FC2ブログ
FC2Blog | RSS1.0 | ログイン | 投稿 

ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています
 
 #42


 GraceCafeたいむ #42 【心を預ける】 <ミュージシャンにもわかる聖書の話>

 賛美歌「主イエスのみそばに」から その3 アップしました。

 自分でコントロールできない心は、ここに預ければよい・・という話です

 https://www.youtube.com/watch?v=a0xkCavq_Tg

 みなさまのお越しをお待ちしています。
 
 
2021.03.05.Fri 22:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。"
 マタイの福音書 26章56節

 イエス様は、ご自分が捕らえられることについて、何の抵抗もなくその出来事に身をゆだねられました。

 それまで、弟子たちはイエス様が共におられるからこそ、剣を抜いてこの群衆に斬りかかる勇気も持ち合わせていました。しかしイエス様が捕らえられ、しかもイエス様ご自身がそれを受け入れられるところを目の当たりにしたとき、彼等は自分の身は自分で守らなければならないところに立たされたことに、ハッと気付かされます。

 捕らえられて連れて行かれるイエス様を取り戻そうとする動きがあっても良さそうなものなのに、そんな様子もなく彼等は「みなイエスを見捨てて逃げて」しまいました。

 この出来事は弟子たちにとっては、どうにもならない自分の弱さを認めざるを得ない時となったはずです。

 彼等はそんな自分に、心底がっかりしたのではないでしょうか。
 私はイエス様に選ばれた者なのに、その私がこんなに意気地のない者だったのか・・と。

 しかしこの最後の瞬間こそ、イエス様の弟子たちに対する最後のレッスンだったんですね。
 わたしはあなたを選びましたが、それはあなたが意志が強くて弟子にふさわしい者だからということで選んだのではないのです。
 わたしはむしろ「弱い者」を選んだのです。
 それは、自分が本当に弱いと思っている者でなければ、わたしに全面的に頼ることができないからです・・と。

 神様はクリスチャンの一人一人に、自分の弱さ、罪深さ、醜さを見せられます。しかしそれは、大きな恵みを受け取る人となるための、外すことのできない教科なんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)  
 
 
2021.03.05.Fri 10:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」"
 マタイの福音書 26章53~54節

 ペテロは、イエス様を捕らえに来た人たちと剣を抜いて戦おうとしました。しかしイエス様はそのペテロを制止して言われたのが今日の箇所です。
 ・・それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう・・。
 それは聖書の預言に書かれてあることがそのまま、今実現しようとしているのですから、今は戦う時ではないという意味です。もし戦うなら、わたしにはそんなことは朝飯前なのです・・と。

 700年前に書かれたイザヤ書(53章)には、イエス様が十字架にかかられる様子が克明に語られています。またその他の多くの預言書もイエス・キリストの誕生から、さらには再び来られることまでもが記されています。 

 キリストの十字架と復活が預言の通りに成就したのなら、このあとのことも文字通り成就するのだと思うことは、むしろ当然のことです。

 聖書は、世界の始めから終わりまでを克明に記した書物なんですね。

 今世界は、かつてないほどの不安定な情勢になっています。しかしイエス様は言われたのです。そうでなかったら・・こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。

 終わりの時と、救いの時が近づいているのです。
 今こそ、まことに神に立ち返りなさい。
 神はあなたの罪をすべて赦し、ご自分のもとに帰られるように招いておられるのです・・。

 これが福音のメッセージなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.04.Thu 10:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。"
 マタイの福音書 26章51~52節

 ルカの福音書によれば、ご自分が去った時には財布を持ち、剣を買っておきなさいとイエス様が言われ、彼等はそこに二本の剣を用意していました。それなのにイエス様は「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われたんですね。

 これを矛盾のないこととして理解しようとしたら、こういうことになります。
 それは、剣は買っておきなさい。でもそれを取って戦おうとしてはなりません。それを始めたら、あなたは滅びます・・。
 
 私たちは「口から出ることば」という剣を持っています。
 それは悪意からでなくても、自分の持っている知識という剣によって人を刺してしまうということがあるのではないでしょうか。

 知識はあらゆることを判別する備えとして大切です。しかしそれを戦いのために使い始めたら、あなたは滅びます・・というわけです。

 口から剣が出てしまって、それで人を傷つけてしまったら、それはもとに収めなさいと、イエス様は言われているのです。
 それは私たちの日常生活の中で、その都度思い出さなければならないイエス様のみことばかもしれません。

 イエス様は耳を切り落とされた人に触れて、その傷をいやされました。イエス様を捕らえに来た側の人をいやされたのです。(ルカ22:51)

 キリスト教の名で多くの戦い、殺戮が行われてきたという歴史があります。
 しかし、イエス様はあくまでも「平和の君」なんですね。(イザヤ9:6)

 イエス様に従う・・そこから逸れないようにしたいものです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.03.03.Wed 09:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。"
 マタイの福音書 26章48~49節

 イエスを裏切ろうとしていた者とは、十二弟子の一人のユダのことです。

 弟子たちはイエス様のことを「主よ」と呼んでいました。しかし、ユダだけは最後まで「先生」だったんですね。

" 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。" (第一コリント12:3)

 聖霊によってイエスは主ですと言う・・それは、イエス・キリストというお方に心を開いて、全面的に自分の心の内にその方をお迎えするのでなければ、起こり得ないことなんですね。

 自分はイエス様を「主」と呼ぶことはできるのか・・。
 それは自分を判別するのに良い材料になるかもしれません。
 
 主とは、神を意味し、そして自分はそのしもべであることを意味します。
 もしそこがはっきりしていないならば、改めて神の前に「イエス様を私の救い主と信じます」と祈りましょう。もちろん心から・・です。
 そうすれば、聖霊はあなたに寄り添って、また内に入ってくださり、聖霊との歩みが始まります。

 神は、神の方に向きを変える者を限りなく赦してくださるお方なんですね。
 ですから、今からでも大丈夫なのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.03.02.Tue 10:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"
 マタイの福音書 26章45~46節

 イエス様が血を流すほどの祈りをしておられた時、弟子たちは眠くてしょうがありませんでした。
 しかし、ユダとイエス様を捕らえようとしていた人々は、ゲツセマネの園にほぼ到着していたんですね。

 イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられるという話を何度もされていました。と同時に「再び来られる時」のことを何度も話されているんですね。
 イエス様はまだ再び来られてはいませんから、それは今の私たちにも語られている話です。
 その時人々は、めとったり嫁いだりしている・・何の危機感もなく普通に暮らしていた・・と、イエス様はあらかじめ警告をされています。

 警告がありながら、それに耳を傾けず、目先のことにしか目を向けなかった・・。これが、イスラエルの人々が代々行ってきたことです。
 ハッと気がつくと、その時には目の前にすべての準備が整い、世にその出来事が現れるのです。
 弟子たちが眠くてしょうがなかった時、それはすでにイエス様が捕らえられる時だったんですね。

 神はイスラエルの民を顧みて、彼等をその祝福と救いに招き入れるために、常に預言者を遣わされて来ました。
 今の私たちにとって、その預言者とは聖書です。

 目を覚ませ。時が近づいている。
 見なさい。時が来ました。
 今、神の福音を受け取り、滅びから救われなさい・・と、聖書は語っているのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.03.01.Mon 09:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #41

 賛美歌「主イエスのみそばに」から その2 アップしました。

 見たから信じるというのはあり得ない・・という話です

 <ミュージシャンにもわかる聖書の話>

 https://www.youtube.com/watch?v=vB_8yLME0lY
 
 
2021.02.26.Fri 23:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。"
 マタイの福音書 26章42~43節

 44節にはもう一度同じことばで三度目の祈りをされたとあります。
 イエス様は十字架という杯をお受けになるために、もだえ苦しみながら三度も祈らなければなりませんでした。
 
 イエス様はこのことのために世に来られたんですね。

 イエス様は神の子なんだから、十字架をもお受けになる力があるのだし、釘付けにされても、それは忍べるんだと・・そんな風には受け取られないためにも、この祈りの場面は記されなければならないことでした。

 この激しい痛みと苦しみは、私たちの罪に対するさばきの姿なんですね。
 神の御子イエス・キリストは、私たちの身代わりに痛みと苦しみを受けられたのです。

 あの十字架は、私たちが神を怖れず、神を冒涜し、自己中心という傲慢の極みの中に生きる「罪人」であることを示しているんです。

・・私たちもみな 〜 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)

 イエス様は父に、これで「彼らをお赦し下さい」と、ご自分がささげ物になられたんですね。
 この苦しみがあるからこそ、それがささげ物となるわけです。

 神の怒りがあって、その赦しのために御子が人の姿をとって降りてこられた・・。
 これが福音で、そこに神の愛が表されているのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.26.Fri 09:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 
" それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。
「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」"
 マタイの福音書 26章40~41節

 イエス様がもだえ苦しむ祈りをされて、弟子たちのところに戻ってこられると、弟子たちは眠っていました。
 でも弟子たちが「霊は燃えていても肉は弱い」ということを本当に思い知るのはこのあと、イエス様を見捨てて逃げてしまったときでした。

 だから祈っていなさい・・。

 しかし、すでに弟子たちは眠りに陥っていました。弟子たちはそれができなかったのです。
 弟子たちは全員「失格者」でした。

 しかし彼等は後に聖霊を受けてから別人となります。彼等は霊に燃え、主に仕える者と変えられたのです。
 霊は燃えていても肉は弱い・・。この「霊」とは自分でがんばる方の霊で、弟子たちが後に受けたのは「上から下った神の霊」なんですね。
 あなたの性質をイエス様にふさわしいものに訓練して、それからイエス様のもとに来なさいとは、ひと言も言われてはいないのです。

