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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています
 
G-Cafe 聖書のことば #238
     
【命がけ】イエス様のことば 63

" 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。"
 マタイの福音書 10章21~22節

 イエス様の話は、宣教における厳しさの話へと徐々に移っていきます。

 兄弟が殺し合う? 親子が殺し合う? 

 それは「イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というみことばとは正反対のように感じられます。(使徒の働き16:31)
 しかしながら、このみことばの意味は、あなたが救われれば家族も自動的に救われるという意味ではないことに注意する必要があります。パウロは牢の看守とその家族に、イエス・キリストのことをしっかり語っているんですね。だから家族も皆その話を受け入れ、洗礼を受けたんです。

 人は家族だからという理由だけでは、神を受け入れることはありません。神について、イエス・キリストについての話を聞いて納得して初めて、それを受け入れることができるわけです。

 いい加減に神を信じても、救いはその人の中に実現しません。
 ところが、人が一旦本気で神に目を向けようとすると、そこで表面化してくる霊の世界の出来事というものがあります。
 それは、神に敵対するサタンの激しい憤りです。福音を伝えた時に、家族内で対立することがあります。でもそれは家族の不仲とかそういうことではなくて、サタンの憤りの表面化なんですね。

 すべての人はサタンの霊的な支配の中で滅びゆく者であって、それを人々はなんとも思わないで生きているのだと、聖書は言っています。(エペソ2:1-3参照)

 人が神に立ち返る・・それは人を支配しているサタンにとっては、一番腹立たしいことなんですね。その時サタンは全力を尽くして、人を自分の支配下に引き戻そうとするのです。
 ですから人をまことの神に導こうとすれば、そこには激しい闘いがあって、それは命がけになることもあるのだ、というわけです。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われると、イエス様は言われました。

 耐え忍ぶとは、家族の暴力に耐え続けるということではなくて、神の側に立ち続けるということです。
 私たちにはなんの力もありません。しかし人が神に目をとめているならば、そこは神が働かれるところとなるんですね。
 その時に人は、「人にはできないことが神にはできる。(ルカ18:27) 」・・そのことを目の当たりにするのだと言っているわけです。

 神に目を止め続けていなければ、危険な状況になるけれど、神の陣営にしっかりと立ち続けるならば、かしらである主は、力あるお方として確実に戦ってくださるんですね。そして戦う相手は、家族ではなくてサタンなのです。
 それは「いのちがけ」ですが、私たちには確実な勝利が与えられているのだと、今日のみことばは言っているんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.30.Wed 08:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #237
      
【御霊が語らせてくださる】イエス様のことば 62

"人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。"
 マタイの福音書 10章19~20節

 前回に引き続き、人々があなたを大勢の権威ある人々の前に立たせ、そこで証しをすることになるという話です。証しとは、イエス・キリストについての証言をすることです。
 そして、そこで語ったりするときには何をどう話すかということは考えるな。あなたが話そうとするな。話すことはその時に与えられるというのです。

 今日のテーマは「御霊が語らせてくださる」です。

 人々の前に立たされ、話を求められる時に、何も用意しないで話すなどということはなかなかできるものではありません。ジャズの演奏みたいです。(笑) 話すことは「その時に」与えられるというのです。
 ジャズの演奏では、一曲の中でアドリブソロをする番がまわってくるわけですが、その時にあらかじめどういうことをするか考えておきたいという衝動に駆られるんですね。しかし考えたために、逆にそれがつまらないものになってしまう・・そういうことが往々にしてあります。何故なら、やることを前もって固定してしまうからです。
 演奏家にはそれまでに積み重ねてきた膨大な量の知識や言葉(フレーズ)が頭の中にストックされているんです。それなのにやることをあらかじめ決めて臨むということは、その場所を自分からとても狭い世界にしてしまうということなんですね。それでは即興演奏にならないわけです。

 これが神、イエス・キリストに関することだとしたら、その時に慌てて何をしゃべろうか考えても、話すことはその範囲内のことに限定されるだけで、結局それは、自分で考えた「神についてのほんの一部のこと」になってしまうというわけです。

 神は私たちを、聖霊が働かれる器として用いようとしておられるのです。
 話すのはあなた方ではなく、あなたがたの父の御霊です・・、ならば、私たちは聖霊が働くための単なる器とならなければならないわけです。

 だったら私たちはその時に、何をしたら良いのでしょうか。
 それはおそらく、心の目をただ主なる神にまっすぐ向けている、ということなのではないかと思います。

 何をどう話そうとするか心配する・・、それは共にいてくださる聖霊を心らか追い出すことにつながりかねません。それでは神が働くはずの場所を、別のものにしてしまう可能性があるんですね。
 心配というのは、自分を守るという「肉の性質」から来るものです。
 それは自分の名誉、栄誉のためだったり、弁解することだったり・・。そんなことは全て捨ててしまいなさいというわけです。

 キリストは私たちのためにご自分を捨てて十字架にかかられました。あなたはそのキリストにあって、自分に死んでしまいなさいということなんですね。

 その時にあなたは生きて働かれる神のしもべになるのだ・・というのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.09.29.Tue 08:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #236
      
【用心しなさい】イエス様のことば 61

"人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。"
 マタイの福音書 10章17~18節

 このとき遣わされた十二弟子たちに、このようなことは起こりませんでした。この注意は将来的なこととして語られていることがわかります。
 実際にこの弟子たちは、イエス様が天に上られた後に聖霊を受け、その時からイエス・キリストを宣べ伝えることになるわけですが、その時からクリスチャンへの迫害は始まり、それによって殉教する(殺される)人は今も後を絶ちません。
 イエス様は、そのための備えとしての話を始められます。

 今日のテーマは「用心しなさい」です。

 イエス様は「人々には用心しなさい」と言われました。捕らえられる可能性があるという話です。
 しかしこの話は「彼らと異邦人に (イエス・キリストを) 証しをすることになるという話ですので、用心して捕まらないようにしなさいということではないようです。

 だったらそれはどういう意味なのでしょうか。
 用心しなさい・・それは、人々に心を開いてしまって自分を任せてしまわないように注意しなさいという意味だとしたら、話がつながります。

 人々に心を開くな・・。それは愛のない冷たい態度のように受け止められるかもしれませんが、そうではないんですね。
 イエス様は人々が自分を十字架にかけることをご存知でした。イエス様はその人たちを心からあわれみ愛しておられましたが、それは心を開くというのではなく、神とその人との関係について正しいことをはっきりと示し、その人が本当に「生きる」人となるために、反感を買おうが、殺されようが、するべきことを全てされた・・これがイエス様の人々への姿勢だったわけです。
 そしてここに神の愛があるのだと、聖書は言っているのです。神の愛は滅びゆく人々を救うという愛なんですね。

 聖書は、人々は自分の背きと罪の中に死んでいる者であって、神に敵対する霊に従って歩んでいる者だ、と言っています。 (エペソ2:1-2参照)
 ですからもしその人々に対して心を完全に開いてしまうなら、聖霊とは異なる霊の世界に自分を預けることになってしまうわけです。
 彼らに心を開くのではなく、彼らにまことの命を受け取ってもらうために・・人々には用心しなさい・・すなわち、人々がどのような世界の中に生きているのかということをはっきり見分け、その上で人々に接しなさいというわけです。

 それこそが、神の愛に基づいた行いだというのです。もちろんそこには、思いやる心や優しい心遣いは必要ですけどね・・。

 まことの愛・・それは人々の目には見えないかもしれません。しかしイエス・キリストという救いをいただいている者は、この神の愛の上に立つことが求められているんですね。

 用心しなさい・・それも愛に基づくみことばなのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.28.Mon 09:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2010-12.jpg


   ■□■ いちはらやすし・こんなことしてますNEWS ■□■

           □□ 2020 / 10 〜 12 月号 □□

 
 しばらくライブ情報もお休みさせていただいていました。
 告知することが何もないという突然の状況・・。3月時点では先が見えないという状況でしたが、それから半年・・年内のコンサートはすべてなしという「先の見え方」となってしまいました。
 Lupintic6のかしらである大野雄二は、すこぶる元気なのではありますが、年齢のことなど考えますと大事をとってということで、12月に引き伸ばしたコンサートもさらに先にということになっていました。
 またTRIO’(pf,福田重男、b,森泰人、ds,市原康) は、森が来日できる見通しが立たず、こちらも全く予定が立てられない状態となっています。
 しかし、年明けからはなんとなく以前の活動が始まって行くのだと思います。
 その節にはどうぞよろしくお願い申し上げます。

 そんな中、わずかですが、ライブの予定がありますので、ご案内させていただきます。

 ひとつは、すべてキャンセルとなっている大野雄二トリオの「代打トリオ」というのが、すでに二回ばかりのライブを実施しています。
 代打というのは、大野雄二の代打として、Lupintic6でハモンドオルガンを担当するビアニスト、宮川純がトリオのピアノを務め、大野雄二トリオ復活まで「代打トリオ」を続けて行くというものです。
 どのような展開になるのか、まだ未知数ですが、何か面白い形が出来上がる予感があります。こちらもどうぞ応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
 そして、もうひとつはギターの直居隆雄率いるTDY (gt,直居隆雄、HammondOrgan,河合代介、ds,市原康) があります。
 こちらも無観客ライブを一度やり、このあと、鎌倉ダフネ、沼袋オルガンジャズクラブなどを予定しております。

 市原もほとんどドラムの叩き方、忘れているんじゃないかと不安の中、ドラムに座るのですが、どうもなんとなくできてしまうようです。(~_~;)

 ということで、2020年のライブのご案内。わずかですが、覚えていただき、ご来場いただけましたらこの上ない喜び。

 皆様のご来場をお持ちしています。

10/15(木) 大野雄二代打トリオ 御茶ノ水NARU (ピアノは宮川純です)
10/16(金) TDY/直居隆雄トリオ 沼袋オルガンジャズクラブ
11/8(日) 大野雄二代打トリオ 鎌倉ダフネ (ピアノは宮川純です)
12/19(土) TDY/直居隆雄トリオ 鎌倉ダフネ

 
 
2020.09.27.Sun 15:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
#20


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GraceCafeたいむ #20
〜千日にまさる一日〜

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「君はわれのまぼろし」から その1

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=AHV-zr-Rqfo


God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
2020.09.26.Sat 08:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #235
     
【愛していいんだよ】イエス様のことば 60

" いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。
 ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。"
 マタイの福音書 10章16節

 イエス様は十二弟子をお遣わしになる際に様々な注意をされました。そしてこの話は、その時代以降のことへと変わっていきます。なぜそれがわかるかというと、この後に人々はあなた方を捉え、会堂でむち打ちますと言っているのですが、そのことはこの十二弟子にはまだ起こってはいないからです。今日の箇所は、その話に入っていく入り口のところなんですね。

 テーマは「愛していいんだよ」です。

 イエス様が人を選んで世の中に送り出す時、それは羊を狼の中に送り出すようなものだというのです。本当に羊を狼の中に放り込んだら、そのまま餌食にされてしまうわけですが、それほどに危険が伴うというのです。
 イエスを知らない人は、神の方に心を向けていません。ですから、神について、救いについて、罪について、救い主について話をするということは、人々をまず振り向かせるということになります。
 振り向いたらその人の心の内は神の光に照らされ、そこにある罪を見させられるわけです。しかしそんなことを歓迎する人はいないわけで、直感的にそれを拒むんですね。彼らにとっては全く余計なこと。それを受け取ってもらうために出て行くのですから、噛みつかれる確率は高いですよね。

 イエス様はそのような状況に備え、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われたわけです。

 遣わされる者は、噛みつかれる危険性があるわけですが、その相手は「敵」ではありません。出て行く先の人々は、イエス様がいのちをかけて救い出そうとしている人々です。その人々はそこまで愛されているひとりひとりなのです。

 愛を伝えると噛みつかれる、という構図です。

 ですから賢さが必要だというわけです。
 出て行く者は、人のニード(必要)に敏感でなければなりません。そして、その人が置かれている立場を見分け、その人の心が真に求めている部分を見分ける目が必要になります。それが賢さですね。

 そして、鳩のような素直さ・・。
 素直というのは、考え、態度、動作がまっすぐなこと、と辞書にありました。
 相手をまっすぐに受け止める。誠実な態度をとる。行動も自分の価値観から外れない。しかし、まっすぐにすれば当然相手には容赦なくぶつかる可能性があるわけですが、それを鳩のように、というわけです。鳩には平和のイメージがあります。

 両方ともに、なかなか難しいですね。私など、こんなことを書いていながら恥ずかしくなります。

 しかし御霊はその都度、様々なことを教えてくださるんですね。
 私が信仰を持って間もない頃、主はこんなことを私に語りかけてくださいました。それは、「あなたは愛していいんだよ。」という不思議なことばでした。
 しかし私にはその意味が直感的にわかりました。私はそれまで、人を片っ端からさばいて見ていたので、まさかすべての人が愛する対象であるなどということは、これっぽっちも思っていなかったんですね。ですから、愛していいんだよという主のことばは、私にとっては大いなる「解放」だったわけです。
 見渡す限りの人・人・人。その一人一人を神は心から愛して、その滅びに心を痛めておられる・・。その目をいただいた時、蛇のような賢さと、鳩のような素直さを身につける入り口に立たされたのかもしれません。

 祈り・・「主よ、あなたがこのすべての人々を、いのちをかけて愛してくださっていることを、さらに深く知ることができるようにしてください。イエス・キリストの御名によって、アーメン。」


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.25.Fri 10:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #234
     
【イエスが救い】イエス様のことば 59

" まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。"
 マタイの福音書 10章15節

 昨日と同じ箇所の後半です。昨日は「さばきがある」というところに注目しましたが、今日は「ソドムとゴモラのほうが、その町よりもさばきに耐えやすい」というところに注目したいと思います。

 今日のタイトルは「イエスが救い」です。

「その町」とは、イエス様につかわされた弟子たちが、いやしを行なったり悪霊を追い出したりして「天の御国が近づいた」とのメッセージを伝えた町で、しかも彼らを受け入れなかった町々のことです。

 ソドムとゴモラは「主に対し甚だしく罪深い」人たちの町でした。それはノアの洪水の時もそうでした。神はそれが理由で彼らを滅ぼされたのです。

 神を認めない人間がどれほど暴虐に満ちた行為を当たり前の様にするものなのか、歴史がそれを語ってくれています。未曾有の殺戮は繰り返されてきています。それも国家という単位でそれが行われてきました。
 しかし、その様な国よりも「その町」すなわちキリストを拒む町の方が、きびしいさばきを受けるというのです。

