
GraceCafeたいむ #42 【心を預ける】 <ミュージシャンにもわかる聖書の話>
賛美歌「主イエスのみそばに」から その3 アップしました。
自分でコントロールできない心は、ここに預ければよい・・という話です
https://www.youtube.com/watch?v=a0xkCavq_Tg
みなさまのお越しをお待ちしています。
" そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。"
マタイの福音書 26章56節
イエス様は、ご自分が捕らえられることについて、何の抵抗もなくその出来事に身をゆだねられました。
それまで、弟子たちはイエス様が共におられるからこそ、剣を抜いてこの群衆に斬りかかる勇気も持ち合わせていました。しかしイエス様が捕らえられ、しかもイエス様ご自身がそれを受け入れられるところを目の当たりにしたとき、彼等は自分の身は自分で守らなければならないところに立たされたことに、ハッと気付かされます。
捕らえられて連れて行かれるイエス様を取り戻そうとする動きがあっても良さそうなものなのに、そんな様子もなく彼等は「みなイエスを見捨てて逃げて」しまいました。
この出来事は弟子たちにとっては、どうにもならない自分の弱さを認めざるを得ない時となったはずです。
彼等はそんな自分に、心底がっかりしたのではないでしょうか。
私はイエス様に選ばれた者なのに、その私がこんなに意気地のない者だったのか・・と。
しかしこの最後の瞬間こそ、イエス様の弟子たちに対する最後のレッスンだったんですね。
わたしはあなたを選びましたが、それはあなたが意志が強くて弟子にふさわしい者だからということで選んだのではないのです。
わたしはむしろ「弱い者」を選んだのです。
それは、自分が本当に弱いと思っている者でなければ、わたしに全面的に頼ることができないからです・・と。
神様はクリスチャンの一人一人に、自分の弱さ、罪深さ、醜さを見せられます。しかしそれは、大きな恵みを受け取る人となるための、外すことのできない教科なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」"
マタイの福音書 26章53~54節
ペテロは、イエス様を捕らえに来た人たちと剣を抜いて戦おうとしました。しかしイエス様はそのペテロを制止して言われたのが今日の箇所です。
・・それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう・・。
それは聖書の預言に書かれてあることがそのまま、今実現しようとしているのですから、今は戦う時ではないという意味です。もし戦うなら、わたしにはそんなことは朝飯前なのです・・と。
700年前に書かれたイザヤ書(53章)には、イエス様が十字架にかかられる様子が克明に語られています。またその他の多くの預言書もイエス・キリストの誕生から、さらには再び来られることまでもが記されています。
キリストの十字架と復活が預言の通りに成就したのなら、このあとのことも文字通り成就するのだと思うことは、むしろ当然のことです。
聖書は、世界の始めから終わりまでを克明に記した書物なんですね。
今世界は、かつてないほどの不安定な情勢になっています。しかしイエス様は言われたのです。そうでなかったら・・こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。
終わりの時と、救いの時が近づいているのです。
今こそ、まことに神に立ち返りなさい。
神はあなたの罪をすべて赦し、ご自分のもとに帰られるように招いておられるのです・・。
これが福音のメッセージなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。"
マタイの福音書 26章51~52節
ルカの福音書によれば、ご自分が去った時には財布を持ち、剣を買っておきなさいとイエス様が言われ、彼等はそこに二本の剣を用意していました。それなのにイエス様は「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われたんですね。
これを矛盾のないこととして理解しようとしたら、こういうことになります。
それは、剣は買っておきなさい。でもそれを取って戦おうとしてはなりません。それを始めたら、あなたは滅びます・・。
私たちは「口から出ることば」という剣を持っています。
それは悪意からでなくても、自分の持っている知識という剣によって人を刺してしまうということがあるのではないでしょうか。
知識はあらゆることを判別する備えとして大切です。しかしそれを戦いのために使い始めたら、あなたは滅びます・・というわけです。
口から剣が出てしまって、それで人を傷つけてしまったら、それはもとに収めなさいと、イエス様は言われているのです。
それは私たちの日常生活の中で、その都度思い出さなければならないイエス様のみことばかもしれません。
イエス様は耳を切り落とされた人に触れて、その傷をいやされました。イエス様を捕らえに来た側の人をいやされたのです。(ルカ22:51)
キリスト教の名で多くの戦い、殺戮が行われてきたという歴史があります。
しかし、イエス様はあくまでも「平和の君」なんですね。(イザヤ9:6)
イエス様に従う・・そこから逸れないようにしたいものです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。"
マタイの福音書 26章48~49節
イエスを裏切ろうとしていた者とは、十二弟子の一人のユダのことです。
弟子たちはイエス様のことを「主よ」と呼んでいました。しかし、ユダだけは最後まで「先生」だったんですね。
" 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。" (第一コリント12:3)
聖霊によってイエスは主ですと言う・・それは、イエス・キリストというお方に心を開いて、全面的に自分の心の内にその方をお迎えするのでなければ、起こり得ないことなんですね。
自分はイエス様を「主」と呼ぶことはできるのか・・。
それは自分を判別するのに良い材料になるかもしれません。
主とは、神を意味し、そして自分はそのしもべであることを意味します。
もしそこがはっきりしていないならば、改めて神の前に「イエス様を私の救い主と信じます」と祈りましょう。もちろん心から・・です。
そうすれば、聖霊はあなたに寄り添って、また内に入ってくださり、聖霊との歩みが始まります。
神は、神の方に向きを変える者を限りなく赦してくださるお方なんですね。
ですから、今からでも大丈夫なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"
マタイの福音書 26章45~46節
