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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内など・・・

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【 助けを求める心 】

私はクリスチャンと言われる人間に属する者です。しかし28歳以前はその気のまったくない者でした。通りを歩いていても教会とか十字架とかにはなんの興味もなく、それらはただの自然の景色の一部でしかありませんでした。日本では神とか罪とか言われても、ほとんどの人が自分には99%関係ないという感覚なのだと思います。私もそのひとりで、そんな私が神という存在に目を向けさせられた・・そう、向けさせられたという表現が適切だと思います・・のは、あるとても辛い体験をし、そのことが自分の力では処理しきれず、ノイローゼ状態に陥ったことを通してでした。エリート進学校から大学ヘ進み、間も無くミュージシャンの道へと自ら脱線し、あっという間にミュージシャンの世界では自分の行きたいところに上り詰めました。そんな矢先のことです。それまでは自分が好きなようにしてそこまで来たので、自分自身がコントロール不能になることなど、考えてもみませんでした。自分が考えたり、息を吸ったり、決断したり・・それらを当たり前のこととして、なんの疑いも持たずに28歳まで来ました。
 そんな自分本位の座から引き剥がされるようにして、私は今までとは全く違う視点で物を見る者へと変えられたというわけです。私は自分を中心として外を見ることしかしていませんでした。そんな私の視点の土台がどうもあのノイローゼ事件で砕かれてしまったらしいのです。困難を乗り越えながら自分の努力とか才能に恵まれて成功を勝ち得て来た人間って、神を認めたりすることなどほとんど有り得ないのかもしれません。彼は宇宙を作られた創造者など信じようとしないだろうし、神の存在自体も自分の理解の中で完結させようとするのではないかと思うのです。要するに自信があり、自分の理解の中で全てが解決してしまっている人がその世界観から外へ出ることなどあり得ないし、その世界観というのは堅固な城壁のようにちょっとやそっとのことでは壊れ得ないものだと思うのです。そんな硬い壁は外から思い切りハンマーで叩き割らなければ、外へ出ることはまずないと思います。(それまでの私の話ですが)  大体自分が被造物などという感覚は全くない。これは重大なポイントです。被造物という言葉の通り、自分が何者かの手によって作られたのだとしたら、それを認めないということは、子が親に向かって「あんたなんて親じゃないよ。」と言っているのと同じ状態です。仮に被造物でも何でもなく、はっきりした意志もない自然の力によって生命が生まれたのだとしたら、そうやって奇跡的に出来上がった命は、滅びることのないように最善を尽して大切にするのが人類の責務となるでしょう。しかし神が人を造られたのだとしたら、命を守るのも滅ぼすのも神です。その時には、人は神と自分との関係に目を向けることが先ず第一の責務となるのではないでしょうか。神は、人とはまったく次元の異なる、まさしく人知のレベルを圧倒的に超えた全知全能の神であるという存在です。その神が人との関係を神の側から持とうとされてきた、その有様が聖書には綴られているんですね。それに対し私たちは、自分が完全に宇宙の中心となっていて、神のイメージについても勝手な見方をしている。結局「神」とか言いながら、自分の手で偶像の神を作り出すことさえしてしまう。これって逆なんですよと言っているのが聖書です。造り主なる神が愛をもって、祝福を得させようとして、忍耐をもって導いてきたんです。ところがまことの父なる神に対し、お前じゃなくて他の神がいいと言い続けて、後ろ足で砂をかけ続けた神の民。そして、最後にはご自分のひとり子を遣わしてすべての人に対する完全なる赦しと愛を表された父に対して「オレとは関係がない」と言ってしまう。これが聖書が言っている罪人のスタンスです。聖書はすべての人は罪人だと言っています。神との関係の中に本当のいのちがあるのに、神との交わりを絶ってしまっている状態。これが私たちの生まれつきの姿だというのです。必要なのは、本当の父と子の関係が回復することなのだと言っているのが聖書なのです。
 私はこういう自分の立ち位置から引き剥がされるようにして・・と書きました。ちょっとくらいのことでは引き剥がされるなんてことは起こりえない。自分に絶望してこれ以上考えたくもないような怒りや、ぐるぐる回る気持ちの悪い思いに支配されるという。今まで自分だと思っていたものが、どこかへ行ってしまうという生まれて初めての経験を通して、自分本位の視点が壊れてしまうという。自分の意思や努力や学びでは得ることのできないとても貴重な機会をいただいたというわけです。外からハンマーで叩き割られるなどということは、自分では選択できないです。そしてそこでいただいたもの・・、それは「助けを求める心」と言って良いかもしれません。イエス様のことばにこんなのがあります。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。新約聖書マタイによる福音書 11章28節

 私はうっすらと神を求めていました。私は自分の罪をうっすらと感じていて、今自分が立っている世界とは違う世界もあるのだということも何となく感じていました。私には帰るべきどこかがあるように感じていたのだと思います。私がその時、助けはここにあるのではないかと興味を持ったのが「呪術」と「聖書」でした。呪術はとても興味深いもので、直感的に「ある別の世界」を感じさせるものでした。一方聖書は難しくて訳が分からないところもたくさんありましたが、新約聖書のイエス・キリストのことばには何か引きつけられるものがありました。そのうちに、ある一つの直感が私のうちに「やってきた」んですね。それは、呪術は暗黒で、聖書は光だ・・というものでした。これは確信として私の中にはっきり与えられたもので、それ以来私は呪術に関する本はすべて捨てて、聖書の方を自分の意志ではっきり選択しました。そしてこの聖書に書いてあることに心を開いて、受け取ってみようと思ったわけです。それが始まりだったんですね。当時の自分がどんな状態で、聖書に出会って何が起こって、自分がどうなったのかということを、今ではほぼ理解することができるようになりましたが、その当時はそのことがはっきりとは分かっていませんでした。それはひと言で言えば「イエス・キリストに出会った」ということです。
 上記のマタイ11章のイエス様のことばを見ると、休ませるのは物事の理解や知識などではなく「わたし」なのだと書いてあります。わたし・・って、イエス・キリストではないですか。自分を休ませてくれる「実体」がイエス・キリストなのだということですよね。何かが分かったから休めるということではないのです。「イエス・キリスト」があなたを休ませるというのです。このイエス・キリストは2000年前に十字架に掛けられて死んでしまって墓に葬られた。でも、三日の後によみがえって弟子たちに会われ、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいると、、そう言われたわけです。新約聖書の多くの部分を占める手紙の筆者パウロは、他の何よりもイエス・キリストが復活されて、本当に弟子たちに現れ、そして自分にも現れて下さったこと・・そこが一番重要で外せない事実なのだと言っています。私を助けてくれるこの「実体」なるイエス・キリストは、本当に私たちを助けて下さる方として存在するのだというわけです。泥棒に入られたら、警察に通報しなければならない。通報してから初めて助け手が来るんですね。実際に助けるのは警察なんです。警察が来るまで待つしかない。私たちがやることは警察に連絡するということです。私たちがやることは「わたしのところに来なさい」と書いてある通り、キリストのところに行くこと。そして助けるのはキリストです。だから必要なのは「イエス・キリストのところに行く」決断と行動です。具体的には何かというと、先ず、イエス・キリストの存在を本当のことだとして心に受けとめ、語りかけるという行動です。「イエス様、私はあなたのことを知りませんが、わたしのところに来なさいと言われるあなたを呼び求めます。イエス様、私を助けて下さい。」と祈る。(これは祈りの一例です) これがイエス・キリストのところに行くということです。
 必要なのは、助け主なるイエス・キリストと繋がることです。そのためには電話するか、そこへ行かなければならないんです。元気な人にとってはそんなことはばかげたことでしかないかも知れません。しかし、疲れた人、重荷を負っている人、絶望している人、死のうとしている人、怒りで自分をコントロール出来なくなっている人・・は、このことをすれば良いのです。私たちに求められる決断と行動は、休ませてあげると言われるイエス・キリストの存在を信じ「祈り」という電話をイエス様にかけることです。あとはその後をケアしてくれるところ=教会に行かれると良いでしょう。ひとりでその道を歩むのは様々な障害や困難がありますからね。
 二千年前、十字架に掛けられ、死んでよみがえり、天に上り、世の終わりまでいつまでも共にいて下さるというイエス・キリストに出会う・・。それは今のあなたにもあり得ることなのですよと叫んでいるのが新約聖書であり、教会であり、牧師や伝道者、そしてイエス・キリストに出会って新しい歩みを始めたクリスチャンたちなのです。こうしてイエス・キリストを呼び求めた者は、イエス様の十字架の苦しみと死と復活がまさに、自分の罪のための死と新しいいのちのための復活であること、即ちイエスご自身がいのちであり、すべてのすべてであることを知り、この苦しみを伴った赦しこそが無条件であなたを受け入れて下さる父なる神の愛のかたちであることを知るのです。イエス・キリストこそまことの父なる神との親子関係を回復するカギなのです。このまことの父は、自分から家を出て、放蕩三昧をして、文無しになってから初めて我に返り、家に帰る資格などないことが分かっていながら帰ってきた息子を喜び勇んで駆け寄り抱きしめてくれる父なのです。

