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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内など・・・
  
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 あっという間に5月。5〜6月は市原としては超多忙な演奏月間となっています。2ヶ月で26箇所というのはどうなんでしょう。ひとつひとつをしっかり丁寧にこなしていけたらと思っております。こんなに多いのは、大野雄二/ルパンに加えて、いよいよ始まります。TRIO’ 2017 ライブツアーvo.1。11回公演。その他も含め、二日に一回に近いペースでやることになります。忙しいジャズミュージシャンは月の内ほとんど毎日やっている人もいますが、私などは、からだのことを考えますと、ちょっとあり得ない・・。取り敢えず、この二ヶ月を元気いっぱい乗り越えたいと思っています。TRIO’は久しぶりで、今回は又々どんな音になりますか、、私自身が楽しみにしています。どうぞみなさまも期待してお越しいただけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 グループ別にライブをご紹介します。

● TRIO’ 2017 ライブツアー vo.1
  5/30(火) 名古屋・ミスターケニーズ 
  5/31(水) 浜松・ポルテシアター 
  6/1(木) 安城・花むすび 
  6/2(金) 静岡・ライフタイム 
  6/3(土) 東京浜松町・サンミケーレ 開成ライブ/ゲスト・市原ひかり 
  6/6(火) 横浜・KAMOME 
  6/8(木) 長岡・クックテールくぼた 
  6/9(金) 軽井沢・ならの木 
  6/10(土) 東京・LEZARD
  6/15(木) 高崎・ケイノート 
  6/17(土) 足利・Soba & Cafe 手打ちそば 伊とう
 合間の6/16(金)には、堀内実智代さんvo.のCD発売記念ライブを富岡ブルーベリーで行います。ピアノが山口泰一郎、ベースが森泰人です。市原康はスペシャルゲストだそうです。穴があったら入っちゃうかも知れません。(笑)

● 大野雄二トリオ/YUJI OHNO & LUPINTIC SIX
  5/6(土) 鎌倉「ジャズクラブ ダフネ」・・トリオ
  5/14(日) ルパン三世のテーマ・誕生40周年記念 コンサート・・Lupintic Six
  5/20(土) 東京お茶の水「NARU」・・トリオ
  5/25(木) 東京新宿「ジャズスポット”J”」・・トリオ
  5/27(土) 豊中市文化芸術センター・・Lupintic Six
  6/4(日) 長野市芸術館・・Lupintic Six
  6/18(日) 東京お茶の水「NARU」・・トリオ
  6/24(土) 八王子市芸術文化会館・・Lupintic Six
  6/25(日) 東京柴崎「さくらんぼ」
  6/30(金) 東京新宿「ジャズスポット”J”」・・トリオ

● 金城寛文クインテット 5/12(金) 東京菊川「な〜じゅ」
● 突撃おたま苦楽部 CDリリース1周年記念ライブ 5/21(日) 穂の国とよはし芸術劇場
● 歌声ペトラ 5/23(火),6/20(火) 普段着の賛美歌を歌う会。市原は司会とソングリードで、ドラムの演奏はありません。 

 ということで、5月6月もどうぞよろしくお願いいたします。
 ライブの詳細は http://i-produce.net 「ライブ」からご覧下さい。

 「ドラマー市原康のキリスト教談義」第10回【 聖書を読むと何が分かるのか・・】を4月24日付で当ブログにアップしました。あなたの想像している聖書とは、かなり違うと思います。

2017.04.29.Sat 17:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
1704談義1


 聖書に関する知識は、みなさん多少ともおありになるのではないかと思います。私は40年近く聖書を読み続けていますが、ここに書かれている神について、人について、神の愛について、神のご計画というものについて、読めば読むほどその概要がしっかりはっきり見えてくるようになりました。1600年にもわたって書かれた66巻の聖書の著者は、師弟関係でもないのに、そこに貫かれている一本の太い線は、1ミリたりともぶれることはないということが、ますます見えるようになってきました。そんなことがあり得るのは、この聖書を書かせたのが人の伝承や知恵によるのではなく、ただおひとりの神というプロデューサーが書かせたからに他ならないということを思わされます。「神を信じるなんて、あり得ない!」というあなたにこれを贈りたいと思います。


■ 聖書には何が書かれているのか 

1. 世の初めから終わりまでのストーリー
 聖書の冒頭、創世記1章1節には私たちの「当たり前」を根底からひっくり返すことばが書かれています。それは・・「神が天地万物を創られた」、ということです。しかも「初めに」です。そして天地創造の始めから終わりまで、そこには神の計画があるというのです。始めるのも終わらせるのも神ということです。「終わりの時」には地も天もあとかたもなくなり、死んだすべての者を神はよみがえらせて、いのちの書に従ってその行いに応じてさばかれる。そしてご自身のもとに帰った者たちのために、「彼らの目の涙をすっかぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。何故なら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」・・という新天新地を実現されるというのです。「始め」から「終わり」まで、聖書にはかなり具体的なストーリーが書き記されています。

2. 旧約聖書のメシヤ預言
 旧約聖書には、メシヤ(救世主)のことが、創世記から最後の預言書までの中に絶えず出てきます。預言は後半にある16の預言書の中だけではなく、最初の五つのモーセ五書や詩篇やそのほかの書物の中にも記されています。預言とは未来を言い当てる「予言」のことではなく、神から預かって民に伝えられることば「預言」です。ですから預言にはその当時のこと、主に民の悔い改めを促す預言や、そのために起こるであろう近未来の出来事、それからイスラエル民族の将来の歩み・・民族の崩壊、離散のことなど、そして来るべきメシヤ=救世主のことなど、様々な預言があります。それらはみな、神と民との関係を健全なものへと導くためでした。メシヤに関しては、誕生、また受難(十字架)、その後の復活、そして世の終わりが近づいた時の大艱難、裁き、メシヤが再び来られる時、新天新地のことなどが旧約聖書全体に散りばめるようにして出てきます。しかし厄介なことに、これらのことが時間軸に沿って書かれていれば良いのですが、イスラエル滅亡の時代の事と終わりの時のこととが入り混じって出てきたり、ひとつの記事がその両方を意味していたりするのです。だから解説なしにいきなり旧約聖書を読んでも、分かりにくいところが多いと思います。

3. 今の時のために与えられている預言
 そしてこのメシヤこそイエス・キリストであると証言しているのが新約聖書です。イエス・キリストの降臨は、旧約聖書のモーセ五書や預言書に書かれている通りに実現しました。たとえば十字架の様子が克明に記されているイザヤ書 (53章など)はイエス・キリスト降誕の700年も前に書かれたものです。鎌倉時代に今のことを書いた書物があって、それが目の前で起こったという状況です。ところがイエス様が公生涯を送られた当時のユダヤ人、またその教職者たちの多くは、目の前に現れたイエス様が預言書に書かれているメシヤだとは思いませんでした。こんなにはっきり書いてあるのに・・です。そして聖書には「終わりの時」のこともはっきり書かれています。しかも今より2000年前に、あるいは3000年前に・・。私たちはそれをどのように受け止めるのでしょうか。

4. 特別な民イスラエル
 この全体のストーリーのために神は一つの民族を立て、特別な配慮の中で守られ導かれてきました。しかしそれにもかかわらず、彼らは神に背を向けて自分たちの手で作った偶像を拝むようになり、神の怒りを招き、そこで初めて悔い改めて神の赦しを頂く。そしてようやく平安と繁栄を回復したと思ったら、また背信の罪を犯す。これを何度も何度も・・どうしてそこまで繰り返せるのかというほど繰り返し、最後にはとうとう世界中にちりぢりばらばらに散らされてしまうのです。これが今も世界が注目するイスラエルの民です。本来12部族あったのですが、今ではその中でかろうじて見分けがつくのは、あの長いひげを生やして黒い帽子をかぶっているユダヤ教のユダヤ人のみです。しかしこのことも神のご計画には織り込み済みで、しかもそれが地上のすべての民族を救うために与えられている一つのステップであると、聖書には記されているのです。