 まずそのままでイエス様のところに行く・・。これが求められていることなんですね。それが「ゆだねる」ということばの意味です。

 あなたは良い人であることを求められているのではなくて、あなたが罪深い、弱い者であることを認め、そのままで神のもとに来るなら、そこにはキリストの十字架という、すでにささげられたあがないがあるのだから、安心していらっしゃい・・というわけです。

 ここに(神の)愛があるのです・・。(ヨハネの手紙第一4章10節)


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.25.Thu 10:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。
「わが父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"
 マタイの福音書 26章39節

 「杯」ということばは、聖書の中では神の憤りを象徴することばとして使われています。では神の憤りがイエス様の上にあったということなのでしょうか。もちろんそうではありません。
 この杯・・、それは神に背くすべての人の上にある神の憤りの杯なんですね。それをイエス様が受けられるということなんです。

 神の御子であるイエス様が、父の憤りの杯を受け、よみに下ろうとしているのです。よみとは、死んだ者が行くところです。それは父から切り離されるということです。
 御子が、父の憤りの杯を飲み干す・・。そこにイエス様の「死ぬほどの悲しみ」(38節) がありました。

 しかし御子であるイエス様は、この祈りの最後に父の望みの方を選び取られるんですね。・・あなたが望まれるままになさってください・・と。

 父は散ってしまった「失われた羊たち」を再びご自分のもとに帰らせる・・それが目的で御子を地上に送られたのです。
 それで御子イエス様は、死ぬほどの悲しみの中で、この恐れもあり、激しい痛みと苦しみの杯を受け取るという「父の望み」を選び取りますという祈りをされたというわけです。

 父の望みとは、御子を十字架にかけ、死んでよみにくだらせ、三日目によみがえらせ、この御子を人々が受け取ることのできる「救い」とすることでした。

 十字架は私たちの罪のためのあがないです。それによって私たちのすべての罪は赦され、この御子によって私たちは古い自分に死に、死を超えた永遠のいのちが与えられるのです。

 ひとり子を十字架にかけるという、まさに心が張り裂けんばかりのことを通して、父なる神は私たちへの愛をお示しになったんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.24.Wed 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」"
 マタイの福音書 26章36~38節

 いよいよイエス様は祈るためにゲツセマネという、神殿近くの園に来られました。
 弟子たちを座って待たせ、そこから見えるほどのところにペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれ、祈り始めます。
 この三人の前でイエス様は祈られるのですが、それは今までに見たこともないイエス様の姿でした。悲しみもだえ始められた・・と記されています。

 イエス様は、人の形をとって来られました。それは単に神が人の姿で来たという以上に、人が肉体において持つその性質をすべて備えた、痛みも悲しみも苦しみも味わうお方として来られたということです。ただひとつ「罪がない」ということだけが人と違うところでした。
 ですからそのからだは、これから釘で打たれ、激しい苦しみの中で死に至ることを激しく拒むわけです。
 
 ヘブル人への手紙にはこのように記されています。
" キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、" (5章8~9節)

 御子であられるのに・・この一言に、神がなされたことが集約されているんですね。

 私たちを帰るべき家に帰らせることが出来るのは、神ご自身のみなんです。
 そしてそれは、御怒りのもとにある「人」をご自分のもとに、「罪の赦しを得させてから」帰らせるということだったのです。

 ここに私たちは、神というお方とその愛を見るのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.23.Tue 09:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。"
 マタイの福音書 26章33~35節

 イエス様は、このあとにペテロが露呈してしまうその弱さをあらかじめ告げて言われました。
 それに対しペテロは、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と、自信満々でした。
 しかしその直後に起きた衝撃的な出来事・・イエス様逮捕・・を目の前にして、ペテロはなすすべがありませんでした。それどころか、イエス様が言われた通りのことをしてしまうのです。

 ペテロは自分の弱さ、それどころか卑怯なところ、また精神力の弱さをいやというほど見せつけられました。ペテロの鼻っ柱は完全に砕かれたのです。
 言うまでもなく、イエス様の弟子たちのリーダーというペテロのプライドも完全に砕かれてしまいました。

 しかし、イエス様を天に見送ったあと、弟子たちに激しく聖霊がくだり、ペテロは大胆にイエスがキリストであることを証しし、力あるわざ=奇跡も伴うという人物になったのです。
 あのペテロが、神の偉大なみ力をそのまま世の中に表す「神の器(うつわ)」と変えられたのです。

 神の器・・それは器だけがあればいいんですね。

 内にあった余計なものが粉々になり、それらは捨ててきれいに掃除された空っぽの器になった・・これが神の器の姿です。

 自分の弱さを思い知るということ・・、これは実は最大の恵みなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.22.Mon 07:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
 #40

 YouTube ミュージシャンにもわかる聖書の話

 GraceCafeたいむ #40 【心が守られるところ】

  賛美歌「主イエスのみそばに」から その1・・アップしました。

  心の隠れ家、安全な場所がある・・という話です

 https://www.youtube.com/watch?v=_Uc0IGkQrdY&t=4s
 
 
2021.02.20.Sat 02:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」"
 マタイの福音書 26章31~32節

 〜と書いてある・・と、イエス様はゼカリヤ書13章7節の預言を示されました。その13章は次のことばから始まっています。

" その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。”

 言うまでもなく、罪と汚れをきよめるのはイエス・キリスト。その他にはいません。羊飼いが打たれるとは、キリストが十字架にかけられ、殺されるということです。そのとき羊は散らされる・・と、ゼカリヤ書には書かれているのです。

 こんな具体的なことまで書かれているのかと驚かされます。キリスト来臨の500年前です。

 イエス様は、散らされて行く弟子たちのことをご存じでした。その弟子たちに、イエス様は暗にその後の行動を促されているんですね。
「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と。

 それは何が起こるかも分かっていない弟子たちに対しての、イエス様のやさしい導きでした。そんな話を十字架という最大の山場を前にして、すでにされていたのです。

 聖書のみことばも、これから何が起こるかも分からない私たちに、前もって行くべき道を指し示し、語ってくれているんですね。
 イエス様こそが、すぐに迷い出てしまう私たちを優しく導いて下さる、まことの牧者なのだと・・。

 混乱の中、恐れの中、不安の中・・。
 イエス様はいつもそこにいて、やさしく語って導いてくださるお方なのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.19.Fri 09:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。"
 マタイの福音書 26章30節

 最後の晩餐を終え、いよいよオリーブ山へ出かけます。金曜日午前0時〜2時。

 ある注解によると、このときに彼等が歌った歌は詩篇の113〜118篇だとありました。
 そこは全体が、父、子、聖霊なる神への賛美の言葉に満ちあふれています。
 その中にこんな一節があります。
 それはイエス様が以前にも弟子たちに、この箇所を引いて話されていたところです。
 
" 家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
 これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。"
 詩篇 118篇22~24節

 このあと、ユダの代表者とも言える祭司、パリサイ人、律法学者らは、神の子キリストとして、預言者たちによって語っている無数の預言の通りに来られたこの方を捨て、殺してしまうのです。
 〜これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ・・とあります。

 神が愛したイスラエルは、その御子を捨ててしまうのです。しかしそれは「主がなさったこと」・・。
 世の初めからこのことが計画されていたんですね。それは最悪の出来事です。
 しかしその日こそが「主が設けられた日」だというのです。
 この時こそが、まことの喜びと楽しみへと通じる、まさにその時だったんですね。

 神のなさることはいつもそうです。
 最悪の事態の上に神の計画があり、しかもそのことを通して神は、思いもよらない祝福を与えてくださるんですね。
 この翌々日・・イエス様は死の力を打ち破り、よみがえられるのです。

 イエス様をはじめ彼等は、イエス様が十字架にかかられる前に、賛美をしました。

 私たちも、どのような時にも主を賛美し、主に感謝するのです。

 ハレルヤ! 主の御名をほめたたえます。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.18.Thu 08:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。"
 マタイの福音書 26章27~28節

 イエス様が定められたパンと杯(さかずき)の儀式。今日はその二つ目、杯についてです。

 パン・・それは、イエス・キリストという方を実際にお迎えしたことで、古い自分に死に、永遠のいのちに生かされる者とされていることを覚えるための、またそのためにご自身のからだを私たちのために与えてくださったという、神の愛を覚えるためのものでした。

 そして杯・・。それは「多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」とイエス様は言われました。
 それまでのイスラエルの民と神との関係は、自分の罪のために動物のいけにえをもってその都度神の前に出て、その血を流すことでその罪は赦されるというものでした。
 しかしイエス様は、ご自身がそのすべての罪のためのいけにえとなり、血を流すのだと言われたのです。しかもそれは「契約の血」だというのです。

 これがイエス・キリストの十字架です。

 これは今までに聞いたこともなかったことでした。この血によって、すべての人の罪は一切赦されるという契約です。ですからその流された血が、自分のためだと信じる者の上に、その契約は実現するのだというのです。

 イエス・キリストによって、人と神との関係は、新しい契約段階に入りました。新約聖書の「約」は、その新しい約束という意味での「約」です。
 しかもそれは、神に選ばれたイスラエルの民だけのものではなく、全世界の、神に背を向けるすべての人々のために与えられた約束だというのです。