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6節
 
 
2016.11.12.Sat 21:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 今年は秋がなく、気がついたらもう12月。この一年を振り返りますと、我が「TRIO’」の活動が余り出来ませんでした。それでも春と秋にツアーをやっています。お陰様で年が明けて13年目が始まります。2004年の1月に初めて顔合わせというその日にライブをやり、ついでにライブレコーディングもし、そのままツアーをやるという無謀な始動でしたが、ここまで続けることが出来ました。当初、ピアノの福田とベースの森はある程度演奏家として固まっている人たちなので、内容が変わるとしたらドラムの市原がどのような変化を見せるかというところにかかっている・・とそんなことを言っておりました。市原はジャズプレーヤーとしては何となく据わりが悪いと申しますか、固まってはいなかったと自分では思っています。いえ、思っているとかではなくて、実際に今までのことを思うと、随分変化してきたなぁと思います。ある意味では固まってきているような部分もありますが、それだけではなくて相変わらず、暗中模索を続け、結局浅薄なはかりごとから解放されるに従って、本来与えられているところの「自分でコントロール出来ない自分」をもって演奏するという領域に入っていくといったような歩みでした。それが出来ればTRIO’に限らず、どんな演奏の場においても、結構面白くなりそうで、今も面白くなる方向を向いているかなと・・私だけかも知れませんが・・そんな風に思っています。また今年は大野雄二さんのグループ(Yuji Ohno & Lupintic Six)に35年以上ぶりに返り咲き、今年は倍くらい多忙になりました。私が20代の頃に怖い物知らずでやりたい放題にやっていたその頃に大野さんは市原を買って下さって、実にいろいろな仕事もさせて下さいました。それが今こうして再び演奏をさせていただく中で、こんな風に熱意をもって扱って下さる人がいたんだと、改めて驚いていると言いますか、感謝していると言いますか、、私にとっては若い頃にはやんちゃしていたのが、もう一度やっていいよと言われているようで、何とも恵まれたことだなあと思っております。身体の方は良くこれだけやってこれたなと思うくらいで、支えられてきました。今年一年、応援して下さった方、また新しく出会った方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。来年も許されることなら、目一杯活動を続けていきたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 ちょっと前置きが長くなりました。ライブの詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜12月をご覧下さい。簡単にご案内させていただきますと・・
12/1(木) 塚山エリコ・オルガン4 沼袋/Organ Jazz 俱楽部
12/2(金) 金城寛文5 東京・菊川/な〜じゅ
12/3(土) 白根真理子 横浜/KAMOME
12/9(金) まきみちる 東京/内幸町ホール
12/10(土) Yuji Ohno & Lupintic Six 静岡県長泉町/文化センター ベルフォーレ
12/13(火) 歌声ペトラ 東京お茶の水/OCC8F チャペル
12/15(木) 大野雄二トリオ 東京お茶の水/NARU
12/18(日) Yuji Ohno & Lupintic Six 越谷/サンシティーホール
12/22(木) Yuji Ohno & Lupintic Six 上越市/上越文化会館
12/23(金) Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s 長野県塩尻/レザンホール
12/24(土) カルバリーチャペル国分寺 クリスマスコンサート 国分寺/Jesus Community
12/26(月) Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s 大阪/新歌舞伎座
12/27(火) Yuji Ohno & Lupintic Six 名古屋/ブルーノート

 「ドラマー市原康のキリスト教談義」7回目を近日中にこのブログにアップします。今回は「助けを求める心」というタイトルです。私が若い頃は助けを求めるなどということとは縁のない「鼻息の荒い」者だったようです。目を通していただけたらうれしいです。
 
 こちらも再々度のご案内。TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)、また、WIM/1.2.3(残り僅少)、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオ/Magical Misty Love
 市原宛のメールでご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担です。こんなの、他にありません。

 では、12月も、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。

 God Bless You !
  
 
2016.11.12.Sat 12:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 一夜にして晩秋がやってきたような気候ですが、皆様いかがお過ごしですか。市原は老体に鞭打ってがんばってます・・が、9月の頭にライブ情報を出さなければならないところが、あっという間に一月経ってしまい、10-11月号ということに相成りました。
 9月のTRIO’のツアーは全行程を無事終了いたしました。今までとはまたひと味違うTRIO’となったのではないかと思っております。ご来場、ありがとうございました。次回は来年6月を予定しています。どんなになっているか・・私自身楽しみです。
 さて、10,11月のライブですが、早速 Yuji Ohno & Lupintic Six が10/2(日) 伊丹・アイフォニックス(完売御礼)、10/7(金) 宇部市渡邊翁記念会館、10/8(土) はつかいち文化ホールと、三つ続きます。10/10は東京音楽大学のオープンキャンパス。全学科で実施されます。詳細は大学までお問い合わせ下さい。インストコースはgt,野呂一生、b,鳴瀬喜博と市原が担当いたします。10/14(金)は大野雄二SoulPeppers・・大野雄二トリオ+トランペットが入るジャズバージョン。横浜モーションブルーです。そして10/20(木)は大野雄二トリオ・・ウッドベースに上村信というジャズピアノトリオ。お茶の水ナルです。10/23(日)は再びYuji Ohno & Lupintic Six 兵庫県加東市・やしろ国際学習塾。そしてギャップ激しく、10/25(火)は普段着の賛美歌集会「歌声ペトラ」・・市原は司会と歌です。お茶の水クリスチャンセンター。
 11月に入りますと、11/5(土) 鳥たちの音楽祭「What is jazz ?!」ジャズってなあに?/レクチャーコンサートというのがあります。第一部はジャズ評論家の小川隆夫さんの講演、そして二部に地元鳥取出身の鉄筋彫刻家でお馴染みの徳持耕一郎さんをお迎えしてライブドローイングを交えたコンサートとなります。勿論お馴染み菊池ひみこpfを中心にギターの松本正嗣、東京からsax,近藤和彦、b,斉藤誠と市原が参加します。11/17(木)は昨年もやりました、ボジョレ・ヌーボーJazz & Dinner 東京浜松町のイタリアンレストラン「サンミケーレ」で行います。ゲストに久しぶりの市原ひかりtp、そしてpf,福田重男、b,金子健というメンバーです。11/18(金)は直居隆雄gtトリオ/東京沼袋・オルガンジャズ倶楽部 オルガンの河合代介を加えたトリオです。11/22(火)は歌声ペトラ、そして11/26(土)は新宿Jで「森の市松三重奏団」がゲストとして18:30-19:30の一時間だけやります。初めて公にするこの名前、、なんてことはない、森泰人bと市原dsと松本峰明pfのジャズのトリオ。初演となります。

 以上、詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜10-11月をご覧下さい。

 このブログで今年の4月から始めて6回目になります「ドラマー市原康のキリスト教談義」・・TRIO’のツアーの直前にアップしまして、何となく埋もれてしまった感がありますので、再度ご案内いたします。第6回は「イエス様のことばがまったく理解出来なかった人々」というタイトル。キリスト教に興味のない方とるれりりるクリスチャンの方の両方に向けて書いています。是非ご覧下さい。
 
 それからこちらも再度のご案内。TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)のCDは、市原宛のメールでご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担というお得なシステムです。また、各種旧譜も在庫がございます。WIM/1.2.3(残り僅少)、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオ/Magical Misty Loveのアルバム。すべて市原が参加しているものです。お問い合わせいただけましたら詳細をお知らせします。

 10-11月も、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。

 God Bless You !
 
 
2016.09.24.Sat 21:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)


1609談義2


 聖書(マタイ9:10-13)の中に、こんな出来事が記されています。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人(つみびと)が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 人々はイエス様のことを預言者だとかメシア=救世主などと言っていました。ところが神に遣わされたそのような特別な人が、同胞から不正に税金を取り立てて搾取している連中とか、罪をおかしたために病や貧困の生活をする脱落組と思われていた人たちと一緒に食事をしていたのです。厳格に律法を守っていたパリサイ人と言われる人々は、あんな連中は神からは程遠い存在だと思っていたようです。ところがあのイエスという人は、神に近づいたり礼拝したりする資格など全くないような人たちと一緒に食事をしている・・。神の前に自分は正しいと思っていたパリサイ人にとってはまったく意味のわからない光景だったわけです。それは彼らにとって当たり前だと思っていた考え方とはおよそかけ離れた、全く違う次元の世界だと言っても良いものでした。
イエス様が私たちに示されるのはいつもそういった類の、思いもよらない世界です。その最たるものがあの十字架です。これはあるひとつの謎が解けない限り決してわかり得ない究極の異次元の世界です。しかもその謎は数学や論理的な解説によっては解けない種類のもののようです。上記のイエス様の「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」ということばの中に、その謎を解くカギが隠されているように思います。

 厳格に神の律法を守るパリサイ人が、自分の価値観では到底理解できない光景に出くわしたというのが冒頭の記事の出来事です。そのパリサイ人に対してイエス様は、医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人だと言われ、いけにえをささげればそれで良しとしてしまい、あわれみというものを忘れているあなたがたは自分をなんだと思っているのか。この人たちこそ助けが必要なのでしょう。顔を洗って出直していらっしゃいと戒められたわけです。そして「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われました。丈夫な者と正しい人、病人と罪人・・、ふたつのことばが重なるようにして語られています。結局丈夫な者/正しい人とは、自分を正しい者として、助けも何も必要だとは思っていない人。病人/罪人とは、明らかに助けを求めている人。自分を罪人と認め、神のあわれみ赦しを必要としている人、ということになるのではないでしょうか。結局「正しい人」とはパリサイ人のことを強烈に皮肉って言われたことばであって、「あなたがたは自分を正しいと思っているが、実はあなたがたは今も神の赦しを必要としている罪人であることに全く気が付いていない」ということをイエス様は言われているのではないでしょうか。
 罪の本質は、自分を造られた神を認めていないところにあります。神を無視し、自分が神の位置に立とうする究極の傲慢の性質を帯びたその結果は、自己中心、敵意、憎しみ、怒り、殺人、不品行、無視、、数えればきりがありません。自分の中にそんなものはないと言うなら、それは自分を偽っているのだと聖書は断言しています。要するにすべての人が例外なく罪人だと言っているのです。ところがイエス様がこの時言われた「罪人」とは、すべての人=罪人という意味での罪人ではなくて、「自分が罪人であることを認識している人」のことを指しているようです。イエス様はすべての人のために神の愛のメッセージを届けに来られたのに、そんな必要はないと言う「丈夫な人」と、哀れな私を助けて下さいと救いを求める「病人」とがいて、イエス様が招かれるのは助けを求める病人/罪人の方だというのがこの話のようです。


