" 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」"
創世記 3章2~3節
サタンは女に「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」と問いかけました。(1節)
女にはサタンの言うことが間違っていると思ったのでうっかり答えてしまいます。
女はサタンに、「園の中央にある木の実は食べてはいけない。それを食べると死ぬから、それに触れてもいけないと神は言われたのです」と答えました。
しかしこの女の認識は不正確なものでした。
神は園の中央に二本の木、すなわち「いのちの木」と「善悪の知識の木」を置かれました。そしてその中で食べたら死ぬと言われたのは「善悪の知識の木」です。
いのちの木からは食べても良い・・というより、このいのちの木は神とともに歩むことの象徴で、そのためには欠かせないものだったのです。
しかし女はこの「いのちの木」についても「触れてもいけない」と思っていた節(ふし)があります。
それは「善悪の知識の木」には近づかないと同時に、神にも近づかないようにしていたということです。
サタンはそこにつけ込んだのです。
サタンは人に、いのちの木よりも善悪の知識の木の方に目を向けさせ、神との関係を壊してしまうことにまんまと成功するのです。(4節〜)
私たちは神との関係を第一とする、すなわちいのちの木にのみ目を向けていなければならないんですね。
クリスチャンはこの世においてイエス・キリストという「いのちの木」をいただいているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」"
創世記 3章1節
聖書の最後の書である黙示録にはこんなことばがあります。
"こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。" (ヨハネの黙示録 12:9)
蛇とは悪魔とかサタンとか言われる霊的な存在であることがわかります。
しかも神である主はエデンの園のときから、すでにサタンの存在を許していたということになります。
そしてこのサタンの暗躍は世の終わりまで続くということを、この黙示録のことばは示しているわけです。
ここではサタンのことを「全世界を惑わす者」と言っています。
しかもこの3章1節から分かるように、サタンは「賢かった」というのですから厄介です。
サタンである蛇は先ず「女」を狙って語りかけます。
サタンはことばをもって攻撃してくるんですね。しかもそのことばには巧みな嘘(うそ)があるのです。
「 〜と、本当に言われたのですか。」・・と、これが最初の惑わしのことばです。
神はそんなことは言われていないのに、そんなことを堂々と言うのです。
そして女は、このサタンのことばに応答してしまうんですね。
それはサタンと関係を持つということです。
私たちが受け取るべきことば・・、それは神の霊感を受けて書かれた聖書のことばです。
このみことばに応答することで、私たちは神との関係を持つのです。
私たちは、サタンのことばに答えてはいけないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。"
創世記 2章25節
エデンの園は年中裸でいても問題なく暮らせる天候だったようです。
それはノアの洪水で天の水が全部落ちて、太陽が姿を表わし、虹が出るという天候の大異変のときまで続いたようです。
それは、その間の人の齢が800歳とか900歳だったという記事からも窺い知ることができます。
それはともかく、この節で注目すべき点は、「恥ずかしいとは思わなかった」というところです。
恥ずかしいと思うのは、どういうときでしょうか。
それは、自分があるべき姿ではない所を見られてしまったとき・・なのではないでしょうか。
あるべき姿とは、与えられた自分に満足しないところから生まれる感覚です。
しかしその姿が「神が自分に与えられたものだ」という認識なら、「あるべき姿」などというものもあり得ないわけです。
ですから「あるべき姿」という認識をまったく持っていなかった最初の人とその妻は、恥ずかしいという感情も持ち合わせてはいなかったというわけです。
これが善悪の知識の木から、その実を取って食べるよりも前の人の状態です。
人は最初、すべてのことをそのまま喜んで受け取り、神と共に日々を送っていたんですね。
それは神の光と喜びに満ちた日々だったに違いありません。
しかしそこに、それを壊そうとする魔の手が忍び寄るのです。
4章は「蛇」の登場です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。"
創世記 2章24節
前回、神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになった・・と書きました。
父と母を離れて、妻と結ばれ、ふたりは一体となる・・。
それは親子の血のつながった絆よりもさらに深い関係が、夫婦の関係においてはできあがるということを示しています。
「最初の人」の話をしているこの文脈の中で、「父と母を離れ」ということばが出てくると、おやっ?となりますが、言うまでもなくこれは、それ以来の「人のあり方」についての教えであるわけです。
これは聖書に出てくる最初の「戒め」であると言っても良いのかもしれません。
一体となる・・。
それはお互いが自分のからだとなるということです。
ですから二人で一体となるはずの夫婦関係に、別の存在が入り込めば、一体となったからだが不健全な形になるのは当然のことです。
夫婦関係を軽んじて、不倫を「文化」などと言ってしまうような考えは、神を知らない所から来ているのです。
人の行動の規範・・、それを造られたのも神なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。"
創世記 2章22節
神は人に、すべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられ、それ名を付けさせたのですが、そこにはふさわしい助け手が見つかりませんでした。(20節)
ふさわしい助け手・・それは動物の中には見いだせなかったというのです。
それで神である主は、人を深い眠りにつかせ、彼のあばら骨をひとつ取り、そこを肉でふさがれたとあります。(21節)
そしてそのあばら骨をひとりの女に造り上げたというのです。
この聖書の記事から、男のあばら骨は女よりも一本少ないという「都市伝説」がありますが、男女、あばら骨の数は同じです。
現代なら、人の骨からDNAを取り、ほんの少し違う所を作って、それを女にした・・と説明した方がわかりやすいかもしれません。
それはともかく、神はひとりの男に対して、ひとりの女を助け手として置かれたというのです。
聖書にある歴史の中において、王といわれる存在は、多くの女性を妻としていました。
しかしそこには常にトラブルが付きまとっていました。
それは結局、神の当初の意図とは異なるんですね。
神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになったのです。
助け手・・それは心を通わせ、語り合い、互いを高め合う・・そのような存在です。
人は夫婦となったら、そのような二人となるように、育(はぐく)んでいかなければならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。"
創世記 2章20節 前半
神である主は、人のための助け手として、先ずすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられました。
そしてそれらの生き物を人が何と呼ぶかをご覧になったというのです。
それで人がそれらを呼ぶと、すべてそれがその生き物の名になったと記されています。(19節)
人はこの時点ですでに、ことばを使うものであったことがわかります。
神である主は最初から人に「ことば」を与えておられたんですね。
どこの国のことばのようであったか、知りたいものです。
エデンの園を追放されたあと、人は地に増え広がるのですが、ことばは「全国共通」でした。ところがあのバベルの塔の事件以来、神である主は人のことばを混乱させて、地の全面に散らされたと記されています。(創世記11:6-8)
ことば・・、それは神である主が人に与えたものであり、それは人が神のかたちとして造られたことの最大のしるしなんですね。
1800年代の終盤になって、ルドヴィコ・ザメンホスという人が世界の共通語としての「エスペラント語」を作るという画期的な試みをし、世界的にも注目されていましたが、結局は普及しないで終わっています。
ことば・・それは神からのものなのです。
何気なくしゃべることばの中に、私たちは神の大きな存在を見ることが出来るんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」"
創世記 2章18節
神である主は、人のために「ふさわしい助け手」を造らなければならないと思われました。
人がひとりでいるのは良くない・・。
神は人を、人同士でつながることによって満たされる存在として造られたんですね。
その最初が「男と女」だというのです。(22節)
神は、人が互いが満たされるための最初の存在として「異性」を造られたというわけです。
動物も人も、異性がいることによって増え広がる存在となりました。
しかしそれよりも以前に、その(異性の)存在の意義は、「ひとりでいるのは良くない」というものだったというのです。
神はその存在を「助け手」として造られたというのです。
人は男女が結ばれて家庭を築き、子孫を設けますが、それだけで互いの存在意義が終わってしまうわけではありません。
それは「助け手」として造られたというのです。
その存在・・、それ自体が「助け」になるというのです。
そうではない面にばかり目を向け、互いを疎むようになってしまっては、互いの存在は苦痛を伴うものになってしまいます。
しかし「神に与えられた助け手」という認識で夫婦が互いを見るなら、そこには喜びがやってきます。
それが神の御心(みこころ)・・すなわち「神が喜ばれること」だからなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【たましいの安らぎの場所】 です。
GraceCafeたいむ #110
https://www.youtube.com/watch?v=5tj1v0XGeas
God Bless You !
