とにかく、自分のありのままの思いを申し上げるのです。
 
 お父さんが自分の子に語る時、子が何の反応もせず、分かったとも言わず、そのまま外に遊びに出て行ったら、お父さんは怒りますよね。「わかったのかどうか、返事くらいしなさいっ!」と。
 返事をしないというのは、父の権威を認めていないという態度です。
 ですから、語られたのが父なる神であるならそれは、絶対なる主権者、あがめるべきお方を無視するという、もともとの罪びとの姿と、何ら変わりがないことになってしまいます。

 でも、一言でも主に応答するならば、それが主とのコミュニケーションの入り口になるんですね。
 心にあることをそのまま申し上げることは、実は主との関係を深める上で、とても重要なことです。
 そういう関係の中で、自分が本当に求めるべきことはこっちだったのかと、軌道が修正されていったりするわけです。そうなると祈りの意味も、ずいぶん違ったものになるのかもしれません。

 このような主との関係の中で、私たちは「主と共に歩んでいる」という実感を持てるようになるんですね。
 そして、自分が思い描いていることを遥かに超えた、主によって備えられた、冒険の人生を歩み始めるのです。

 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます!) と叫びたくなります。

 ようこそ、冒険の世界へ・・!
 と、言いたい。(笑)

 祈り・・「神様、聖書を読みますから、私にお語りください。そして私が答えることも、忘れることがないようにしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 次回は「御霊による祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.31.Fri 12:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #48

【主の祈り その10】

「主の祈り」にはほとんどの場合、最後にもうひとつ言葉があります。
 それは・・
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」

 この最後のことばでは、それまでに祈ったすべてのことについて、どうしてそんな願いができるのかという、理由を述べているんですね。
「〜だからこそ、こんな祈りができるんです」・・と。

 その理由は、こうです。

 私は以上6つのことを祈りましたが、
 それはあなたがまことの神であり、
 国を興すも滅ぼすも
 あらゆる力(権力)も
 それが栄えるのも衰えるのも
 ぜ〜んぶ、あなたのみ手の中にある
 あなたは、そのようなお方だからです。

 だからこそ、私はあなたに祈るのです。これを求めることのできるのは、まことの神、主よ、あなたのほかには誰もいないからです・・と。

"キリストはすべての支配と権威のかしらです。"
 コロサイ人への手紙 2章10節

・・この主への信仰の告白と、賛美の思いで、この祈りを締めるわけです。

 主の祈りが、ただ習慣的に唱えられているだけだとしたら、それはとても悲しい状況だと言わなければなりません。

 6つの祈りについて、もう一度まとめてみます。

1.「御名が聖なるものとされますように。」
 ・・福音が広がって、ますます主の御名があがめられることを、御国への展望の中で願う。

2.「御国が来ますように。」
 ・・約束の御国と、主の再臨を待ち望む。

3.「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
 ・・地上における聖霊の著しい働きを求める。

4.「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」
 ・・必要なもののすべてを与えてくださる主への、信仰告白を込めた願い。

5.「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」
 ・・十字架という、自分への赦しのみわざを確認した上での告白。

6.「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
 ・・みことばと祈りの生活が、できているかを確認した上での願い。

 力強い「主の祈り」が、すべての教会でささげられますように!

 これで祈りのシリーズの3番目「主の祈り 全10回」を終わります。

 次回は「祈り-4 応答の祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.30.Thu 04:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #47

【主の祈り その9】〈皆で祈る祈り〉
 
 主の祈りの中には「私たち」という言葉が6回出てきます。そのことを意識すると、例えば試練だったら「群れとして受ける試練」と言ったイメージが浮かんできます。

 群れ(教会)として受ける試練で、先ず思い浮かぶのは、教会が始まってから今日に至るまで、ずうっと続いてきた「迫害」です。
 この迫害によって、数えきれないほどの人がイエス・キリストの名の故に殉教 (信仰の故に殺される) してきました。それは多くの場合、キリスト教を排除しようとする権力者による死刑でした。その数は日本だけでも20万人だそうです。(ウィキペディア参照)
 現在では、イスラム圏や中国で信仰を持つことは命がけです。そして殉教者の数は、報じられてはいませんが、決して減ってきているわけではないそうです。

 そしてもう一つ、教会が会う試練として、教会内に微妙に違う教えが入り込み、福音を骨抜きにしていくという「異端の教え」があります。
 この世における教会の使命は、イエスこそがまことのキリスト=救い主であり神であることを証しし、滅びゆく魂を救いに導き、永遠のいのちと御国への希望を得させることです。
 ところが異端の教えが入り込むことによって、イエス・キリストの存在とか十字架がいつのまにかどこかへ行ってしまうという「福音の空洞化」を招くようなことが起こります。 
 すると、永遠のいのち、キリストの再臨と天の御国という、神が提供されているものからは、全く視点が逸らされてしまって、慈善や博愛、また精神修養などを標榜する人の集まりになったりするんですね。こういうことは新約聖書の書簡(手紙)の中でも既に見られます。

 異端は現在、はっきりした宗教団体がいくつもありますが、教会の中にも異端の教えが忍び込むこともあるようです。
 異端とは、聖書を使っていながら、その本筋を大きく外れている教えです。異端を見分けるのに簡単なリトマス試験紙のような言葉がありますが、それは「イエスは神ですか」というものです。
「はい、そうです」と言えなかったら、おそらく異端ですから注意なさってください。
 そのようなところでは、行いやお金を積むことで救われると教えられたり、聖書のほかに「正典」なるものがあったりします。

 迫害は力づくで、そして異端は教えのすり替えによって、まことの神があがめられるのを、あらゆる手を尽くして阻止しようとして働く力、すなわちサタンの働きの顕現 (見える形で現れること) なんですね。
 これが「悪からお救いください」の「悪」の正体です。

 今の日本にはあまり危機感がありませんが、いつ体制がひっくり返るか分からないのが、今の世界情勢です。そして世界の半分では、クリスチャンたちが命をかけて信仰を守っています。
 教会が悪の力によって試練に立たされることのないように日々祈ることは、私たちの当然の務めなのではないでしょうか。そしてそれは「自分の教会が」というイメージではなく、全世界に於いて一つの「キリストのからだ」という意識をもって祈っていくことが求められているのだと思います。

 次回は、「主の祈り」の最後に付け加えられる言葉・・
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」
 について考えてみようと思います。

 おっとその前に・・、主の祈りは、個人で祈ることを否定するものではありませんので、お一人でも祈ってくださいね。イエス様が教えられた祈りですから。

 God Bless You !
  
 
2020.01.29.Wed 08:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #46

【主の祈り その8】

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」

 試みと言いますと、試練すなわち誘惑、困難、失敗、挫折、絶望など、信仰生活に於いても順風満帆には行かない様々なことがあります。
 
 次の二つのみことばを見てください。

"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。"
 コリント人への手紙 第一 10章13節

" 苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っている 〜 "
 ローマ人への手紙 5章3~4節

 これらのみことばは、どんな試練の中でも神は必ず共にいてくださり、脱出の道を備えてくださるし、返って私たちに良いものをもたらすのだ、と教えているわけです。
 となると、今日の祈りの後半の「悪よりお救いください」という願いの言葉が、なんとなくピンとこなくなるんですね。

 しかし一方、こんなみことばもあります。

"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。"
 ペテロの手紙 第一 5章8~9節

 私たちは、実はこの悪の力に常にさらされているんですね。そして、主が完全に勝利をされたのだから、この悪の力は消え去ったのかというと、そうではないのです。私たちを神から引き離そうとする力は、今もあらゆる機会を狙って攻撃してきます。特に私たちが神に近付こうとすればするほど、その力も増してくるので、とてもわかりやすいんですね。
「悪からお救いください」の「悪」とは、サタンのことです。
 サタンがしようとすること・・、それは「神を見えなくすること」です。

 パウロは、信仰生活には戦いがあるのだと言っています。

"私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。"
 エペソ人への手紙 6章12節

 そしてさらに私たちには、この戦いのために与えられている「武具」というのがあって、それを用いればサタンの力に振り回されることはない、というのです。
 武具、それは真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣であるみことば、御霊による祈り・・という7つのことばで表現されています。