 私が40年近く前、聖書を読み始めて最初に目が止まったところ。それは罪に関するところでした。

マタイによる福音書 7章:1~4節
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

・・もうひとつ、似たような記述があります。前者はイエス様のことばですが、これは使徒パウロのことばです。

ローマ人への手紙 5章1~5節
 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 私は人を裁くことを日常的にやっていたことに気がつきました。「兄弟の目のちり」とは兄弟にある小さな問題点で、梁とはそれにこだわり、そのことに気を取られる・・、そのような自分の心の中にある動かしがたい偏見。この裁き見る心の方がはるかに大きな問題点であり、しかもそれが動かしがたい大きな柱として自分の中にあることが分かりました。そしてそれが「罪」なのだと気がついたのです。

 罪に気がついていない人、罪を認めない人・・それは、このような罪の中にいながら、罪だとはまったく思っていない人。勿論私もそのひとりでした。これが一般的な罪人の姿です。イエス様はすべての人に「わたしは罪人を招くために来たのです」と語られるのですが、彼らは自分を罪人だと認めていません。あのAmazing Grace の作者は奴隷商人をやっている間は自分のしていることを何とも思っていなかったのです。せっかくイエス様が招いて下さっていても、まさか自分と関係があるとは夢にも思わないわけで、その招きには全く気が付きません。しかし、一旦自分が罪人であることに目を向けると状況は一変します。罪人とは神に背を向けている人のことです。その人が罪人であることを認めるというのは、そこに神を認め、神の前に罪人としてひれ伏すということです。こうして人は初めて神と正しく向き合うということになります。そして、神の方に向きを変えたときに、予想を完全にひっくり返してしまうような神からの祝福のことばを聞くことになるのです。
 ・・「あなたの罪は赦されました。神はひとり子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に掛け、それを罪人のあなたが神の前に受けるべき罰の代わりとしてくださったのです。キリストが十字架にかかられたのは、父なる神のみこころに従ってのことでした。キリストは十字架で苦しみを受け、死んで三日の後、よみがえられて天に昇られた『生ける神の子なる神』です。誰でもイエス・キリストを救い主として信じた者は、十字架にかかられたキリストとともに古い自分が死に、罪を聖められ、復活されたキリストとともに新しく生まれ、永遠のいのちを与えられ、聖なる神と共に生きる者、天のすべての霊的祝福と永遠の住まいを受け継ぐ『神の子』とされたことを知るのです。こうしてあなたは死と苦悩、恐れ、不安、怒り、傷つく生活から解放され、光の中で喜び、永遠への希望をもって歩む者へと変えられるのです。神はこのために、ご自分のひとり子に激しい苦しみと死を負わせられました。これが神の愛のかたち、そして大きさです。神のもとにひとりが帰れば、天では天使たちの大歓声がわき上がるのです。」
 私たちには帰るところがあるのです。それは私たちを造られ、私たちが戻るのを準備万端整えて待って下さっている父なる神のみもとです。この天の父のみもとこそが、神から離れてしまった「迷える子羊」が帰るべく用意されている永遠の住まいなのです。

 聖書にこのように書いてあります。・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 (コリント人への手紙第二 12章3節)

 「三位一体の神」とは、父・子・聖霊という三つの「位格」=かたちを持ちながら、しかも唯一の神であるという意味です。そして神に関することは、神とのパイプが繋がった時点で注がれる聖霊によって初めて確信することが出来るというわけです。この聖霊によって私たちは自分の内に住まわれる主イエス・キリストを実感します。そして聖霊によって自分の罪の性質に光を当てられながら、愛なる神のかたちへと変えられて行く「クリスチャンの歩み」が始まるのです。しかしそのために通らなければいけない「神との関係の回復の入口」は、自分が神の前に罪人であることを認めることであって、他に入口はないのです。この入口こそがひとつしかない「狭き門」であるけれど、同時にすべての人に開かれている救いの門なのです。父なる神が御子イエス・キリストを地上に遣わされて実現された恵みの赦しである「十字架」の意味は、この門を通してしかわからないのです。
 
 
  
2016.09.08.Thu 01:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 いよいよTRIO’秋のツアーが始まります。と言っても今回は5箇所のみとなっています。どうぞお見逃しなく。

 途中5日ほど間が空きます。三人のスケジュールの都合でこのようになりました。その合間、福田も森も個別に活動をしていますので、そちらもチェックしてみて下さい。

 9/8(木) 高崎ケイノート
 9/9(金) 新潟ジャズフラッシュ
 9/10(土) 越生山猫軒
 9/16(金) 軽井沢ならの木
 9/17(土) 代官山レザール

 となっています。先月は以下のようにご案内させていただきました。

・・私がルパンバンドで以前のスタジオミュージシャンモードを少し思い出したところで、TRIO’にも何かしら変化があるかも知れません。もともとTRIO’は三人の微妙な世界の違いの融合から出来上がる世界なので、そのような意味でも楽しみです。・・と。
 多くて年に二回の活動。その間メンバーはそれぞれの活動をしていますので、いろいろ心境の変化などもあるかも知れませんね。それは私にとっても未知数です。また私自身の変化に二人がどのように応じてくれるかも未知数でして、お客様には完全未知数状態で臨ませていただく所存でございます。どうぞお楽しみに。
 高崎、新潟、越生、軽井沢、そして東京の皆様。皆様とひとときの「静かで熱い時間」を共に過ごすことが出来たらと、楽しみにしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 本来ならばこの時期に9-10月ご案内をさせていただくのですが、先ずは差し迫ったTRIO’のツアーのご案内をさせていただきました。

 つき一回のベースでアップしています「ドラマー市原康のキリスト教談義」・・間もなくアップ出来ると思います。どうぞお楽しみに。実は苦戦しておりました。

 ということで、TRIO’ 秋のツアー、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。


 TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)のCDは、市原宛のメールでもご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担となっています。また、各種旧譜も在庫がございます。WIM/1.2.3、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオのアルバムで市原が参加しているものです。是非ご利用下さい。

 ライブ詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜8-9月をご覧下さい。
2016.09.06.Tue 15:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 黒鯛プロデュースの芝居「テラバン」は盛況のうちに終了いたしました。普段の演奏では一体感というものを感じることが必須となりますが、慣れない芝居ではそれがすんなりいくわけではありません。しかも芝居のプロではない方々もキャストとして一緒にやっています。私もその一人ではありますが、演技についての技量も様々なこの面子が集まり、そして本番に向けて芝居をかためていく・・。結構ギリギリの作業でした。しかし、本番直前になって一体感というかスピードというか、そんなものを感じられるようになりました。勿論課題はそれぞれにあります。しかし、ひとつの生き物の、一人ひとりが体の器官のような存在で、その生き物を生かしていくという作業・・これが本当に面白いのだなあと改めて思わされました。芝居にのめり込んでいく人たちはそこに捕まるんでしょうね。キャストの中には弁護士だったのが、十数年前から芝居をやるようになり、今も両方をやっている。それも両方とも中途半端ではなさそうで、いろいろな人がいるものだなあと改めて思わされたという次第。二週間ほどは完全にこの芝居のモードに入ってやるわけですが、それが終わって休む間もなく今度はYUJI OHNO & LUPINTIC SIXの大阪と東京のビルボードでのライブ。一日二回ですから、四回を二日間でやる計算。最初は切り替えが出来ずに叱られました。(笑) でもこのユニット、一体感というものを思いっきり楽しめるユニットなのでこれからこなれていくステップがとても楽しみです。8月の後半には、奈良/橿原、舞鶴をやったあと、北海道ツアーに入ります。8/23(火) 大空町、24(水) 帯広、25(木) 札幌、27(土) 函館です。
 さて、9月に入りますと、TRIO’のツアーがあります。今回は合計5箇所と少なめです。しかも途中5日ほど間が空きます。三人のスケジュールの都合でこのようになりました。その合間、福田も森も個別に活動をしていますので、そちらもチェックしてみて下さい。9/8(木) 高崎ケイノート。9/9(金) 新潟ジャズフラッシュ。9/10(土) 越生山猫軒。9/16(金) 軽井沢ならの木。9/17(土) 代官山レザール。となっています。私がルパンバンドで以前のスタジオミュージシャンモードを少し思い出したところで、TRIO’にも何かしら変化があるかも知れません。もともとTRIO’は三人の微妙な世界の違いの融合から出来上がる世界なので、そのような意味でも楽しみです。
 8月は先月ご案内したとおりです。そして9月はTRIO’のツアーの他には9/2(金)/金城寛文5、今回ピアノは重久義明になります。9/3(土)/大野雄二SoulPeppers。大野雄二のジャズトリオにtp松島啓之が入るというパターン。稲城市立 iプラザ。うちの近くです(笑)。9/4(日) 古野光昭スペシャルセッション/横浜ドルフィー。9/13日(火)は月例の歌声ペトラ。9/19(月)はYUJI OHNO & LUPINTIC SIX/滋賀県栗東芸術文化会館。9/26(月)には、何年ぶりでしょうか、ギターの萩谷清のSLB(スーパーラテンブラザーズ)を六本木の新しいライブハウス KEYSTONE CLUB TOKYO でやります。それから9月の最終日30日(金)は毎年一回きりの「金城組」赤坂B♭。だいぶこなれてきて、今回はどんなになるかとても楽しみです。