 聖書は全ての人は罪人だと言っています。それがソドムだろうと弟子たちが出て行った町だろうと、そこにいるのは「罪人」なんですね。罪人とは神のもとに来ようとしない人のことです。
 キリストはまさにその罪人の罪を背負い、それらの人を神のもとに帰らせるために来られたのだというのが、聖書の知らせです。
 その手段は御子キリストの十字架です。神はすべての人々を、善人だろうが悪人だろうが、命を捨てるほどに愛しておられ、まことのいのちである神のもとに帰る道を開かれたのです。

 ソドムとゴモラのほうがさばきに耐えやすい・・それは、救いの道がまだそこに開かれているということなんですね。
 しかしイエスを拒んでしまえば、その道はそこで閉ざされるのだと言っているわけです。

 聖書は言っています。
「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていない 」(使徒の働き4:12)

 神からの愛のメッセージを受け取るということは、あなたがいのちを得るということなんですね。

 イエスが救いなんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.24.Thu 10:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #233
     
【さばきがある】イエス様のことば 58

" だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。"
 マタイの福音書 10章14~15節

 今日のテーマは「さばきがある」です。

 弟子たちはすべての町に行き、そこで人々は「天の御国が近づいた」という、神からのメッセージを聞きます。「受け入れない人」とは、それを聞いた人たちです。
 そういう人や、家や、町があるなら、その時には「足のちりを払い落としなさい」と、イエス様は弟子たちに言われました。それは、弟子たちにはこれ以上の責任はないということです。

 そして15節では、「聞いたのに受け入れないこと」に対するさばきの日というものが「ある」のだと言っているんですね。それは神から語りかけられているのに、それを受け入れなかったことに対するさばきです。

 ソドムとゴモラというのは創世記のアブラハムの時代の町です。その人々は甚だしく罪深い者たちであったので、神はその町を滅ぼそうとされます。それを知ったアブラハムは必死になって神にとりなします。そこにはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいました。(創世記13章)
 そしてそこにもし十人の「正しい者」がいたならこの町を滅ぼさないと、主はアブラハムに約束します。ですが結局救い出されたのは、ロトとその娘たちだけで、あとは滅ぼされるという結果になってしまいます。

 ノアの洪水と同様に、このソドムとゴモラの話の中にも「さばきの日」とそこから救われる者の型を見ることができるんですね。
 正しい者とは、弱さを担っていても神を神としてあがめる者のことなんですね。ロトはその様な人でした。そうして救われたのがロトとその家族・・それは私たちの型。そしてとりなしをしたアブラハム・・それが十字架にかかられて「父よ、彼らをお許しください」と祈られたイエス・キリストの型です。

 聖書は、天地創造の始めから今に至るまで、生を受けた者はすべて「さばきの日」を見るのだと言っています。それが「白い御座のさばき」です。それは、この地がさばかれ、地上の楽園「千年王国」がやってきて千年経った、さらにその後の話です。(黙示録20章)

 その日をすべての者は見るのだと言っているわけです。わたしたちの霊はそのときまで滅びることはないんですね。肉体において死んでも・・です。

 さばきがあるのだと、聖書は言っているのです。

 私たちは誰もが、そのさばきに耐えられる様な者ではありません。神を拒んでいたのですから。
 ところがイエス・キリストのあがないの印がその身に刻まれている者はただ恵みのゆえに、すでに天の御国=天国の民となっており、そのさばきは過ぎ越されてしまう・・これが福音なんですね。
 あがないのしるしとは、十字架の上でわたしたちの罪をイエス様が負われた、あの御姿です。

 救われるとは、具体的なことなのです。

 これを読まれる方々が、神の救い=イエス・キリストを受け取ることができますように。


 God Bless You !
 
 
2020.09.23.Wed 12:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #232
     
【涙があれば喜びがある】イエス様のことば 57

" どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。"
 マタイの福音書 10章11節

 イエス様が弟子を送り出す際の注意事項の四つ目です。

 町に入って行くときに、誰がふさわしい人かをよく調べよとイエス様は言われました。
 そして、家に入るときにはとにかくその家の平安を祈り、その家がその平安にふさわしければ、平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければその平安はあなた方のところに帰って来るようにしなさい・・というのです。(13節)
 
 要するに、よく調べてその家を選んでも、それが当たるとは限らないというわけです。しかもそこを立ち去るまでその家にとどまりなさい・・と。
 この弟子たちは主であるイエス様が遣わされたのですから、明らかに神の御心に従っての働きです。ところが、それが人々に受け入れられる場合と受け入れられない場合があるというんですね。

 弟子たちには悪霊を制する権威が与えられていて、病人は癒され悪霊は人から出て行ったはずです。もしそれだけだったら、全ての人が喜んで受け入れたかもしれません。
 でも、弟子たちがしたことはもうひとつありました。それは「天の御国が近づいた」と宣べ伝えることです。

 人々が受け入れたり受け入れなかったりするのはまさにこの点ではないでしょうか。いやされるのを拒む人はいません。

 御国の福音を宣べ伝える務め。それは人々が受け入れるかどうかでは左右されないということです。人々がそれを拒むことも十分にあり得るのだということを、イエス様は初めから言われているわけです。
 それでもあなた方は行きなさいと。そして受け入れられるなら、平安はその人たちのものだし、受け入れてもらえないなら、それはただ種を蒔いただけの仕事の様ではあるけれど、平安はあなた方の上にあるから、あなた方はそれを受け取っておきなさい・・と。

 次のみことばを思い出します。
"涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。" 詩篇 126篇5節

 刈り取りは種を蒔いた時から一定期間待たなければなりません。その間、肥料をやったり害虫を取り除いたりして、世話もしなければなりません。
 でもその者は喜びながら刈り取るとの約束が与えられています。刈り取るまでにどれだけ時間がかかるのか、、それは麦の場合とは違って、私たちにはわかりません。

 でもとにかく行って「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさい。人々の中には必ずそれを受け入れる人と受け入れない人がいるのだというのです。受け入れられないことがあっても、それはあなたの準備や判断の誤りではなく、必然だというのです。

 必ず涙が伴う。そして喜びが伴うと、主は言われるんですね。

 このグレイスホームチャーチは7月から始まり、まだ産まれたばかりです。その歩みの中にも必ず涙があり、そして必ず喜びがあると約束されているんですね。

 今日のみことば、これはグレイスホームチャーチの私たちがいただきました。

 私たちの願い・・。それはいつも最後に書く「 God Bless You ! 」のことばが、本当にこのメッセージを受け取る方々の上に実現することです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.22.Tue 10:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #231
     
【ただで受けたのだから】イエス様のことば 56

"病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。"
 マタイの福音書 10章8節

 9章38節でイエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない。」という話をされ、そこから話は「遣わされる者」に対しての話に移っていきます。
 十二弟子は「汚れた霊どもを制する権威」をイエス様から授かり、出て行くのですが、今回はその時の具体的な注意事項の2つ目です。

「あなた方はただで受けたのですから、ただで与えなさい。」

 十二弟子たちは病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアト(以前はらい病と訳されていました) に冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出す・・これらのわざを行なった時、人々は弟子たちに多くの金品を彼らのもとに持ってきたに違いありません。しかしイエス様は、その力はただで受けたのだからただで与えなさいと、あらかじめ言われたわけです。彼らがもし、人々が持ってくるものをすべて受け取っていたら、抱えきれないほどの金品を持って帰ってくることになったでしょう。しかし、それらはすべて断れというわけです。

 彼らは「汚れた霊どもを制する権威」を授かったことによって、聖霊に満たされて、神の圧倒的な臨在の実感の中、自信をもって悪霊に命ずることができたのだと思います。そして実際に悪霊が出て行くのです。
 言うまでもないことですが、彼らはそんなものを受けるにふさわしいような者ではありませんでした。漁師だったり、嫌われ者の取税人だったり・・、そうでなくても全く「普通の人」だったわけです。ただイエス様について歩き、話を聞いていた人たちだったんですね。要するに、彼らはこれらの力を「ただで受けた」のです。だからそれは、ただで与えなさい、というわけです。

 そしてこのあとイエス様は、最低限必要なものを持ち、世話をしてくれる人の世話になりなさいという3つ目の注意事項の話をされます。
 弟子たちはそれによって、このような大きな力も、また生きる上で最低限必要なすべてのものも、完全に「恵みによって与えられる」のだということを常に忘れないで、また、これらの力があたかも自分から出たかのように高ぶらないで、その働きを続けることができたんですね。

 私たちクリスチャンは、神の大きな赦しと愛を、信じるということだけで、すなわちただで神から受け取りました。そのことを自分の内にいつもはっきりさせておくということは、私たちが高ぶらずに大きな恵みの中を歩むために、実はとても大切なポイントなんですね。

 ふさわしくない者が、ただで受けたのです。

 そのような認識をしっかり持つ者が「ただで与えることのできる人」になるんですね。そして与えられている聖霊の力を尽きることのない生ける水の川として、世に流して行く者となるというわけです。

 これは私たちクリスチャンにとって、大きなチャレンジです。でもそのことを忘れない限り、その祝福は揺るぎなく続くのだと、イエス様は私たちに約束してくださっているんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.21.Mon 12:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
#19

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GraceCafeたいむ #19
〜イエス様の目的〜

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「初めにおられた神のみことば」から その3

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=EV5t37sGt7g


God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
2020.09.19.Sat 08:04 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #230
     
【天の御国が近づいた】イエス様のことば 55

" 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。"
 マタイの福音書 10章7節

 今日は昨日と同じ箇所です。

 イエス様が弟子たちを遣わされるに際して言われたこと。それは病人をいやし悪霊を追い出し、そして「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいということでした。
 人々が見たこともない多くの奇跡のわざを伴って語られるこの言葉「天の御国が近づいた」・・、それは日常にはない、新しいことが今迫ってきているということを予感させるものでした。
 
 今日のテーマは「天の御国が近づいた」です。

 このことばには、いくつかの情報が隠れています。
 一つは、天の御国があるということ。もう一つはそれがやってくるということ。そしてすべての人はそのことに向き合わなければならないこと。

 天の御国とは、地上の楽園とは違うものです。今こうして過ごしている地上の日常とは違う・・そのことが用意されているというんですね。
 私たちは、死んで全てが終わりという「常識」の中にいますが、実はそうではないということが、このメッセージには含まれているわけです。
 
 イエスという方が地上に来られて、多くの奇跡のみわざをなされているということ自体が、すでに御国が近づいていることを予感させるわけですね。そして実際にイエス様は、公生涯の最後に十字架と復活を通して天の御国に行くための道備えを完成させられました。
 しかし天の御国は実際にはまだやってきてはいません。聖書によれば、それは終わりの時の大艱難時代を経てくるというのです。
 要するに、この「神の国は近づいている」というメッセージは、今の私たちにも向けられているんですね。

 さらにこのことばは、すべての人に関係があることなのだということを予感させます。私は関係ないよとは言ってられない・・そういう雰囲気がしてますよね。(笑)
 神の国が近づいたというのは、今の天地が与えられ、何千年にもわたって営んできた「人々」の生活がすべて終わるということを示しているんですね。しかしその前に死んでしまえば関係ない ? ところがどうもそうではないらしいのです。

 聖書のメッセージはちゃんと読むと、最後に「清算」の時があるというんですね。それは、すべての人がよみがえって神の前に出て、「その行いに応じてさばかれる」時があるというのです。(黙示録20:12)
 バプテスマのヨハネも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣べ伝えていました。
 悔い改めなさい・・。それはあなたの目を、今神という存在に向けなさい、ということなんですね。
 日常の雑事や、仕事、またとてもやりたいことに夢中になっているかもしれないけれど、その全てが問われる時が来るんですよというわけです。

 なんだか恐ろしい感じがします。しかし聖書はすべての人がその恐ろしい時を迎えるのだと警告しています。でもそこで終わっているのではなくて「そこからの確実な救いの道が用意されたんだよ」というのが聖書のメッセージの核心なんですね。

 さばきは決定していて、救いは選択できる・・。これが私たちに与えられている状態です。

「神」のことを言うこと自体が、とんでもない的外れという印象をもって見られるのが今の世です。
 しかし、、、これは声を上げて行くしかありません。

 天の御国が近づいた。その道はイエス・キリストによって切り開かれた・・と。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.09.18.Fri 08:53 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #229
     
【救いの準備期間】イエス様のことば 54

" イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。"
 マタイの福音書 10章5~7節

 イエス様は十二人の弟子たちに「汚れた霊を制する権威」をお授けになり、一人ひとりを遣わすということを初めてされます。この10章には宣教に遣わされていく者に対する注意事項が書かれています。その中の14節までは十二弟子たちへの具体的な注意。そしてそのあとは「さばきの日」に際しての注意事項へと話が進んでいきます。

 今日のテーマは「救いの準備期間」です。

 イエス様は、これから遣わす弟子たちに「サマリア人の町に入ってはいけません。」と言われました。サマリヤ人とは、ほとんど他国の血が混じってしまった純粋のイスラエル民族ではない、ユダヤ人たちにとっては異邦人であって、交わってはいけない人たちでした。
 イエス・キリストによる救いの福音、その対象は言うまでもなく全世界の人々です。なのに 「天の御国が近づいた」という知らせをイエス様は、「イスラエルの失われた羊たち」だけに伝えなさいと言われたのです。

 イスラエルの失われた羊・・イスラエルとは当時のユダヤ人たちを指しています。
 しかし彼らは残念なことに、神との関係の焦点が完全にぼけてしまっていました。まさしく「失われた」状態だったんですね。
 
 神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒、その根本思想は、主なる神を心と力を尽くして愛すること、そして隣人を自分を愛するように愛せよ、ということです。
 しかし当時のユダヤ人は、その十戒に事細かな規定がくっついた「口伝律法」というものでその生活はがんじがらめに縛られていて、ただそれを守ることだけが彼らのすべてというような状況でした。
 安息日に人をいやして良いのか・・などのイエス様とパリサイ人たちとの問答がそれを象徴しています。ユダヤの指導者であるパリサイ人や律法学者、祭司たちは、安息日にイエス様が病人をいやされるのを見て、「神を冒涜する者」としか受け取ることができなかったのです。

 彼らに求められていること、それは本当に心で神との関係を回復することだったんですね。イエス様が来られるその道備えをしたバプテスマのヨハネも「悔い改めよ、天の御国が近づいたから」と言って、ユダヤ人たちに対する警鐘を鳴らしていました。イエス様も弟子たちに、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいと言われたわけです。

