" あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣(なら)ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。"
出エジプト記 23章24節
主のことばは、約束の地カナンに入った時のことに言及していきます。
彼らの神々を拝んではならない、それらに仕えてはならない・・
私たちは神である主と、他のものとを同時に拝むことはできないんですね。
でも日本人は、神社仏閣、道ばたにある地蔵や、何か拝めそうなものがあればみんな拝んだりします。
聖書によれば、偶像の背後にあるのは、拝まれることを目的とした神に敵対する霊的な存在だというのです。
同時に、私たちの神である主も、霊としての存在として私たちと共にいてくださいます。それがすなわち聖霊=御霊(みたま)です。
この両者は相反する存在ですが、どちらも人の心に入って、人を導こうとします。
前者は闇へ、御霊は光へ。
エペソ人への手紙 2章2節には、神である主以外の霊について、次のように言っています。
・・空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊・・と。
不従順の子らとは、まことの神である主を信じない人々で、その人たちはこの霊との関係の中にあると言っているわけです。
「それらの神々を徹底的に破壊せよ」と主が言われるのは、これらの霊と関係を持つものをことごとく破壊せよという意味です。
そうしないと、それは「あなたにとって罠となる」・・と。(33節)
要するに主は、自分の心のうちからそれらのものを完全に取り除けと言われているのです。
主は私たちに、この両者のどちらかを選び取る権利を与えられています。
私たちは、一点の陰りもない天地創造主である、光なる主の霊を選び取れば良いのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。"
出エジプト記 23章20節
判例が列挙される中、主の守りに関する話になっていきます。
すなわち、あくまでもこの主を信じ、従う者に「わたしはこうする」と言われているのが今日の箇所です。
使いをあなたの前に遣わし・・、それは主が遣わされた者すなわちモーセがあなたを導くという意味で、今の私たちにとって、それは聖霊=御霊(みたま)に他なりません。
道中あなたを守り・・、それはインマヌエル(共にいてくださる)の主。これも御霊ですね。
わたしが備えた場所にあなたを導く・・、それはこの民にとっては約束の地カナンですが、私たちにとっては天の御国だというわけです。
約束の地まで導くのはモーセですが、私たちを約束の天の御国に導くのは御霊なのです。
出エジプト記はことごとく、私たちの救いの歩みの型なのです。
そしてこの祝福に与(あずか)るために以下のことを守りなさい・・と、この後に続くのです。
それは、わたしが遣わす者(モーセ)に聞き従い、その声に聞き従うこと・・。(20節)
それは結局、今の私たちにとっての聖霊=御霊です。
そして22節にはこのように記されています。
" もしあなたが確かにその声に聞き従い、わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。"
御霊によって歩む・・、実にこのことは、私たちが敵から守られ、信仰生活を確実に歩むための、基本中の基本なんですね。
私たちは御霊によって歩み、その促しに従って歩むなら、私たちが歩む先を主は整えてくださり、いつも共にいてくださる主のことがわかり、そして私たちが帰るべき本当の家に帰る者とされていることを、喜びながら、歌いながら、歩む者とされるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。
また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。"
出エジプト記 23章2~3節
23章も「判例」の続きです。
ここでは、公正な証言・・、敵に対する公正な態度・・、貧しい者たちへの公正・・、告訴する者に惑わされてはならない・・、賄賂(わいろ)の禁止・・、寄留者への配慮・・、土地も七年目には休ませる・・、人は七日目には休ませる・・、年に三度の祭り(種なしパンの祭り「過越」、刈り入れの祭り、収穫祭)・・、ささげ物は「最上のもの」・・、神が立てた者に対する姿勢・・、カナンの地の神々を拝むな・・、
そして25節からは「神の約束」へと、話が入っていきます。
今日は23章の冒頭の部分、公正な証言というところに着目してみましょう。
多数に従って悪の側に立つ・・
私は小学生の頃に、小さな子供たちの中でも、そんな光景を見た記憶が遠くの方にあります。
私たちは保身という姿勢の中で、断罪する方向に回ってしまうんですね。
その性質は小学生でなくとも、私たちの内に基本的にあるものです。
訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない・・。
弱い立場の者は、軽くあしらわれるべきではありませんが、その罪については公正な立場で臨まなければならないと、主は言われています。
それはとても難しいことのように思えます。
それができるための最低条件は何かと考えるならば、それは「弱い者も含め、すべての人は罪びとである」という視点に立つことなのではないでしょうか。
私たちは神の前に寸分の否定のしようもなく「罪びと」なのです。
その罪びとが、み子の十字架のあがないで赦された・・この基本にいつも立つ・・
ここに立たないと、私たちは人を正しく評価することはできないし、弱い立場の人を特別扱いしてしまったりするわけです。
公正であるための視点・・、それは私たちは罪びとで、それが赦されたという、まさに福音の核心のところにあるのです。
神・・、それは揺らぐとのない土台、不動の岩なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。"