 ということで、8-9月、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。
 7月の下旬でしたが、「ドラマー市原康のキリスト教談義」その5 「悪質メール撃退グッズ」というのをアップしています。どうぞご覧下さい。ttp://ichiharablog.blog83.fc2.com/
 
 それからもう一つ、TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)のCDは、市原宛のメールでもご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担となっています。また、各種旧譜も在庫がございます。WIM/1.2.3、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオのアルバムで市原が参加しているものですが、お問い合わせいただけましたら詳細をお知らせします。

 ライブ詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜8-9月をご覧下さい。
 
 
2016.08.06.Sat 10:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  1608談義

 気がつけば、パソコンによって本当に全てが支配される世の中になってしまいました。若い頃に、イギリスの産業革命の時代はどんなだっただろうと思ったことがありましたが、今自分はそんな時代のまっただ中に生きているわけで、そんなことは夢にも思いませんでしたね。先日新宿駅のプラットホームの端を歩いていたときに見たその光景は、歩いても歩いても並んで待っている人の実に8割ほどの人がスマホに目をやっているという、5年前ではあり得なかった光景でした。人との交流の密度が爆発的に高まり、それを寸暇を惜しんでやり続けているんです。あるいは、ゲームに夢中になっている。ゆっくり空を見る余裕、時間、ヒマなどは全くなさそうですね。
 そんなパソコン時代に私たちが悩まされるのは悪質メール、迷惑メールです。その多くはお金儲けや性的な欲求にエサをちらつかせ、入って行けば良い事などひとつもない泥沼、悪魔の巣窟という言葉がぴったりというような世界に引きずり込まれます。そんなメールが来るようになるきっかけは、私たちがその悪魔的な世界にチラッとでも足を踏み入れることによって始まるようです。コンピューター上で明らかにそのような世界とつながりを持てば勿論のこと、自分が気がつかないほどのところをかすっても敵はすかさずやってきます。コツコツ毎日働くアリの回りに無数の蟻地獄が穴を掘って待ち構えているような光景が目に浮かびます。
 わたしも過去に明らかにそのような世界に足を踏み入れてしまったことがあります。また今でも本当にアリ地獄はこんなところにもあるのかと思うほどに、気がつかないうちに足を取られそうになることがあります。明らかにそのような世界と関係を持てば、確実に無数の悪質メール、迷惑メールに悩まされることになります。家内のパソコンにもそのようなメールが来ますが、H系のメールはそれほど多くはないことを見ると、こちらから関係を持つ世界と深く関わっていることがよくわかります。今のわたしのパソコンにはほとんどそのようなメールが来なくなったのですが、それでも飽きもせずにせっせと送りつけてくるし、新しい筋のメールだなとわかるようなものもあります。だいぶ以前の話になりますが、このようなメールに対して、聖書のメッセージを返信し続けたことがあります。あるものは送信専用で、返信出来ないのですが、ものによっては明らかにこの返信が読まれいてるなという感触が得られる場合があります。要するに機械的にではなく、返信を読んでしまうようなやり方をしている発信者がいるということです。一時、この聖書のメッセージを返信し始めたとき、悪質メールが倍増したことが・・いや、倍増どころか一通の返信に対し気が狂ったようにメールが送られてくるようになったことがありました。わたしも負けずに、自分で書きためた聖書のメッセージを徹底的に送ったことがありました。そうしたらなんと、あるときぴたりとそれが止んだのです。神のことばは光です。悪い心に光が当たると、その薄汚さが明るみに出されてしまうので、もう耐えられなくなるのですね。ドラキュラが朝になると暗躍出来なくなるというあの西洋の話は、そのことを象徴的に現したものではないでしょうか。まあ、ドラキュラはどうでも良いとして、わたしはこのメールを受け取った人が、正面からそれを読んでくれることを心から願っています。いつしかこの返信メールが10パターン以上もたまってしまいました。今では、変なメールが来ると即、その中から選んで返信します。それはこれらの悪質な行為を撃退するというよりも、そのようなことに時間を費やしている人にまことの光というにふさわしい、神からのメッセージに心を開いてもらいたいという思いで、最近では、それ来たっ!・・といった感じですぐにこのいくつもあるパターンの中から見繕って返信をしています。もっと多くの悪質メール発信者にこれを読んでいただきたいのですが、最近ではめっきり静かになってしまいました。(笑)
 ここにその第一号をご紹介します。この文は明らかに自分が悪事をしていると認識している人に対して書いたものです。

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こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。・・聖書 マタイによる福音書 25:46

人のいのちは今の世だけのものではありません。神には一点の暗いところもありません。私たちはそこに帰るように招かれています。しかし私たちはあまりの罪の深さの故に神の怒りがその上にとどまり、滅び、苦しみの地獄に行くしかない哀れな者です。そのために神はみ子をこの地に遣わし、御子イエス・キリストは人のすべての罪を負って十字架に掛かるということをされました。そして死んでよみに下り、三日ののちによみがえり、天に上り、神の右の座について世の終わりまでいつまでも共にいてくださる。この方、イエス・キリストを救い主として信じる者はイエスと共に死んで、新しいいのちによみがえります。あの十字架は私たちの、あなたの罪のための刑罰なんです。私たちが悪いのに、神のみ子がその罪を負ってくださり、私たちの身代わりに罪の刑罰を負ってくださったと信じてイエス・キリストに従おうと心に決めた者は、すべての罪がゆるされ、新しいいのちを与えられ、光の中を歩むようになるのです。
私たちがどれだけ悪いか、それはあの十字架が語っています。あれが自分に相当な刑罰なんです。そのくらい悪い。あなただけではなく、すべての人が・・です。

今あなたは、悪の道から、すべてを赦し愛してくださる神のもとに帰りなさい。神はあなたをまったく新しく変えてくださいます。
十字架はあなたの罪の重さを表すと同時に、それを赦すためなので、私たちをゆるすためにあれだけの苦しみを受けてくださった・・その愛の大きさをも表しているものです。
今、目を開きなさい。我に帰りなさい。自分のことしか考えない姑息な道から、神の愛を人々に押し流して、光の道を人々に示す人へと変えられなさい。

 God Bless You !
 神の祝福があなたの上にありますように!

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 もし悪質メールでお悩みの方がおられましたら、これを使ってみて下さい。著作権フリーです。(笑) また、ご希望の方には、今までたまったものを全てプレゼントします。(笑)
 全てのことを通して、神の愛が押し流されていきますように願っています。
 
 
2016.07.25.Mon 11:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)
今回は5箇所のみ。9/8〜17です。

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2016.07.07.Thu 00:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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  いよいよ始まります。黒鯛プロデュース、第14回公演「テラバン」。7月28(木)〜31(日)、7回公演です。稽古が始まりました。改めてご注意申し上げますと、市原は役者をやります。・・なのですが、今回は演奏行為と言える部分が結構ありまして、、この黒鯛プロデュースの芝居をやらせていただいた当初に申しておりました、ミュージシャンが役者をやるみたいな中途半端なことはやりたくない・・といったようなとんがった考えはいつしか丸くなり、なんでもやりまっせモード全開の今回の公演でございます。どうぞお楽しみ下さい。チケットは市原まで、メールでもなんでもお申込みいただけましたら当日精算とさせていただきますので、お気軽にお申し越し下さい。がんばります・・。はい。

 Yuji Ohno & Lupintic Six・・始動いたしました。大きなホールが満員になるようなコンサートで新メンバーとしての、そしてドラマーとしての責任は結構プレッシャーがあるものですが、幸いいろいろな困難に直面 (笑) しながらも楽しんでやらせていただいています。芝居が終わり、8月には大阪と東京のビルボードライブ、そして奈良県橿原、京都府舞鶴に続き、北海道ツアー/網走大空町、帯広、札幌、函館と・・北海道は本当に久しぶりですので、楽しみです。また、大野雄二ピアノトリオとして、都内のライブハウスでもやります。お茶の水ナルで7/14(木).8/18(木)にやります。ベースは上村信。どうぞお楽しみに。

 その他、先月ご案内した7月の分と、8月は8/11(木)に国分寺のジーザスコミュニティ国分寺にて、毎年恒例のJAZZ+ゴスペル/夏のコンサートがあります。国分寺駅前、今年はいつもの会場が使用出来ず、いつも礼拝をしているその場所でのコンサートとなります。開演は1時半。入場無料です。毎月の歌声ペトラは7/12(火)と8/16(火)です。
 先ずは7/7(木) まきみちる&タイムファイブ/品川プリンス・ステラボール。7/9(土) Yuji Ohno & Lupintic Six/北九州黒崎ひびしんホール。7/15(金) 直居隆雄トリオ/沼袋オルガンジャズ倶楽部。7/18は市原よしみの子どもたちの発表会・・といっても、普通の発表会ではありませんでして、ゲストにワンツー・どんの歌のお姉さんとして4年間活躍した稲村なおこさんをお迎えし、サポートミュージシャンには市原とベースの小井政都志が参加するという贅沢な発表会。入場無料。お近くの方にはフラッとお寄りいただけます。
 
 急に暑い季節の気配がしてきましたが、7、8月、どうぞよろしく応援のほど、お願い申し上げます。

 それから、本家「TRIO’」。9月に短いツアーが決定しております。9/8(木) 高崎ケイノート。9/9(金) 新潟ジャズフラッシュ。9/10(土) 越生山猫軒。9/16(金) 軽井沢ならの木。9/17(土) 代官山レザール。チラシができ次第ご案内させていただきます。