 この杯は、そのことと、そのために御子をつかわされた父なる神の愛を忘れないための杯だというわけです。

 パンは私たちに与えられたもの。そして杯は父にささげられたものを表しているんですね。
 これで「救い」の完成です。

 あとは私たちがそれを受け取るだけというところまで、イエス様がすべてを成し遂げてくださったのです。

 結局このパンと杯は、神の愛のすべてを表し、それを覚えるためのものだったんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.17.Wed 07:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」"
 マタイの福音書 26章26節

 キリスト教会では「聖餐式」という儀式を行います。それは十字架と復活のキリストを覚えて、パンとぶどう液をいただくというものです。

 今日の箇所は、その「パン」のところです。
 イエス様は次のように言われました。
"わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」" (ヨハネ6:51)

 イエス様は「いただくことのできるお方」なんですね。
 イエス・キリストを信じる者は、今生きておられるイエス様ご自身を、自分の内にお迎えすることになります。これがいただくということです。
 そのことを忘れないためにパンを食べるということをしなさい・・というわけです。

 イエス・キリストは、十字架で一度完全に死なれ、そして三日の後によみがえられ、天にのぼられた方です。

 私たちはこのイエス・キリストを内にいただくのです。
 いただいた私たちは、そのキリストと共に古い自分に死に、そのキリストによって新しいいのちに生きる者とされるんですね。
 それは罪の性質を持つ肉の体が、内にいてくださるイエス・キリストという存在と共に先ずは死に、そして少しずつですが、きよめられていき、ついには主と同じ姿に変えられるというのです。

 でもクリスチャンは、変わっていく自分を見て、それがただキリストの故であることを忘れ、何か自分に良いところがあるからだというような錯覚に陥ってしまうんですね。
 そんなことにならないように・・、あなたがこうして変えられてきたのは、もっぱら内にいるわたしの故であることを忘れないように・・、こうしてこの儀式をもってそれを覚えなさいということなんですね。

 キリストは、いただくことのできる「生けるパン」なのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.16.Tue 07:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」"
 マタイの福音書 26章24節
 
 前回と同じ箇所の後半です。
「そういう人は、生まれてこなければ良かったのです。」・・。このことばになんとなく引っかかるのは私だけでしょうか。
 私を生まれさせたのはあなたですよね。・・と言いたくなってしまいます。

 神様はただご自分の計画に従って、将棋の駒のように思い通りに人々をこの世に置き、それを展開させ、ご自分があらかじめ選んだ人々を天の御国の民とされるのでしょうか。
 そうだとしたら、なんだか空しくなってしまいます。すでに自分の運命は決められてしまっているのですから・・。

 人は「神の似姿」につくられたと、創世記1:26には記されています。
 神は私たちに、選び取る権利と力・・即ち意思を与えられたんですね。
 神からの情報も、それを受け取るのか受け取らないのか・・、それは自らの意思「心の行動」として決められる者として、神は私たちをつくられたのです。

 神は全知全能なるお方です。ですから、誰が神のもとに帰ることになるのかということは、天地創造の初めからご存じだということになります。
 でもそれは、初めから「決まっている」ということではなくて、「その人が自分の意思をもって決めること」をあらかじめご存じだ・・ということなんですね。
 ですから、当人にとっては確定していないことであって、その人には選択するという決定の機会が与えられているのです。

 ですから「人の子を裏切るその人はわざわい」なのです。ユダの中にサタンが入った (ルカ22:3) と書かれていますが、それはユダに責任がないということではないんですね。
 神は人に「神の方を選ぶ」意思の力を与えられているんです。

 人は自分の意思で神を選び、自分の意思で神を拒むのです。

 あなたが最終的に神を選び取るかどうか・・、それはあなたが決めることなのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.15.Mon 09:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #39


ミュージシャンにもわかる聖書の話
 GraceCafeたいむ #39 【信じたときからすべてが始まる】

 あなたを変えるのは神の力です・・という話です

 賛美歌「いかに恐るべき」から その3
 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://www.youtube.com/watch?v=WXeJcq2jn00
 
 
2021.02.13.Sat 09:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。
 イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。"
 マタイの福音書 26章24~25節
 
 最後の晩餐でイエス様が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と言われた時、ユダは「まさか私ではないでしょう」と言いました。でもその前に他の弟子たちも皆同様に「まさか私では・・」と言ったと記されています。(22節)
 よほど自信がなかったのでしょうか。でも現にイエス様が捕らえられた時には、皆ちりぢりばらばらに逃げてしまいます。
 ペテロなどは命をかけても付いていきますと言いながら、結局イエス様のことを三度も知らないと言ってしまう有様です。

 弟子たちは、自分の弱さや脆(もろ)さを思い知らされました。
 イエス様が天に上られた後、一同の上に聖霊がくだって、彼らは大胆に福音を宣べ伝え始めます。そのような大きな働きを任される弟子たちにとって、その力が主なる神から来ているのだということをいつまでも忘れないために、それは必要なことだったのかもしれません。

 しかしそんな弟子たちとユダの言葉には違いがひとつありました。
 弟子たちはみな「主よ、まさか私ではないでしょう」と言っています。しかしユダは「先生、まさか私ではないでしょう」と言ったと記されています。

 ユダはイエス様を「主」と呼ばなかったのです。

 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一 12:3 )

 イエスを主と呼ぶ・・、そこにはこの方を主なる神とし、心と思いを尽くして仕える、という心があります。そしてそれは聖霊によって実現するのだというのです。

 私たちがしなければならないこと・・それは、イエス様を救い主として心から信じ、自分のうちにお迎えすること・・それだけなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.12.Fri 10:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。"
 マタイの福音書 26章17~19節

 種なしパンの祭り、すなわち過越(すぎこし)の祭り・・。それは子羊をほふって焼いて食べ、また酵母を入れないパンを食べる・・それを一週間続けるという、ユダヤの祭りでも最大の祭りです。

 この祭りの由来は出エジプト・・それは奴隷とされていた200万のイスラエルの民がエジプトから脱出し、約束の地カナンに向けて旅立ったという出来事です。
 旅立つその日、イスラエルの民はパン種を入れずにパンを焼いて、子羊と一緒にそれを食べ、その子羊の血を家の門の鴨居に塗りました。
 それはイスラエルの神がモーセを通してそのようにせよと言われたので、民はその通りにしたのです。

 その日はエジプトの王以下、全てのエジプトの民の初子に神の罰が下ります。そのことでようやく王はイスラエルの民を解放するのですが、その時、子羊の血が門の鴨居に塗ってあったイスラエルの家には、その罰は下らなかったのです。
 すなわち神が子羊の血を見て、ご自分の民に対してはその罰を「過ぎ越された」というのが、この出エジプトの際に起きた出来事です。
 これをいつまでも覚えるために行われたのが過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りです。

 イエス・キリストの時代より1800年も前に起こったこの出エジプト・・。
 これこそが、人類史上最大の出来事である「神の子キリストによる人類救済」の型だったんですね。

 神に背を向けたままの人々は罪の奴隷となり、その上には神の怒りがとどまるというのです。
 しかしあのイエス・キリストが十字架で流された血を、あれは自分の罪のために流されたものなのだと信じるならば、神はその人の上にある怒りを過ぎ越され、すべての罪を赦される・・。

 人はイエス・キリストによって、本当の過ぎ越しにあずかる者とされる・・、これが福音です。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.11.Thu 09:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
こう言った。 「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。"
 マタイの福音書 26章14~16節

 3年半の間イエス様に同行し、毎日のように話を聞き続け、そして一番大切な時が迫っているその時に、どうしてユダはイエス様を売り渡すという発想ができたのでしょうか。
 ルカの福音書(22:3)には、 "ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。" と書かれています。

 ではどうしてイエス様の弟子ともあろう人に、サタンは入ることができたのでしょうか。

「私に何をくれますか」・・。このユダの言葉は、これからイエス様の上に起きることの心配より、自分の心配をしていたということを示しています。
 それは本当は、イエス様に付き従っていた十二弟子にはあり得ない発想なのですが・・。
 そこにサタンは入ったんですね。

 イエス様は言われました。
"人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」" (ルカの福音書 22:22)

 私たちは常に怖れをもって神に仕えなければならないことを、ここでは教えられます。
 サタンは、すべてのクリスチャンを敵とみなしています。
 サタンはあなたが隙を見せるのを虎視眈々と狙っているんですね。
 サタンは十二弟子の一人に入ることに成功しました。
 サタンはユダが自分のことに心を奪われていたその「隙」を狙って、まんまとその企てに成功したというわけです。

 主イエス・キリストこそが、あなたを罪や誘惑から守る「盾」なんです。
 自分のことを考える前にイエス・キリストのうちに自分の身を置くこと・・それこそが私たちの務めなのです。

 そこだけが安全地帯なんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.10.Wed 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」"
 マタイの福音書 26章12~13節

 イエス様が十字架にかかられるその週、イエス様が滞在されたのはエルサレムから1キロほどのベタニアのシモンという人の家でした。
 そこは、イエス様が死からよみがえらせたラザロ、その姉妹マルタとマリア、そして父と思われるシモンの家で、シモンはツァラアト(以前はらい病と訳されていました)をいやしていただいた人です。

 イエス様はいよいよエルサレムに入られ、これから何かが起ころうとしている・・。弟子たちも、またシモンの家族も、その特別な緊張感の中にありました。

 マリアはこの特別な時に、ナルドの香油といわれる非常に高価な香油をイエス様にささげました。
 マリアにとってイエス様は、財産とみられるほどの貴重な香油をささげるにふさわしいお方、いやそれ以上のお方だったんですね。

