GraceCafeたいむ #155 から #158 までがアップされていませんでした。
大変申し訳ありません。
過去分につきましては、カレンダーから毎週土曜のアップ分をご覧になれますので、そちらからご覧ください。
今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
グレイスホームチャーチ 市原康
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グレイスホームチャーチ 市原康
"彼はその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。"
創世記 48章20節
エジプトに安住の地を得たヤコブは、自分の死期が近いことを知り、ヨセフの二人の息子を自分のところに来させます。
長男マナセと次男のエフライムです。(48章〜)
しかしヤコブは、ヨセフの長男マナセよりも次男エフライムの頭に右の手を置いて、その祝福の筆頭としたのです。(13-20節)
それはまさに「預言」でした。
カナンの地を征服するために選ばれた神の器ヨシュアはエフライム族の人でした。
また、預言者サムエルもエフライム族で、彼はイスラエル王国を確立する時に重要な働きをする、これもまた選びの器なんですね。
生まれながらにして与えられていた長子の権利が、ヤコブの手によって一瞬にしてひっくり返されたのです。
しかも長子の権利を兄から奪い取ったヤコブの手によってというのが、何とも皮肉な感じがしますが・・。
人の人生はどうも、既得権によって決まるものではないようです。
このような家に生まれた。これだけの財産を手にした。これだけの実績を積んだ・・など。
これらのことは、私たちの人生を保障する何の力も持っていないんですね。
それらの「既得権」は、あっという間に消滅してしまうことがあるのです。
こんなみことばがあります。
"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。" (箴言10:22)
人生の鍵は、主の祝福すなわち、主との関係にあるのです。
私たちはイエス・キリストによって、永遠の祝福を約束された者となりました。
ですから、私たちが第一に優先すべきは主イエス・キリストとの関係なのです。
その結果として、家庭の祝福、仕事の祝福、人間関係の祝福、教会の祝福があるんですね。
順番を間違えないようにしましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それでヨセフは、エジプトのすべての土地をファラオのために買い取った。エジプト人に飢饉が厳しかったので、人々がみな、自分の畑地を売ったからである。こうしてその土地は、ファラオのものとなった。"
創世記 47章20節
ヨセフはイスラエル=ヤコブの一族を、ゴシェンの地でも一等地のラメセスに住まわせ、彼らを養いました。
イスラエル一族は、この飢饉という危機的な状態の中から、一人も漏れることなく救い出されたのです。
さて、飢饉が続いたために、とうとう全地から食料が尽きてしまいました。
それで、ヨセフは豊作であった七年間に貯めた穀物を民に放出するわけですが、初めは民が持つ銀と引き換えに彼らに食物を与えます。そしてその銀が尽きた時には、今度は民の持つ家畜と引き換えに食物を与えます。
それでも飢饉は続いたので、ヨセフは彼らの土地と引き換えに穀物を与えたというのです。
こうしてなんと、ヨセフはこの七年間の飢饉によって、このエジプトの国を完全に国有化してしまったのです。
そして飢饉も終わりになる時に、ヨセフは民に穀物の種を与え、それを耕させます。そしてその五分の一をを税として収めさせるということをしたのです。(13-25節)
ヨセフはファラオが見た夢を解き明かし、やがて来る七年間の豊作と七年間の飢饉を知ることを通して、完全に国の体制を強固なものとし、ファラオの権力を絶大なものとしたのです。
こうしてヨセフの地位は不動のものとなりました。
なんという知恵でしようか。
この偉大な知恵は、神から与えられたという以外に、何一つそれに当たるものはありません。
私たちは、自分の知恵や能力に頼っている限り、このような神の偉大な御わざに携わることはありませんが、神とつながるならば、この小さな私たちの想像をはるかに超えた神の偉大な御わざに、私たちも携わる者とされるのです。
あなたは自分の知恵と神の知恵と・・どちらを選びますか。
“「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる。" (ゼカリヤ書 4章6節)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。」"
創世記 47章6節
カナンの地からエジプトに向かったヨセフの家族は総勢70人でした。
ヨセフは彼らをゴシェンの地という、家畜を飼う者にとってはエジプトで最良の地へ導きました。
そして彼らがゴシェンに着いたのちに、ヨセフは彼らに会いに行き、「父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。」(46:27-29)
