(これは第一回「あんなことした人がどうしてクリスチャンなの?」の改訂版です)

世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治がこういう人だったのではありません。宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがあったと言われています。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当され、小さな愛娘がヤソの子と言われ、腹を蹴られたのが元で天に送り、小学校の教師も辞めさせられる。それでも彼は新聞配達をしながら配る一軒一軒のために足を止めて祈ったという。1926年に彼は内村鑑三に招かれて東京に引っ越すことになる。花巻の地を離れるその日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一 般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたという 。・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの偉業を成し遂げたクリスチャン・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っているようです。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージと違っていると「クリスチャンのくせに」などという厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。要するにクリスチャンになるにはとにかく敷居が高いという感覚を持っているようなのです。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。だから、あんな人がどうしてクリスチャンなの・・という見方になる。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。しかしこの人たちには聖書のメッセージの本質、即ち神の愛の本質が全く届いていないと私は感じるのです。それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた性質が自分の中にあることに気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。先に挙げた斉藤宗次郎ほかの人たちも例外ではないはずです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた自分の心の実態」を知って愕然とするという経験の持ち主である筈です。要するに、神の前に出せるものなど何もないことを知り神の聖さの前に完全に降参した人たち、それがあの偉人たちの本当の姿なのです。だから神が用意された救いをそのままそっくり受け取った。その結果があの偉業なのです。あの偉業はあの偉人たちのわざではなく、神のわざなのです。絶え間ない努力や修行や強固な意志によって自分を高めてきたから出来たのではなく、何もない自分を愛なる神様に明け渡したからこそ神の力と愛と栄光を現す器とされたのです。だからそれができる。父なる神はこのどうしようもない人間=すなわちすべての人 をもう一度みもとに迎えるために、御子イエス・キリストを地上に送られ、そして十字架の死と復活という大きなしるしを示されたのです。それはすべての人が、キリストと共に死に、復活して新しく生まれ変わるためです。どうやって? それはキリストを信じて心にお迎えすることで実現します。ほかに方法はないのです。自分がどうしようもない人間だとわかったからそれができる。人の強さや能力はこのこととは無関係なのです。これは神の恵みを受け取る必要条件なのです。
・・ここにクリスチャンの本質があるのです。
人に大きな偉業をなさしめる力、それは人の努力や精進によるのではなくて、ただ自分がどうしようもないヤツだと思い知って、神にすべてを明け渡した者の上に働く生ける神の力なのです。キリストの死と復活があなたの内で重なるのです。
これが、世の中の人たちが全く知らない、想像もしていないポイントです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあって神に認められているのではないことを心底知っているのです。
さらにクリスチャンになった人は即座に「聖人」になるわけではなく、そのような自分の古い性質と戦いながら「キリストの形」に徐々に変えられていくというステップを踏みつつ信仰生活を続けます。だから当然、あれでもクリスチャンなの?と言われることはいくらでもある。けれどその人は正真正銘のクリスチャン、それは神の赦しの中で新しいいのちに導かれて生きる者であるわけです。本当はそんな大きな恵みを受けるのにはまったく相応しくない者なのです。そんな者に与えられた・・その恵みを驚き、喜び、感謝しつつ歩む者・・それがクリスチャンなのです。
「あんな人が、どうしてクリスチャンなの?」・・それは、神が「罪人のためにみ子をつかわされた」からです。それが神の愛であるということの意味です。
“イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」”
マタイの福音書 9章10~13節
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ドラマー市原康ライブインフォメーション 過去の記録
その1「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」2016/4
その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5
その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5
その4「信じることでしか出会えない神」2016/6
その5「悪質メール撃退グッズ」2016/7
その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9
その7「助けを求める心」2016/11
その8「クリスマス・・それは」2016/12
その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1
その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4
その11「聖書の目的」2017/5
その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11

世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治がこういう人だったのではありません。宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがあったと言われています。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当され、小さな愛娘がヤソの子と言われ、腹を蹴られたのが元で天に送り、小学校の教師も辞めさせられる。それでも彼は新聞配達をしながら配る一軒一軒のために足を止めて祈ったという。1926年に彼は内村鑑三に招かれて東京に引っ越すことになる。花巻の地を離れるその日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一 般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたという 。・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの偉業を成し遂げたクリスチャン・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っているようです。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージと違っていると「クリスチャンのくせに」などという厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。要するにクリスチャンになるにはとにかく敷居が高いという感覚を持っているようなのです。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。だから、あんな人がどうしてクリスチャンなの・・という見方になる。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。しかしこの人たちには聖書のメッセージの本質、即ち神の愛の本質が全く届いていないと私は感じるのです。それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた性質が自分の中にあることに気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。先に挙げた斉藤宗次郎ほかの人たちも例外ではないはずです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた自分の心の実態」を知って愕然とするという経験の持ち主である筈です。要するに、神の前に出せるものなど何もないことを知り神の聖さの前に完全に降参した人たち、それがあの偉人たちの本当の姿なのです。だから神が用意された救いをそのままそっくり受け取った。その結果があの偉業なのです。あの偉業はあの偉人たちのわざではなく、神のわざなのです。絶え間ない努力や修行や強固な意志によって自分を高めてきたから出来たのではなく、何もない自分を愛なる神様に明け渡したからこそ神の力と愛と栄光を現す器とされたのです。だからそれができる。父なる神はこのどうしようもない人間=すなわちすべての人 をもう一度みもとに迎えるために、御子イエス・キリストを地上に送られ、そして十字架の死と復活という大きなしるしを示されたのです。それはすべての人が、キリストと共に死に、復活して新しく生まれ変わるためです。どうやって? それはキリストを信じて心にお迎えすることで実現します。ほかに方法はないのです。自分がどうしようもない人間だとわかったからそれができる。人の強さや能力はこのこととは無関係なのです。これは神の恵みを受け取る必要条件なのです。
・・ここにクリスチャンの本質があるのです。
人に大きな偉業をなさしめる力、それは人の努力や精進によるのではなくて、ただ自分がどうしようもないヤツだと思い知って、神にすべてを明け渡した者の上に働く生ける神の力なのです。キリストの死と復活があなたの内で重なるのです。
これが、世の中の人たちが全く知らない、想像もしていないポイントです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあって神に認められているのではないことを心底知っているのです。
さらにクリスチャンになった人は即座に「聖人」になるわけではなく、そのような自分の古い性質と戦いながら「キリストの形」に徐々に変えられていくというステップを踏みつつ信仰生活を続けます。だから当然、あれでもクリスチャンなの?と言われることはいくらでもある。けれどその人は正真正銘のクリスチャン、それは神の赦しの中で新しいいのちに導かれて生きる者であるわけです。本当はそんな大きな恵みを受けるのにはまったく相応しくない者なのです。そんな者に与えられた・・その恵みを驚き、喜び、感謝しつつ歩む者・・それがクリスチャンなのです。
「あんな人が、どうしてクリスチャンなの?」・・それは、神が「罪人のためにみ子をつかわされた」からです。それが神の愛であるということの意味です。
“イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」”
マタイの福音書 9章10~13節
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ドラマー市原康ライブインフォメーション 過去の記録
その1「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」2016/4
その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5
その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5
その4「信じることでしか出会えない神」2016/6
その5「悪質メール撃退グッズ」2016/7
その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9
その7「助けを求める心」2016/11
その8「クリスマス・・それは」2016/12
その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1
その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4
その11「聖書の目的」2017/5
その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11

第一回 「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」 2016年4月
世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがありました。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当された人物・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。このように現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの人を感動させ、自らがキリストのように死んだ者となり、そこに大きな偉業を成し遂げた人物・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っています。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージに合わなかったら途端に「クリスチャンのくせに」などと言う厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。あるいは、あんなことをしているひとがどうしてクリスチャンなの・・と言った見方さえする。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。この人たちが全く知らないこと・・それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた自分の中にある本質を思い知った人、気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。およそ、世間一般の人がイメージするクリスチャン像とはかけ離れた者であることを自分の中に見ている・・そういう人です。そしてあの偉大な人たちも、例外ではないのです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた心の実態」を人一倍知った人たちなのです。要するに、神の前に完全に降参した人たち・・。これがあの偉人たちの本当の姿なのです。自分に降参して、神に完全に明け渡した人、、だからこそあの偉大な業を行うことが出来た・・。それは絶え間ない努力や修行や行いによって自分を高めてきたのではなく、良いものが何ひとつないような自分のために与えられた「救い」を受け取ったから出来たのです。これがクリスチャンの本質です。この救いとはあの十字架にかかって激しい苦しみの中で死んで、そして三日の後によみがえったイエス・キリスト、その方ご自身のことです。「バカ、死ね!」と言われるどうしようもない人間。まさに自分がそれであると知ったときに、本当に死んでよみがえったイエス・キリストがそのまま救いとなる・・。これがクリスチャンのスタートラインです。この救いにこそ人に大きな偉業をなさしめる力があるのです。偉業と言ってもそれは歴史的な偉人であるか、全くの無名な存在であるかには関係ありません。刺青悶々の人が回心して牧師になるというケースは結構ありますが、これなどはとてもわかりやすい例です。
世の中の人たちが全く知らないのは、実にこの点です。どうしようもない人間は、日々、神から与えられたまことの救い、十字架にかかられて死んでよみがえられたイエス・キリストを見上げ、そのような者に与えられた計り知れない神の恵みと愛とを思い知りつつ歩む。これが「クリスチャン」の歩みなのです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあってそれが出来ているのでは全くないことを知っているから。でも勿論クリスチャンになった人が一辺に「聖人」になるわけではなく、自分のその古い性質と戦いながら「キリストの形」に変えられていくので、あれでクリスチャンなの?と言われることはいくらでもあります。
十字架・・不思議です。世界中でこの十字架を見ることができるのですが、その意味を知っている人はあまりいないんですね。少なくとも日本には百人にひとりもいない・・ということになります。
クリスチャン・・それは神の前に降参した人・・なんです。そもそも神とは人が作ったものでしょう・・と言っているのが世の人たちです。それが、神を神とした人・・これがクリスチャンなのです。神とは天地万物を創られ、人を創られ、その愛をもって永遠を計画しておられる、人の知恵、知識、理解力では到底カバーすることの出来ない全能者という存在です。この神を信じると言うこと・・これがまさに奇跡の始まりなんですね。
God Bless You !