イエス様が血を流すほどの祈りをしておられた時、弟子たちは眠くてしょうがありませんでした。
しかし、ユダとイエス様を捕らえようとしていた人々は、ゲツセマネの園にほぼ到着していたんですね。
イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられるという話を何度もされていました。と同時に「再び来られる時」のことを何度も話されているんですね。
イエス様はまだ再び来られてはいませんから、それは今の私たちにも語られている話です。
その時人々は、めとったり嫁いだりしている・・何の危機感もなく普通に暮らしていた・・と、イエス様はあらかじめ警告をされています。
警告がありながら、それに耳を傾けず、目先のことにしか目を向けなかった・・。これが、イスラエルの人々が代々行ってきたことです。
ハッと気がつくと、その時には目の前にすべての準備が整い、世にその出来事が現れるのです。
弟子たちが眠くてしょうがなかった時、それはすでにイエス様が捕らえられる時だったんですね。
神はイスラエルの民を顧みて、彼等をその祝福と救いに招き入れるために、常に預言者を遣わされて来ました。
今の私たちにとって、その預言者とは聖書です。
目を覚ませ。時が近づいている。
見なさい。時が来ました。
今、神の福音を受け取り、滅びから救われなさい・・と、聖書は語っているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

賛美歌「主イエスのみそばに」から その2 アップしました。
見たから信じるというのはあり得ない・・という話です
<ミュージシャンにもわかる聖書の話>
https://www.youtube.com/watch?v=vB_8yLME0lY
" イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。"
マタイの福音書 26章42~43節
44節にはもう一度同じことばで三度目の祈りをされたとあります。
イエス様は十字架という杯をお受けになるために、もだえ苦しみながら三度も祈らなければなりませんでした。
イエス様はこのことのために世に来られたんですね。
イエス様は神の子なんだから、十字架をもお受けになる力があるのだし、釘付けにされても、それは忍べるんだと・・そんな風には受け取られないためにも、この祈りの場面は記されなければならないことでした。
この激しい痛みと苦しみは、私たちの罪に対するさばきの姿なんですね。
神の御子イエス・キリストは、私たちの身代わりに痛みと苦しみを受けられたのです。
あの十字架は、私たちが神を怖れず、神を冒涜し、自己中心という傲慢の極みの中に生きる「罪人」であることを示しているんです。
・・私たちもみな 〜 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)
イエス様は父に、これで「彼らをお赦し下さい」と、ご自分がささげ物になられたんですね。
この苦しみがあるからこそ、それがささげ物となるわけです。
神の怒りがあって、その赦しのために御子が人の姿をとって降りてこられた・・。
これが福音で、そこに神の愛が表されているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。
「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」"
マタイの福音書 26章40~41節
イエス様がもだえ苦しむ祈りをされて、弟子たちのところに戻ってこられると、弟子たちは眠っていました。
でも弟子たちが「霊は燃えていても肉は弱い」ということを本当に思い知るのはこのあと、イエス様を見捨てて逃げてしまったときでした。
だから祈っていなさい・・。
しかし、すでに弟子たちは眠りに陥っていました。弟子たちはそれができなかったのです。
弟子たちは全員「失格者」でした。
しかし彼等は後に聖霊を受けてから別人となります。彼等は霊に燃え、主に仕える者と変えられたのです。
霊は燃えていても肉は弱い・・。この「霊」とは自分でがんばる方の霊で、弟子たちが後に受けたのは「上から下った神の霊」なんですね。
あなたの性質をイエス様にふさわしいものに訓練して、それからイエス様のもとに来なさいとは、ひと言も言われてはいないのです。
まずそのままでイエス様のところに行く・・。これが求められていることなんですね。それが「ゆだねる」ということばの意味です。
あなたは良い人であることを求められているのではなくて、あなたが罪深い、弱い者であることを認め、そのままで神のもとに来るなら、そこにはキリストの十字架という、すでにささげられたあがないがあるのだから、安心していらっしゃい・・というわけです。
ここに(神の)愛があるのです・・。(ヨハネの手紙第一4章10節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。
「わが父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"
マタイの福音書 26章39節
「杯」ということばは、聖書の中では神の憤りを象徴することばとして使われています。では神の憤りがイエス様の上にあったということなのでしょうか。もちろんそうではありません。
この杯・・、それは神に背くすべての人の上にある神の憤りの杯なんですね。それをイエス様が受けられるということなんです。
神の御子であるイエス様が、父の憤りの杯を受け、よみに下ろうとしているのです。よみとは、死んだ者が行くところです。それは父から切り離されるということです。
御子が、父の憤りの杯を飲み干す・・。そこにイエス様の「死ぬほどの悲しみ」(38節) がありました。
しかし御子であるイエス様は、この祈りの最後に父の望みの方を選び取られるんですね。・・あなたが望まれるままになさってください・・と。
父は散ってしまった「失われた羊たち」を再びご自分のもとに帰らせる・・それが目的で御子を地上に送られたのです。
それで御子イエス様は、死ぬほどの悲しみの中で、この恐れもあり、激しい痛みと苦しみの杯を受け取るという「父の望み」を選び取りますという祈りをされたというわけです。
父の望みとは、御子を十字架にかけ、死んでよみにくだらせ、三日目によみがえらせ、この御子を人々が受け取ることのできる「救い」とすることでした。
十字架は私たちの罪のためのあがないです。それによって私たちのすべての罪は赦され、この御子によって私たちは古い自分に死に、死を超えた永遠のいのちが与えられるのです。
ひとり子を十字架にかけるという、まさに心が張り裂けんばかりのことを通して、父なる神は私たちへの愛をお示しになったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)