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節・・(三回目です)
ところで「善悪の知識の木」って、何なのでしょうか。
善悪の知識・・それは天地万物を造られた神である主が、人が歩んで行く上で必要なこととして造られたものです。そしてそれは神の管轄下にあるものでした。
なぜなら、人にはそれを管理する能力はないからです。
善悪の知識は神との交わりの中で、神から直接受け取るものでした。
ですから人はエデンの園において、「善悪の知識の木」から実を取って食べる必要はなかったのです。
それを取って食べる・・それは善悪の知識を神からいただこうとせずに、自分で管理することに決めるという行為であるわけです。
神はそのことを「決してやってはいけないこと」として最初に示されたんですね。
善悪の知識の木からその実を取って食べると、人は神から離れて「神ぬき」で生きようとする者になる・・、そのことを神はご存じだったのです。
それは結局、神を信じようとせず、自分の知識と力で自分を守りながら生きる世界へとつながって行くわけです。
これが実は、アダム以来の人類の姿なんですね。
エデンの園の話・・核心に入っていきます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節 (前回と同じ箇所です)
神は人がご自分と共におられることの確認のために、ひとつのことをされました。
それは「食べてはならない」という命令に「従うか従わないか」によってそのことを見るというものでした。
結局「その木から取って食べる」ということは、神との関係を自ら損なうということです。
そしてその結果が「死」だというわけです。
それは毒物を摂取したことによって死ぬような死ではなく、「死ぬ人になる」ということです。
現にその実を食べたアダムはそのとき即座に死んだのではなく、930年生きて死にました。
ですから「必ず死ぬ」ということは、「人」は永遠に神と共に生きるものとして造られたのに、この禁断の実を食べるならそこに「死が入る」ということことを意味していたわけです。
さらに、世の始めから終わりまでという神の長期計画という所に視点を移すと、その中間地点で「死の力を打ち破った御子」の登場があるんですね。
それは、死後は無に帰すとか、他のものに生まれ変わるとかいうものではなく、その「死」自体がなきものとされ、今のあなたの名が付けられた「あなた」は、永遠に「あなた」として生きるための扉が開かれたということです。
年老いて死ぬ・・、それはアダムが禁断の実を食べたときから始まりました。
ところがそこに神は、ご自身の栄光を現されるために、この世に「御子イエス・キリスト」を送られ、死の力を打ち破って見せてくださったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節
エデンの園の話の最重要箇所です。
園のどの木から食べても良い・・。
それは、園の中央にあるいのちの木からも思う存分食べられるということでした。
これ以上求めるべきものはない最高の環境です。
ところが神は園の中央にもうひとつ、「善悪の知識の木」を生えさせられたというのです。
そしてそれを食べたら死ぬから、決して食べてはならないと、神である主はアダムに言われました。
神が言われたたったひとつのことを、守るか守らないか・・。
これが神が最初に設定した「人との関係のあり方」でした。
それは「人」が、ただ神の言いなりになるようなロボット的な存在ではなく、「自分で決める権利」を持つものとして造られたということを示しています。
神がまず最初に人に与えられたのは、人の「主権」と「尊厳」だったんですね。
そして人は、自分の心を使ってそれを守ることによって充足感が与えられるという・・、これは本来、神からの大きなプレゼントだったわけです。
ところが人はそれを捨ててしまった・・。
エデンの園の話の始まりです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。"
創世記 2章15節
アダムはエデンの園を耕すことを神から命じられていました。
アダムは園を守り、それによってその美しい姿が維持されていたわけです。
小さい子どもは何をするのも楽しそうですね。
走っても楽しいし、大人のまねをするのも楽しい。そして大人からすれば異常な集中力で物事を観察します。
これらのことは、神の祝福の中にあって、喜びと平安に満ち、知識はなくとも、神の祝福を謳歌しているその姿なんですね。
アダムの、エデンの園を耕していたその「労働」・・それも子どものように、なんの心配もなく、うれしいうれしいと言いながらしていたのではないでしょうか。
ところがアダムの失敗により、エデンの園を追放されたとき、主はアダムにこう言われました。
「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」 (3:17)
アダムはエデンの園で毎日遊んで暮らしていたわけではなく、「耕して」いたのです。
でもそれは神の光と喜びのうちにあっての日々でした。
同じ耕すにしても、苦しんで汗水流して働くのだとしたら、それはまったく別の世界です。
私たちはその別の世界に生きているというのです。
神とともにある歩み・・それは喜びの世界、本当のふるさとにおいての歩みです。
そしてそのふるさとへの切符が与えられた・・これが福音です。
すべての人の罪のために十字架にかかられ、死の力を打ち破ってよみがえられたイエス・キリスト・・この方の存在、それこそがその切符なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。"
創世記 2章9節
前回と同じ箇所です。
園の中央にある二本の木の中の「いのちの木」。それはその実をとって食べてもよい・・というより、なくてはならないいのちの源、祝福の源でした。
そしてもうひとつの「善悪の知識の木」。そこからはその実を取って食べてはならない・・というより、食べたら「死ぬ」というものでした。(16-17節)
園の中央にあった二本の木は、実に対照的な存在であることがわかります。
ひとつは「いのち」で、もうひとつは「死」なのです。
クリスチャンというのは、神との関係を回復させられた者です。
それはエデンの園のアダムのように、神と語り合い、神の平安の中で生きることが許された者です。
そしてそこにも、この二本の木が立っているんですね。
そのひとつ、いのちの木は、決して見放さず見捨てないと言われる主なるお方の存在です。
そしてもうひとつの善悪の知識の木・・それは、神を差し置いて自分の知識とか判断で生きていこうとする「古い自分」の存在です。
私たちの目の前にいつも置かれているこの二本の木・・、それは「いのち」と「死」を象徴する二本であるわけです。
私たちは自分の意思でこの「いのちの木」の方を選び取る・・、それが実は私たちに課せられた務めなんですね。
しかし間違ってはいけません。れを選び取るその力は、死と復活の主イエス・キリストのうちにあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。"
創世記 2章9節
園の中央にある大切な木は、二本あったんですね。
そして神である主は、その中の「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけないよと言われたのです。
あとは思いのまま食べて良いと・・。(16-17節)