出エジプト記 22章1節
22章も、様々な判例が記されています。
今日の箇所の他に、盗人を見つけて殺してしまったら・・、盗んだ物を返す場合・・、自分の家畜が隣の牧草を食い荒らした時・・、火が出て隣の畑や収穫物を焼いてしまった時・・、人から預かった金銭が奪われてしまった時・・、所有権を主張する二人の人が現れた場合・・、人から預かった家畜が死ぬなどした場合・・、婚約していない処女を誘惑してこれと寝た場合・・、呪術を行う者は・・、動物と寝る者は・・、他の神々にいけにえをささげる者は・・、寄留者を苦しめる者は・・、貧しい人に金を貸す場合・・、人の上着を質に取ったら・・、神を,族長を罵(ののし)ってはならない・・、ささげ物を遅らせてはならない・・、長子は人の子も家畜も主のもの・・、獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない・・。
この21章にも、実に様々な規定が記されています。
その筆頭である今日の箇所は、人が家畜を盗み、これを屠(ほふ)るか売るかした場合の話です。
現代の私たちの感覚では、被害を与えてしまった場合は、同等のものをもって償(つぐな)えば良いという感覚があります。
しかし今日の箇所では、牛を盗んだ場合は、牛一頭を五頭にして返さなければならないというのです。
神が初めて「法」として提示したこと・・それは、現代の法律よりもはるかに「人の思いを考慮したもの」だったのではないでしょうか。
22節では「やもめ、みなしごを苦しめてはならない」という項目があります。もしこれらの人々を苦しめ、彼らが主に向かって叫ぶなら、主の怒りは燃え上がり、「わたしは剣によってあなた方を殺す」と、主は言われています。
また、貧しい人に金を貸すなら、利息を取るな・・と。
神である主は、あくまでも弱い者に寄り添ってくださる神なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。"
出エジプト記 21章2節
21章から23章までには、十戒に伴う実生活における「判例」のような事柄が細かく記されています。
今日の箇所はその最初のところです。
この奴隷とは、経済的な理由などで債務を負ってしまった同胞のイスラエル人たちのことで、6年間奴隷であったら、7年目には無条件で解放されなければならないと言っています。
その他21章だけでも、ざっと見てみると・・、
・殺人に関する規定・・故意でなく殺してしまった場合、逃れの場所を用意する・・と、その動機についての配慮がされています。
・自分の父母に対する暴力に関する規定・・、それは死刑。
・誘拐に関する規定・・これも死刑です。
・自分の父母をののしる者・・これも死刑です。決してしてはいけないのです。
・争って相手を傷つけた場合の規定・・その相手が休んだ分の補償と、完治までの補償をしなければならない。
・その他、奴隷を傷つけた場合、身ごもった女に突き当たって早産させた場合など・・。(3-23節)
そしてその次に出てくるのが「目には目を」です。
結局「目には目を」というのは、道義的責任を考慮した上で公正に扱うということのようです。
神である主は、私たちの動機や心のあり方も含めた上でさばきをされるという姿勢が、ここでは見ることができように思います。
しかしそれでもイスラエルの民は、この律法によっては神との関係を維持することはできませんでした。
神は、どうしてそのような役にも立たない定めをわざわざ与えられたのでしょうか。
それは、私たちの罪の性質をとことん知らしめるためでした。
それが実に、イエス・キリストの登場によって明確にされたのです。
罪深い私たちは「赦される」以外に神に近付く道はない・・ということが。
イエス・キリストの十字架・・それは赦(ゆる)しのしるしなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【主の愛に満たされる】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=vEHWUA21ekA&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
"これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。"
出エジプト記 21章1節
神である主はモーセに、偶像を造ってはならないことと、祭壇についての規定を語られ、それに続き、かなり細かく、生活の中に起こり得る諸問題についての定めを語り始められます。
ここでは奴隷について、刑罰について、そして禁忌(きんき)事項すなわち、してはならないことなどが、かなり具体的に、21章から23章にかけて語られているのです。
先ずはこのことが、モーセが主から十戒の板を受け取る前のことであることを覚えておきましょう。
モーセは、主のもとへ上って行く前に、これらの定めのすべてを民に語り、しかもそれらは、しっかり書き記されたのです。(24:3-4)
これら三つの章に渡って語られている定めの中に、だれもが知っていることばがあります。
それは「目には目を、歯には歯を」・・。
この有名な言葉は、ここからきているのです。
それは、自分が犯した罪に対しては、同等の裁きを受けなければならないということです。
そしてこの定めの全体を読めば、その基本理念は「不当に扱われる者があってはならない」ということが見えてきます。
それは主は、刑罰と共に、被害者の心をもしっかり顧みている。主は弱い存在の者を忘れることはないということが、ここには現されているように思います。
" 主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」" (詩篇12:5)
ここで語られている神の定め・・、それは、私たちひとりひとりの心に配慮されたものなのです。
神は、弱者を含めたすべての者を顧(かえり)みてくださるお方なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。"