花粉症の季節に突入。そしてあっという間に桜の季節がやってくるのでしょうか。我が「TRIO’」は今年で12年目を迎えました。当然私の歳もそれだけ取るわけで・・。でも私が若い頃にはこんなことは考えられませんでした。六十代のおじさんが現役で演奏していて、しかも車でツアーをしているなんて・・。私が高校生の頃、渡辺貞夫はあこがれのおじさまでした。おじさまだというのに大胆にGパンなどはいてて・・チョーかっこ良かった。・・といってもあの頃のおじさまの貞夫さんは三十代ですよ。完全に時が経つのを忘れていますね、私たちは・・。しかも、まだやる気でいるんですから・・(笑)。あっ、私、Gパンはいてます。
ところで今回は3,4月号なのですが、まずはひと月飛び越えて5月にやります「TRIO’ 春のライブツアー」のご案内。やっとスケジュールが最終決定いたしました。ざっとご案内いたします。詳細はホームページ http://i-produce.net をご覧ください。
TRIO’ 2016 春のライブツアー・・5月です。。お間違えのないように。
8(日) 東京/南青山 Body & Soul
9(月) 熊谷 スペース1497
10(火) 鶴岡 つるおかユースホステル
12(木) 山形 NOISY DUCK
13(金) 仙台 Jazz Me Blues noLa
14(土) 柏崎 うたげ堂
15(日) 豊橋 Jazz & Dinning コティー
16(月) 浜松 ポルテシアター
17(火) 横浜 ドルフィー
19(木) 高崎 ケイノート
20(金) 東京/代官山 LEZARD
21(土) 東京/浜松町 サンミケーレ 開成ライブ ゲスト/市原ひかり
今年のTRIO’、どんなイメージになっていますか。新しいTRIO’との出会いをしていただけたらうれしいなと、、そんな風に思っております。今からどうぞスケジュールのチェックを・・。
さて、本題の3-4月のスケジュールに戻ります。今回もかなり多彩です。(笑) 3/4(金)はお馴染み「金城寛文6」菊川・な〜じゅ。今回はトランペットの高瀬龍一さんをゲストに迎えます。3/18(金)は直居隆雄トリオ/沼袋オルガンジャズ倶楽部。オルガンの河合代介さんとギターの直居さんとのトリオです。3/21(月)は鳥取に行きます。秋の鳥取の芸術文化祭に向けてのイベントのひとつで、子どもたちにジャズを紹介するレクチャーシリーズ第一回。「What is Jazz !?」と題して、菊池ひみこが奮闘します。そしてその晩にはお馴染みアフターアワーズで菊池ひみこトリオ・・ベースは斉藤クジラ誠というお馴染みのメンバーでのライブがあります。勿論大人の時間です(笑) 。翌日3/22(火)はお茶の水OCCでの「歌声ペトラ」・・新しい、普段着の賛美歌を歌う会で、市原は進行役をいたしております。ドラムはたたきません。3/26(土)には石神井公園の氷川神社「こもれびの庭」にて、「杜のジャズ祭(仮称)」PIANO TRIO JAZZ RESONANCE と題して、屋外ステージで三つのジャズピアノトリオが出演いたします。私のグループは「市原康 Special Unit」と大きく出まして、ピアノはTRIO’の福田重男、そしてベースに若手の注目株、大塚義将というメンバーです。12時から16時半までやっていますが、市原のグループの出演は15時〜16時半となります。雨天の場合はどこか屋根のあるところでやるらしいです。そして翌日3/27(日)には全く毛色の違う、いつもはビートルズの曲ばかりやっている六本木アビーロードで「みちる Sings Your Hit Parade」と題して、あの「若いってすばらしい」でお馴染みのアイドルの草分け「まきみちる」が歌いまくります。このバンドのメンバーがまた普通では考えられない顔合わせ。みちるちゃんの顔が集めた不思議なバンドという感じ。ざっとご紹介しますと、平岩嘉信key,松山文哉key,林仁g,松宮幹彦g,木村キムチ誠perc,斉藤クジラ誠eb,斉藤妙子cho,菅井美和cho,・・と、どんなになりますか。予測がつかないのが楽しみ。4/9(土)は古野光昭4。私は初めて出演します町田/Nica’s。ピアノに大先輩の市川秀男さん。そしてテナーサックスにルパンバンドでお馴染みの鈴木央紹。そして4/16(土)にはまた毛色が全く違う、クリスチャン・シンガーソングライターの岩渕まこと/Acoustic Bonbonライブ。岩渕氏が家族で立ち上げた狭山の「ギンイロヒコーキコーヒーハウス」にて、ウッドベースの谷源昌とのトリオ編成。狭山市まで来られれば、気分転換間違えなし。
・・と、ざっとこんな感じのペースです。そして5月のTRIO'ツアー。
詳細は、ホームページ http://i-produce.net ライブ/2016.3-4月をご覧ください。
皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。
■□■ いちはらやすし・こんなことしてますNEWS ■□■
□□ 2012 / 5 月 / 号外 □□
今日、5月14日、大飯町町議会が原発受け入れを圧倒的多数で承認しました。その中の町議の発言。この問題は大飯町の問題で、他の者がとやかくいう問題ではないと・・。
これをニュースで見ていた私。先日配信した市原康インフォメーションで、色々書いたのだけど、結局それはカットして短い文書を配信したことをとても後悔しました。ここに、そのときカットした部分、皆さんに配信します。
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・・ある学者はもう世界は変わってしまったのだと言った。過去のどんな戦争や大災害の傷痕も四季の自然の営みは優しく包んで癒やしてきた。しかし昨年に起こった原発事故。それは自然の営みそのものを深く傷つけてしまったらしい。放射能・・その強毒の性質はDNAを壊すというもので、ありとあらゆる生き物に影響を与える。要するに優しく傷を癒やすはずの自然環境そのものが傷ついてしまい、本来の能力を失ってしまう。それがはっきり目に見える形で進行すればまだ良いが、この強毒は水や空気や食物を通して自然環境の隅々まで行き渡り、まるで風呂桶にインクを一滴垂らしたときのように、あっという間に溶けて風呂桶の水と一体化してしまう。そこに生活している者は溶けちゃっているからあまり気にならないが、毒性がなくなったわけでも薄まったわけでもない。人は痛みを感じる神経があるおかげでいろいろな危険を本能的に回避するが放射能に関してはなんにも感じない。そしてあるとき原因不明の「調子悪さ」と戦うようになる。これは放射能によるものだと言っても「原発事故との因果関係は実証できません」ということばが今から聞こえてくるようだ。
福島原発。毎日気が遠くなるほどの水を使っておきながら、それが溢れてこない。でも温度は上がらないから大丈夫って・・その大量の水は生活圏に流れ出ているのだということをどうしてマスコミは指摘しないのだろう。漏れているところが見つからないから? どこに行ったかって・・どこに行ったとしても水の行方は明らかに「生活圏」ですよ。海底だろうが土中だろうが、それは生活圏です。人は地中から水をくみ上げ、魚は好きなところを泳ぎ回り、好きなところに移動する。食物になろうが糞になろうが肥やしになろうが、家畜に入ろうが野菜に入ろうが、どこに行ったって放射性物質は淡々と放射能を発し続ける。そう。溶けてなくなるものではないんです。
大飯原発の再稼働で大飯町の住民に説明会? 大飯原発の再稼働の説明会を大飯町の住民にすると言うことは、あたかも彼らが納得すれば出来るみたいな印象を与えるけど、「有事」にとばっちりを食うのは明らかに大飯町の人だけではないでしょう。関西全体の住民、いや日本国民全体の問題、いや韓国にも中国にも。いや世界中の人の了解・・それだったら多数決でもいいかもしれない。原発を動かすと言うことはそういう問題です。どこかの大統領が原発をやるやらないはその国が決める問題だと言っていたけど、、とんでもないです。
利権、経済問題・・。70年代だったか、排ガス規制が導入され始めたときのことを思い出す。そんなことをしたらエンジンの性能は落ちるし、コストはかかるし、自動車業界は大打撃。日本の経済も落ち込んでしまう。私もあのときはあこがれのスポーツカーなんて言ってられなくなるのかと落胆したもの。 しかし自動車は見事に進化を続け、今では信じられない加速力を持つ電気自動車の商品化がそれほど遠くない将来に確実にあるという時代。 今考えればあのイメージは自動車業界が作り出したもので、排ガス規制に必死になって抵抗していたんだなと思う。排ガスは有害なのに何故それを続けようとする? それってなんだ? 儲かりさえすればそれでよいと思っている株主のためにせっせと働く会社が悪い? やっぱり人から金を預かって何かをすると正論を主張する自由が亡くなる・・いやそれ以上に・・やってはいけないことなんじゃないかと思ってしまう。
もう一ついうと、原発は防衛上だって最悪だと思います。「ここに爆弾を落としてください。そうすれば我が国は滅びます。」そう言っているんですから。核弾頭は核爆弾をわざわざ積んで飛んでくるけど、そんな手間は要りません。弾頭の部分はこちらで用意してあります。それを壊すだけであなたの勝ちですよ。・・ああ止まらない。あまりにライブ情報とはかけ離れた前置きでごめんなさい。