「いのちの木」の実は、自由にとって食べてもよかったのです。
このいのちの木・・、それはいのちである神との交わりを象徴するものでした。
アダムはエデンの園で、神と共に過ごしていたんですね。
そして、ただひとつだけ食べてはいけない禁断の木の実・・それが「善悪の知識の木の実」だったわけです。
エデンの園の本質・・、それは神との共存でした。
人はもともと、神と共にあるように造られたのです。
ところが人はその「エデンの園」を追放され、サタンの暗躍が許されている「この世」において人類の歴史を綴っていくことになるわけです。
しかし聖書を一番最後まで読むと、神は最後に「天の御国」を用意しておられるということがわかります。
その天の御国、それは・・、
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」" (ヨハネの黙示録21:3)
エデンの園はここで完成するのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。"
創世記 2章8節
いよいよ「エデンの園」の登場です。
東の方のエデン・・、ということは、基準となる場所がエデンの西の方だということです。
このあとの11〜14節には、エデンの園から湧き水が出て、四つの川となったと記されています。
その川の中の二つ、それは今でも私たちがよく知っている「チグリス・ユーフラテス川」です。
このふたつの川は、現在のイラクを流れる川で、このふたつの川が最も接近しているのが首都のバクダッド付近です。
ということは四つの川の源流となったエデンの園というのはバグダッド付近のあたりか?・・と、これは素人(私)の推測ですが。
そしてこの位置を「東」と言っているということは、話の中心はそこからまっすぐ西に延びた地点にあるということになるわけですが、その先には地中海東岸、レバノン、そしてイスラエルがあるのです。
なぜかこの話・・、エデンの園が中心としては描かれていないのです。
聖書の話の中心は、最初から最後までエルサレムです。
終わりの時・・地を支配していた悪魔とそれに属する者とが火の池に投げ込まれるときの舞台も「愛された都」エルサレムなんです。(黙示録20:9-10)
そして人類の物語はそこから遙か東にある「エデンの園」から始まり、それはエルサレムに直結しているということが、この一言の中に暗示されているわけです。
神である主は東の方のエデンに園を設け・・と。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。"
創世記 2章7節
大地のちりとは「被造物」すなわち、地にある「物質」です。
人はそれによって形造られた・・。
ですから人が死んでしまえば「物体」が残るわけです。
神はその物体に「いのちの息を吹き込まれた」というのです。
それは、人は「神のいのちの息」によって生きているのだという意味です。
私たちは普段、自分で生きているという感覚で動いています。
しかし神がそのいのちの息を取り去られてしまうと、人は自分の意思にかかわらず死ぬんですね。
私たちは「神のいのちの息によって」今も生きている、いや、生かされているのです。
しかもその「いのちの息」は、他の動物とは異なる特別なものでした。
それは、神のかたちをした「いのち」です。
「神は人をご自身のかたちに造られた」(1:26-27)
それは物質としての似姿ではなく、心が伴ういのちです。
そしてそれは、神と交わり、神のうちにある栄光を見、その栄光を内にいただくことのできる「いのち」なのです。
ですから人が「心」をもって行うことのできる究極的な行動・・それは神への賛美なんですね。
神を賛美する特権、それは神からの最高の贈り物なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である主が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。
ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。"
創世記 2章5~6節
はじめ、天は厚い雲「上にある水」に覆われていたはずですが(1:7)、雨は降っていなかったようです。
そして 「下にある水」は海。
神はこのときすでに、真水と塩水を用意されていたんですね。
しかし上から雨を降らせる以前に、神は「湧き水」で地を潤されていたというのです。
湧き水というのは、雨が降って地中に貯蔵された水が、あふれてくる水のことですが、その前に「湧き水」という状態を神は造られたということになります。
ここにも、ないものからあるものを生じさせるという、科学的な根拠を上回る「創造」という神のわざについての記述があるわけです。
さて、このあとに「神である主」は「人」を造られますが、その時にはすでに多くの木が生い茂る園があって、話は木の実もたくさん実っている「エデンの園」の話に入っていきます。
要するに天地創造の話の4節からは、天地創造の時系列の経緯ではなく、「神である主」と「人」との関わりへと話の焦点が移っていくわけです。
聖書は「人」の歴史とその行く先のことが書かれた書物であり、そこに神はずっと介入されてきたのだということが、綿々と綴られているんですね。
この世の歴史・・、それは神と人との関わりの歴史だというのです。
そしてそれは、終わりのときまで続くのだと・・。
いよいよ神と人の歴史の幕開けです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主が、地と天を造られたときのこと。"
創世記 2章4節
ここで初めて「神である主」ということばが出てきて、改めて天地創造の経緯の話が始まります。
新改訳聖書では、この「神である主」ということばにおける「主」は、太字で書かれています。
そしてこの太字で書かれている「主」は、旧約聖書全体を通して登場します。
この太字の「主」というのは、原語ではエホバあるいはヤハウェという、神の名を呼ぼうとする際に使われた、特別なことばです。
そしてこの「主」は、人に直接語りかけ、時には実際に地に降りて人のかたちを取って来られ、人と接触される「主」なんですね。
" 主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家へ帰って行った。" (創世記18:33)
こうしてみると、この「主」は「神の御子である神」キリストを想起させます。
新約聖書のイエス様は、赤子として生まれるというかたちを取って登場されたキリストの姿のひとつです。
しかしそのイエス様もペテロとヤコブとヨハネの前で実際に、キリストとしてのその本当のみ姿を垣間見せられています。(マルコ9:2-8)
そして終わりの時には再び来られるお方だというのです。
聖書全体を通してキリストというのは、実に様々な形で登場しているんですね。
どちらにしても神は人に直接語りかけ、また人のことばを受け取られ、人を教え導くという、肌で直接ふれ合うほどの存在であることがわかります。
この2章4節から、この「神である主」と人との関係の中で起きた出来事の話が始まるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【光の中を歩む】 です。
GraceCafeたいむ #108
https://www.youtube.com/watch?v=sw18F1VJn2E
God Bless You !