 イエス様が弟子たちを、このような状態のユダヤ人の中へ遣わされたわけです。
 人々は先に遣わされた弟子たちのするわざを見、イエス様ご自身のもとに集まってきます。そしてイエス様のなさることと話されることを聞いて、この方こそ聖書にある「来るべき王」なのではないかと熱狂します。ところがイエス様はご自分を、彼らが縛られているところの戒律よりも上に立つ者、さらにご自身が神に等しい者であるというところまではっきり言われたので、パリサイ人や律法学者たちはイエス様を神を冒涜するものとして結局十字架に架けて殺してしまうのです。

 ところがこれが、イエス・キリストが全世界の人々にもたらす救いのための、要の部分だったわけです。

 イエス様がキリストとして地上で働かれた3年半という期間、、それは主に「同胞」ユダヤ人の中での働きでしたが、それは結局、全世界の人々のための救いを完成させるための、どうしても必要なでステップだったんですね。

 2000年を経て私たちに宣べ伝えられてきた福音。今日の箇所は、その準備段階の一コマだというわけです。

 
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2020.09.16.Wed 15:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #228
     
【収穫のために祈りなさい】イエス様のことば 53

" また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
 そこでイエスは弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」"
 マタイの福音書 9章36~38節

 イエス様は、みもとにくる人々の病やわずらいを片っ端からいやされました。そして町や村を片っ端から訪ね、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられました。(34節) そしてイエス様は、ついてくる群衆を見られて、深くあわれまれたと書かれています。

 群衆は「羊飼いのいない羊の群れ」のようだというのです。羊は弱い動物なので、羊飼いが世話をし、さまよい出ないようにいつも集めておかないと、勝手に迷い出て野の獣の餌食になってしまうんですね。そして、彼らは「弱り果てて倒れていた」と書かれています。
 付いてくる群衆があまりに多く、一人一人にはとても対応しきれない状況だったのではないでしょうか。その中にはただ付いてくるだけで弱り果てて倒れていた者がいたその様子が伺われます。

 それを見てイエス様が言われたのが、「収穫は多いが、働き手が少ない。」ということでした。

 イエス様は十字架にかかり、死んでよみがえられ、天に上られた後、激しい聖霊の降臨とともに弟子たちの宣教は始まりました。
 その時から弟子たちは、「弱り果てて倒れている群衆」というのは全世界にいるということを知るんですね。
 収穫されるべき人々は多いとイエス様はおっしゃっているんです。それに対して働く人が少ないと・・。
 だからあなた方はそのために一生懸命に働きなさいというのではなく、働き手を送ってくださるように祈りなさい、とイエス様は言われたんですね。そうでなければとても間に合わないというわけです。

 これは、一教会の働きだけに目をとめているのではなく、すでに刈り取りを待っている広大な畑に目をとめなさいということなではないでしょうか。
 
 日本にも宣教師という人たちがいます。日本にはクリスチャンが、形だけの人も含めて人口の1%しかいません。しかしそんな中で彼らは、日本ではなくて、外国に出て行くんですね。
 出て行って最初に何をするかというと、1〜2年をかけて現地の言葉を学ぶんだそうです。それから初めて伝道を開始することができる・・。
 普通の人間だったら、日本にも刈り取りを待っている存在が溢れるほどいるのだから、目の前からとにかく刈り取りを始めようという発想になるわけですが、神様から宣教に召された人たちは、そのような視点よりもはるかに大きな視点を持っているわけです。
 このような視点や発想を持つ人というのは、祈りに応えて神が送られた・・それ以外に考えられないような気がします。
 日本にもアメリカやドイツ、スェーデンなど、他にも多くの国々から宣教師が送られて来ました。そして今の日本の教会があるんですね。
 日本は世界の中でも宣教が困難なところだという話を聞くことがありますが、そこに遣わされてくる器・・それは、収穫の主が聖徒たち(イエス・キリストに仕える人たち)の祈りに応えて送ってくださった一つ一つの器なんですね。

 宣教師として派遣され、命を落とす人たちは数えきれないほどいると聞きます。
 彼らは、私たちの罪を負って十字架にかかられ、ご自分のいのちを私たちのために与えてくださったイエス・キリストの弟子たちなんですね。そのような器は、祈りによって起こされる以外に起こりようがありません。

 少なくとも私たちは、世界中で収穫を待つ数えきれないほどの人々が、ちゃんと収穫されるように・・、祈ろうではありませんか。

 イエス様がそうしなさいと言われたのですから・・。


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2020.09.15.Tue 08:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #227
   
【信仰に応えてくださる方】イエス様のことば 52

" そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いた。
 イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
  マタイの福音書 9章29~30節

 今日の箇所は、イエス様について行って家の中にまで入り、イエス様のみもとに来た二人の盲人の話です。
 彼らはイエス様が家に入られる前から「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」と叫びながらついてきた、と書いてあります。
 イエス様は「わたしにそれができると信じるのか」と彼らに問われます。そして彼らは「はい、主よ」と答えました。
 そしてイエス様は彼らの目にさわって「あなた方の信仰の通りになれ」と言われたら、彼らの目が開いた・・これが今日の話です。
 
 彼らの叫びからわかることは、彼らはイエスを「ダビデの子」だと認識していたということです。それは聖書(旧約聖書)に、キリストはダビデの子孫として来られると書いてあることを彼らは知っていて、このイエス様こそがそのキリストだと認識していたということです。
 彼らは民衆の中で大声で、この方はキリストだと宣言していたという状況です。そして彼らは家まで入って行き、イエス様のみもとまで行きます。
 イエス様は「わたしにそれができると信じるのか」と言われたわけですが、彼らは自分の目を開いてくださいと叫んでいたわけではありませんでした。私たちをあわれんでくださいと言っていたのです。ですから「それができると信じるのか」というイエス様のおことばは、彼らの「あわれんでください」という言葉へのお答えです。それは目を開くことができると信じるのかという意味と同時に「わたしがあなた方をあわれむ者だと信じるのか」という意味でもあるわけです。

 彼らは世間ののけ者でした。「神の祝福からはずされた者」でした。その彼らが「イエスという方はキリストで、その方は自分たちのような者でもあわれまれる方だ」と信じていたということです。
 彼らがどうしてそのような確信を持ったかはわからないですが、これはキリストであるイエス様に対する深い確信と信頼です。それは全ての小さな者、貧しい者、虐げられている者に、この方はあわれみ深い方だという信仰です。

 とにかくイエス様のところに押しかけて行って、わたしの目を開いてくださいと懇願したのではなくて、彼らはイエス様に対して自分の信仰を直接言い表したというのが、ここに書かれていることなんですね。
 イエス様は「あなたの信仰の通りになれ」と言われて、彼らの目は開いたのです。彼らの信仰が口だけのものだったら、彼らの目は開かれなかったということです。彼らは本当に心からそう信じていたんですね。この方は目というものの機能の上にも完全に権威を持たれる方であるということと、自分のような者もあわれんでくださるお方だと、彼らは深く信じていたというわけです。

 イエス様は「信仰に応えられる方」だというのが、ここに書かれていることなのです。この直前に出てくる長血をわずらった女にもイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。

 イエス様は「誰にも知られないように気をつけなさい」と厳しく言われました。イエス様はご自身のことについて、決して他の人に代弁させることは許されませんでした。
 人々は、ただ自分をいやしてもらうために殺到する。そしていやされれば、そのまま元の生活に戻るだけで、イエス様が群衆に伝えたいこと、即ちご自身が聖書にあるキリストであり、それを見た者が悔い改めて神にしっかり目を向ける者となるという結果にはならないことを、イエス様はご存知だったわけです。

 イエス様が人々に求められているのは、イエスを神の子キリストと信じる「信仰」なんですね。


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2020.09.14.Mon 11:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
#18

GraceCafeたいむ #18
〜仕える者として来られた神〜

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「初めにおられた神のみことば」から その2

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=zPo2OYgDfio&t=10s


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2020.09.12.Sat 08:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #226
   
【あなたの信仰があなたを救った】イエス様のことば 51

" イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。
「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
 すると、その時から彼女は癒やされた。"
  マタイの福音書 9章22節

 イエス様は会堂司の娘の死の知らせを受け、彼の家に向かいます。群衆もイエス様に付いて移動を始めます。
 そこに12年間長血をわずらっていた女が後ろからイエス様に近づき、その衣の裾に触りました。彼女はとにかくその衣に触れさえすれば自分は救われると思っていたと書かれています。

 今日のテーマ、それは「あなたの信仰があなたを救った」です。

 12年間長血をわずらっていたということは、ほぼ治癒の見込みがなく、社会生活をするにも、家庭生活においても、ほぼ絶望状態です。自分の病のために、ささやかな幸せを味わうことさえ許されない・・そんな状況であったことをうかがい知ることができます。
 しかし彼女はその絶望の中で、イエス様という存在に希望を見出したんですね。とにかくあの群衆の中をかき分け、なんとか近づいていって、あの方の衣に触りさえすれば「自分は救われる」という思いでイエス様の衣のすそにタッチしました。
 長血をわずらっているということは、当時の律法では「汚れている」という状況で、人前に出ることもはばかられる人であったわけです。人々がその女の存在を知ったら、たちどころに群衆の外に叩き出されてしまう・・そんな立場の人だったわけです。ですから、イエス様にその病のことを話すこともできず、公然と癒しを求めることなど考えられない・・そんな状況の中で、彼女はただひたすら、イエス様という存在に希望をおいて、社会的な心遣いなど投げ捨てて、とにかくイエス様に近づきました。そしてその衣に触ったのです、後ろから・・。

 イエス様は、彼女の存在をご存知で、彼女がご自分の衣に触れたこともご存知でした。そしてさらに彼女の信仰までも認めておられたことがわかります。
 イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。

 イエス様に希望を見出し近づく時、イエス様はそれをご存知だということをここでは言っているんですね。あなたが心の中で、イエス様に近づこうとし、その衣に触れる・・。その全てをイエス様はすでにご存知だというのです。

 イエス様に希望をおいて近づく・・それはまずあなたの顔をイエス様の方に向けるということです。顔を向ければそちらの方に足が向きます。聖書はイエス様という存在について、限りなく多くの情報を与えてくれます。その情報を一つ一つ拾っていく・・それがイエス様に顔を向けて近づくということです。
 そしてその衣に触れる・・それはイエス様と実際の接点を持つということです。イエス様は既に天に上られていますので、私たちはその衣に触れるということはできません。しかし、接点を持つということはできるんですね。それはイエス様に向かって口を開くということです。イエス様・・と、口を開いて呼びかけるんです。それが衣に触れることなんですね。それをイエス様はご存知なのだと、ここでははっきり教えてくれています。

 その時にイエス様は言われるんですね。「あなたの信仰があなたを救った」と。
 その時に、あなたはイエス様に繋がる者となるんですね。

 娘よ、しっかりしなさい・・
 ニュアンスとしては「我に帰りなさい」「今の自分をはっきり見なさい」といった感じでしょうか。「今わたしはあなたを知っている。そしてあなたに触れたんだよ」とイエス様は言われるのです。

・・すると彼女は癒された。

 あなたが信仰をもってイエス様に近づく時、イエス様はあなたをすでに認めておられるのです。そしてあなたが口を開く時、イエス様はあなたに触れてくださいます。そして、あなたは癒されるのだというのです。
 イエス様との関係ができたら、そのあとはそれを大事に育てていく必要がありますけどね。

 あなたの信仰、それがあなたを救うのです。


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2020.09.11.Fri 11:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #225
   
【新しい革袋】イエス様のことば 50

" また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。
 そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。
 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」"
  マタイの福音書 9章17節

 今日のテーマは「新しい革袋」です。

 ユダヤ人たちはダビデの家系から出るはずのメシヤ=キリストについて、ユダヤ民族を解放してくださる王だとか、また預言者であるとか、そのメシヤ感は漠然としたものでしたし、肝心の弟子たちもイエス様を「神の子」などと呼んでいながら、それが具体的にどのようなお方であるのかについては全くわかっていませんでした。
 この神の子キリストが、死の力を打ち破り、永遠の御国を実際に用意され、ご自分の民をそこに招かれるという、具体的な救い主であるということは、その時の弟子たちにも想像すらできないことでした。

 神はイスラエルの民に対し、モーセを通して律法を与え、この神をまことの神として従い続けるならば揺るがない祝福を与えると約束されました。それなにの結局イスラエルはそれに従うことができず、律法をも歪め、最後には来るべき方キリストをも拒んで十字架につけ、とうとうイエス様の時代の40年後、本当にこの民は滅んでしまいます。
 しかしこのイエス・キリストにより、その祝福はイスラエル民族のみならず、それまで神の祝福の対象ではなかった全世界のすべての人々に広がっていったというわけです。

 イエス様がなされたことは、当時のユダヤ人には思いもよらない、想像をはるかに超えたことでした。モーセを通して神と交わされたイスラエルに対する約束が、全世界の民への約束へと、一夜にして変わってしまったのです。
 それはイエス・キリストを力強く宣べ伝え始めたペテロや他の弟子たちにとっても、受け入れるのに時間がかかることでした。弟子たちはみなユダヤ人だったからです。そしてそのことは、イエス様を信じようとしないユダヤ人とのトラブルの種として、いつまでもくすぶり続けることになります。

 このことをイエス様は「真新しい布切れ」と「古い衣」、また「新しいぶどう酒」と「古い皮袋」という言葉で表現された・・それが今日の箇所です。

 それは、イエス・キリストによる新しい約束を、モーセの律法というそれまでの神の約束に当てはめて考えようとしてもそれは無理なことで、全く考えを改めて、この方を新しい契約をもたらすキリストだという風に受け止めるのでなければ、あなた方(ユダヤ人) にはわからずに結局「破れてしまう」のだというわけです。

 このことは現代の私たちにとっても当てはめることができます。それは人々が、生と死、また永遠、神についての一般的な考えである「古い皮袋」を捨てて、新しい心で今まで全く聞いたこともなかった神と御子キリスト、そして永遠のいのち、神の国についての情報を受け入れるのでなければ、提供されている救いである「新しいぶどう酒」をそこに入れることは決してできませんよ、ということなんですね。

 聖書を今の私たちの常識の範囲内で読もうとする人たちが昔からいます。例えばすべての奇跡を現代の科学によって説明しようとしたり、聖書をただの精神的な啓蒙書だとしようとしたり・・。
 しかし神から与えられたものを、人の解釈の中に押し込めることなどできないことです。

 新しいぶどう酒は新しい皮袋、すなわち心を一新してこの新しい情報を受け取る者とならなければ、このぶどう酒を入れることはできないんですね。

 それはあなた自身で踏み出すことのできる、心の第一歩なのです。


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2020.09.10.Thu 12:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #224
   
