" 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。
また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。"
出エジプト記 23章2~3節
23章も「判例」の続きです。
ここでは、公正な証言・・、敵に対する公正な態度・・、貧しい者たちへの公正・・、告訴する者に惑わされてはならない・・、賄賂(わいろ)の禁止・・、寄留者への配慮・・、土地も七年目には休ませる・・、人は七日目には休ませる・・、年に三度の祭り(種なしパンの祭り「過越」、刈り入れの祭り、収穫祭)・・、ささげ物は「最上のもの」・・、神が立てた者に対する姿勢・・、カナンの地の神々を拝むな・・、
そして25節からは「神の約束」へと、話が入っていきます。
今日は23章の冒頭の部分、公正な証言というところに着目してみましょう。
多数に従って悪の側に立つ・・
私は小学生の頃に、小さな子供たちの中でも、そんな光景を見た記憶が遠くの方にあります。
私たちは保身という姿勢の中で、断罪する方向に回ってしまうんですね。
その性質は小学生でなくとも、私たちの内に基本的にあるものです。
訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない・・。
弱い立場の者は、軽くあしらわれるべきではありませんが、その罪については公正な立場で臨まなければならないと、主は言われています。
それはとても難しいことのように思えます。
それができるための最低条件は何かと考えるならば、それは「弱い者も含め、すべての人は罪びとである」という視点に立つことなのではないでしょうか。
私たちは神の前に寸分の否定のしようもなく「罪びと」なのです。
その罪びとが、み子の十字架のあがないで赦された・・この基本にいつも立つ・・
ここに立たないと、私たちは人を正しく評価することはできないし、弱い立場の人を特別扱いしてしまったりするわけです。
公正であるための視点・・、それは私たちは罪びとで、それが赦されたという、まさに福音の核心のところにあるのです。
神・・、それは揺らぐとのない土台、不動の岩なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。"
出エジプト記 22章1節
22章も、様々な判例が記されています。
今日の箇所の他に、盗人を見つけて殺してしまったら・・、盗んだ物を返す場合・・、自分の家畜が隣の牧草を食い荒らした時・・、火が出て隣の畑や収穫物を焼いてしまった時・・、人から預かった金銭が奪われてしまった時・・、所有権を主張する二人の人が現れた場合・・、人から預かった家畜が死ぬなどした場合・・、婚約していない処女を誘惑してこれと寝た場合・・、呪術を行う者は・・、動物と寝る者は・・、他の神々にいけにえをささげる者は・・、寄留者を苦しめる者は・・、貧しい人に金を貸す場合・・、人の上着を質に取ったら・・、神を,族長を罵(ののし)ってはならない・・、ささげ物を遅らせてはならない・・、長子は人の子も家畜も主のもの・・、獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない・・。
この21章にも、実に様々な規定が記されています。
その筆頭である今日の箇所は、人が家畜を盗み、これを屠(ほふ)るか売るかした場合の話です。
現代の私たちの感覚では、被害を与えてしまった場合は、同等のものをもって償(つぐな)えば良いという感覚があります。
しかし今日の箇所では、牛を盗んだ場合は、牛一頭を五頭にして返さなければならないというのです。
神が初めて「法」として提示したこと・・それは、現代の法律よりもはるかに「人の思いを考慮したもの」だったのではないでしょうか。
22節では「やもめ、みなしごを苦しめてはならない」という項目があります。もしこれらの人々を苦しめ、彼らが主に向かって叫ぶなら、主の怒りは燃え上がり、「わたしは剣によってあなた方を殺す」と、主は言われています。
また、貧しい人に金を貸すなら、利息を取るな・・と。
神である主は、あくまでも弱い者に寄り添ってくださる神なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。"
出エジプト記 21章2節
21章から23章までには、十戒に伴う実生活における「判例」のような事柄が細かく記されています。
今日の箇所はその最初のところです。
この奴隷とは、経済的な理由などで債務を負ってしまった同胞のイスラエル人たちのことで、6年間奴隷であったら、7年目には無条件で解放されなければならないと言っています。
その他21章だけでも、ざっと見てみると・・、
・殺人に関する規定・・故意でなく殺してしまった場合、逃れの場所を用意する・・と、その動機についての配慮がされています。
・自分の父母に対する暴力に関する規定・・、それは死刑。
・誘拐に関する規定・・これも死刑です。
・自分の父母をののしる者・・これも死刑です。決してしてはいけないのです。
・争って相手を傷つけた場合の規定・・その相手が休んだ分の補償と、完治までの補償をしなければならない。
・その他、奴隷を傷つけた場合、身ごもった女に突き当たって早産させた場合など・・。(3-23節)
そしてその次に出てくるのが「目には目を」です。
結局「目には目を」というのは、道義的責任を考慮した上で公正に扱うということのようです。
神である主は、私たちの動機や心のあり方も含めた上でさばきをされるという姿勢が、ここでは見ることができように思います。
しかしそれでもイスラエルの民は、この律法によっては神との関係を維持することはできませんでした。
神は、どうしてそのような役にも立たない定めをわざわざ与えられたのでしょうか。
それは、私たちの罪の性質をとことん知らしめるためでした。
それが実に、イエス・キリストの登場によって明確にされたのです。
罪深い私たちは「赦される」以外に神に近付く道はない・・ということが。
イエス・キリストの十字架・・それは赦(ゆる)しのしるしなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【主の愛に満たされる】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=vEHWUA21ekA&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
"これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。"
出エジプト記 21章1節
神である主はモーセに、偶像を造ってはならないことと、祭壇についての規定を語られ、それに続き、かなり細かく、生活の中に起こり得る諸問題についての定めを語り始められます。
ここでは奴隷について、刑罰について、そして禁忌(きんき)事項すなわち、してはならないことなどが、かなり具体的に、21章から23章にかけて語られているのです。
先ずはこのことが、モーセが主から十戒の板を受け取る前のことであることを覚えておきましょう。
モーセは、主のもとへ上って行く前に、これらの定めのすべてを民に語り、しかもそれらは、しっかり書き記されたのです。(24:3-4)
これら三つの章に渡って語られている定めの中に、だれもが知っていることばがあります。
それは「目には目を、歯には歯を」・・。
この有名な言葉は、ここからきているのです。
それは、自分が犯した罪に対しては、同等の裁きを受けなければならないということです。
そしてこの定めの全体を読めば、その基本理念は「不当に扱われる者があってはならない」ということが見えてきます。
それは主は、刑罰と共に、被害者の心をもしっかり顧みている。主は弱い存在の者を忘れることはないということが、ここには現されているように思います。
" 主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」" (詩篇12:5)
ここで語られている神の定め・・、それは、私たちひとりひとりの心に配慮されたものなのです。
神は、弱者を含めたすべての者を顧(かえり)みてくださるお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。"
出エジプト記 20章25節
主がモーセに語り始められた教えの冒頭の部分は、偶像を作ってはならないということ、そして祭壇は土で造りなさいということでした。
そしてもしその祭壇を石で造るなら・・というのが今日の箇所です。
石に、のみを当てることで、それを冒すことになる・・。
この四十年後、モーセは民に、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったときには石の祭壇を造るように命じていますが、ここでもその石にのみを当ててはならないと言っています。
それに比べてソロモンの神殿は、巨大な石が切り出され、積み上げられて造られたものです。
これも主の導きの中でこの神殿が建てられることとなったわけではありますが、その神殿は結局は崩壊してしまい、現在に至っています。