" 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。"
創世記 2章2~3節
モーセは十戒において「安息日(あんそくにち)」を守るように、神から仰せつかりました。
神は六日間働かれて七日目に休まれ、この七日目を祝福されたのだから、その日を覚えて聖なる日とせよというのがその理由です。
それでイスラエルの民は土曜日を安息日として、労働はせずに神を礼拝するようになりました。
ですからイエス様が安息日に病人をいやされたりすると、パリサイ人や律法学者という、律法を守ることだけに終始していた人たちは目くじらを立てて、それをイエス様を訴える口実にしたわけです。
イエス様は安息日にいやしの奇跡を行われました。
目の見えない人が見えるようになり、生まれつき足の不自由な人がいやされる・・、それは神の御子が父なる神の栄光を現されたみわざそのものです。
ですから人々はこのイエス様を見て、神を礼拝すべきであったのに、イエスは神に敵対する者だという、大きな勘違いをしてしまったわけです。
キリスト教会では、基本的には週の初めの日の日曜日を聖日として、礼拝をする日としています。
それはキリストが十字架にかかられ、死なれて、最後によみがえられて、その救いのみわざを「完成させられた」その日だからです。
ですからこの日は仕事を休んで、神を礼拝する日なのです。
七日のうちの一日を神へのささげ物とするんです。
それは、神との関係を堅いものとするために欠かせない「聖なる日」なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。"
創世記 1章29~31節
宇宙を形成するすべてのものは、絶妙な力のバランスで保たれ、地に生きるすべてのものは産むことによって増え続け、植物も種によって存続し続け、生きるものの食糧となる・・。
こうして神は天地を「存続し続ける世界」として完成されたというわけです。
それは非常に良かった・・。
神はこのあと「第七日目」に、なさっていたすべてのわざをやめられ、この日を祝福し、聖なるものとされたとあります。(2章1〜3節)
いよいよ神の計画の幕開けです。
ここを読むと、黙示録にある「七つの封印」のことを思い起こさせられます。
神の子羊が巻物に封をしている六つの封印によって、この後に起きることの六つのファクターが出そろい、七つ目の封印を解いたとき「天に半時間ばかりの静けさがあった。」(黙示録8:1)
いよいよ終わりの時代の幕開けだというわけです。
そこに出てくる「大艱難時代」は、次々と起こる悲惨な出来事の中で、神に立ち返る無数の人たちが起こされるという世界です。
それはまさに、アダム以来の人類の歴史の凝縮のようです。
神は悲惨な人類の歴史の中で、そこから救い出される人々が起こされる・・それがこれから始まる神の計画の全貌なんですね。
天地創造・・それは「完成」ではなくて、始まりなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」"
創世記 1章28節
すべての生き物を支配されるのは神です。
しかし神は人を造られ、それを祝福し、「すべての生き物を支配せよ」と言われました。
それは「人」が神のことばを聞き、神の意向を反映させられるという、被造物の中でも特別な存在「神のかたちに造られたもの」だったからです。
その祝福を与えるために神は最初に「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と言われました。
今世界中には「人」が満ちています。それは神の祝福の形です。
しかし同時に多くの人々は、生みの親であるところの父なる神を「神」とせずに歩んでいます。
人は父なる神との間に溝ができてしまって、それをずっと受け継いできている・・、これがアダム以来の人類の姿です。
しかしそれでも「人」は、「神のかたち」として造られたものなんですね。
それは今でも人が神のもとに帰るなら、神の当初の祝福を改めて受け取り、神と共に生きることができる者であるということです。
人は今も、この本来の神の祝福を受けることのできる者として、世にあり続けているのです。
神はそのことのために御子イエス・キリストを人々のところに送られ、人が神のすべての祝福を受け取ることができるようにされたのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。"
創世記 1章27節
ここに書いてあることは、男と女というのは神が定められてそのように造られたということです。神は人の細胞の染色体にはっきりと「xx, xy」という印を押され、それで人は男になり、女になるようにされたのです。
近頃「LGBT」ということばをよく耳にします。
これら「性的マイノリティー」の人権を守ろうというムーブメントが、世界中で急速に起き始めています。
そしてその運動は、キリスト教徒は彼らを「蔑視」しているという印象を世界中の人々に与えています。
聖書が言っていることは、人々はみな神に背を向けている罪人ですが、神は御子を遣わしてご自分のもとに帰れるようにされたほどに、そのすべての罪人を「愛されている」ということです。
ですから神は、善良だと思っている人から極悪人まで、そして病人、他の神を信じる人、そしてLGBTに属する人たちなど、およそ地の上に存在するすべての人たちを愛されている・・これが大前提です。
神は、それらの人を忌み嫌っておられるのではなくて、それらの人をご自分のもとに招かれ、神のもとで、神のかたちに変えられていこうとされているというのです。
ですから、教会はLGBTも、前科者も、心を煩った者も、すべての人を受け入れるというのが基本姿勢です。
でもその行いが正しいとは言わないんですね。
神はそれらの人々を、その全能の御力によって神の似姿に変えていくことがおできになる・・これがクリスチャンの視点なんです。
そういう意味でクリスチャンは、だれをも差別はしないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」"
創世記 1章26節 前半
この箇所の三回目です。
今回は「似姿」ということばに注目してみます。
神の似姿・・それは顔があって目があって・・ということでは勿論なさそうです。
父なる神は天地万物の創造者であって、宇宙よりも大きな存在ですから、顔とか目とかいう次元の話ではないわけです。
ではこの「似姿」とはどういう意味なのでしょうか。
それは先ず、神は人を、他のあらゆる生き物とはまったく異なる存在として造られたという意味が、そこにはあります。
神は人を、「神が分かる」「神と交流をすることができる」存在として造られたんですね。
「人」というのは他の動物、例えば猿などとはまったく異なる存在だというわけです。
人は進化の結果誕生した「動物」ではなく、はじめから別の存在として特別に造られたのだと、聖書は言っているのです。
信仰を持つことができるのは、人間だけです。
イエス・キリストは、信じる人の内に入られ、その人と共に生きてくださる・・。
そうして「人」は、共にいてくださるこの方によって、「神の栄光を表す」者とされました。
"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。" (コリント人への手紙 第二 3章18節)
神は人を、主と同じかたちに変えられていく「器」として造られたのです。
「似姿」ということばの意味は、ここにあるのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」"
創世記 1章26節前半
前回と同じ箇所です。
われわれ・・それは、父なる神と御子キリストでした。
でもそれは「三位一体」という捉え方における「唯一の神」です。
御子キリスト・・このお方の存在を私たちはどのように捉えたら良いのでしょうか。
旧約聖書にはこの来たるべき方、メシヤであるキリストについて、300箇所以上に及ぶ記述がありますが、同時に旧約の世界の中で、キリストは実際に人との関わりを持つ存在として登場しています。
アダムに実際に語りかけられたのは太字で記されている「主」でした。