 世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところ・・それは、イエスが神の子キリストだと知らされるすべてのところという意味です。そこではこのマリアのしたことが記念として語られるのだと、イエス様は言われました。
 それは・・イエス・キリストというお方のために自分の最も大切なものを使うという行為のことです。

 しかしイエス様を裏切ったユダをはじめ、弟子たちはそのマリアの行為を非難しました。
 それは、そんな高価なものを無駄に使うなら、貧しい人のために使え・・と。
 それは一見、もっともな意見のように思えます。

 しかし私たちは、イエス・キリストという方を通らずに善人になることなど、できないんですね。

 イエス様に近づくこと・・、そこからすべてが始まるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.09.Tue 09:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。"
 マタイの福音書 26章1~4節

 イエス様が最後の大事な話をされていたころ、祭司長たちや民の長老たちは、大祭司カヤパの邸宅でイエス殺害の計画を練り始めます。
 それらすべての出来事は、あの十字架につながっていました。

 最悪の事態、十字架・・。しかし本当はそれで終わりではなく、復活というのが着地点であったことを私たちは知っています。

 しかし弟子たちの思いは、十字架までで止まっていました。イエス様が復活されたと聞いたとき、弟子たちは信じることができず、本当によみがえられたイエス様に会ってようやく、イエス様は復活されるという話をされていたことを思い出すのです。

 私たちはどうでしょうか。

 黙示録を見ると、あの恐ろしい光景に目が止まってしまいます。しかしそれがメインの話ではなくて、その後に完全な悪の滅びと、キリストによる新しい王国の実現があるのだというのが黙示録が言っていることです。

 最悪の事態は最悪に通じている・・。その物差しが全てを見えなくしてしまうのです。

 世の中の最悪の事態、そして個人的な最悪の事態・・。
 でもそれは、その先のことのためにあるのだということをイエス様は身をもって示されたんですね。

 すべてのことの上に着々と進められている神の計画・・それは暗闇からのどんでん返しなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.08.Mon 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
#38決定

ミュージシャンにもわかる聖書の話
 GraceCafeたいむ #38 【神の方法】

 共に歩んでくださる神のいつものやり方・・の話です

 賛美歌「いかに恐るべき」から その2
 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://m.youtube.com/watch?v=YqSRtJatzXo
 
 
2021.02.06.Sat 07:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』"
 マタイの福音書 25章40節
"こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
 マタイの福音書 25章46節

 人の子の到来、天の御国についての話の最後。それは、さばきについての話でした。

 人の子キリストがその栄光を帯びて御使いたちと共に来られ、すべての国の人々が「羊」と「やぎ」により分けられる。
 やぎは永遠の刑罰に入る人で、羊は永遠の命に入るのだというのです。

 イエス様は羊たちに向かって「あなたはわたしが空腹であった時に食べさせ・・飲ませ、宿を貸し、服を着せ、見舞い・・」と、そういうことをしたのだから御国を受け継ぎなさい・・と言いますが、羊たちにはイエス様に食べさせたり、助けたりした記憶がありません。
 そこでイエス様は彼らに向かって言わたのが今日の箇所です。「わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と。

 イエス様は、空腹な者、渇いている者、宿のない者、裸の者、病気の者、罪を犯して投獄された者・・そのすべての人の上にわたしの心はあるのです、と言われたのです。

 ここで天の御国に関する話は終わっています。

 天の御国への道・・それはキリストの心を追いかける道。
 天の御国・・それは、漠然と夢見るようなものではなく、私たちの地上での生活から直結しているのです。

 私たちはキリストの愛による救いを受け取りました。
 そうしたら今度は、この地上において、その愛を「小さい者たち」に注ぐようにして生きること・・。
 それが「王」であるキリストが求められていることなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.05.Fri 09:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』"
 マタイの福音書 25章21節

 天の御国の話が続きます。
 今度は、天の御国が約束されている「主のしもべ」が、この地上においてどれだけ主なる神様に忠実かという話です。

 この21節からわかることは、主人(神様)はこの地上において、しもべに仕事を託すのだということです。
 そして、そのことに忠実に働くかどうか・・それを見て主人は喜びたいと思っているということなんですね。

 主人はしもべの能力に従ってお金を預けるのですが、どちらにしてもそれは「わずかな物」だったようです。
 結局主人が喜ぶかどうかは、預けられたものがわずかであろうと、それを大切に取り扱うかどうか・・ということにかかっているようです。

 神を父と呼んで歩むようになったクリスチャン・・、そのクリスチャンには父から預けられるものがあるというのです。
 それはあまりにわずかで、自分でも気がつかないほどのものかも知れない。でも、それを生かそうとするかどうか、そのことに父はとても興味をお持ちだということなんですね。

 神と共に歩む者は、聖霊に導かれるようになります。その聖霊はこの「わずかなもの」を用いる機会をちらちらと垣間見せてくれるんですね。あなた、これができるんじゃないの?・・と。

 それは、ほんの小さな心遣いかも知れません。ほんの一言の優しい言葉かも知れません。あるいは、ささやかな反省かも知れません。
 それらの思い・・。それは明らかに父があなたに預けられたもので、あなたがそれをどう扱うかを、父なる神様はとても興味を持ってご覧になっているんですね。

 この話の最後には、忠実でなかったしもべに対して「外の暗闇に追い出せ」という主人の言葉があります。
 わずかなものを用いて歩むその道・・それは暗闇から守られている「光の道」なんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.04.Thu 10:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。"
 マタイの福音書 25章12~13節

 天の御国の話はさらに続きます。今日の箇所は、ともしびを整えて花婿を待つ花嫁の話です。
 花婿とはイエス様のことで、花嫁とはクリスチャンのことです。
 花婿が迎えに来る・・。それは携挙という、イエス様が天から再び来られ、クリスチャンたちを天に引き上げるという時のことで、天の御国に入るまさにその時の話です。

 当時の結婚式は夜に盛大に行われました。
 花婿が花嫁の家に迎えに来るのは夜です。そして花婿のところへ行くのに必要なともしびを用意するのは花嫁の役割でした。そして行進をしながら花婿の家まで行くのです。
 ですから花嫁は、ともしびを灯しておくと同時に、花婿の家まで行くのに必要な油も用意しておく必要がありました。

 ともしびとは、救い主イエス・キリストを信じて心にお迎えする時、そこに与えられる新しいいのちのことです。
 ですから、全てのクリスチャンはともしびを持っていて、その火を灯し続けているわけです。
 
 ここに出て来る十人の花嫁・・、この人たちは皆ともしびは灯していました。しかし花婿が来るのが遅い・・。
 十人のうち五人の「愚かな娘」は、花婿が来るのが遅いと思っているだけで、婚礼のこと、花婿を迎える時のことはあまり考えていなかったようです。その時になって油が足りないことに気がつくのです。

 油・・それは、ともしびを灯し続けるのに必要なもののことです。
 それは、絶えない主への思いからくる日々の生活・・。
 聖書を開き、祈り、神との関係を深めることに時間を割き、家族、友人、世界中の人々がまことの神に立ち返るために、自分が主に用いていただけるように願い続ける・・。
 これがないと、ともしびはだんだんに小さくなって、しまいには消えてしまうんですね。

 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから・・。

 要するにこれは、世のことに心を奪われている場合ではないという話なんですね。
 問われているのは、自分が本当に花嫁だと思っているのか・・ということなのかもしれません。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
  
2021.02.03.Wed 09:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。"
 マタイの福音書 24章44~47節

 終わりの時についてのイエス様の話はまだ続きます。

 主人の家のしもべたち・・それは、教会に集うクリスチャンたちのことです。そしてその上に任命されたしもべとは、この「しもべたち」に食事を与える者で、それをしっかりする者が忠実で賢いしもべだというのです。

 上に任命された者がしもべたちに食事を与える・・? 
 この食事とは霊的な食事、すなわちみことばによってその信仰を養うということです。

 あれから2000年、数え切れないほどの人たちが「しもべたち」のために任命され、その役割を果たしてきました。しかしこのあとにイエス様が言われたのは「悪いしもべ」の話でした。
 それは、主人はどうせすぐには帰って来ないと思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているしもべ・・。(48-51節)

 しもべたちをたたき始め・・というのは、食事を与えるどころか、他の力によってしもべたちを支配するということです。
 しかしイエス様はあっさりと言われています。「仲間のしもべたち」・・と。
 しもべたちの上に立たされたと言っても、彼らはみな同じ「主のしもべ」としての仲間だというのです。

 神のしもべに与えられる任務・・、それは人に仕えることなんですね。
 それはすべての「主のしもべたち」に課せられているのです。

 かしらなるイエス様は人に仕え、人々のためにいのちをささげるためにこの地に来られました。

 ですから人に仕えることは、イエス様に仕えることなんです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.02.02.Tue 10:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。"
 マタイの福音書 24章38~39節

 イエス様は「終わりの時」について、二つのことを言っておられます。それは戦争や飢饉、また天変地異といった「しるし」があって、それから終わりが来るのだということ。そしてもう一つは今日の箇所で言われているように、その日は突然やって来るのであって、人々は食べたり飲んだりと、普通の生活をしているのだというのです。
 一つはしるしの後に来て、もう一つはしるしなしに突然やって来るというのです。

