" 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」"
創世記 3章2~3節
サタンは女に「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」と問いかけました。(1節)
女にはサタンの言うことが間違っていると思ったのでうっかり答えてしまいます。
女はサタンに、「園の中央にある木の実は食べてはいけない。それを食べると死ぬから、それに触れてもいけないと神は言われたのです」と答えました。
しかしこの女の認識は不正確なものでした。
神は園の中央に二本の木、すなわち「いのちの木」と「善悪の知識の木」を置かれました。そしてその中で食べたら死ぬと言われたのは「善悪の知識の木」です。
いのちの木からは食べても良い・・というより、このいのちの木は神とともに歩むことの象徴で、そのためには欠かせないものだったのです。
しかし女はこの「いのちの木」についても「触れてもいけない」と思っていた節(ふし)があります。
それは「善悪の知識の木」には近づかないと同時に、神にも近づかないようにしていたということです。
サタンはそこにつけ込んだのです。
サタンは人に、いのちの木よりも善悪の知識の木の方に目を向けさせ、神との関係を壊してしまうことにまんまと成功するのです。(4節〜)
私たちは神との関係を第一とする、すなわちいのちの木にのみ目を向けていなければならないんですね。
クリスチャンはこの世においてイエス・キリストという「いのちの木」をいただいているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」"
創世記 3章1節
聖書の最後の書である黙示録にはこんなことばがあります。
"こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。" (ヨハネの黙示録 12:9)
蛇とは悪魔とかサタンとか言われる霊的な存在であることがわかります。
しかも神である主はエデンの園のときから、すでにサタンの存在を許していたということになります。
そしてこのサタンの暗躍は世の終わりまで続くということを、この黙示録のことばは示しているわけです。
ここではサタンのことを「全世界を惑わす者」と言っています。
しかもこの3章1節から分かるように、サタンは「賢かった」というのですから厄介です。
サタンである蛇は先ず「女」を狙って語りかけます。
サタンはことばをもって攻撃してくるんですね。しかもそのことばには巧みな嘘(うそ)があるのです。
「 〜と、本当に言われたのですか。」・・と、これが最初の惑わしのことばです。
神はそんなことは言われていないのに、そんなことを堂々と言うのです。
そして女は、このサタンのことばに応答してしまうんですね。
それはサタンと関係を持つということです。
私たちが受け取るべきことば・・、それは神の霊感を受けて書かれた聖書のことばです。
このみことばに応答することで、私たちは神との関係を持つのです。
私たちは、サタンのことばに答えてはいけないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。"
創世記 2章25節
エデンの園は年中裸でいても問題なく暮らせる天候だったようです。
それはノアの洪水で天の水が全部落ちて、太陽が姿を表わし、虹が出るという天候の大異変のときまで続いたようです。
それは、その間の人の齢が800歳とか900歳だったという記事からも窺い知ることができます。
それはともかく、この節で注目すべき点は、「恥ずかしいとは思わなかった」というところです。
恥ずかしいと思うのは、どういうときでしょうか。
それは、自分があるべき姿ではない所を見られてしまったとき・・なのではないでしょうか。
あるべき姿とは、与えられた自分に満足しないところから生まれる感覚です。
しかしその姿が「神が自分に与えられたものだ」という認識なら、「あるべき姿」などというものもあり得ないわけです。
ですから「あるべき姿」という認識をまったく持っていなかった最初の人とその妻は、恥ずかしいという感情も持ち合わせてはいなかったというわけです。
これが善悪の知識の木から、その実を取って食べるよりも前の人の状態です。
人は最初、すべてのことをそのまま喜んで受け取り、神と共に日々を送っていたんですね。
それは神の光と喜びに満ちた日々だったに違いありません。
しかしそこに、それを壊そうとする魔の手が忍び寄るのです。
4章は「蛇」の登場です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。"
創世記 2章24節
前回、神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになった・・と書きました。
父と母を離れて、妻と結ばれ、ふたりは一体となる・・。
それは親子の血のつながった絆よりもさらに深い関係が、夫婦の関係においてはできあがるということを示しています。
「最初の人」の話をしているこの文脈の中で、「父と母を離れ」ということばが出てくると、おやっ?となりますが、言うまでもなくこれは、それ以来の「人のあり方」についての教えであるわけです。
これは聖書に出てくる最初の「戒め」であると言っても良いのかもしれません。
一体となる・・。
それはお互いが自分のからだとなるということです。
ですから二人で一体となるはずの夫婦関係に、別の存在が入り込めば、一体となったからだが不健全な形になるのは当然のことです。
夫婦関係を軽んじて、不倫を「文化」などと言ってしまうような考えは、神を知らない所から来ているのです。
人の行動の規範・・、それを造られたのも神なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。"
創世記 2章22節
神は人に、すべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられ、それ名を付けさせたのですが、そこにはふさわしい助け手が見つかりませんでした。(20節)
ふさわしい助け手・・それは動物の中には見いだせなかったというのです。
それで神である主は、人を深い眠りにつかせ、彼のあばら骨をひとつ取り、そこを肉でふさがれたとあります。(21節)
そしてそのあばら骨をひとりの女に造り上げたというのです。
この聖書の記事から、男のあばら骨は女よりも一本少ないという「都市伝説」がありますが、男女、あばら骨の数は同じです。
現代なら、人の骨からDNAを取り、ほんの少し違う所を作って、それを女にした・・と説明した方がわかりやすいかもしれません。