 この7つの内、特に最後の二つ、即ちみことばと祈りは、「御霊の」とか「御霊による」とか言われているように、主との関係をさらに深めていくための重要なものです。そしてこの二つが土台となって、他の武具についても理解が深まり、武具を使いこなす者としてさらに成長させられていくんですね。
 みことばと祈りは、戦いにおける必須のアイテムなんです。

 こうして見ると、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」という祈りは、祈りと聖書を読むという備えがされている上での、戦いの最前線でする祈りである、ということがわかります。

 このように主の祈りは、最後まで実に様々な角度から、信仰生活の見直しをさせてくれる祈りなんですね。

 この主の祈りシリーズ、もう少し続きます。

 次回は「皆で祈る主の祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.28.Tue 11:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #45

【主の祈り その7】

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」・・続きです。

 前回は「交通事故で我が子を失った人がこれを聞いたら、どうなるのでしょうか。これでは八方塞がりです。」というところで終わりました。

 私たちは、こういうことの小さなケースだったらよく体験するのではないでしょうか。小さなことを赦せないんです。
 自分が赦されていることをすっかり忘れて、人のことは赦せなくなるという、どちらかというと情けない状態です。
 ひょっとしたら私たちは、日常的にそういう状態に陥っているということはないでしょうか。
 
 ペテロはイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」とお聞きしたら、イエス様は「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」と言われました。(マタイ18:21-22)
 もちろん490回までは許しなさいという意味ではありません。完全に赦しなさいという意味です。
 私たちは、そうしなければいけない存在だというのです。

 小さなことでさえも赦せないというのは、一体どういう状態なんでしょうか。
 それは・・、自分が赦されているということについて、本当に思い知ってはいない、ということなのではないでしょうか。
 簡単に言えば「十字架の意味が漠然としている」ということです。

 自分が赦されていることに実感が持てていないから、赦すことができない自分がそこにいたとしても、当たり前のように思っている・・。そのような事態になってしまうわけです。

 私たち(クリスチャン)は、イエス様の十字架のあがないという保証書をいただき、永遠に赦されながらこの地上を歩んで行ける者とされているんですね。
 そうでなかったら 「私たちの負い目をお赦しください。」という祈りは、赦されるかどうかもわからないのに、ただ物乞いをする様に祈るということになってしまいますが、そうではないのです。この祈りは確実な赦しをいただいている者としてする祈りなのです。

 そして「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という祈りは、その土台の上での祈りであるわけです。

 この五番目の祈りを祈る時に、それが真実な祈りであるという実感を持てないとしたら、その人に必要なことは、次のように主にお願いすることなのではないでしょうか。

「主よ。この私が、あなたの十字架の意味を、十字架上での苦しみの意味を、それが愛であるということの意味を、明確に知ることができるようにしてください。」と。

 イエス様は例え話の中で、熱心にしつこく、何度も何度も求めなさい。そうすれば聖霊は与えられるのです、と言っておられます。(ルカ11:13)

 十字架の意味は聖霊によって初めて見えてくるものです。ですから十字架の意味が見えるように、粘り強く願い続けることをお勧めしたいと思います。

 主の祈りが、力ある祈りとなるためには、クリスチャンであることの土台ともいうべきこの部分が、固く据えられている必要があるんですね。

 赦し難い加害者を赦すというクリスチャンの話を聞くことがありますが、それは、この十字架という土台の上にあって、初めてあり得る「神の奇跡」なのです。

 次回は、最後の願い「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.27.Mon 06:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #44

【主の祈り その6】

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 負い目とは、赦すか赦さないかを問われている状態のことです。
 人との関係に於いて、これは避けられないことなのではないでしょうか。残念なことですが、クリスチャン同士でさえ、許す許さないの関係になってしまうことがあります。

 クリスチャンは、キリストのあがないを信じて、救いそのものとなってくださったキリストを自分の内にお迎えして、古い自分に死んで新しいいのちに生きる歩みを始めた者です。
 しかしながら、肉体には罪の性質というものがあって、それが残っているんですね。クリスチャンだからといって、別に立派な人になったわけではないのです。次のみことばがそれを語っています。

"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。" コリント人への手紙 第二 4章7節

 宝とはキリストご自身です。そしてキリストをいただいている私たちは「土の器」だというのです。ちょっとぶつけるとすぐに壊れちゃうんです。そのようなもろさ、弱さ、そして愚かさを持つ私たちから、光が輝き出てくるものだから、「これはあんたじゃないわ」と、人々はそこに立たれているキリストを見るというわけです。もしその人が土の器じゃなくて、立派な陶器のようだったら「あんたは偉い!」となってしまって、逆にキリストの存在が隠れてしまうんですね。だから「土の器」であることは、それで良いです。
 しかし、「土の器」は愚かなこともしてしまうんですね。
 そして、冒頭で書いたような「赦すか赦さないかを問われている状態」、すなわち負い目を負ってしまうようなことさえあるわけです。

 でも私たちは、キリストの十字架の下に身を置くことによって、その都度キリストの赦しと愛の中に立ち返ることができる。要するに、神に愛され、赦され、さらに赦され続けている者なんです。
 でもそれがために、逆に身動きの取れない状態にはまってしまうことがあるんですね。
 それは、ただ信じただけで赦されたのに、また今も赦され続けている者なのに、「自分に負い目のある人を赦せない」・・という事態です。

 これだけはどうしても赦せないということ・・、おそらくあると思います。例えば交通事故で我が子を失った親御さんは、加害者を憎み赦せない心に苛まれて、本当に苦しまれるのだと思います。許せないからといって、それを責めることなど、できようはずがありません。

 でもイエス様は、この「主の祈り」を教えられた直後に、こんなことを言われているんです。

"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。"
 マタイの福音書 6章14~15節

 交通事故で我が子を失った人がこれを聞いたら、どうなるのでしょうか。これでは八方塞がりです。

 今回は長くなりそうなので、二回に分けたいと思います。

 この答え・・知りたいですよね。

 では次回。、

 God Bless You !
 
 
2020.01.25.Sat 06:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #43

【主の祈り その5】

 主の祈りの後半の三つは、「自らのことについて、神に求めるべき基本的な願い」です。

 その第一番目。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」

「今日も」というところに注目してください。これは、昨日まで与えられたすべてのものは、あなた(神)が与えてくださったものですという、信仰の告白に他なりません。
 
 このように、すべてのことの上に主を認めることは、信仰の基本です。
 ところがうっかりすると、自分に能力があるからだとか、自分が努力してるからだとか思ってしまいがちです。
 しかし能力はもちろんのこと、努力する力や、さらには努力しようとする思いさえ、神から与えられているものなんですね。それらが一瞬のうちに取り去られてしまって初めて、あれは自分のものではなくて与えられていたものなんだと、気付いたりするわけです。

 ですから日毎の糧を「今日も」と言うことは、その信仰に今日も立っていますということを、神の前に言い表すことであるわけです。そしてその姿勢を神は喜ばれるのです。

 信仰は、神が私たちを判別するための最も大切なポイントなんですね。信仰こそが実は、神の前に一番へりくだった姿勢だからです。

 ですから、祈るときには「今日も」というところに、心を込めたいものです。
 主はそれを聞かれるたびに、微笑んでおられるに違いないのです。

 次回は、自分のことについての二番目の祈り・・
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.24.Fri 09:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #42

【主の祈り その4】

 主への願い。その三つ目。

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」

 前半の三つは神の国に関することだと書きましたが、この三番目の願いは、その神の国の力がこの世にもたらされるための願いです。

 天とは、ある空間のことを言うのではなくて、神とその右の座に着かれておられるイエス・キリストの存在そのもののことを指しているんですね。
 ですから天では、神のみこころが行われるのに、障壁はどこにもないわけです。
 それに対し、地上とその空間は「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)」すなわちサタンが私たちの目に覆いをかけて、その心が神の方に向いたりすることが決してないようにと暗躍している世界なんですね。

 ところが神は、今この暗闇の世において、サタンの支配に風穴を開けられたのです。それが御子イエス・キリストの十字架による、すべての人の罪のあがないと、復活による死の力の無力化です。
 なぜそれが風穴なのかと言うと、サタンは罪と死という、二つの切り札を使って、私たちを神から引き離そうとしているからです。その二つの切り札が、イエス・キリストによって完全に無効とされてしまったんですね。それで、人々が神の国に一歩足を踏み入れるための扉が開かれたのです。
 そして、このイエス・キリストを心にお迎えした者は、罪と死から解放された「世の光」とされて、暗闇を照らすようになるのです。