■ 神と人との関係を聖書はどのように説明しているのか

1. エデンの園の出来事 
 聖書はまず最初に、天地万物は神が造られたと宣言し、「神にあって歩む」という特別な存在として人を造られたことが記されています。ところが人の歴史が始まった途端、最初の人は神の言葉を疑うように悪魔にそそのかされ、その言葉を真に受け、神から離れて自分の考えで歩もうとするようになります。人は食べることを禁じられていた「善悪の知識の実」を食べた・・即ち善悪の知識を自分の管轄下に置くことに決めて、神に背いたのです。そしてその結果どうなったかというのが、あのエデンの園を追放されたアダムの話です。それ以来、人は善悪の判断を自分の感覚で行ない、神という存在を自分の外に置くようになってしまった・・。言い換えると「神が言われることを聞きたくない人。自分を造られた神を認めたくない人」になってしまったのです。それがエデンの園を追放されたアダムとその子孫、すなわちすべての人の姿です。エデンの園は、神にあって生きる者のために備えられたところなのに、人はそこで生きる資格を失ってしまったというわけです。さらにそこから人に「死」が入ったのだと書かれています。これも驚くべきことです。本来死はなかったの?という話です。確かにこの出来事の後に「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」と、ここで初めて土に帰る者となったことが書かれています。すなわち、死が人に入ったのだと聖書は言っているわけです。
ということは、あのエデンの園で神にあって歩んでいたそのことは、実はいのちそのものなのだということを暗示しているとも言えるわけです。

2. 神のあわれみ
人はエデンの園から追放されてしまいました。そして人と神との関係が前とは変わってしまいました。それ以来人は、生きてはいるけど「まことのいのち」からは離れてしまった・・。ところがそんなアダムと妻エバのために、神は皮の衣を作って着せて下さったと書かれています。神は、アダムとエバをエデンの園から追放したものの、彼らをお見捨てになったわけではありませんでした。結局人と神との関係はどういう風になったかというと、人は神を認めずに自分の考えで歩みたいという性質を帯びながらも、神のあわれみの中で生かされる者としてその歩みを始めたということになります。これが神と人との関係の基本的な「型」で、これが神の決められたストーリーの始まりだというわけです。

3. 罪びと
 こうして人は神に背を向けてしまう罪びと、そして死を背負って歩む者として、その歩みを始めるのです。神が人を造られたのなら、神を認めようとしないのは神に対する一番の大きな罪です。そしてそこには、神の御心ではなく、感情を土台とした自分の考えに従う行動があります。人は罪を犯したから罪びとと言われるのではなくて、神から離れ、自分の考えに従って歩む罪びとだから、結局罪を犯すのです。これを証明するような出来事が次から次へと起こってきたことを聖書は記しています。アダムは罪びとの元祖というわけです。早速アダムの子カインは、弟アベルを殺します。しかも嫉妬というささいな理由で・・。これが、自分の感情の方を人の命よりも上に置いてしまうという、罪びとのあわれな姿です。 

 あの有名なバベルの塔の話は、人が天に届く塔を作って名をあげてやろうという、自分の栄光をどこまでも求める人間の話です。そこにある神不在の高慢。その高慢の極みのゆえに神の怒りを買い、互いのことばが分からなくなり、人々が地の全面に散らされてしまったという出来事です。現在サウジアラビア・ジェッダで1km超えの高層ビルの建設が始まっています。それと競うようにしてドバイでは、完成するまで高さを発表しないというビルが建設される予定だそうです。人が神から離れて求めるものは、今もバベルの塔の時代もなんら変わらない、自分の栄光です。これも罪びとの本質を象徴している出来事なのではないでしょうか。互いに話していることが通じなくなる時代・・。なんだか他人事のようには思えません。
 神がおられるなら栄光は神に帰すべきもので、崇められるべきは人ではなく、神なのです。「神」と「人」との関係・・それを一言で言えば「まことの神」と「罪びと」です。しかも、神のあわれみと愛と導きの中で生かされている「罪びと」です。


■ 神の最終目的は何なのか

1. 救出
 創世記の6章にはあの有名なノアの箱舟の話が出て来ます。神は人々の余りの悪さのゆえに、主の心にかなっていたノアとその家族だけを選び、箱舟を造らせ、ひとつがいの動物たちと共に箱舟の中に避難させます。そして神は地球規模の洪水を起こし、箱舟に入っているノアとその家族だけを救い出し、新しい歩みをはじめさせたという出来事です。ここを読むと、当時の人の世界はそれほどに、神の聖さからはほど遠い社会になっていたということが推察出来ます。罪にまみれた世界の、神によるリセットです。そこは堕落と暴虐の満ちた世界だったと書いてあります。そしてそこに生きる人々の中から、神に目を向ける者を救い出されるという・・、これは「終わりの時」を表すひとつの型です。

 聖書は人を「自分の罪の中に死んでいる者」と表現しています。またこの世についても、サタンが空中の権威を持つ支配者として存在することを神は許しておられると。そしてその霊的な力の流れの中で人々は歩んでいて、そのことにまったく気付いていないのだと言っています。そしてそこからの救いの計画・・それが聖書の大きなテーマです。(聖書・エペソ人への手紙 6章 11-12節参照) 

 黙示録には、終わりの時のことが書かれています。そしてそれは旧約聖書のエゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書その他にも書かれており、またイエス様も実に多くの箇所でそのことに言及しています。イエス様が語られた「神の国」のくだりは、ほとんどがこの事と関連しています。そして驚くべき事に、この話が各書物それぞれ、書かれた時代が異なっているのに一貫しているのです。

2. サタンの正体
 さて、なぜ神はサタンという存在を許しておられるのか・・という疑問が出てきます。エデンの園にサタンがいなければ、人は神の楽園の中で永遠に喜びの中で生きられたのに・・。神は何故、悲しみと苦しみの時代を作られ、何千年もサタンという存在が関与するこの世の歴史を用意され、そして最後にふるいにかけて、選ばれた人に新天新地を用意されるというようなことをなさるのでしょうか。
今の世はサタンの思惑通りに、人は神から離れ、罪の中で苦しみ、そしてついには死という報酬が定められている・・。そんな状態が人の歴史を通してず~っと続いているわけです。

神に仕える「天使」とか「御使い」とか言われる存在が聖書には出てきます。イエス様をみごもるはずのマリヤに現れて祝福を告げる御使いガブリエルはその代表です。聖書は天使の存在を随所で語っています。そしてもうひとつ。神に仕え、神をほめたたえるのがその大きな役割であるはずの天使が、神の栄光ではなく自らの栄光を求める者へと姿を変えてしまった存在。即ち、神が崇められることをきらい、人が神と共にあって神を喜び、神を崇め、まことのいのちの中に生きるようになることを最もいやがる存在。そして人の世を支配し、人の心の目をくらまし、神が見えないように策の限りを尽くし、罪と死と恐れの中に人を閉じ込め、互いに憎み合い殺し合うようにし、さらには人々が自分を崇めるようにする・・、これが究極の目的であるという霊的な存在。そのような存在が実際にあって、聖書ではそれをサタンとか悪魔とかいう言葉で表現しています。そしてこのサタンはこの世の最後の時まであがき続け、そして最後には火の池に投げ込まれて永遠に苦しみを受けると書かれています。

3. 人の尊厳
 どうして神はこんなストーリーを作られたのか・・。その答えは聖書には書いてありません。神はこういう状態の中から人々を救い出し、まことのいのちである神のところに帰らせる・・というところまでしか書かれていないのです。
 そこで私の頭に浮かぶのはこんなことです。もしサタンがいなくて、人がエデンの園で増え広がったとしたら・・。神は人に、ひとつだけ生きるための条件を教えました。人は善悪の知識の木の実さえ食べなければ神と共に生きる者でいられたのです。平安の中で、永遠に・・です。私は、犬のあの表情を変えない幸せ感というか・・あれが大好きです。自分が与えられた環境を素直に受け入れ、とにかく主人を喜ぶ。人がいつもこのようでいられたら、かなり幸せなんじゃないかと思います。エデンの園のことを思い浮かべると、私はそんなアダムの幸せな姿が目に浮かんできてしまいます。
 ところで、神はそういう幸せの中に人を置くことだけを目的としてアダムを作られたのでしょうか。聖書には、神は人を「ご自身のかたちとして創造された」と書いてあります。動物とは基本的に違うもの、神のかたちに作られたと書かれています。神は人を、ただ素直に喜びすべてを受け入れる生活を続ける者というだけでなく・・実はそれも難しいことなのですが、さらにそれ以上の、意志と尊厳を持ち、創造的な活動をする存在として、そして何よりも神を知るべき者として人を作られたのではないでしょうか。