それはともかく、神はひとりの男に対して、ひとりの女を助け手として置かれたというのです。
聖書にある歴史の中において、王といわれる存在は、多くの女性を妻としていました。
しかしそこには常にトラブルが付きまとっていました。
それは結局、神の当初の意図とは異なるんですね。
神である主は 「夫婦」を、人の関係の中で最も深いつながりを持つ、最初の単位としてお造りになったのです。
助け手・・それは心を通わせ、語り合い、互いを高め合う・・そのような存在です。
人は夫婦となったら、そのような二人となるように、育(はぐく)んでいかなければならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。"
創世記 2章20節 前半
神である主は、人のための助け手として、先ずすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣を造られ、人の前に連れてこられました。
そしてそれらの生き物を人が何と呼ぶかをご覧になったというのです。
それで人がそれらを呼ぶと、すべてそれがその生き物の名になったと記されています。(19節)
人はこの時点ですでに、ことばを使うものであったことがわかります。
神である主は最初から人に「ことば」を与えておられたんですね。
どこの国のことばのようであったか、知りたいものです。
エデンの園を追放されたあと、人は地に増え広がるのですが、ことばは「全国共通」でした。ところがあのバベルの塔の事件以来、神である主は人のことばを混乱させて、地の全面に散らされたと記されています。(創世記11:6-8)
ことば・・、それは神である主が人に与えたものであり、それは人が神のかたちとして造られたことの最大のしるしなんですね。
1800年代の終盤になって、ルドヴィコ・ザメンホスという人が世界の共通語としての「エスペラント語」を作るという画期的な試みをし、世界的にも注目されていましたが、結局は普及しないで終わっています。
ことば・・それは神からのものなのです。
何気なくしゃべることばの中に、私たちは神の大きな存在を見ることが出来るんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」"
創世記 2章18節
神である主は、人のために「ふさわしい助け手」を造らなければならないと思われました。
人がひとりでいるのは良くない・・。
神は人を、人同士でつながることによって満たされる存在として造られたんですね。
その最初が「男と女」だというのです。(22節)
神は、人が互いが満たされるための最初の存在として「異性」を造られたというわけです。
動物も人も、異性がいることによって増え広がる存在となりました。
しかしそれよりも以前に、その(異性の)存在の意義は、「ひとりでいるのは良くない」というものだったというのです。
神はその存在を「助け手」として造られたというのです。
人は男女が結ばれて家庭を築き、子孫を設けますが、それだけで互いの存在意義が終わってしまうわけではありません。
それは「助け手」として造られたというのです。
その存在・・、それ自体が「助け」になるというのです。
そうではない面にばかり目を向け、互いを疎むようになってしまっては、互いの存在は苦痛を伴うものになってしまいます。
しかし「神に与えられた助け手」という認識で夫婦が互いを見るなら、そこには喜びがやってきます。
それが神の御心(みこころ)・・すなわち「神が喜ばれること」だからなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は、【たましいの安らぎの場所】 です。
GraceCafeたいむ #110
https://www.youtube.com/watch?v=5tj1v0XGeas
God Bless You !
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節・・(三回目です)
ところで「善悪の知識の木」って、何なのでしょうか。
善悪の知識・・それは天地万物を造られた神である主が、人が歩んで行く上で必要なこととして造られたものです。そしてそれは神の管轄下にあるものでした。
なぜなら、人にはそれを管理する能力はないからです。
善悪の知識は神との交わりの中で、神から直接受け取るものでした。
ですから人はエデンの園において、「善悪の知識の木」から実を取って食べる必要はなかったのです。
それを取って食べる・・それは善悪の知識を神からいただこうとせずに、自分で管理することに決めるという行為であるわけです。
神はそのことを「決してやってはいけないこと」として最初に示されたんですね。
善悪の知識の木からその実を取って食べると、人は神から離れて「神ぬき」で生きようとする者になる・・、そのことを神はご存じだったのです。
それは結局、神を信じようとせず、自分の知識と力で自分を守りながら生きる世界へとつながって行くわけです。
これが実は、アダム以来の人類の姿なんですね。
エデンの園の話・・核心に入っていきます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
創世記 2章16~17節 (前回と同じ箇所です)
神は人がご自分と共におられることの確認のために、ひとつのことをされました。
それは「食べてはならない」という命令に「従うか従わないか」によってそのことを見るというものでした。
結局「その木から取って食べる」ということは、神との関係を自ら損なうということです。
そしてその結果が「死」だというわけです。
それは毒物を摂取したことによって死ぬような死ではなく、「死ぬ人になる」ということです。
現にその実を食べたアダムはそのとき即座に死んだのではなく、930年生きて死にました。
ですから「必ず死ぬ」ということは、「人」は永遠に神と共に生きるものとして造られたのに、この禁断の実を食べるならそこに「死が入る」ということことを意味していたわけです。
さらに、世の始めから終わりまでという神の長期計画という所に視点を移すと、その中間地点で「死の力を打ち破った御子」の登場があるんですね。
それは、死後は無に帰すとか、他のものに生まれ変わるとかいうものではなく、その「死」自体がなきものとされ、今のあなたの名が付けられた「あなた」は、永遠に「あなた」として生きるための扉が開かれたということです。
年老いて死ぬ・・、それはアダムが禁断の実を食べたときから始まりました。
ところがそこに神は、ご自身の栄光を現されるために、この世に「御子イエス・キリスト」を送られ、死の力を打ち破って見せてくださったのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)