暴虐に満ちていたソドムとゴモラを神が滅ぼされようとしたときに、アブラハムに現れた「三人の人」がいます。「そのうちの一人」は太文字の「主」で記されています。それはそのうちの一人が「神」であることを言い表しているものです。(創世記32:24-30)
また、ヤコブが祝福をいただくために格闘した「人」・・、その人についてヤコブは「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言っています。(創世記32:24-30)
キリストはこのような形で旧約聖書に登場しているのです。
そして新約聖書において、来るべき方キリストして赤子で生まれ、人の背きの罪のための救いのみわざを完成されたキリスト。
そして今から後、再び来られる「さばき主」としてのキリスト・・。
最後には永遠の御国「天のエルサレム」において父なる神と共に、御国にあって「光」として存在されるキリスト・・。
キリストは父なる神の創造の始めから終わりまでのすべてにおいて、「人と特別な関わりを持たれる神」という存在だということがわかります。
キリスト・・このお方は私たち「人」に対し、神がどれほどに関心を持っておられるのかということを示してくださる「御子なる神」なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」"
創世記 1章26節 前半
この六日間で神がなさったこと・・。
それは最終目的である「人の存在」のための舞台造りだったのだということを前回見ました。
そしてこの26節で、先ず注目したい点は、「われわれのかたち」ということばです。
神が「われわれ」と言っておられる・・。
ということは天地創造の時点で、そこには神が複数いたということになります。
聖書全体を見るならば、そこに「多神教」的なイメージはかけらも見ることは出来ません。
ではこの「われわれ」とはどういう意味なのでしょうか。
聖書が示している「神」の存在のあり方、それは「三位一体(さんみいったい)」です。
父なる神、そして御子なるキリスト、そして神の霊である御霊(みたま)=聖霊です。
父なる神は天地創造の主語として最初に登場します。(1節)
それに続く2節ではさっそく「神の霊」が登場しています。
そしてこの26節にある「われわれ」・・、これこそが父と御子キリストなんですね。
その根拠は、十字架にかかられる前に祈られたイエス様ご自身の祈りのことばにあります。
"父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。" (ヨハネの福音書 17:5)
イエス様ご自身が、「世界が始まる前」すなわち天地創造より以前に父と一緒におられたということを、祈りの中で言われているのです。
人は、神と御子キリストの似姿として造られた・・と、この26節には書いてあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。
神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。"
創世記 1章24~25節
神は六日目に、いよいよ地上の生き物を造られます。
ここでおもしろいと思うことが二点あります。
まず、獣と区別して「家畜」が出てくるという点です。
家畜とは牛、馬、ろば、羊、やぎ、らくだなど、人間によって飼い慣らされ、使役される動物のことです。
そして二つ目の「地を這うすべてのもの」・・。
すぐに連想できるのは「蛇」ですが、そのような生き物だけを指すのだとすると、ちょっと変な感じがします。
このあとに神は、「人」を造られます。
それで神の創造のみわざは終わるというのですから、「這うもの」とは、家畜や獣以外のすべての小動物、昆虫、さらには地中に生息するすべての生物を指すことばなのではないでしょうか。
神が太陽と月という「ふたつの大きなもの」を造られたとき、そこに付け加えられるような形で「また星も造られた」と、ついでのように書かれています。
しかしそれらは、この地中の生物、さらには細胞から分子原子といった存在と対比するような位置付けで、文字通り計り知れない存在として神が造られたものだという構図が見えてきます。
と同時に、この創造の記述は、人間にとって身近な存在である太陽、月、家畜などが特にクローズアップして書かれいてるという図式も見えてきます。
結局それは何を意味するかということを考えるとき、神はあの気の遠くなるような宇宙空間から細菌にいたるまで、すべてのものを「人のために造られた」という神の意図がここで見えてくるような気がします。
神ははじめに、人が生きるための世界を造られた・・、これが聖書の主張なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。
夕があり、朝があった。第五日。"
創世記 1章20~23節
創造の第五日に神は、「動きまわる生き物」を造られました。
その最初は水に群がる生き物。そして地の上には大空を飛ぶ鳥だというのです。
水の中の生き物・・その中には「海の巨獣」もいたと書かれています。
私たちが知っている海の巨獣・・それはクジラですね。
そして水の中に「群がりうごめく」すべての生き物・・。
ウミウシというのを見たことがあるでしょうか。
そのデザインたるや、舞踏会で婦人たちが着飾るドレスよりも遥かに絢爛豪華な色彩と形をしているではありませんか。
そのデザインの豊富さには腰を抜かすほどです。
鳥・・それはみな翼を持っています。
鳥の羽を見たことがあるでしょうか。
それをよく見ると、羽一本のデザインの完璧さに、心底驚かされます。
そしてそれを手にしたときに最も感動するのは、その「軽さ」です。
そしてその羽が体から生え出て一つの美しい「翼」を形成し、それは飛ぶための力学的デザインの条件をも完璧に満たしているのです。
神はそれをよしと見られた・・。
神の創造は「美の極み」なんですね。
アーティスト・・絵画も、舞踏も、音楽も、詩も・・、彼らがしていることは、神が創造したものの再現なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、
また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
夕があり、朝があった。第四日。"
創世記 1章16~19節
第一日目に神はすでに「昼」と「夜」を造られたとあります。(5節)
この昼と夜というのは、光と闇という「概念」の創造。
そして第四日目に、神は私たちが実際に目で見ることのできる「光」を造られたというわけです。
その具体的な記述が、この第四日目の後半です。
最後に出てくる「星」・・、それは、その一つ一つが渦巻き状になって形成されている気の遠くなるようなスケールの銀河、そしてその銀河によって形成される銀河群、さらにそれらが集まる銀河団、さらにその銀河団が集まる超銀河団があるというのです。
そしてそれらの銀河集団が「泡」のような形で存在することによってこの宇宙空間ができあがっているということが、実際の観測によって分かってきているというのです。
しかし地球上で生活する私たちにとっては、この「二つの大きな光る物」の方が身近な存在です。
この大小の二つの物を使って、神は目で見ることができる「昼」と「夜」とを造られたというのです。
さて、私たちが空を見上げたとき、この二つの大きな光る物、すなわち太陽と月は「見えるサイズ」としてはほとんど同じ大きさなんですね。
あるときは皆既日食となり、あるときは金環食となる・・。
ということは、神はこの実際には遥かに違うサイズの二つの大きな光る物を、ほぼ同じ大きさに見える「大きな光る物」として天に置かれたということになります。
天地創造の経緯の、このようなほんのちょっとした記述を見ても、私たちは身震いしそうになりますね。
創造主の御名をほめたたえます。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【私たちの国籍は天にあります】 です。
GraceCafeたいむ #106
https://www.youtube.com/watch?v=AhBlceLMMis
God Bless You !