ヨセフが彼らをまずゴシェンの地に導いたのは、恐らく彼らがエジプト人たちに忌み嫌われる羊飼いだったからだと思われます。
ヨセフはまず兄弟の中から五人を連れてファラオのところにやってきて、自分たちの仕事は羊飼いなのですが、カナンの地は飢饉で牧草もなく、どうかしもべどもをごシェンの地に住まわせてくださいと、彼らに言わせます。(4節)
そこでファラオが言ったのが今日の箇所です。
元々嫌われるはずの者たちが、最良の地を与えられ、しかもファラオ直属の家畜の係という仕事も与えられたのです。
神はヨセフを奴隷に売られるという苦難に合わせ、そのヨセフを最悪の場所である監獄から、一夜にしてファラオに等しい権力を持つエジプトの支配者へと「よみがえらせた」のです。
そしてそのヨセフが仲介者となり、嫌われ者扱いをされるはずの羊飼いであるヤコブの全家は、あの飢饉の地から別天地とも言えるゴシェンの地に移され、その地での生活が保証され、王に仕える仕事まで与えられたのです。
ここにも「型」がありますね。
キリストは苦しみを受け、よみにくだり、三日ののちによみがえられて、天に上り、神の右の座に着かれた。
そして神はこの御子イエス・キリストを介して、元々滅びに向かう罪びとである私たちを天の御国の民とされ、主に仕える者とされたのです。
ヨセフ=キリスト、ファラオ=父なる神、忌み嫌われる羊飼い=罪びとの私たち、ファラオに願い出たヨセフの兄弟たち=罪を認め信仰告白をする人、ゴシェンの地=天の御国・・。
聖書はこの救い主イエス・キリストの「型」で満ちているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」"
創世記 46章3~4節
イスラエル(ヤコブ)は自分に属するすべての者を伴い、エジプトに向かいました。
その途中、べエル・シェバに来た時、ヤコブは父イサクの神にいけにえを献げました。(1節)
このべエル・シェバはアブラハムそしてヤコブの父イサクが長く住んだ地です。
その夜、神はイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけます。
そのときにヤコブが答えた返事は「はい、ここにおります。」でした。(2節)
はい、ここにおります・・。
それは、私はいつもあなたに目をとめ、あなたが仰られる事に耳を傾けています・・という意味です。
その時主がヤコブに語られたのが、今日の箇所です。
それはアブラハム、イサクに示され、またヤコブにも二度にわたって示された祝福・・「あなたを大いなる国民とする」・・でした。
そしてそれだけではなく、エジプトからこの地に再び連れ戻すという、最終的な神のご計画についても語られます。
そしてヤコブ自身については、「ヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう」と、ヤコブの地上における生涯についても主は語られたのでした。
それはまさに、至れり尽くせりの神からの祝福のことばでした。
神は私たちクリスチャンに対しても、私たちを大いなる国民「神の民」とされたこと、そして「天の御国」に連れ帰ること、また私たちの地上の生活においても、神は私たちの歩みを守り、その生涯を全うさせてくださること・・この至れり尽くせりの約束をしてくださっているのです。
あなたはそのことを、いつも確信をもって歩みたいと思いませんか。
「はい、ここにおります」・・実はこれがその秘訣なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。"
創世記 45章27節
ヨセフの兄弟達は、エジプトの王ファラオからの贈り物を携えて、父ヤコブのもとに帰ってきました。
兄弟達は、ヨセフがエジプト全土を支配する者となっていたという話を父ヤコブに聞かせるのですが、そんな話をヤコブは信じることができませんでした。
それでもヨセフが送ってくれた車を見て、ヤコブはようやく納得するんですね。(26節)
父ヤコブは元気付き、「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」と、その心は定まるのです。(28節)
ヤコブはヨセフに会ったわけではありませんでした。
しかし車を見て元気づいて、それが信じられないような話だけど行く事に決めたというわけです。
私たちはまだ天の御国を見たわけではありません。
しかしそこから送られてきたものを見て、それで天の御国に向けての歩み始めることを決心した者です。
送られてきた車・・それが神の御子キリストです。
エジプトから送られてきた車は、エジプトの繁栄が一目でわかるような車でした。それでヤコブは決心をすることができたのです
イエス・キリストの十字架と復活・・それは私たちのためにいのちを捨てるという神の愛と、よみがえりによる永遠のいのちを指し示すものでした。
私たちは、天の御国をまだ見ていませんが、それを確信させるものを見て、それを信じ、天の御国への歩みを踏み出したんです。
そしてその歩みを、今日も私たちは歩んでいるのです。