【 断食の意味 】イエス様のことば 49

"イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。"
 マタイの福音書 9章15節

 今日のテーマは「断食の意味」です。

 イエス様が来られる前からキリストの来臨を預言し、民衆に悔い改めの洗礼を授けていたバプテスマのヨハネという人がいました。彼の弟子たちがイエス様のところに来て質問しました。
 なぜあなたの弟子たちは、皆が当然のこととしてやっている断食を全然しないのですかと・・。
 ユダヤ人は皆、週に二回断食をしていました。

 断食というのは日常の雑事から離れ、神との関係を深めるという、大切な時間であり習慣でした。イエス様も人の子として来られ、キリストとしての働きを始められるその最初に40日間の断食をされています。

 しかしイエス様に従っている弟子たちにとって、今は神との関係を深めるために日常から離れて一人で祈らなければならない・・そのような時なのでしょうか。これが今日の話です。

 神の子なる神が地上に来られ、「わたしを見た者は、神を見たのです (ヨハネ14:9)」と言われるその方が目の前にいるのです。これ以上に近づくことはできないところに神がおられるのです。そんなときに、神に近づこうとして断食する・・。それは目に前におられる神の子なるキリストを横目にして、一生懸命祈っているのと同じだという話です。

 花婿という言葉は婚礼を前提としたことばです。そのめでたい時に花婿の友人たちは花婿に付き添ってその準備をしているのです。悲しんでいる場合ではありません。花婿は共にいて今は寝食を共にしているのです。するべきは喜ぶことです。これ以上に神に近づくことはできないのですから。断食をして悔い改めている場合ではないのです。

 しかし、花婿だと思っていたその方が、取り去られる時が来る・・。それは言うまでもなく、十字架にかかられ、死なれ、三日目によみがえり、天に上って行かれる・・そのときのことです。
 その時には彼らは断食をします・・とイエス様は言われました。それは主イエス・キリストとの関係を深めるために、求めるために祈る時です。

 弟子たちは、イエス様が復活されてから40日間は多くの弟子たちに現れ、多くのことを語られ、共に食事までされました。しかし「助け手を送るから」と約束され、イエス様は天に上られ、元におられた「神の右の座」に帰られたわけです。
 弟子たちは、祈りました。目の前から取り去られた主を求めての祈りです。それは当然のごとく「断食を伴った祈りの時」だったのではないでしょうか。そして、10日間祈り続けたとき、弟子たちの上に圧倒的な力をもって聖霊がくだったのです。

 イエス様は、ご自分のことを預言したバプテスマのヨハネの弟子たちにさえも、このような話をされなければならなかったわけです。しかしイエス様の弟子たちといえども、この話の真意はわからなかったはずです。すべてはイエス様がよみがえられてから50日目のペンテコステと言われる聖霊の圧倒的な降臨によって、はじめて目が開かれるんですね。

 断食・・、それはもっともっと真剣に主を求める・・そういうときにするものなんですね。


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2020.09.09.Wed 10:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #223
   
【イエス様の招きにあずかる者】イエス様のことば 48

" イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
  マタイの福音書 9章12~13節

 今日のテーマは「イエス様の招きにあずかる者」です。

 この場面は、イエス様が大勢の取税人や罪びとたちと一緒に食事をしているのをパリサイ人が見て、弟子たちに質問するところから始まります。
「なぜあなた方の先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と。それを聞いていたイエス様が言われたことばが今日の箇所です。

 取税人とは前回説明した通り、同じユダヤ人から税金を取り立てで私服を肥やす嫌われ者たち。そしてここでいう罪人とは、きよめの規定をはじめとするパリサイ人の規定を守らない人たちのことを言っています。どちらかというと「だらしのない人たち」というようなニュアンスでしょうか。一見近寄りたくないなと思うような、いわゆる世間の嫌われ者たちです。

 医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です、とイエス様は言われました。
 話の流れから、病人とは取税人や罪人たちのことで、丈夫な人とはパリサイ人のことです。

 イエス様は、丈夫な人であるパリサイ人たちに「行って学びなさい」と言われました。彼らは何を学ばなければならないかというと「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」ということだというのです。
 要するに「あなた方は父に喜ばれる者となっていない。いけにえをささげるなどの規定に終始して、本来持つべき愛を全く忘れている。」と言われたわけです。だったら「正しい人」ではないですよね。

 結局「丈夫な人」「正しい人」とは、自分は健全で神の前に正しいと「思っているだけの人」のことなんですね。
 イエス様はパリサイ人たちに対して強烈な指摘をされました。「あなたたちは教える者でありながら、一番大切なものを忘れている。それでいて自分が神の前に出る資格がないなどとは、これっぽっちも思っていないでしょう」と。
 本当はこのパリサイ人たちも医者が必要なんですね。ところがイエス様が招かれるのはこの罪人たちの方だというのがこの話の大切なポイントです。

 取税人や罪人たちは世間からも見下されている人たちでした。彼らは「神の前に正しい」などという感覚はどこにもありませんでした。その彼らとともにイエス様は食事をされたのです。

 結局イエス様の招きにあずかるのは、自分が神の前になど出る資格などないことを「知っている人たち」なんですね。

 祈り・・「神さま、私があなたの前に出る資格など、これっぽっちもないということが、もっとはっきりわかるようにしてください。」
 

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2020.09.09.Wed 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #222
   
【天からの声】イエス様のことば 47

" イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。"
 マタイの福音書 9章9節

 取税人マタイという人が出てきます。彼がこのマタイの福音書の著者です。

 この出来事は、イエス様の活動拠点である小さな町カペナウムでの出来事でした。ですからマタイはイエス様のことを見聞きしていただろうし、イエス様も以前からマタイの存在は認めておられたという関係だったと思われます。

 取税人とは、税を取り立てる仕事をする人ですが、それは支配国ローマに納めるための税金でした。しかもその仕事をしていたのは、同胞のユダヤ人でした。彼らは同胞でありながらローマの手下ということで、民衆にその権力を振るう者であり、その地位を利用して私服を肥やしているというのが当時の取税人であったようです。当然のごとく、彼らは裕福でありながら嫌われ者でした。

 彼らは堂々と悪を行い、それを正当なことだと自分に言い聞かせていた人たちなんですね。今の世においても、それを聞いてドキッとする人は多いのではないでしょうか。
 人に指摘されてはじめて気がつくことって、結構ありますよね。性格のことだったりすることは良くありますが、人に悪事だと指摘されて初めて、自分をごまかしながらそれをやってきたことに気づかされて、内心本当にびっくりしてしまうことって、なかったですか。

 イエス様はマタイに声をかけました。「わたしについて来なさい」と。それは、マタイにとっては自分がしている悪に目を向けされられる瞬間でした。なぜならイエス様に付いていくということは、それを捨てるということですから。

 彼は立ち上がってイエスに従った・・。彼の決断の中には、罪との決別という意味があったわけです。

 イエスに従うということの中に、罪との決別があるということを、人々は直感的に知っているんですね。ですから、イエスの方に来ることを恐れる・・。
 ですからそれは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17) ということになるわけです。

 イエス様についていこうと立ち上がったマタイの心の中は、なんとすっきりしたことでしょうか。自分を縛っていた罪から抜けられないという無力感と、富への執着との縁を、きっぱり立ち切ったというわけです。

 わたしについて来なさい・・。それはすべての人が受け取るべき言葉なんですね。

 それは、今まで目を逸らしていた神、罪、死、赦し、永遠のいのち、そして愛・・そこに目を向ける時が来たんだよという「天からの声」なんですね。

 この言葉を受け取る方に、神の大いなる祝福がありますように。

 God Bless You !
 
 
2020.09.07.Mon 11:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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GraceCafeたいむ #17
〜神の御子なる神〜

ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「初めにおられた神のみことば」から

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=w1v8JlTPWsg

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2020.09.05.Sat 08:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #221
   
【初めから否定している人】イエス様のことば 46

"『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」
 そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。"
 マタイの福音書 9章5~6節

 前回と同じ場面。中風の人がいやされるというその中で、イエス様と律法学者たちとのやりとりがあります。
 律法学者たちは「あなたの罪は赦された」と中風の人に宣言したイエス様のその言葉につまづいて、心の中で「この人は神を冒涜している」と思いました。そんな言葉は本当の神以外にはだれも言うことはできないことを知っていたからです。
 そこでイエス様は彼らの心を見抜いて「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」と言われました。そしてそれに続くのが今日の箇所です。

 今日のテーマは「初めから否定している人」です。
 
 人を赦す権威を持っているのは神と御子キリストのみです。人にはそれをする権威はありません。
 ですから素直な心で「あなたの罪は赦された」というイエス様の言葉を聞くなら、その言葉に驚愕し、これは神しか言うことのできない言葉ではないかと思い、ひょっとしたらこの方が本当に来たるべきキリストなのかもしれないと思うべきなんですね。彼らは律法学者という、聖書に精通した人たちなのですから・・。

 心の中で悪いことを考えている・・、それは初めからキリストを否定する心のことです。

 そこでイエス様は、「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいか・・と言われました。
「あなたの罪は赦された」とか言って偉そうにするのは簡単だけど、わたしが実際にその権威を持っているということを、こうして見せなければあなた方は信じないのかな・・そういう思いを込めてイエス様は「起きて歩け」と言われ、全ての物事の上にあるキリストとしての権威を見せられたんですね。
 イエス様は、ご自身が地上で罪を赦す権威を持っているしるしとして、中風の人をたちどころにいやされ、その男は今までその上で動けなかった床を自分で担ぎ上げて帰って行ったのです。

 もし律法学者たちがこの奇跡を見て、この方は本当にキリストなのではないかと思い、さらにイエス様に注目するのだとしたら、それは「悪い考え」ではないわけです。しかし彼らの目にイエス様は「神を冒涜する人」としか映らなかったんですね。

 初めから心を閉ざして、自分が知っている世界の中でしか考えようとしないのだとしたら、イエスが神の子キリストだなどという発想には決して行き着かないんですね。神は私たちが考えられる範囲をはるかに超えたお方なのです。

 イエスは救い主、神のひとり子なる神・・。これは私たちのキャパをはるかに超えた情報です。

 でもその前に日本人は、唯一のまことの神がおられる、創造主なる神がおられる、自分を造られた父と呼ぶべき神がおられる・・。まずそのことを受け取る必要があるのかもしれません。

 聖書の神は「わたしが神である。ほかにはいない」と、はっきり言われる神なのです。(イザヤ45:22)

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
  
2020.09.04.Fri 08:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #220
   
【最初に必要なもの】イエス様のことば 45

" すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。
 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。"
 マタイの福音書 9章2節

 このことを言われた後に、イエス様を批判的な目で見る律法学者たちとのやりとりがあったのち、イエス様は中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。
 すると彼は起き上がり、家に帰った・・とあります。書いてはありませんが、当然イエス様が言われた通り、彼は「床」を自分で担いで家に帰ったのだと思います。人々はそれを見て、心底驚いてしまった・・という話です。

 今日のテーマは「最初に必要なもの」です。

 この中風の人はとても愛されていた人のようです。彼の知人たちが「床に乗せたまま」という、その床とはどういうものか私は知りませんが、寝ていたまま、その下にある板のようなものを持ち上げて、彼を連れて来たわけです。
 床をそのまま持って来るというのはちょっと異常な光景だと思います。それほどに友人たちは彼を愛し、彼のために常識はずれなことも、彼が癒されるのだったらという思いでやったわけです。
 それをイエス様はご覧になりました。そして、中風の人に声をかけられたんですね。

 「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。イエス様は「彼らの信仰」に応えられたんですね。彼らの信仰の土台にあるのはこの中風の人に対する愛といつくしみの心でした。
 イエス様は中風の人に「子よ」と言われました。そこには「人々に愛される幸いな子よ」という思いがあったと私は勝手に感じています。
 しかしイエス様は彼らが期待していたように、そのお言葉一つで彼を立ち上がらせることはなさいませんでした。イエス様はその人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。

 中風の人に一番必要なこと・・それは実は「罪の赦し」でした。それは神の前に完全に受け入れられるということです。彼は自分の哀れな境遇を見せつけられて、そんな自分がまさか神の前に完全に受け入れられるなどとは夢にも思っていなかったはずです。彼はその言葉を聞いたとたんに、自分に対する見方がその一言で変わってしまったんですね。
 彼はその一言で、もう自分を責めなくて良いのだよ、あなたは神に全面的に受け入れられているんだよという「神の権威による赦し」を受け取ったんですね。

 その時彼はまだ床に寝たままでしたが、すでに彼はイエス様が言われた言葉をそのまま受け取る人になっていました。イエス様が言われた通りにしたんですね。そうしたらそれができてしまったのです。
 起き上がって、床を担いだ・・。人々はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめたと書いてあります。
 彼は神の赦しをいただき、イエス様の言葉に従う者となって、神の御名があがめられるためにそこに立つ人に・・なっていました。

 イエス様は最初から起き上がれとは言われず、彼が本当に必要なものをまず与えてくださったんですね。
 
 自分の不遇にばかり目を向けていた彼に、そんなことばかりに目を留めていないで「しっかりしなさい」こちらを見なさい・・あなたは神に受け入れられ、愛されているのですよ・・とイエス様は言われたんですね。

 神はあなたに一番必要なものをまず与えてくださるんですね。

 それはあなたが願っていることとは違うかもしれませんが・・。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.09.03.Thu 10:36 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #219
   
【イエス様を迎えに出る】イエス様のことば 44

"さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。"
 マタイの福音書 8章28節
 
 この話の中でイエス様が言われたおことばは、悪霊どもに対する「行け」という言葉だけでした。
 イエス様の言葉シリーズなので、その「行け」というおことばに注目すべきところですが、ここを読んでいて教えられたことは、悪霊につかれた二人の男たちがしたことについてでした。

 今日のテーマは、「イエス様を迎えに出る」です。
 
 ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地に悪霊につかれた人が二人いました。その彼らがイエス様を迎えに出てきたというのです。彼らについていた悪霊どもは、イエス様が来られたというので震え上がっていました。だったらその男たちにイエス様から離れるように仕向けて、山奥にでも隠れてしまえば良いのに、この二人はイエス様を迎えに出てきたというのです。
 彼らは凶暴で手がつけられませんでした。彼らは自分で自分をコントロールできないという絶望の中にいたわけですが、とにかくイエス様を迎えに出てきたんですね。それは足を引きずるようにして・・だと思うんです。

 それがこの二人の男ができた唯一の行動でした。あとは全くコントロールが効かなかったんです。そして、ここでわかることは、悪霊どもはそれを阻止することができなかったということなんですね。男たちの行動によって、悪霊どもは否応無しにイエス様と対面させられてしまったのです。
 そこで悪霊どもは苦し紛れに、豚の中に入らせてくださいと言います。その時にイエス様が言われたことばが「行け」でした。そして、その通りになるのです。