" 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。
また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。"
創世記 1章14~15節
この14-15節は、「神が言われたこと」です。
そしてこのあとの16節にその具体的な出来事、すなわち太陽と月(ふたつの大きな光る物)、そして星を作られたという記述が出てきます。
神がここで命じられたことは、光の存在。そしてその光は天空に源があること。
そして、昼と夜。そして時刻、一日、そして年という「時間の概念」が実際に手に取る形で存在するようにということでした。
神はここで初めて、実際に粒子として飛んでいく「光」を作られたのです。
そしてその光の源を天の大空に置くことにされたわけです。
そして同時に神は、昼と夜、時刻、一日、そして年という「時間の概念」を実際に見える形で造られたというわけです。
神は、創造の初めから「第一日目」ということばをもって、時間の概念を造られていました。(1-3節)
そして三日目には「光あれ」と言われて光の概念を造られていました。
神はそれらをこの第四日目に実際に形とされたというわけです。
概念の段階で、それはすでに被造物なんですね。
天地創造の初め以前・・、そこには「無」さえなかったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。
地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。"
創世記 1章11~12節
神は三日目に植物を創造されました。しかしそこにはまだ、太陽がないのです。
太陽はこのあとの四日目に天に据えられます。
しかし植物というのは、太陽による光合成がなければ存在し得ないものです。
太陽がない段階で、神は植物を造られたというのです。
これは科学的に見るなら、どう見ても矛盾していることです。
人間の知恵で自然界を解き明かそうとする「科学」は、何事にも原因があるという考え方です。
ですから、宇宙空間の存在に関しても、「ビッグバン」という「はじめの段階」という仮説を作らなければならないし、人間の存在にしても、最初にアミノ酸というものの「偶発的な発生」という仮説から始めて「進化論」としなければ成り立たないのです。
聖書によるこの天地創造のステップは、まるでそのことを無視しているようです。
でもこのことは、ある一つのことを明確に示しているんですね。
それは、はじめの段階の「原因」は、創造主なる神にあるとのだいうことです。
順序立てて説明できるから、初めてそれが真理だと言えるのかというと、そうではないと言っているのです。
天地創造というのは、絶対無から絶対有を生み出すという、全能の神による「創造」のみわざなのです。
信仰・・、それはこの当たり前とされている科学的思考方法を、無意識のうちに飛び越えるという、一種の「離れわざ」なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。
神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。"
創世記 1章9~10節
神は三日目に「乾いた所」すなわち「地」を造られました。
それまで地は、全面が水で覆われていました。
ということは、このことを科学的な見地で考えるなら、地球の一部が隆起して高低差ができ、陸地と海ができたということになります。
ここでまた、あのノアの洪水のことを思い起こしてしまいます。
ノアの洪水の時には「上の水」がすべて降り注いだことにより、せっかくできた陸地が再び水で覆われしまったわけです。
そのときには、浅い所でも水深7メートルあまりになったと記されています。(創世記7:20)
箱舟は半年間海を漂い、半年経ったときに海の水は減り始め、結局ほぼ一年間、ノアとその家族は箱舟の中にいたことになります。
ここで再び陸地ができたわけです。
ということは、半年かけて天の水がすべて地に落ち、さらに半年かけて大規模な地殻変動が地球全体に起きたということになるわけです。
その結果、エベレストのような天にそびえ立つ山々やマリアナ海溝のような海の深みができた・・。
現にエベレストなどの最高峰の山々から、海の生物の化石が出てくるんですね。
私たちを囲む自然界・・、その一つ一つは神が天地万物を造られた全能の神であることを、見せてくれているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。"
創世記 1章6~8節
神の創造のみわざの第二日目。
はじめの地球の状態は、その全域を水が覆っていたと書かれています。(2節)
そして神は「大気」すなわち空気のある空間を、その水の中に造られたというのです。
そして水はこの大気によって二つに分けられ、大気の下と、そして上も水があったというのです。
神は、このあとに太陽を造られています。(16節)
ですからその時に「上の水」は雲となり、地球全体は雲ですっぽり覆われた温室のようになった・・。
そうだとするとあの「ノアの洪水」・・、それはこの「上にある水」のバランスが完全に崩れてしまい、その水がすべて地に落ちたその時なのではないか。
そしてその洪水の時まで生きた人の寿命が何百歳であったというのは、直射日光が当たらない温室のような温暖な気候のためなのではないか・・。
そしてエデンの園はその温暖な気候の中で、一年中実に様々な果実を実らせる木で満ち、アダムとエバは裸で生活していた・・。
そしてあの洪水により「上の水」は消え去り、初めて太陽が地にその姿を見せたそのとき、虹が出た(9章12-16節)・・と、なんとなく全体がつながってきます。
しかしある程度までは科学的な見方で理解することもできますが、それですべてを説明しようとすると、返って創造のみわざを見えなくしてしまうかもしれません。
神は被造物である私たち人間の想像の域をはるかに超えた全能の「神」なのです。
ですからその神のみわざも、私たちの知識の範囲にとどめてはならないのです。
私たちは信仰によって、初めて神を知ることができるのです。
ですから信仰によって、この創造のみわざも受け止めなければいけないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章3~5節
この箇所を読むと、創造の第一目に、神は太陽を造られたのかと思ってしまいます。
しかしこのあとを読んでいけば分かるように、実際に天空に輝く太陽や星が創造されたのは第四日目なんですね。
では「光、あれ。」と言われてできたこの光とは何のことでしょうか。
まだ天地を実際に照らす光の源はなかったのです。
ヨハネの黙示録の最後に出てくる「新天新地」・・、その様子を記していることばの中に次のような箇所があります。
" もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。" (ヨハネの黙示録 22:5)
第一日目に造られた光・・、それは神の存在として表わされた「光」だということになります。
そしてその光を神は「良し」と見られ、その「光」と「闇」が異なる領域のものであることを定められたというわけです。
神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられたとありますが、このときまだ太陽はないのです。
ですからこの「昼」と「夜」も、太陽による昼と夜というのとは異なる概念で使われていることばであるということになります。
さて、ここで「第一日」ということばが出てきます。
「時間」・・、実はこれも神が創造の初めに造られたものなんですね。
神の存在としての光、また時間、そして空間も、これらはすべて被造物であり、それらは第一日目に造られたものだというわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。"
創世記 1章2節
