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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています
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今週の「たいむ」は・・

【完了した】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=br_mR092SBg&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !
 
 
2024.04.20.Sat 10:53 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」"
 民数記 14章12節

 前回の主のことば、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」・・に続く主のことばです。

 主はイスラエルの民に「ゆずりの地を剥奪する」と言われたのです。
 それはもう、約束の地カナンという希望の話は、この民にはなかったことにするということに他なりません。
 しかし主はモーセに対しては、「私はあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする」と言われました。
 ちょっと耳を疑う主のことばですが、モーセから新しい民族を起こし、今までの十二部族はもうリセットしてしまうということなのでしょうか。

 これは主がこの民を今まで忍耐してここまで導いてきたのに、もうわたしは諦めた・・ということに他なりません。

 神から見離される・・それは何と恐ろしいことでしょうか。
 民は、それほどに神の怒りを買うことをこれまでに繰り返してきたのです。

 私たちクリスチャンには、私たちがどんなに愚かな者であっても、それの欠けの部分を補ってくださる主イエス・キリストの十字架のあがないがあります。
 何度でも神に逆らい、不平を言う私たちを、決して見放さず見捨てない主が共にいてくださる・・。

 そんな私たちに対する主の心は、一体どのようなものなのでしょうか。

 それは他でもない、「忍耐」の一言に尽きます。

 父なる神は私たちを忍耐して赦し続け、御子イエス・キリストのゆえに私たちを天の御国に導かれるのです。

 私たちが誇れることは、何一つないのです。

 その「忍耐されている自分」というところに、改めて私たちは目を留める必要があるのかもしれません。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

 
2024.04.19.Fri 09:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。
 主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。"
 民数記 14章10~11節

 ヨシュアとカレブは会衆の目を主に向けさせ、会衆が信仰に立って、主に従っていくように促します。
 ところが会衆は(しかも「全会衆は」とあります) 二人を石で打ち殺そうと言い出したのです。

 民はこれ以上自分たちを「信仰の道」に歩ませようとする者を、激しく拒絶したわけです。

 主を信じて行ってみようよ・・というそのことばを・・。

 ヨシュアとカレブのことばは、希望のことばでした。
 主がおられ、その主は私たちを乳と蜜の流れる約束の地に、確実に導かれるのだから、その道をしっかり歩んで行こうではないか・・という。

 この希望のことばを拒むなら、彼らが行けるところはエジプトしかないのです。
 しかも彼らはそれを自ら選び取ろうとしたわけです。
 
 私たちが受けとった福音・・それはあくまでも希望のことばなのです。

 私たちが主を信じて歩み始めたその歩みが、どんなに辛いものであろうと、これが私たちが約束の地に行く唯一の道なのです。
 それを拒むなら、私たちはもとの奴隷、すなわち永遠の滅びに向かう者に戻ってしまうことになるのです。

 この民に求められていたものは「信仰」でした。
 ・・いつまでわたしを信じようとしないのか・・。(11節)

 主の約束を信じて、どのような暗闇の中にあっても主に目を留めて進み続ける・・これが私たちに与えられている確実な歩みなのです。

 全力を尽くして信仰を選び取り、進んでいきましょう。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.19.Fri 09:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。
 主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。"
 民数記 14章10~11節

 ヨシュアとカレブは会衆の目を主に向けさせ、会衆が信仰に立って、主に従っていくように促します。
 ところが会衆は(しかも「全会衆は」とあります) 二人を石で打ち殺そうと言い出したのです。

 民はこれ以上自分たちを「信仰の道」に歩ませようとする者を、激しく拒絶したわけです。

 主を信じて行ってみようよ・・というそのことばを・・。

 ヨシュアとカレブのことばは、希望のことばでした。
 主がおられ、その主は私たちを乳と蜜の流れる約束の地に、確実に導かれるのだから、その道をしっかり歩んで行こうではないか・・という。

 この希望のことばを拒むなら、彼らが行けるところはエジプトしかないのです。
 しかも彼らはその希望のない道を自ら選び取ろうとしたわけです。
 
 私たちが受けとった福音・・それはあくまでも希望のことばなのです。

 私たちが主を信じて歩み始めたその歩みが、どんなに辛いものであろうと、これが私たちが約束の地に行く唯一の道なのです。
 それを拒むなら、私たちはもとの奴隷、すなわち永遠の滅びに向かう者に戻ってしまうことになるのです。

 この民に求められていたものは「信仰」でした。
 ・・いつまでわたしを信じようとしないのか・・。(11節)

 主の約束を信じて、どのような暗闇の中にあっても主に目を留めて進み続ける・・これが私たちに与えられている確実な歩みなのです。

 全力を尽くして信仰を選び取り、進んでいきましょう。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.18.Thu 10:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。
 すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、
 イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
 もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。
 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
 しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。"
 民数記 14章5~10節

 民が反乱とも言えるような勢いで反発してきたという、前回の話の続きです。

 モーセとアロンは会衆の集会全体の前でひれ伏した・・とあります。
 彼らは会衆の勢いに負けて、何を言うこともできず、ただ主の前にひれ伏しました。
 しかし、ヨシュアとカレブは違いました。
 彼らはまず会衆に語りかけ、会衆を説得しようとしたのです。

 私たちが神に従っていこうとする時、動かしがたい困難に直面したら、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
 もちろん主を見上げ、主に導きを求めることが大切なことであるわけですが、しかしその前にまず、しなければならないことを残してはいないか、考えるべきなのではないでしょうか。

 ヨシュアとカレブは民の勢いにもひるまず、彼らに正面から話しかけ、彼らを説得しようとしました。また彼らの信仰を励まそうとしました。
 しかしその結果、事態はさらに悪い方向に動きます。
 会衆は彼らを殺そうと言い始めたのです。

 でもそのときになって初めて、主が登場されたのです。

 私たちは祈る前に、まずやらなければならないことをやり残してはいないでしょうか。

 私たちが行動するところに、神は臨まれるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.17.Wed 10:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」"
 民数記 14章4節

 偵察隊の報告を聞いて絶望した民はモーセとアロンに対して、どうしてこんなところにわれわれを連れて来たのか・・と言って、不平の限りをふたりにぶつけます。
 そして最後に言ったのが今日の箇所です。

 さあ、われわれは〜エジプトに帰ろう・・。

 エジプトに帰ろうというそのことばは、過去に奴隷であった自分の状態の方が、今よりましだという意味に他なりません。

 このことを私たちに当てはめるならば、あの頃・・すなわち神を知らずに自由奔放に暮らしていた頃の方が、今の信仰生活がこんなに苦しいのなら、いっそのことすべてを捨てて、もういちど神なしで生きたほうがましだ・・ということになります。
 しかしそれは、今の自分がどこに向かっているのかということを、全く忘れてしまっている状態に他なりません。
 
 私たちには辛いことや苦しいことがあります。
 しかしその先には、不動の約束がある・・というのが、私たち信仰者が依って立つべきところなのです。

 神は、私たちに永遠のいのちと天の御国を与え、そこで神とともに王として納める者として私たちを定められたのです。

 私たちの本番はこの永遠の御国にあるのです。

 神はその御国の住民を集めるために御子を世に送り、その御子によってその民を選別して、そのメンバーにすることとしたのです。

 ところが、一旦その固い約束に入れられた者が、そんなもの要らないと言うなら、そこにはもう、神のあわれみを求める何物も、私たちには残されていないのです。

 私たちは、私たちに与えられているものが何なのかを、もっとはっきり認める必要があるのです。
 
 そうすれば自ずと、この世に於いてやることも言うことも変わってくるし、求めることも変わってくるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

 
2024.04.16.Tue 10:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
 イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。
 なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
 そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」"
 民数記 14章1~4節

 死んでいたら良かったのに・・。
 いつか聞いたようなことば・・。それは出エジプト記16章3節。
 出エジプトを果たして、シナイ山に向かう途中、民は食糧が尽きたことに耐えきれなくなり、不平を言った・・しかし主は、このときからマナを毎日民に与えられました。
 そして今日の箇所・・それは偵察隊の悲観的な観測に対して、民が泣き叫び、モーセとアロンに不平を言ったそのことばです。
 そして実はもう一回、このあとに「死んでいたら良かったのに」と民が言ったという箇所があります。
 カナンの地に入る機会を失った民は、もう一度ツィンの荒野に入ります。
 ここでも民は、水がないことに不平を言い、この同じことばを繰り返します。
 何度同じパターンを繰り返し、何度同じように神の怒りを買ったら気が済むのでしょうか。
 神はそれまでずっと、民の必要は満たされてきているのです。

 学ばない民・・。

 私たちも信仰生活において、何か障害、困難、苦難があった時、それを悪い方の判断に決定づけてしまうこと・・少なくとも心の中にはそういう傾向があるのではないでしょうか。

 イエス様の声が聞こえてきそうです。

 ああ愚かな者たち。(ルカ24:25)

 私たちは、共にいてくださる主、イエス・キリストを「本当に信じること」が求められているのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.04.15.Mon 09:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
199.jpg

今週の「たいむ」は・・

【主の赦しは変わらない】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=c78PsFpQb0I&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !
 