 二人の男たちは、イエス様に助けを求めて、悪霊を追い出してくださいと願ったわけではありません。ただ最後の力を振り絞ってイエス様の前に出て行ったのです。
 そこでこの二人の男とそこにいた人々は、イエス様の御力の権威を見ることになります。悪霊どもはイエス様が行けと言われる前からイエス様の意向は分かっていました。ですから行き先は豚にしてくれませんかと言ったわけです。そして大量の豚が死んでしまいます。

 この二人の男がイエス様のところに出て行くには、全力を振り絞る必要がありました。しかしそのあとは何もしていないのです。しかしイエス様はその男たちが必要としていることをご存知でした。それは言うまでもなく、悪霊からの解放です。そして、イエス様は悪霊に対する「行け」の一言で、全ての悪霊どもを男たちから追い出されました。

 問題を持ち、重荷を負っているあなたがすること・・、それはイエス様の前に出ていくことだけなんですね。

 この豚は地元の異邦人たちが大事に飼っていた群れでした。それが全部死んでしまったので、人々はイエス様のところにきて、ここから出て行ってくださいと言います。聖書ではそのような穏便な言葉で書かれていますが、飼い主からすれば「なんてことするんだ、ここから出ていけ ! 」ということになります。

 飼い主にとっては、二人の男が解放されるよりも、自分の財産が守られる方が文句なしの優先です。二人の男たちは手に負えない存在でしたが、なんとなく見て見ぬ振りをしていれば飼い主たちの普段の生活に支障はありませんでした。
 しかしイエス様は、はっきりと人々に見せられたんですね。地上の財産よりも縛られている男たちの解放の方がはるかに優先させるべきことなのだということを、あえて豚の飼い主の財産を犠牲にすることで示されたのではないでしょうか。

 あなたの解放・・それは神様の第一の願いなんですね。

 イエス様のところに行く・・それがどんなに重たくても、出て行きさえすればその人の上に、神のその願いが実現するんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2020.09.02.Wed 09:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #218
   
【主は我らの味方】イエス様のことば 43

" イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」
 それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。"
 マタイの福音書 8章26節

 今日のテーマは「主は我らの味方」です。

 イエス様は弟子たちに命じ、向こう岸に渡る小舟の用意をさせ、ご自身も一緒に舟に乗られました。
 ガリラヤ湖は時々突風が吹くそうです。その時も湖は大荒れになり、舟は大波をかぶったとあります。しかし、弟子たちの中には漁師が何人もいましたから、ちょっとのことでは動じないはずです。でもこの時はその漁師たちも怯えてしまうような荒波でした。

 弟子たちはイエス様に叫びました。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と。その時イエス様が言われたのが、今日の箇所です。

「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」・・よくよく考えると、イエス様はわけのわからないことをおっしゃっています。
 弟子たちは、危機に際してイエス様を呼び求めたんです。これは信仰者の模範なのではないでしょうか。そしてイエス様がそれに応えてくださる。ここに見事な信仰生活の模範があるはずですが、弟子たちは「信仰の薄い者たち」といって叱られてしまうのです。

 そのヒントはこの一言にあります。「どうして怖がるのか」。

 もしそこに模範的な姿勢があるとしたらどういう風になるのでしょうか。
 大嵐になって、いのちも危うい状況になった時に、「ああ私たちはイエス様と一緒にこの舟に乗っているんだ」と、心を強められ、おもむろにイエス様を起こし、「イエス様、ちょっとやばいです。」と言って助けを求める。それでイエス様は風と湖を叱りつけて、湖は凪になる・・。
 そうすれば、信仰の薄い者たちと言って叱られなくて済んだのかもしれません。

 しかしそれは、なかなか難しいですよね。私だったら、この弟子たちと全く同じ反応をしたのではないかと思います。ですからイエス様に叱られてしまうんです。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者だ」と。
 私たちは、何度でも同じことを学ばないと「怖がることのない信仰の勇者」にはなれないのかも知れません。
 
 イエス様は言われました。「どうして怖がるのか」と。それは、あたかもイエス様がおられないかのような反応だというわけです。しかし、怖い時は怖いですよね。おそらく弟子たちはこのようなことを何回も繰り返しながら、風も波も従わせることのできるイエス様、この方はすべての支配の権威のかしら、神の権威を持たれる方なのだということを学んでいったのだと思います。

 私たちは命が危ないような状況のもとでは確実に恐れてしまいます。しかし、その時こそ、全能の主が共におられることを思い出す時なのだと、そのことを学びなさいと言われているようですね。

 主は、すべての出来事をご存知で、その上に圧倒的な支配者としていつも共にいてくださる方なんですね。だったら何故、私たちをそんな怖い目に合わせるの ? という話になるわけですが、主は私たちのうちにある不信仰な部分も初めからご存知なんですね。
 イエス様を信じる者が試練に会うのだとしたら、それは信仰が養われるために主が与えてくださっているものなのだ・・それがこのことを通して学ぶべきことなのなのかもしれません。

 主はあくまでも、私たちの味方なんですね。

詩篇 118篇6~9節
" 主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。
 主は私の味方 私を助ける方。私は私を憎む者をものともしない。
 主に身を避けることは人に信頼するよりも良い。
 主に身を避けることは君主たちに信頼するよりも良い。"

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 今日も良い一日を!

  
2020.09.01.Tue 08:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #217
   
【本番は死で終わる】イエス様のことば 42 

" また、別の一人の弟子がイエスに言った。
「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。
「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」"
 マタイの福音書 8章21~22節

 前回のテーマは「弟子の資格」でした。ここではその二つ目。しかも「弟子」に対して、すなわちすでにイエス様に従って来ている人に言われていることです。

 「父を葬る」というのは、その人にとってはとても大切なことです。しかしイエス様は、それは人に任せておいて私に従って来なさい・・と言われたわけです。

 聖書には、葬儀自体のことを軽く考えていると思えるような箇所はありません。丁寧に葬られるということは祝福であるというのが、旧約聖書に一貫して見られる見解です。
 我々日本人には、葬るという言葉の中に、死者を見送ることでその魂を慰めるという思いが込められています。仏教などにおいては、その霊が「成仏」するようにと、残された者が最後にできる限りの事をしてあげるという思想があります。
 ですから、それは人に任せてこちらに来なさいという言葉を、私たちはとても心無い言葉のように受け止めてしまいがちです。
 
 イエス様の例え話の中に、ラザロという、生涯貧しくて良いことなど何もないまま死んで行った人と、毎日贅沢に遊び暮らしていて死後にはちゃんと葬られた金持ちの話があります。(ルカ16:19-31)
 彼らには死後、行くべきところがあるというのです。しかしその行き先は全く違うところでした。貧しく不幸な男は「アブラハムの懐」で、金持ちが行ったところは「炎の中で苦しむよみ」でした。
 そしてよみから「アブラハムの懐」は遠くに見ることができるけれど、両者の間には深い淵があると書かれています。それはその行く先は定められたものであって、もう変えることはできないということを示しています。

 私たちは、死後に神がその人の上になさることに対して、手を加えることはできないんですね。地上の人の祈りによってすでに死んだ者の行く先が変わったり、死んだ者がそこで悔い改めていく先が変わるということは、どこにも書かれていないのです。死んだらその先のことがそこで決定する。地上の生涯があって、あとは「自分の行いに応じてさばかれる」(黙示録20:12) というのです。

 そのことが示しているのは、イエス様が与えてくださるものを受け取ることができるのは、生きている間だけだということです。あの金持ちは、生きている間だったらアブラハムの懐へと、行く先を変えるチャンスはあったということです。
 イエス様はすべての罪人のために、永遠のいのちへと行先を変える道をご自身で開かれ、それを人々に示されました。その「罪人」というのは、生きている人のことなんです。
 
 今、生きているこの生涯は、一度きりの「本番」なんですね。その本番は「死」で終わるのです。そしてあとは「報い」の領域に入るんですね。

 わたしの弟子は、今生きている人のために働くようにわたしが召した者です。その働きは時間との戦いです。なぜなら人は、死ぬのですから・・。

 これがイエス様が言われたことなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.31.Mon 11:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2005たいむ

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ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #16

賛美歌 「私が悩む時も」から 〜与えられる確信〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=BzrKaOu8xzw

God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
2020.08.29.Sat 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)
 
G-Cafe 聖書のことば #216
   
【弟子の資格】イエス様のことば 41 

" そこに一人の律法学者が来て言った。
「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
 イエスは彼に言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」"
 マタイの福音書 8章19~20節

 群衆が周りにいるのを見て、イエス様は弟子たちに、向こう岸に渡るように言います。そのとき一人の律法学者が来て・・と、これが今日のみことばの場面です。
 この律法学者は、弟子たちがイエス様に命じられて向こう岸に渡る準備を始めるのを見て、「私も」と言わんばかりに慌ててイエス様のところに来て言いました。「 先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」・・と。要するに「私もあの弟子たちの仲間に加えてください」ということでした。
 この律法学者に対してイエス様は、ほとんど突き放したような言い方をされます。

 今日のテーマは「弟子の資格」です。

 律法学者は、自分はイエス様の弟子に加えられるのにふさわしい者であると思っていたようです。ところがイエス様は意外に冷たい反応をされたわけです。
 人の子・・、枕するところがない・・。それは暗に「あなたにはふさわしくない」と言われているような感じです。

 私たちは、自分がそこに立つのにふさわしい者だと、何の疑問もなく思っていることってないでしょうか。ところが周りの人たちは、そうは思っていないということ・・ないですか。
 自分には当たり前のことが、他人はそう見てはいない・・。
 自己中心の実態を自分の内に見ることは辛いものです。ですから本能的にそれを避けてしまうんですね。でも周りの人からは全く違う見方をされているということに気がつく時、その硬い壁に少しヒビが入るんですね。

 この律法学者には、その必要があったのかもしれません。

 律法学者は多くのことを「知っている人」でした。それに対しイエス様の弟子たちは、おっちょこちょいではあったけど、ひとたびそう思ったら一直線に進んでしまうような素直なところを持つ人たちだったことが、いろいろな記事から伺い見ることができます。
 この律法学者は、彼ら弟子たちの仲間に入ったら、リーダー格になれると思っていたかもしれません。なぜなら自分は彼らよりも確実に「上の人」だったからです。

 こんなみことばがあります。
"人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。"
 コリント人への手紙 第一 8章2節

 この律法学者は、自分が持っていると思っているものを捨てる必要があったんですね。

 あなたがわたしに従ってこようと思うのなら、自分の能力や知識や実績とかいうものへのこだわりはきっぱり捨てなさいと、これはイエス様の私たちへの言葉なのではないでしょうか。

 祈り・・「主よ、私の内にある自己中心の心が、もっと見えるようにしてください。」

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2020.08.28.Fri 11:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #215
   
【イエス様を驚かせた信仰】イエス様のことば 40 

" しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」"
 マタイの福音書 8章8~9節

 前回の続きで、イエス様をびっくりさせた百人隊長・・その信仰を見てみたいと思います。

 百人隊長は、自分のしもべが中風のためにひどく苦しんでいるので助けて欲しいとイエス様に懇願しました。(5節) そこでイエス様は「行って彼を治そう」と言われました。普通だったら大喜びで家まで案内するところが、この百人隊長はそれには及びませんと言ったのです。

 百人隊長は、まず「主よ」とイエス様に向かって言いました。前々回のツァラアトを患った男と同じです。その時にも書きましたが、新約聖書における「主」という言葉には「創造に関わる主権を持たれるお方」という意味があります。この百人隊長もイエス様を、神の権威を持たれるお方だと認識していたことがわかります。
 そしてこの百人隊長がさらに言ったことは、まさに驚くべきことでした。一緒に来てくださるには及びませんというのです。イエス様に来ていただかなくてもしもべは癒されるということを私は知っていますから・・というのです。

 百人隊長は自分の立場から「権威」というものについて、自然と身についた感覚を持っていました。それは彼自身もローマ皇帝によって付与された「百人隊長」という肩書きが持つ権威によって、100人の兵士たちは自分に反抗することもなく、しっかり従って動くというものでした。彼は「権威」が兵士を動かしているということを良く知っていたんですね。

 そして彼はイエス様に言いました。あなたのおことばには次のような権威があります・・と。その権威とは、遠く離れたところにおいてでも、イエス様がひとたびおことばを発するならば、全てのものがそれに従うのだというものでした。全てのものとは人だけではなく、病も、もちろん悪霊もです。なぜなら、この方は父なる神と共に天地万物を造られたお方で、それを消滅させる権威さえも持たれるお方なのだから・・。

 百人隊長はイエス様の全てを言い当てたようなものです。

 イエス様は心から驚かれ、そして喜ばれました。そして言われたのが10節のおことばです。

「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」

 百人隊長の認識は、彼はユダヤの民からすれば異邦人ですから、自分が神の前に出る資格などもともとないというものでした。ですから自分の家に迎える資格などはないと言いました。けれども目の前におられる方が全てのものの上に権威を持たれるお方であることを認め、ただあわれみを求めて懇願した(5節) のです。

 実にこの百人隊長は、全ての人が神の前に出るときに持つべき、基本的な姿勢を示してくれたんですね。

 ・・するとちょうどそのとき、しもべは癒やされた。(13節)


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.27.Thu 09:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #214
   
【問われるのは信仰】イエス様のことば 39

" イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」"
 マタイの福音書 8章5~12節の中から10.12節

 前回はツァラアトに冒された人の話でした。ここでは百人隊長という、ローマ兵の話が出て来ます。百人隊長とは100人ほどの歩兵の指揮官です。ということは、ユダヤ人ではないわけです。それに対して12節の「御国の子ら」とは、イスラエルの民すなわちユダヤ人を指して言われている言葉です。

 今日のテーマは「問われるのは信仰」・・です。

 イエス様がびっくりされるというシーンが福音書にはいくつか出て来ますが、それはどれも「信仰」の姿勢についてイエス様が本当に驚かされ、喜ばれたという出来事です。そしてイエス様を驚かせたのは、いつもユダヤ人ではない異邦人だったんですね。
 それまで、神が愛し直接導かれて来たこの民族が、イエス様こそが聖書に書かれているキリストだと判別することができず、「これほどの信仰を見たことがありません」とイエス様に言わしめたのは常に異邦人だったというわけです。