4. 神のご計画の骨子
ここでもう一度、神のご計画の始めから終わりまでをざっと見てみますと・・。神が天地万物を造り、人にエデンの園という、神と共に生きる理想郷を与えたあと、アダムはエデンから追放され、皮の衣を与えられた。後に人は増え広がり、神は「わたしが神である」と、アブラハムに始まりイスラエルの民に、ずっと言い続けて来られました。それにもかかわらず、彼らは神を受け入れきれず、結局警告されていた通りの呪いを受け取り、外国に攻め込まれて捕囚の身となり、最後には世界中にちりぢりばらばらになるという道を選択してしまいます。それと重なるようにして、神はメシヤ=御子イエス・キリストを世に送られ、「選民」イスラエルだけではなく「すべての国民、民族」の救いの用意をされた・・。それからイエス・キリストによる救いが全世界に宣べ伝えられ、現在に至っている・・。ただし、キリストによる救いの知らせが世界中に宣べ伝えられたと言っても、この世がサタンの支配から解放されたということではありません。救いとは、罪と死とこの世を支配するサタンからの個人的な解放、そして帰れなくなっていた父なる神のみもとに戻ることです。それはイエス・キリストによって実現しました。しかし、神のご計画にはまだこのあと、後半があります。
 1948年、突然イスラエルが国として復活しました。そしてこのイスラエルに位置するハルマゲドンが、悪魔が捕らえられ底知れぬところに投げ込まれるという出来事の舞台になると、黙示録にあります。(20:2-3) 神は最後の段取りまで、特に終わりの時の様子を克明に示されています。その舞台である「イスラエル」が1948年に突然現れたわけです。が、まだ神殿が現れていません。あのエルサレムの神殿跡の金色の岩のドームと言われているところが本来の神殿があるべき場所です。現在のドームはイスラムの礼拝場です。ここに神殿が再建されること、そこに「荒らす憎むべき者」が立ち、自らの偶像をそこに据え、神殿を汚すという出来事が起こると書いてあります。またその前後に起こる大艱難のこと、またイエス様を信じる者が空中に引き上げられること、過去の死者がよみがえること、最後の天地の滅びの前に出現する千年王国のことなど・・。目まぐるしいほどの出来事が預言を通して語られています。この一見とりとめもないことが、過去の預言書や新約聖書のイエス様のことば、そして黙示録に出てくるのですが、そのすべてが矛盾なく読めるというのです。そしてこの最後の舞台に再びやって来られるのがイエス・キリストです。最終的には選ばれた民のために、今の天と地とは消え失せ、天のエルサレムが用意される・・というのです。

5. 神の恵み
 こうして見てくると、神は尊厳を持つ者として造られた「人」を、サタンが支配する過酷なこの世に置き、その中から神の国にふさわしい者を選び出すという流れが見えてきます。
神の国にふさわしい者?・・私なんかは絶対ダメだ、というのが普通の反応かも知れません。でもイエス・キリストは、そのふさわしくない者が神の国に入るために来られたというのです。大体ふさわしい者など、初めからひとりもいないと聖書は言っています。そのような私たちがただイエス・キリストを救い主と信じるということだけで、ふさわしくない者がふさわしい者になるというのです。神のなさることは人知をはるかに超えています。ふさわしくない者がふさわしい者として取り扱われるのです。そんなこと、この世の社会ではあり得ないことです。でも実は、神の恵みと愛を理解するポイントが、そして「愛し、許す者」と変えられるポイントがここにあるのです。

6. 狭い門
 イエス・キリストを救い主として信じる・・また、神を神として認める・・。これは、罪びとが最も不得意とするところです。では、この世の人々が神を認めるとしたら、それはどういう時なのでしょうか。聖書にこんなことばがあります。
 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。・・詩篇51篇17節 
 心砕かれた者・・。これが神の側に立ち返る者となるための「私たちの側の条件」のようです。イエス様は次のように言われました。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。・・マタイによる福音書 7章13節

狭い門から入りなさいと言われています。狭いというのは入りにくいという意味です。神を認めるというのは、罪びとにとってはとてもやりにくいことです。求められているのはいとも簡単なことで、ただ鍵をそのまま受け取るということだけです。ところがそれだけは絶対にやりたくないと思う・・。その裏には、自分が神の前になにか差し出すことのできるものを持っているという思いがあるわけです。実態は何物も持ち得ない者であって、全てをただ神の恵みによっていただいている者であることに全く気づいていない・・これが罪びとの姿です。
プライドという言葉が思い浮かびます。「プライド」には何の根拠もないのです。このところ、「日本人としてのプライド」という言葉を頻繁に聞くようになりました。「あの時代」に持っていた日本人のプライドを取り戻そうという動きです。そして世界は戦争へと向かっている。プライド・・、それは自尊心であり、それにつながることばに国益という言葉があります。それは最終的に自分が生き残るという道を選択させるものです。自尊心とはもともと悪い言葉ではないと思います。本当の自尊心は「神に愛されている者」として自分を理解するところに健全な自尊心があると思うのです。神に愛されているという認識から来る自尊心ならば、他の人もすべて神に愛されている者であるというところに立つことができるからです。しかしプライドというものは自己を支えるものではあっても、他者が喜ぶようなものではないということは、少し冷静になればわかるのではないでしょうか。
 広い門とはこのプライドを残した門であって、その行く先は「戦い」であって、イエス様はそれを「滅びに至る門」だと言われているわけです。しかも、そこから入る者が多いとイエス様は言われました。プライドとはすなわち、神を認めない心なのです。

 上記の詩篇では、砕かれた、悔いた心こそ、神が認めてくださるものだと言っています。悔いるということは、自分に何か残念なことがあったということです。自分に残念なことがあって、そして心が、プライドが、自尊心が砕かれる・・。ああオレは完全にダメだと思うようなことがあったら、それは光の門への入り口かもしれません。
 もともと罪の支配の中に生きている者は、自分を堅い殻で守り、自分を外から攻め入られないように自分の力で守っているというのが、その姿勢の基本です。ですから勿論、それを自分で打ち破るなどという発想は出てきません。また何かの出来事を通して一度二度、それが砕かれるようなことがあっても、罪びとの殻というのはすぐに蘇生してしまうのです。
 その硬い殻にくさびを打ち込み、ついには完全に打ち砕いてしまったのが、あのイエス・キリストの十字架の姿です。あれは私たち罪びとのためになされたところの、私たちの代わりに完全に砕かれた・・その姿です。そして神は、私たちがそれを自分のものとして受け取ることが出来るようにしてくださったのです。

 狭い門・・、それは神が用意して下さったこの「完全に砕かれた肉と、死からよみがえったいのち」を無償で受け取る勇気を持つこと、と言えるのではないでしょうか。私たちにはそれ以外にこの門を通る資格はどのようにしても得られないのです。それを聖書では「信仰による義」と表現されています。すなわち、行いの報酬としてではなく、ただ信じて、この救いを信仰によって受け取ることによってのみ、義(神の前に正しい者)とされる、と言っているのです。何かやったから正しいということもないし、悪いことをしたから資格がないというのでもありません。これはもともと資格のない者を「正しい」とされる神の驚くべき方法であり、私たちはそれでしか正しいとされるチャンスなど、他にはないということです。それに対して支払われた代価は、神の御子のいのちなのであって、私たちが支払うにはあまりに高価すぎて、なんとかできるようなシロモノではないのです。