 もうひとつ。先日、ドラマー市原康のキリスト教談義その4「信じることでしか出会えない神」をブログにアップしました。チラッと興味がある方には、読み始めるととても面白いと思います。是非ご覧になって下さい。6月28日付です。
 
 
2016.07.01.Fri 20:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  1607談義

 
【信じることでしか出会えない神】

 私の友人の科学者はこんなことをメールで書いてきました。前後は略してあります。
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 これは市原に何度も伝えたかもしれないけれど、神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
 そして、市原が言うとおり、神はあるかないかどちらかだ。
 でも、仮に神があるとすると、神は偉大すぎて人間などからは推し量れないほど大きい存在だ。
 三位一体という教義があり、市原の信仰がそれかどうかは知らない。
 でも、僕はイエスが神と一体などとは思わない。
 僕は曲がりなりにも科学に携わってきた人間で、疑って、疑って、疑って、それでも否定できないものだけが真理だと考えている。
 ただし、科学で推し量れないようなことは無限にある。
 宗教を持っている人はそれでもいい。
 ただし、僕自身は、神がいることは、人から見れば不可知なことだと思っていて、神を信じたりしない。
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 彼は(僕の目から見ればの話ですが)とにかく人やその他すべてのいのちに対して限りなく忠実に生きようとしている人で、僕が知る多くの人の中でもその徹底ぶりは稀有とも言えるような人物です。彼は神を全く信じようとしていないのですが、私が投げかけることばには忠実に応えようとしてくれています。上記の文の最後の行が特に印象的です。
・・僕自身は、神がいることは、人から見れば不可知なことだと思っていて・・
彼がいう通り神は不可知なんですね。なぜなら、これも彼が言っている言葉ですが、
・・仮に神があるとすると、神は偉大すぎて人間などからは推し量れないほど大きい存在だ。・・

同感です。神が創造者で人は被造物だったら人は神のことを「把握」できるというような立場には立てないですね。人の能力はまだまだ科学でも解明できていないところもあり、その奥深さは計り知れないものがあるそうですが、神がその私たちを造られたとなれば当然のこと、例え人がその能力を100%発揮したとしても、人という被造物がそれを造った神を把握するなどということは到底できないことです。これが神が完全なる創造者で人は完全なる被造物であるということの意味です。
 神は研究あるいは探求によって認知できるような存在ではないのです。人間の能力の限りを尽くして理論的に説明できたとしても、それこそ「絵に描いた餅」程度にはわかるかもしれませんが、どうあがいても「わかる」ことはかなわない存在。これこそが天地万物をつくられた創造者なる神なんですね。

宇宙の大きさの話を聞くと、本当に目眩がしてきます。神が天地を作られたという記述からはどう見てもこの地を中心として宇宙があるというように受け取れますが、この地球の大きさと宇宙の大きさを比べたら、この地球のために宇宙が存在するなどとは到底ばかげた考えのようにしか思えません。そんなことを思うとき、僕はこんなことを考えるんですね。もし自分が神で、宇宙と地球、そして人をはじめとする全ての生き物を作る存在で、ある計画をもってこの天地の始めから終わりまでを計画したとしたら・・。人間の能力がどの程度まで宇宙の謎を解くことができるかも知っているわけで、それに合わせて宇宙の大きさはどのくらいにするかなと考えるでしょう。そして人間が探求して見出すであろう宇宙の実体よりもほんの少しだけ大きいものにするんじゃないかな・・と。現在宇宙に関する人間の知識は、その端までをも見ようとする勢いで解明が進んでいますね。でもまだ謎だらけ・・。人間を宇宙の中で生きる者とするにはこれほど大きな宇宙が必要なんだなと・・そんなことを時々思ったりします。これは全く私の考えで余談に過ぎませんが・・。
 宇宙をつくったのが神でその同じ神が地球の上のさらにちっぽけな、一緒に住んでいてさえ忘れてしまうようなひとりひとりの「人」の存在を顧みられているというのは、これは理解を超えた、想像を超えた、人の想像力からすれば「あり得ない」世界です。

 神の存在は私たちの想像力をはるかに超えています。そんな神を人が見出すことなどあり得ないことです。しかし聖書の中に面白いことばがあります。「人には出来ないことが、神には出来るのです。」ルカの福音書18章27節 
人は自分の知恵では神を知りえないですが、神は人にご自身を現し、その存在を知らせること・・神が宇宙、地球、人を造られたのなら、神の側から人間にご自身を現すことは言うまでもなく可能なわけです。
ここが「信仰」という言葉を理解する上で大いに助けになるところです。人の知恵では分かりようがないのに神がそれを人に知らせる・・。先ほどの論法だとそれでも人は理解できないことになります。そこで神は人が神を知ることができるひとつのシステムを作られました。それが「信仰」です。その入口は「信じる」という行為。これも人間の知恵にとっては「想定外」ですね。頭や理屈で考えても「絵に描いた餅」。しかし信じた時、神は霊というレベルで人にご自身を現される。神がされることには驚かされるばかりです。因みに、この霊の領域というのは科学がほとんど手をつけられないでいる領域ですね。なんと、神を信じた者はこの霊の領域において神との交流を始めるんですね。これが「祈り」です。神との交流を始めた人は、神から語られたり神に語ったりするようになります。
旧約聖書の時代から神は人に「わたしが神である」と言い続けてきました。それに対して人の側では、それを信じたり拒否したりしてきたわけです。それは今でも変わりません。神は人に直接語ったり、また預言者(神のことばを預かって私たちに知らせる者。未来を予告する予言者ではない)を通して語ったりしてきました。さらに御子イエス・キリストを地上に送り、霊であり目には見えない神が人となり、神がどのようなお方なのかを示され、御子が十字架につけられて死んで三日ののちによみがえり、天にのぼり神の右に座しておられるということの意味を聖霊によって人々に教え、それから全世界に神からのメッセージが宣べ伝えられていきました。そして現在の私たちにはそれらのことを記した書物「聖書」によって、あるいは神が選ばれた器(宣教師とか牧師)によって私たちに語られているわけです。こうして神を受け入れなければ神との接点を持つことはできないが、神を信じる者の内に神はご自身を現す・・。そういうシステムを作られたんですね。

話はちょっと飛びますが、パウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって・・」ローマ人への手紙1章20節
と言っています。僕は随分以前にこの箇所を読んだとき、その意味が皆目分かりませんでした。神の永遠の力と神性は・・被造物によって・・はっきり認められる、というのです。ええっ?そこらへんのものを見ただけで神の存在を認める人なんかいないよ、と思っていました。でも今はまことにその通りだと思うようになりました。先日外を歩いていたらトンボが家の壁で行き場を失ってパタパタやっていました。それを横目に見ながら通り過ぎ様に頭に浮かんだことは。こんな透き通った2枚づつの羽根で空中を自由自在に飛べるものなど、どうして偶然の積み重ねでできるわけがあろうか・・。
よくこんな話をするのですが、目玉と視神経とそこから情報を受け取って映像の意味を把握する脳の機能。この三つのどの部位が最初に出来たと思いますか? よく考えるとこの三つはどの部位にしろ、単独で存在する理由などはどこにもないわけで、この三つが同時に立ち上がるのでなくて、ひとつひとつが長い年月をかけて進化によってできたとするなら、無意味なものが次の進化を待って何億年も存在するということになります。言うまでもありませんが、そんなことはあり得ないことです。進化論のばかばかしさに気がつかない方がおかしいでしょうと今では思うのです。この三つは同時に出来たとしか言いようのない存在です。すなわち、これを作った設計者が存在したという方が妥当だと考える方が僕は科学的だと思うのです。このことをパウロは「被造物によってはっきり認められる」と言っているわけです。余談ですが、神はデザインの天才ですね。花や虫や微生物ひとつをとっても、そのデザインたるや腰を抜かすほど驚異的です。しかもユーモアまであるというから「完全に参りました!」です。でもこの「科学的」な話でさえ、信仰を持って神を受け入れた人でなければ認めることが出来ないようです。

大体神が人を造っておいて、そのことを人に知らせないのなら創造の意味もピンと来ません。せっかく天地と人やあらゆる生き物をつくっておきながら、生き物、特に「ご自身の形に造られた人間」が自分を造られた神の存在もわからずに、なぜ生きているのかもわからずに、死の意味もわからずに、人類の運命がどうなるかもわからずに、それがいつしか滅びるのか、あるいは果てしなく続くのかもわからずにいるのをただ見ているだけで、その行く手に全く介入しないのだとしたら、神の「人格」というか「神格」を疑わなくてはなりません。神はただの気まぐれで天地万物と生き物を作ったのではない。創造には意味があるのです。
聖書はなんと言っているかというと、神が天地創造の初めから現在に至るまでの過去、そして未来の「世の終わり」とその後の新天新地に至るまで、神が人にご自身を現され、また現されるのみならず、この苦難の世を経て、最後の最後に生きている人と死んだ人との裁きを経て天の御国を作るというところまで、神の御手の中ですべてが進められるのだと宣言しています。

信じることでしか出会えない神というタイトルでこんな話になってしまいました。では「信じる」そして「神と出会う」ことに一体どんな意味があるのでしょう。そのことについてはキリスト教談義の3「罪人だと言われるとどうも・・」.をお読みになってみてください。私たちには帰るべき家があるのです。私たちはまことの父の家から出てしまった家出人=放蕩息子だという話です。

 
  
2016.06.28.Tue 23:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
   1606談義