 イエス様が再び来られるというのは、実は二つの出来事を指しているんですね。
 一つ目は、キリストが天から来られ、キリストにある者(クリスチャン)が天に引き上げられ、その時からキリストと共にいる者とされるという出来事。(第一テサロニケ4章)
 もう一つは、大艱難時代を経てもなお悔い改めず、悪とこの世の富を愛する者へのさばきと、そんな中でもキリストを信じ続けた者の救いのために来られる。 (黙示録14章) このふたつの出来事です。

 今日の「人の子の到来」は、この前者であることがわかります。それを私たちは「携挙」と言っています。
 その時人々は普通の生活をしているのだというのです。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり・・。

 ノアが神から箱舟建造の指示を受けた時、地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていました。しかし、ノアだけは正しい人だったと書かれています。(創世記6章)
 それはノアが、「神」は聖い義なるお方であることを、悪の中にどっぷり浸かっている人々に対して、言葉と行いを通して言い表していたということです。
 人々にとってノアは、神を信じで地上に大きな箱舟を作るという、ちょっと頭のおかしな人としか目に映らなかったわけです。

 そして洪水がきて、全ての人をさらってしまうまで、彼らにはわからなかった・・。

 イエス・キリストこそが、この箱舟なんですね。

 「救い」というのは、滅ぼされてしまうところからの救いなのです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.02.01.Mon 10:03 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

  #37


ミュージシャンにもわかる聖書の話
 GraceCafeたいむ #37 【声を上げればよい】

 恐れの中で・・という話です

 賛美歌「いかに恐るべき」から その1
 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://www.youtube.com/watch?v=B3LGpNSAa3U&pbjreload=101
 
 
2021.01.30.Sat 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。"
 マタイの福音書 24章30節

 そのとき、人の子のしるしが天に現れる・・。
 そのときというのは、苦難の日々の後、太陽は暗くなり〜と、天変地異が起きるまさにその時であることが29節からわかります。

 そのとき、地の全ての部族は胸を叩いて悲しむ・・。

 黙示録によると、終わりの時の7年の大艱難時代の後半の三年半、「二人の証人」が現れて、地の人々を苦しめるという記事があります。それは、神を認めようとしない者たちへの厳しい警告・・それが三年半の間続くということです。

 ですからその時点で世界中の人々は、救い主イエス・キリストと終わりの時の話を散々聞かされているんですね。
 そして、人の子のしるしが天に現れた時、「あの話は本当だったんだ」と知るわけです。
 しかしその時にはすでに「刈り取り」が始まっているんですね。もう手遅れだと、その時初めて知り、胸をたたいて悲しむのだというわけです。

 彼らは、地のすべての富といわれるものが消え去り、それまで頼りにしていた全てのものが消え去ったときに初めて、今まで聞かされていた「福音」が現実のことだったということに目が開かれ、「神に対する不遜」ということの意味をその時に知る・・その様子がここに記されているわけです。

 今この時代は、福音を全世界に宣べ伝えよというイエス様の命令がほぼ完了しようとしている段階に入っています。そして私のようなミュージシャンまでが、そのことを叫び始めている・・。それはまさに終わりの時のしるしなのではないかと、自分でも感じているんですね。

 全能の神と、そのまことの神の前に不遜であった自分・・そこに目を止めることが実は、いのちの道への入り口なんですね。
 
 今ならまだ、間に合います。。。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.29.Fri 10:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
 死体のあるところには、禿鷹が集まります。"
 マタイの福音書 24章27~28節

「終わりの時」に関する聖書の箇所は、多くの預言書、イエス様のことば、使徒たちの手紙、そして黙示録にあります。
 驚くべきことに、これらのすべてが一本の線でつながるんですね。

 そこから導き出されること・・それは終わりの時にある「人の子の到来」は二回あるということです。もっと細かく読むと三回になるかもしれません。その辺は、聖書学者同士でも意見が異なりますが・・。

 一回目の到来は、クリスチャンたちを (死んだ者はよみがえり、その時生きている者と一緒に)みなを一挙に引き上げるために天から来られる という「携挙(けいきょ)」のとき。(第一テサロニケ4:16)

 そして次に、再び来られて実った穀物を刈り取られるとき。それは携挙の後にあるとされる「7年の大艱難時代の間にキリストに立ち返った者たち」のことを言っているようです。
 またその時同時に、御使いたちは「地のぶどう」を刈り取るという、鋭い鎌による別の刈り取りがあると、黙示録には書かれています。
 地のぶどうとは、ここまできても頑なに神を拒み続けた者たち・・すなわち、栄華を極め、贅と悪の限りを尽くして富を貪っていた者たちのことで、その刈り取りによって都の周辺は血の海になるという記述があります。(黙示録14章と17章)

 今日の「死体があるところには、禿鷹が集まります。」という唐突なことばは、この黙示録の記事を見ると、その情景が見えてくるというわけです。

 終わりの時・・、それはただ恐ろしい時のように感じてしまいますが、ここにある大切なメッセージは、イエス様は最後の最後まで「倉に収めるべきご自分の民」をきっちり集められるということなんですね。
 私たちには、神に立ち返る時が、いま与えられているんです。

 すべての人を神の御怒りから救い出す道が用意された。あなたは救いを選び取れ。

 ・・これが神からのメッセージなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.28.Thu 10:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、人々はあなた方を苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国々の人々に憎まれます。”
 マタイの福音書 24章9節

 わたしの名とは、言うまでもなくイエス・キリストの名ですが、世界中がクリスチャンを憎むということは、世界中がイエス・キリストに敵対するということです。
 なんだか恐ろしい話ですね。

 イエス・キリストへの憎しみというのは、聖書全体を通して見ることのできる「サタンの思い」そのものです。

 結局この「終わりの時」の話というのは、サタンの勢力と神の勢力との戦いが明確になる状態のことを言っているんですね。
 そして最後には、サタン率いる悪しき勢力は完全に一掃される・・それが聖書に書かれている神の計画の大筋です。

 洋画やアニメにはそのようなストーリーが多く見られますが、あれはすべて聖書から来ているんですね。けれど常に、本当の主人公である「神」が他のものに置き換えられているんです。
 聖書を骨抜きにしてしまう・・これこそまさに、サタンの巧妙な手口です。

 人々が互いに裏切り、憎み合う。偽預言者が現れて人々を惑わす。不法がはびこる。多くの人の愛が冷える・・。それらはすべてサタンの領域での出来事です。

 神は光です。サタンは闇です。

 人は、死を恐れるゆえにサタンの虜になってしまいます。逆に言えば、死を通過してしまうことほど強いことはないんですね。
 ですから、サタンは必死で「イエス・キリストの復活」をも骨抜きにしようとするんです。

 サタンは暗闇の世界の王です。
 あなたは光を選べ・・。

 ここにまことのいのちがあるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
  
2021.01.27.Wed 09:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
 マタイの福音書 24章14節

「世の終わりの時のしるしは、どのようなものですか」という弟子たちの質問に対して、イエス様は話を始められます。
 偽キリストの出現、戦争、飢饉、地震・・。それらは「産みの苦しみ」の始まりだとイエス様は言われました。
 産みの苦しみとは、まさしく陣痛に例えられる苦難の時代というものがあって、その後に新しいいのち、すなわち新しい世が誕生することを言っているわけです。

 黙示録、また旧約聖書のダニエル書によれば、この最後の陣痛は「大艱難時代」と言われる7年間に相当します。
 しかし預言書をすべて見渡すと、その時代が来るまでにはまだ起きなければならないことが、いくつか残っていることがわかります。
 イスラエル国の出現・・それは1948年に実現しました。そしてエルサレムに神殿が再建される・・それはまだ実現していません。

 聖書全体を調べてみると「世の終わり時計」のようなものが見えてきます。
 そして今日のイエス様のおことばもその一つと言えます。

 世の終わりは、全世界に福音が宣べ伝えられ、すべての民族に証しされたら・・来る。

 地球上には、福音が宣べ伝えられていない地域がまだ残っています。
 でもそれはほんの少しなんですね。宣教師たちは文字通り命がけでその地に宣教に出かけて行く・・その働きは、今も止まってはいません。
 2000年という長いスパンで考えると、今は「秒読み」段階に入っていると言えるのかもしれません。
 
 しかしそんなこととは関係なく、私たちは死を迎えます。
 では、何のためにいつ来るかもわからない「世の終わり」のことが語られているのでしょうか。

 私たちは死によって消滅するのではないと、聖書ははっきり言っています。
 ですから、終わりの時も、そして新しく来る「天の御国」も、、すべてあなたと関係がある話なんですね。あなたが死んだとしても・・。

 神はあなたの「永遠」について関わられるお方なんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.26.Tue 09:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」"
 マタイの福音書 24章3節

 イエス様は、弟子たちが目の前にしている神殿が粉々に崩壊する日が来るのだ、と言われました。その時のことについて弟子たちは、こんな質問をします。

「あなたが来られ、世が終わるときのしるしは、どのようなものですか。」

 弟子たちにとって神殿が崩壊するというのは、まさに「世の終わり」の出来事でした。
 弟子たちの質問からわかることは、イエス様は常日頃から弟子たちに次のことを教えておられたということです。

 それは、イエス様は再び来られ、そしてこの世は終わるということです。

 聖書は道徳の本ではありません。
 神が天地万物を造られ、人を造られたところから始まり、その終わりまでという、神の全ての計画が記された書物です。

 あれから2000年経った今、私たちは、あのイエス様のことばはただの絵空ごとだったんだと思うのではなく、逆にそれが着々と近づいていることを肌で感じています。
 なぜなら、聖書に書かれているその他の多くの預言を通しても、そのことが実現する方向に向かっていることがわかるからです。