 
2024.04.13.Sat 10:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」
 しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」"
 民数記 13章30~31節

 さて、いよいよ約束の地に入ろうというところまで民は導かれてきました。
 この13章は、この約束の地に偵察隊を出せという主の命令を受け、40日かけて偵察した後、彼らが帰って来てその報告をする・・という箇所です。

 偵察隊は十二人の族長たちでした。
 彼らが入っていったのはヘブロンまでで、それはカナンの地の、結構奥まで行ったところです。

 彼らの報告はこうでした。
 確かにこの地は乳と蜜が流れる豊かな地。しかしそこに住む者は力が強く、そこにはあの大きく強いアナク人もいた。また町々には城壁があり非常に大きい。だから絶対無理・・と。(27-29節)

 それに対して族長たちのひとり、カレブは「必ず打ち勝つことが出来るから行こう」と民を励まします。

 しかし民は、カレブとヨシュア以外の十人の話の方を受けとり、泣き叫びます。(14章1節)

 実はこれと同じことが、私たちの歩みの中にもあるのではないでしょうか。
 絶対無理・・。

 "しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。" (ヘブル10:39)

 神に従わずに恐れ退くなら、それは滅びの道だというのです。
 結局彼らの世代は恐れ退き、40年の荒野の旅で死に絶えることになるのです。

 私たちが保つのは自分のいのちだけではありません。家族のいのちも・・なのです。

 目を覚まし、主を見上げ、「主は私の光、私の救い。誰を私は恐れよう」 (詩篇27:1) と言って、大胆に主に従って進んで行こうではありませんか。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.12.Fri 08:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。
 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」 主はこれを聞かれた。"
 民数記 12章1~2節

 モーセの兄であるアロンと、姉であるミリアムの心の奥には、指導者としての地位はモーセだけのものなのか・・という思いがあり、それを口に出して言ってしまった・・それがこの12章の出来事です。

 主はこれを聞かれた・・。

 そこで主はモーセとアロンとミリアムに、会見の天幕の前に出るように言われます。(4節)

 神はミリアムの分を越えたことばに対して、怒りを燃え上がらせて去って行かれました。
 そして残されたミリアムは、重い皮膚病(ツァラアト)にかかっていたというのです。
 それでミリアムは、宿営の外に七日間閉め出されることになるのです。(10-16節)

 私たちは分を越えるということについては、よほど気をつけた方がいいかもしれません。

 分を越えるときには大体、それなりの理由があります。
 例えば、相手よりも自分の方が正しいと直感した時など・・、私たちはほぼ確実に分を越えた思いに立ってしまうのではないでしょうか。

 神は、モーセの姉という立場のミリアムにさえ、このような厳しいさばきをされたのです。

 思い上がる、高ぶる、さばき見る・・、それらは瞬時に襲ってくる魔物です。
 私たちは、そのような者であることに違いはありませんが、口からそういう言葉を出す前には、「一旦考える」というクッションを置くことができるといいかもしれませんね。

 その時、御霊は私たちをさとしてくださるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.04.11.Thu 11:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とした。それは宿営の周り、どちらの側にも約一日の道のりの範囲で、地面から約二キュビトの高さになった。
 民は、その日は終日終夜、次の日も終日出て行ってうずらを集めた。集めたのが最も少なかった者でも、十ホメルほど集めた。彼らはそれらを自分たちのために、宿営の周囲に広げておいた。
 肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。"
 民数記 11章31~33節

 主はモーセに語られたとおり、民が一ヶ月ほども食べて食べ飽きるほどに、うずらの大群を海から運んで宿営の周りに落とされました。

 民がその肉を集めた量は、少ない者でも十ホメルだったとありますが、それは2,200リットル・・、それぞれの者が大きな山を築き上げるほどにうずらを集めたことになります。

 しかし、33節には「肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり」とあります。

 肉が周囲一日の道のりの範囲で、地面から一メートル近く(二キュビト)も積み上がったのなら、まずその異様な光景を見て、神を恐れ、神を礼拝するというのが、あるべき姿勢なのではないでしょうか。
 ところが民は、はこれを与えてくださった主を忘れて、目の前の肉に食らいついていたのです。
 
 それで神の怒りは民に向かって燃え上がりました。

 私たちは、こうして生かされている恵みの中にあって神を忘れる・・それが実は、神が一番悲しまれることなんですね。

 主の祈りの中に「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」というのがありますが、この「今日も」ということばの中に、こうして与えられている私たちの日常は、神の恵みに他ならないのだという思いが込められているのです。

 今、目の前にあるすべての恵みについて、改めて神の御名をほめたたえ、感謝の思いを神に献げようではありませんか。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.10.Wed 10:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」
 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
 モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」 "
 民数記 11章27~29節

 話は前後しますが、モーセが神と民との間で板挟みになって、主に叫び求めたとき、主は長老七十人を選んで私の前に立たせなさいと言われました。
 そして主は、モーセに与えられている霊の一部を彼らに与えました。

 その霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言した。しかし、重ねてそれをすることはなかった。(25節)・・前々回参照

 今日の箇所はその時のことで、七十人の長老たちの内のふたりがモーセのところに出てこないで、宿営の中に残っていたという話です。
 彼らはモーセに聞き従わず、宿営の中に残っていたにもかかわらず、あの長老たちと同じように預言をし始めたので、そのことが発覚してしまったというわけです。

 それでモーセの従者ヨシュアはモーセに、「彼らをやめさせ下さい」と言ったのですが、モーセは「彼らふたりだけではなく、主の民がみな預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」・・と言ったのです。

 自分とともに歩もうとしない者であっても、もしその人の上に聖霊が注がれるならば、それに越したことはない。私たちは同じ御霊によってひとつとなれるのだから・・。
 モーセのことばから、そんな思いが伝わってきます。

 聖霊は神の心そのものです。ですから、聖霊に満たされるならば、その人は神のしもべとなり、神はその人を用いられ、その人々はひとつとなるのです。
 私たちにまず求められること・・それは聖霊に満たされるということなんですね。

 それがあってこそ、私たちはキリストの体すなわち教会を構成する一つ一つの器官として、そこに喜んで立つ者とされるのです。

 さらなる聖霊の油注ぎを求めていきましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.09.Tue 10:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
 一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」"
 民数記 11章19~20節

 不平を言う民に対し、ならば飽きるほどの肉を与えようと主は言われました。
 しかしそれは、あわれみと言うよりも怒りの故だということがここではわかります。

 その決定打は、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだと、民が神に対して不平を言った・・まさにそのことでした。

 私たちは罪の奴隷というところから救い出され、神の民として歩む者とされた者です。
 その「罪の奴隷」を象徴しているのがエジプトです。
 そしてそこから救い出され、天の御国を仰ぎつつ、苦しみも伴う地上の生活を歩んでいる・・それが私たちクリスチャンです。

 そのことに対して、地上の苦しみがあるからと言って、なぜオレをこんなところに連れ出したのだと文句を言う・・まさにこのイスラエルの民の不平は、そういうことであるわけです。

 私たちはこの世の生活において、多くの苦しみがあります。そして時には絶望がやってくることさえあります。
 しかし私たちは死を迎えるとしても、希望と喜びをもって立つ特権が与えられたのです。

 それに対し、そんなもの、俺は最初から求めてもいないのに、なぜこんなところに俺を連れてきたのか・・と言うに等しいことを、この民は主に言ったというわけです。

 それで神は怒られたのです。

 私たちはどんな苦しみの中にあっても、神は永遠の安息の中に私たちを入れようとしておられることを、忘れてはならないんですね。

 神である主は、私たちが信仰を守り通すかどうかを見ておられるのです。

 私たちが、決死の覚悟で信仰を守り通すかどうかを・・。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.04.08.Mon 10:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
198.jpg

今週の「たいむ」は・・

【心を開く相手】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=aT7cuBtf2nQ&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

2024.04.06.Sat 09:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
 わたしは降りて行って、そこであなたと語り、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。"
 民数記 11章16~17節

 モーセは主に申し上げました。「私ひとりでこの民全体を負うことはできません。どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください」・・と。(14-15節)
 それに対する主のことばが、今日の箇所です。

 主はモーセに、わたしは同じ重荷を負って民の前に立つ人々を起こすから、民の長老の中からあなたが認める者七十人を集めよ、と言われたのです。
 そして会見の天幕に連れて来るなら、あなたの上にある霊の一部を取って彼らに置くと言われたのです。

 モーセが受けている霊とは、言うまでもなく神の霊であって、聖霊です。
 そしてその霊の一部を長老が受けることによって、長老たちはモーセと同じ立場に立って物を見、判断し、神のしもべとしてモーセとともに働く者とされるというわけです。

 25節には、その霊が彼らの上にとどまると彼らは預言した。しかし重ねてそれをすることはなかった・・とあります。

 彼らはモーセに与えられているその使命を、聖霊によって見たのです。
 そして、そのあとは彼らがそれぞれ主に従うというより「モーセに従う者」となるために、重ねて聖霊を受けて預言するというようなことはなかったというわけです。