石にのみを当ててはならない・・。それは、人の意図や力がそこに入る余地はないということを象徴しているのではないでしょうか。
そしてそれは、動かしがたいような荘厳な神殿を造り、礼拝する場所を一つに決めて礼拝することに対する警鐘であるようにも思われます。
" あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。" (第一コリント3:16)
今、イエス・キリストによって神の子とされた私たちは、内におられると同時に天地万物を造られた神を礼拝する者とされているわけですが、その祭壇は、実に私たちの心の内にあると言っても良いのではないでしょうか。
わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。(ヨハネ4:21)
人がその存在すべてをささげて、主の前にひれ伏す・・、これが礼拝です。
そして私たちは、心の内の石にのみを当ててそれを整えることよりも、そのままで主の前に出て、礼拝することができる者とされているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。"
出エジプト記 20章24節
民が遠く離れて立つ中、モーセは神がおられる黒雲に近付いていきました。(21節)
その時主のことばがモーセに臨みました。
それが23節から次の21章全体、そしてさらに23章まで、日常のかなり細かいことまでの規定を主は語られています。
そしてモーセはこのことを、24章3節で初めて民に語っています。
モーセが一人神に近付き、四十日間山にいて、主のみ告げを聞き、十戒が刻まれた石の板をいただくというのは、そのあとのことなんですね。(24:18)
主がモーセに語られたことの初めは、あなた方はわたしが天から語ったのを聞いたでしょう。あなた方はそのときの恐れを覚え、金銀の神々(他の神々)を造らないように気をつけなさい・・ということでした。(23節参照)
そしてそれに続く主のことばが、今日の箇所です。
ここで主は、土で祭壇を造ることを命じられています。そしてそこで、羊と牛の全焼のいけにえを献げよ・・と。
この土の祭壇は、後にソロモンが建てる石で造られた荘厳な神殿とは違い、どこでも造ることのできるものです。
そしてここで主は、驚くべきことを約束されているのです。
それは、「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」ということでした。
イエス様はサマリヤの女に「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。」と言われました。(ヨハネ4:21)
どこでも造ることのできる土の祭壇・・、それこそが「主の名が覚えられるすべての場所」すなわち、ひとりひとりの心を示す型なのではないでしょうか。
そしてその「すべての場所で」、主はあなたに臨み、あなたを祝福すると言われたのです。
今、主イエス・キリストを信じる私たちの内に、今日の24節のみことばが成就しているのというわけです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」"
出エジプト記 20章20節
民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にして、身震いし、遠く離れて立っていました。(18節)
神のことばを、民は直接聞いてしまったのです。
それで民はモーセに言いました。「あなたが私たちに語ってください。〜 神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」と。(19節)
民は神へのあまりの恐れのために、この状況に耐えられなかったことが見えてきます。
それに対してモーセが民に答えたのが、今日の箇所です。
神が来られたのは、あなた方が罪に陥らないように、神への恐れがあなた方に「生じるため」だ、というのです。
「生じる」ということは、それまでは恐れがなかったということです。
私たちは信仰をもって以来、神に語りかけ、神から語られ、共に歩んでくださるこの方とずっと一緒に歩んできました。
ところが、そこには、全能の神、あがめられるべき神への「恐れ」がいつの間にかなくなっている・・。
そういうことって、ありませんか。
この恐れというのは、今日のモーセのことばによれば、「罪に陥らないようにさせるためのもの」だというのです。
私たちは主を恐れなければ、やはり自分勝手な考えで物事を判断し、その歩みを進めていってしまう可能性があるのです。
主を恐れることは大切なこと・・、いや、本来神に向き合うに際して私たちが取るべき基本的な姿勢なのです。
主を恐れるとは、この神を本当に神として認識するということです。
そしてその神を「心と思いと力を尽くして愛しなさい」と、主は言われているのです。
主を知ることを切に追い求め、主を恐れて歩みたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」"
出エジプト記 20章17節
人のものを欲する・・それは、人のものを取ろうとする心のことです。
そして実際に取ったならば、それは姦淫になったり、泥棒になったり、詐欺になったりするわけですが、神が実際に見られるのは、そのような心を持つかどうか・・だというのです。
イエス様が語られたマタイの福音書の5章から7章までの「山上の垂訓(すいくん)」中では、多くの厳しいことが語られています。
それらは「あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)というような、とてもできないことばかりですが、しかもそれらの多くは、その行いができるかということよりも、心が問われているのです。
そうなると私たちはもう、全員アウト!です。
そしてそれを実際に証明してしまったのが、イスラエルの民なのです。
彼らは、このエジプトから導き出した神との関係を「モーセの十戒」では実現することができませんでした。
その結果、彼らはAD70年には完全に滅び、世界中に散らされてしまったのです。
そしてその壊滅の70年前に登場したのがイエス・キリストです。
このイエス・キリストが、律法(戒律)を守ることによってはなし得なかった神との関係の回復という、神との新しい約束の道を開いてくださったのです。
要するに、このモーセの十戒から発した律法が「古い契約」で、イエス・キリストによって成し遂げられた神との関係回復の道が「新しい契約」なんですね。
これが旧約と新約の意味です。
神が私たちの心に求めていることは、旧約の世界でも新約の世界でも変わることはないのですが、それを行う者となるためには、この新しい契約の世界、すなわちイエス・キリストによる救いだけが、これを実現するというのです。
しかもその道は、イスラエルの民すなわちユダヤ人だけでなく、「全員アウト」の私たちにも開かれた・・。
これこそがまさに福音なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。"
出エジプト記 20章16節
第九戒は「偽証をしてはならない」であるわけですが、それがそんなに大切なことなのでしょうか。
証言には、被証言者(証言の対象者)の存在の価値を左右するという、強力な力があります。
良い方向の証言ならば、その人にとって力になりますが、悪い方の証言だったらそれはその人を貶(おとし)めることになり、限りないダメージを与えることになるわけです。
しかもそれが偽りだとしたら、それは他人のことばによってその人の存在が危ういものとなるという、由々しい事態となります。
証言には大きな力があるんですね。
ですから、それはしっかりコントロールして用いなければならないわけです。
常習的に人を訴える人がいます。
しかしそれは、第四戒の「人を殺してはならない」と同じで、それは人を殺すことに等しい行為なのです。
しかもやっかいなことに、私たちはそれを望んでもいないのにそれに近いことをしてしまう・・、すなわち人の悪口などが口から出てくることが私たち自身にもあるわけです。
十戒・・それをイスラエルの民は守り通すことができませんでした。
それは私たちの本当の姿を鏡に映すようなもので、私たちはそれをしっかり守って行うということは、ほとんど無理なんですね。
この哀れな私たちのために神が与えてくださったのが、御子キリストの十字架の死、そして復活なのです。
私たちは、このイエス・キリストという方によって初めて、神が喜ばれることを「することができる者」に変えられていくんですね。
私たちがするべきこと・・それは戒律を守ろうとすることではなくて、主とつながることなのです。
ですから、私たちはこれらの戒律を心の内に受け止め、その方向に進むには主によるしかないということを心に刻むこと・・そこが大切なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

今週の「たいむ」は・・
【本当の休みがある】・・です。
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God Bless You !
" あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。"
出エジプト記 20章16節
第九戒は「偽証をしてはならない」であるわけですが、それがそんなに大切なことなのでしょうか。
証言には、被証言者(証言の対象者)の存在の価値を左右するという、強力な力があります。
良い方向の証言ならば、その人にとって力になりますが、悪い方の証言だったらそれはその人を貶(おとし)めることになり、限りないダメージを与えることになるわけです。
しかもそれが偽りだとしたら、それは他人のことばによってその人の存在が危ういものとなるという、由々しい事態となります。
証言には大きな力があるんですね。
ですから、それはしっかりコントロールして用いなければならないわけです。
常習的に人を訴える人がいます。
しかしそれは、第四戒の「人を殺してはならない」と同じで、それは人を殺すことに等しい行為なのです。
しかもやっかいなことに、私たちはそれを望んでもいないのにそれに近いことをしてしまう・・、すなわち人の悪口などが口から出てくることが私たち自身にもあるわけです。
十戒・・それをイスラエルの民は守り通すことができませんでした。
それは私たちの本当の姿を鏡に映すようなもので、私たちはそれをしっかり守って行うということは、ほとんど無理なんですね。
この哀れな私たちのために神が与えてくださったのが、御子キリストの十字架の死、そして復活なのです。
私たちは、このイエス・キリストという方によって初めて、神が喜ばれることを「することができる者」に変えられていくんですね。
私たちがするべきこと・・それは戒律を守ろうとすることではなくて、主とつながることなのです。
ですから、私たちはこれらの戒律を心の内に受け止め、その方向に進むには主によるしかないということを心に刻むこと・・そこが大切なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 盗んではならない。"
出エジプト記 20章15節
盗むというのは、人の物をその人の許可なしに取ってしまうということです。
盗む側にとっては、それが切実な必要であったり、またあるときにはそれが楽しみであったりもするわけですが、盗まれる側にとっては深く心に傷を受けることになります。
しかし実際に「盗む」ということをするとき、それは実は自分を傷つけることなのだということを知る必要があるのではないでしょうか。
人の心には「良心」というものが生まれもって与えられています。(ローマ2:15参照)
そして罪を犯すとき・・盗みもその一つですが・・その人の良心は痛みます。
しかし、そのことを正当化してその罪を犯し続ける場合には、その良心は鋭さを失い、「(盗みが)当たり前」の世界に生きるようになってしまうわけです。
このことは実は、自分の内に与えられている大切な物、すなわち「心を失わせる」ということに等しいわけです。
盗んではならない・・、それは単なる戒律の一つですが、それは自分を痛めつける行為であることを知りなさい、という風に受け止めても良いのではないでしょうか。
私たちは「するべきこと」を知りながら、それにそぐわないことを日常生活の中でいくらでもしています。
それが「罪」なんですね。
神は、私たちの心が健全な状態にあることを願っておられるのです。
そのために神は十戒を与えられたのです。
しかし私たちは罪を犯し、罪によって自分を傷つけるのです。
それをしてしまうような私たちに、戒律は自分が何をしているのかを教えてくれるものなんですね。
私たちはまず、自分を大切にしなければならないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 姦淫してはならない。"
出エジプト記 20章14節
姦淫(かんいん)とは、辞書によれば「男女間の倫理にそむいた肉体関係」とされています。
神である主は、この十戒を示されたあと、多くの細かい規定をも示されていますが、そこではあらゆる性的不道徳を禁じています。
しかしそれは、単なる性的不品行を禁じるということだけではなく、異邦の民や宗教に汚されることを防ぐという目的がそこにはありました。
自然の力を神としてあがめる古代社会には、常に偶像礼拝に伴う不道徳な儀式が多くありました。
しかし聖書の神は、その一切を忌み嫌われ、それを禁じるお方なのです。
聖書の神は、性に関しては、子孫の繁栄のための夫婦の営みを祝福して「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われる神なのです。(創世記1:28)
そして性的な不品行に関しては、それは神から離れることそのものであるということを、私たちに警告しておられるのです。
第五戒から第十戒までは、人と神との関係についての戒律ですが、この第七戒をも含め、私たちは心の内を見るならば、みな有罪となるようなことばかりです。
そしてこの戒律を果たすために示されているのが、第一戒の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。
私たちはここに身を置く以外に、私たちを神から引き離す悪の力から守られるところはないのです。
ところがそれさえできなかったのが、このイスラエルの民だったというわけです。
しかしそれは、私たちすべての人の「型」でもあります。
そんな弱い私たちには、この出エジプトの出来事が象徴するように、神の絶対的な力を伴った「救い」が必要なのです。
そのためにすべての人に与えられたのがイ神の御子エス・キリストという、生ける神ご自身なんですね。
人はこの方によってのみ、この方の力によってのみ、このできるはずもない戒律に従う者として変えられていくのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 殺してはならない。" 出エジプト記20章13節
前回に引き続き、第六戒「殺してはならない」について、今日も考えてみたいと思います。
殺す・・、それは基本的には殺人、すなわち肉体を死に至らしめることです。
しかし、殺すという行為は、殺人の他にもう一つあることに気付かされます。
それは、生きようとする心を殺すという、言ってみれば人格に対する殺人です。
最近は「死ね」という言葉が、若者の間では平気で使われるようになってきています。
殺人のための道具はいろいろありますが、この人格に対する殺人を行うのは「言葉」なんですね。
" 舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。" (ヤコブの手紙3:8)
言葉で刺された人は、目には見えなくてもその心に深い傷を負います。
そしてそれが何度も何度も繰り返されていくうちに、その人の心は抵抗したり解決したりしようとする力も奪われ、挙げ句の果ては死を選ぶということになったりするわけです。
私たちはこの「制することのできない舌」をどう扱ったら良いのでしょうか。
"イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」" (ルカの福音書18:27)
私たちは内にいただいているイエス・キリストという救いに自分をお任せする以外に、その方法はないんですね。
それができるのは神しかないというのですから。
私たちにできることは、できない自分を主に明け渡すことができるように祈り、御霊によって自分の舌をコントロールしていただくしかないんですね。
そのことだけはしなさいと、神は言っておられるのではないでしょうか。
殺してはならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" 殺してはならない。"
出エジプト記 20章13節
神は殺してはならないと言われました。
ここに記されている「殺す」というヘブル語「ラーツァフ」には、血の報復による殺人や、個人的感情から来る暴力的行為による殺人のことを指しているそうで、そこには動物を殺すことや、戦争などでの殺人、また死刑という刑罰などの意味は含まれていないそうです。
現に出エジプトをしたイスラエルの民も、さっそく攻めてくるアマレクと戦うことになります。
そこで神はイスラエルに勝利を与えておられるのです。すなわちイスラエルの民は、アマレクの多くの民を殺したのです。
さらに、神はイスラエルの民が約束の地カナンに入るのに、そこにいる民をすべて滅ぼし尽くせと命じています。(申命記20:16)
話は逸れますが、このカナンの地にいた民は神が忌み嫌われることをし続けて、結局神の御手の中で滅ぼされてしまうという運命をたどるという、裏の意味がそこにはあります。
でもそこで必ず出てくるのが、神だったら殺す権利があるというのか・・という発想です。
神にはある・・というのが結論ですが、そのことを人々はなかなか受け入れられないようです。
しかし人を生かすのも神であり、その齢をも決めるのも、この神なんですね。
私たちは、殺してはならないと言われる神に対して、あなたはそれをしているではないか・・とか言う立場にはないということは、しっかり覚えなければなりません。
では私たちは、この「殺してはならない」という第六戒を、どのように受け止めれば良いのでしょうか。
それは少なくとも、人が人に向き合うとき、そこに殺意があってはならないという受け止め方をするなら、わかりやすいかもしれません。
私たちは、殺意を自分の中に感じることがないとは言い切れません。
しかし神は、それはダメですと言われているわけです。
少なくともこの第五戒は、私たちそれぞれが「自分のこと」としてそれを心に刻めばよい、ということなのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

今週の「たいむ」は・・
【思いわずらいからの解放】・・です。
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God Bless You !
" あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。"
出エジプト記 20章12節
十戒のうち、第一戒から第四戒までは、人と神との関係についての戒めでした。
そしてこの第五戒から第十戒までは、人と人との関係についての戒めです。
そこでまず第一に目を向けるべきは、父母との関係だというわけです。
人はその父母を通してこの世に生を受けます。
ですから、人と人との関係ではっきり目を向けなければいけないのは、この親との関係だというのです。
そしてこのあとに記されている細かな律法の中では、父母を軽んじる者は死罪に科せられるとまで書かれています。(21:17)
父と母を敬うということが、これほどに重大な律法として与えられているんですね。
そしてそれは、約束の地でその日々が長く続くことと関係がある、すなわちその人の地上での生涯にそのことが関わってくるのだと言っているのです。