 その時には、偽キリストが現れ、民族紛争、戦争、飢饉、地震がある・・、
 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(5-8節)・・とイエス様は言われました。
 ということは、まだまだ他にも多くのことが起こるのだということです。それがこのあと24章全体で語られています。

 この箇所の私たちへの一番大きなメッセージは、「その時は本当にあるのだ」ということです。そうでないのなら、聖書はただの「妄想の書物」です。

 私たちは宇宙の大きさの話を聞くと、気が遠くなるような感覚を覚えますが、この話はそれ以上の大きなスケールの話なんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
2021.01.25.Mon 10:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
 #36

ミュージシャンにもわかる聖書の話
 GraceCafeたいむ #36 【神に目を向ける時】

「弱き者」にある祝福の話です。

 賛美歌「弱き者よ」から その5
 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://www.youtube.com/watch?v=07hC3h6cw0I


2021.01.23.Sat 07:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
 マタイの福音書 24章1~2節

 十字架への道・・火曜日

 宮を出てオリーブ山に登ると、神殿の様子を一望することができます。
 この時はヘロデ大王が50年前から神殿の再建と拡張工事を始め、すでにその工事も終盤を迎え、金箔で覆われたその神殿の眺めは、人々をうっとりさせるほどのものでした。

 イエス様、あれを見てください・・と。
 そこで言われたイエス様のおことばに、弟子たちはがっかりし、また恐れと不安を感じました。

 どの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してありません・・。

 それは、金箔が剥がれるどころか、積み上がっていた石はバラバラにされ、見る影もなくなるのだと言われたのです。
 実際にそれから約40年後に、ローマ軍がエルサレムに攻め入ってきてそれが実現してしまいます。
 現在も城壁周辺には、巨大でしかも綺麗に切り分けられた石材が意味もなく転がっています。
 まさにイエス様が言われた通りのことが起きたんですね。

 でも弟子たちは何のことやらさっぱりわからず、あとでそっとイエス様に尋ねるんです。
 いつ、そんなことが起こるんですか・・と。
 そして話は「世が終わる時」へと続いて行きます。

 宮が崩壊する・・それには実際の意味と、もう一つは霊的な意味がありました。
 それは、イエス・キリストというお方の存在によって、この宮ではなく世界各地でまことの神を礼拝するという、新しい時代に入るという意味です。
 そしてそのための決定的な出来事が、数日後に起ころうとしていたわけです。

 世の終わりまでのすべての出来事と、そしてその後に続く新しい世界のすべては、主の御手の中にあるのです。
 その視点をもって、聖書に書かれている過去を見るとき、私たちは聖書に書かれている未来を確信することができるんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.22.Fri 10:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」"
 マタイの福音書 23章39節

 21章から23章にかけては、イエス様のパリサイ人や律法学者たちに対する痛烈な批判の言葉で埋め尽くされています。そしてその最後が今日の箇所です。

 「おまえたち」というのは、神から遣わされた神の御子キリスト(イエス)をかたくなに拒み続けるユダヤ人たちを指しています。
 ここに書かれていることを裏から見ると、そのユダヤ人たちが再びイエス様を見る時というのがあって、そのときには「主の御名によって来られる方に祝福あれ」と彼らは言う・・ということになります。

 イエス様は再び天から迎えに来られ、「イエス・キリスト」というしるしを持つ者たちを、死者もろともご自分のもとに引き上げられる・・。
 さらに最後にもう一度、さばかれる方として再び来られ、イエス・キリストのしるしを持つ者を選び分けられる・・。
 これが聖書に書かれていることです。

 ユダヤ人は、私たち異邦人より一歩遅れてイエス・キリストを認めるようになる・・これが聖書の筋書きなんですね。

 神はユダヤ人 (イスラエルの民) を決して見捨てない・・これは初めからの神の約束です。
 彼らがまことの父のもとに再び帰って来るときがあるのだと、聖書は言っているんですね。
 しかし残念なことに、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14) というのです。

 神の全体の計画がある・・それが聖書には書かれているんです。そして私たちはその中に生かされ、そこで「福音」を聞いているのです。

 福音というのは、とてもリアルな神の計画の中での話なんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.21.Thu 11:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。"
  マタイの福音書 23章11~12節

 今日の箇所から25章の終わりまで、「イエス様の言葉」シリーズに一旦戻ります。

 イエス様はパリサイ人や律法学者たちについて、徹底的に糾弾されました。
 彼らは自らを高い位置に置いて、それで満足していると・・。

 一番偉い者は皆に仕える者になれ・・。

 一番偉い者とは、人々の上に立つ人のことです。〜長とか、先生とか、師とか、もっと偉大な感じだと「父」という言葉でその地位を表すわけです。
 ですからイエス様は直前でこう言われています。

 あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。だれかを自分たちの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません。
 あなたがたの先生も師も、それはただ一人、キリストだけだし、父というのは天におられる父だけなのだと・・。

 私は大学の先生という立場になって30年近く経ちますが、いまだに「先生」と言われるとなんともくすぐったい感じが消えないんですね。

 それは、自分は先生などと呼ばれるにはふさわしくないという感覚があるのと同時に、先生と呼ばれることにある種の心地よさも感じていたりするわけです。

 人の上に立つということには大きなリスクがあるように思います。それはもともとふさわしくない称号を与えられるからです。
 
 神の前に出たらただひれ伏すしかない者だとしたら、「先生」という言葉はなんとなくそぐわないのではないでしょうか。言ってみれば「分不相応」であるわけです。

 自分を高くすれば低くされる・・。それは、自分を高くするなら周りの人には丸見えだということです。
 自分を低くしている人を見るのはなんと心地良いことでしょうか。

 そのことをいつも忘れないでいたいものです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.20.Wed 08:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」"
 マタイの福音書 22章45節

 パリサイ人たち、またサドカイ人たちはイエス様をなんとか陥れようと、いろいろな質問を投げつけるのですが、イエス様のお答えはどれも反論のしようもないものでした。
 そして今度はイエス様の方から彼らに質問をします。それは「キリストはだれの子ですか」というものでした。
「ダビデの子」というのは、キリストはダビデの子孫から生まれるという預言から「キリストの称号」そのものでした。ですから彼らは「ダビデの子です」と答えます。
 そこで質問されたのが今日の箇所です。それは詩篇の中のダビデの賛歌についてでした。

" 主は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」" 詩篇 110篇1節

 最初の「主」は父なる神である主です。そして「私の主」とダビデが言っているのが「キリスト」を指すわけです。
 父なる神はキリストに対して、「私の右の座についていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」と言われた・・とダビデは書いているのです。

 イエス・キリストは、死からよみがえって天に上り、神の右の座につかれた方です。そして終わりの時には「敵」である悪魔を完全に滅ぼし、天の御国の王となる方です。
 ダビデはそれをキリストの預言として書きとめたわけです。

 パリサイ人たちの内には、「この方こそ来たるべきキリストかもしれない」という思いはあったのかもしれません。しかし彼らはイエス様の質問に何も答えることができませんでした。それは彼らは最初から決めていたからです。
 イエスはキリストではない・・。いや、イエスがキリストであったら自分たちが困るんだ・・と。
 彼らは自分を守るために神を殺すことに決めていたんです。
 
 世の人々は自分を守るために、神を心の中から追い出しているんですね。
 神は私たちの罪を指摘されるので、私たちは立場がなくなってしまうんです。
 しかし神はそれをきっちりさばかれるお方です。
 しかしそこから私たちを救い出すために、神はご自分の御子を送られた・・これが福音です。

 神を心から追い出す必要はないんです。
 いやそこに、罪の赦しを用意された神が待っておられるんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.01.19.Tue 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」"
 マタイの福音書 22章36~40節

 彼らはイエス様を言葉の罠にかけようとして、矢継ぎ早に色々な質問をします。しかし、イエス様のお答えは、彼らが反論のしようもないものばかりでした。
 そして今日のこの質問がその最後のものです。

 イエス様は律法を軽んじている・・これが彼らの主張でした。
 しかしこのイエス様のお答えに対しても、彼らはぐうの音も出ませんでした。

 神のいましめが示されているモーセの十戒に始まる「律法」は、次の二つの土台の上に成り立っているのだとイエス様は言われたのです。それは・・

 あなたの神である主を、心といのちと知性を尽くして愛すること。そしてもうひとつは、自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛すること。

 彼らは自分の立場を守るためには、イエス様を論破する必要があると思い込んでいたんですね。そうすれば自分たちは安泰だと思っていたわけです。
 でも本当はそうではなくて、ただ神の前に悔い改める・・それがイエス様が求めておられることだったのに・・。

 自分を守る必要は・・、ないのです。

 神の前に出て、自分のすべてを照らし出していただくなら、あなたはそこにある神の愛を知ることになるんです。
 そこにおられるイエス様が、あなたの全てを赦し、回復し、愛してくださるお方だということを知るんです。

 私たちがするべきこと・・それは自分の罪を認めて、イエス・キリストがその赦しを実現してくださったお方だと信じること・・それだけなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.01.18.Mon 09:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
#35


ミュージシャンにもわかる聖書の話
 GraceCafeたいむ #35 【死の床より起きるその日】

 死の先がある・・

 賛美歌「弱き者よ」から その4
 アップしました・・

 主催:Grace Home Church
 お話/市原康、うた/市原よしみ

 みなさまのお越しをお待ちしています。

https://www.youtube.com/watch?v=JKCKVSaKx0I
 
 
2021.01.16.Sat 08:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。"
 マタイの福音書 22章14節