 しかし私たち信じるすべての者には、聖霊が今も、またこれからも、共にいてくださるのです。
 それは誰かに従うためではなく、それぞれの者が主に従う者とされるためなんですね。

 私たちは神と直接つながるように召されている者なのです。
 そしてその結果、私たちには聖霊による一致があるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.05.Fri 10:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」"
 民数記 11章23節

 民は激しく主に対して不満をぶつけます。(1-6節)
 そしてモーセは、この泣き叫ぶ民と主との板挟みになってしまいます。

 モーセは主に「もう自分の手には負えません。わたしひとりでこの民を負うことはできません。わたしには重すぎます、と言い、どうか私を殺してくださいとまで言います。(11-15)

 結局モーセは、自分でこの問題を負おうとしていたことが、モーセ自身のことばからわかります。

 それに対し主は、この民に毎日毎日食べて飽きて吐き出すほどのウズラを送るとモーセに言われるのですが、モーセはそれが信じられず、そのことについても主に不審のことばを述べます。(18-22節)

 それに対して主が言われたのが、今日の箇所です。

 (あなたは)この主の手が短いと言うのか・・。

 結局モーセも民の側に立って、絶望していることを主に述べ立てたのです。
 しかしモーセがするべきことは、主に窮状を訴えるのではなく、主よ今あなたの御手のわざを見せてください、と祈るべきだったのではないでしょうか。

 この主の手が短いというのか・・、このことばは、主が私たちにいつも語られていることばのような気がします。

 私たちはいつも、次のように主に告白しようではありませんか。
 あなたはあの二百万の民をエジプトから救い出された神、そして岩から水を流れ出させた神、そして主に信頼する者に、必ず良くしてくださる神です・・と、心に言い聞かせましょう。

 主は、「わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と言われるお方なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.04.Thu 10:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
 すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。
 その場所の名はタブエラと呼ばれた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。"
 民数記 11章1~3節

 民がいよいよ主の山をあとにし、旅に出たは良かったのですが、彼らは三日間歩きづめで、しかもまだ落ち着く場所が見つからないという状況でした。
 旅のはじめにいきなりこの状況です。民にとってはほとんど拷問に近かったのではないでしょうか。

 繰り返し激しく、何度も何度も、しかも強い口調で民は主に不平を言ったというのです。
 私たちも同じような目に遭えば、そのくらいのことはしてしまうかも知れません。

 しかしよく考えると、私たちにはもう一つ、別の手段があるんですね。
 それは、「主に叫び求める」ことです。
 ところが彼らはそれをしなかったのです。
 それをしないで、ただ主に不平の限りをぶつけていたのです。
 それは主に対する断罪(すべてを主のせいにする)とも言うべき行為でした。

 主が私たちに求めておられること・・、それは私たちがただただ主に依り頼むということなのではないでしょうか。
 それをしないであなた方はわたしを呪うのか・・

 主は怒りを燃やして、主の火が彼らに向かって燃え上がりました。

 この民は、あの偉大な主の奇跡を見ながら、エジプトから出てきたのです。
 それなのに、どうして主がすべてをその御手に治めるお方だということを学ぶことができないのでしょうか。

 しかし私たちとて、そんな彼らを責めることはできないのかも知れません。

 私たちはどのようなときにも、ただ主のあわれみを求めて、とにかく主を呼び求める者とさせていただきたいですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.04.03.Wed 08:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。
 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」
 またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」"
 民数記 10章34~36節

 いよいよ出発です。

 二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上り、イスラエルの子らはシナイの荒野をラッパの音に従って旅立ちました。(1-10節)

 イスラエルの民は主の山を旅立ち、三日の道のりを進みます。
 三日の道のりを進む・・?
 皆さんだったらどうしますか・・。

 不平言いまくり・・になるのではないでしょうか。
 実に民はその通りになったことが次の章では記されています。

 クリスチャンの信仰生活というのは、安泰を約束されたものではないんですね。
 実際に嵐に巻き込まれ、行く先がわからなくなり、暗黒の中に放り出されたような感覚に陥ること・・そういうことがあるのです。

 しかしモーセが祈ったのは、私たちを敵から守ってくださいということで、先の見えない状況に対し、不平を言うことはありませんでした。
 モーセは、主が先を行かれ、主が敵から守ってくださるという信仰のみで進んでいったのです。

 そして次の場所に立った時、主よお帰りください・・と、モーセは祈りました。

 主が与えられた場所に立った時には、主が共にいてくださることを願い、主さえもわからなくなってしまうような暗黒の中を行く時には、たとえ何も見えなくなっても、ただ先頭を行かれる主を信頼して歩め・・と、この御言葉は言っているのではないでしょうか。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.04.02.Tue 11:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。
 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
 いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。"
 民数記 9章15~17節

 民数記は二章から八章まで、レビ記とも重複するさまざまな規定について記されています。
 そして今日の箇所から、いよいよ旅立ちの記述に入っていきます。

 このあとの22節には、「 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」とあります。

 この旅の行程は、民が望むこととは全く関係なしに、ただ天幕の上にある雲の動きによって、決められたというわけです。

 天幕の上の雲・・それは今の私たちにとっては御霊です。
 御霊が私たちを促す時に、私たちは行動し、とどまるように促されるなら、その場にとどまる・・。

 たとえそれが一日のことであろうと、一年単位のことであろうと、その促しに従う・・。

 私たちは急いで成し遂げたいことがあるかも知れません。
 しかし主はそのことのために一年を費やせと言われるかもしれないのです。

 主の導きに私たちはいつも目を留め、それに従う時、私たちは主の守りの御手の中を行くことをいつも感じながら、この信仰の歩みを進めていくことができるんですね。

 御霊の導き・・それは「絶えず祈ること」すなわち、私たちの目を絶えず主に目を留めていることによって知ることができるのです。
 
 いつも目を覚まして、主を見上げて歩むことを願い求めていきましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.04.01.Mon 14:06 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。"
 民数記 2章34節

 主はイスラエルの民が宿営するその場所を示されました。
 それは天幕の周りにそれぞれの部族が距離を置いて宿営するというものでした。
 その筆頭は天幕の前方すなわち東側で、そこにはユダ族が宿営する・・と。
 そして旅立って進む時もユダが先頭に立つのだ・・と。(9節)
 そのようにして主は、十二部族すべての場所を指定されました。
 そして天幕において祭司を務めるレビ族は、言うまでもなく中央に宿営し、旅立ったときも彼らはその中央にいて他の部族に守られるような形で進む・・というわけです。

 彼らは主が言われたとおりに行った・・これが今日の箇所です。

 主はユダの部族を先頭に進む部族として定められました。
 このユダ部族から、ダビデが起こり、その子孫はキリストにまでつながるのです。
 そして現代にも残っているイスラエル民族の総称が、このユダ部族に由来する「ユダヤ人」であるわけです。

 このユダ部族については、このときから四百年前にすでに、ヤコブすなわちイスラエルは天に召される直前にこのように預言しています。
" 王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。" (創世記49:10)

 世の終わりに近付きつつある今、メシアニックジューという存在、すなわちユダヤ人たちがイエスをキリストと認め、クリスチャンとなっていく人たちの人口が急激に増えているというのです。
 そしてこのユダヤ人というのは、起源70年に世界中に散らされた時点で、すでに十二部族が入り交じった「イスラエル民族」だったんですね。

 そしてこのイスラエル人すなわち十二部族が神のもとに帰る・・それが世の終わりに起きることなのだと聖書は言っているのです。

 そしてそこにキリストは再臨される・・これが聖書の筋書きなのです。

 私たちは身を引き締めて、この終わりのときに備える者となりたいですね。

 神のご計画は必ず「成る」のです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.04.01.Mon 14:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
197.jpg

今週の「たいむ」は・・

【心を開いて】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=asP5YPAaBzo&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

 
2024.03.30.Sat 09:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。
「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。"
 民数記 1章1~2節

 民数記に入ります。
 私たちの頭の中では、すでに旅が始まっているように思ってしまうかも知れませんが、旅はこれから始まるのです。

 エジプトを出てから丸二年と少し経った第二の月・・。
 そこで神がモーセに告げられたこと・・、それはイスラエルの頭数、すなわち二十歳以上の戦に出ることができる男子をその軍団ごとに登録せよということでした。
 そして一族のかしらが部族ごとに一人ずついて、モーセとアロンを助ける者とならなければならないと主は言われ、そのひとりひとりを名を呼んで指名されるのです。(4-16節)
 そして彼らが分団のかしらとなります。

 登録された者(戦える男子)の総数は六十万三千五百五十人。(46節)
 ただ、レビ族だけは登録はされませんでした。彼らは幕屋における務めのためにもっぱら働く者だからだったからです。