最も身近な存在である父母を敬うということが、人と人との関係の最も大事な部分を養うのだと言われているようです。
どんな生活の中にあっても、その質を決めるのは人間関係であることは言うまでもありません。
父も母も、肉の性質を持った「人」であり、必ずしも「良い親」というわけではありません。
しかし切っても切れないこの関係の中で、父と母を敬う・・、それは簡単なことではないかもしれません。
しかし、そこを第一に大切なこととして扱うとき、その人の地上での生涯の日々が長く続くと言っているのです。
改めて、父そして母に思いを寄せてみましょう。
父母を敬う者はこの世に於いて幸せになる・・と、この第五戒は言っているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。"
出エジプト記 20章11節
第四戒の後半です。
安息日は心のすべてを主に向けて礼拝する日・・、それがこの第四戒の主旨です。
神が天と地を創造されたときに、すべてのものを造り終え、そして七日目に休まれた。
主は「この日を祝福し」、これを聖なるものとしたというのです。
この七日目・・それは、神がその全計画の中で、すべてのお膳立てを完了し、いよいよそれが始まるという日であったわけです。
ですから、主はこの日を祝福された・・。
ならば私たちも、この日をすべての始まりを覚える日として、そして神の全計画を覚えて主の御名をほめたたえる・・、そのような日であるべきなのではないでしょうか。
神はこれを「聖なる日」としました。
私たちは今一度、この聖なる日、すなわち主を礼拝する聖日について、改めて神聖な思いをもって、自分の生活の中に位置づける必要があるのではないでしょうか。
主を礼拝する聖日・・それは、神の天地創造の目的を覚える日であり、そしてその最終目的地に私たち自身が入れられる者となったことを喜び、主を賛美し、礼拝し、それを互いに喜ぶ日なのです。
主の日にはハレルヤ!と、主を心から賛美しましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。"
出エジプト記 20章8~10節
安息日とは、日曜日から数えて七日目の土曜日のことです。
仕事は六日間とし、七日目は「聖なる日とせよ」というのです。
仕事をしている間、私たちはなかなか神に心を集中することができません。
ですから、七日目だけは心を神に集中させる日としなさいというのが、この第四戒です。
このモーセの律法は、イエス様の時代になると、ただの細かい戒律として、その本来の意味が形骸化してしまいます。
それは、安息日を聖とするのではなくて、安息日には仕事はしないということの方に主眼が置かれてしまい、本来の意味が忘れ去られてしまうのです。
イエス様が律法学者らを徹底的に批判した理由がここにあるんですね。
今でもユダヤ教の世界では、安息日、すなわち土曜日には仕事をしません。
でも、それは主を覚える聖なる日というより、仕事をしないということが大事なことになってしまい、例えば、エレベーターのボタンを押すことも「労働」と見なし、土曜日にはボタンを押す必要のないように、エレベーターは自動的に各階を昇ったり降りたりしているというのです。
私たちも、日曜日にはただ「教会に行く」ということだけが大事なことになってしまい、その日を本当に主を覚えるための聖なる日とするという感覚から離れてしまうのなら、これも本末転倒であるわけです。
因みに、キリスト教の世界では、土曜日ではなくて、キリストが復活された日曜日を聖なる日としています。
どちらにしても、私たちは聖なる日として、この礼拝の日を覚えなければならないのです。
聖日とは、主に心を向ける日なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。"
出エジプト記 20章7節
私たちクリスチャンは、普段から「主よ、主よ」と、場合によっては一日中主の御名を呼び求めることがあります。
それはいけないことなのでしょうか。
しかしこの第三戒をよく見ると、「みだりに」と書いてあります。
みだりにというのが、本当にまことの神である主に向かってと言うよりも、生活の中でやたらと「神」ということばを使うという意味なのだとしたら、それはこの日本でも最近耳につくことがあります。
あの人は神だ・・というようなことばが、最近では日常的なことばとして使われています。
神対応とかいうことばにも私は抵抗を覚えます。
ヤクルトの村上選手を村神様と言ったり・・。
あるいはもっと聖書的な世界に戻るなら、イスラエルの民が、神に選ばれたという選民意識をもって神の名をやたらと口にして、自分たちの優位性を示す・・というようなこともあります。
神の名・・それは神聖で、その前にひれ伏すべき名なんですね。
イスラエルの民がホレブの山に現れる神を迎えたときに、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった(19:16) ・・とある通りです。
一方イエス様は、わたしはもうあなた方をしもべとは呼ばず、友と呼びますと言われました。
それは私たちが、神である主のことをすべて聞いたからだとイエス様は言われたのです。(ヨハネ15:15)
だからと言って、私たちはこの主なる神様にため口をきくことのできるような存在ではないんですね。
ここでは、そこまで低いところまで降りてきてくださったイエス様のことを覚えるべきなのです。
イエス様が友と言われたからといって、イエス様と同列になるというような勘違いがあってはならないのです。
主の御名は、畏怖とか畏敬の念をもって呼ばれるべきまことの神の名なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。"
出エジプト記 20章5~6節
今日の箇所は、前回の第二戒、偶像を造りそれを拝んではならないという主のことばの続きです。
主は、「わたしはねたみの神」だと言われました。
妬(ねた)むという言葉の意味は、ほかの人をうらやんで憎むとか、嫉妬するとかいう意味がありますが、もう一つ「恨(うら)み嘆(なげ)く」という意味があります。
主のねたみはこの三番目の「恨み嘆く」に近いものではないかと思われますが、それにしても神が恨むというのは、なんとなくピンと来ません。
しかし、嘆きの末に怒りが下るというのは、聖書に随所に見られますし、神の全体の計画の最後の出来事、すなわち大艱難時代とそれに続く主の再臨は、主の憤りが極まるときです。
しかしそれは同時に、主の慈愛が成就するときでもあるんですね。
今日の箇所では、主なる神を愛しその命令を守る者には、主は恵みを千代にまで施すけれども、主を憎む者にはその咎を「三代、四代」にまで及ぼすと記されています。
この「千代」と「三代、四代」の違いを見てください。
神の恵み、すなわち神の愛は、それにふさわしくもない私たちの上に、憤りより遙かにまさっているのです。
神は「ふさわしくない私たち」をその千代の祝福に入れたいのです。
その最終的な形が、神が用意されている「天の御国」なんですね。
そしてその愛を最もはっきり表しているのが、あの主イエス・キリストの十字架と復活なのです。
私たちの務め・・・それは私たちが「恵み」というその一言に尽きる神の愛に応えることなのではないでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。"
出エジプト記 20章4節
十戒の二番目の教えです。
偶像・・、それはそこに神を住まわせるために作る器です。
しかし天地万物を造られた神が、人が勝手に作った器に住まわれるでしょうか。
ところが実際に、人が作ったこの偶像には、何かわけのわからない霊的な存在があることを、私たちは体験的に知っています。
しかしその霊的存在は、まことの創造主なる神から来るものではないことは明らかです。
その霊には光もないし喜びもないんです。
あるのはただ私たちを恐怖に陥れ、私たちを縛るような霊ばかりです。
霊というのは見えない世界に実存し、実際に私たちに働きかけるものです。
今、この世にある霊は二種類しかありません。
それは父なる神から来る神の霊である聖霊、そしてもう一つの霊的存在、それは聖書の初めからこの世の終わりまで、なぜか神がその存在を許しているサタンから来る霊、すなわち悪霊です。
偶像に宿る霊・・それが神からのものでないのなら、あとは悪霊しかないのです。
そしてその霊は、人をまことの神から引き離すということを目的として存在しています。
偶像を拝むというのは、神から離れることそのものなのです。
だからこの霊との関係を決して持ってはいけない・・それがこの第二戒なのです。
ところがイスラエルの民は、これができなかった・・。
あれだけ大きな奇跡を見せられていながら・・。
実際にこの直後に、しかもモーセが十戒を受けている間にも、民は偶像を作り始めてしまうんですね。
あくまでも愚かな民・・、それは実は私たちの雛形に過ぎません。
私たちは心と思いを尽くして主なる神を「まことの神」とし、力を尽くしてこの方を愛することが求められているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【今日を乗り切る力】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=ZhabsPEr0qw&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。"
出エジプト記 20章4節
十戒の二番目の教えです。
偶像・・、それはそこに神を住まわせるために作る器です。
しかし天地万物を造られた神が、人が勝手に作った器に住まわれるでしょうか。
ところが実際に、人が作ったこの偶像には、何かわけのわからない霊的な存在があることを、私たちは体験的に知っています。
しかしその霊的存在は、まことの創造主なる神から来るものではないことは明らかです。
その霊には光もないし喜びもないんです。
あるのはただ私たちを恐怖に陥れ、私たちを縛るような霊ばかりです。
霊というのは見えない世界に実存し、実際に私たちに働きかけるものです。
今、この世にある霊は二種類しかありません。
それは父なる神から来る神の霊である聖霊、そしてもう一つの霊的存在、それは聖書の初めからこの世の終わりまで、なぜか神がその存在を許しているサタンから来る霊、すなわち悪霊です。
偶像に宿る霊・・それが神からのものでないのなら、あとは悪霊しかないのです。
そしてその霊は、人をまことの神から引き離すということを目的として存在しています。
偶像を拝むというのは、神から離れることそのものなのです。
だからこの霊との関係を決して持ってはいけない・・それがこの第二戒なのです。
ところがイスラエルの民は、これができなかった・・。
あれだけ大きな奇跡を見せられていながら・・。