 世の光・・それはその存在によって、人々がそこに神を見るという役割を果たす存在だということです。
 クリスチャンが自覚しなければならないことは、自分が神の権威を帯びてこの世に立っているということです。
 サタンの支配が打ち破られて、風穴が開いているのは、このクリスチャンを通して神の栄光が表されるところだけなのです。

 そしてさらに、もう一つ考えなければならないことがあります。それは、福音が広がり多くの者が神に立ち返るというのは、聖霊の働きだということです。
 キリストが天に上られた後の著しい聖霊の働きを見れば分かるように、世に光をもたらすその働きをするのは、実は聖霊であって、その聖霊に仕えるているのがクリスチャンだということです。
 
 ですから「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るときには、以下のことをはっきりと覚えるべきなんですね。

 この祈りは、聖霊の著しい働きが、教会とその地域と国の上にあるようにという願いであること。
 そして祈る自分自身も、御霊に自らを預けて、神に用いていただく者にしていただきたいという願いであること。

そのような思いで、毎回祈っていきたいものです。

 これで神の国に関する願いが出揃いました。

 そして後半は自分に関わる身近なことについての祈りです。
 
 God Bless You !
 
 
2020.01.23.Thu 09:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #41

【主の祈り その3】

 主の祈りの二つ目の願いは、
「御国が来ますように」です。

 聖書には、メシヤであるキリストは、二回来られると書いてあります。
 一回目は、ベツレヘムで赤子として生まれ、人の子という姿で地上に来られました。すなわち初臨のキリストです。

 そして二回目を再臨と言います。キリストはまだ再臨していません。キリストの再臨は、旧約聖書の多くの箇所や、イエス様のことばや弟子の言葉、そして黙示録に預言されているところの「終わりの時」にあるとされているものです。

 初臨は救いの完成をもたらしたものですが、再臨は救われる者とさばかれる者とをふるい分けるために、天上の御姿をもって再び来られるというものです。

 そしてそのあとに用意されているのが、地上に於ける千年王国という、キリストとその聖徒たちが支配する世の中。さらにそのあとには、今の天地は消え失せ、新天新地「天のエルサレム」が与えられるというのです。

 御国とは、千年王国なのか天のエルサレムなのか、意見が分かれるようです。
 でもイエス様は御国のことをたくさん話されていて、そのほとんどが、この御国に入れる人と入れない人の話なのですが、黙示録によれば、それが確定するのは天地が滅び去った後のことなんですね。
 またマタイの福音書には、御国という言葉が45回も出てくるのですが、その内の32回は「天の御国」なんですね。
 だったら「御国」というのは、地上に実現する千年王国のことではなくて、神のすべての計画の最終の着地点、天のエルサレムだということになります。

 どちらにしても、御国の到来を待ち望むということは、主の再臨を待ち望むことでもあるわけです。
 でも私などは、神と出会う人々がもっと起こされなくてはと思うと、「イエス様、もうちょっと待っていただけませんか」と言いたくなってしまいます。

 しかし今、世界は歴史上見たこともないような事態になっています。それは1%の人間が全世界の富の90%を握っているという、恐るべき「終末的な」状況です。しかもその1%の人間は、自分の富をさらに増やし続けなければいけないという構造の中で、そこから抜け出そうとしているならまだしも、そのために人の命を虫けらのように扱って、金儲けにいそしんでいるという有様です。
 貧困や飢餓や難民・・それらはすべて利権獲得を最優先にして引き起こされた出来事の結果です。
 聖書によれば、こういうことは空中の支配の権威を持つサタンが、罪の性質を持つ人間を、死への恐れでがんじがらめにし、とにかく自分を守るという行動原理の中に閉じ込めた、その結果が形になって現れて来たものだというのです。
 貧困や悲惨の中に生きる人々にとっては、こんな世の中は生きる価値のないところです。

 神は、永遠というスパンの中で「今」を見せてくださり、この世では寄留者で、帰るべき故郷を持つ旅人なのだということを示してくださいました。

"彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。
 ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
 神が彼らのために都を用意されたのです。"
 ヘブル人への手紙 11章16節

 結局この「御国が来ますように」という祈りは、この暗闇の世にあって、本当の光の世界が約束されているということを覚え、主の再臨を待ち望む祈りなんですね。
 ですから「御国が来ますように」と祈るたびに、私たちは主の再臨の御姿を思うのです。

 次回は三つ目。
「みこころが天で行われるように、
 地でも行われますように。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.22.Wed 10:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #40

【主の祈り その2】

 主の祈りについて、そのひとつひとつを見ていきたいと思います。

 まず冒頭の「天にいます私たちの父よ」に関しては、#38の「祈り/最初の言葉」をご参照ください。

 今回は、主の祈りの6つの願いの一つ目。
「御名が聖なるものとされますように」
についてです。

 今までの多くの聖書では、ここは「御名があがめられますように」となっています。また教会の礼拝では、「御名をあがめさせ給え」と祈っているところもあります。
 しかしこの三つの言い方を見ても、なんとなく分かりにくいのではないでしょうか。

 その意味を一言で言えば、「主なる神が本当に神としてたたえられることを私は願い、それを喜ぶ者です。」という思いを表す祈りです。
 そしてこれがまず、筆頭の願いであるべきだというわけです。

 神をたたえるのは「人々」です。それを望むということは、世の人々が皆、まことの神様を礼拝するようになりますように・・という願いに通じます。
 しかし、この世の人々は神から離れて、神に背を向けて歩もうとしています。そしてその人々の心をしっかり掴んで、神に目を向けさせないようにしているのがサタンで、この世はそのサタンの支配下にあるのだと聖書は言っています。(エペソ2:2)
 そこにイエス・キリストによる救いのみわざが成し遂げられ、今は地の果てまでその救いが届こうとしているわけです。
 要するにそれは、一人一人が神の手の中に取り戻されてきているということです。そしてその一人一人が、神の御名を聖なるものとしてあがめる者となるわけです。

 でもサタンは相変わらず暗躍を続けています。世はまだ神の手に取り戻されてはいません。今まで見てきた神の全体の計画によれば、このサタンが完全に駆逐されるのは、世の終わりの時点なんですね。そして神の手に完全に取り戻される世界が実現するのは、そのあとだというのです。
 そしてこここそが、文句なしに御名が聖なるものとしてあがめられるところであるわけです。

 ですからこの「御名が聖なるものとされますように」という願いは、世の人々の救いに始まり、最終的には完全に神の支配下にある御国を求めるという思いにもつながる、壮大な祈りなんですね。
 またこうしてキリストと共に歩むようになった者に、どのような希望が与えられているのかを、その都度思い起こさせてくれる祈りでもあるわけです。

 次回は主の祈りの二つ目、
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
 です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.21.Tue 11:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #39

【祈り-3 主の祈り】

"ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』"
新約聖書 マタイの福音書 6章9~13節

 今日の箇所は、イエス様が弟子たちに、「祈る時は、こう祈りなさい」と言われて教えたもので、これを「主の祈り」と言っています。

 しかしここには、賛美も感謝もとりなしの祈りもありません。ならば、祈りはそれだけしていれば良いのかというと、そうではないんですね。この「主の祈り」は、神に求めるべきことについての教えなんです。

 イエス様はこんなことを言われました。

"あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。" ヨハネの福音書 15章7節

 何でも欲しいものを求めていいのだけど、ただし条件は、イエス様ご自身とそのみことばに、しっかりとどまっていることだからね・・と。

 私たちは、何でも求めよと言われると、「あれください、これください」と、自分勝手な思いから、必要なことを求めてしまいがちです。
 この「主の祈り」は、本当に必要なことはここに集約されているのだから、これをいつも求めていなさい。そうすれば本当に必要なものはすべてついてくるのです、といった意味が込められているんですね。
 そしてこれは、同じ6章の最後のみことばへと繋がっているわけです。

"まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。" (マタイ6:33)

 ですから、この「主の祈り」は、神の国と神の義を求める祈りでもあるわけです。
 主の祈りには6つの願いが並んでいますが、前半の三つが、神の国を求める祈り。そして、後半の三つが、神の義を求める祈りなんですね。

 次回からそれを、ひとつずつ見ていきたいと思います。

 祈り・・「神様、祈りを教えてください。アーメン。」

 God Bless You !
 
