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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

聖書のことば #11 191121
 
【救いとは-2】

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。"
新約聖書 マタイの福音書 7章13節

 イエス様のことばです。ここに、ひとつの現実が、短くさらっと語られています。それは、「滅び」という確定事項があるのだということ。そして、ただひとつある「狭い門」から入れば、そこから逃れることができる、ということ。
 狭い門とは、イエス・キリストのことです。

 ヨハネの黙示録には「第二の死」という言葉が4回出てきます。人は一度死ぬことが定められているというのは、ほぼ全ての人が認めるところです。しかしそれは肉体の死です。では霊魂は不滅なのでしょうか。聖書にはこう書いてあります。この世の最終段階において、全ての死んだ者が神の前によみがえって、裁きを受ける。そこで第二の死による永遠の苦しみを伴う滅びか、恵みの救済による永遠のいのちかという、究極の分かれ道があるのだと。

 新約聖書のヘブル人への手紙9:27-28には、このように書かれています。
"そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。"

 さばきは、この地上ではなく、死後にあるんですね。そして救いとは、そのさばきによる「永遠の滅び」からの救いなんですね。
 そしてそのために、イエス・キリストは再び来られる(再臨)と、聖書は言っています。これはさばきの時であると同時に、恵みの時なんですね。

 あなたは救いを選び取りなさい。これが福音 = Gospel = Good News のメッセージなんですね。

 次回は、「父の愛と御怒り」です。

 God Bless You !

2019.11.22.Fri 06:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #10 191120
  
【救いとは】

"私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"
新約聖書 エペソ人への手紙 2章3節

 不従順の子らとは、神を認めない、生まれながらの人のことです。これまでは罪人という言葉で表現してきました。
 その性質は、神の与える規範ではなく、自分が善悪を判断すると言いながら、結局は自己中心、自己保身という「自分ファースト」に生き、欲望のままに動くというもの。そしてそれは悪しき行いは勿論のこと、善行でさえ自分を満足させるために生きているという罪人の姿です。
 私たちもまた、それらの人たちの一人として、罪人として歩んでいた者で、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だった、と言っています。

 要するに私たちの上には、神の怒りがとどまっている、と言っているのです。
 罪の報酬は死です(ローマ6:23)・・という言葉がありますが、このままの私たちは「死」が待っているのみだというのです。その死とは誰にでも必ずやってくる肉体の死と同時に霊的な死・・それはまことのいのちである神から離れた状態のままの死です。これが神の御怒りの結果だというのです。
 全ての人は、この神の御怒りの下にあり、それ故に永遠の死=滅びに定められているというわけです。

 そんな私たちが、キリストのあがないという、神が提供された脱出の道をただ信じることにより、「神の御怒り」は取り除かれ、その罪は不問とされ、良く帰って来たと、天の御使いの大軍勢の歓声と共に、父なる神に迎えられるのです・・。

 これが救いで、これを伝えるのが福音= Good News です。

 次回。もう一度「救いとは」です。

 God Bless You !
2019.11.21.Thu 09:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #9 191119

【福音4 イエス・キリスト】

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節

 イエス様ご自身が、道であったり、真理であったり、いのちであるということが言えるのは、その存在を私たちが受け取ることができる、という前提があるからです。
 イエス・キリストという存在を受け取った時に、歩むべき道が見え、全ての物事の謎が解け、いのちというものの意味がわかるようになる、というのです。

 次のような御言葉があります。
"人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
ローマ人への手紙 10章10節

 心に信じて義と認められる。何を信じるのかというと、先ず創造主なる神がおられること。そしてその神が私たちの罪のあがないとなるために、人として来られて十字架にかかられて死に、三日ののちによみがえられ、今も生きておられるという、イエス・キリストの存在。それを「私は信じることにしました」と心に決めることを、神は良しとされるということです。
 そして口で告白するとは、あなた自身がそれを神に向かって言い表すということです。
 これであなたは救われる・・。これが先の御言葉の意味で、それは神が与えてくださっている約束です。

 その時から、あなたはキリストを受け取り、キリストと共に歩む者となります。これだけで、神のみもと、帰るべきまことの父の家に帰った者としての歩みが始まるのです。これが救いというものであり、恵みによって、即ち代価なしに与えられるものなのです。

 今日の結論。イエス・キリストご自身が救いなのです。
 (洗礼を受けたから救われるのではありません。その前提として、上記のような信仰告白がなければ、洗礼を受けても、その人の内に新しいことは起こりません。洗礼にはまた別の意味があります。)

 次回は、何から救われるのかということを、もう少し見ていきたいと思います。

 God Bless You !