 イエス様は「多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。」・・と言われました。
「多くの人が東からも西からも来て」というのは、地の四方からという意味で、あらゆる民族,国民を指すわけです。ですからこれは、御国の民となるのは「あなたがた」ユダヤ人に限っているわけではないんですよ・・という話なんですね。
 そして「アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着く」・・これはあきらかに地上のことではありません。
 要するにこの話は、この世の先に用意されている「天の御国」のことを言われているんですね。そこで暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりする・・。それはまさに世の終わりにある、さばきの時のことを言っているわけです。(黙示録21章)

 私たちの人生は、この世で終わりではないんですね。イエス様が話されたことも聖書に書いてあることも、そのことをはっきり言っています。それらのことは、一般的に受け止められているよりもはるかに具体的なんですね。

 イエス様の話はこの「天の御国」を見据えての話であるということです。ユダヤ人にとって、神の祝福が異邦人に及ぶというのはおよそ考えられないことでしたが、イエス様は、救いは全世界の全民族,国民に及ぶのだということを、このときから予告されていたんですね。

 ユダヤ人にしろ異邦人にしろ、問われるのは、自分と神との個人的な関係・・すなわち信仰だというわけです。
 次回は、イエス様を驚かせたこの百人隊長の信仰を見てみましょう。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.08.26.Wed 11:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #213
   
【栄光は神のもの】イエス様のことば 38

"イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」"
 マタイの福音書 8章4節

 前回は、ツァラアトを患った人をイエス様がいやされたという話でした。そして今日の箇所は、その最後にイエス様がその人に言われた言葉です。

 誰にも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい・・。

 なぜイエス様は誰にも話すなと言われたのでしょうか。

 おそらく彼は、自分のことをみんなに言いたくてしょうがなかったはずです。「イエスという方が私をいやしてくださった・・」と。
 イエス様は他にも多くの奇跡のみわざをなされたので、民衆は続々と集まってくるようになりました。しかしイエス様はこの群衆がどうしてご自分のもとに集まってくるのかをご存知でした。それは、病をいやし、パンを与えてくださる方だからです。
 その群衆にイエス様は多くのことを話されたのですが、彼らにはたとえ話でしか神の国のことをお話しになりませんでした。それは、イエス様こそが聖書の初めから証しされているキリストであるということを、群衆は決して受け止めることができないということを、はじめからご存知だったからです。

 事実、多くの人たちはこの奇跡の人を、当時この地を支配していたローマ帝国から救い出してくださる方だと受け止めるという傾向がありましたし、預言者だという者もいました。ひどいのになると、あれは悪霊によってやっているわざだと揶揄する者もいる始末でした。
 このいやされた人においても、騒げば騒ぐほど人々はイエス様のことを勘違いして受け止めてしまう、というのは火を見るよりも明らかなことでした。
 しかしイエス様が語られることは、この地上のことだけではなくて永遠のことで、それは神が計画されていることで、そのことのために、神の御子である神が「人の子」の姿をとってこの地上に来た・・それが「わたし」イエス様なのだということだったわけです。

 そこでイエス様はその人に「人々への証しのために」と言われ、神殿に行ってモーセが命じたささげ物をしなさいと言われたわけです。
 この人がイエス様のことを正確に証言する方法はそれしかないとイエス様は分かっておられたんですね。それは、そこに起こった出来事の根本原因は、イスラエルを導いてこられた天地万物の創造者であるまことの神なのだということを、この人が言い表すことのできる唯一の方法であるということです。

 すべての栄光を神に帰せよ・・。

 私たちが生かされているこの地上でのすべての事象は、この神の存在と関係があるんですね。しかしこの世では栄光が「人」に行ってしまうんですね。
 オリンピックの優勝者が、その栄光は自分のものではなく、天地万物を作られたこのまことに神のものだとはっきり言い表す・・そのようなことを聞くことがあります。
 その能力も、努力できたこと自体も、またここまで来ることができた全ての環境も、神が与えてくださったからこそ私は今このメダルを手にしているのだ・・と。

 太陽も、空気も、いのちも、父なる神の恵みによって与えられているのだと、いつも神をほめたたえ、神をあがめる・・。これが神を知る者がするべきことなんですね。

 イエス様が彼に言われたこと・・それは、そのことの栄光は父なる神のものだということを、人々に行動で示しなさい・・ということだったわけです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.08.25.Tue 10:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #212
   
【信仰があるところに奇跡が】イエス様のことば 37

" イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
 すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"
 マタイの福音書 8章3節

 前回で山上の垂訓は終わり、「イエスが山から下りてこられると」・・という8章の話に入っていきます。
 ここに登場するのは「ツァラアトに冒された人」です。ツァラアトとは、昔の訳では「らい病(ハンセン病)」となっていました。ですが聖書時代のこの言葉はもっと広範で、皮や家の壁などにも見られる現象も含まれていました。なので「ツァラアト」という馴染みのない言葉に訳されるようになったという経緯があります。

 その人がイエス様のところにやってきました。ツァラアトに冒された人は、汚れた人として人々に忌み嫌われる存在でしたが、その彼が群衆に囲まれたイエス様のところにやってきたのです。
 おそらく群衆は彼を認めるやいなや、さっと彼から離れたのだと思います。彼は、何なくイエス様の真ん前に来ることができました。でもそれはとても勇気の要ることだと思います。
 
 彼の中には一つの信仰がありました。彼はイエス様に向かってこう言ったのです。
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と。

 まず彼はイエス様を「主」と呼びました。新約聖書における「主」という言葉は、原語はギリシヤ語のキュリオスですが、それは創造に関わる主権を持たれるお方という意味があります。
 それはイエス様を神と同一の方と認めて呼ぶ、最高の称号です。彼にはイエス様に対する正しい認識が、そのときすでにあったのです。
 どこでどういう情報を得てそのような信仰を持つに至ったかは、ここには書かれていませんが、とにかく人の話や噂を聞いて、彼にはイエス様を「主」と呼ぶ心の用意ができていました。

 そして、彼は自分の信仰をイエス様に申し上げました。それは「お心一つで私をきよくすることがおできになる方」、すなわちイエス様がそのように望まれさえすればその通りになるのだという信仰です。イエス様が何にも勝る権威をお持ちのお方だということを、彼は認めていたということです。

 イエス様はその彼の信仰に応えられたんですね。イエス様が奇跡をなされる時、そこにはいつも大きな原則があります。それは、イエス様の力は常に「信じる者」の上に現され、不信仰な人々の中や地域では、「彼らの不信仰にゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」(マタイ13:58) ・・という原則です。

 イエス・キリストは、あなたが信じて心に受け入れさえすれば・・、あなたという存在の上にその願われることを実現される・・そういうお方なんですね。

 イエス様は「お心一つできよくすることがおできになる」という彼の信仰に対して、「そうです。それはわたしの心です」とお答えになったのです。何といううるわしい関係でしょうか。
 そして、言われただけではなく、「すぐに」かれのツァラアトはきよめられたのです。

 信仰がなければ、大きな恵みを与えられるはずの者も、受け取ることができないのです。

 イエス様は、あなたが人からはさげすまれ、嫌われるような存在であったとしても、あなたの側からイエス様に近づき、口を開き、イエス様が必要であることを申し上げるとき、あなたに具体的に応えてくださるお方なのです。

 イエス・キリストを救い主として信じるとき、あなたは奇跡を見る人になるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.24.Mon 08:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2005たいむ

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ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #15

賛美歌 「私が悩む時も」から 〜神の優しさ〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://m.youtube.com/watch?v=EJ8lq5WNChk

God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.22.Sat 07:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #211
   
【偽預言者】イエス様のことば 36
 
 山上の垂訓・第30回

" 偽預言者たちに用心しなさい。
 彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。"
  マタイの福音書 7章15節

 イエス様が弟子たちに教えられたこと・・、それはもっぱら心のあり方でした。それらはイエス様の弟子として、世に出て行く際に土台となる大切な教えでした。そしてこの最後のテーマ。これも自分に対する吟味へと私たちを導いてくれるんですね。

 偽預言者たちに用心しなさい・・・。

 彼らは「羊の衣」を着ています。それはイエス様のしもべを装うということです。ところがその内側は「貪欲な狼」・・それは多くの魂を自分のものにしようと、獲物を探し回っているというのです。それは、人々がイエス・キリストの方に行くのではなく、自分に寄ってくることを願っているということです。

 そのあと28節までに語られていることをざっと見てみますと・・、
 その見分け方・・。それは「実」となって堂々と実ってしまうので、見ればわかるというのです。悪い木が良い実を結ぶことはないわけで、それはもう一目瞭然だというわけです。そして、そのような存在は「切り倒されて、火に投げ込まれる」・・(〜20節)
 火に投げ込まれるというのは最後の審判の様子です。世の終わりに、地上に生きたすべての者は「いのちの書」に従ってさばきを受けるというのです。(黙示録20章)
 その日には多くの者が「預言をした、悪霊を追い出した」と、その実績を並べ立てるかもしれないが、主はその者を「不法を行う者たち」と言ってさばかれるのだというのです。

 そして24節で言われていることがポイントとなります。それは「わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行う者とそうでない者」というところ・・。
 これらの言葉とは、ここまでずっと語られてきた山上の垂訓のことです。ここでも既に30回目となっています。それを行うかそうでないか・・。
 そこで問われていることは大雑把に言ってしまえば、父なる神との関係について自分の心の中を真剣に問うているのか・・ということなんですね。

 私たちと神との関係の基本は、神の大きな愛と犠牲のゆえに、赦された者となっているということです。そしてその赦しはあのキリストの十字架が表しているのだということです。
 それほどにあなたの罪は動かし難く、またそれがそのままそっくり赦されているという、その神の恵みの基本にあなたはいつも立っているのか・・。これが実は問われている核心の部分なんですね。

 そしてその「神との心の関係」がしっかりしているならば、洪水や風が吹いたとき、すなわち逆境や困難の中に立たされたときにもそれはびくともしない・・というわけです。(〜27節) ここに実を結ばせる基本があるというのです。
 
 これが、山上の垂訓で言われた最後のメッセージです。

 あなたの心の向きがどこを向いているかが、全てを決めるのだというのです。

 これは、まだキリストを知らない人々に言っているのではなく、キリストに従う「弟子たち」への言葉です。

 キリストに出会って、キリストと共に歩む者とされたのなら、しっかり主に繋がっていなさい。そして自分が以前はどういう者で、どのようにして神と共に歩む者とされたのかを忘れないようにしていなさい・・これがこの山上の垂訓の最後のまとめなんですね。
 自分が偽預言者のようになっていないか、自分の心はキリスト者を装っていながら、その心は父なる神にではなく、自分にばかり向いていないか、よく自分を吟味しなさい、というわけです。

 偽善者たちに用心しなさい・・。その偽善者は自分の内にもいるかもしれないのです。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節)


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2020.08.21.Fri 09:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #210
   
【狭き門】イエス様のことば 35
 
 山上の垂訓・第29回

" 狭い門から入りなさい。
 滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。
 そして、それを見出す者はわずかです。"
  マタイの福音書 7章13~14節

 今日のテーマは「狭き門」です。

 アンドレ・ジッドの「狭き門」は、この聖書の言葉を取ったタイトルの小説です。
 狭い門から入りなさい・・と言われると、楽そうな方と困難な方という二つの選択肢があって、その困難な方を選びなさい、というのが一般的な教訓としての受け止め方のようです。

 「狭い門」・・それは「いのちに至る門」のことだとイエス様は言われています。そしてそれを見出す者がわずかしかいないというのです。
 多くの者は「滅びに至る門」に向かって行ってしまう・・というのです。

 この話には二者択一的なイメージがありますが、実は「どちらを選びますか」という立場に立たされるという話ではないんですね。そうではなくて、選ばなければそのまま「広い門」すなわち滅びに至る門に自動的に行ってしまうんですよという話なのです。
 この話は「いのちに至る門」の話なのです。それは「滅びが定められている罪人(つみびと)が救済を得る道」の話なんです。

 ですから狭い門とは、イエス・キリストを救い主として信じて、新しく生まれ変わるという歩み・・そこに入るための「門」のことを意味するわけです。

 ・・それを見出す者はわずかです。

 福音は「滅びからの救済の道案内」です。実はここに、見出す者がわずかである理由があるんですね。なぜならこれは「滅び」ということが大前提の話だからです。滅びが大前提ということは、それはとりもなおさず、すべての人が「罪人」であるということの指摘なんですね。
 もし自分が滅びゆく罪人であることを認めるならば、福音の意味を見出すのはごく簡単なことです。ところがそれを見出す者がわずかである・・。
 なぜでしょうか。それは「罪人」の意味がわからないからなんですね。

 罪人の基本は「神から離れた人」です。それはまことのいのちから離れた人のことで、アダム以来変わることのない「人の基本」だというのが聖書の言うところです。
 神から離れてしまった人類は、自分の判断で、自己防衛しながら、暴虐の世界の中を生きていかなくてはなりませんでした。何が善で何が悪であるかを自分で判断するのです。そしてその判断は当然のように自己防衛=自分ファーストという基本の上に立つことになります。それで人は罪を犯す者となったんですね。すべての人が・・です。

 罪を認めること・・その一番わかりやすい方法は、自分の心の内を眺めることです。自己防衛の壁を透き通して、心の内を眺めるのです。そこには実にわかりやすい「罪人」がいるんですね。

 この「罪人であることを認めること」・・それが「狭き門」なんです。

 祈り・・「神さま、私が自分の心の内をよく見ることができるように助けてください。」

  
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2020.08.20.Thu 11:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #209
  
【行いの規範】イエス様のことば 34
 
 山上の垂訓・第28回

" ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。
 これが律法と預言者です。"
 マタイの福音書 7章12節

 今日のテーマは「行いの規範」です。

 前回は「求めなさい。そうすれば与えられます。」・・
 イエス様の弟子として従っていく上で、必要なものはとにかく求めなさい。そうすれば父なる神は最良のものを与えてくださる、という話でした。

 そして今日の箇所はその結論です。「ですから〜しなさい」と。

 父はあなたの必要をご存知で、あなたに一番良いものを与えてくださるのです。ですから・・あなたもその父と同じように、人に接する時にはそうしなさいというのです。

 エペソ人への手紙 4章32節・・ここでパウロが言っていることは、それと同じ論法です。

 "互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。"

 あなたはキリストによってすべての罪が赦されたのです。だからあなた方も互いに親切にし、優しい心で「赦し合いなさい」・・というわけです。

 愛する、赦す、人からしてもらいたいことを人にする・・、それはあなたが父なる神から、どれだけ大きなものをいただいているかがはっきりわかったときに「それができる人」になるのだと言っているわけです。その時あなた方にとって、それは難しいことではなくなるのです、とイエス様は言われているんですね。