 いよいよ新しい旅に出るに当たって、必要だったのは、その民を統率する体制と、戦いへの備えだったというわけです。

 私たちも信仰生活の出発に当たり、そのための備え・・それがないと、無計画な行進になってしまうんですね。

 その備え・・それは戦いのために神が与えられた武具(エペソ6章参照)の確認と、これから旅立つ者として、きちっと態勢を整えることなのではないでしょうか。

 それは、神との歩みに於いて、第一番目に必要なことをまず整理して、それを生活の中に取り入れて、信仰生活の歩みの態勢へと、生活スタイルを変えるということです。

 今一度立ち止まって、これらの準備をするために祈りませんか。

 これから地上での(霊の)戦いの旅が始まるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
 
  
2024.03.29.Fri 11:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。"
 レビ記 27章30節

 レビ記最後の章の、ほぼ最後のところです。
 この章の前半は、主に特別な誓願を立てるとき、老若男女がそのときにささげる、評価額がそれぞれ記されています。
 さらに、人が落ちぶれてそれを払えないのなら、祭司がその人の能力に応じて評価額を決める・・など。
 そしてそれは家畜、家、畑で代用しても良い・・など。
 
 要するにささげ物は自分の財産の中からするものであり、それはその人に応じたものを主は受け入れてくださるのだということが書かれており、その最後に書かれているのが今日の箇所です。

 私たちが自分が得たものとして、その恵みを享受している財産・・それらの十分の一は主のものだというのです。
 しかもそれは「主の聖なるものである」と、ここには記されています。
 十分の一が主の聖なるものであるなら、それは私たちが手をつけることはできないものです。
 ここに十分の一のささげ物の基本的な考え方が示されています。

 それは、私たちが今の受けている恵みのすべては本当に主が与えてくださったものであるという信仰の表明に他なりません。

「十分の一献金」をする人がいます。
 それは、これは本当にあなたのものですという信仰を主に表明する「礼拝」なんですね。

 私たちは霊とまことをもって礼拝するべく召された者・・、ならば献金においてもそれを「礼拝」とするなら、それなりの結果がそこに現れると、聖書に記されているのです。

 " 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。" (マラキ書3:10)

 主が生ける主であることを、ここでも見ることができるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

  
2024.03.27.Wed 11:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。
 わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。"
 レビ記 26章11~12節

 この章は、偶像を拝まず、安息日を守り、主の掟に従って歩み、主の命令を守り、それを行うなら・・、というところから始まっています。
 そしてもしそれを行うなら、このような祝福が、必ずあなたの上にあるのだ・・と。
 それは、雨、産物、収穫、食料、敵対勢力からの守り、さらに敵を敗走させるほどの力、そして子の祝福など。(4〜9節)

 しかしもし、主に聞き従わず、主の命令を行わないなら、次のようなのろいがあなた方を襲う・・と。
 恐怖、肺病と熱病、敵の襲来、そして敗走。地は不毛となり、収穫もなくなる。野の獣は子を襲い、家畜も襲う。そしてあなた方は飢餓によって自分の子を食べるようになる・・と。

 完全に真逆な祝福とのろいの道が、目の前に置かれているというのです。

 そしてもし、この祝福の中に立ち続けるならといって語られた主のことばが今日の箇所です。

 この主の約束は、今の私たちの上にもある約束なんですね。
 私たちも主を愛し、主と共に歩むことに心を砕いて、主が喜ばれるその道を行くなら・・、

 主が内に住んでくださるというのです。そして主は、私たちの神としてそこに厳然といてくださるようになり、私たちは主のものとなって、喜びの中を歩むようになるというのです。

 先ずはこの神である主を第一として、そしてこの主のことばに聞き従って、生活の一コマ一コマを、そう、生活の一コマ一コマを・・歩んでいきたいですね。

 実際に主がなさることを目の当たりにしながら日々を過ごす者となる・・、このことを主は約束してくださっているのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.26.Tue 09:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" たとえ、これらの方法によって買い戻されなかった場合でも、ヨベルの年には、その子らと一緒に出て行くことができる。
 イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。"
 レビ記 25章54~55節

 レビ記25章には、安息の年とヨベルの年に関する規定が書かれています。

 安息の年とは、耕地に関する規定で、七年目にはその土地を耕作に使用せず、休ませなければならないというもの。
 そしてヨベルの年は、その安息の年を七回繰り返した次の年、すなわち50年目の年には、奴隷状態だった者や、負債を負ったすべての者が、もとの地位に戻ることができる。
 そのために必要に応じた「買い戻し」が必要ではあるが、たとえ、「これらの方法によって買い戻されなかった場合でも」・・というのが今日の箇所です。

 要するに、50年ごとになんとかして、もとの「主から与えられた」状態に戻らなければならないというのが、このヨベルの年であるわけですが、たとえそれができなかったとしても、すべての者はその負債から解放されるというのです。

 イスラエルの子らは、このわたしのしもべだからである・・。

 すなわち、主によってエジプトからあがない出されたこの民は、主のものであって、だれの所有とされるものでもないというわけです。

 神のものとされた者は、この地上にあってどんな状態になったのだとしても、あくまでも神のものなんですね。

 このヨベルの年の規定は、今この世にあって、どんなに辛いことがあったのだとしても、そのすべては天の御国では完全に帳消しになるということを思い起こさせてくれます。

 ヨベルの年の基本理念は「強制的な原状回復」です。

 私たちは「帰るべき家」に帰る者とされた者です。
 その時に私たちはすでに神の家の子となってしまうのであり、それまでのこの世にある負債は全く関係がなくなるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.25.Mon 14:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。"
 レビ記 24章20節

 前回は「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」という箇所でした。
 そしてそのあとに出てくるのが今日の箇所で、あの有名な「目には目を、歯には歯を」ということばは、聖書の中のことばなんですね。

 しかし今日のこの有名な箇所は、「やられたらやり返してもいい」というのとはちょっとニュアンスが違います。
 この償いの方法は神が定められたものなので、もしそのようなことがあるならば神の権威によって「公式に」裁かれなければならないのであり、その基準が「目には目を」ということだというわけです。

 私たちは、神に背を向け、自分勝手な道を歩む、生まれながらの罪人でした。
 ならば「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」というみことばに照らし合わせるならば、私たちはいのちの源である神を無視し、歩んでいこうとしていたその歩みは死罪に当たることになります。

 福音が指摘する罪びととは、このことなんですね。
 私たちはもともと死罪のもとにある・・すなわち、最後の審判に於いては火の池に放り込まれるしかない者なのだ・・というのです。
 そしてその基本があるにもかかわらず、あわれみによって神は私たちに赦しの道を供えてくださったというのが福音すなわち「Good News」なのです。

 それは、私たちの罪を御子に負わせるというやり方でした。
 そして実際に神はそれを実行されたのです。
 あとは私たちはそれを信じて、受けとるだけで、この無罪放免は実際に私たちのものとして与えられるのです。

 神は、この「信じる」ということを一つの切符とされました。
 赦しのみわざは完了した・・、しかしその切符を受けとらない者はそれに与(あずか)ることはできない・・。

 そしてこの切符を受けとった人々を、神は終わりのときに御子にあってよみがえらせる・・、これが福音なのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.25.Mon 14:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
196.jpg

今週の「たいむ」は・・

【目的地がある】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=9bXOuzRC85A&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

 
2024.03.23.Sat 11:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。"
 レビ記 24章20節

 前回は「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」という箇所でした。
 そしてそのあとに出てくるのが今日の箇所で、あの有名な「目には目を、歯には歯を」ということばは、聖書の中のことばなんですね。

 しかし今日のこの有名な箇所は、「やられたらやり返してもいい」というのとはちょっとニュアンスが違います。
 この償いの方法は神が定められたものなので、もしそのようなことがあるならば神の権威によって「公式に」裁かれなければならないのであり、その基準が「目には目を」ということだというわけです。

 私たちは、神に背を向け、自分勝手な道を歩む、生まれながらの罪人でした。
 ならば「主の名を汚す者は必ず殺されなければならない」というみことばに照らし合わせるならば、私たちはいのちの源である神を無視し、歩んでいこうとしていたその歩みは死罪に当たることになります。

 福音が指摘する罪びととは、このことなんですね。
 私たちはもともと死罪のもとにある・・すなわち、最後の審判に於いては火の池に放り込まれるしかない者なのだ・・というのです。
 そしてその基本があるにもかかわらず、あわれみによって神は私たちに赦しの道を供えてくださったというのが福音すなわち「Good News」なのです。

 それは、私たちの罪を御子に負わせるというやり方でした。
 そして実際に神はそれを実行されたのです。
 あとは私たちはそれを信じて、受けとるだけで、この無罪放免は実際に私たちのものとして与えられるのです。

 神は、この「信じる」ということを一つの切符とされました。
 赦しのみわざは完了した・・、しかしその切符を受けとらない者はそれに与(あずか)ることはできない・・。

 そしてこの切符を受けとった人々を、神は終わりのときに御子にあってよみがえらせる・・、これが福音なのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.22.Fri 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。"
 レビ記 24章15節

 前回の第七の月の「全き休みの日」に続いて、その月の15日から一週間にわたる「仮庵の祭り」について記されています。
 要するに年間の守るべき三つの祭りが、年頭の過越の祭り、そして半年後の仮庵(かりいお)の祭り、そしてもう一つが収穫を感謝する祭りということになります。
 そして24章前半には、祭司が聖所に於いて整えておかなければならないこと、すなわち燭台のともしび、備えのパンと香のことなどが記されています。