しばらく文章の修正のためにこのページを閉じていました。
改めてアップさせていただきます。


「罪人だと言われるとどうも・・」

5月の二週間のTRIO'のライブツアーで「市原さんはクリスチャンですか?」と、何度か聞かれました。そういう方々とお話をして僕は、多くの人はキリスト教の「本当のところ」を聞きたいという気持ちが少なからずあるんだな感じました。このキリスト教談義もそういう思いから始めたわけです。
しかしキリスト教の話を聞こうとすると決まってあなたは罪人(つみびと)だと言われる。そしてその時点でもう何も聞きたくなくなってしまう。だから話す側もそれを恐れてか、あまりそういうことは言わないで「神はあなたを愛してますよ。」と言って、それ以上何も言えなかったりする。そうするとこれを受け取る側はかなり自分に都合の良いように受け取ることになるんですね。だいたい愛していると言われると、私のことが好きなんだと思う。確かに神は大好きなどというレベル以上に私たちすべての者を愛している。自分の子なのだから。ところがその子が家出をしてしまって、あんたなんか親じゃないよと言っているんですね。父なる神は愛する子を喜んでいるのではなくて、その子が遠くに行ってしまって悲しんでいるんです。「神はあなたを愛している」という言葉の中にはそういう意味が含まれているんですね。

 ここに「罪人」の意味を知る鍵があります。犯罪者は確かに罪人です。でも聖書にはすべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・(ローマ人への手紙3:23) と、すべての人が神から称賛されるような存在ではないと、きっぱり言い切っています。例えばマザーテレサだって例外ではないわけです。正確に言うと「例外ではなかった」。先日TRIO’のライブが終了したあとに、クリスチャンですか・・と聞かれたのでいろいろ話を始めました。その時に罪の話をしていて、「犯罪者だったら分かりやすいのですが、普通の善良な市民だとそれが分かりにくいんですよ」・・と話したんです。そうしたら、そんなことはない、自分が良いなどとはまったく思っていないと言うのです。
 何か感動的な話を聞いたときに「心が洗われました」と言う人がいますよね。あれは紛れもなく、自分の心は洗われる必要があるのだということを告白しているわけです。これはいったいどういうことなんでしょうか。自分の心が明るい、聖い、喜びに満たされているわけではなくて、苦いもので満ちていることが日常のことだと暗に言っているようです。

 聖書の最初の方に、アダムと禁断の実の話が出てきます。聖書の基本的な立場はこうです。神と正常な関係にある者は祝福、平安、喜び、そして完全に悪からの守りの中に置かれる。ところがアダムはそれを返上してしまったというのがあのエデンの園での出来事です。神と共に生き、その祝福の中で神を喜びながら生きるために神がアダムに命じたことはひとつでした。それは園の中央にあるリンゴの木・・ではなくて「善悪の知識の実」だけは取って食べてはならない・・というものでした。これを食べるとき、あなたは死ぬ・・神はそう言われたのです。ところが妻エバは悪魔にそそのかされて食べてしまう。そしてアダムも、妻が食べるのを制することもしないで自分も食べてしまうんですね。「必ず死ぬ」とは重大な情報でした。にもかかわらず神に背いたアダム。この時アダムは自分が享受していた神と共に生きる喜びの価値をまったく分かっていなかったのかもしれません。神が必ず死ぬと言われたことばの通り、善悪の知識の実を食べた瞬間に死んだのはこの神との関係だったんですね。(私たちはそれを霊的な死と言います) それこそが真のいのちでした。そしてアダムとエバは肉体的には死なず、善と悪を認識するようになった。善と悪を知る前は、アダムはもっぱら善の中に生き、悪を意識することさえなかった。それなのに善悪の知識の実を食べたアダムは、善悪を知った自分が悪を選んでしまうような者になっていることを目の当たりにするんです。それは、自分が神のことばに背きながら、その責任をエバに転嫁し、挙げ句の果てに自分のそばにエバを置いた神にのせいにまでするんです。エバはと言えば、アダムからこの実を食べてはいけないことを教わっていたのだから責任は自分にあるのに、悪魔に責任転嫁をしている。アダムとエバは今まで全く必要のなかった自己保身をする人間になっていました。このときからアダムとエバは、神の守りの御手の中に平安に生きるという限りなく大きな恵みから、自分を守ろうとするがゆえにさらに罪を重ねる「罪人」として、恐れ、不安、戦いの中で生きる道を歩み始めることになるんです。
 エバは「善悪を知れば神のようになる」という悪魔の声を受け取ってしまった結果、それがいかにも好ましいことと思えて食べてしまう。悪魔のささやきの一番のツボは「神のようになる」というところだったのではないでしょうか。人を造られたまことの神を絶対に認めようとしないのが罪人です。そしてもともと神の管轄である善悪の領域に立ち入り、神の座から神を追い出し、そこに自分が着こうとする。これが罪人の深い所にある願望なのではないでしょうか。「オレが神だ」と言う人・・結構います。どういうつもりで言っているのか、自分でも分かっていないのではないかと思うのですが、それは罪人の本質を自ら語っている姿に他なりません。そしてこの罪人の基本の姿は「最初の人」アダムからず~っと私たちに至るまでそうなんだと聖書は言っているわけです。
 アダム以来、世界の歴史は善悪を知りながら悪を選んでしまう哀れな人間の歴史だと言って良いのではないでしょうか。アダムの子どもたちは、早速兄弟同士で血を流し、人殺しをします。しかも「嫉妬」「自分が認められない」とかいうことが原因で人を殺すんです。これは今の私たちの姿そのものではないでしょうか。

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 「神」ということばをずっと使っていますが、神と言ってもそこら辺の神ではなくて、天地万物を創って、自分をも造って、いのちはその方の手の中にある・・そういう存在であり、又世の始めから終わりまでを一つの計画のもとに、その半分はすでに実行し、そしてこのあとに来る終わりの時までをもその手の中に治めておられる存在・・そういう全知全能の神です。
 聖書は創造の初めからこの世の終わりまでのことが1500年あまりの間に神の霊感によって書かれた66の書物によって構成されています。これらの著者のほとんどは師弟関係などのつながりはありません。さらにこれらの著者は創造の有様もこの世の終わりも勿論自分の目では見たことがないのです。にもかかわらず神の立場と神に関して語られていることはとにかく始めから終わりまで一貫しています。 
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 結局罪人とは父なる神を神と認めず、神から遠く離れ、できれば神なしでやってみたいと思いつつ、自分の考えと自分の力で歩もうとしている人たちのことを言っているわけです。自分中心の尺度で歩む人間が罪を犯さないのはあり得ないことです。まして心の中の罪に至っては全員「アウト」ではないでしょうか。イエス・キリストは悪いことを思っただけでも罪だと言われました。あなたの心の中を映し出すモニター画面というのがあったとして、それを胸に掲げ、街に出ることができますか? 肉の思いは自分中心でそのためには人を殺すことまでするのです。パウロはそんな自分のことを・・

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ローマ人への手紙7:24-25

罪人とは哀れな私たちの姿そのままを言い表した言葉と言えるかもしれません。罪を犯す者は罪の奴隷となると書いてあります。ならば、罪人とは神から離れて自由にふるまおうとしながら、完全に不自由な罪の奴隷となってしまった存在だと言えます。
イエス・キリストとは救い主イエスという意味です。神はキリストを、この哀れな罪人が帰るべきまことの家である神のもとへと導くことのできる唯一の道、いのちとしてお遣わしになったというのです。だからパウロは自分のことを本当にみじめな者=罪人だと告白したその直後に「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と一足飛びに感謝する者へと変わるのです。クリスチャンはイエス・キリストによって神のもとに帰ることを「救われる」という言葉で表現しています。それは罪の中で滅び行くみじめな人間が、罪の奴隷から解放され、まことのいのちが与えられるということです。

では一体どうやってイエス・キリストによって救われるというのでしょうか。

イエス・キリストは「神のひとり子である神」と表現されています。聖書に記された神と神の計画については本当に私たちの理解をはるかに超えています。キリストはこの世が神によって創造される前から父なる神と共にいたと、ご自身で言っています。(これだけでも目眩がしてしまいます。) そして、神=まことのいのちから離れてしまった人々の救済のために、人のかたちをとって地上に来られたというのです。
人は誰でもイエス・キリストを救い主として信じれば、キリストご自身が私たちのいのちとなってくださるという奇跡に遭遇します。そしてそのいのちのうちには、あの十字架と復活があります。あの十字架は罪人である私たちのために肉の性質を釘付けにしたもので、そのキリストご自身を救い主として信じる者は十字架につけられたキリストと共に罪に死に、復活されたキリストと共に永遠のいのちに生きるようになるというのです。こうして初めて人は罪人という拘束状態から開放され、神が用意されているすべての祝福の中、神の家に帰る者とされるというのです。神はその際に「信じる」という行為だけを私たちを迎え入れるための条件としました。行いによってではなく、ただイエス・キリストを救い主として信じることだけが救いの道だというのです。罪人が行いを正して神の前に良しとされることなどあり得ません。無理な話です。そんな私たちに救いの道が開かれたというこのニュースを英語ではGood News、日本語では良きおとずれ=福音(ふくいん)と言います。それは、良い物を受けるのにまったくふさわしくない者であるにもかかわらず良い物を受けるという、大いなる恵みの話です。

聖書には全巻を通してこのことがはっきりと書いてあります。これは完全な作り話か真実かのどちらかであって、その中間というものはありません。聖書はただの道徳とか善意についての教えが書いてあるものではありません。お読みになれば、拾うか捨てるか、どちらかしかできない書物であることがおわかりになるでしょう。