神はまず、どうしてこんなに大きな入れ物が必要なのかと思うほどの果てしのない宇宙空間と、その中にぽつんと「地」すなわち地球を造られました。
それが1章の1節に書かれていることです。
はじめ、その地球は「闇が大水の面の上にあり」と書かれています。
すなわちこの時点で地球は、闇で覆われており、その表面は水で覆われていたというわけです。
ということは、陸地はなかったということになります。
そしてその水の面・・すなわち、地球全面にわたって「神の霊」が動いていたというのです。
「神」についての理解として私たちは、「三位一体(さんみいったい)」ということばを使います。
神には三つの「位格 (形態) 」があるのですが、それは三つの神を意味するのではなく、それが神として一つの存在だという捉え方です。
その一つ目は、天地万物を造られた創造主である「父なる神」。
二つ目が、人が神とコンタクトを取るために父が遣わされる「神の子なるキリスト」。
三つ目が、神の力を直接地上に、そして人にもたらす神の霊・・「聖霊あるいは御霊(みたま)」。
1節には父なる神が登場します。そしてこの2節にこの「聖霊」がさっそく登場するんですね。
この「神の霊」が「水の面を動いていた」・・、それは地球全体に、神はその御力(みちから)をもって働きかけようとしているということを示しているようです。
いよいよその天地という器の中に満たされる「万物」の創造の始まりです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" はじめに神が天と地を創造された。"
創世記 1章1節
創世記1章1節の三回目です。
「天」ということばは、聖書ではいろいろな箇所で使われていますが、それにはいくつかの意味があります。
先ずは「神の領域」という意味での天。そして大空、さらには宇宙空間としての天。
ここで言われる「天」は、その宇宙そのものを指しているわけです。
この宇宙は、われわれ人類が未だにその端までを見ることが出来ないでいる、神秘中の神秘と言える存在です。
「地」とは、このあとの文脈を見れば、それは地球を指していることがわかります。
天と地・・それは地球とそこにある砂粒のひとつ、いやもっと小さな「ほこり」くらいの、比べることさえ馬鹿馬鹿しくなるようなスケール違いが、そこにはあるわけです。
しかもその「ほこり」というのは立派な物質であって、ほこりひとつでさえも無数の原子が組み合わさってできているわけです。さらにその原子には原子核とその周りを回る電子があるというのです。さらにその原子核は陽子と中性子とでできているという、ここにも気の遠くなるようなスケールの違いがあるのです。
ですから、たとえば中性子から見た地球・・、それが人から見た宇宙のようなものだと言っても良いのではないでしょうか。
神が造られたもののスケールとは、その様なものなんですね。
この「天と地」の創造主・・それが「神」だというのです。
聖書の神は実に怖れるべき方、全知全能の神、天地万物の創造主なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" はじめに神が天と地を創造された。"
創世記 1章1節
この創世記1章1節、この一行だけで人生がひっくり返ってしまったという話を聞いたことがあります。
人は「神」ということばを様々な場面で使いますが、決してその神を本当に「神」とは思っていない。ただ神ということばを使っているだけなのです。そしてそのことにさえ気付いていない・・。
人が「神の存在を信じる」というのは、並大抵のことではないのです。
けれどもそれが、この短いことばでひっくり返ってしまったというのです。
それは、この短い一行の中に「神が」ということばがあったからです。
人はいつも「神は」と言って、神を評価しようとします。
ですからそこには当然「絶対」はなく、人の考えによって神観は変わり、それは実に多様なものとして存在しているわけです。
しかし神が本当に「生ける神、創造主なる神」なら、すべては神から発せられているのです。
この聖書のことばも、神からのことばであり、そこから始まって黙示録にいたるすべてが、神が書かせた情報だと、聖書は言っているのです。
聖書のことばは評するものではなくて、受け取るか受け取らないかしかないのです。
"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"
(イザヤ書45:22)
これを見出すだけで人の存在とその歩みのすべては、全く新しい、不動の、そして永遠のものへと変えられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" はじめに神が天と地を創造された。"
創世記 1章1節
今回から創世記を追って見ていきたいと思います。
この聖書の最初の一行・・、この短い一行の中には、いくつもの情報があります。
先ずは「はじめに」・・
このことばは、今私たちが感じ取っているこの世界、それは宇宙の果てまでをも含めて、それに始まりがあったということを宣言していることばです。
さらに聖書には、神ご自身が言われたこととして、「わたしは初めであり、終わりである」、また「わたしはアルファであり、オメガである」、また「最初であり、最後である」と記されている箇所がいくつもあります。(イザヤ44:6、黙示録22:13ほか)
要するに、この世にははじめがあり、そして終わりがあるというのです。
そしてその始めと終わりは、この創造主である神がその両方をつかさどられるということを、神ご自身が宣言しておられるということです。
さらに黙示録によれば、この世の終わりがあって、その先には永遠の新天新地が与えられると記されているのです。(黙示録21:1)
実に聖書には、神の計画の全体を見ることができる物差しが示されているのです。
初め、終わり、そして永遠・・
その物差しの上で聖書を読み進む時、それを読む私たちが生きる「今」についても、新しい意味が見えてくるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。"
使徒の働き 28章30~31節
とうとう「使徒の働き」の最後まで来ました。
パウロはローマでとにかく自由に二年間、何の障害もなく福音を宣べ伝えることができたようです。
福音は、ローマ帝国の中心地にしっかりと根付いたわけです。
これまでのパウロの旅・・、それはいのちがいくつあっても足りない、波乱に満ちた旅の連続でした。
しかしパウロは、あのダマスコの途上で天からの光に打たれて以来、ある存在により突き動かされるようにしてここまで来たのでした。
それは「聖霊」すなわち、ともにいて語りかけ、導いてくださるお方・・。
このお方と共に、文字通り突き動かされるがごとくにして、この生涯を終えたんですね。
それは「神の御心と共に歩んだ生涯」でした。
私たちクリスチャンにも、この聖霊(御霊/みたま)が、いつも伴っていてくださいます。
その聖霊との交わりを深めるとき、聖霊はあなたの上にある御心を示し始められるのです。
そして、あなたがそれに逆らいさえしなければ、あなたのこれからの歩みは、あなたが思ってもいなかったダイナミックな、そして光の中を喜びに満ちて歩む生涯が約束されているのです。
祈りを通して、またみことばによって、御霊との交流を深めていきましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
* これにて「聖霊の働き」のシリーズは終了します。
次回からは、創世記を見ていこうと思っています。
お楽しみに。
" ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」"
使徒の働き 28章28節
パウロはローマのユダヤ人達に朝から晩まで、あの十字架にかけられたイエスこそが聖書に書かれているキリストであることを、モーセ五書や預言書のことばを引用しながら懇切丁寧に話しました。
ユダヤ人は皆聖書に通じていますから、聖書のことばを引用してイエスがキリストであることを論証されたら、否定のしようがないはずなのです。