と、ここまで書いて5月号ではカットしたのですが、矢張り言うことにしました。一つの県をだめにしてしまうリスクを負ってまで企画を進めようとする企業が世界中のどこにありますか。それをする企業はどういう考えかというと、「一つの県がダメになること」さえもリスクにならないくらいの利益がそこにある・・それ以外にどういう説明ができるのでしょうか。利益のためならなんでもする・・時代劇の世界です。
前回の大震災の規模にも耐えうるものを作れば稼働できるのか。当の本人たちが言っていたではないですか。あれは想定外だったと。想定外のことが起きるんです・・。今は昨年の震災を想定できるようになったかも知れないけど、その上に想定外というものがあるんです。それを「想定外」と言うんです。原発は休んでいたって同じこ。そこにあるだけでやばいんです。
と。私はこれを毎月ライブ情報を配信している皆さんに言わなければ、自分が悪いことをしているみたいな気分になってきましたので、この号外・・お送りすることにしました。
さらに先月の文書の最後には以下の4行がありました。
世界が変わってしまっても。
営みは続けます。
私はドラムを叩き続けます。
生きている限り。
あっ、それからもう一つ。
今日のニュースで京都10人の死傷事故。少年を運転過失致死傷容疑で家裁送りに。遺族の何ともやり場のない思いがテレビの画面から伝わってくる。
過失致死傷よりも罪が重いとされる危険運転致死傷は適用できないとの判断。何故? 「未熟な運転技能」は充分に危険運転致死傷に該当するというのに。少年は以前にも無免許運転をしている。それがどうして「未熟」でないという考えに至るのか・・。
危険運転に当たるか否か・・そればかり考えていて、そこがちゃんとしないと過失致死傷と言わざるを得ない・・とか思うのだろうか。ここで危険運転致死傷にしたら色々クレームが来そうだと思ってしまうのだろうかと・・そんなことを考えてしまう。そっちではなくて、この事例はどう見ても「過失致死傷」には当たらないと・・どうしてそう言う考えに至らないのだろうか・・。以前に無免許運転をし、今回も無免許で、しかも一晩中運転して疲れ果てている・・そんな運転をする者の行為がどうして「過失」なの? 過失致死傷というのは、普段はまっとうな生活と仕事をしている人が「誤って」人を死に至らしめてしまった・・ということでしょう。それでも罰せられるんでしょう。こんなことばは使いたくないが、地検の担当者は頭がおかしい・・と思ってしまう。危険運転に当たらないから過失運転なの? いい加減にしてもらいたい。人をバカにしないでもらいたい。
原発の話と言い、検察の話と言い、人間はこうも簡単に同じ「人間」を踏みにじることができるのかと、今更ながらに「人は罪人」ということば・・この原点に立ってものを考えないと、考えは先に進まない・・そんな気がする。
怒りを多くの人に投げかけるのは、直感的にはやりたくないこと。でも、このことは皆さんにも考えてもらいたいです。
□□ 2012 / 5 月 / 号外 □□
今日、5月14日、大飯町町議会が原発受け入れを圧倒的多数で承認しました。その中の町議の発言。この問題は大飯町の問題で、他の者がとやかくいう問題ではないと・・。
これをニュースで見ていた私。先日配信した市原康インフォメーションで、色々書いたのだけど、結局それはカットして短い文書を配信したことをとても後悔しました。ここに、そのときカットした部分、皆さんに配信します。
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・・ある学者はもう世界は変わってしまったのだと言った。過去のどんな戦争や大災害の傷痕も四季の自然の営みは優しく包んで癒やしてきた。しかし昨年に起こった原発事故。それは自然の営みそのものを深く傷つけてしまったらしい。放射能・・その強毒の性質はDNAを壊すというもので、ありとあらゆる生き物に影響を与える。要するに優しく傷を癒やすはずの自然環境そのものが傷ついてしまい、本来の能力を失ってしまう。それがはっきり目に見える形で進行すればまだ良いが、この強毒は水や空気や食物を通して自然環境の隅々まで行き渡り、まるで風呂桶にインクを一滴垂らしたときのように、あっという間に溶けて風呂桶の水と一体化してしまう。そこに生活している者は溶けちゃっているからあまり気にならないが、毒性がなくなったわけでも薄まったわけでもない。人は痛みを感じる神経があるおかげでいろいろな危険を本能的に回避するが放射能に関してはなんにも感じない。そしてあるとき原因不明の「調子悪さ」と戦うようになる。これは放射能によるものだと言っても「原発事故との因果関係は実証できません」ということばが今から聞こえてくるようだ。