2019.11.20.Wed 13:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #8 191118

【福音3 復活】

"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、"
新約聖書 コリント人への手紙 第一 15章3-4節

 パウロは、この三つのこと、即ちキリストの十字架と死と復活が、核心中の核心だと言っています。そしてその中でもキリストは本当によみがえられたのだ、ということを特に強調しています。
 そして聖書(旧約聖書) の預言にも、その通りのことが書かれているのだ、と言っているわけです。

 イエス様の弟子の筆頭であるマタイも証言しています。イエス様は復活されたあと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われ、見ている前で天に上られたのだと。(マタイ28:20) それは、イエス・キリストは世の終わりまで、今も私たちと共に生きておられる方なのだ、という意味なんですね。

 パウロは、ここが一番大切なことなんだ。本当なんだと、口を酸っぱくして言っているわけです。
 それは、イエス・キリストは、信じて心にお迎えすることができる、具体的な存在なのだ、ということなのですから。

 というわけで、次回は「イエス・キリスト」です。
 
 God Bless You !
 
 
2019.11.19.Tue 10:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #7 191117

【福音2 キリストの十字架】

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 一瞬、耳を疑うようなことを言っています。絶対に無理なものが、「キリスト・イエスの贖い」という切り札によって、まったくひっくり返ってしまうのだと言うのです。
 神の前に出る資格がなかったはずの者が、神の前に正しい者とされるという一大逆転。帰るべき家に絶対に帰れなかった者に与えられた、唯一の門の話です。そして、この門から入るには、何も資格は問われない。ただ「恵み」によって入れるのだ、という話です。

 では、キリスト・イエスの贖いとは一体、なんのことでしょう。
 モーセを通してイスラエルに与えられた律法の中に、罪のためのささげ物の規定というものがあります。人はそれぞれの財力に応じて定められた動物をほふり、その血を祭壇に注ぐことによって、その人が犯した罪は完全に赦されるというのです。これは神の側からの約束ですから、まずそのことを信じなければなりません。信じた者はささげ物をすることで、その罪は赦されるのです。しかしそれは、罪を犯すごとにささげなければならないものでした。

 聖書に次のようなことばがあります。
 "この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。"
 ヨハネの手紙 第一 2章2節

 これはイエス様がかかられた十字架のことで、それは自分の過去と未来のすべての罪、さらに「世全体の罪」のためのささげ物だというのです。先の動物のいけにえの規定が、全く新しいものに塗り替えられたというのです。しかも、毎回のささげ物は一切不要で、このささげ物で全てが完了したのだと。
 人類史上、最も残酷と言われる死刑により、人となった御子という罪のない体がささげ物とされ、血を流されたのです。そしてそれは神ご自身によって備えられたささげ物だというのです。
 実はこれが、「神は愛である」という意味の真髄なのです。

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節

 これは自分の罪のための贖いの供え物だと信じるとき、あなた神が備えられた門の入口に立っているのです。

 次回は、福音3「復活」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.18.Mon 07:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #6 191116

【福音(ふくいん)】

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 私たちは神の前に出る資格はない、ということを前回に書きました。
 罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す。例え善良な市民を最後まで貫いたとしても、心の中は罪の巣窟。それが罪人の姿です。そしてそれはアダムがエデンの園を追放されて以来の、全ての人間に受け継がれている「罪の性質」から来るのだというのです。心の中だけだったら、人には見えないかもしれません。しかし全能の神の前には通用しません。
 罪を犯す者は罪の奴隷ですと聖書にあります(ヨハネ8:34)が、私たちはそこから解放される必要があります。本当の光の中に戻るべき者なのです。もし戻ったら、私たちの心はどのようなものになるのでしょうか。
 それは、人を喜び、神を喜び、そして罪を犯してしまうようなお互いを、あわれむ心です。そのような心は、残念ながら元々の私たちにはありません。
 本当の解放、喜び、いのちは、神の内にあります。もし私たちがそこに帰るなら、この光と喜びの中に生きる者へと変えられるのです。