そこにはキリストについての具体的なこと、すなわち、生まれる場所、活動する場所、十字架にかかられることとその有様、そしてよみがえられること・・すべてが書かれているのです。
ところが・・ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった・・。(24節)
それでパウロは最後にイザヤ書を引用し、あなたがたはここに書かれてある「聞いても悟らないし、見てもわからない。」、まさにその人なのだと、彼らに向かって言い放ちます。
そしてさらに言ったのが今日の箇所・・「神のこの救いは、異邦人に送られました。」です。
イエス様ご自身も、このことを指して「先の者が後になる」と言っておられます。
それは、キリストを受け入れないユダヤ人たちが、クリスチャンとなった同胞をひどく迫害したことでクリスチャンが全世界に散っていき、そのことによって福音がまず異邦人広がっていく・・。
そして最後になって、ユダヤ人がクリスチャンとなって戻ってくるという意味です。
要するにこれらのことは、初めから定められていた神のご計画だというのです。
イザヤを通して、イエス様のことばを通して、パウロを通して・・神のご計画はすでに聖書に記されているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。"
使徒の働き 28章23~24節
噂に聞いていたパウロがいるというので、ローマにいる大勢のユダヤ人たちがやってきました。
ここでパウロが語ったことを見ると、イエス様がよみがえられたあとにエマオという村に向かっていた二人の弟子たちに起こった、あの出来事を思い起こします。(ルカ24章参照)
二人の弟子はよみがえられたイエス様に会っても、それがイエス様だとは分かりませんでした。
イエス様は、十字架とよみがえりのことを何回も話しておられたにもかかわらずピント来ていない弟子たちを嘆き、そして話されたこと・・、それは「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあること」でした。
これこそが、パウロが話したことでした。
それはまさに、聖書に預言されているキリストが今現れたのだ・・という話です。
しかしその話を聞いても、ある人は受け入れましたが、他の人たちは信じようとしませんでした。
エマオの途上の二人の弟子の目が開かれ、目の前にいるのがイエス様だと分かったのは、イエス様がパンを裂き、神をほめたたえるその姿を見たときでした。
話を聞き、そして目が開かれる・・それはもう「恵み」としか言いようのないことであることがわかります。
神の恵みがあなたの上にありますように・・God Bless You !
それは単なるあいさつの言葉ではなく、私たちクリスチャンの切実な願いなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福(恵み)があなたの上にありますように!)
" そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」"
使徒の働き 28章20節
パウロはローマで早速、ユダヤ人のおもだった人たちを集めて話を始めました。
「イスラエルの望みのため」・・それはどういうことでしょうか。
話はさかのぼりますが、イエス様が公生涯を始められるに先立って、バプテスマのヨハネという人が民に向かって叫んでいました。
" 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。" (マタイ3:10-11)
それは聖書の随所に記されているキリスト/メシヤ(救世主)が、今まさに来こようとしているという預言でした。
そしてそれは同時に、イスラエルはもはや「良い実を結ばない木」となって切り倒されようとしているという警告でもあったのです。
実際にAD70年に、エルサレムの神殿は完全に破壊されてしまい、ユダヤ人達は世界中に散っていくのです。
しかし同時に起きたこと・・、それがキリストによる永遠の赦しと救いがイスラエルの民に与えられたということなんですね。
これがパウロの言う「イスラエルの望み」です。
そしてそれはイスラエルだけではなく、現代の全世界の人々の上にも「滅びからの救い」として天から啓示され、世界中で叫ばれているのです。
福音は、終わりの時に与えられた「すべての民の望み」なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 私たちがローマに入ったとき、パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。"
使徒の働き 28章16節
パウロは主が語られたとおりに、遂にローマに着きました。(23:11)
ここに至るまでの一つ一つの出来事を振り返ってみると・・、
まず、無罪で釈放されてしまったら命の危険にさらされる身であったパウロは、カエサルに上訴したことで、結局兵士の護衛付きという形でローマまで行くことができたわけです。
その船旅の途中クレタ島にて、パウロの難破の予告よりも船長の方を信用した百人隊長ユリウスは船を出させてしまいます。
ところがパウロが警告したとおり、船は大嵐に見舞われ、何日にもわたる暗黒の中で、人々は絶望の淵に立ったされることになりますが、そこでパウロは「全員が助かる」という神のことばを皆の前で語る機会が与えられます。
結局は暗礁に乗り上げた船から、全員がマルタ島に泳いで上陸し、この神のことばは実現するのです。
さらにこのマルタ島で、パウロはまむしに咬まれてしまうのですが、パウロが死ななかったことことがきっかけになり、パウロの手によって島にいる病人がみな癒やされるという、神のみわざを人々が見ることになります。
おまけにその島民が必要なものをすべて与えてくれて、パウロたちはローマへの旅を続けることができたのです。
百人隊長ユリウスは、自分の誤った判断があったにもかかわらず、神が言われたことは実現するという、その一部始終を見たのです。
このパウロのほとんど自由人に近い特別待遇は、そんなことでもなければあり得ないことです。しかも監視の兵士は結局、パウロ護衛の役割までも果たしていたのです。
神は、信じて従おうとする者には、すべてを備えてくださるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマにやって来た。
ローマからは、私たちのことを聞いた兄弟たちが、アピイ・フォルムとトレス・タベルネまで、私たちを迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。"
使徒の働き 28章14~15節
マルタ島で冬を越していた船が、やっと運行を始めます。
百人隊長は囚人たちをその船に乗せ、船は順調に航行し、ローマから200キロあまり南にある港町プテオリで上陸した・・それが今日の箇所です。
そこにはすでに教会があったようです。彼らは「兄弟たち」を見つけました。恐らく同行していた著者のルカが見つけてきたのでしょう。
パウロがまだ行ったことのないこの地に、教会がすでにできていたのです。
しかもこのあと、ローマに向かう途中で「ローマの兄弟たち」がパウロのことを聞きつけ、迎えに来てくれたというのです。
パウロは自分が知らないところで、これほどまでに福音が広がっているのを目の当たりにしたのです。
パウロは主を見上げ、感謝をささげました。そしてそれは、自分が今まで苦難の中でしてきたことの結果でもありました。パウロが勇気づけられたことは言うまでもありません。
ところでこの町(プテオリ)に「勧められるままに」七日間滞在したとあります。
どうしてそんなことが可能だったのでしょうか。パウロは囚人です。そして他にも囚人がいたはずです。
これは書かれてはいないことですが、百人隊長も、ほかの囚人たちも、皆が主イエス・キリストを信じる者になっていた・・、そうでなければあり得ないことだと思いませんか。
これ、みんな聖霊の働きなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)