7. 神の最終目的
 それは、罪の殻の中でどうにも動きが取れなかった罪びとが、神が遣わされた御子による私たちの身代わりとしてのあがない・・すなわち、十字架の死とよみがえりのいのちそのものを受け取る事で、罪と死から解放されて、まことの父である神の元に帰ること。それがまことのいのちの意味であり、そのいのちにあって、父なる神を霊とまことを持って礼拝し、崇め、喜び、そのいのちに浸り、なんの陰りもない光と喜びの中に生きる人となる・・。これこそが、天の父なる神がお造りになりたい神の国の国民の姿であり、そこから引きずり下ろそうとする悪の力が働く余地の全くない神の国、新しい天と新しい地・・そのことの実現こそが神の最終目的ということになりそうです。そう考えるとこの始めから終わりまでのストーリーは、人がそういう者に変えられるために用意された舞台だったということになるのかも知れません。

イエス様は言われました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。・・ヨハネの福音書 10章 7節
イエス・キリストご自身がまことの門だと、イエス様がご自分で語られたのです。もう一度書きますが、イエス・キリストという存在自体が「門」で、ここが神のもとへの唯一の入口だということです。
 羊・・それはどこが自分の本当の家なのかが分からなく、暗闇をさまよっている「迷える小羊」のことです。この迷える小羊のために、神がひとり子のいのちを与えてくださった・・。
これが神の愛のストーリーです。そしてこれが聖書全体を通して語られていることなのです。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書 3章16節

それにしても、聖書は霊の目をもって読まなければ何も開けてこない、何も見えてこない、これはやはり神のことばなのだなあと思わされます。そしてもしあなたがそれを読み始めたのなら、そのこと自体が既に神の奇跡の始まりなのだと思います。なぜなら、すべての人は、神のことばを絶対に受け取ろうとしない罪びとなのですから。



2017.04.24.Mon 01:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 皆様いかがお過ごしでしょうか。市原、がんばってます。。。音楽環境が約40年逆戻りして、目を白黒させながら、やっと少〜し、落ち着いて参りました。現在の演奏活動は以前とがらりと変わりまして、レコーディングなども含めて半分ほどがルパン/大野雄二さん関連の活動となっています。ということは仕事量が以前の2倍になったということになります。この歳にしてはハードなスケジュールかなと思いますが、10才年上の大野さんを前にしては、口が裂けてもそんなこと言えません状態・・。これからはどれだけ力を抜いてやるかにかかっている・・ということになりますか。

 さて、TRIO’の方は春のツアーのスケジュールが出揃いました。5/30〜6/17の間の11公演となっています。メンバーの都合で、途中が空いてしまい、遠出が出来ない状況。それでもなんとか続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしく応援のほど、お願いいたします。ざっとご紹介しますと、
  5/30(火) 名古屋・ミスターケニーズ 
  5/31(水) 浜松・ポルテシアター 
  6/1(木) 安城・花むすび 
  6/2(金) 静岡・ライフタイム 
  6/3(土) 東京/浜松町・サンミケーレ 開成ライブ/ゲスト・市原ひかり 
  6/6(火) 横浜・KAMOME 
  6/8(木) 長岡・クックテールくぼた 
  6/9(金) 軽井沢・ならの木 
  6/10(土) 東京・LEZARD
  6/15(木) 高崎・ケイノート 
  6/17(土) 足利/織姫山荘・Soba & Cafe 手打ちそば 伊とう
 となっています。今からご予定に入れていただけましたら幸いです。
 尚、合間の6/16(金)には、堀内実智代さんvo.のCD発売記念ライブを富岡ブルーベリーで行います。ピアノが山口泰一郎、ベースが森泰人です。

 今回のインフォメーションは3月4月と二ヶ月分です。
 グループ別にまとめてみました。
● 大野雄二トリオ
  3/16(木)東京お茶の水「NARU」
  3/24(金) 東京新宿「ジャズスポット”J”」
  3/26(日) 鎌倉「ジャズクラブ ダフネ」
  4/8(土) 東京柴崎「さくらんぼ」
  4/20(木) 東京お茶の水「NARU」
  4/28(金) 東京新宿「ジャズスポット”J”」
● まきみちる「バースデーライブ」 3/5(日) 東京六本木・アビーロード。告知が遅くて申し訳ありません。チケットは完売です。
● 金城寛文クインテット 3/10(金) 東京菊川「な〜じゅ」今回ピアノが重久義明です。
● 萩谷清gt「SLB=スーパーラテンブラザース」3/27(月) 東京六本木「キーストンクラブ東京」2/28に続き、今年二回目です。今回、ベースは現在ルパンティック6で一緒のミッチー長岡です。
● 直居隆雄トリオ 3/31(金) 東京沼袋「オルガンジャズ倶楽部」河合代介君の足鍵盤付きのハモンドと直居さんのギター、そしてドラムというトリオです。
● 菊池ひみこトリオ 4/2(日) 東京中目黒「楽屋」今回ベースは斉藤クジラ誠です。好評だった2/3に続き、今年二回目です。
● 歌声ペトラ 3/28(日)/4/25(火) 普段着の賛美歌を歌う会。市原は司会とソングリードで、ドラムの演奏はありません。 

 ということで、3月4月もどうぞよろしくお願いいたします。
 ライブの詳細は http://i-produce.net 「ライブ」からご覧下さい。

 「ドラマー市原康のキリスト教談義」・・1月に9回目を出しました。「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」です。面白いと思います。(笑)
 
2017.02.24.Fri 13:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  
  1701談義
 
 
 私が信仰を持ったのは20代の終わり。自分は明らかに変わったのですが、それをどう説明して良いのかもわからず、トラクトと言われる小さな伝道用の印刷物や、印象に残った本などを買って、片っ端からミュージシャンたちに配ったりしていました。おそらく300人以上の人に配ったのではないかと思います。タバコもいつの間にかやめ、酒もあまり飲まなくなっていました。そんな時に演奏旅行などで何日かを仲間と一緒に過ごすと、市原が何をして何をしないかがわかってくるわけです。そして、することとしないこととが自分たちとは違うということがわかって来ます。それで良く言われたものです。「市原は酒も女もやらないで、一体何が楽しいんだ?」と。でも私はうまく説明することができませんでした。<(注)現在、お酒を飲むことはあります。>
  
 
 私が信仰を持つ前と後で、何が変わったのかを改めて考えますと、あの頃はひどく苦い思いにさいなまれていましたから、そこから解放されたということが先ず言えます。イエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れた時から、それまでの自分を支配していた何かが消え、平安と光という言葉にふさわしい「いのち」のようなものをいただいたという感覚です。それ以来私の内にはずっとそのいのちが宿り、そのいのちは常に私に対し、神が喜ばれる思いの方向へと私を導き続けて来ました。その思いとは、愛とそれに伴う喜び、平安、寛容といった、聖書の中に記されている聖霊による思いと一致するものです。
ところが・・です。自分が神の喜ばれる方向にそのまま変わって行けば良いのですが、なかなかそれが苦戦をしておりまして・・。そこで私が最近になって見えるようになって来たこと。それをここに書いてみようと思いました。
 
 
 40年にわたる信仰生活の間、「わたしは決してあなたを見捨てず、見離さない」と言われる主は、私がイエス・キリストを主として自分の心に迎え入れて以来、一日たりとも私を離れて行かれることはありませんでした。途中十年間、私は主から逃げていたことがありますが、その時でさえ主は私から離れて行かれたことはありませんでした。主を悲しませているこんな者を、こんなにも長い期間・・約束通り・・忍耐と愛をもって寄り添っていてくださる主。それはそれは驚くべき存在でした。主という言葉を使うということは、私はこの方に仕えます、あるいは従いますということであり、その究極の関係は、「主よ、あなたを愛します」と言える関係であることが聖書の中では示されています。そして主なるイエス・キリストは、私が主を愛するその愛をはるかに超えた愛をもって私を.そしてあなたを愛してくださっている。そのイエス・キリストこそまことのいのちであって、そのことが地の果てにまで伝わるように示されたのが、あの十字架に掛けられ、死んでよみがえられたイエス様の姿だというわけです。それは、神を認めず基本が自分中心である私、何をしても自分の栄光を求めることしかしない、そんな私が死んで、そのような哀れな性質を釘づけにしてしまい、神の子として与えられる新たないのち、永遠のいのちをいただいて立つ者と変えられるために、キリストが救いそのもの、すなわち十字架の死とよみがえりのいのちそのものとなってくださったというわけです。私の罪を負い、病を担い、苦しみを負い、人の嘲りや不当な扱いを受けながら死んで、3日の後によみがえられた主。この主が自分の中に新しいいのちとして、また一点の暗いところもない神の御心を指し示し続けていてくださる存在として、私の中に生きておられる・・そういう者に変えられた。これが私の中身であるわけです。全てを言い尽くすことはとてもできませんが・・。
 