 そしてそのあとに話が突然、エジプト人を父とする者、すなわち混血であるその男とイスラエル人が宿営の中で争ったという出来事に移ります。

 混血であるその男に対してどのように接するべきであったかは、ここには記されていませんが、この男は争った際に「御名を汚し、ののしった」とあります。(10-11節)

 人々はこの男を捕らえ、主が何と言われるのかを彼らは待ちます。
 そして主がモーセに語られたことは、「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。」(14節) でした。それに続くことばが今日の箇所です。

 自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う・・。

 彼は、混血だからということではなくて、主をののしったことによって死刑になったのです。(16節参照)

 それと同様に私たちも、主をののしるなら、主と共にいる場所はなくなるんですね。
 そしてそれは死を意味するというのです。

 主と共にいられなくなるなら、それはいのちを損なうことに等しいのです。

 主を恐れる・・その根拠は、この主が私たちのいのちだからなのです。

 私たちは主を恐れなければならないのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.21.Thu 11:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥(なだ)めの日であり、あなたがたの神、主の前であなたがたのために宥めがなされるからである。
 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。"
 レビ記 23章28~29節

 23章では、主の例祭、すなわち定期的に召集する祭りについて、いくつか書かれています。

 第一の月の14日の過越(すぎこし)の祭りと、それに続く種なしパンの祭り。(5-8節)
 約束の地に入って穀物を収穫した際の「新しい穀物のささげ物を主に献げる」という、収穫を主に感謝する祭り・・(9-22節)
 そして第七の月の一日は「全き休みの日」という聖なる会合の日で、その月の十日は「宥めの日」となる・・。それが今日の箇所です。

 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる・・。

 もし何の罪も犯してはいないのなら、主を宥める必要はありません。
 でももし、そういうことを言うのだとしたらそれは、「自らを戒めない者」だと、ここでは言っているわけです。
 しかもその者は死刑だと・・。

 私たちは、クリスチャンになったとしても、さまざまな罪を無自覚に犯してしまうようなものです。
 ですから、日々主の十字架を見上げて、その罪をゆるしていただくというのが、私たちが赦しの中を歩んでいくためには欠かすことのできない歩みです。

 しかしながら、それらの罪について無頓着で、罪々と言って気にしすぎだというような感覚の中に自分を置く・・すなわち「自らを戒めない者」になってしまうのだとすると、赦しなどということはもう必要のないものになってしまうわけです。

 しかしそれは、聖めの道に向かう道にはつながらないんですね。
 私たちは罪とはっきり向き合い、そしてそれを主が十字架で負って下さったというところにいつも立つのでなければ、私たちの道は聖めには向かわないのです。

 私たちは「聖めの道」を歩むために、主に召されているです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.20.Wed 12:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。
 わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。"
 レビ記 22章31~32節

 21章では祭司たちへの掟が記されています。
 そして続く22章もアロンとその子ら、祭司に対してのことばで、「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え」というところから始まります。(2節)
 
 彼らが主を聖なる方だとしてそれを現すためには、これらのささげ物とそれに関わる細かな規定を忠実に守ること・・それこそが「主が聖であることを示す」ことに他ならない・・これがレビ記の一貫した流れです。

 この原則は、今の私たちクリスチャンにも言えることなのではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分は律法を廃棄するためではなく、成就するために来たのだと言っておられます。
 それは、律法の根底にあるものが次の二つに集約されるからでした。

 第一に、神である主を、心と思いと力を尽くして愛すること。
 そして第二に、自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛すること。

 ですから私たちも、この二つの律法に忠実に従うことによって、私たちはこの世に於いて、神の栄光を現す存在となるのです。

 しかし私たちは、すべて罪の性質を持って生きているものですから、特に第二の戒律に関しては、相当な困難を感じる時があるのが現実です。

 それをクリアするただひとつのこと・・それは、自分自身が罪人であり、自分ではなく神が自分の罪のために十字架にかかられたということを忘れないということ・・なのではないでしょうか。

 それを思い起こす時、私たちの目の前に現れるすべての人は「愛するための存在」であることに気が付かされるのです。

 イエス様は私たちを、死に至るまで愛してくださったのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.19.Tue 13:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選(え)り分けたのである。』"
 レビ記 20章26節

 レビ記にはずっと、戒律の実際の中身が記されています。
 この20章も同様で、さまざまな戒律について語られています。

 異教に従って小児をいけにえにすることの禁止・・それは死に値する。
 霊媒、すなわち死者の霊を呼び出したりすることの禁止・・それは死に値する。
 以下のさまざまな罪も死に値する。
 すなわち、父母を罵る、不倫、近親相姦、獣姦、月のさわりのある女と寝ること・・。

 主はこれらの事柄について次のように語られています。
 ・・私があなた方の前から追い出そうとしている異邦の民の掟に従って歩んではならない。彼らがこれらすべてのことを行ったので、私は彼らを甚だしく嫌った・・と。(23節)

 実に、イスラエルの民がカナンに入って追い出そうとしている民はどの民も、この悪しき習慣の中に埋没していた民だったということがわかります。

 それで神はイスラエルの民に、彼らを完全に滅ぼし尽くせと言われたんですね。
 でも結局イスラエルの民はその通りにはしなかった・・。

 今日の箇所は、主は聖であると同時に、あなた方も聖でなければならない・・。
 主はあなた方を諸民族の中から全く別な存在、すなわち聖なる民としての存在として選り分け、ご自分の民とされようとしておられるのだ、と言っているのです。

 私たちクリスチャンは、この世からあがない出された者なんですね。
 すでにこの世の者ではないのです。

 そしてこの人生の目的地も、この世の人々とは違う、しかも永遠というスパンで、それを希望を持ってはっきりと見据えて歩む者とされているのです。

 そのことを忘れて、この世に埋没してしまうことのないようにしたいものですね。

 ・・塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。(ルカ14:35)


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.18.Mon 21:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
195.jpg

そして、今週の「たいむ」は・・

【キリストがすべて】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=wFrHgtmlATc&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

2024.03.16.Sat 09:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
194.jpg

先週、一回分が抜けておりました。
申し訳ありません。

先週の「たいむ」は・・

【罪からの解放】・・です。

https://www.youtube.com/watch?v=na5miVl2M0w&t=33s

God Bless You !
2024.03.16.Sat 09:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたは、さばきにおいて不正をしてはならない。物差しにおいても、秤(はかり)においても、分量においても。
 正しい天秤、正しい重り石、正しい升、正しい容器を使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から導き出した、あなたがたの神、主である。"
 レビ記 19章35~36節

 前回は落ち穂拾いの話でした。そしてこの19章ではそのあとも、日常生活における規範が次から次へと出てきます。

 ざっと見ていくと、盗み、欺き、うその禁止。虐待の禁止、。身体的にハンディを負っている人への配慮。さばきは分け隔てなく。人への中傷の禁止。憎むのではなく戒めよ。(11-18節)
 異なった種類の家畜の交配の禁止。畑に二種類の種を蒔くことの禁止。二種類の糸で布を織ることの禁止。女奴隷への正しい扱い方。(19-22節)
 かの地(カナン)に入って植えた果樹について。(23−25節)
 血を食べること、まじない、占いの禁止。もみあげを剃ること、ひげの両隅を切ることの禁止。入れ墨の禁止。娘に淫らな行いをさせることの禁止。霊媒や口寄せに頼ることの禁止。老人を敬うことの奨励。寄留者を大切に扱うことの奨励など・・。(26-34節)

 そしてそれに続いて出てくるのが今日の箇所です。
 
 正しい天秤、正しいおもり石、正しい升・・それらは重さや量を量る道具です。そしてそれを、相手によって変えることがあってはならないというのです。
 甘く見てしまいたくなる人もいれば、一方、自分に対しては何もできない弱者には厳しかったりすることって、身に覚えはないでしょうか。
 しかし、そんなことをせずに、正しいひとつの秤をもって人をさばきなさいというのです。

 神は私たちのために、ひとつの秤を用意されました。
 それが他でもない、イエス・キリストなんですね。
 そしてそれ以外の秤・・すなわち、行いとか身分とか、また罪の経歴などという秤を、神は決して持ち込まれないのです。

 神にとって、私たちへの秤の目安・・それは、イエス・キリストを救い主として信じるか信じないか・・それだけなんですね。
 そして神はこの秤をもって、人々を分け隔てなく御国へと導かれるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.15.Fri 11:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。
 また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。"
 レビ記 19章9~10節

 畑の穀物を収穫する際、きっちり隅から隅まできれいに収穫物を集めるつもりが、落ちてしまうものもあるわけですが、本来ならそれも拾ってきれいに拾い集めるというのが私たちの感覚です。
 ところがここでは、収穫しきれずに落ちてしまった穂は拾ってはならないということ、またさらに「畑の隅々まで刈り尽くしてはならない」とさえ言っています。
 適当に畑の実を残しておきなさいというのです。
 それも自分の畑の実です。
 それは、貧しい人と寄留者のためにそうするのだと主は言われた。・・これが今日の箇所です。