 三番目のたとえ話・・それは息子の結婚披露宴に人々を招く王様の話です。(1〜14節)

 最初に出てくるのが「招待した人たち」。
 この人たちは自分の用事があるというので、婚宴への出席を断り、王様の怒りを買って滅ぼされてしまいます。
 それは、初めから神の民として選ばれ導かれていたイスラエルと、そしてその中でイエス様の時代にも生き残っていたユダヤ人のことです。
 彼らは神との約束よりも自分の思いを優先にして歩むようになってしまいました。
 彼らは神の守りの約束をいただいているのに、それを足蹴にして、結局はアッシリアやバビロンという強国に滅ぼされ、街は焼き払われてしまいます。
 また、イエス様の時代の後、AD70年にはユダヤ人たちはローマ軍に完全に焼き払われ、神殿もばらばらにされてしまいます。
 これが、王の怒りを買って滅ぼされてしまう「招待された人たち」です。

 次に「良い人でも悪い人でも、大通りで出会った人たち」が婚宴に招待されます。そこには多くの人たちが来ました。イエス様は「取税人や罪びとたち」とともに食事をされる方でした。すなわち、誰でも良いということです。
 その人たちは婚宴に続々とやって来て、披露宴は客で一杯になります。
 
 しかしそこに「婚礼の礼服を着ないで披露宴に来た人」がいたというのです。
 王は彼に「友よ」と言って直接語りかけます。「どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか」と。
 しかし彼は黙っていた・・と記されています。

 婚礼の礼服・・それは「悔い改めの心」のことです。悔い改めとは、もう二度と悪いことはしないということよりも、しっかり心を神に向けて心の身なりを正す・・ということなんですね。
 しかしこの男は、王が「友よ」とまで言って直接語りかけているにも関わらず、何も返事をしなかったのです。
 そしてこの男は縛られ、外の暗闇に放り出されてしまいます。

 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない・・。

 あなたの上に、招待状は届いているのです。この宴会に出席しませんか。礼服を着て・・。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.15.Fri 08:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。"
 マタイの福音書 21章37~38節

 十字架を目前にしたところで、イエス様のたとえ話が三つ続きます。今日の箇所はその二つ目ですが、これらの例え話はみな、ユダヤの指導者たちは神から良きものを受け取るにはふさわしくない者たちであるという指摘でした。
 それでパリサイ人たちはイエスを何とか罠にかけて、亡き者にしようという相談を始めるわけです。すべての話が十字架に向けて並んでいます。

 さて今日の箇所は、自分のぶどう園を農夫たちに貸して、収穫までを任せるという話です。
 ぶどう園の主人は父なる神。そして収穫を受け取るために再三にわたって遣わされるしもべたちが預言者たち。そして「息子」がイエス様です。
 主人は、この農夫たちすなわちイスラエルの民に自分の農園を任せたかったわけです。ところが彼らは主人が遣わした預言者たちを殺し、結局最後に遣わされた息子=キリストをも殺してしまうというわけです。

 この農夫たちは、主人のものを自分のものにしたかったんですね。

 それは結局、主人のものを本当に主人のものだとは思っていないということです。
 この収穫すなわち富は、主人=神から預かっているものなんです。それを彼らは自分のものにしてしまおうと考えたわけです。

 富は神の内にあるんですね。神が富そのものなんですね。それは私たちが所有するとか、そういうものではないのです。
 私たちは、裸で来て、裸で天に帰る者なのです。

 富を自分のものにしようとする・・。これって、究極の勘違いなんですね。
 聖書に出てくる「罪」という言葉。その原語の意味は「的外れ」だというのですが、これこそ絵に描いたような的外れであるわけです。

 神・・そこにいのちがあり、本当の富、宝があるんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.14.Thu 08:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

“「 〜 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」 彼らは言った。「兄です。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。"
 マタイの福音書 21章28~31節

 十字架へ向かう週の火曜日。今日の箇所は祭司長や長老たちとのやり取りの中で、イエス様が彼らに語られた例え話です。

 兄はお父さんの言ったことに逆らいます。でも思い直して言われた通りにしました。弟は口先ではお父さんを喜ばせることを言っておきながら、何もしませんでした。
 父を喜ばせたのは言うまでもなく、兄の方でした。

 それは、神はうわべの言葉ではなく、実際にどのように行動するかを見られるのだという話であるわけです。
 行動というのは、具体的な行いもありますが「心の行動」というものもあるんですね。
 要するに、心がどちらの方に向いて行くかという話です。

 人の心を見分けるにはいろいろと分析の方法があるようですが、とてもわかりやすい見分け方が一つあります。それは、心が神に向かっているか、自分に向かっているか・・。驚くべきことに人の心って、そのどちらかでしかないんです。
 もちろん、人に心を向けて親切にするということもあります。しかし結局のところ、それは自分を満足させるためなのか、それとも神を喜ばせようとしているのか・・、そういう話です。

 行動には、足を踏み出すとか、手を出すとか、具体的に見えることが伴います。
 心にも具体的に見える行動というものがあるんですね。
 たとえば、「神という存在を信じてみたらどうなるんだろう」と考える、その心の一歩です。

 取税人や遊女たちは、イエス様を慕い求めて付いて来ていた人たちです。祭司長や長老たちは、イエス様を否定しようとして寄って来ている者たちです。

 何でも近付いて行って、それに触れないことにはそれを知ることはできません。
 初めから否定していたのでは、絶対に知ることはできないんですね。

 イエス様に近づいて行ってみませんか。

 そのときに、あなたは「神の国の入り口」に立つ人になるんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2021.01.13.Wed 06:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
 あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」"
 マタイの福音書 21章21~22節

 受難週の火曜日の朝。エルサレムに向かう途中、イエス様は道端の一本のいちじくの木を見つけ、行ってみたら葉があるだけで実がなっていなかった・・。
 それでイエス様は、今後実がなることはないと宣言されると、その木は枯れてしまいます。

 それはイスラエルに対する警告そのものでした。葉ばかり繁って実を実らせるのでなければ、その木は存在価値がないのだと・・。
 実を実らせるとは、神の民として、主こそまことの神であることを「実」という形をもって表すということでした。ところが、その民は神が遣わされた御子に敵対してしまうわけですから、実を実らせるどころではありません。

 弟子たちはそんなことには関係なく、ただイエス様が木を枯らしたということに目を奪われ、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と問います。
 でもイエス様はここで、イスラエルへの警告の話ではなく、さらにその先のこと・・すなわち弟子たちが持つべき信仰についての話をされるんですね。

 信じて祈り求めるものはなんでも受ける・・。

 木に命じたら木が枯れ、山に命じたら山が海に入る・・、それは人が行う領域のことではなくて、神のみ手の中で、神の御意志の中で起きることを指して言っているんですね。
 そしてあなた方はその神の働きに関与する人になるのだ、ということを言われているわけです。

 この週、それは世界中に福音がのべ伝えられるという、弟子たちを含めたユダヤ人だれもが夢にも思っていなかったことがいよいよ始まろうとしている時でした。
 そして実際に十字架にかかられたイエス様が死からよみがえられ、天に帰られた後、10日目に弟子たちの上に激しく聖霊が臨みます。そしてものすごい勢いで福音が世界中に広がって行ったのです。

 イエス・キリストにある者は、山をも動かすという表現にふさわしい、神の御名によって事をなしていくという、この世とは完全に別次元の価値観と力をもって、神の手足となって働く者となる・・。
 このことばはまさに、その初めの人たちに向けてのイエス様のおことばであるわけです。

 あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受ける「ことになります」。

 神のもとに帰り、神の奇跡を見ながら歩む者・・。これがクリスチャンなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.12.Tue 10:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」
 イエスは言われた。 「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」"
 マタイの福音書 21章14~16節

 イエス様がロバに乗って入城されたのが日曜日。そして四つの福音書を総合的に判断すると、宮の商人たちの話と、今日の箇所は月曜日になるようです。

 祭司長たちや律法学者たちは、イエス様がここでもいやしのみわざをされ、おまけに子どもたちが「ダビデの子にホサナ」(イエス様こそが来たるべきお方キリスト) と叫んでいるのを見て腹を立てます。
 その腹を立てる祭司長たち律法学者たちに対して、これは預言書に書いてある通りのことが起こっているんだよと、イエス様は言われたわけです。(詩篇8:2参照)

 イエスはキリスト・・。その証拠が当時の指導者たちの目の前に山のように積み上げられ、彼らはそれを見せつけられていました。
 しかし彼らは、イエスはキリストではないと「決めて」しまっていたんですね。

 神はいないと決めつけてしまっている人。それが「世の人」です。
 それは神に背き、エデンの園から追放され、自分一人で生きようとする人、そのままの姿なんですね。

 神から離れた人々は、自分の力で生きているという実感を持つことで満足を感じます。
 勝利すること・・。スポーツで、ビジネスで、受験で、研究の世界で、表現の世界で、投資で・・。
 人は自分の心を、そのようなものを求めることでいっぱいにしています。
 しかし本当の宝は、そこでは見つからないんですね。

 それに対し、挫折、しくじり、絶望、失敗・・。これは実は、全能者という存在に顔を向ける大きなチャンスなんですね。
 なぜなら人はそこで初めて「自分の力」に絶望し、追い求めるべきものが間違っていたと予感するからです。

 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです・・。(マタイ5:4 )