  
2020.01.20.Mon 08:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #38

【祈り-2 最初の言葉と最後の言葉】

"あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。"
新約聖書 ローマ人への手紙 8章15節

 クリスチャンの祈りには、最初に神に対する呼びかけがあって、最後には締めの言葉があります。

 最初の言葉には、いろいろなタイプがありますが、基本は同じです。
 今日の御言葉にあるとおり、私たちは御霊によって「子」とされたことを自覚し、神を「父」と呼びます。
 アバとは、小さい子も使う言葉で「パパ」とか「お父ちゃん」に近いものだそうです。
 ですから祈りの最初の呼びかけの言葉は、昔ながらの「御在天の恵み深い父なる神様」「天の父なる神様」というものから、アバという言葉に相応しく「天の神なるお父さん」と言う人たちもいます。また「神様」だけで始めることもあれば「父よ」とか「主よ」で始めることもあります。英語ではただ「Father」と言って始めるのをよく聞きます。
 どちらにしても、「自分は神を父と呼ぶことが許された者である」という自覚のもとでこの言葉を発するわけです。

 そして祈りの中身があって、最後には次のような締めの言葉があります。
 ・・イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 「イエス・キリストの御名によって」という言葉は・・
 私はあなたの前に出る資格など、もともとない者でしたが、イエス様の十字架のあがないによって罪の赦しをいただきました。それで私はあなたの家に帰る者とされ、子と呼ばれる者となり、あなたを父と呼び、あなたにいつでもなんでも言葉をかける資格をいただいた者です。
・・そのような前提で使う言葉です。

 要するにイエス・キリストの名前で、いつでも神の前に立つ事ができるというわけです。
 オレの名前を言えばいつでも入れるから・・というの、ありますよね。あれです。

 そして最後に「アーメン!」と言います。
 アーメンとは「まことに」という意味で、神の前に「私は本当にそう思って祈っています」という思いを込めて言う言葉です。
 また、その祈りを聞きながら共に祈っている人たちも「私も本当にそう思います」という意味で、一緒に「アーメン!」と、声に出して言います。
 ですから本当にそうだと思えない時には、アーメンと言う必要はありません。

 ということで、イエス様を心にお迎えしていない方は、イエス・キリストの御名によって祈る人には、まだなっていないわけです。
 ですからもし、その方が神様に声を発したいと思うなら、ただ「神様・・」と言って始め、最後はただアーメンと言えば良いのです。
 もし神に背を向けていた人が、神の方に向き直って「神様」と声を発するなら、それは神と天の御使いたちが、心をわくわくさせながら期待をもって、その祈りに耳を傾けている瞬間なんですね。

 このシリーズの中で、祈りの例を最後に書く事がありますが、「イエス・キリストの御名によって」という部分が抜けている事が多いのは、そういうわけです。

 是非あなたを愛し、その懐に迎え入れようとしている、まことの父なる神に声を発してみてください。

 祈り・・「神様、私の思いを聞いてください・・」

 God Bless You !

 次回は「祈り-3 主の祈り」です。
 
 
2020.01.18.Sat 06:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #37

【 祈り-1 】

 聖書を読むのは、霊の食物をいただくということですし、祈ることは霊的な呼吸のようなものです。この二つは霊的に成長していく上で、必要不可欠のものです。

 「祈る」というと、神社などでお賽銭を投げてお願い事をする時のようなイメージを持たれるかもしれませんが、クリスチャンの祈りは、そのような祈りとはちょっと違います。
 祈る上で持つべき基本的な概念は、「神の前に立つ」ということです。

 神の前に立ったら先ず、どうするでしょうか。以下はソロモンが神殿を建てた時に神に祈った言葉です。

"ソロモンは、〜イスラエルの全会衆の前でひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて、こう言った。
「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。〜 "
旧約聖書 歴代誌 第二 6章13~14節

 神は、祈る私たちが、ご自身のことをどのように思っているのか、言葉にして言うのをお聞きになりたいんですね。
 ソロモンは「あなたは約束されたことは必ず果たされる方で、あなたのような神は、天にも地にも、どこを探したっていません。」と、まず自分の神への思いを言い表しています。

 神に祈る時、神はあなたにとってどういうお方なのでしょうか。
 私は、まだ聖書の神を知らない人には、こう祈ったらいいと言っています。「神様、私はあなたのことを知りませんが、もしあなたがまことの神なら、私にそれが分かるようにしてください」と。
 神を知らないのですから、そのことをまず神に申し上げるわけです。
 自分のありのままの心、特に神に対してどのように思って声を出そうとしているのか、それを言い表すことは、神との正しい関係に入る上では、おろそかにできないこと事です。

 クリスチャンは、子が父に願うように、なんでも願う事ができるという特権が与えられています。でもそれは当たり前のことではないわけですね。この特権は、御子イエス・キリストの十字架のあがないがあって初めていただけるものです。これは祈る時に決して忘れてはならないことなんですね。
 神の大きな愛と恵みをまず言い表すことは、神との深い交わりに入ろうとするなら、とても大切なこととなります。

 神への賛美と感謝。それは神の前に出た時の挨拶のようなものです。

 例えば賛美ですと、主よあなたは・・
 天地万物を創造された全能の神。
 その初めから終わりまでをすべ治める方。
 そしてそのすべての支配と権威のかしらなるお方。
 その慈しみと恵みは変わることなく、私たちに対してあくまでも真実なお方。

 感謝と言えば・・
 御前に相応しくない者のために、神は御子を遣わされ、御子は私たちの罪のあがないのそなえものとなるために、十字架の刑という、激しい苦しみを負われて救いの手続きを完了してくださった。そしてただそれを信じるということだけで救いを与えてくださったということ。
 ここが先ず感謝の出発点なのではないでしょうか。

 誰でも目上の人に会えば挨拶をします。神への挨拶・・賛美と感謝が祈りの始めなんですね。

 次回は「祈り-2 最初の言葉と終わりの言葉」です。

 God Bless You !

 
2020.01.17.Fri 10:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #36

【聖書-16 通読】

"この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。"
新約聖書 使徒の働き 17章11節

 聖書の通読(つうどく)って、聞いたことがありますか?
 とにかく最初から最後まで全部読むんです。一年間で一回読めるように、通読表なるものもあります。それに従って、毎日読めば一年で全部読めるようになっています。

 聖書を全部読むことは、神の計画の全貌を知る上では必須です。新約聖書だけで十分といった見方をする向きもありますが、それでは全くの片手落ちです。なぜなら、旧約聖書に預言されているメシヤが本当に現れた、というのが新約聖書なのですから。 

 今日の聖書の箇所には、パウロの話を聞いたベレヤという町の人が、イエスがキリストであるという話が本当かどうか、聖書(旧約)を一生懸命調べたという事が書かれています。
 旧約聖書を知って、その上で理解する新約聖書は、その意味とか説得力とかが全然違うものになってくるんですね。

 是非聖書の通読に挑戦してみてください。しかし、わからないところや、限りなく退屈なところが必ずあります。そういう時には、わからなくても気楽にどんどん先に進むんです。学者でもわからないところがたくさんあるんですから。

 尤も、全く初めての人は、最初からきっちり読むより、読みやすそうなところから先ず始めれば良いと思います。
 例えば新約聖書の最初の「マタイの福音書」。はじめはわけのわからない系図の話なので、読み飛ばす。(笑)
 すると、なんとなく福音書の世界に入って行けます。しかし、読み進んでいくと、イエス様は私たちに結構難しいことを要求されていたりするんですね。例えば、右の頬を打たれたら、左も出しなさいとか・・。できないことが山ほど出てきて、挙げ句の果てには、天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさいとか言われちゃうんです。それ、無理でしょう!・・となります。(マタイの福音書 5章) なぜイエス様は、こんなできないことを私たちにやれと言われるのかと思うわけです。
 でもそれは、イエス様を主として信じ、心に受け入れて初めてその意味がわかってくることなんですね。そんなことを自分の努力で一生懸命やろうとしたって、挫折して自分にがっかりしてしまうのが落ちです。

 そういう意味でも、わからなくても無理だと思っても、どんどん先を読むのも、聖書を読むコツのひとつです。
 勿論目に止まる箇所は、おそらく重要な箇所ですので、しっかり受け取って下さいね。

 聖書は通読すればわかるというものではなくて、信仰を持った時に、初めてその意味が繋がってくるんですね。
 もちろん身近にいるクリスチャンの方に、わからないところを説明していただけるなら、それに越したことはありません。
 ただしクリスチャンの方は、知らないことを聞かれた時には、知らないと言いましょう。(笑)

 あ、それから・・「聖書ガイドブック」のようなものもいくつか出ています。それも歴史的な背景などを理解する上で、すごく助けになると思います。

 祈り・・「神様、聖書を開くことができるように、今助けてください。」

 聖書シリーズはこれで終わります。

 次回から「祈り」について書いていきたいと思います。

 God Bless You !
 