実際にこの直後に、しかもモーセが十戒を受けている間にも、民は偶像を作り始めてしまうんですね。
あくまでも愚かな民・・、それは実は私たちの雛形に過ぎません。
私たちは心と思いを尽くして主なる神を「まことの神」とし、力を尽くしてこの方を愛することが求められているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
1.それから神は次のすべてのことばを告げられた。
2.「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
3.あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
出エジプト記 20章1~3節
神である主はモーセを神の山の頂に呼び出し、いよいよあの「十戒」を告げます。
その前置きが今日の箇所の2節で、3節がこの十戒の第一番目となります。
エジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神・・。
私たちは罪の性質の中で、自分ではどうにもならない惨めな者、すなわち罪の奴隷であったわけですが、その「奴隷の家」から解放された者です。
しかも、今までは行く先もわからなかったこの地上の生涯だったのが、しっかりと行く先までもが保証される者となりました。
この出エジプトの出来事は、その「救い」の雛形として表わされている旧約聖書の中で最大の出来事だということは、今までに何度も書いてきました。
わたしはあなたにそれをした神・・主である・・と、主は言われたのです。
この「主」という文字は太文字で書かれている特別なことばです。
原語は「ヤハウェ」ですが、それはもともと主の名を恐れて口には出さずに、子音だけのYHWHとされていたものが母音をつけて呼ばれるようになったことば・・、それがヤハウェ = エホバ「主」だというわけです。
そしてこの主は言われるのです。
わたし以外に、ほかの神があってはならない・・と。
これが十戒の中の第一番目の戒律「第一戒」です。(3節)
ですから聖書は、この方も神だし、ほかにも信じるならばそれも神だというような考えに対しては、はっきりとそれを否定するものなんですね。
この神「主」は、ご自分をそのようなものであると宣言される方なのです。
この主が天地万物を造られたのなら、そのような存在は一つしかないのは、当然のことです。
それ以外に「神」と呼ばれるものがあるなら、それは人の手によって造られた「偽物」に過ぎないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」
そこでモーセは民のところに下りて行き、彼らに告げた。"
出エジプト記 19章24~25節
このあとモーセとアロンは主の山に登り、あの「十戒」を受けるのです。
そして他の会衆はたとえ祭司であろうと、モーセが作った境(さかい)を越えて山に入ることは許されませんでした。
イスラエルの民は、直接神に近付き、神からことばをいただいたりするということは、許されなかったわけです。
モーセとアロン以外の者が境を越えて神に近づくならば、神は怒られるというのです。
それは神の絶対的な「神聖」に、人々はもともと近付くことさえ許されない者であるということを示すものです。
モーセとアロンは、その民と神との間を取り持つ者として特別に選ばれた者であったというわけです。
十戒とは、人々が神と共に歩むための言わば条件です。
しかしイスラエルは、この神との約束を守ることができませんでした。
神である主は、人はそのような契約を自分の力で守ることなどできないということを、1500年という長い歳月をかけて、この民に、そして世界中の人々に示して見せられたんですね。
そして今の私たち・・クリスチャンは、イエス・キリストが成し遂げて下さった贖いのみわざ、すなわち十字架における罪の赦しと、そのあとに見せてくださったよみがえりのキリストを信じる「信仰によって」、私たちは神と共に歩む者とされるという、今まで人の力ではできなかったことを、神の側から用意された新しい方法によってそれを実現させてくださったのです。
人はこの方法によってしか、神との関係を回復する手立てはどこにもないのです。
さらに私たちクリスチャンは、なんの境もなしに、直接神のもとに行き、神から語りかけられ、また語ることのできる者とされたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。
モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」"
出エジプト記 19章14~15節
少し前に戻ります。
彼らは自分の衣服を洗った・・。それは民が主の前に出る前に、主がせよと命じられたことでした。(10節)
そして、この準備の期間、女に近付いてはならないと、モーセは民(男たち)に命じました。
衣服を洗う・・、それは普段のままではなくて、「礼服」をもって主の前に出るということです。
マタイの福音書22章12-13節には、婚礼の場に礼服を着ないで入ってきた男の話が出てきます。
その男は、婚礼に招いた王に「なぜ婚礼の礼服を着ないで入ってきたのか」と問われても、何も答えませんでした。
それで王はその男を縛って外に放り出すように命じます。
礼服を着る・・それは、神にまみえるというしっかりした姿勢をもってそこに臨むということです。
そしてモーセは民に、この三日間、女に近付いてはならないと命じました。
それは、主の前に出るときには、この世の楽しみから自分の心を聖別し、神の前に出るということに集中せよということです。
私たちが神の前に出るとき、すなわち聖日に神に礼拝をささげるのは、日常生活の中のついでの話ではないのです。
私たちはあくまでも、ふさわしくもない者がただ恵みによって、神の前に出る者とされた者です。
ならば今度は、私たちがそれに応える形で神の前に出て行く・・、それは人として当然のことなのではないでしょうか。
「霊とまことをもって神を礼拝する」(ヨハネ4:23) ・・、このみことばについて、もう一度深く考えてみたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。"
出エジプト記 19章16~19節
民は神との出会いのために衣服を洗い、三日後の神の顕現(けんげん)に備えました。
そしてついに、神ご自身が民に現れるときが来ました。
そしてこの顕現の様子は、聖書にそれまでに記されてきたどの記事よりもおそるべき光景でした。
雷鳴と稲妻・・、それはまさに黙示録に記されている天の御座の光景そのものです。(黙示録4:5)
厚い雲・・、それはこのあと、主からの命により、モーセが幕屋を完成させたときにも雲が会見の天幕をおおい、「主の栄光が幕屋に満ちて」いて、もうそこに入ることができなかったという、いわば神が最も近くに来られたときの描写です。(出エ40:35)
そして「非常に高く鳴り響く角笛」・・、それはおそらく大空を包み込むような、天の遙か高いところから鳴り響いているという印象なのではないでしょうか。
そして主が山の上に降りてこられた・・。
全山が煙り、火の中にあって降りてこられ、角笛の音が「いよいよ高くなる中」、宿営の民はみな震え上がったというのです。
絶対的に異なる存在としての神が、被造物である私たちのレベルに合わせて降りてこられたのです。
そして神の御子キリストが赤子となって世に来てくださったということも、それに等しいことなのです。
神はそれほどまでに、私たちに関心があり、私たちを神の国に導こうとされ、それをご自身自ら私たちに知らせようとされるお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。
彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。
あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」"
出エジプト記 19章10~13節
主は、いよいよシナイ山に降臨されることをモーセに告げます。
彼らを聖別し・・。
人が神の前に出るのに、清くない姿で出て行ってはならない。
自らの衣服を洗い、そしてその前に三日間をかけて備えをせよ。
そして山に近づく時には、モーセが設けた境界に触れることがないようにしなければならない・・。
そこに触れる者は必ず殺される・・。
ただし「雄羊の角が長く鳴り響いたとき」だけ、山に入ることができる・・。
主なる神は、私たちが気楽に出て行って会うことなど、到底できる存在ではないんですね。
私たちは、神の前に出るにはあまりにも汚(けが)れているのです。
私たちは聖日に教会に行き、神を礼拝します。
その私たちも、このシナイ山に臨まれた神と、同じ神を礼拝しているのです。
私たちは汚れたままで、神の前に出ることはできないんです。
でも私たちには、神の前に完全なる「身分証明書」があるんですね。
それは私たちの主イエス・キリストが、私たちのすべての罪を負って下さったという、主が自ら与えてくださった保証です。
その主を身に帯びて、私たちは神の前に完全に清い者として出ることができるのです。
このように私たちは、ただ主イエス・キリストによるという、全くの「恵み」によって、主を礼拝する者とされているのです。
礼拝する時には、この主イエス・キリストを明確に覚えて礼拝しましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【神と個人的につながる】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=BT6QAPRTcrQ&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" 主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。
彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。
あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」"
出エジプト記 19章10~13節
主は、いよいよシナイ山に降臨されることをモーセに告げます。
彼らを聖別し・・。
人が神の前に出るのに、清くない姿で出て行ってはならない。
自らの衣服を洗い、そしてその前に三日間をかけて備えをせよ。
そして山に近づく時には、モーセが設けた境界に触れることがないようにしなければならない・・。
そこに触れる者は必ず殺される・・。
ただし「雄羊の角が長く鳴り響いたとき」だけ、山に入ることができる・・。
主なる神は、私たちが気楽に出て行って会うことなど、到底できる存在ではないんですね。
私たちは、神の前に出るにはあまりにも汚(けが)れているのです。