 こういうわけで、罪人だという指摘は、あなたを責めるためではなく、あなたが今立っているところの意味と、それに対して与えられている救いとを見るためにどうしても外せない部分なのです。罪人であることを認めることが神のもとに帰るための、罪の奴隷からの解放の絶対必要条件なのです。
 あのキリストの激しい苦しみ、そしてひとり子を十字架につけることの父なる神の痛みと悲しみは「罪人=あなた」のためのものだった・・ここに愛がある。愛する者がいて喜んでいるのではなく、愛する者のためにいのちを差し出す・・。神はあなたを愛しているとは、このことだと聖書は言っています。これが聖書に書かれている最も重要なポイントなんですね。

 神は愛です。 ヨハネの手紙第一 4章16節
 
 
2016.05.31.Tue 09:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
1606LP6アー写s

 5月のTRIO’/春のライブツアー。無事全行程終了いたしました。ご来場の皆様、応援を下さった皆様。ありがとうございました。TRIO’熟成という声も聞かれ、とても良い感触で帰って参りました。次回は9月に短期間のツアーをいたします。東京を中心に横浜、高崎、新潟方面へと、ただ今準備中です。
 さて、6月7月・・市原、かなり忙しくなります。6月からは大野雄二「Yuji Ohno & Lupintic Six」が始動。そして、7月には黒鯛プロデュースの第14回公演。市原は役者をやります。この公演があると、不慣れな舞台稽古にかなり身も心も持って行かれます。その他にもいろいろなライブがありますので、さて、、どういうことになりますでしょうか。市原を温かい目で見守っていただけましたら幸いです。

 ざっとご紹介いたしますと。
 6/2(木)、自由が丘マルディグラ/大久保明ユニット。いろいろなミュージシャンに会えるライブです。
 6/3(金)、赤坂B♭/林研一郎・Unit 9 Jazz Ensemble。毎年恒例となっています,6本の管によるジャズアンサンブルのグループです。
 6/8(水)、大野雄二ニューバンド/Yuji Ohno & Lupintic Sixの1stアルバム「YEAH! YEAH!」発売。http://www.vap.co.jp/ohno/discography/vpcg-83511.html 市原からも購入出来ます。送料無料、振込手数料不要・・お得ですっ!
 6/9(木)、塚山エリコオルガン4/feat.直居隆雄gt./調布・さくらんぼ。
 6/10(金)、金城寛文5、お馴染み、菊川・な〜じゅです。
 6/12(日)、いよいよ大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six。デビュー公演、東京はタワーホール船堀です。大変申し訳ありませんが、チケットは完売となりました。
 6/16(木)、先日TRIO’ライブをした浜松町・サンミケーレにて、市原が集めたユニットでのライブ。サックスの小池修を中心に、ピアノとベースは若手、松本茜と大塚義将を迎えて、誰もが聞いたことのあるジャズ特集をやりたいと思っています。
 6/17(金)、大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s。松本市民芸術館。女性三人の強力chorus「Fujikochan’s」を加えてのルパンコンサートです。
 6/18(土)、同じく大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s。上田市サントミューゼです。
 6/19(日)、古野光昭4、蕨アワーデライト。アルトサックスの纐纈歩美/コウケツアユミを迎えてあとはギターの道下和彦と市原、古野のおじさまたちがサポートします。
 6/21(火)、歌声ペトラ。毎月の新しい賛美歌を歌う会です。
 6/25(土)、大野雄二、ピアノトリオ編成で香川県ユープラザ宇多津。ベースは上村信です。
 6/26(日)、豊橋で、「突撃おたま苦楽部、CDリリース記念ライブ」。これが又面白いアルバムで、タイトル「Adult Toy Box」の通り、大人のおもちゃ箱状態。飽きの来ない選曲内容になっています。ピアノの納屋嘉彦を中心にリズムセクションが市原と岡沢章、岩瀬立飛と俵山昌之、そしてギターに伊丹雅博。パーカッションに仙道さおり、ボーカルが石塚まみ。さらにこれらが入り交じってのライブ。アルバムも是非お聴き下さい。市原へメールを頂ければお送り出来ます。TRIO’のCDと同じ要領で販売させていただいていますので、どうぞよろしくお願いいたします。このアルバムの評価をある方が書いて下さっています。こちらをご覧下さい。http://sakejazz.hamazo.tv/e6821518.html 
 7/7(木)、JCAA/日本作編曲家協会主催/タイムファイブ+まきみちる/品川ステラボール。これも毎年恒例となっています。
 7/9(土)、Yuji Ohno & Lupintic Six/福岡県黒崎ひびしんホール。
 7/12(火)、歌声ペトラ。
 7/15(金)、直居隆雄トリオ、オルガンの河合代介さんとのトリオです。沼袋オルガンジャズ倶楽部
 7/18(月,祝)、市原よしみのリトルミュージシャンコンサート。南大沢文化会館。
 そしていよいよ、
 7/28(木)〜31(日)、黒鯛プロデュース第14回公演。「テラバン」築地本願寺内プティストホール。こちら市原は役者です。チケット・・市原までお申し込み下さい。たくさん来てね。
  http://prestage.info/2016/05/14/6362 

 と、こんな調子で、急に忙しくなる市原です。体と気力がついていくのか・・。みなさん、やさしくしてね・・・。
 
 当ブログでの「ドラマー市原康のキリスト教談義」、第三回「罪人だと言われるとどうも・・」をアップいたしました。ご覧下さい。第一回は「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」。第二回は「熊本地震・・神は何をしているのか」です。

 ライブ詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜6-7月をご覧下さい。

 ということで、6-7月も皆さまのお越しをお待ちしています。ドラマー市原康、Yuji Ohno & Lupintic Six、黒鯛プロデュース、そしてTRIO’。どうぞよろしくご贔屓のほど、よろしく御願い申し上げます。
 
 
2016.05.28.Sat 17:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
罪人だと言われるとどうも・・2016.6

文章を修正した物を5/31日付で別にアップしました。
ご覧下さい。
2016.05.28.Sat 16:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
    1604談義2-3

 自分はクリスチャンですと言うと、よくこんな質問を受けます。・・神が愛の神なら何故戦争があるのか飢饉があるのか・・など、神は人の不幸を見ていながらなぜ何もしないのか・・というのです。

 ちょっと話は逸れますが、今の世において戦争も飢饉もそれは人災だという話を聞いたことがあります。近代の戦争はとにかくふたつの国や民族が互いに緊張状態にあることを望む一団、すなわち両者に武器を売って緊張を煽り、戦争になればその儲けが倍増する軍産と言われる一団と、それを後押しして利益を分かち合おうという人々によって引き起こされているのだというのです。金儲けのために戦争を起こさせようとする人々が巨大資本とくっついているとしたら、戦争がなくなる日など、夢物語にすぎないということになります。難民、あの人々の姿は弱者の代表で、莫大な利益をむさぼるそのような人々の犠牲になっている姿そのものです。飢饉も、世界の食料を人口で割れば、食料は十分にあるという話を聞いたことがあります。食料が十分に回らない何らかの理由がいつも紛争だったり搾取だったりする。これらはみな、ある一部の人たちの利益追求の結果として起きている「無くても良いはずのわざわい」で、それが世界中至る所で見られるというのが現実のようです。今、世界はほんの数%の人が、それ以外の全ての人の財産と同じだけの富を握っているのだそうです。もしその人たちがその財産を貧しい人たちや平和のために用いようとするなら世界は激変するでしょうが、そうではなくて戦争をさせたりすることで、さらに富を貯め込もうとするなら、世界は真っ暗でしょう。いや、どうもそれが今の世界の現実であるようです。日本人はその辺のところには驚くほど無関心と言うか、報道もされないので「世界の流れ」などについてはおよそ興味がないかのようです。今の世界の状況は人間の強欲の形がますます目に見えるように現れてきていると言っても良いのではないでしょうか。聖書には人は生まれながらの罪人だと書いてあります。基本的に自分中心なのであって、その人間が思うままに世界を支配している。そしてその欲はとどまるところを知らない・・これが今の世界の姿です。(聖書は支配している人たちだけが罪人だと言っているわけではなく、すべての人は・・と言っています。世界情勢から家族の関係まで、この罪の性質の支配下にあるというわけです。)

 では、全ての悲惨な事象が人の罪から発しているのかというと、勿論そうではなく自然災害などもあるわけです。それらも含め、今世界中の悲惨な状況の上に神がいるというなら、神はどうしてそれを許しているのか・・というのが世の人々の受け止め方なのではないでしょうか。神が全能なら悪人を罰し、自然災害だって全能の力によってコントロールすれば良いではないかというわけです。
 ところで私たちクリスチャンは神が全能であることを信じています。だから、神は思いのままに悪人を罰することも出来るし、自然災害だって、コントロールすることが出来ると信じています。だいたい天地万物=宇宙とその中のすべてのものを創られたのだったら、災害が起こらないようにすることなど、朝飯前なわけです。だとすると・・。そうです。神はこれらのことが起こっているのを承知しているということになります。そんな神なら要らないよ・・という声が聞こえてきそうですね。
 もし私たちが要る要らない、又いるいないで、神のことを決められるのだとしたら、それはもはや「神」ではなく、人によって考え出された「人にとって都合の良い存在」でしかありません。人間の手によるのであれば、それはすでに神ではないはずなのですが、人々が持っている「神」のイメージはどうもそういうもののようです。要するに、私たちにはもともと全知全能の神を神として認めるという発想がない。だから世の中の人は「神」という言葉を使っていながら、本当に神だとは微塵も思っていないので、神の話をしても全く通じ合わなかったりするわけです。