福島原発。毎日気が遠くなるほどの水を使っておきながら、それが溢れてこない。でも温度は上がらないから大丈夫って・・その大量の水は生活圏に流れ出ているのだということをどうしてマスコミは指摘しないのだろう。漏れているところが見つからないから? どこに行ったかって・・どこに行ったとしても水の行方は明らかに「生活圏」ですよ。海底だろうが土中だろうが、それは生活圏です。人は地中から水をくみ上げ、魚は好きなところを泳ぎ回り、好きなところに移動する。食物になろうが糞になろうが肥やしになろうが、家畜に入ろうが野菜に入ろうが、どこに行ったって放射性物質は淡々と放射能を発し続ける。そう。溶けてなくなるものではないんです。
大飯原発の再稼働で大飯町の住民に説明会? 大飯原発の再稼働の説明会を大飯町の住民にすると言うことは、あたかも彼らが納得すれば出来るみたいな印象を与えるけど、「有事」にとばっちりを食うのは明らかに大飯町の人だけではないでしょう。関西全体の住民、いや日本国民全体の問題、いや韓国にも中国にも。いや世界中の人の了解・・それだったら多数決でもいいかもしれない。原発を動かすと言うことはそういう問題です。どこかの大統領が原発をやるやらないはその国が決める問題だと言っていたけど、、とんでもないです。
利権、経済問題・・。70年代だったか、排ガス規制が導入され始めたときのことを思い出す。そんなことをしたらエンジンの性能は落ちるし、コストはかかるし、自動車業界は大打撃。日本の経済も落ち込んでしまう。私もあのときはあこがれのスポーツカーなんて言ってられなくなるのかと落胆したもの。 しかし自動車は見事に進化を続け、今では信じられない加速力を持つ電気自動車の商品化がそれほど遠くない将来に確実にあるという時代。 今考えればあのイメージは自動車業界が作り出したもので、排ガス規制に必死になって抵抗していたんだなと思う。排ガスは有害なのに何故それを続けようとする? それってなんだ? 儲かりさえすればそれでよいと思っている株主のためにせっせと働く会社が悪い? やっぱり人から金を預かって何かをすると正論を主張する自由が亡くなる・・いやそれ以上に・・やってはいけないことなんじゃないかと思ってしまう。
もう一ついうと、原発は防衛上だって最悪だと思います。「ここに爆弾を落としてください。そうすれば我が国は滅びます。」そう言っているんですから。核弾頭は核爆弾をわざわざ積んで飛んでくるけど、そんな手間は要りません。弾頭の部分はこちらで用意してあります。それを壊すだけであなたの勝ちですよ。・・ああ止まらない。あまりにライブ情報とはかけ離れた前置きでごめんなさい。
と、ここまで書いて5月号ではカットしたのですが、矢張り言うことにしました。一つの県をだめにしてしまうリスクを負ってまで企画を進めようとする企業が世界中のどこにありますか。それをする企業はどういう考えかというと、「一つの県がダメになること」さえもリスクにならないくらいの利益がそこにある・・それ以外にどういう説明ができるのでしょうか。利益のためならなんでもする・・時代劇の世界です。
前回の大震災の規模にも耐えうるものを作れば稼働できるのか。当の本人たちが言っていたではないですか。あれは想定外だったと。想定外のことが起きるんです・・。今は昨年の震災を想定できるようになったかも知れないけど、その上に想定外というものがあるんです。それを「想定外」と言うんです。原発は休んでいたって同じこ。そこにあるだけでやばいんです。
と。私はこれを毎月ライブ情報を配信している皆さんに言わなければ、自分が悪いことをしているみたいな気分になってきましたので、この号外・・お送りすることにしました。
さらに先月の文書の最後には以下の4行がありました。
世界が変わってしまっても。
営みは続けます。
私はドラムを叩き続けます。
生きている限り。
あっ、それからもう一つ。
今日のニュースで京都10人の死傷事故。少年を運転過失致死傷容疑で家裁送りに。遺族の何ともやり場のない思いがテレビの画面から伝わってくる。
過失致死傷よりも罪が重いとされる危険運転致死傷は適用できないとの判断。何故? 「未熟な運転技能」は充分に危険運転致死傷に該当するというのに。少年は以前にも無免許運転をしている。それがどうして「未熟」でないという考えに至るのか・・。
危険運転に当たるか否か・・そればかり考えていて、そこがちゃんとしないと過失致死傷と言わざるを得ない・・とか思うのだろうか。ここで危険運転致死傷にしたら色々クレームが来そうだと思ってしまうのだろうかと・・そんなことを考えてしまう。そっちではなくて、この事例はどう見ても「過失致死傷」には当たらないと・・どうしてそう言う考えに至らないのだろうか・・。以前に無免許運転をし、今回も無免許で、しかも一晩中運転して疲れ果てている・・そんな運転をする者の行為がどうして「過失」なの? 過失致死傷というのは、普段はまっとうな生活と仕事をしている人が「誤って」人を死に至らしめてしまった・・ということでしょう。それでも罰せられるんでしょう。こんなことばは使いたくないが、地検の担当者は頭がおかしい・・と思ってしまう。危険運転に当たらないから過失運転なの? いい加減にしてもらいたい。人をバカにしないでもらいたい。