 ところが、自分が今書いたようなクリスチャンであると同時に、自分の中にそのことに逆らおうとする性質・・正確に言うとキリストに出会う前の自分という、まことに自分中心で、恐れたり怒ったり苦い思いで一杯になったり、常に自分を弁護し、自分に栄光を帰するような考えばかりがグルグルと頭の中でいっぱいになっていたり・・そういう性質が自分の中に未だに基本的に存在していることがわかって来たんですね。それじゃあ、救われたとか言いながらキリストが共にいてくださる者というイメージとは程遠い、ただの人じゃないですかと言われたら、うんその通りと言わざるを得ない自分がいる。じゃあキリストの救いとはなんなのと問われた時に、そんな者であるにもかかわらず、神の大きな恵みによって永遠のいのちが与えられているんです。・・と、それはその通りなのですが、それでは今生かされているこの世においては昔と変わるところのない自分中心の生き方を続けるのか・・という話になるわけです。
 
 でもそこで、もうひとつ見えてきたことがあるんです。それはそんな自分の中にキリストが厳然と生きていてくださり、私という「土の器」を通してご自身を現そうとしておられるということ。その通りなのだとしたら、これほど栄光に富んだことがほかにあるでしょうか。なのに、あろうことか、古い自分の性質みたいなものが、一生懸命になって自分の内におられるキリストに覆いをかけてしまい、相変わらず自分中心のモードで歩んでしまうんです。そんな私のままだったら、宝を土の中に隠して、そこから何も産まない生涯を送ることになってしまいます。宝が宝としての意味をなさない状態です。まさに「宝の持ち腐れ」というやつです。
 
 
 クリスチャンとは、主が内にとどまっていて、いつも主が語りかけてくださっている。そういう状態にある者です。優しく語りかけられることもあれば、強く語られることもある。またある時にはガツ~んとやられることもあるようです。でもそれは常に、先ほど書いた堅固な城壁のように残っている古い自分の性質が少しずつ砕かれるという方向への促しであるようです。私は今、「静まりなさい」ということをいつも主から語られているような気がしています。城壁のような堅固な古い性質はいくら砕かれても、やはりまだまだ残っている。勿論自分で自分を砕くことなど出来ないことです。静まること・・それは暴れ回る古い性質のギヤーをストンとニュートラルに入れてしまうことに似ているかもしれません。古い性質に振り回されて走っていた車のギアーが、突然ニュートラル状態になってしまうんです。そのとき車は暴走するエンジンの影響から解放されるんですね。エンジン=古い自分がいくら回転を上げても、車の動きとは関係がなくなるんです。これが「静まる」という言葉のイメージです。そしてその時、気がつくとその車にはイエス様が乗っているんです。うまく表現出来ませんが、そこでイエス様にギヤーを入れ替えるのかというと、そうではなく、ギヤーはすでに入っているんです。イエス・キリストというモードに・・。私はそのことに気付かされました。私が静まる時、共におられる主が私の主としてそこに立たれるのだということに・・。みなさん、考えてみてください。あの新約聖書の時代のように、そこにイエス様が立たれたら。そりゃもう、自分の中にこもったりしている場合ではないでしょう。私が見えて来たことというのは、私たちクリスチャンはイエス様にそこに立っていただくためにこの地上に生かされているのだということなんですね。でも誤解しないでください。このことを没個性だと言って批判の材料にする向きもありますが、とんでもない。イエス様は、あの古い性質から解放された、神によって作られた本来の100人100色のひとりひとりが、喜びはばたき、愛をおし流していくことを通してその御姿を現されるのです。
 
 騒いだり恐れたり、相変わらず人を計り見たりと、心と頭がグルグル回っている私に主はいつも「静まりなさい」と語られます。「あなたの本当のいのちはわたしなのだ」と。あなたは先ず、騒いだり恐れたりして、いつもわたしに覆いをかけていることを知りなさい・・と。あなたはあなたというひとりの人としてわたしの栄光を輝かせ、わたしを世の人々に証しし、その栄光を神に帰するというのがあなたの、この地上での役割なのだ・・と。何というエキサイティングな話でしょうか。私たちクリスチャンは無力な自分の内にイエス・キリスト、すなわち「愛という名のいのち」をいただいているのです。自分というものはニュートラルにして、イエス・キリストに立っていただくとき、私たちは、世の光、地の塩、そして心の底から生ける水の川が流れ出る者として、しかもひとりひとりがそれぞれの形をもって輝くのではないでしょうか。あなたがどこにいても何をする人であっても、また何をした人であっても、富んでいても貧しくても、能力があってもなくても、また頑固であっても短気であっても・・。
 
 
 以下はこのことを想起させる聖書のことばです。
 
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
・・新約聖書/ヨハネによる福音書 12章 24節
 
 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。 ・・旧約聖書/ゼカリヤ書 4章 6節
 
 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 4章 7節
 
 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 12章 9節
 
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 ・・新約聖書/ガラテヤ人への手紙 2章 20節
 
 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 3章 17.18節
 
 土の器の中にいただいているこの宝を、暗黒が支配するこの世に輝かせるのは、私たちの能力によるのではない。資格の問題ではない。信仰の年数の問題ではない。ひとたびキリストを自分の中に迎えた人は、たとえそれを忘れても、キリストが「決してあなたを見離さず、見捨てない」と言われた通り、地上で見出すことのできる最高の宝であり永遠のいのちであるイエス・キリストを自分の中に入れている人となっているのです。イエス様は単純にこう言われました。「あなたがたは世の光です」と。もしその光に覆いをかけているなら、ただギアーをニュートラルに入れてみませんか。死の影の谷を歩く時も、谷底に転落した時も、希望を失った時も、落胆の中にある時も、問題に直面した時、重大な責任を負った時、喜ぶ時、また幸せを噛み締めている時も・・、ただ静まって共におられる主を喜び、主の御名をほめたたえようではありませんか。私たちが世の本当の光としての役割を果たす者となるために。
 
 
 ・・と、ここまで書いて、あれっ? テーマは「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間なのか」でしたね。クリスチャンとは、こんな姿で、無力な自分を覚えるにもかかわらず、世の中で光を輝かせるという、特別な使命を帯びた人。だからといって何か偉いところがあるかというと、そんなものは全くなく、ただ、神の愛とあわれみに気付かされ、「行いによってではなく、信仰によって」その役割を担う者とされた人。それは自分の罪を神の前に認めるという、罪人の本質=神を認めない の部分が砕かれ、神の御前にひざまずいた人。そして、キリストがそのために激しい苦しみを伴う十字架にかかられると言うことの中に、神の愛を見出しあ、神を愛し、人を愛する者に変えられた人・・。勿論言い尽くすことは出来ませんが、あなたが今までクリスチャンに対して持っておられたイメージは、これで少しなりとも変わったのではないでしょうか。
  
  
 
2017.01.20.Fri 01:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
あけましておめでとうございます。
今年もがんがん行きたいなあと・・67になりますが・・がんばります。
どうぞよろしく応援のほど、お願い申し上げます。

 2017年賀PC
 
 
2017.01.02.Mon 17:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  1612談義


 クリスマスが過ぎて一言。
 
 今世の中ではクリスマスというと、ほとんど恋人と過ごす夜みたいなイメージが定着しているようです。 本来クリスマスはイエス・キリストの降誕を覚え、その結果何が起こり、それが自分とどういう関係にあるのかを思い起こし、そこにある大きな大きな恵みを・・本当は一年中毎日クリスマスでなければならないのですが・・思い起こし、愛と恵みの神に感謝し、神の御名をほめたたえる。そのような日です。そうは言ってもクリスチャンでない方には何のことだか、皆目見当もつかないことであると思いますので、ここに簡単に書きたいと思います。