 
2020.01.16.Thu 06:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #35

【聖書のメンバー紹介2】

 キリスト・・聖書の主役

 天地創造の時から、父なる神と共におられたキリスト(前回参照)は、旧約聖書の時代に於いても地上に来られることがありました。
 アブラハムの孫、ヤコブが「ある人」と出会います。ヤコブはその人と戦って勝つという出来事がありました。(創世記32:24-30) その時「その人」が言った言葉はこうです。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
  (創世記 32章28節)

 これがイスラエルの始まりです。
「この人」は、ご自分を神であり、また人であると言っているわけです。まさしく、人となって来られるキリスト以外に、当てはまる存在はありません。

 そしてキリストは、今から2000年前にベツレヘムに赤子として生まれてきます。そして、御使いが言われた通り、イエスと名付けられます。
 イエスとは「主は救い」という意味ですが、当時のごく一般的な名でもありました。
 まさに、主を表すと同時に平凡な名である「イエス」という名は、神が人という形にまでなって下って来られたことを、絶妙に象徴しているわけです。

 キリストとはメシヤ=救い主という意味です。ですから「イエス・キリスト」と言う時は、その名前を呼ぶ時ですが、同時にその方はキリストであるという思いが込められているわけです。
 また「キリスト・イエス」という言い方をする時もあります。その場合はキリストと言う時に「それはイエスのことですけど」というニュアンスが入っているわけです。
 また「イエス様」というと、人となって地上で過ごされたイエス様のことを言ったり、あるいは人が主の御名を呼ぶ時に「イエス様」という事があります。
 さらに「イエス」とだけ言うこともあります。イエスという言い方をする時は、ほとんど「神」というニュアンスをもって言う時で、敬称とか称号などさえ付けないで、圧倒的に神・・という思いで言う時のように思います。「イエスは〜」と言うことがありますが、それは決して軽く言っているということではないわけです。これは新約聖書の文中での基本的な言い方でもあります。

 イエス・キリストの姿は、地上に来臨した「人の子イエス」としての姿と、もうひとつ全く別の姿もあります。それは天上の姿と言えるもので、それも様々な言葉で表現されています。
 要するにそれは、神の栄光が輝く、言葉では言い尽くせない主の御姿なんですね。
 イエス様は地上での公生涯の間にも、一瞬その姿を表されました。ペテロとヤコブとヨハネを連れてイエス様は高い山に登られたときのことです。(マタイ17章)

"すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。"
 とあります。

 また黙示録には初めからこんな御姿で登場しています。

 "〜その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。
 その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。
 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。
 また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。"
 (ヨハネの黙示録 1章13~16節)

 キリストは様々な御姿で登場されますが、あわれみと慈しみに満ちたお方であると同時に「さばき主」でもある方です。このキリストこそが、滅びと救いの鍵を握るお方なのです。

 イエス・キリストは聖書の主役です。

 次回は「聖書-16 通読」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.15.Wed 08:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #34

【聖書-15 聖書のメンバー紹介1】

 聖書に登場するメンバーを、ざっと見てみましょう。

 先ず第一に神。「初めに神は・・」と、創世記の最初に出てきます。
 次に聖霊。「水の表を動いていた神の霊・・」と、次の行にあります。
 そしてキリスト。創世記1章26節では神は「われわれ」ということばを使っておられます。これが父なる神と御子なるキリストを示します。イエス様ご自身も「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」と言われています。(新約 ヨハネ17:5)
 創世記の1章で、三位一体と言われる、神の三つの位格がすべて登場しているわけです。

 その次に登場するのがアダムとエバ。即ち「人」です。
 そこに、待ってましたとばかり登場するのが「蛇」です。知恵があり、最も狡猾なサタンです。
 サタンは蛇としてエデンの園に登場しますが、実は霊的な存在です。
 聖書の随所に出てくる御使い(天使)も勿論霊的な存在ですが、サタンはもともとこの御使いだったのです。ところがサタンは「神の座に着きたい」という究極的な勘違いをして、天使の座から転落した者とされています。そして今も「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2) として暗躍している存在だというのです。
 サタンはなぜか、世の初めから終わりまで、その存在が許されています。そして黙示録では「竜」として出てきますが、この世の最後に永遠の火の中に投げ込まれて滅ぼされます。(黙示録20:7-10)
 サタンについては、#24-26でも触れていますので、ご覧ください。

 御使いは、天で神に仕えるのがその役割です。ある時は神から遣わされ、主のみこころを特定の人に告げたりします。
 例えば、天使ガブリエルは処女マリヤに受胎を告げました。(ルカ1:26)
 またこのガブリエルは旧約の時代、破壊された神殿の再建と、そして世の終わりの大患難の時代についてのまぼろしを、預言者ダニエルに与えています。(ダニエル書9章)
 もう一人、御使いのかしらと言われるミカエルがいます。黙示録12章には、天で「ミカエルとその御使いたち」が竜(サタン)と戦うという記述があります。
 どちらにしても、ミカエル、ガブリエルは、御使いの中ではリーダー格であるようです。

 「人」について少し書きますと、アダムからノアまで、さらにその後も、系図が途切れることなく書かれています。
 ノアの洪水後は、アブラハムに始まり、イスラエル12部属とその歩みの中で神に用いられた多くの人たち、即ちヨセフ、モーセ、ヨシュア、そして神の人としイスラエルをまとめた士師たち。そしてサウル、ダビデ、ソロモンに始まる歴代の王。またその間に起こされたイザヤとかエリヤをはじめとする多くの預言者が登場します。

 そして新約の時代に入って登場するのは、キリスト登場の道備えをしたバプテスマのヨハネ。ペテロをはじめとする12使徒と多くの弟子たち、またイエスに付き従う女性たち。そして希望を失っていた多くの人々。
 また爆発的に増え始めたクリスチャンたちを徹底的に迫害していたパウロ。イエスは彼の上に直接臨まれて、全世界への宣教の足がかりとして用いられました。

 そして終わりの時に現れる「反キリスト=荒らす憎むべきもの」がいます。この反キリストはダニエル他の預言書に、またイエス様ご自身のことばの中に出てきます。そして黙示録には「獣」として登場します。

 かなり大雑把ですが、これらの登場メンバーがいるのだという認識を持つだけで、だいぶ助けになるのではないかと思います。

 キリストについては、次回でもう少し詳しく触れたいと思います。
 
 God Bless You !
 