原発の話と言い、検察の話と言い、人間はこうも簡単に同じ「人間」を踏みにじることができるのかと、今更ながらに「人は罪人」ということば・・この原点に立ってものを考えないと、考えは先に進まない・・そんな気がする。
怒りを多くの人に投げかけるのは、直感的にはやりたくないこと。でも、このことは皆さんにも考えてもらいたいです。
大谷よしみがホームページで
被災地の皆さんへの応援メッセージ
「私たちはつながっています!」
と題して多くの方々から言葉を頂いています。
その最初に先ずは大谷と市原がと言うことで
私もメッセージを書きました。
ここでは私のメッセージだけをご紹介します。
皆さんのメッセージはこちらをご覧記下さい。
http://graceplace.web.fc2.com/ouen.html
被災地の方々へもご紹介いただけたましら幸いです。
----------------------------------------------
圧倒的な力で打ちのめされた、想像を絶するこの災害に遭われた被災者の皆さんの痛みと恐れと不安、そして悲しみ、絶望。私はそのほんのかけらさえも体で感じることができない被災地の「外」にいます。ただ余りにも多くの方々が同時に、また一瞬にして変えられた運命を私も確かに見えないつながりによって運命共同体のようにして今を生きようとしているように感じています。
かけがえのないものが一瞬にして奪われた、、それを忘れることのないように。持っていた宝を心に携えて復活の力へと変えていく。皆さんはきっとそれをするのだと思います。
絶望の果てに小さく見える扉。ふと見る光、ふとしたひらめき、それにすがりつくようにして小さな一歩を踏み出すのだと思っています。皆さんはきっとそれをすると思っています。
心が重たいです。復興の明るいニュースを聞いても原発という重たい灰色の雲が覆い被さって私たちを押しつぶそうとしています。命を賭けて最前線で戦う人達を心配しています。体が守られ、良い知恵が与えられ、そこに不思議な突破口を見出すことができますように。そしてこの最大の難関を乗り越え、静かで平凡な幸せをもう一度共に勝ち取る。皆さんはきっとそれをするのだと思っています。
いつもいつも心に覚えています。祈っています。皆さんと共に天を仰いでいます。
市 原 康
被災地の皆さんへの応援メッセージ
「私たちはつながっています!」
と題して多くの方々から言葉を頂いています。
その最初に先ずは大谷と市原がと言うことで
私もメッセージを書きました。
ここでは私のメッセージだけをご紹介します。
皆さんのメッセージはこちらをご覧記下さい。
http://graceplace.web.fc2.com/ouen.html
被災地の方々へもご紹介いただけたましら幸いです。
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圧倒的な力で打ちのめされた、想像を絶するこの災害に遭われた被災者の皆さんの痛みと恐れと不安、そして悲しみ、絶望。私はそのほんのかけらさえも体で感じることができない被災地の「外」にいます。ただ余りにも多くの方々が同時に、また一瞬にして変えられた運命を私も確かに見えないつながりによって運命共同体のようにして今を生きようとしているように感じています。
かけがえのないものが一瞬にして奪われた、、それを忘れることのないように。持っていた宝を心に携えて復活の力へと変えていく。皆さんはきっとそれをするのだと思います。
絶望の果てに小さく見える扉。ふと見る光、ふとしたひらめき、それにすがりつくようにして小さな一歩を踏み出すのだと思っています。皆さんはきっとそれをすると思っています。
心が重たいです。復興の明るいニュースを聞いても原発という重たい灰色の雲が覆い被さって私たちを押しつぶそうとしています。命を賭けて最前線で戦う人達を心配しています。体が守られ、良い知恵が与えられ、そこに不思議な突破口を見出すことができますように。そしてこの最大の難関を乗り越え、静かで平凡な幸せをもう一度共に勝ち取る。皆さんはきっとそれをするのだと思っています。
いつもいつも心に覚えています。祈っています。皆さんと共に天を仰いでいます。
市 原 康
Japan Altemative News for Justices and NewCulturesと言うブログがある。その中の記事「小出裕章さん(原子炉実験所)が原発に反対するわけ」というのがある。小出という人物は私が高校の時に所属していた地質部の同期の部長で、現在京大原子炉実験所の助教です。彼が山口県の柳井市で行った講演、、それはもともと近くの上関町に計画されている原発建設に対する20年近くにわたる反対運動の講演のためだったが、奇しくもそれが今回の震災の後の3月20日のことで、最も今私たちが欲しいと思われる情報・・どういうことが起こっていて、どういうことが想定できるのか、汚染とは本当はどういう意味なのか・・そのことについて語っているそのままをYou-Tubeで見ることができる。