 クリスチャンは神のことを「父なる神様」とか、もっと親しみをこめて「天のお父さん」と言ったりします。神が私たちを造られたのならば、神こそがまことの父であり、本来親子関係で、父の家に住むのが当然である存在です。だからクリスチャンは帰るべき家に帰ったという感覚を持っています。ところが世の中の人は神に向かって「お前なんか親でも何でもないし、知らないよ」と言って背を向けているわけです。神が私たちの本当の父だとしたら、それはそれは悲しまれるのではないでしょうか。このようにクリスチャンというのは、世の中の人とは根本的に違う神概念を持っています。というより、本当に神を神だと思っているのです。神は人と同等ではない。クリスチャンは創造者である神と被造物である人という関係を認めた人たちなのです。

 それに関連して、死についてもクリスチャンは世の中の人たちとは違う概念を持っています。簡単に言ってしまえば、肉体の死はあるひとつの通過点であり、そのあとに世の終わりの時があって、その時には永遠の滅びか永遠のいのちのどちらかがあるというのです。そうなってくると、この世における肉体の死に対しての見方は大幅に変わってきます。その死に方が病気だろうと、災害だろうと、老衰だろうと・・。そして、悪事を尽くしても長生きする人がいれば、善人でも悲惨な最期を遂げる人もいる。また幼いときにいのちを失う子どももいる。こういうことに対しての受け止め方も当然見方が変わってくるわけです。簡単に言ってしまうと、死に方やその人の地上での生涯の幸不幸という事がらは、その先にある永遠への行き先を決めるものではない・・。クリスチャンはそういうところに立っている人たちです。

  旧約聖書にはイエス・キリストがメシヤ=救い主として来られることが書いてあります。イエス・キリストは今から二千年前の新約聖書の時代に人の子として登場しますが、旧約聖書の中の書物はその時代に最も近いものでも紀元前400年に書かれています。キリストが人の子として生まれる400年前です。さらに旧約聖書の中でキリストの十字架の様子が最も克明に書かれているのがイザヤ書という預言書ですが、これなどは700年も前の書物です。そして聖書には世の終わりのことが旧約聖書にも新約聖書にも書かれていますが、これは言うまでもなく、私たちが生きている今の世よりも後の話です。世の終わりに際して起きることの順番は色々な見解の相違があるようなので細かいことには触れませんが、世の終わりの前兆として確実に起きることとして、偽キリストの登場、戦争、民族や国同士の対立、方々に起きる飢饉と地震。クリスチャンに対する迫害などがあるとキリストは言われました。私は今から30年前に、民族が民族に敵対すると言われてもまるでピンと来ませんでした。今は民族とかいう時代ではなく、国と国の時代なのだ。やはり昔に書かれた書物だなと思っていました。ところが1991年にソビエト連邦が崩壊してからというもの、民族同士の対立は日常茶飯事のようになっています。それは予想だにしなかったことです。今の世界の流れと、聖書にある「終わりのとき」の流れと食い違う点を探す方が難しいくらいです。飢饉も地震も戦争も、収まっているものなどひとつもありません。イエス・キリストは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。・・マルコの福音書1:15」と言われました。悔い改めよとは、まことの神を本当に認めよ、そして神に立ち返れ、ということです。神は今までずっと、人々のしてきたことを見てこられた。そして神は御子イエス・キリストを遣わし、私たちの罪の身代わりの贖いとして十字架につけ、これを見よと言われたのです。それまでイスラエルという特定の民族と神との関係の中で、民は結局神に従うことが出来ず、神を忘れ、祝福ではなく呪いを招くことを繰り返し、最後にはエルサレムの神殿は破壊され、イスラエルは完全に崩壊してしまうのですが、その40年前にキリストはこの贖いの手続きを完成させたというのです。しかも、それはイスラエルという特定の民のためではなく、世界のすべての国民のためだと神は使徒たちに教えられました。神とイスラエルとの契約はイエス・キリストの十字架以降、全世界の民との契約とされたのです。キリストは十字架上での最後の言葉として「完了した」と言われました。これはもう、神の前にいけにえの動物のささげものをして神との関係を保つという古い契約を終わらせ、新しい契約が完了したことの宣言です。キリストご自身が神の前の永遠のなだめの供え物となられたのです。そして、キリストは頭をたれて、霊をお渡しになり、葬られ、三日の後によみがえり、天に上られた。これが新しい契約の時代の始まりです。この神こそ、まことの神であり、世界中のすべての民の罪の赦しのために御子イエス・キリストにあの激しい苦しみを十字架の上で負わせられた・・ここに神の愛が形をとって現されたのだと聖書は言い切っています。神は愛です。でも、その愛は私たちが想像するようなところにではなく、「ここ=十字架の贖い」に神の愛が現されたのだというのです。
 全知全能の神は世の初めからこの全てを見据え、終わりまでを計画された。それが余すところなく記されているのが聖書です。そんな大胆なことが書かれた書物がもし作り話ならうっちゃっておけば良いですが、そうでなかったらこれはとんでもない書物で、私たちに差し出された問題は二択・・「信じるか信じないか」ということになります。

 今、熊本で被災した方々は本当に辛い毎日を送っておられることと思います。東北の被災者の方々も未だに元の生活を取り戻してはいません。神は何をしているのか・・。神が世の初めから決められたことは、滅びゆく魂のために御子イエス・キリストの、死とよみがえりのいのちそのままを私たちに与え、人々に神との関係の回復という死を超えた永遠の祝福を与えることでした。この愛の神が、今苦しみの中にいる熊本の人たちを愛していないわけがありません。神は涙を流しつつ、この最後の時を迎えようとされている・・。熊本だけでなく、大震災はいくつもあったし、これからも世界中でありそうです。また飢饉もあるし、戦争も止みそうにありません。今世界中の人が理不尽な死を迎えて亡くなっています。そしてそれはとどまることを知りません。悔い改めよ、悔い改めよ、神は生きておられる。神のところに永遠の命があり、全ての地上の困難、悲惨、苦しみからの解放と永遠の祝福があるのだと聖書は教えています。クリスチャンは生ける神の働きのためのしもべとして全ての社会生活の中で生きる者とされています。そして主なる神がこれほどまでに愛しておられるすべての人々にイエス・キリストこそが救いであることを伝えたいと願っています。だからクリスチャンは被災した方々にも愛をもって具体的な支援をし、そこに今も生きて働かれるイエス・キリストに人々が目を向けることを願って、神と人に仕えるわけです。

 熊本地震、神は何をしているのか・・。神は天地万物を造られた当初からの人類救済のご計画を愛の中で確実に進められている・・。これが答なのだと思います。

  
2016.05.02.Mon 12:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
    1604-5.jpg

 TRIO’ 2016 春のライブツアー・・5月8日(日)〜21(土)。近づいて参りました。大まかなスケジュールは以下の通りですが、いろいろお問い合わせを頂き、やはりご予算が分からないと行きにくいですよね。そこでホームページにはそれぞれのミュージックチャージを載せました。一般のライブハウスでは大体そのサイトでご確認出来ますが、そうでないところも含めて、掲載しました。http://i-produce.net の「live」の4-5月をご覧下さい。
  8(日) 東京/南青山 Body & Soul
  9(月) 熊谷 スペース1497
 10(火) 鶴岡 三瀬ユースホステル 
 12(木) 山形 NOISY DUCK
 13(金) 仙台 Jazz Me Blues noLa
 14(土) 柏崎 うたげ堂
 15(日) 豊橋 Jazz & Dinning コティー
 16(月) 浜松 ポルテシアター
 17(火) 横浜 ドルフィー
 19(木) 高崎 ケイノート
 20(金) 東京/代官山 LEZARD 
 21(土) 東京/浜松町 サンミケーレ 開成ライブ ゲスト/市原ひかり

 そして、6月からは今まで10年続いた「大野雄二/ルパンティック5」がリニューアル。市原がこれに参加することになりました。今までのメンバー 大野雄二pf、松島啓之tp、鈴木央紹sax、和泉聡志gt に加え、エレキベースの長岡道夫、そしてドラムの市原、さらに超若手/ひかりとほぼ同期です、宮川純0rg/ベテランに負けない強力なプレーヤーです/という編成になっています。新しいグループの名は「Yuji Ohno & Lupintic Six」。6月から活動開始です。先日このグループのニューアルバムのレコーディングを終えました。それともうひとつ、このグループに三人の強力なボーカルが加わって「Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s」というバージョンもあります。ボーカルに佐々木久美、Tiger、佐々木詩織が加わります。詳細は大野雄二サイトをご覧下さい。こちらでも来月にはご案内いたします。 http://www.vap.co.jp/ohno/info/index.html#160323 

 おっと、4-5月のその他のライブ、4/9(土)古野光昭カルテット/町田ニカス。4/16(土)岩渕まこと・Acoustic Bonbon/狭山ギンイロヒコーキコーヒーハウス。それと、毎月の賛美歌集会/歌声ペトラは4/19(火)、5/31(火)、となっています。

 お知らせ・・当ブログで「ドラマー市原康のキリスト教談義」という連載をしたいと考えました。このライブインフォメーションのお知らせのタイミングに合わせて書いていこうかなと考えております。まず第一回目は「あんなことしてる人が、どうしてクリスチャンなの?」というタイトル。おもしろそうでしょ? 覗いてみて下さい。この下です。

 4,5月のライブ、TRIO’ 春のライブツアー。皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。詳細はドラマー市原康のホームページ http://i-produce.net をご覧下さい。
 
 
2016.04.02.Sat 10:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
音楽のこと、
日記風つぶやきなど
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
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