そのことを日々忘れないで、今日のひと時ひと時を過ごしたいものですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」"
創世記 45章24節
そして今日の箇所・・、それはヨセフがエジプトから兄弟達を送り出すときに言った言葉です。
・・道中、言い争いをしないでください。
それはこの一連の出来事について、兄たちがヨセフを奴隷に売り渡した当時の過去を振り返り、なぜこうなったのか、誰の責任でこうなったのかなどと言って言い争いなどはしないでくださいね・・ということなのではないでしょうか。
私たちは過去の失敗を、この後の歩みのために役立てるなら良いのですが、それを自分を責めるための材料にしてしまうことがあります。
あのとき、あんなことをしなければよかったのに・・など。
私たちは罪深く弱い者で、いくらでも失敗する者なのです。それが私たちについての大前提なんですね。
ヨセフと兄弟達の場合、神はヨセフの愚かさ、そして兄弟達の愚かさをも用いて、神はこの最善の計画を成就されたのです。
私たちクリスチャンには今、「全てを益としてくださる主」が共にいてくださるのです。(ローマ8:28参照)
私たちは実に、主とつながっていることによって、自分の愚かささえも恐れずに前進していくことができる者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」"
創世記 45章20節
ヨセフは兄弟達に、急いで父と家族をエジプトに連れてくるように言います。
さらに王であるファラオもヨセフの家族にエジプトの最良のものを与えると約束してくれました。
そして、父ヤコブと子供たちと妻たちのために車も用意して、迎えに行きなさいと・・。
その時にファラオが言った言葉が今日の箇所です。
カナンの地にいるヤコブと家族達にとって、それまでに蓄えた財産は大切なものでした。ですから、移住するとなるとできるだけのものを持って行こうとすることは当然予想されることでした。
それを見越してファラオはこのように言ったわけです。
家財に未練を残してはならない・・。
エジプト全土の最良のものは、あなた方のものだから・・と。
ヤコブと家族は、エジプトから送られてきた贈り物を見ました。
それは、家族を乗せてくるための車、ひとりひとりに晴れ着と末っ子のベニヤミンには銀三百枚と晴れ着5着。さらに父ヤコブには、エジプトの最良のものを積んだロバ十頭、穀物とパンと、父がエジプトに行く際のための食料を積んだ雌ロバ十頭・・。(21-22節)
ヤコブはエジプトに移住した際に与えられるものの一部をここに見たんですね。
それでなんの迷いもなくエジプトに行くことができたわけです。
これって、天の御国を約束された私たちの型のように思いませんか。
私たちクリスチャンは、神から送られた救い主、イエス・キリストを見て安心し、もう地上で蓄えた財産などには未練を残すことなく、天における最良のもの・・、すなわち永遠のいのちと天の住まい、そして神の驚くべき光の中に生きる者となることが約束されているのです。(第一ペテロ2:9参照)
ファラオは、ヤコブとすべての家族を招きました。
私たちの家族も、すべての者が天に招かれているのです。
だったら私たちは家族に、「さあ旅の準備をしよう」と言わなければなりませんね。
天にあるある最良のものは、あなた方のものだから・・。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。"
創世記 45章5節
ヨセフは、ユダが自分をベニヤミンの代わりに奴隷にしてくださいと懇願するのを見て、もう泣かずにはいられなくなって、周りにいた従者達を部屋の外に出します。
そしてヨセフは兄達に「私はあなた方がエジプトに売ったヨセフです」と、泣きじゃくりながら告白しました。(1-3節)
彼らは初めはポカンとしていましたが、目の前にいる王にも等しい人物とヨセフが、突然ひとつの人となったわけです。
そのときヨセフが言った言葉が今日の箇所です。
さらにヨセフは、飢饉はまだ5年続くことが神が示されてわかっていることを話し、こう言いました。
" ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。" (8節)
すなわち、あなた方は私を奴隷として売ったけれど、それは私たちのいのちを救うために、神がなさった事なのですと言ったのです。
心の中の悪がとんでもないことをしでかす・・、しかしその先には思いもよらない神のご計画があったというわけです。
この時ユダをはじめとする兄達は、策略などを巡らすことはせず、自分たちのことを包み隠さず告白し、私たちはあなたの奴隷となりますと言える人になっていました。(44:16)
そしてここから全てが始まり、今までの苦しみを一挙に吹き飛ばす喜びと希望へとつながった・・、それが44章から45章にかけての話です。
自分の愚かさや弱さ・・それは初めからあるもので、神はご存知です。
その私たちが自分を守ることなどは捨て、ただ神と人の前に自分を低くするなら、神のご計画はそこに現れ始めるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)