 
2020.01.14.Tue 06:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #33

【聖書-14 神の愛と慈しみ】

"神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。"
旧約聖書 創世記 3章21節

 これは、神がアダムをエデンの園から追放された時の話です。
 神のもとで、まことのいのちを頂いていたアダムとエバは、この時から死ぬ者「罪人(つみびと)」としての歩みを始めます。

 しかし、神はアダムとエバを裸のまま、追放されたのではありませんでした。神は二人に皮の衣を作って「与えられた」ではなく「着せられた」と書いてあります。それだけで、神の愛に身震いしそうになります。
 このあと神はず〜っと人への熱い思いを伴って、最初は特定の家系の上にご自身を現し、イスラエル(ヤコブ)以降は民族の上に、そしてイエス・キリストによって地の果てまでのすべての民にご自身を示されました。今はそのステップのほぼ終盤です。なぜなら、福音がほぼ全世界に述べ伝えられたからです。

"御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
新約聖書 マタイの福音書 24章14節

 旧約の時代、神は預言者や選ばれた器を通して、民を常に祝福の方向に導いて来られました。ところが民は結局、神から遣わされた者(預言者)の言うことは聞かずに、自分の判断で物事を進めようとし、民族の滅亡にまで至ってしまうのです。それを嘆いて言われたイエス様の言葉が以下です。

"エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。"
新約聖書 マタイの福音書 23章37節

 そして今、神は熱い愛をもって、私たちに語られています。自分の考えで歩むのではなく、わたしが与えた救いを受け取りなさい。わたしが神なのだから、ほかにはいないのだから・・と。

 その救いのために送られたのが、御子イエス・キリスト。そしてこのひとり子イエス様を十字架にかけて私たちの罪のあがないとされたのです。
 イエス様ご自身の言葉にもあります。

"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。"
新約聖書 ヨハネの福音書 15章13節

 これが、イエス様の愛です。そしてイエス様は私たちを友と呼ばれる方なのです。

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章10節

 神の愛と慈しみは、ここにあるのです。

 神は、あなたをそのままでいいとは言っておられないんですね。あなたには罪のあがないが必要だから、わたしはこれをしたのだよと、言われるのです。
 そして受け取ろうとする者に神は、そのままでいいんだからね・・と言われるのです。

 次回は「聖書-15 聖書のメンバー紹介」です。
 
 
2020.01.13.Mon 11:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #32

【聖書-13 奇跡】

 聖書の中には、今の私たちには想像もつかないような奇跡の話が山ほど出てきます。
 この奇跡を、科学を通して自然現象として解明しようとする向きもあるようですが、それは結局、神はいないということを証明しようとする試みなんですね。
 しかし、聖書から奇跡の話を取り除いてしまったら、薄っぺらな小冊子が残るだけです。

 神がおられる。
 人が考え出して作った神ではなく、
 天地万物と人を造られた神がおられる。
 その神が、
 人に対しての特別な計画を持たれ、
 人の世に介入される。
 
 キリストは、
 天地創造の時点でそこにおられた神の御子である神。
 その神が処女を通し、
 人となって来られた。
 その方が、天の御国のことを語り、盲人の目を開き、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、十字架にかかられ、死んでよみがえられ、天に上り、神の右に座しておられる。

 そして未来には・・
 キリストは、主を信じた者たちを皆、死んだ者もすべてよみがえらせ、天のご自分のもとにに引き上げられる。
 そして大きなさばきが、富を貪る世に臨み、そこを支配する「反キリスト」と言われる勢力を一掃する。
 その後に、キリスト・イエスにある者によって支配される千年王国が出現する。
 キリストは再び地上に来られ、それまで存在が許されていたサタンを、永遠の火に投げ込まれる。
 天と地が消え、天のエルサレム、永遠の都が出現する・・。
 
 これらはすべて、証明とかいうことの通用しない、信じるしかない事柄です。
 そして信じた時に、これらのことが一本の太い線としてつながり、浮かび上がって見えてくるんですね。
 やはり聖書は真実であって、本当に神の霊感によって、神が人に書かせた書物なのだと・・。

"はじめに神が天と地を創造された。"
  旧約聖書 創世記 1章1節

"「わたしはアルファであり、オメガである。
 最初であり、最後である。
 初めであり、終わりである。」"
  新約聖書 ヨハネの黙示録 22章13節

 神が始め、神が終わらせる。
 すべての権威と支配のかしらなる神が・・。

 聖書は、この神のことを証言している書物なのです。
 そして聖書の多くの奇跡は、神がご自身の栄光を、人の目で見えるように表されたこと以外の、なにものでもないということです。

 祈り・・「神様、信じるということが、どういうことか、わかるようにしてください。」

 次回は「聖書-14 神の愛と慈しみ」

 God Bless You !

  
2020.01.11.Sat 06:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #31

【聖書-12 メシヤ預言】
 
"それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。"
新約聖書 ルカの福音書 24章27節

 イエス様が十字架にかかられ、死んで三日の後に復活したあと、12 使徒を始め、500人以上の弟子たちに現れました。この記事もその出来事のひとつで、クレオパともう一人の弟子が、イエス様の死に絶望しながらも、復活のニュースに戸惑っているところに、イエス様は現れて言われたことばです。
 
 イエス様は、ご自分がキリストなんだと言い続けてきたのに、何も悟らない弟子たちに改めて、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」のです。その預言は300にも及ぶとされています。

 キリストは、アブラハムの子孫、ダビデの家系、ベツレヘムで処女より生まれ、片田舎ガリラヤを中心に活動し、ロバに乗って入城するが、捕らえられ、見る影もない姿で十字架にかけられ、着物は兵隊がくじでわけ、金持ちの墓に葬られるが復活し、その栄光は全地に満ちる。そして雲に乗って来られる方。また再び地上に来られ、とこしえの王国を治められる方。このようなキリストがいつか来られるという期待感をもって、メシヤ=キリストに関する預言が旧約聖書全体に散りばめられているんですね。
 特にイザヤ53章の十字架の場面は圧倒的です。これがキリスト来臨の700年も前の預言です。
 
 以下はエレミヤ書という預言書の31章31-34節です。これはキリスト来臨の役割をすべて言い切っています。こちらは600年ほど前です。カッコ内は筆者のコメントです。

 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。(旧約から新約への移行を預言しています。)
 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った。(イスラエルは結局神に従いきれず、敵国に滅ぼされてしまいます。)
 ──主のことば──これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(聖霊により、神の望まれることは、人の心に書き記される時代が訪れるというのです。)
 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ。(激しい聖霊の働きによって、人々が悔い改める時が来ることを予感させます。)
 ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(キリストの十字架のあがないのわざが、新しい契約の要となったんですね。キリストは十字架の上で、一回ですべての人の罪のためのあがないを果たされたということです。)

 とにかく、旧約聖書にはキリストのことが、期待感をもって、ず〜っと語られ続け、新約聖書で、そのキリストが登場し、地上での役割を果たされ、天に上り、再び来られ、御国が用意されるという、全体のきっちりした筋書きがかかれているのです。それがしかも1500年以上にわたって、子弟関係でもない40人の人によって書かれている。

 これが聖書なんですね。

 次は、「聖書-13 奇跡」です。


 God Bless You !
 
 
2020.01.10.Fri 04:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #30

【聖書11- イエスがキリスト】

"ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」"
 使徒の働き 2章36節

 イエス様が復活され、天に上られたあと、祈っていた弟子たちの上に聖霊が激しく臨んだことによって、ペテロ自身もはっきり確信しました。それは、イエスこそが本当に、旧約聖書の300箇所以上に預言されているメシヤ=キリスト=救世主だったのだということです。
 ペテロはその途端、聖書(旧約)にこう書いてあるではないかと、説教を始めます。もちろんユダヤ人「イスラエル全家」に対するもので、「そのキリスト」をあなた方は十字架に、しかも異邦人の手で、即ち当時の支配国ローマの権威によって十字架にかけたんですよ・・と。

"人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。" と書いてあります。(使徒の働き 2:37)

 ユダヤ人たちは、イエスが本当に聖書にあるキリストだと悟った瞬間、今までのイエスに対する憎悪が一転、激しい後悔となるわけです。ですから「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」と、殆ど狼狽状態でした。

 これに対し、ペテロは、
"「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。"
(使徒の働き 2:38)
 と言ったのです。

 取り返しのつかないことをしてしまったと悔いるユダヤ人たちに・・、
 今イエスをキリストと信じたんでしょ? だったら、神の前にも人の前にもそれを認め、主イエスに従います、という意味でパプテスマ=洗礼を受けるなら、あなたは赦された者として聖霊を受けるんですよ・・、と言ったのです。
 ペテロは聖霊を受けた瞬間に、目が開かれたんですね。3年間もイエス様と一緒にいて、毎日奇跡を見、話を聞いていたのに、全然ピンときていなかったペテロが、大胆に福音を語り始めた・・。これがその瞬間です。

 イエスが「キリスト」なのだ・・、これが新約聖書が語ろうとしている一番のキモの部分なのです。

 このことも聖書を読む上で、とても助けになるポイントなんですね。

 ということで、次回は旧約聖書に書いてあるキリストのこと・・「聖書-12 メシヤ預言」です。

 God Bless You !