 ミレーの「落ち穂拾い」という絵をご存知でしょうか。
 ミレーは1800年代の画家ですが、彼は極貧の中にあって自殺をも考えるような境遇にある人でした。
 この時代にもこの習慣は受け継がれていたのですね。

 この聖書の箇所は、このあとの申命記24章18-22節にもっと詳しく記されています。
 
 神である主は、聖書の始めから終わりまで、貧しい人々、虐げられている人々、忘れられた人々に対して、あわれみの心をもってずっと語り続けおられます。

 聖書は、イエス・キリストの御名による以外には救いはなく、それを逃した者はすべて滅びだと言っていますが、同時に、世の中で貧しく、人々から忘れ去られ、日の目も見ないで死んでいく多くの人たちに対して、主はあわれみの心をもっておられるということがわかります。

 主はあの全身ができ物で覆われ、地上では何ひとつ良いものがなかったラザロを、御使いたちによって天のアブラハムの懐(ふところ)に引き上げられているのです。(ルカ16:19-31)
 
 主は実に、あわれみの神なのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.03.14.Thu 11:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセにこう告げられた。
 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。"
 レビ記 19章1~2節

 今日のこの箇所に続いて言われていることは、母と父を恐れること、安息日を守ること、偶像に心を移したり造ってはならないこと・・などです。
 そしてそれに続いて、こんなことが記されています。
 
 あなた方が交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。(5節)

 交わりのいけにえとは、神との交わりを確かなものとするためのいけにえです。
 それにしても「自分が受け入れられるように」とは、どういうことを言っているのでしょうか。

 このあとには次のように記されています。
 それ(交わりのいけにえ)を献げた日とその翌日に、それを食べなければならない。三日目に食べるなら、その人は不浄なものとなり、自分の民から断ち切られる・・すなわち殺されるというのです。
 そしてそれは「主の聖なるものを冒した」からだと書かれています。(6-8節)

 結局自分が受け入れられるようにとは、主が定めたことときっちりひとつになる、ということであることがわかります。
 それで主が聖であるように、私たちも聖なる者となるというわけです。

 聖なる者でなければならないということばには、このように明確な意味があるんですね。

 主との関係・・それは主のみことばにどのように応えていくかで、いくらでも変わってくるということをここでは教えられます。

 主から語られたことで、なんとなく無視していたり、スルーしていたりすることはありませんか。
 私たちは、みことばに応えることを通して「受け入れられる者」となるのだと、ここでは言われているのです。

 この主との関係は、そのようにしてますます深く強いものに変えられていくのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.13.Wed 11:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 以上のことは、あなたがたにとって永遠の掟となる。これは年に一度イスラエルの子らのために行われる、彼らのすべての罪を除く宥めである。」モーセは主が命じられたとおりに行った。"
 レビ記 16章34節

 レビ記・・12章から15章までは、出産、割礼、ツァラアト(らいびょう)、さらには性病(と思われる)、などのきよめについての規定が出てきて、そのあと16章でアロンが幕屋に入る時の注意事項などが出てきます。

 そこで注目すべきところが、今日の箇所、16章後半・・、年に一度、アロンによって民のために行われる、すべての罪を除く宥(なだ)めのところです。

 アロンは民のために雄やぎ二匹を取り、そのうちの一匹を民の罪のきよめのささげ物とします。
 そして残りの一匹は「荒野のアザゼルのもとに追いやる」という、ここでは意味不明なアザゼルということばが出てきます。(21節)

 このアザゼルというのは荒野の悪霊の住処(すみか)というような意味を持ち、民の罪を雄やぎに負わせて、そこに追いやってしまうということのようです。
 ただし、正確なところはわかっていません。

 そしてこの儀式を年に一度イスラエルの子らのために行う・・。(33節)

 結局これは、民の内に重大な罪があるなしにかかわらず、これを年に一度行って、民と神との関係の健全化を保つことが必要であるということを示しているわけです。
 
 言うまでもなく私たちクリスチャンは、この民のように毎年そのためにささげ物をして神との関係を保つ必要はすでにない者とされいてます。
 それは、完全なささげ物となってくださったイエス・キリストが、十字架に於いてそれを成し遂げてくださり、そこからよみがえられた主イエス・キリストが今も共にいてくださる・・そのような者とされているからです。

 私たちはただ、私たちの罪のためにあがないのみわざを完成されられたこのイエス・キリストを見上げることだけが必要なことなのです。

 こうした私たちクリスチャンは、神である主との関係が損なわれることは最早(もはや)永遠にないのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.12.Tue 14:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」"
レビ記 11章45節

 レビ記の11章に入ると、「食べても良い生き物」の事細かな規定が記されています。
 その中で汚れたものとして出てくるものの代表は豚、イカやタコなど、私たち日本人が日常的に食べているものなども多く含まれています。
 それらは汚れているから、それを食べるならあなたも汚れる・・と。
 また汚れた動物。そしてそれらの死骸に触れる者は夕方まで汚れる・・など、かなり細かい規定がびっしりと書かれています。

 そしてこれらのことを主がお決めになった理由について、主が語っておられるのが最後の44-47節です。

 結局主が言われたことの主旨は、あなた方は聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである・・ということでした。
 
 このことを私たちの生活に照らし合わせて考えるなら、私たちは汚れていて、聖なる神との関係は持ち得ない者となってしまいます。

 しかし私たちクリスチャンは、イエス様の流された血によって、すべての罪は赦され、神の聖なる民とされた者です。
 そんな私たちが、このレビ記の今日の箇所から何か学ぶべきことはあるのでしょうか。

 それは・・、神である主は、とにかく私たちが、主が聖なる方であるように、私たちがそのような者に変えられていくことについて、どれだけ熱心に求めているか、そこを主は見たいと思っておられる・・ということなのではないでしょうか。

 主は聖なるお方、、そして私たちはその主に属する者とされたということを、日常生活の中で決して忘れない者とさせていただきたいものです。

 いつでもどんなときにも、聖なる主を求めていきましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.11.Mon 07:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" モーセはアロンに言った。「主がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」
 アロンは黙っていた。"
 レビ記 10章3節

 主の前に「異なる火」を主の前に献げたことで、アロンの四人の息子の上の二人は、主から出た火によって焼き尽くされてしまいました。(1-2節)
 それでモーセはアロンの二人の叔父を呼び寄せ、死んだ彼らを宿営の外に運び出すように命じます。
 このとき彼ら(二人の叔父)は「長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した」とあります。(4-5節)

 アロンの二人の息子は火によって焼き尽くされた・・、しかし死んだ二人が着ていたその長服は、それをつかんで遺体を運び出すことができるほどに、焼かれてはいなかったようです。
 その光景をリアルに思い浮かべるとき、それは実に恐ろしい光景です。

 今日の箇所は、そのときにモーセがアロンに告げた主のことばです。

 わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示す・・。

 近くある者たちとは祭司たちのことです。
 そこに神は、ご自分が聖であることをこの出来事によって示されたというのです。
 なんと恐ろしいことでしょうか。
 神に一番近くにいる者たちによって聖なることを示した・・それは他でもない、祭司である彼らが火で焼かれたことを言っているのです。

 アロンは黙っていた・・。

 アロンの心情は、自分の衣を裂いて泣き叫びたい思いであったことに違いないと思います。
 しかしモーセは、アロンと残された二人の子たちに「髪の毛を引き裂いてはならない。衣を引き裂いてはならない。」と言います。(6節)

 ここで私たちは何を教えられるのでしょうか。

 それはもう、「神を恐れよ」ということ以上に、何があるでしょうか。

 "主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。" (詩篇34:9)


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.08.Fri 09:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
 すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。"
 レビ記 10章1~2節

 さて民は、出エジプトによって導き出された生ける神を礼拝する民として出発するわけですが、そこにさっそく残念な出来事が起こります。

 アロンはモーセの兄で、祭司の長として任命された人物です。
 そして祭司というのは完全に世襲制で、アロンの子たちがそれを受け継ぎ、イエス・キリストの時代まで、それは綿々(めんめん)と引き継がれていくのです。
 ところがアロンの四人の息子の内、長男と次男がとんでもないことをしでかしてしまいます。
 彼らは「主が命じたものではない異なる火を主の前に献げた」というのです。

 すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ・・。

 私たちは神によって造られ、神と共に歩む者とされました。
 神は全能なる神であり、恐れるべきお方であり、崇(あが)められるべきお方です。

 私たちと神とは同列に存在するものではないのです。
 あくまでも神は神なのです。
 しかし私たちはその神を自分のイメージで捉え、神との関係を保つために、神に言われてもいないことを自分勝手に解釈したり、行ったりしてしまうこと・・、そういうことを少なからず経験しているのではないでしょうか。
 それは結局、神の上に立とうとしてしまうという私たちの心の奥にあるその高慢の性質に他なりません。