 さて、今日のみことば、ローマ3:23-24 の最後のことば、「義と認められる」とは、神様から「なんら問題なし」とハンコを押されること。お前は正しい・・とされることです。しかし今までの話の流れですと、そんなことはあり得ないわけですが、なんと、その道が開かれたというのです。
 福音(ふくいん)とは、そのことを知らせるメッセージのことです。英語で言うともっとわかりやすいです。Good News !

 続きは次回に。

 God Bless You !

2019.11.16.Sat 07:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #5

【自分を低くする者】

"あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。"
新約聖書 ルカの福音書 18章14節

 何かふさわしい行いがなければ、神の前には出られないと、思ってはいませんか。

 パリサイ人は、隣で祈っている取税人を見て「あのような者でないことを感謝します」と祈りました。律法をかたく守るパリサイ人、律法学者、祭司たちには、行いにおいては全く問題ない者だという自負がありました。だからこそ、自分は神に受け入れられると思っていたのです。そんな彼らにとっては、どうしようもない者が神の前に受け入れられるなどという話は、不愉快千万でした。ましてや、神の前に最悪のことをしておきながら、それが赦されるなんて、あり得ないっ!と。これが放蕩息子の兄の立場です。
 イエス様はそんな彼らをこっぴどく糾弾しました。自分の内側をよく見てみなさいと。神の前に出るのに、自分に相応しい何かがあるとでも思っているのですかと。

 父なる神は完全な聖さをまとった方なので、悪や不正は、例え心の中だけだとしても、そのままでいいよとは絶対に言われない方です。私たちは、この光なる全く聖い方のもとに招かれているのです。ところが、そこに帰る資格はどこにもない。それが私たちです。
 そんな私たちですけど、自分は全く資格のない者だということを本当に認めた時、神様がなさった大きなわざが見えて来るんですね。それが「自分を低くする者」が高くされる、その時なのです。

 次回はいよいよ「福音(ふくいん)」です。

 God Bless You !

(お詫び)
 前回「収税人」と記載したところは「取税人」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。
 
 
2019.11.15.Fri 22:04 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #4

【あなたは兄の側にいませんか】

"それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠(ほふ)られるとは。』"
新約聖書 ルカの福音書 15章30節

 前回に続く放蕩息子の話の後半です。

 放蕩息子(弟)は、父の家に大歓待で迎えられました。ここに一つ忘れてはならないことがあります。それは、息子は自分の相続分の財産を全部前借りして使ってしまったのに、それが不問に付されているという点です。家で忠実に仕えていた兄はそのことが許せませんでした。今日の聖書の言葉は、その兄の言葉です。そりゃないでしょう・・と。

 前回、この例え話の中で、父と放蕩息子のことを見てきました。では兄とは誰のことなのでしょうか。兄は父の家で忠実に仕えている・・と自負していた人です。即ち、父の家にいて、自分は良い子だと思っている人たち。イエス様の周辺にいる人を思い浮かべると、自ずと見えてくる人たちがいます。それは律法学者や祭司、パリサイ人といった、自分を「優等生」だと思っている人たちです。そして弟は、社会的には神から見捨てられている人たち、明らかに罪深い人たち。優等生から見たら「神の前に出る資格などあり得ない人」即ち、取税人や罪人と言われる、人々から見下げられている人たちです。

 こうして見ると、この放蕩息子の話は第一に、父なる神様は、どうしようもない者も、父の元に帰ろうと思うなら、大喜びで迎えてくださる方なのだ、ということを言っているわけです。そしてさらに私たちに対して、次のように問いかけて来ます。
 あなたは自分のことを、社会的にもまあまあやってるし、少なくとも「あのような人たち」ではない、普通の善良な人間だ・・と思っている人ですか?
 それとも、自分はどう見ても神の前に出る資格などない、顔を上げることもできないような者だ・・思っている人ですか? どちらですか? 兄ですか、弟ですか? と。
 もっとはっきり言っちゃいますと、あなたは兄の側にいませんかという・・これがこの話の二つ目の意味です。

 じゃあ、どうすればいいの?という話になります。続きは次回に。

 God Bless You !
 