私たちは聖日に教会に行き、神を礼拝します。
その私たちも、このシナイ山に臨まれた神と、同じ神を礼拝しているのです。
私たちは汚れたままで、神の前に出ることはできないんです。
でも私たちには、神の前に完全なる「身分証明書」があるんですね。
それは私たちの主イエス・キリストが、私たちのすべての罪を負って下さったという、主が自ら与えてくださった保証です。
その主を身に帯びて、私たちは神の前に完全に清い者として出ることができるのです。
このように私たちは、ただ主イエス・キリストによるという、全くの「恵み」によって、主を礼拝する者とされているのです。
礼拝する時には、この主イエス・キリストを明確に覚えて礼拝しましょう。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。"
出エジプト記 19章9節
主は山からモーセを呼んで、契約の言葉を告げられました。
「今、もしあなたがたがわたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」
モーセはこの主のことばを受け取り、山を下って民の長老たちを呼び寄せて、彼らに告げます。(7節)
それでそれぞれの部族を率いる長老たちは「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と答えたのでした。(8節)
それでモーセは、その民(長老たち)のことばを受け取り、再び山に登ります。
その時主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
主は、民がいつまでもモーセを神の代理人として信じるために、すなわちモーセを軽く見ることのないように、主がモーセに語るときには濃い雲の中から語って、圧倒的なご自身の存在を示す、と言われたのです。
イエス・キリストによって新しくされた者、すなわちクリスチャンは、「世の光」「地の塩」としてこの世に置かれている者です。
しかしながらクリスチャンが主の旗印を明確にすればするほど、人々はあしざまに言ったり、石を投げたりしてきたわけです。
しかしこのモーセの上に主がなされたように、そこに主がご自身の栄光を現されたが故に、この二千年間、イエス・キリストの福音は地の果てにまで広がって行ったんですね。
そこには主の具体的な癒やしのみわざとか、聖霊の圧倒的な働きによる悔い改めなどがあったわけですが、主のみわざの筆頭といえば、それは実は「愛」なんですね。
私たちが神の器だということを現すために、主が与えて下さるそのしるし・・それは愛なのです。
この愛とはアガペの愛、すなわち人のいのちのために自分を犠牲にするという神の愛のことで、それは自分が一生懸命に力を振り絞って実らせるのではなくて、主イエス・キリストにつながることによって実る「御霊の実」です。
神は私たちを用いるためにまず与えてくださるのが、「愛」なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
“ 〜 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」"
出エジプト記 19章5~6節
モーセがシナイの山に入っていったとき、主の声がモーセに臨みました。
それが前回の箇所で、今日の5-6節はその主のことばの続きです。
わたしの契約を守るなら・・。その契約とは、「確かにわたしの声に聞き従うなら、あなた方はあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」というものでした。
それはこのイスラエルの民が世界中の民族の中で、神の栄光をあらわす特別な民族になるという意味です。
そして主は、全世界はわたしのものである「から」と言われています。
それは全世界の人々は「わたしのもの」で、イスラエルの民はその人々のために存在するのだという意味に他なりません。
そしてこのイスラエルの民は、「祭司の王国、聖なる国民となる」というのです。
しかしこのイスラエルの民の実際の歴史は、神との契約を守り通すことができず、AD70年には完全に壊滅して世界中に散らされてしまうのです。
そして現代にあっても、イスラエルの民すなわちユダヤ人は、今もってこの民が全世界の民のための「祭司の王国」とか「聖なる国民」であるという気配はどこにもありません。
でも聖書をすべて読み、神の全体のご計画を知るとき、それは世の終わりに続いて出現する「千年王国」のことであることがわかります。
それはイスラエルの特別な民と、イエス・キリストにあって復活したすべての者とによって治められる、イエス・キリストを王とする国です。
今の世界情勢を見るとき、まさにその時が近いことが肌で感じられるようになってきました。
このシナイで最初に語られた神の契約・・それは、私たちに直接関係のあることなんですね。
私たちは腰の帯を引き締めて、この神の契約が成就するのを待ち望む・・、今がその時なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲(わし)の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。〜 」”
出エジプト記 19章3~4節
エジプトを出て三ヶ月目に入ったとき、民はシナイの荒野に入りました。
イスラエルはそこで、山を前にして宿営したとあります。(1-2節)
神である主はこのシナイ山において、イスラエルの民と約束を交わすのです。
今日の箇所がまず、その初めです。
モーセが神との交わりを持つためにひとりで山に入って行ったら、主が山から彼を呼んで言われたというのです。
それは、神がこの民全体に語ることをモーセに託すためでした。
まず神は民に、このように言われます。
あなた方は見たでしょう、わたしがしたことを・・。
それはエジプトのファラオに対する奇跡の連続、そして「あなた方を鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」のを・・と。
鷲の翼に乗せて・・。
それは地上を「歩く」のではなく、大空高く舞い上がり、一気に新しいところに連れて行くという意味です。
しかし実際には、民は様々な試練に遭い、その信仰を試されながらここまで来ています。
しかし振り返って見ると、それは「鷲の翼に乗せられてきた」としか言いようのない行程だったというわけです。
これはまさに、私たちの信仰生活の型そのものです。
私たちは様々な試練や壁に遭遇しながら、主に叫び、ふと気がつくと次の場所に立っている・・。
いつもそうなんですね。
私たちクリスチャンは、目の前がどのような状況に見えても、実は鷲の翼とも言える主の御力の守りのうちに、新しい地に向かって連れて行かれているのです。
そのことをいつも「信仰の目」をもって、主に目を留めつつ歩んでいきたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。
モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。
いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。"
出エジプト記 18章24~26節
モーセのしゅうとの祭司イテロは、モーセが民のトラブルをさばくために丸一日を費やしてその対応をしている姿を見て、こんなことをしていては、あなたもあなたの民も疲れ果ててしまう・・とモーセに忠告します。(13-23節)
それでイテロはある提案をし、モーセはその提案を受け入れた・・。それが今日の箇所です。
多くのクリスチャンたちには、神のご用に用いていただきたいという思いがあります。
しかしそれをいざやろうとしたとき、やることで一杯になってしまい、能力的にも体力的にもパンパンになって動きが取れなくなってしまうということがあります。
主は私たちを用いられるとき、それはあなた一人だけを用いるのではなくて、そこに主にある兄弟姉妹という助け手を与えてくださるんですね。
神はそのように人々を備え、用いられるのです。
モーセは謙虚にイテロの忠告を受け入れました。
このイテロは前の日に、モーセから出エジプトの経緯を聞き、そしてこの民を導いた神こそが真に礼拝すべき方であるということを認め、全焼のささげ物をささげたという、「主」に対する信仰に関して言えば、いわば駆け出しの信仰者だったわけです。
モーセはそのイテロの言うことに耳を傾けたのです。
神は私たちの周りに、そのように忠告してくれる器をも置かれるんですね。
そしてその器は、つい先日洗礼をうけたばかりの人かもしれない・・。
でもそのことばに謙虚に耳を傾ける・・。
モーセはそのような姿勢を持つ人だったわけです。
主にある働き・・、それはあなた一人でするものではないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" イテロは言った。「 〜 今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」"
出エジプト記 18章10~11節
イスラエルの民はレフィディムで宿営し、ホレブの岩から水が湧き出るという奇跡を見せられ、そして攻めてきたアマレクと戦うという、めまぐるしいとも言える時を過ごし、そこを出て「神の山」に宿営しました。(5節)
神の山・・、それは他でもないモーセが燃える柴の中で主に語られたその山のことで、そこはモーセが身を寄せていたしゅうとであり祭司であったイテロの住んでいた地域でした。
イテロはイスラエルの民がエジプトを出て、まさに近くまで来ていることを知り、先にモーセから送り返されてきた妻と二人の息子を連れて、モーセに会いにやってきたのです。
モーセはイテロに直接、エジプトを出た経緯のすべてのこと、そしてその後の荒野の旅での出来事の話をして聞かせます。
それに対してイテロが言った、というのが今日の箇所です。
イテロは祭司であると言っても、イスラエルを導いたアブラハム、イサク、ヤコブの神をはっきりと主と認めて礼拝する祭司ではなかったようです。
それがモーセから事の次第を聞いて、この主こそがまことの神であること・・あらゆる神々にまさって偉大であること・・を認めて、それを自分の口で告白したというわけです。
この出エジプトの話・・。それをただの逸話だとするのか、あるいは、本当にそのことがあったのだと受け取るのか・・。
このイテロのように、この出エジプトの話を聞いて、この方こそまことの神であると口で告白する者は、この出エジプトを通してご自身を表された主と共に歩む者とされるんですね。
この神を本当の神だと認めるのか認めないのか・・、それはこれからの歩みをまったく二分するものとなり、それは永遠にまで関わってくることなのだと言っているのが聖書なのです。