 私たちにとって神が言われること、神からきたもの・・それはほかでもない聖書のみことばです。
 しかし私たちは、聖書のみことばひとつを取っても、そこに勝手な解釈を施し、気が付いてみれば神のみことばの上に立ってしまうという大きな脱線をしてしまう可能性があるのです。

 今日の箇所の出来事は、そのことに対する強い警告が発せられた出来事でした。
 それはいのちに関わることだというのです。

 私たちは神の前に砕かれた魂をもって、ひれ伏すべき者なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.07.Thu 08:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。"
 レビ記 9章24節

 主へのささげ物に関する具体的な規定は、7章で終わっています。

 そして8章では、アロンとその子ら、すなわち祭司のきよめについての主からのことばが記されています。
 そして8章の最後では、"アロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことすべてを行った。" とあります。

 さらに9章では具体的に、ささげ物がささげられるというところまできます。
 ささげ物の規定に従ってアロンはまず自分をきよめ、そしてイスラエルの子らにささげ物を用意させ、ささげ物に関するすべてのことを実施し、完了させました。

 これでいよいよ神と共に歩むその行程の出発となります。
 そのすべてが整ったときに、民は主の栄光を目の前にします。
 それが今日の箇所です。

 民は神の恐るべき栄光の表れを見て、「これを見て喜び、ひれ伏した」とあります。
 民は神の栄光を見、そしてこの神の前にひれ伏し、神と共に歩む旅路のスタート地点に喜びをもって立ったのです。

 さて、そのささげ物ですが、それらはまず、罪のため、そして全焼、そして交わりのささげ物でした。(22節)

 このささげ物を、例によって私たちの信仰生活に重ねてみるならば、、
 罪のためのささげ物・・それは、私たの罪のために十字架にかかられた御子のみわざそのものです。
 全焼のささげ物・・それは、神にすべてを委ねて神とひとつになって歩むための私たちの意思表示です。それはすなわち洗礼の意味とかぶってきますね。
 そして交わりのささげ物・・、それはいよいよ出発する信仰生活に於いて、私たちは神との交わりがなかったら、そこには何の力もないし、何の意味も見いだせないことを思い起こさせます。
 私たちは、神との交わりによって初めて、この信仰の旅路を行くことができるのです。

 主との交わり・・それは祈り、みことば、そして実際の行いです。

 今日も明日も、主との交わりを求めて歩んでいきましょう。
 そこに私たちは神の栄光を見るのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.06.Wed 10:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。
 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。"
 レビ記 6章12~13節

 次に出てくるのは、アロンとその子らがささげ物をするときのさらに細かな規定です。
 先ずは全焼のささげ物・・。そしてそのあとに穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物、任職のためのささげ物、そして交わりのいけにえについて・・。(7章)
 そして7章の最後には、それらの肉は祭司が受けとる分となるということが記されています。

 祭司の役割、それは民と神の関係を常に正常なものとするために、民に代わってささげ物をするということでした。
 そしてそこには特筆すべきことが書いてある・・それが今日の箇所です。

 祭司は朝ごとに、薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、〜 その火は絶えず燃え続けさせ、消してはならないというのです。

 要するに、民のためのささげ物をするにあたって、その火を一瞬たりとも消してはならず、その火を燃え続けさせる・・これが祭司の仕事だというのです。

 ペテロの手紙 第一2章9節には、こん
なことばがあります。
" しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。"

 私たちは多くの人々より先に救われ、残された人々を神のもとに導くという役割が与えらた「祭司」だというのです。
 しかし、そのような働きは私たちの努力や熱意だけでは限界があります。
 私たちがどうしてそのようなことができるのかというと、それはそこに聖霊が働かれるからです。

 私たち「王である祭司」はこの聖霊の火を消してはいけないんですね。
 しかも、一晩中、そしてそれが途絶えることがあってはならないというのです。

 私たちは、御霊によって祈り、歩み、神に仕える者とされている者なのです。

 ならば、その火を一瞬たりとも消すことのないように、私たちの目を主に向け続けようではありませんか。

 私たちの仕事は、「火を消さないこと」なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.03.05.Tue 12:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" その人が罪に陥り、後になって責めを覚える場合には、そのかすめた品や脅迫してゆすり取った物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
 あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。"
 レビ記 6章4~5節

 前回の箇所に続いて、さらに罪についてのささげ物の具体的な例がこのあとにも出てきます。
 それは人に対する具体的な罪で、詐欺や脅迫、偽証など・・。(5:14〜6:4)

 このように人に対して罪を犯した場合、その罪は神に対して犯した罪としてその代償を支払うと同時に、罪を犯した相手に対してもそれなりの償いをしなければならないということが、今日の箇所では書かれいてるわけです。

 私たちは、イエス・キリストのあの十字架でのあがないのみわざによって、罪は赦されました。
 しかしながら、もし実際にある人に対して罪を犯していたのなら、それは神の赦しをいただいたのだから、それでいいではないか・・という風にならならいわけで、その罪の償いは、罪を犯した相手に対してはしっかりしなければならないわけです。

 「すべて返さなければならない」というのは、逆に言えば、与えた損害をそのまま補償するということで、それが「元の物を償い」ということです。
 今の損害補償の考え方はそこまでなんですね。
 しかしここでは何と言っているでしょうか。
 それは、「また、それに五分の一を加えなければならない」・・と言っているのです。

 要するに、返せばいいんでしょ・・ではないというわけです。
 考えてみれば、それは当然のことですよね。
 元に戻せばそれでいい、ではなくて、それだけ迷惑をかけたわけですから、その分も償わなければならないというわけです。

 神は、この時代にすでに、画期的な戒律を与えてくださっていたのです。
 全部返して、さらにそれに五分の一を加えよ・・と。

 ここにもやはり、心を用いなさいという、基本的な教えを神はなされているんですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.03.04.Mon 10:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、
自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。"
 レビ記 5章5~6節

 レビ記が始まってこれまでに出てきたいけにえは、全焼のいけにえ、交わりのいけにえ、そして罪過のためのいけにえ・・。
 そして5章は、見ているのに証言をしない罪、死骸などのげがれたものに触れた罪、軽々しく誓う罪・・などが一見脈絡なく出てきます。(1-4節)

 どんな罪も、犯してしまってそのままにしておき、それがあとで罪の呵責として心に迫ってくるなら、それらの罪は主へのささげ物によって赦される・・これが原則です。
 しかしそのためにはひとつの条件がある、と書かれているのが今日の箇所です。

 それは、「自分が陥っていた罪を告白し」・・ということです。

 罪の告白なしにささげ物をささげることはあり得ない・・というわけです。
 もちろん告白とは主への告白のことです。

 私たちは主の十字架を見上げるたびに罪の赦しをいただく者とされたわけですが、それには「罪の告白」が必須であるというのです。
 すなわち、自分の罪に気付いたたらまず、主にその罪を告白しなさいというのです。
 そうすれば、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮による赦しの中にいつでも立つことができるのです・・と。
 しかしそれは、私たちの信仰生活に於いて、ともすると省略してしまうことが多かれ少なかれ、あるのではないでしょうか。
 しかし「告白」をしっかりとするなら、罪の赦しのなかで、あなたは確実に主に近付くというのです。

 悔い改め・・そこには罪の告白が伴うんですね。

 私たちは自分の口で罪を告白することによって初めて、その罪の認識が主に認められるのです。
 そこをスルーして、ああ私は赦されている・・というところに簡単に立ってしまうのではなく、その罪について、主に正しく扱っていただくために・・、

 罪の告白は必要なのです。


 アーメン (まことにその通りです)

 
2024.03.04.Mon 10:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
193.jpg

今週の「たいむ」は・・

【確信を増す】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=LI-5juxXacE&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !

 
2024.03.02.Sat 09:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、
自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。"
 レビ記 5章5~6節

 レビ記が始まってこれまでに出てきたいけにえは、全焼のいけにえ、交わりのいけにえ、そして罪過のためのいけにえ・・。
 そして5章は、見ているのに証言をしない罪、死骸などのげがれたものに触れた罪、軽々しく誓う罪・・などが一見脈絡なく出てきます。(1-4節)

 どんな罪も、犯してしまってそのままにしておき、それがあとで罪の呵責として心に迫ってくるなら、それらの罪は主へのささげ物によって赦される・・これが原則です。
 しかしそのためにはひとつの条件がある、と書かれているのが今日の箇所です。

 それは、「自分が陥っていた罪を告白し」・・ということです。

 罪の告白なしにささげ物をささげることはあり得ない・・というわけです。
 もちろん告白とは主への告白のことです。

 私たちは主の十字架を見上げるたびに罪の赦しをいただく者とされたわけですが、それには「罪の告白」が必須であるというのです。
 すなわち、自分の罪に気付いたたらまず、主にその罪を告白しなさいというのです。
 そうすれば、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮による赦しの中にいつでも立つことができるのです・・と。
 しかしそれは、私たちの信仰生活に於いて、ともすると省略してしまうことが多かれ少なかれ、あるのではないでしょうか。
 しかし「告白」をしっかりとするなら、罪の赦しのなかで、あなたは確実に主に近付くというのです。