 イエス・キリストは、神の前に出るにはまったくふさわしくない者である私たちが、もともと帰るべきところであるところの父なる神のみもとに帰ることができるように、私たちのパスポートとなってくださったのです。パスポートは外国に渡航するのにその人の身分を証明し、そこにはお墨付きである日本国ならば外務大臣の言葉が書かれているわけです。この人を日本国民であることをここに証するので、貴国においてはよろしく扱ってほしいと・・。

 イエス・キリストというパスポートには、神の前に出るに際してこんな言葉が記されています。わたしがこの者の罪を負い、受けるべきすべての罰としての十字架の刑を受けた。この者がどんなにふさわしくない者であっても、わたしがこの者の罪の代償を、鞭打たれ、唾をかけられ、殴られ、ついには死体が落ちないほどの太い釘で手足を刺し通され、十字架の上で激しい苦しみの中で死んだことにより、完全にあがなったのだ。ただわたしの故にこの者は父なる神の前に立つことができる・・と。

 イエス・キリストは十字架上での務めを完了して死なれ、3日の後に弟子たちの前に、しかも500人以上の弟子たちに現れ、ご自身が復活されたことを示し、世の終わりまでいつまでも共にいると宣言され、天に上られた方。だからこの名が記されたパスポートは永久に父なる神の前に完全に有効なのです。有効期限もありません。このパスポートを持つ者は他のどんな資格によるのでもなく、そのパスポート「イエス・キリスト」によって神の国に入り、しかもこの御国にあるすべての富を相続する者とされるというのです。なんと大きな恵みでしょうか。

 イエス・キリストは、神が天地万物を創造され、そして世の終わりの先に新しい天地を用意されているという、この大きなご計画の中での最も重要な印であり、神の愛の形として天から啓示されたものです。
 ベツレヘムに生まれた赤子は、三十数年後に私たちの罪のあがないとなるために、人の子という形をとって地上に来られた救い主の姿なのです。
 この大いなる奇跡を思い、神の御名を怖れ、そこにある愛と恵みを覚える日、それがクリスマスを祝うことの本当の意味です。

 毎日がメリークリスマス!
 
 
2016.12.30.Fri 16:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 あっという間に今年一年が過ぎ去りました。中身を追っていけば、実にいろいろなことがあったのですが、感覚としては「あっという間」なんですね。今年は何と言っても大野雄二さん関連の仕事が加わって、ちょっとばかり忙しい人の気持ちを味わっております。市原としては、ルパン関連は勿論のこと、新しいステージに立った感がありまして、それはとてもうれしいことでした。この歳にしてこんなことがあるとは、夢にも思っていませんでしたから。今年は、何と言いますか、若い頃の感覚を呼び覚まされる年とでも言いましょうか。しかし同時にですね・・、実は目は遠くなる、耳も遠くて・・これが演奏にどれだけ影響を及ぼしているのか・・最近になって具体的に分かってきたんですね。歳をとりますと、皆が皆そういうわけではないと思いますが、聞こえる音がやさしくなってくるんですよ。要するにカチンカチンした音に布をかぶせたみたいに・・、世の中の音がみんな優しいんですよ。そういえば自分の車も高級車感が増している(笑)。要するに高音域の聴力が落ちているわけ。これは年寄りにはとても良いことだなと思うんです。静かに暮らせるんですから。ところが音楽とか、会話になると、静かが良いとばかり言ってられなくて、コミュニケーションが取りづらく、一人だけ静か・・なんてことになっちゃうわけです。これでは楽しい会話も、音楽も、、仲間に入れない・・。そんな状態にいつの間にかなっていた・・。そのことに、徐々に気がついてきたんですね。実は、かなり以前から耳は遠かったみたい。で・・、結局補聴器を・・実は二度目の挑戦なのですが・・使用することにしたんですね。初めはこんなデリカシーのない音を聴いていたら、耳がバカになってしまうでしょうと思っていたのですが、二回目の補聴器・・結構高いのを買って、自分でパソコンで調整して・・これがとても難しいのですが・・でもやっと、何となくこれでいいのかなと言うところで調整出来るようになってきたんですね。自分の耳は高音域の聴力が足りないので、ほんのわずかだけ、とても微妙なレベルでハイの音を補うというだけで良いのだということが分かってきたんです。普通補聴器をつけてドラムを叩いたら、耳が壊れちゃうという感じがしますよね。僕もそう思っていたのですが、この微妙な調整が実現して、ほとんど補聴器で音を補填しているという感覚が全くなしで、高いところの輪郭がほんの少しはっきりする・・そんな調整ができるようになったんですね。シンバルの音も、こんなきれいなんだ・・というくらいのレベル。こんなレベルで補聴器が使えるとは思ってもいませんでした。補聴器を使ってドラムが叩けるんです。そして先日、ヘッドホンもいけるんだということが分かりました。これ、音楽家としてどうなのかなというのがあるのですが、どうも私には必要なようで、そのことを素直に受け入れてやって行こうかな・・という境地までやっとたどり着きました。市原、新年は補聴器使用宣言をいたしたいと思います。来年3月には67才になります。だからまあ、多めに見てやって下さい。そして補聴器ドラマーがどんな演奏をするか・・ご自分の耳でお確かめいただけましたら幸いです。新しいステージに立ったドラマーの音をお聴き下さい。

 さて、新年1-2月のライブは1/15(日)からスタートです。ジュディ・オングのバースデーライブ。丸ノ内コットンクラブです。そして1/23(月)は大野雄二トリオ/お茶の水NARU、1/24(火) 月例歌声ペトラ/お茶の水OCC B1/アイリーンホール、1/26(木) 大野雄二トリオ/新宿”J”、1/28(土) Yuji Ohno & Lupintic Six/水戸/茨城県立県民文化センター、1/30(月) Yuji Ohno & Lupintic Six/東京六本木/ビルボードライブ東京、そして2月はなんと7回の大野雄二トリオがあります。2/4(土)〜5(日)/名古屋ラブリー2days、2/11(土) 調布/さくらんぼ、2/16(木) お茶の水NARU、2/19(日) 相模大野メイプルホール、2/24(金) 新宿”J”、2/26(日) 鎌倉/ダフネとなっています。そして前後しますが、2/3(金) 久々の菊池ひみこトリオを都内でやります。中目黒/ダイニングバー&ライブハウス「楽屋」(ラクヤ)。ベースは我らの次の世代、小牧良平君。初共演です。あとは2月の歌声ペトラ 21日(火)です。

 ということで、新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。
 ライブの詳細は http://i-produce.net 「ライブ」からご覧下さい。

 「ドラマー市原康のキリスト教談義」8回目はいつになるか・・私にも分からない(笑)んですね。アップの際にはご案内をさせていただきます。過去のものはこちらからご覧下さい。 http://ichiharablog.blog83.fc2.com/
 
 ということで、新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。
 God Bless You !
 