 これが律法と預言者です・・。

 それはあなたの行いについての規範だというのです。「律法と預言者」とは、「聖書全体が言っていること」という意味です。

 神との関係を正しく認識することによって、私たちはそのように「行う者」となるというのです。神がしてくださったように、あなた方もしなさい・・。これが行いについての規範だというのです。

 私たちは、十字架にかからなければならないほどの大きな罪をキリストが負ってくださったこと・・その事実によって赦された者となったんです。 
 それを理解することが私たちの「行い」の鍵であり、行う力の源だということなんですね。

 祈り・・「神さま、私がどんなに大きな愛と赦しをいただいているのか、それがもっとわかるようにしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」


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2020.08.19.Wed 09:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #208
  
【何を求めるのか】イエス様のことば 33
 
 山上の垂訓・第27回

" 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。
 それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。"
 マタイの福音書 7章7~11節

 今日のみことばの主旨は「求めなさい、そうすれば与えられます。」です。
 これを逆の言い方をするならば、与えられたいならば、求めなければだめですよ、ということになります。
 ただし、「与えられるもの」については、ある限定された言葉が使われています。それは「良いもの」です。
 これも、逆の受け止め方をすると、良いものだったらなんでも与えられる・・と読めます。

 では「良いもの」とは何を指しているのでしょうか。美味い食事、プール付きの家、高級車、、でないことはなんとなく分かります。
 良いものとは、神の目から見ての良いものなんですね。
 神が与えるのは、ご自分の子に対してです。子供にバイクが欲しいと言われたら、本当にそれが子にとって良いものとなるのか、親は考えますよね。
 神が与えようとしておられるもの。それは神の計画の中で、その子に最も必要なもの・・それを神はご存知なんですね。

 この話・・。これも弟子たちに対してイエス様が語られていることです。弟子たちの基本的な立場は、イエス様に従い仕えるというものです。
 弟子たちに必要なものは何かと言えば、主なるイエス様に仕え、従うために必要なすべてのもの、ということになります。それには、あらゆる範囲のものが含まれています。
 お金が必要になるかもしれません。また、イエス様に仕えるための熱心な思いも必要になります。それら全ては「良いもの」なんですね。

 これと同じことがルカの福音書の11章9-13節にも書かれていますが、そこでは最後の「良いもの」のところが「聖霊」ということばになっています。

 結局この話は、主に対する熱心な思いがあることが前提で語られているんですね。
 主への熱意を求めなさい。熱心に求めなさい。そこであなたにとってのすべての良いものは必ず与えられると、主は言われているわけです。

 そして次回でこの話の結論が出てきます。


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2020.08.18.Tue 09:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #207
  
【愛の目で人を見る】イエス様のことば 32
 
 山上の垂訓・第26回

" 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。
 犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。"
 マタイの福音書 7章6節
 
 前回は、人をさばいてはいけませんという話でしたが、ここでいきなり違う種類の話が入り込んでいるような印象を受けます。

 今日のテーマは「愛の目で人を見る」です。みことばからは想像ができないテーマですね。(笑)

 聖なるもの・・、それは神についての話のことです。弟子たちが人に与えることになる「聖なるもの・真珠」・・それはイエス・キリストについての話のことなんですね。

 それにしても「さばいてはいけません」と言った直後に、人を犬や豚呼ばわりするというのには、ちょっとびっくりしてしまいますね。それは、福音を伝えると向き直って噛みついてくる・・そういう人がいるのだという話です。その人たちは犬や豚同様に、みことばは何の意味もなさないということを言おうとしているわけです。真珠が飛んできたら、豚にとっては物を投げられたという以外に何の意味もないのです。

 福音の話に「罪」は不可欠なんですね。なぜなら、それを説明しないと十字架の意味がわからなくなってしまうからです。キリストは、あなたの罪を負って、あなたの身代わりに十字架で罰を受けてくださった・・だから、あなたは赦された・・。これが福音の核ですから。
 でも、そもそも罪とは自分を守ろうとするところから来るものですから、罪を指摘されるということ自体が「自分に対する攻撃」だと感じてしまうんですね。

 ですからそういう人に真珠を投げる・・、それは「罪のことを理解しない人」に考えなしに福音をぶつけること・・ということになります。
 彼らは「それらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂く」ことになる・・、そんなことになってはいけませんという話なんですね。

 罪人は罪のことがわからないんです。ですから神から離れていることの意味もわからないわけです。まさしく「迷える子羊」なんですね。ですからその人に、足で踏みつけられて、噛みつかれてしまうような関係にならないようにしましょうと言っているわけです。

 罪人ひとりひとりの上にあるのは、ひとり子を遣わしてそのいのちを与えてくださるほどの神の愛なんですね。ですから彼らより前にイエス・キリストの救いにあずかった者がこれらの人々に向き合う時には、彼らの上にある神の愛をもって接する・・それが必要だということなんですね。

 福音を知らない人は、まずあなたに愛を感じなければ心の開きようがないのです。

 あなた方は、世の光なのです。地の塩なのです。愛と忍耐と寛容をもって全ての人に接することができるように、父なる神に願いなさい・・。そう言われているような気がするんですね。

「愛の目で人を見る」・・。これが今日のみことばの主題だという話でした。


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2020.08.17.Mon 08:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

2005たいむ

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ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #14

賛美歌 「私が悩む時も」から 〜神はこういうお方〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://m.youtube.com/watch?v=s2XFOEXwAlE

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2020.08.15.Sat 10:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #206

【罪を知るという解放】イエス様のことば 31
 
 山上の垂訓・第25回

" さばいてはいけません。
 自分がさばかれないためです。
 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。
 見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。
 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。"
 マタイの福音書 7章1~5節

「兄弟の目からちりを取り除こう」・・すなわち、兄弟の小さな短所が気になってしょうがない・・。イエス様はそういう弟子たちの心を見抜かれていました。
 その弟子たちに、あなたにそんな資格があるのかどうか、良く考えてごらんなさいと言われた・・そういう話です。

 今日のテーマは「罪を知るという解放」です。

「さばく」とは、その人にレッテルを貼るということです。この人はこういう人だ・・と、決め付けてしまうわけです。でも、自分が同じように決めつけられたらどうなるでしょうか。
 例えば、自分がある分野で成長したとします。でも「この人はこういう人だ」というレッテルを貼られてしまっているので、自分に対する評価が全然変わらない・・。それは非常にむなしいとことですね。

 さらにイエス様は「自分がさばくそのさばきで、自分もさばかれるのです」と言われました。その人は、同じ目で人から見られるようになるというのです。
 あなたの目の中にある梁(はり)・・、それは人には丸見えなんですね。梁とは、天井に使う太い横木のことです。それほど人に対して「ひどい、動かしがたい」評価を下しているということなんですね。それが他人からは一目で分かってしまうのです。
 考えただけで恐ろしくなりませんか。梁が入った目のままで、人の前に出るのです。そしてそれが人には丸見えだとしたら・・。人のことはよく見えるけど、自分のことは見えないものだとは、よく言ったものです。
 人々は、あなたの目の梁を見ただけで、あなたの言うことや表情や、その他すべてが見えなくなってしまって、その梁ばかりが見えて、「この人は、こういう人なんだ」と、今度は逆にレッテルを貼られてしまうというわけです。
 そのあなたが「あなたの目からチリを取り除かせてください」と言ったとしたら、あなたを見る人は唖然として何の言葉も出なくなってしまうでしょう。

 まず自分の目から梁を取り除きなさい・・。

 そのためには、まず自分の目にある梁に気づかなければいけないのですが、それが実は大きなハードルなんですね。
 聖書は「すべての人は罪人だ(ローマ3:10) 」と言っています。また「自分に罪はないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(第一ヨハネ1:8) 」とも言っています。
 もし人が、自分の心の内の罪に気がつくなら、その時その人の目から梁は消え去るんですね。なぜなら、罪を知るとは自分が人の前に推薦できるような者ではないことを知ることだからです。

 自分の罪を知ること・・、それは目の中の梁からの解放なんですね。目の中に丸太を入れて歩むことは、もうなくなるのですから。

 祈り・・「主よ。私の目に梁があるかどうか、私の心を探ってください。」


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2020.08.14.Fri 09:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #205

【心の二択】イエス様のことば 30
  
 山上の垂訓・第24回

" まず神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。
 明日のことは明日が心配します。
 苦労はその日その日に十分あります。"
 マタイの福音書 6章33~34節

 昨日と同じところを、もう少し見て見たいと思います。

 今日のテーマは「心の二択」です。

 イエス様は、神の国と神の義を求めるならば、本当に必要なものは全てそれに加えて与えられると言われました。だから明日のことまで心配しなくてよいと言われたんですね。
 でもその言葉の背後には、心配しなければいけないのは「あなたが神の国と神の義を求めているかどうか」ということなんですよという意味があるわけです。
 
 神と富の両方に仕えることはできないと、24節にありました。
 この「心配」というのも同じことで、生活の中の「何を飲もうか、何を着ようか」というこの世に対する思い煩いと、「神の国とその義を求める」ということとが向き合っているわけです。要するに、どちらかにしか心は向けられないんですね。

 明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります・・。
 それは今日も明日も、この世の思い煩いは常にあるのだということです。それが明日のこと、明後日のこと、将来のこととなると、心はそのことで一杯になってしまうわけです。
 将来のことは大事です。でも、そこには自分の中に勝手な将来の予想図があって、そこにマイナスイメージがあるから思い煩いになってしまうわけです。
 でも神は、そのすべてに介入され、最善に導いてくださるお方なんですね。

 ここで提示されていることは「神への信仰」と「自分の考え」の二択です。
 でも私たちは「神を忘れる」者なんですね。それで気がつかないうちに「自分の考え」を選択してしまう・・。
 そうなったら神は、あなたに介入することはおできにならないんです。あなたが心から神を追い出してしまうわけですから。

 神への信仰・・それは神から与えられるものです。ですから恐れや不安に心を奪われてしまった時には、「信仰を与えてください」と神にお願いするしかないんですね。

 でも・・実はこれが答えなんです。そこに勝利があるんです。神に目を向けて祈る、叫ぶ・・。ここに一番大きな力があるんですね。
 私たちは神よりも自分の力や他人の力に頼ろうとしてしまう・・それが私たちの常なんです。神の怒りを招いたイスラエルの歴代の王様を思い出します。
 けれどあなたが思い煩う時・・そこで立ち止まって神に目を向けなさい・・これがイエス様の教えなんですね。

 すべては神のうちに備えられているんです。

 祈り・・「主よ、私が思い煩う時、あなたに目を向けることができるように助けてください。」


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2020.08.13.Thu 07:53 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #204
 
【第一に求めるべきもの】イエス様のことば 29

 山上の垂訓・第23回

" まず神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。
 明日のことは明日が心配します。
 苦労はその日その日に十分あります。"
 マタイの福音書 6章33~34節

 前回までの流れ(24節まで)は、富を追求することは「闇」で、富と神に兼ね仕えることはできない、という話でした。そして「ですから・・」と続き、最終的にはさらに10節あとの今日の箇所で大きな結論が出てきます。

 その間の話は、空の鳥や野の花を見なさい、という話です。(25-32節をぜひお読みください)

 自然界のすべてのものは神の作品です。その中の小さなもの・・空を飛ぶ鳥や、道端にひっそり咲く花を近くで良く見れば、それだけでその装いには心底驚かされます。
 私たちは普段、その羽の色、花びらの色、全体のデザインを当たり前のように毎日見ていますが、そのデザイナーの驚くべき仕事に少しはびっくりしたらどうですか・・と言われているようです。
 しかもデザインだけではなく、それが飛んだり、咲いたりして、いのちを伝えている・・。

 世界中のあらゆるデザイナーは、これらの神のデザインのほんの一部を模倣しているに過ぎないと、私は常々思っているんですね。デザイナーに限らずアーティストがやっていることというのは、神がなさることをちょっとばかり代弁しようとしている・・そういう仕事なんですね。
 それが神に追いつくことなど有り得ないわけです。栄華を極めたイスラエルの王ソロモンの身の回りのすべてのものは、第1級のデザイナーにより飾られたものばかりでしたが、ソロモンは野の花の一つほどにも装っていなかった(29節) と言っているわけです。

 人からはなんとも思われず、摘まれて捨てられてしまうような野の花のような存在でも、そのように神の栄光を表す存在として、神が野に咲かせているのです。ならば神に造られたあなたの上にある神の思いがどれほどのものか、少しは考えてご覧なさいというわけです。
 そして、そのことに思いが至らないで普段を過ごしているなら、それは「信仰の薄い者」と言わざるを得ない、というのが30節で言われていることです。

 だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかという心配をせず、まず第一に「神の国と神の義を求めなさい」と言われているのが今日の箇所です。
 そうすればこれらのものはすべて、それに加えて与えられます・・。これがこの一連の話の結論です。
 逆に言えば、これら地上で必要なものは「神の国と神の義を第一に求める」ことによって、添えて与えられるものだという認識を持ちなさい、ということなんですね。

 神の国と神の義を求めるとは、神が喜ばれることにいつも心を向け、それに従うことによって、そこに神の存在が表されることをもっぱら求める、ということです。
 
 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。(33節)・・これは驚くべき宣言であり、私たちに対する約束です。神ご自身でなければ言えないことです。
 その実例を私たちは多くの「神に従ってきた人たち」の伝記などに、また有名にならずとも神を愛して生涯を閉じた多くの人の中に見いだすことができるのです。

 祈り・・「主よ、神の国と神の義を求めて歩むことを教えてください。そこにすべてのものを加えて与えてくださるあなたのみわざを見る者とさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」


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2020.08.12.Wed 09:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #203

【心の向きは一つ】イエス様のことば 28

 山上の垂訓・第22回

" 目が悪ければ全身が暗くなります。
 ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
 だれも二人の主人に仕えることはできません。
 一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。
 あなたがたは神と富とに仕えることはできません。"
 マタイの福音書 6章23~24節

 前回は、宝を天に蓄えるという話で、それは心の向きの問題だということでした。そしてその後にこの「目」の話が出てきます。実はこの話は、前回の宝を蓄える話の続きなんですね。
 結論は「あなた方は神と富とに仕えることはできません。」です。

 心がどちらに向いているか・・。今日のテーマは「心の向きは一つ」です。

 目が悪ければ光が内側に入って来ないのだから、暗いのは当たり前ですが、それは実は、見ている方向が違うのだという話です。
「あなたのうちにある光が闇なら」と、イエス様は不思議な言い方をされましたが、それは「光があなたのうちにある」ということを前提として言われている言葉です。それが闇なら・・ということになるわけですが、それは光があるのにそちらを見ていないなら、結局それは闇なんだということなんですね。