 悔い改め・・そこには罪の告白が伴うんですね。

 私たちは自分の口で罪を告白することによって初めて、その罪の認識が主に認められるのです。
 そこをスルーして、ああ私は赦されている・・というところに簡単に立ってしまうのではなく、その罪について、主に正しく扱っていただくために・・、

 罪の告白は必要なのです。


 アーメン (まことにその通りです)

 
2024.03.01.Fri 10:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──"
 レビ記 4章1~2節

 レビ記には、はじめからささげ物についての規定が記されています。
 最初は全焼のいけにえについて、次に交わりのいけにえ、そしてそれに続いて記されているのが、この4章の罪のためのいけにえです。

 その罪は、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気付かずに罪に陥り、そのひとつでも行ってしまった場合・・、とあります。

 これを今の私たちに例えるなら、イエス様を知る前までは、自分が罪びとだとは思ってもいなかったのに、内にある罪の性質を示され、その心をはじめて神に向けたとき・・ということのなるのではないでしょうか。
 今日の箇所以降は、そのためのささげ物をするための事細かな規定が記されています。
 そしてそれを行う者は、神との関係を回復することができるのというのです。

 今の私たちにとって、いけにえをささげるとはどういうことでしょうか。
 それは神の御子イエス・キリストがすでにいけにえとなって十字架にかかって下さったことを「心に信じる」ことです。
 あとは、十字架で死んでよみがえられ、今も生きておられるこの方を主として信じ従う・・そのことにほかなりません。

 私たちすべての者は、神の前にその罪を認め、悔い改めるならば、すべての人はその罪の赦しに与(あずか)ることができるというのです。
 そしてこのレビ記の話は、イスラエルという特別に神に選ばれた民のことですが、その罪の赦しをこの民のみならず、全世界の地の果ての民にまでその道を開いて下さった・・それが神の御子イエス・キリストなんですね。

 私たちは、イエス・キリストを信じて罪の赦しのうちに置かれました。
 それでも、私たちは心の中で、あるいは具体的な罪を犯してしまうことがあります。
 しかし、そのつど神の前にその罪を本当に認めて悔い改める・・すなわち、イエス・キリストの十字架のあがないを思い起こして、いつもそこに立ち返るならば、私たちは永遠の赦しの中を歩み続けることができるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.29.Thu 09:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、
 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。
 アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上の薪の上にある全焼のささげ物に載せて、焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。"
 レビ記 3章3~5節

 レビ記に入るなり、ささげ物についての規定が続きます。
 屠った動物をどのように処理するか、またささげ物が鳥であった場合・・。(1章)
 2章は穀物のささげ物。パンにしたときのその味付けまでが記されています。

 そして3章では「交わりのいけにえ」について書かれています。それはその内臓のほんの一部分を「全焼のささげ物」に載せて、焼いて煙にする主への香ばしいささげ物にするというのです。
 それが今日の箇所です。

 全焼のささげ物とは、神との完全な和解のためのささげ物であり、その上に「交わりのいけにえ」を載せてささげ物とせよというのです。

 例によって、このことを私たちの信仰生活に重ねて考えてみるならば、
 全焼のいけにえとは、私たちがイエス・キリストを救い主として信じて、神との完全な和解をいただいた・・すなわち救われたことを指すわけです。
 それで私たちは神と歩む者として、世からあがない出された者となるわけです。
 しかしそのような私たち、すなわちクリスチャンにも、洗礼を受けたことで「私はクリスチャンです」という認識は持ってはいるものの、神との深い交わりを求めて歩むようになる人と、なんとなくぼんやりとしたクリスチャンであるまま、時が過ぎていく人がいるというのが現実です。

 このいけにえの規定には、全焼のいけにえの上に「交わりのいけにえ」を加えるということが書いてあるのです。

 私たちは、クリスチャンになっただけで、あとは教会の礼拝に出ていればそれで良いのではないのです。
 主は私たちに「交わり」を求めておられるんですね。

 この主の御心を私たちは、しっかり受け止め、主と深く交わることを日々求めていこうではありませんか。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.28.Wed 11:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。"
 レビ記 1章3~5節

 レビ記に入りました。
 このレビ記には、礼拝に関する規定が事細かく書かれていて、私たちにとってはちょっと退屈で読みづらいかもしれません。
 しかし、そのようなレビ記の中にも、信仰を持つ私たちに直接関わる大事な部分が、所々に見られます。

 例えば今日の箇所は、ささげ物のことですが、それは私たちの罪のために宥めのささげ物となって下さったイエス・キリストの十字架の型がそこに示されています。
 ここでは「牛」について書かれていますが、2節には「牛か羊を」と書かれています。
 イエス・キリストは私たちの罪のために屠(ほふ)られた小羊であるということが、聖書の随所で語られています。

 全焼のささげ物とは、神と完全につながるためのささげ物です。
 そしてそのためには「傷のない雄」をささげなければならない・・。(3節)
 傷のないとは、全く罪のないという、完璧なささげ物であることを意味します。イエス・キリストはまさに、私たちの罪のために完璧なささげ物だったわけです。

 このささげ物をささげる者は、まずその頭に手を置く・・。
 それは自分のすべての罪をこのささげ物に負ってもらうという意味です。
 だからこのささげ物が「宥(なだ)め」としての役割を果たし、それによって「彼は受け入れられる」というわけです。(4節)

 祭司はこのささげ物を屠り、その血を祭壇の側面に注ぎかける。
 イエス・キリストが流された血が、ささげ物としての血であることを信じることによって、私たちは永遠の赦しの中に置かれる者とされるのです。

 私たちはイエス・キリストの贖(あがな)いのみわざによって、赦された者、すなわち神と完全につながる者とされたのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.27.Tue 11:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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いっちー
ドラマー市原康です。
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G-Cafe 聖書のことば #1147【必要なこと】 民数記9(04/09)
G-Cafe 聖書のことば #1146【信仰を守り通す】 民数記8(04/08)
GraceCafeたいむ #198【心を開く相手】(04/06)
G-Cafe 聖書のことば #1145【私たちの一致】 民数記7(04/05)
G-Cafe 聖書のことば #1144 【主の手は短い?】 民数記6(04/04)
G-Cafe 聖書のことば #1143 【主よ、信仰を与えてください】 民数記5(04/03)
G-Cafe 聖書のことば #1142 【主が見えなくなった時】 民数記4(04/02)
G-Cafe 聖書のことば #1141 【雲に従う】 民数記3(04/01)
G-Cafe 聖書のことば #1140【神のご計画】 民数記2(04/01)
GraceCafeたいむ #197【心を開いて】(03/30)
G-Cafe 聖書のことば #1139【旅への備え】 民数記1(03/29)
G-Cafe 聖書のことば #1138 【生ける主を見る】 レビ記 22(03/27)
G-Cafe 聖書のことば #1137【祝福とのろい】 レビ記 21(03/26)
G-Cafe 聖書のことば #1136【ヨベルの年】 レビ記 20(03/25)
G-Cafe 聖書のことば #1135 【目には目を】 レビ記 19(03/25)
GraceCafeたいむ #196【目的地がある】(03/23)
G-Cafe 聖書のことば #1135 【目には目を】 レビ記 19(03/22)
G-Cafe 聖書のことば #1134【主を恐れる】 レビ記 18(03/21)
G-Cafe 聖書のことば #1133 【聖めの道】 レビ記 17(03/20)
G-Cafe 聖書のことば #1132【主が聖であることを示す】 レビ記 16(03/19)
G-Cafe 聖書のことば #1131【塩気を保つ】 レビ記 15(03/18)
GraceCafeたいむ #195【キリストがすべて】(03/16)
GraceCafeたいむ #194【罪からの解放】(03/16)
G-Cafe 聖書のことば #1130 【正しい秤】 レビ記 14(03/15)
G-Cafe 聖書のことば #1129 【あわれみの神】 レビ記 13(03/14)
G-Cafe 聖書のことば #1128 【主との関係】 レビ記 12(03/13)
G-Cafe 聖書のことば #1127 【毎年の宥(なだ)め】 レビ記 11(03/12)
G-Cafe 聖書のことば #1126【聖なる主】 レビ記 10(03/11)
G-Cafe 聖書のことば #1125 【主を恐れる】 レビ記 9(03/08)
G-Cafe 聖書のことば #1124 【神はまことに神】 レビ記 8(03/07)
G-Cafe 聖書のことば #1123【主との交わり】 レビ記 7(03/06)
G-Cafe 聖書のことば #1122【火を消さない】 レビ記 6(03/05)
G-Cafe 聖書のことば #1121 【当たり前の教え】 レビ記 5(03/04)
G-Cafe 聖書のことば #1120【罪の告白】 レビ記 4(03/04)
GraceCafeたいむ #193【確信を増す】(03/02)
G-Cafe 聖書のことば #1120【罪の告白】 レビ記 4(03/01)
G-Cafe 聖書のことば #1119【罪は赦される】 レビ記 3(02/29)
G-Cafe 聖書のことば #1118 【交わりのいけにえ】 レビ記 2(02/28)
G-Cafe 聖書のことば #1117【全焼のささげ物】 レビ記 1(02/27)
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