この主を本当に神と認めるのか・・、私たちはそれをはっきりと心に定めるように促されているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【向き合うことのできる神】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=HW7IkWJ9Sh8&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" イテロは言った。「 〜 今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」"
出エジプト記 18章10~11節
イスラエルの民はレフィディムで宿営し、ホレブの岩から水が湧き出るという奇跡を見せられ、そして攻めてきたアマレクと戦うという、めまぐるしいとも言える時を過ごし、そこを出て「神の山」に宿営しました。(5節)
神の山・・、それは他でもないモーセが燃える柴の中で主に語られたその山のことで、そこはモーセが身を寄せていたしゅうとであり祭司であったイテロの住んでいた地域でした。
イテロはイスラエルの民がエジプトを出て、まさに近くまで来ていることを知り、先にモーセから送り返されてきた妻と二人の息子を連れて、モーセに会いにやってきたのです。
モーセはイテロに直接、エジプトを出た経緯のすべてのこと、そしてその後の荒野の旅での出来事の話をして聞かせます。
それに対してイテロが言った、というのが今日の箇所です。
イテロは祭司であると言っても、イスラエルを導いたアブラハム、イサク、ヤコブの神をはっきりと主と認めて礼拝する祭司ではなかったようです。
それがモーセから事の次第を聞いて、この主こそがまことの神であること・・あらゆる神々にまさって偉大であること・・を認めて、それを自分の口で告白したというわけです。
この出エジプトの話・・。それをただの逸話だとするのか、あるいは、本当にそのことがあったのだと受け取るのか・・。
このイテロのように、この出エジプトの話を聞いて、この方こそまことの神であると口で告白する者は、この出エジプトを通してご自身を表された主と共に歩む者とされるんですね。
この神を本当の神だと認めるのか認めないのか・・、それはこれからの歩みをまったく二分するものとなり、それは永遠にまで関わってくることなのだと言っているのが聖書なのです。
この主を本当に神と認めるのか・・、私たちはそれをはっきりと心に定めるように促されているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。
主はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」"
出エジプト記 17章13~14節
ヨシュアは、アマレクを撃退しました。
しかしアマレクはこの時点で、完全に消滅したわけではありませんでした。
そしてこのときから約二年、約束の地に偵察に出たイスラエルの目の前に立ちはだかったのもこのアマレクでした。
イスラエルの民は恐れ、この地に攻め上れという主のことばに逆らったことで、この旅は四十年もの長い期間に引き延ばされてしまいます。
そして四十年経ってこの民を率いてカナンの地に入っていったのが、このヨシュアです。
そしてこのときにも、一番の勢力を誇っていたのは、このアマレクでした。
ですから主は、この記録をヨシュアに読んで聞かせよ・・と言われたのではないでしょうか。
ヨシュア率いるイスラエルはカナンの地に入ってそこを占領するわけですが、それでもまだアマレクは滅ぼし尽くされませんでした。
そしてさらに百年、カナンの地にてアマレクとの戦いは続き、結局このアマレクを徹底的に屈服させたのは、ダビデ王でした。
このとき初めて、主が言われた「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」というこのことばは実現したのです。
イエス様の弟子たちは、イエス様が天に上った後、再び来られるのを今か今かと待っていました。
ところがこのイエス様が再び来られるという約束も、そのときからすでに二千年という年月が流れてしまいました。
しかし聖書には、イエス・キリストが再び来られることが明確に、しかも数え切れないほどの箇所で語られています。
ですから私たちも、この主の約束を忘れてはいけないのです。
私たちは「主の再臨の日」は近いという思いをもって、今日を過ごすべきなのです。
主が約束されたことは必ず実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。
モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。"
出エジプト記 17章11~12節
アマレクとの戦いの最中、モーセとアロンとフルは、戦況が一望できる丘の頂に登り、モーセは主に向かって手を高く上げていました。
そして今日の箇所・・、モーセが手を高く上げている間はイスラエルは優勢になり、疲れて手を下ろすとアマレクが優勢になったというのです。
それでアロンとフルはモーセを石の上に座らせ、二人がそれぞれモーセの腕を、日が沈むまで支え続けました。
そうしたら、ヨシュアが率いるイスラエルの軍団はアマレクとその民を打ち破ったというのです。
モーセが主に向かって手を上げている間・・、それはすなわちモーセが主に心を向けている間ということです。
モーセが主に目を向けている間は、主はそこに御力を表されました。
しかしモーセが手を下ろす・・、すなわち主から目を逸らすと、敵の力が優勢になったというのです。
私たちは信仰生活の中で、主が働かれるのを体験することがあります。
しかしそれは、私たちが自分の目をはっきりと主に向けているときなんですね。
あの湖の上を歩いたペテロもそうでした。
ペテロは水の上に立っておられるイエス様を見て、イエス様が「来なさい」と言われたのだからという信仰だけで、水の上に足を踏み出しました。
そうしたら、なんとペテロは水の上を歩けたのです。
しかし、そこに吹いている強風に目をやったとたんにその風が恐ろしくなり、今まで水の上を歩いていたはずが、急に沈み始めたのです。
もちろんイエス様は、そんなペテロを助けてくださいました。
しかしその時のイエス様のことばは、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」でした。(マタイ14:22-33)
私たちは、どんな状況にあるときでも、主を疑ってはならないのです。
崖っぷちに立ったとき・・、そのときこそが信仰を働かせ、主に目を留め続けるときなのです。
そしてそれが、私たちが主の御力を拝するときとなるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。"
出エジプト記 17章8~10節
ホレブの岩から水を得た民は、その場所で自分たちに攻撃を仕掛けてくる勢力に出会います。
アマレク・・それはこの地域に出没した一大勢力を持つ遊牧民族です。
水を得て安堵したと思ったら、今度は外敵が攻めてくる・・。
これも約束の地への歩み、すなわち信仰生活の「型」なのかもしれませんね。
このときモーセは、ヨシュアというひとりの人物を選びました。
このヨシュアはあのエジプトに於いて王に次ぐ権力者となったヨセフの子、エフライムの族長の子孫です。
このヨシュアこそが、後にモーセの役割を引き継いでイスラエルの民を約束の地カナンに導いた人物です。
しかも、新約聖書に記されているこのヨシュアという名の原語は「イエス」なんですね。
イエス・・それは一般的な人名であると同時に、「主は救い」という意味の名でもあります。
ですからこのヨシュアこそが、私たちを約束の地、天の御国に導き入れてくださるイエス・キリストの型であるということがわかります。
そしてこのヨシュアは、約束の地に入る40年も前から、いやそれ以前から、しっかりと選ばれていたんですね。
このことを知るとき、実は私たちクリスチャンのひとりひとりのことも、主は私たちが神を思う遙か以前からご存じで、そして後に起こるすべてのことも、主はすでに見ておられるということを思わされます。
この主の御目の内に、今日も、今も、私たちは生かされているのです。
この主と一つ思いで歩む・・それこそが最強の道なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。"
出エジプト記 17章7節
水がなくて民の不平が募(つの)り、モーセは石で打ち殺されそうになりました。それでモーセは主に助けを叫び求めます。(4節)
その時主はモーセに言われました。
あの杖をもって長老たちを連れてホレブに行き、そこで彼らの目の前でホレブの岩を打て、そうすればとその岩から水が出て、民はそれを飲むから・・と。(5-6節)
そしてモーセはその通りにして、民は再び主の奇跡を見るのことになるのです。
主がモーセに連れて行くように命じた長老たち・・それは不平に満ちた民を治める立場の族長たちです。
彼らは言ってみれば、モーセと民の間で板挟みのようになっていた人たちです。彼らはその信仰が揺らいでいたに違いありません。
そうでなければ、この族長たちが民の怒りを収めたはずですから・・。
その族長たちがモーセに声をかけられ、ホレブの岩のあるところまで行って、その奇跡を目の当たりにしたというわけです。
モーセはホレブの岩のあるこの場所をマサ、またメリバと名付けた・・。それが今日の箇所です。
マサは「試み」、メリバは「争い」という意味です。
このような大きな恵みをいただくとき、民にとっていつもそれは試練のときであり、そこには争いがありました。
そしてそれは、これから後の民の旅路の間でも、ずっと見られたことでした。
前回と同じことですが、この旅路においては、主への信頼、すなわち信仰が欠かせない条件なんですね。
それも、個人個人の信仰です。
そして今回、それを最初に教えられたのが長老、すなわち部族を率いる族長たちだったというわけです。
教会においても、その指導者に求められるもの・・これもやはり「信仰」なんですね。
教会の人々が、指導者の信仰が守られ、強められるように日々祈るなら、教会は力強く成長していくのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」"
出エジプト記 17章3~4節
前回の続きです。
レフィディムに宿営した民は、そこに飲み水がないことでモーセに不平を言った・・とあります。
それは不平というレベルを超えた、怒りに満ちた罵倒のようなものだったのではないでしょうか。
モーセは主に向かって「彼らは私を石で打ち殺そうとしています」と言っています。
荒野の旅、それは私たちの信仰生活を象徴するものですが、その旅というのは文字通り「荒野の旅」すなわち「主による試みの連続の旅」であるようです。
窮地に追い込まれたとき、そこで主に叫んで助けを求めるのか、主を呪うのかの連続・・。