 
2019.11.14.Thu 10:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #3 191113

"この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。"
新約聖書 ルカの福音書 15章24節

 今日の聖書の言葉は、イエス様が語られた例え話の中の「放蕩息子の帰還」と言われる有名な話の一節です。
 何不自由ない父の家から、遺産の分け前までもらって家を出てしまった息子の話です。息子はそこでお金を使いまくり、宴会三昧。気がついたときには、金のない奴と付き合う友なんてものは、いなかった。どん底です。それで我に帰った息子は、お父さんにちゃんと謝って「使用人でいいので家に帰らせてください」と言おうと心に決め、家に向かいます。
 帰ってくる息子を遠くに見つけた父は、駆けていって息子を抱きしめます。息子は謝りの言葉を言おうとするのですが、お父さんは息子の顔を見れば、そんな事一目でわかるんですね。そして早速大宴会の用意をさせ、本当の息子にしか与えない最上の着物、指輪、履き物を与えた、という話。
 この息子とは罪人=私たちのこと。「死んでいた」とは、父から離れてまことのいのちを失っている状態を言い表しています。父は言うまでもなく、父なる神。この息子が父の元に帰ったとき、父は「生き返った」と言ったのです。
 そしてこの話のポイントは、父は、息子が何をしていたかは問題ではなく、帰ろうと心に決め、そちらに向かって歩き始めたこと、それが喜びに満ちた大祝会の時になった、という話です。

 息子の心の矢印は、完全に自分の方にだけ向いていました。そしてそれを当然のことだと思っていたのです。ところが自由気ままに暮らした挙句、どん底状態になった時に初めて、そこにある自分の誤りを予感したんですね。その時初めて、息子は心の矢印を父の方に向けました。このことを「悔い改め」と呼んでいます。
 この話は、父なる神の家に帰るための第一歩の話なんですね。

 では、この続きは次回に。

 God Bless You !
 
 
2019.11.13.Wed 05:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書のことば #2
 
" 義人はいない。一人もいない。"
ローマ人への手紙 3章10節

 義人とは、神の前に正しいと認められる人のことです。自分を義人だと言える人は、相当自分に甘い人だと言えそうですね。

 創世記には、アダムが神に逆らってエデンの園を追放されるという話が出てきます。人類のスタートが、神から離れてしまうという悲劇から始まったのだというのです。神が人を造られたのならば、神はお父さんと呼ぶべき存在なのに、それをどうしても認めようとしない人間としてスタートしてしまったというわけです。
 もちろんお父さんから見たら、それはとても悲しむべきことです。自分の子が自分を顧みてくれないのです。聖書ではこれを罪人(つみびと)と言っています。
 神から離れて、自分を善悪の判断の基準、すなわち自分を神とするという傲慢な性質の結果、人は罪を犯すのだというのです。この世のすべての悲惨もその結果だというのです。

 人は罪を犯すから罪人なのではなくて、罪人だから罪を犯すというわけです。
 ではその事態に、神は何をされたのでしょうか。これが、聖書に書いてあることです。

 続きは次回に!

 God Bless You !
 
 
2019.11.12.Tue 08:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
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聖書のことば #11 【救いとは-2】(11/22)
聖書のことば #10 【救いとは】(11/21)
聖書のことば #9 【福音4 イエス・キリスト】(11/20)
聖書のことば #8 【福音3 復活】(11/19)
聖書のことば #7 【福音2 キリストの十字架】(11/18)
聖書のことば #6 【福音(ふくいん)】(11/16)
聖書のことば #5 【自分を低くする者】(11/15)
聖書のことば #4 【あなたは兄の側にいませんか】(11/14)
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