 カーテンを一枚開ければ、そこにはまことの朽ちることのない宝の山がある・・それは絶望しているあなたに与えられたカーテンで、あなたはそれを開くだけでいいんです。

 今、全能者なる神、そしてその神が遣わされたという御子イエス・キリストに目を向けてみませんか。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.11.Mon 09:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 #34

アップしました。
以下からご覧ください。

あのパンと杯の意味はなあに?・・賛美歌「弱き者よ」から その3

お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church

https://www.youtube.com/watch?v=xbeFIvnFJDg


God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
2021.01.09.Sat 07:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」"
 マタイの福音書 21章12~13節

 イエス様がエルサレムに来られた目的、それは十字架にかかられるという、究極の目的を果たすためでした。
 十字架は「神の前に、全世界のすべての人々のためにささげられる、罪の赦しのためのささげもの」です。
 そうです。イエス様ご自身がささげものになる・・これがあの十字架です。

 それは天地宇宙の始まりから終わりまでの間において、神の前にささげられる最も壮大で神聖な礼拝でした。

 イエス様は神へのまことの礼拝がささげられるべき神殿の中が、日本で言うならまるで祭りの時の神社の境内のように「お祭り騒ぎ」になってしまっていることに、またそこで暴利をむさぼる商人たちに、心底怒りを覚えられわけです。
 ここでは「腰掛けを倒された」とだけ記されていますが、ヨハネの福音書には、” 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、" とあります。(ヨハネの福音書2:15)

 イエス様は全ての虐げられている者、さげすまれている者、病んでいる者、小さい者たちには、徹底的に優しく柔和なお方でした。
 すべての人々の上に、この柔和で愛に満ちたお方によって救いが成就した・・それが十字架と復活です。
 でもその救いというのは、神に背を向ける人々の上にある怒りと、それに伴う魂の滅びからの救いなんですね。

 人は、このいのちの源である神から離れて、滅びに向かっているというのです。
 この神殿でのイエス様の怒りは、神に背を向ける人々に対する怒りと悲しみの、ほんのごく一部を切り取ったものと言えるのかもしれません。

 福音、それはもう一度神のもとに帰るチャンスが与えられたという、人生の掲示板に貼り出された最も重要なお知らせなんです。

 これは「いのちの問題」なんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2021.01.08.Fri 10:08 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
<< 2021.03 >>
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
ENTRIES
GraceCafeたいむ #42 【心を預ける】 (03/05)
G-Cafe 聖書のことば #347【弱い者】十字架への道28(03/05)
G-Cafe 聖書のことば #346【預言の成就】十字架への道27(03/04)
G-Cafe 聖書のことば #345【剣はもとに収めなさい】十字架への道26(03/03)
G-Cafe 聖書のことば #344【イエスは主です】十字架への道25(03/02)
G-Cafe 聖書のことば #343【時が来ました】十字架への道24(03/01)
GraceCafeたいむ #41 【休めるところに行く方法】(02/26)
G-Cafe 聖書のことば #342【御子の目的】十字架への道23(02/26)
G-Cafe 聖書のことば #341【肉は弱い】十字架への道22(02/25)
G-Cafe 聖書のことば #340【父のみこころ】十字架への道21(02/24)
G-Cafe 聖書のことば #339【御子であられるのに】十字架への道20(02/23)
G-Cafe 聖書のことば #338【神の器】十字架への道19(02/22)
GraceCafeたいむ #40 【心が守られるところ】(02/20)
G-Cafe 聖書のことば #337【まことの牧者】十字架への道18(02/19)
G-Cafe 聖書のことば #336【最悪の上にある神の計画】十字架への道17(02/18)
G-Cafe 聖書のことば #335【神の愛を覚えるために】十字架への道16(02/17)
G-Cafe 聖書のことば #334【生けるパン】十字架への道15(02/16)
G-Cafe 聖書のことば #333 【決定権はあなたに】十字架への道14(02/15)
GraceCafeたいむ #39 【信じたときからすべてが始まる】(02/13)
G-Cafe 聖書のことば #332【イエスは主】十字架への道13(02/12)
G-Cafe 聖書のことば #331 【本当の過越】十字架への道12(02/11)
G-Cafe 聖書のことば #330【安全地帯】十字架への道11(02/10)
G-Cafe 聖書のことば #329【イエス様からすべてが始まる】イエス様のことば143(02/09)
G-Cafe 聖書のことば #328【暗闇からのどんでん返し】イエス様のことば142(02/08)
GraceCafeたいむ #38 【神の方法】 アップしました(02/06)
G-Cafe 聖書のことば #327【小さい者たちに仕える】イエス様のことば141(02/05)
G-Cafe 聖書のことば #326【光の道】イエス様のことば140(02/04)
G-Cafe 聖書のことば #325 【必要な油】イエス様のことば139(02/03)
G-Cafe 聖書のことば #324【神のしもべの仕事】イエス様のことば138(02/02)
G-Cafe 聖書のことば #323【まことの箱舟】イエス様のことば137(02/01)
GraceCafeたいむ #37 【声を上げればよい】(01/30)
G-Cafe 聖書のことば #322【まだ間に合います】イエス様のことば136(01/29)
G-Cafe 聖書のことば #321【救いを選び取れ】イエス様のことば135(01/28)
G-Cafe 聖書のことば #320【光を選べ】イエス様のことば134(01/27)
G-Cafe 聖書のことば #319【世の終わり時計】イエス様のことば133(01/26)
G-Cafe 聖書のことば #318【本当にあるのだ】イエス様のことば132(01/25)
GraceCafeたいむ #36 【神に目を向ける時】(01/23)
G-Cafe 聖書のことば #317【すべては主の御手の中に】十字架への道 10(01/22)
G-Cafe 聖書のことば #316【リアルな知らせ】イエス様の言葉131(01/21)
G-Cafe 聖書のことば #315【先生と呼ばれること】イエス様の言葉130(01/20)
G-Cafe 聖書のことば #314【罪の赦しを用意された神】十字架への週 9(01/19)
G-Cafe 聖書のことば #313【自分を守る必要はない】十字架への週 8(01/18)
GraceCafeたいむ #35 【死の床より起きるその日】(01/16)
G-Cafe 聖書のことば #312【招待状は届いている】十字架への週 7(01/15)
G-Cafe 聖書のことば #311【的外れ】十字架への週 6(01/14)
G-Cafe 聖書のことば #310【心の行動】十字架への週 5(01/13)
G-Cafe 聖書のことば #309【キリスト者の働き】十字架への週 4(01/12)
G-Cafe 聖書のことば #308【カーテンを開くだけ】十字架への週 3(01/11)
YouTube 【GraceCafeたいむ #34】 神の愛の「形」(01/09)
G-Cafe 聖書のことば #307【いのちの問題】十字架への週 2(01/08)
COMMENTS
CATEGORY
ARCHIVES
2021年03月(6)
2021年02月(24)
2021年01月(25)
2020年12月(27)
2020年11月(24)
2020年10月(27)
2020年09月(26)
2020年08月(26)
2020年07月(27)
2020年06月(26)
2020年05月(27)
2020年04月(27)
2020年03月(28)
2020年02月(26)
2020年01月(25)
2019年12月(30)
2019年11月(21)
2019年10月(2)
2019年08月(3)
2019年06月(2)
2019年05月(1)
2019年04月(2)
2019年02月(1)
2019年01月(2)
2018年12月(1)
2018年10月(2)
2018年09月(3)
2018年08月(1)
2018年06月(1)
2018年04月(1)
2018年03月(1)
2018年02月(1)
2017年12月(1)
2017年11月(1)
2017年10月(1)
2017年08月(2)
2017年06月(1)
2017年05月(1)
2017年04月(2)
2017年02月(1)
2017年01月(2)
2016年12月(2)
2016年11月(2)
2016年09月(3)
2016年08月(1)
2016年07月(3)
2016年06月(1)
2016年05月(4)
2016年04月(2)
2016年03月(1)
2016年02月(1)
2016年01月(3)
2015年10月(1)
2015年09月(2)
2015年07月(1)
2015年05月(1)
2015年04月(1)
2015年03月(2)
2015年02月(1)
2015年01月(3)
2014年11月(3)
2014年09月(2)
2014年08月(2)
2014年07月(1)
2014年05月(1)
2014年04月(1)
2014年03月(3)
2014年02月(1)
2014年01月(4)
2013年12月(1)
2013年11月(1)
2013年09月(1)
2013年08月(4)
2013年06月(2)
2013年05月(2)
2013年03月(3)
2013年02月(2)
2013年01月(2)
2012年12月(1)
2012年11月(1)
2012年10月(1)
2012年09月(1)
2012年08月(1)
2012年07月(2)
2012年06月(3)
2012年05月(1)
2012年04月(2)
2012年03月(3)
2012年02月(1)
2012年01月(2)
2011年11月(8)
2011年10月(3)
2011年09月(1)
2011年08月(3)
2011年07月(1)
2011年06月(3)
2011年05月(1)
2011年04月(16)
2011年03月(4)
2011年02月(1)
2011年01月(2)
2010年12月(1)
2010年11月(3)
2010年10月(2)
2010年09月(2)
2010年08月(2)
2010年07月(2)
2010年06月(2)
2010年05月(4)
2010年04月(8)
2010年03月(6)
2010年02月(9)
2010年01月(5)
2009年12月(8)
2009年11月(15)
2009年10月(5)
2009年09月(7)
2009年08月(18)
2009年07月(11)
TRACKBACKS
LINKS