しかし忍耐の主はその都度、ご自身が救いの力であることを示される・・。
これが私たちが歩まされる「旅」のバターンなんですね。
どうして主は、私たちをそのように何度も試みなければいけないのでしょうか。
それは、私たちが大きな奇跡を何度見せられても、結局本当に主を信頼して自分の身を預け、状況に関わらず安心するというところまでに、信仰が成長しないからなのではないでしょうか。
主はあなたに「わたしが神だ。ほかにはいない。」と言おうとしておられるのです。
人々を導く者が、導かれる側の人々の怒りの砲撃を浴びる・・。
旅が試みの連続なら、それはありがちなことなのかもしれません。
ここで両者をつなぐものは、一つしかないことがよくわかります。
それは主に対する信頼・・すなわち信仰です。
旅をする人々・・、それは教会を象徴します。
そしてそこにいる人々の主に対する信仰こそが、教会を強固な「主の軍団」とするのです。
教会は主に対する信仰によって、一つとなれるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【行いによるのではない】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=K_c_1oPN0f8&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」"
出エジプト記 17章3~4節
前回の続きです。
レフィディムに宿営した民は、そこに飲み水がないことでモーセに不平を言った・・とあります。
それは不平というレベルを超えた、怒りに満ちた罵倒のようなものだったのではないでしょうか。
モーセは主に向かって「彼らは私を石で打ち殺そうとしています」と言っています。
荒野の旅、それは私たちの信仰生活を象徴するものですが、その旅というのは文字通り「荒野の旅」すなわち「主による試みの連続の旅」であるようです。
窮地に追い込まれたとき、そこで主に叫んで助けを求めるのか、主を呪うのかの連続・・。
しかし忍耐の主はその都度、ご自身が救いの力であることを示される・・。
これが私たちが歩まされる「旅」のバターンなんですね。
どうして主は、私たちをそのように何度も試みなければいけないのでしょうか。
それは、私たちが大きな奇跡を何度見せられても、結局本当に主を信頼して自分の身を預け、状況に関わらず安心するというところまでに、信仰が成長しないからなのではないでしょうか。
主はあなたに「わたしが神だ。ほかにはいない。」と言おうとしておられるのです。
人々を導く者が、導かれる側の人々の怒りの砲撃を浴びる・・。
旅が試みの連続なら、それはありがちなことなのかもしれません。
ここで両者をつなぐものは、一つしかないことがよくわかります。
それは主に対する信頼・・すなわち信仰です。
旅をする人々・・、それは教会を象徴します。
そしてそこにいる人々の主に対する信仰こそが、教会を強固な「主の軍団」とするのです。
教会は主に対する信仰によって、一つとなるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。"
出エジプト記 17章1~2節
イスラエルの民の、毎日マナを取るという生活が始まりました。
さてイスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ちレフィディムに宿営するのですが、そこには飲み水がありませんでした。(17:1)
それが今日の箇所です。
これまでの荒野の旅を振り返ってみると、紅海を渡って三日目、マラに着いたのですが、その水は苦くて飲めませんでした。
それで民はモーセに不平をぶつけます。そこで主は奇跡を見せられ、その水は飲めるようになります。
そしてそのあとエリムに移動します。そこは水が豊富でなつめ椰子もありました。
さらにエジプトを出てちょうど一月目に、シンの荒野に入ります。
ここでは食べるものも尽きて、民は再び不平を言い始めます。
それに対して主は民にマナを与え、うづらの大群も与えられました。
このとき主が言われたのは、「こうしてあなた方は、わたしがあなたがたの神、主であることを知る」ということでした。
民はこの一つ一つの場面で、不平を言い、主とそのしもべモーセに対する不信のことばを投げつけているのですが、主はその都度主ご自身が彼らを養う方であることを見せられているんですね。
しかし彼らはこれから先もずっと、これを繰り返し続けるのです。
どうしてこの民は、主がすべてを備える神であることを学ぶことができないのでしょうか。
本当は二年ほどで目的地に着ける段取りであったものが、四十年に引き延ばされてしまったわけ・・、それは彼らの不信仰によるものでした。
四十年・・、それは本当は必要のない「回り道」だったのです。
主が私たちにまず第一に知らせようとしておられること・・。
それは、本当に「わたしが神である、他にはいない」ということなんですね。(イザヤ45章参照)
それを私たちが本当に受け取ることで、すべては変わって行くのです。
回り道はしたくないですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息(あんそく)である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」
モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。" 16章23~24節
モーセは民に命じました。
日曜日から数えて七日目は安息の日。だから六日目には二日分のマナを取って七日目は休みなさい。(22節) そして余計に取った分は焼いたり煮たりしてこの安息日のためにとっておきなさいと。
果たしてこの日だけは、余計に取った分も腐りませんでした。
しかし、ある人たちは七日目にもマナを集めに出て行ったというのです。(27節)
二百万の民ともなれば、そういう人たちが少しはいても不思議ではないかもしれません。
しかし主はモーセに「あなた方は、いつまでわたしの命令と教えを拒むのか」と言われました。(28節)
主は、とんでもない奇跡を見せて、この民をエジプトから導き出された「神」なのです。
その主が、こうしなさいと言われたのです。
それなのにそのことばをしっかり受け止めないで、自分の好き勝手な行動に出るとはどういうことなのでしょうか。
ちょっとした集団でも、隊長が言うことを聞かなければ、その人はそれなりの扱いを受けます。
この場合は、その隊長は「神」であり、この民は神の民なのです。
" 今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。" (申命記 32章39節)
この神である主こそが、私たちひとりひとりの「いのち」なのです。
この神と一つ心で歩むこと・・それがいのちの道だと聖書は教えているのです。
それをおろそかにする民に対して、主もモーセも怒ったのです。(20.28節)
この神を神とする・・。
それがいのちの要なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」" 16章16節
" しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。" 16章20節
毎日天から降るパンについて、主はひとり当たり一オメル(約2.3リットル)ずつと定められました。それはひとりの人の一日分の量です。
それで人々は自分たちが食べる分に応じて集めました。
そしてモーセは、「それを朝まで残しておいてはならない」と言いました。(19節)
しかしそのことばを守らない人がいたというのです。それが今日の後半の20節です。
彼らはなぜ朝まで残したかというと、それは「蓄える」ためでした。
蓄えるというのは、いざというときのための備蓄です。
主はそれをするな・・と言われたわけです。
一日分しか取らない・・私たちがその場に置かれたら、おそらくものすごい誘惑に駆られたのではないでしょうか。
明日も天からマナが降る確証は、どこにもないのです。
それは言ってみれば、信仰がなければできないことです。
その信仰とは、「日々の糧は主が与えてくださる」という信仰です。
モーセは、余計に貯めた人たちに対して怒った・・とあります。
それはその人たちが主への信仰よりも、自分を守ろうとすることに心を奪われたからです。
この大きな会衆は、主を信頼することで一つとなるのです。
そしてそれが、一番大きな守りの力となるのです。
なぜなら、主だけが頼るべき唯一のお方なのですから。
主への信仰によってひとつになること・・それはこの大きな会衆が確実に約束の地へと導かれるためには、絶対的に必要な条件だったのです。
ここから得られる教訓・・それは、教会は主イエス・キリストに対する「信仰によって」一つにならなければならないということです。
信仰によって一つとなったとき、私たちは教会の内に、主の大いなるみわざを見ることができるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」"
出エジプト記 16章8節
夕方に与える肉とは、宿営中を覆ったウズラでした。そして朝に与えられるパンとは、天から降るパン・・彼らが後に名付ける「マナ」のことです。
アロンが会衆に向かって、「主の前に近づきなさい。主があなた方の不平を聞かれたからだ」と言っとき、彼らが荒野の方を振り向くと、主の栄光が雲の中に現れた・・とあります。(10節)
それは明らかに主の圧倒的な臨在です。
しかしこの会衆は、この雲に導かれてこの一月間を歩んできたはずです。
彼らにとって、その雲は当たり前のことになっていたのでしょうか。
ここで改めて、彼らはその雲の中に「主の栄光」を見たのです。
私たちの信仰生活において、共にいてくださる主の存在・・それがただの「当たり前のこと」になってはいないでしょうか。
そして目の前に困難が訪れると、不平を言う・・。
モーセは言いました。その不平は・・主に対してなのだ・・と。
わたしたちの口から、不平のことばが出ることがあります。
それはほぼ、物事が自分の思い通りにならないときです。
しかしそれらのことばはみな、主に対してだというわけです。
「すべてのことについて感謝しなさい」(第一テサロニケ5:18) とはどういうことでしょうか。
それは、その先に主は良きことを必ず用意してくださっているという信仰によって、今目の前がどんな状況であっても、ともにおられる主を信じて、前もって感謝するということです。
主が応えてくださるのは、私たちの信仰に対してなんですね。
主の奇跡を見たいと思いませんか。
だったら不平ではなく、主を信じる方を選び取るときに、私たちは生ける主の奇跡を目の当たりにするのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)