  
2016.12.13.Tue 00:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

           1611談義2

【 助けを求める心 】

 私はクリスチャンと言われる人間に属する者です。しかし28歳以前はその気のまったくない者でした。通りを歩いていても教会とか十字架とかにはなんの興味もなく、それらはただの自然の景色の一部でしかありませんでした。日本では神とか罪とか言われても、ほとんどの人が自分には99%関係ないという感覚なのだと思います。私もそのひとりで、そんな私が神という存在に目を向けさせられた・・そう、向けさせられたという表現が適切だと思います・・のは、あるとても辛い体験をし、そのことが自分の力では処理しきれず、ノイローゼ状態に陥ったことを通してでした。エリート進学校から大学ヘ進み、間も無くミュージシャンの道へと自ら脱線し、あっという間にミュージシャンの世界では自分の行きたいところに上り詰めました。そんな矢先のことです。それまでは自分が好きなようにしてそこまで来たので、自分自身がコントロール不能になることなど、考えてもみませんでした。自分が考えたり、息を吸ったり、決断したり・・それらを当たり前のこととして、なんの疑いも持たずに28歳まで来ました。
 
 そんな自分本位の座から引き剥がされるようにして、私は今までとは全く違う視点で物を見る者へと変えられたというわけです。私は自分を中心として外を見ることしかしていませんでした。そんな私の視点の土台がどうもあのノイローゼ事件で砕かれてしまったらしいのです。困難を乗り越えながら自分の努力とか才能に恵まれて成功を勝ち得て来た人間って、神を認めたりすることなどほとんど有り得ないのかもしれません。彼は宇宙を作られた創造者など信じようとしないだろうし、神の存在自体も自分の理解の中で完結させようとするのではないかと思うのです。要するに自信があり、自分の理解の中で全てが解決してしまっている人がその世界観から外へ出ることなどあり得ないし、その世界観というのは堅固な城壁のようにちょっとやそっとのことでは壊れ得ないものだと思うのです。そんな硬い壁は外から思い切りハンマーで叩き割らなければ、外へ出ることはまずないと思います。(それまでの私の話ですが)  大体自分が被造物などという感覚は全くない。これは重大なポイントです。被造物という言葉の通り、自分が何者かの手によって作られたのだとしたら、それを認めないということは、子が親に向かって「あんたなんて親じゃないよ。」と言っているのと同じ状態です。仮に被造物でも何でもなく、はっきりした意志もない自然の力によって生命が生まれたのだとしたら、そうやって奇跡的に出来上がった命は、滅びることのないように最善を尽して大切にするのが人類の責務となるでしょう。しかし神が人を造られたのだとしたら、命を守るのも滅ぼすのも神です。その時には、人は神と自分との関係に目を向けることが先ず第一の責務となるのではないでしょうか。神は、人とはまったく次元の異なる、まさしく人知のレベルを圧倒的に超えた全知全能の神であるという存在です。その神が人との関係を神の側から持とうとされてきた、その有様が聖書には綴られているんですね。それに対し私たちは、自分が完全に宇宙の中心となっていて、神のイメージについても勝手な見方をしている。結局「神」とか言いながら、自分の手で偶像の神を作り出すことさえしてしまう。これって逆なんですよと言っているのが聖書です。造り主なる神が愛をもって、祝福を得させようとして、忍耐をもって導いてきたんです。ところがまことの父なる神に対し、お前じゃなくて他の神がいいと言い続けて、後ろ足で砂をかけ続けた神の民。そして、最後にはご自分のひとり子を遣わしてすべての人に対する完全なる赦しと愛を表された父に対して「オレとは関係がない」と言ってしまう。これが聖書が言っている罪人のスタンスです。聖書はすべての人は罪人だと言っています。神との関係の中に本当のいのちがあるのに、神との交わりを絶ってしまっている状態。これが私たちの生まれつきの姿だというのです。必要なのは、本当の父と子の関係が回復することなのだと言っているのが聖書なのです。
 
 私はこういう自分の立ち位置から引き剥がされるようにして・・と書きました。ちょっとくらいのことでは引き剥がされるなんてことは起こりえない。自分に絶望してこれ以上考えたくもないような怒りや、ぐるぐる回る気持ちの悪い思いに支配されるという。今まで自分だと思っていたものが、どこかへ行ってしまうという生まれて初めての経験を通して、自分本位の視点が壊れてしまうという。自分の意思や努力や学びでは得ることのできないとても貴重な機会をいただいたというわけです。外からハンマーで叩き割られるなどということは、自分では選択できないです。そしてそこでいただいたもの・・、それは「助けを求める心」と言って良いかもしれません。イエス様のことばにこんなのがあります。
 
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。新約聖書マタイによる福音書 11章28節
 
 
 私はうっすらと神を求めていました。私は自分の罪をうっすらと感じていて、今自分が立っている世界とは違う世界もあるのだということも何となく感じていました。私には帰るべきどこかがあるように感じていたのだと思います。私がその時、助けはここにあるのではないかと興味を持ったのが「呪術」と「聖書」でした。呪術はとても興味深いもので、直感的に「ある別の世界」を感じさせるものでした。一方聖書は難しくて訳が分からないところもたくさんありましたが、新約聖書のイエス・キリストのことばには何か引きつけられるものがありました。そのうちに、ある一つの直感が私のうちに「やってきた」んですね。それは、呪術は暗黒で、聖書は光だ・・というものでした。これは確信として私の中にはっきり与えられたもので、それ以来私は呪術に関する本はすべて捨てて、聖書の方を自分の意志ではっきり選択しました。そしてこの聖書に書いてあることに心を開いて、受け取ってみようと思ったわけです。それが始まりだったんですね。当時の自分がどんな状態で、聖書に出会って何が起こって、自分がどうなったのかということを、今ではほぼ理解することができるようになりましたが、その当時はそのことがはっきりとは分かっていませんでした。それはひと言で言えば「イエス・キリストに出会った」ということです。
 
 上記のマタイ11章のイエス様のことばを見ると、休ませるのは物事の理解や知識などではなく「わたし」なのだと書いてあります。わたし・・って、イエス・キリストではないですか。自分を休ませてくれる「実体」がイエス・キリストなのだということですよね。何かが分かったから休めるということではないのです。「イエス・キリスト」があなたを休ませるというのです。このイエス・キリストは2000年前に十字架に掛けられて死んでしまって墓に葬られた。でも、三日の後によみがえって弟子たちに会われ、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいると、、そう言われたわけです。新約聖書の多くの部分を占める手紙の筆者パウロは、他の何よりもイエス・キリストが復活されて、本当に弟子たちに現れ、そして自分にも現れて下さったこと・・そこが一番重要で外せない事実なのだと言っています。私を助けてくれるこの「実体」なるイエス・キリストは、本当に私たちを助けて下さる方として存在するのだというわけです。泥棒に入られたら、警察に通報しなければならない。通報してから初めて助け手が来るんですね。実際に助けるのは警察なんです。警察が来るまで待つしかない。私たちがやることは警察に連絡するということです。私たちがやることは「わたしのところに来なさい」と書いてある通り、キリストのところに行くこと。そして助けるのはキリストです。だから必要なのは「イエス・キリストのところに行く」決断と行動です。具体的には何かというと、先ず、イエス・キリストの存在を本当のことだとして心に受けとめ、語りかけるという行動です。「イエス様、私はあなたのことを知りませんが、わたしのところに来なさいと言われるあなたを呼び求めます。イエス様、私を助けて下さい。」と祈る。(これは祈りの一例です) これがイエス・キリストのところに行くということです。
 
 必要なのは、助け主なるイエス・キリストと繋がることです。そのためには電話するか、そこへ行かなければならないんです。元気な人にとってはそんなことはばかげたことでしかないかも知れません。しかし、疲れた人、重荷を負っている人、絶望している人、死のうとしている人、怒りで自分をコントロール出来なくなっている人・・は、このことをすれば良いのです。私たちに求められる決断と行動は、休ませてあげると言われるイエス・キリストの存在を信じ「祈り」という電話をイエス様にかけることです。あとはその後をケアしてくれるところ=教会に行かれると良いでしょう。ひとりでその道を歩むのは様々な障害や困難がありますからね。
 
 二千年前、十字架に掛けられ、死んでよみがえり、天に上り、世の終わりまでいつまでも共にいて下さるというイエス・キリストに出会う・・。それは今のあなたにもあり得ることなのですよと叫んでいるのが新約聖書であり、教会であり、牧師や伝道者、そしてイエス・キリストに出会って新しい歩みを始めたクリスチャンたちなのです。こうしてイエス・キリストを呼び求めた者は、イエス様の十字架の苦しみと死と復活がまさに、自分の罪のための死と新しいいのちのための復活であること、即ちイエスご自身がいのちであり、すべてのすべてであることを知り、この苦しみを伴った赦しこそが無条件であなたを受け入れて下さる父なる神の愛のかたちであることを知るのです。イエス・キリストこそまことの父なる神との親子関係を回復するカギなのです。このまことの父は、自分から家を出て、放蕩三昧をして、文無しになってから初めて我に返り、家に帰る資格などないことが分かっていながら帰ってきた息子を喜び勇んで駆け寄り抱きしめてくれる父なのです。