 
2020.01.09.Thu 06:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #29

【聖書-10 ユダヤ人と異邦人】

 難解な聖書を読み解く上で、ものすごく重要な視点のひとつ。それは「ユダヤ人と異邦人」です。

"このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。"
 エペソ人への手紙 2章18~19節

 神の家族なのですという言葉は、クリスチャンはみな家族ですという意味ではありません。
 これは、ユダヤ人と異邦人は、もはや別の存在ではなく、キリストによってひとつの家族なのだという意味です。
 即ち私たちは、イスラエルにとって他国人でもなく、イスラエルに住む外国人/寄留者でもなく、聖徒たちと同じ神の国の民=家族なのですよと言っているわけです。聖徒とはイスラエル=ユダヤ人のことなんですね。それは12節から読めば明らかなことです。
 聖書ではあくまでもイスラエルが神に選ばれた、神の計画の中のメインの存在なんですね。
 ところが、私たちふたつのもの、即ちイスラエルと異邦人がひとつの御霊によって御父に近づくことができ、神の家族となったのだと言っているわけです。

 でもこれは実は、ユダヤ人にとっては聞き捨てならないことでした。絶対にあり得ない。神殿に異邦人が入れば殺されなければならないし、割礼を受けていない者が、神の家族になれるなどということは、神を冒涜するに等しいことでした。ところが神は御子イエス・キリストによって、異邦人も共に家族となる道を開いたというのです。

 イエス様は当時のユダヤ人、特に祭司とか律法学者など、指導者に対しては、「おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。〜 外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」(マタイ23:27-28)と、徹底的に糾弾するんですね。神の民であるはずのユダヤ人の信仰は、形骸化して実質のないものになっていたにもかかわらず、自分たちは神に選ばれた民で、神から直接十戒をいただいたモーセの子孫、神の民なのだと自負していたわけです。
 しかし十戒によって神の民が固く立つことはできなかったんですね。これもあとから見ると、神の計画だったのかということになるわけです。なぜならこのことによって神の恵みが、イスラエル民族という枠が壊されて、全世界に及んだからです。

 イスラエルの民は、動物のいけにえを神が定めた神殿でささげることによって、罪の赦しを得ていました。これは神から与えられた神の民の特権でした。しかしキリストは、一度十字架にかかって、すべての人々の罪のためのあがないを完了されたのです。これにより動物のいけにえは、もう必要がなくなったのです。これは神がなさったことなんです。
 だから、キリストが十字架で息を引き取った時、神殿の幕が真っ二つに裂けた・・それは古い契約が神によって終了させられたことを示しているわけです。ここが旧約と新約の境目なんですね。

 ユダヤ人はイエスをキリストと認める派と、イエスは神を冒涜する者だとする派に、真っ二つに分かれたというわけです。
 この背景を理解しつつ、「使徒の働き」やパウロ他の手紙を読むと、かなり状況が見えてきます。パウロは常に、反対するユダヤ人の攻撃に悩まされていたんですね。

 ユダヤ人と異邦人・・。これは聖書を読む上での、重要な鍵のひとつなんですね。

 次回は、「聖書-11 イエスがキリスト」です。

 God Bless You !

 
2020.01.08.Wed 08:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #28

【旧約聖書に見る『救いの型』その2】

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章10節

前回に見た救いの型の三つの共通点。それは、「神の怒り」「神が備えた脱出の道」「罪と死からの解放」でした。

 今日注目したいのは、二番目の「神が備えた」という部分です。
 私たちが脱出の道を切り開いたのではなくて、神の側から与えてくださったというのです。私たちはそれを受け取るだけだということです。

 今日のみことばにも、そのことがはっきりとダメ押しのように記されています。「私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し・・それで御子を遣わされた」というのが最重要ポイントなんですね。
 私たちはもともと神に背を向けているのです。それが罪人(つみびと)の姿です。その私たちに神がトントンと肩を叩いてくださっているのです。これが「神の愛」との出会いの始まりなんですね。

 ノアが箱舟を作ったのは、神がノアに語りかけたからです。ロトの救いの話は、御使いがロトを訪ねたところから始まるのです。そして、神はモーセの地位を取り上げ、40年かけて砕き、その後にモーセにご自身を現し、出エジプトの計画を語られたのです。40年前からの神の壮大な計画だったわけです。
 要するに、すべて神の側からのアプローチなんですね。

 そして、その本番がイエス・キリストの救いというわけです。これはもちろん、私たちが考えたものでもなく、作った仕組みでもありません。神がこの救いの道「狭き門(マタイ7:13-14)」を用意して、私たちに知らせ、それを受け取りなさいと語りかけてくださっているのです。

 神がおられる。
 すべてが神から発している。
 すべてが神の計画の中にある。
 神が始め、神が終わらせ、そして永遠の御国を作られる。
 ・・と、ここにつながるのです。

 "すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。"
 ローマ人への手紙 11章36節

 祈り・・これを聞いて、思ったこと感じたことを、そのまま神様に申し上げてみてください。祈りは神様との会話です。

 次回は「聖書-10 ユダヤ人と異邦人」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.07.Tue 09:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 こうして書き続けている内に、知らない間に、クリスチャン向けの内容にシフトしていることに気がつかされました。
 おそらく、ついて行けないと感じている方も、おられるのではないかと思います。

 このシリーズでは、#1〜#12 までくらいが、まだ信仰を持たれていない方への内容となっています。

 実はその後については、聖霊の助けがないと、ほぼ何を言っているのかわからない可能性があります。この聖霊は、まだ信じていない方には、寄り添ってくださり、罪とか神の存在とかをわかるようにしてくださり、信じようという思いに導かれます。
 そのあとは、イエス・キリストを心の内に迎えるということによって、聖霊が内側にいてくださるようになるんですね。そしてその時に初めて人は新しく変えられ、主に従う力、さらに理解する力などが与えられます。

 というわけで、私の配慮が足りなかったことを反省し、ここにお詫びを申し上げる次第です。

 前回の#27までを、頷いて読まれている方には、この後も続けて読んでいただけたら嬉しいです。

 もし、ちょっとヘビーだとお感じになっている方には、#1〜#12 をもう一度お読みになることをお勧めします。
 そして、わからないポイントがありましたら、是非教えていただきたいのです。個人的にお答えしますので、お送りしているフォームにてご返信をいただけたらと思います。もちろんクリスチャンの方も大歓迎です。
 そしてここで「Q&A」コーナーとして、他の方々の参考にもさせていただけたらと思っております。もちろん匿名でご紹介しようと思っています。

 現在のところでも興味をもって読まれているのでしたら、もちろん続けてお読み頂けたらうれしいです。

 皆様からのご質問、またご意見なども頂けたら、この上ない喜びです。

 God Bless You !
2020.01.06.Mon 07:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #27

【 聖書-9 旧約聖書に見る『救いの型』その1】

 聖書にある大きなテーマ。それは滅びからの救済です。その核になるのが、イエス・キリストによる救いなのですが、旧約聖書の中にはその例えであるかのような、救いの「型」としての出来事が多く記されています。次の三つは、その代表的なものです。

 1. ノアの箱舟・・洪水による全地の滅びから、ノアとその家族だけが箱舟によって救われる。(創世記 6〜9章)
 2. ソドムとゴモラへの天からの火によるさばき・・アブラハムの甥のロトと二人の娘だけが、御使いの導きによって救出される。(創世記19章)
 3. 出エジプト・・奴隷状態のイスラエルの民すべてが、神の人モーセに率いられて、エジプトから脱出する。(出エジプト記)

 これら三つの話には、三つの共通点があります。


 第一は、罪の支配下という環境です。

 1. ノアの時代の人々は、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていたとあります。全地が暴虐で満ちていました。
 2. ソドムとゴモラの町の人々は「彼らの罪は極めて重い」と記されています。御使いがソドムに住むロトを訪ねた時、若い者も年寄りも皆がやってきて、その客人をレイプしようとした・・町中が暴虐で満ちていたことをうかがわせます。
 3. エジプトで繁栄したイスラエルの民は、王の代が変わって、ひどい虐げの中での奴隷生活を強いられます。奴隷とは「罪の奴隷」の象徴で、出エジプトはそこからの脱出という意味が込められています。