 あなたのうちにある光・・これは弟子たちに言われているおことばです。すなわちキリストにある者に言われている言葉であるわけで、この光とはイエス様ご自身に他ならないわけです。
 自分の内にイエス・キリストをいただいているのに、そちらの方に目を向けなければ、それは暗いですよ・・という話です。

 そして二人の主人の話が出てきます。どちらに仕えるのか・・。あなた方は「どちらか」にしか仕えることはできないんですよと、イエス様は言われました。富なのか神なのか、あなたはどちらに仕えるのか。
 心という器は大きさが決まっていて、それは伸びたり縮んだりできないんですね。富を入れるところと神をお迎えするところ・・。両方なら心を二倍にすれば良いと思うかもしれないけど、それはできないというのです。
 なぜなら「一方を重んじて、他方を軽んじる」からだというのです。

 これはごくわかりやすい話です。あることに夢中になっていれば、他がおろそかになるのです。富に夢中になっていて、神にも夢中になるということはあり得ないんですね。 

 富は、神からの祝福の結果です。自分の努力とか才能の結果ではない・・。これはとても重要な真理です。努力や才能があっても富に恵まれない人はいるのです。逆に悪者でも富む者がいます。良い人と悪い人、それと富む人と貧しい人・・それは繋がっていないのです。
 
 富に夢中になることに意味は・・ない・・のです。しかも富に夢中になるなら、それは「闇」だとイエス様は断言しているわけです。

 そしてその「富」に対する見方を教えられているのが、この後に出てくる「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33節) という話です。

 次回でこの話が完結します。


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2020.08.11.Tue 10:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #202
 
【あなたの宝】イエス様のことば 27

 山上の垂訓・第21回

" 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。
 そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
 自分のために、天に宝を蓄えなさい。
 そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
 マタイの福音書 6章19~21節

 今日のテーマは「あなたの宝」です。

 宝というのは、積んでおく=蓄えておきたくなるものらしいですね。
 そして、あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心があると、イエス様は言われました。

 心が求めているもの、それはあなたにとっての宝かもしれないが、それが地上で朽ちて無くなるようなものなら、そんなものを求めてこの一生を過ごすのはやめなさいと、そう言っているわけです。
 宝には、蔵に納めるものと天に蓄えるものがあるというんですね。

 そして問題は、あなたの心だというわけです。
 ここでも前回に続いて心が問われるというわけです。

 クリスチャンはイエス・キリストを信じ、心にお迎えしてから、二つの心のせめぎ合いの中に置かれます。それは、「肉の思い」と「御霊の思い」です。
 クリスチャンは、イエス様による罪の赦しと新しいいのちをいただいてその歩みを始めるわけです。ところが、そのいのちを入れている器が相変わらず慕っている思いとのいうものがあるんですね。それが「肉の思い」です。

" 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。" (第二コリント4:7)

 私たちは宝をいただいているのですが、相変わらず古い性質を持った「土の器=肉体」の中にその宝をいただいているというのです。
 でもその宝によって古い性質を持った器も徐々に変えられていき、「主と同じ形」とされていく・・それがクリスチャンなんですね。

 ですから心の中では、その両者すなわち「肉の思い」と「御霊の思い」がせめぎ合うわけです。そして肉の思いは地上に宝を蓄えようとするんですね。

 クリスチャンは、神を「主」と呼ぶのですから、それは主のしもべです。主が何を喜ばれるかということにいつも心を向けている・・それが健全なしもべであるわけです。
 主の御思いをいつも求め、それに従って歩む・・。そうすればその行いは天に蓄えられ、御国において、確実な財産として永遠に残るるのだ・・というのです。

 自分の心がどちらを向いているのか。まずそのことに目を向けよと言われているわけです。天に宝を蓄える・・それは「自分のため」だと、イエス様は言われたんですね。

 祈り・・「主よ。私がいつも、あなたが喜ばれる方に心を向けていることができるように、助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
 
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2020.08.10.Mon 10:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2005たいむ

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ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #13

賛美歌 Amazing Graceから 〜死で終わりではない〜

お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://www.youtube.com/watch?v=crgTUVRP-XU

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2020.08.08.Sat 07:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #201
 
【心が問われる】イエス様のことば 26

 山上の垂訓・第20回

" あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。
 彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。
 まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。
 そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。"
 マタイの福音書 6章16~18節

 今日のテーマは「心が問われる」です。

 この一連の山上の垂訓は、パリサイ人や律法学者を念頭において語られていると書きましたが、ここで再びそれがはっきり見えてきます。
 彼らは行いについては厳格に「律法」を守っているのですが、大体その心からして間違っているというわけです。彼らが守っている律法とは、その大元のモーセの十戒から派生して出来上がった、口伝律法と言われる細かな生活上の行動規範でした。

 律法にあるその精神についてイエス様が言われたことは、父なる神を愛することと、隣人を愛すること、このふたつに律法のすべてが要約されているということです。ですから、それが土台になければ、表面だけでそれを行なっていても、神の前には何の意味もなさないというのです。

 心が問われるのだ・・と言われているわけです。

 断食は、生活の雑事を捨てて神との関係にのみ、その時間を使うことです。
「彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」・・それは、彼らが断食をしている最中にもその心は「人」に向けられているということの指摘でした。
 断食していても、その心は神に向いていないではありませんか・・というわけです。

 断食は食事の制限ですが、それは神との関係のため・・すなわち祈るための時間なんですね。ところが「断食」という行為だけが一人歩きしてしまうというわけです。
 でもこうしてパリサイ人や律法学者を念頭に置いてイエス様が言われてきたこと・・それは結局私たちに向けて語られていることであるわけです。

 祈るのも、断食も、その心が神に向けられていないのなら、それは張子(はりこ)の虎と同じだというのです。そしてそれは、すべての行いについても同様であるわけです。
 善行をするにしても何をするにしても、それは主である神が喜ばれるからという動機であなたは行なっていますかと問われている、ということです。

 心の内を探られますね。

「人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるように」・・それはとりもなおさず、神との関係以外の「雑音」が入らないようにしなさいということです。そうすれば「父が報いてくださる」というのです。

 でもそれは、決して厳しいことを言われているのではなくて、心を神に向けるだけで、神はあなたに良くしてくださるということなんですね。

 これは基本中の基本の教えです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.07.Fri 09:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #200

【赦さない心】イエス様のことば 25

 山上の垂訓・第19回

" もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。"
  マタイの福音書 6章14~15節

 前回は「心を神と一つにするための祈り」として、主の祈りを見ました。主の祈りは、自分と神との関係を基本的なところに戻すための祈りです。
 そして今日のところは、その補足のようにして言われている部分です。

 人の過ちを赦す・・とありますが、主の祈りの中には「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という祈りがすでに出てきています。
 負い目とは負債のことですが、それは人に対して犯す過ちのことです。ですから今日の箇所は、主の祈りの大事なところをもう一度強調するような形で言われているわけです。
 これがないと神との関係は正常なものにはなりませんよと、イエス様はだめ押しをされているんですね。

 なぜかこれを書く今日の朝、私は寝床の中で主(神)に迫られたことがありました。それは、あなたのうちに赦していない人はいないか・・ということです。
 一生懸命そのことについて思い起こしてみました。そうしたら、何人かの人が頭に浮かんできました。しかし、その人たちを赦さないという心が私を支配していたわけではなく、また確かにその人たちを赦しますと祈ったはずでもありました。
 しかしこうして心に浮かんでくるんですね。それは、何かまだ心の中に「赦していない部分」があるのではないかと思うのです。
 そこで、もう一度、その一人一人の方について「赦します」と祈っていたら、、、次に出てきた言葉が「彼らを赦す力を与えてください」でした。まだ私の心には「何か」が残っていたんですね。

 私たちはキリストに(聖霊に)完全に支配していただかないと、きよめられるなどということは無理な話なんですね。まだまだ、心のうちに「滓(かす)」のようなものが残っていることを見させられたというわけで、これはもう「主よ、心から赦す・・それができるようにしてください」と祈るしかないわけです。

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。・・

 私たちは、イエス・キリストによる罪のあがないを信じ、自分の罪を告白し「完全な赦し」をいただいた者です。ですから、赦しをいただいているにも関わらず赦していない部分があるなら、今でも神はそれ示してくださるんですね。

 "もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。" (ヨハネの手紙 第一 1章9節)

 ですから、いつでも気がつくなら罪を告白して主の十字架を仰ぐ時、私たちはそこにある神の赦しを確認し、その都度神に近づいて行くわけです。
 私たちは全面的な赦しをいただきました。しかし神は、その私たちの心の隅々まで丁寧に綺麗にしてくださるんですね。それには時間がかかります。私たちは少しずつ「栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行く(2コリント3:18)」のだと書いてあります。

 ますます、主を求めていきたいものです。主は私たちが主の栄光にはおよそふさわしくない者であることを、初めからご存知なんですね。
 その私たちのために主は、十字架にかかられた・・。これが「神の愛」だというのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
  
2020.08.06.Thu 09:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #199

【心を神と一つにするための祈り】イエス様のことば 24

 山上の垂訓・第18回

 今日の箇所は、教会の礼拝などで必ずと言って良いほど、皆で一緒に声を出して祈る「主の祈り」の箇所です。
 主の祈り・・、それは「心を神と一つにするための祈り」・・これが今日のテーマです。

" 〜 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』"
  マタイの福音書 6章8~13節

 イエス様は「父は求める前から、あなた方の必要をご存知」だと言われ、「だから」こう祈りなさいといって、この「主の祈り(と一般的に言われている)」を教えられました。
 今日は、イエス様の祈りの話の3回目ですが、前の二回では「心を注いで祈る」「父なる神に祈る」ということを確認させられる話でした。
 そしてあなた方は必要なものをくださいと祈るけど、それを父なる神は分かっておられのだから、とにかくこう祈りなさいと言われた「主の祈り」。それは、まずあなたと神との関係において、あなたを正しい位置に導く祈り。そしてそれが、神から必要なものを受け取る者となるための土台なのだ、というのがイエス様の話の流れです。
 必要なものは、物や資金などだけではなく、力、心、人、知恵、知識、そして愛、と様々です。

 主の祈りの一つ一つについては、#37〜#48 (市原のブログ「ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ」2020.1.17-1.30で確認できます) でゆっくり見てきましたが、ここに簡単にまとめてみたいと思います。
 この主の祈りも「弟子たち」に言われたことで、それはクリスチャン(神を主とする者)に言われていることであると受け止めての解釈です。

1 天にいます私たちの父よ。・・祈る対象は、天地万物を創造され自分を愛してくださる「父なる神」なのだ、という確認。そしてこの祈りは「私たち」が共有している祈りだということの表明。

2 御名が聖なるものとされますように。・・世界中で主の御名があがめられることを願う。すなわち、福音が全世界に広がっていくことを願う祈り。

3 御国が来ますように。・・イエス様は再び来られます。それから御国が来ます。しっかりイエス様の再臨を忘れないようにする祈り。

4 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。・・地上ではサタンの妨害によって神の御名に覆いがかけられていますが、そこに圧倒的な聖霊の働きによって、地上でも天上のごとく、神ご自身にそこに立っていただく・・そのような光景を見ることができるように願う祈り。クリスチャンはこのことをリバイバルと呼んでいます。

5 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。・・自分たちの必要はこれだけあれば、父は全て備えてくださるという、父への信頼を言い表す祈り。

6 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。・・私たちはイエス・キリストの十字架のあがないによって、全ての罪が赦されている者です。そのことを覚えて自分の心に「赦さない」心がないかを点検する祈り。

7 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。・・悪から守られる基本、それは聖霊に満たされていることです。聖霊を求めるべきであることを覚える祈り。

 そして、聖書には記されていませんが「主の祈り」には最後に「国と栄と力とは、とこしえにあなたのものだからです。」という一節が加えられます。
 それは最後に父なる神の偉大さをほめたたえることば、そして自分が祈り求めているのはそういうお方であることを覚えるため。だからあなたに祈るのです・・と。

 主の祈りは、日々逸れて行ってしまう私たちと神との関係を修正して、正しいところに戻す祈りなんですね。

 主の祈り・・それは心を神と一つにするための祈り。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.08.05.Wed 10:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #198

【祈る対象】イエス様のことば 23

 山上の垂訓・第17回

" また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。
 彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。
 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。"
 マタイの福音書 6章7~8節

 祈りについてのイエス様のお話の2回目です。

 今日のテーマは「祈る対象」です。

 イエス様は、同じことばをただ繰り返す祈りを「異邦人のように」と表現されています。

 異邦人のように祈る・・、それはまことの神についての知識を持っていない人が闇雲に祈るというようなイメージでしょうか。祈りの対象がはっきりしていないんですね。
 祈りとは、「天地万物を作られた全能の神・主」に祈るということです。

 しかしこれは、まことの神との関係を明確に意識して生活する人でなければ、よくわからないことなのかもしれません。
 例えば、特に日本人が「祈る」という言葉を使うとき、その祈りの姿勢自体に何か神聖なイメージがあって、そういう心が大切なのだ・・といった考え方があります。日常の雑事に心が奪われていることに気がつき、ふと我に帰り、静まって祈る・・。その姿勢が大切なのだといったイメージです。
 神を知らない人の多くは、祈りという言葉をそんな風に受け止めているように思います。

 祈りは、祈る対象があって初めて「祈り」になります。祈りというのは、全能の神である主にことばをかけるということなんですね。

 同じことばをただ繰り返す異邦人・・それは、祈るべき対象である全能の神をはっきり意識せず、ただことばを繰り返す。・・ですから、彼らと同じようにしてはいけません、とイエス様は言われているわけです。

 祈りの対象・・それは「あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられる方」なのだというのです。
 ならば、祈る必要などあるのでしょうか・・となりますが、ここで神が求められているのは、あなたの神への正しい姿勢なんですね。
 あなたを愛する神、あなたのためにひとり子を送り、そのいのちをあなたの罪の代償としてくださった神に祈って、その父なる神との関係を深めていく・・、それが「祈り」のうちに神が求められていることなのです。

 そしてこのことを異邦人ではなくて弟子たちに話されたということは、まことの神を知る者でも、その対象がぼんやりしてしまうということがあるということなんですね。
 私たちは、私たちを知り、私たちの名を呼んでくださる「父なる神」に祈るんです。

 父なる神は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」(イザヤ43:1) と言ってくださるお方なんですね。

 直接はっきり祈ることのできる、「父なる神」がおられるのです。

 ハレルヤ ! (主の御名をほめたたえます)


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.08.04.Tue 10:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
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