 
 
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6節
 
 
2016.11.12.Sat 21:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 今年は秋がなく、気がついたらもう12月。この一年を振り返りますと、我が「TRIO’」の活動が余り出来ませんでした。それでも春と秋にツアーをやっています。お陰様で年が明けて13年目が始まります。2004年の1月に初めて顔合わせというその日にライブをやり、ついでにライブレコーディングもし、そのままツアーをやるという無謀な始動でしたが、ここまで続けることが出来ました。当初、ピアノの福田とベースの森はある程度演奏家として固まっている人たちなので、内容が変わるとしたらドラムの市原がどのような変化を見せるかというところにかかっている・・とそんなことを言っておりました。市原はジャズプレーヤーとしては何となく据わりが悪いと申しますか、固まってはいなかったと自分では思っています。いえ、思っているとかではなくて、実際に今までのことを思うと、随分変化してきたなぁと思います。ある意味では固まってきているような部分もありますが、それだけではなくて相変わらず、暗中模索を続け、結局浅薄なはかりごとから解放されるに従って、本来与えられているところの「自分でコントロール出来ない自分」をもって演奏するという領域に入っていくといったような歩みでした。それが出来ればTRIO’に限らず、どんな演奏の場においても、結構面白くなりそうで、今も面白くなる方向を向いているかなと・・私だけかも知れませんが・・そんな風に思っています。また今年は大野雄二さんのグループ(Yuji Ohno & Lupintic Six)に35年以上ぶりに返り咲き、今年は倍くらい多忙になりました。私が20代の頃に怖い物知らずでやりたい放題にやっていたその頃に大野さんは市原を買って下さって、実にいろいろな仕事もさせて下さいました。それが今こうして再び演奏をさせていただく中で、こんな風に熱意をもって扱って下さる人がいたんだと、改めて驚いていると言いますか、感謝していると言いますか、、私にとっては若い頃にはやんちゃしていたのが、もう一度やっていいよと言われているようで、何とも恵まれたことだなあと思っております。身体の方は良くこれだけやってこれたなと思うくらいで、支えられてきました。今年一年、応援して下さった方、また新しく出会った方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。来年も許されることなら、目一杯活動を続けていきたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 ちょっと前置きが長くなりました。ライブの詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜12月をご覧下さい。簡単にご案内させていただきますと・・
12/1(木) 塚山エリコ・オルガン4 沼袋/Organ Jazz 俱楽部
12/2(金) 金城寛文5 東京・菊川/な〜じゅ
12/3(土) 白根真理子 横浜/KAMOME
12/9(金) まきみちる 東京/内幸町ホール
12/10(土) Yuji Ohno & Lupintic Six 静岡県長泉町/文化センター ベルフォーレ
12/13(火) 歌声ペトラ 東京お茶の水/OCC8F チャペル
12/15(木) 大野雄二トリオ 東京お茶の水/NARU
12/18(日) Yuji Ohno & Lupintic Six 越谷/サンシティーホール
12/22(木) Yuji Ohno & Lupintic Six 上越市/上越文化会館
12/23(金) Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s 長野県塩尻/レザンホール
12/24(土) カルバリーチャペル国分寺 クリスマスコンサート 国分寺/Jesus Community
12/26(月) Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s 大阪/新歌舞伎座
12/27(火) Yuji Ohno & Lupintic Six 名古屋/ブルーノート

 「ドラマー市原康のキリスト教談義」7回目を近日中にこのブログにアップします。今回は「助けを求める心」というタイトルです。私が若い頃は助けを求めるなどということとは縁のない「鼻息の荒い」者だったようです。目を通していただけたらうれしいです。
 
 こちらも再々度のご案内。TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)、また、WIM/1.2.3(残り僅少)、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオ/Magical Misty Love
 市原宛のメールでご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担です。こんなの、他にありません。

 では、12月も、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。

 God Bless You !
  
 
2016.11.12.Sat 12:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 一夜にして晩秋がやってきたような気候ですが、皆様いかがお過ごしですか。市原は老体に鞭打ってがんばってます・・が、9月の頭にライブ情報を出さなければならないところが、あっという間に一月経ってしまい、10-11月号ということに相成りました。
 9月のTRIO’のツアーは全行程を無事終了いたしました。今までとはまたひと味違うTRIO’となったのではないかと思っております。ご来場、ありがとうございました。次回は来年6月を予定しています。どんなになっているか・・私自身楽しみです。
 さて、10,11月のライブですが、早速 Yuji Ohno & Lupintic Six が10/2(日) 伊丹・アイフォニックス(完売御礼)、10/7(金) 宇部市渡邊翁記念会館、10/8(土) はつかいち文化ホールと、三つ続きます。10/10は東京音楽大学のオープンキャンパス。全学科で実施されます。詳細は大学までお問い合わせ下さい。インストコースはgt,野呂一生、b,鳴瀬喜博と市原が担当いたします。10/14(金)は大野雄二SoulPeppers・・大野雄二トリオ+トランペットが入るジャズバージョン。横浜モーションブルーです。そして10/20(木)は大野雄二トリオ・・ウッドベースに上村信というジャズピアノトリオ。お茶の水ナルです。10/23(日)は再びYuji Ohno & Lupintic Six 兵庫県加東市・やしろ国際学習塾。そしてギャップ激しく、10/25(火)は普段着の賛美歌集会「歌声ペトラ」・・市原は司会と歌です。お茶の水クリスチャンセンター。
 11月に入りますと、11/5(土) 鳥たちの音楽祭「What is jazz ?!」ジャズってなあに?/レクチャーコンサートというのがあります。第一部はジャズ評論家の小川隆夫さんの講演、そして二部に地元鳥取出身の鉄筋彫刻家でお馴染みの徳持耕一郎さんをお迎えしてライブドローイングを交えたコンサートとなります。勿論お馴染み菊池ひみこpfを中心にギターの松本正嗣、東京からsax,近藤和彦、b,斉藤誠と市原が参加します。11/17(木)は昨年もやりました、ボジョレ・ヌーボーJazz & Dinner 東京浜松町のイタリアンレストラン「サンミケーレ」で行います。ゲストに久しぶりの市原ひかりtp、そしてpf,福田重男、b,金子健というメンバーです。11/18(金)は直居隆雄gtトリオ/東京沼袋・オルガンジャズ倶楽部 オルガンの河合代介を加えたトリオです。11/22(火)は歌声ペトラ、そして11/26(土)は新宿Jで「森の市松三重奏団」がゲストとして18:30-19:30の一時間だけやります。初めて公にするこの名前、、なんてことはない、森泰人bと市原dsと松本峰明pfのジャズのトリオ。初演となります。

 以上、詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜10-11月をご覧下さい。

 このブログで今年の4月から始めて6回目になります「ドラマー市原康のキリスト教談義」・・TRIO’のツアーの直前にアップしまして、何となく埋もれてしまった感がありますので、再度ご案内いたします。第6回は「イエス様のことばがまったく理解出来なかった人々」というタイトル。キリスト教に興味のない方とるれりりるクリスチャンの方の両方に向けて書いています。是非ご覧下さい。
 
 それからこちらも再度のご案内。TRIO'のCDの他にYUJI OHNO & LUPINTIC SIXのファーストアルバム「YEAH!! YEAH!!」、そして企画もの「Adult Toy Box」(diskUNIONの紹介はhttp://diskunion.net/jazz/ct/detail/1007060020)のCDは、市原宛のメールでご注文いただけます。送料無料、振込手数料当方負担というお得なシステムです。また、各種旧譜も在庫がございます。WIM/1.2.3(残り僅少)、松本峰明/All of You、菊池ひみこ/ダブルカルテットライブ、萩谷清トリオ/Magical Misty Loveのアルバム。すべて市原が参加しているものです。お問い合わせいただけましたら詳細をお知らせします。

 10-11月も、皆さまのお越しをお待ち申し上げております。

 God Bless You !
 
 
2016.09.24.Sat 21:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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いっちー
ドラマー市原康です。
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