 二つ目。それは神の特別な介入による救出であるという点です。

 1. 主はノアに、とんでもなく大きな箱舟を、しかも山の上に作れと命令されます。ノアは主の心にかなっていて、主と共に歩む人で、彼はただ主のことばに従うことで、洪水から守られます。
 2. 神の御使いが突然ロトを訪ね、ソドムのさばきを告げます。ロトは御使いの指示に従い、脱出不能な状況から救い出されます。
 3. 神はモーセをイスラエル救出のリーダーとして選び、おじけづくモーセに事細かな指示をする中で、イスラエル民族をエジプトから脱出させました。


 三つ目。これらの話にはみな、その先に与えられる新しい世界がありました。それはみな、罪の世界からは切り離された世界でした。

 1. 洪水の水が引いて、ノアとその家族に与えられた地は、今までの暴虐の世界が水に洗い流された、全く新しい地でした。
 2. ロトは、小さな町に住むことを願ってそこに逃げましたが、やはり恐れを感じ、罪の世界とは切り離された山の上に住みました。
 3.イスラエルの民は、割れた海の中を通って逃げることができましたが、その海は追手のエジプト軍をすべて飲み込んでしまいました。罪の象徴であるエジプトの縛りは、ここで断たれたのです。そして約束の地「乳と蜜の流れるカナン」への旅が始まりました。


 三つの話の共通点をまとめますと・・、
「神の怒りに触れる世界」
「神が備えた脱出の道を受け取った人たち」
「神によって用意されていた、罪からは解放された世界」・・となります。

 要するに、これらはみな、キリストによる救いを予表するものであるわけです。このように旧約聖書中には、多くの出来事が、キリストの救いを示す型として登場し、キリストの来臨への備えとなるように、ちりばめられているんですね。

 次回は、このことについて、もう少し見ていきたいと思います。

 祈り・・「神様、救いの話は私のイメージをはるかに超えています。あなたの御力によってそれが見えるようにしてください。アーメン。」

 God Bless You !
2020.01.03.Fri 12:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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新年 明けましておめでとうございます。

G-Cafe 聖書のことばは、明日から続きを配信いたします。

年頭に、みことばをひとつ・・

"あなたのみことばは私の足のともしび
 私の道の光です。"
  旧約聖書 詩篇 119篇105節

 このみことばは、私たちが人生を歩んでいく上で、足元にはともしびが必要で、道には、先を照らす光が必要だということを言っています。
 即ち、私たちは暗闇の中を歩いているということを大前提として言っているんですね。

「足元」とは今立っているところです。私たちは、今自分がどういうところに立っているのかということさえ、わからないような者です。それがわかるだけでも、その歩みは大きく変わってくるのではないでしょうか。

 そして「道の光」。それは一寸先は闇であったとしても、その光によって、私たちは道を探し当てることができるというのです。

 これは聖書の言葉のことを言っているんですね。

 この「G-Cafe 聖書のことば 」の目的は、これを読まれる人が、ご自分で聖書を熱心に読まれるようになることです。
 
 今年、あなたが聖書のみことばを通して、さらに主との交わりの深みにまで、導かれますように!

 God Bless You !

 明日は#27「聖書-9 旧約聖書に見る『救いの型』」です。
 
 
2020.01.02.Thu 06:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #26

【聖書-8 神の計画の全貌 その3】

"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
 空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
新約聖書 エペソ人への手紙 2章1~2節

 ここには、救われたクリスチャンが、以前はどういう状態であったか、ということが書かれています。

 まず、その人は自分の背きと罪の中に死んでいた、とあります。自分の背きとは神に対する背きです。罪の本質は神を認めないことです。その状態は、まことのいのちである神から離れて「死んでいた者」であり、そのままだと滅びに至るのだと言っているのです。
 そしてその時には何の違和感もなく、神の基準ではなく、この世の流れ・・即ち神などいないという発想の土台の上ですべてを行っていたのだと指摘しています。
 またその時の状態は、ある「霊」に従っているのだと言っています。そしてその霊こそが、その人の中に働く「空中の権威を持つ支配者」即ちサタンだというのです。

 そして神は、サタンの支配下にある人・・それは「すべての人」です・・を、壮大なスパンの中で、神の手の中に取り戻す・・これが実は神の計画の最終目的なんですね。「彼らは何をしているか、わからないのです」という、イエス様の十字架上のことばを思い出します。

 神は時至って、御子イエス・キリストを地上に送り、十字架に掛けることにより、これをすべての人の罪のためのなだめの供えものだとして、世に示されました。そしてキリストを復活させることによって、サタンの切り札である「罪と死」を無意味なものとしたのです。

 人はこの話を信じ、イエス・キリストを救い主として受け取ることによって、罪と死から解放され、まことのいの
ちである神のもとに帰り、神の民とされ、サタンの支配からは完全に解放されるのです。即ち、キリストとともに死に、キリストとともに生きる者となるのです。
 そして世の終わりの最後の最後で、神はサタンの存在そのものを滅ぼされます。これで今の世は終了となるのですが、更にそのあとに、永遠の御国を実現させ、そこに神の民を迎えて、神の計画が完了するというのです。
 
 神は今でも即座にサタンを滅ぼすことのできるお方です。
 しかしサタンの支配する暗闇の中にこそ、神は光り輝くのです。そんなこの世に於いて、まことの神に出会い、その赦しを受け取り、神のところに帰ってくる多くの人を起こすというシナリオ。これが神の計画の全貌なんですね。

 このような大きな枠の中で聖書を読む時、ひとつひとつの出来事や預言や歴史の意味が開けて見えてくるんですね。


 祈り・・「神様、あなたの光で私の心の内を照らしてください。アーメン。」

 このシリーズは、12/31〜1/2まで、お休みいたします。
 次回は1/3「聖書-9 旧約聖書に見る『救いの型』」です。

 良い年をお迎えください。

 God Bless You !
 
 
2019.12.30.Mon 05:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #25

【聖書-7 神の計画の全貌 その2】

 前回の最後に、次のように書きました。
・・それにしても、アダムがエデンを追われて以来の、決して平和とは言えない人類の苦難の歴史は、一体何のためだったのでしょうか・・と。

 聖書全体を俯瞰的に見ると、神が創造された天と地は、人が生きて、神と出会うために造られた、壮大なステージのように見えてきます。
 しかし人にとって、この世はいつも試される場所でした。試練のステージと言っても良いのかもしれません。そしてそのステージに、いつも見え隠れしている存在があります。それが「サタン」です。

 神は、最初からサタンの存在を許しておられました。エデンの園になぜかサタンはいたのです。サタンとは、人を騙し、神に目を向けさせないようにし、怒り、狂気、破滅に人を導こうとする霊的な存在です。
 サタンはアダムが造られた直後から登場し、この世の最後の最後までサタンは存在しているんですね。サタンは、この地上の最後の楽園「千年王国」の間は「底知れぬ穴」に閉じ込められて動けないのですが、最後には焼き尽くされ、火の池に投げ込まれます。ところが、その途端にこの世も終了するのです。(黙示録20章)
 要するに、神はこの世の初めから終わりまで、ご自身の権威の中で、サタンの存在を許しておられたということになります。 

 サタンは人の持つ罪の性質につけ込み、なんとか神から人を切り離そうと躍起になっています。人はアダム以来、ずっとその惑わしにさらされて生きてきたわけです。
 とにかく、サタンの存在が許される中で、この世は存続してきたんですね。
 サタンがずっと、この世というステージに乗っかっているなら、神の計画の全貌を見るには、外せない存在であるわけです。

 サタンは霊的な存在で、堕落した天使と言われています。はじめは神に仕えるトップクラスの御使いだったのですが、反逆する存在になってしまったといいます。その思いは「自分が神になりたい」です。
 「オレが神だ」というフレーズ。なんとなくいろいろなところで聞いているような気がしませんか。
 それは、人の最も傲慢な思いで、サタンの支配下で視点が狂ってしまった、考えられる限りの最大の勘違いなんですね。

 まだ「苦難の歴史」の答えは先になりそうです。

 次回。その3へと続きます。

 God Bless You !
 
2019.12.28.Sat 12:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
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そしてキリスト教談義・・
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