出エジプト記 20章25節
主がモーセに語り始められた教えの冒頭の部分は、偶像を作ってはならないということ、そして祭壇は土で造りなさいということでした。
そしてもしその祭壇を石で造るなら・・というのが今日の箇所です。
石に、のみを当てることで、それを冒すことになる・・。
この四十年後、モーセは民に、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったときには石の祭壇を造るように命じていますが、ここでもその石にのみを当ててはならないと言っています。
それに比べてソロモンの神殿は、巨大な石が切り出され、積み上げられて造られたものです。
これも主の導きの中でこの神殿が建てられることとなったわけではありますが、その神殿は結局は崩壊してしまい、現在に至っています。
石にのみを当ててはならない・・。それは、人の意図や力がそこに入る余地はないということを象徴しているのではないでしょうか。
そしてそれは、動かしがたいような荘厳な神殿を造り、礼拝する場所を一つに決めて礼拝することに対する警鐘であるようにも思われます。
" あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。" (第一コリント3:16)
今、イエス・キリストによって神の子とされた私たちは、内におられると同時に天地万物を造られた神を礼拝する者とされているわけですが、その祭壇は、実に私たちの心の内にあると言っても良いのではないでしょうか。
わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。(ヨハネ4:21)
人がその存在すべてをささげて、主の前にひれ伏す・・、これが礼拝です。
そして私たちは、心の内の石にのみを当ててそれを整えることよりも、そのままで主の前に出て、礼拝することができる者とされているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。"
出エジプト記 20章24節
民が遠く離れて立つ中、モーセは神がおられる黒雲に近付いていきました。(21節)
その時主のことばがモーセに臨みました。
それが23節から次の21章全体、そしてさらに23章まで、日常のかなり細かいことまでの規定を主は語られています。
そしてモーセはこのことを、24章3節で初めて民に語っています。
モーセが一人神に近付き、四十日間山にいて、主のみ告げを聞き、十戒が刻まれた石の板をいただくというのは、そのあとのことなんですね。(24:18)
主がモーセに語られたことの初めは、あなた方はわたしが天から語ったのを聞いたでしょう。あなた方はそのときの恐れを覚え、金銀の神々(他の神々)を造らないように気をつけなさい・・ということでした。(23節参照)
そしてそれに続く主のことばが、今日の箇所です。
ここで主は、土で祭壇を造ることを命じられています。そしてそこで、羊と牛の全焼のいけにえを献げよ・・と。
この土の祭壇は、後にソロモンが建てる石で造られた荘厳な神殿とは違い、どこでも造ることのできるものです。
そしてここで主は、驚くべきことを約束されているのです。
それは、「わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」ということでした。
イエス様はサマリヤの女に「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝するときが来ます。」と言われました。(ヨハネ4:21)
どこでも造ることのできる土の祭壇・・、それこそが「主の名が覚えられるすべての場所」すなわち、ひとりひとりの心を示す型なのではないでしょうか。
そしてその「すべての場所で」、主はあなたに臨み、あなたを祝福すると言われたのです。
今、主イエス・キリストを信じる私たちの内に、今日の24節のみことばが成就しているのというわけです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」"
出エジプト記 20章20節
民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にして、身震いし、遠く離れて立っていました。(18節)
神のことばを、民は直接聞いてしまったのです。
それで民はモーセに言いました。「あなたが私たちに語ってください。〜 神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」と。(19節)
民は神へのあまりの恐れのために、この状況に耐えられなかったことが見えてきます。
それに対してモーセが民に答えたのが、今日の箇所です。
神が来られたのは、あなた方が罪に陥らないように、神への恐れがあなた方に「生じるため」だ、というのです。
「生じる」ということは、それまでは恐れがなかったということです。
私たちは信仰をもって以来、神に語りかけ、神から語られ、共に歩んでくださるこの方とずっと一緒に歩んできました。
ところが、そこには、全能の神、あがめられるべき神への「恐れ」がいつの間にかなくなっている・・。
そういうことって、ありませんか。
この恐れというのは、今日のモーセのことばによれば、「罪に陥らないようにさせるためのもの」だというのです。
私たちは主を恐れなければ、やはり自分勝手な考えで物事を判断し、その歩みを進めていってしまう可能性があるのです。
主を恐れることは大切なこと・・、いや、本来神に向き合うに際して私たちが取るべき基本的な姿勢なのです。
主を恐れるとは、この神を本当に神として認識するということです。
そしてその神を「心と思いと力を尽くして愛しなさい」と、主は言われているのです。
主を知ることを切に追い求め、主を恐れて歩みたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)