この知識は国やマスコミからはどう見ても曖昧な伝えられ方しかされていない。原発賛成か反対かはさておき、知るだけでよい。日本に54基の原発があるが、原発がなくとも電気は十分に確保できる。たかが水を沸騰させるだけのためにどうしてこんなにも危険で、ゴミの処理の仕方も分からないような怪物を電力会社は作って、それを推進するのか。1時間半にも及ぶ講演だが必見。「原子力の専門家が原発に反対するわけ」をどうぞご覧になって下さい。
http://www.janjanblog.com/archives/34534
この知識は国やマスコミからはどう見ても曖昧な伝えられ方しかされていない。原発賛成か反対かはさておき、知るだけでよい。日本に54基の原発があるが、原発がなくとも電気は十分に確保できる。たかが水を沸騰させるだけのためにどうしてこんなにも危険で、ゴミの処理の仕方も分からないような怪物を電力会社は作って、それを推進するのか。1時間半にも及ぶ講演だが必見。「原子力の専門家が原発に反対するわけ」をどうぞご覧になって下さい。
http://www.janjanblog.com/archives/34534
静かな街。夕刻街角に立つと静けさが街を覆っているのがわかる。信号を待つ二人の人。静けさの中を生きている人であることが見えた気がした。白壁の町並み。あしたは明るいところでこの街皆を見てみよう。
写真はなぜか「大谷よしみのgraceな時間」で見ることができる。
写真はなぜか「大谷よしみのgraceな時間」で見ることができる。

久々の黒鯛公演「相続してもいいころ」・・、興奮しました。声だけの出演・・なのですが、この声を中心に皆が振り回されるという内容で、結構ポイントとしては重要な役。でも表に立ってやり切る役者さんよりはかなり楽ではありました。今年で十周年を迎える黒鯛の芝居。最初の五回はずっとやり続け、六回目はお休み、そして久々の舞台。声だけでしたがやはり興奮しますね。セリフのひとつひとつ、十の言葉で出来ている文節のどの言葉が強調されているかで全く意味合いも空気も変わってくる。稽古開始から本番まで、そのポイントがどんどん変わってきたりする。以前のように舞台に出たままではないので少ないセリフをじっくり吟味することが出来る。舞台に立ってその十倍も二十倍もの言葉を語る役者たち。その言葉遣いで全く舞台の様相が変わってくる。今回はどちらかというと一歩下がったところでその様子を観察することが出来たというのも貴重な体験でした。ほんの少しのニュアンス・・それは音楽で言えば「のり」でもあるし、フレーズの丁寧さにも密接に関係してくる。そういうところは演奏と全く違わない。たわいもない言葉で笑いを誘うこともあれば、それを期待しても全然受けなかったり・・と。これはやっぱりかなり面白い世界だなあと・・、「またやりてぇ」・・とうっかり思ってしまう。
ツイッターでもつぶやいたが、これは1時間半一曲やりきりの演奏なのだ。その中で快適なスピードですべてがこなせたら、そりゃ面白いに決まってる。それを彼らからしても少ない稽古の期間で仕上げていく。演出家の仕事も根気の要る仕事だなあと改めて思わされる。まあ、とにかく同じような世界ではあるが、芝居、そして舞台の世界。今回など舞台美術はちょっと古い洋館の一室なのだが、その小道具たるや、家一軒分の荷物ではないかと思われるほどの大量の本、棚、机、椅子、おもちゃ、等々。これを三日で終えてしまう?? ああもったいない。
とにかく、黒鯛十周年。おめでとう。ここまで来ると、一つの価値が出てくる。これからの黒鯛を見守っていきたい。ちぬさん、お疲れ様でした。WAHAHA本舗の佐藤正宏さん、色々勉強をさせていただきました。くろいぬパレードの岩渕敏司さん、力をいただきました。劇団とっても便利の大野さん、試行錯誤しながら道を探し出していくその姿、励まされました。Dotoo!の桜岡あつ子さん、役者大好き魂いただきました。山口あゆみさん、社長さんにこんな一面もあったのかと言われていましたね。よく頑張りました。須貝まい子さん、コツコツとがんばっている姿、うれしく拝見させていただきました。脚本のイケタニマサオさん、そのひとつひとつの言葉、、その奥深い可能性に吸い込まれました。演出の遠藤さん、、演出のご苦労、、端から見させていただきました。本当にお疲れ様でした。そして初回からずっと支えて下さっている美術、照明、音響、そしてスタッフの皆様。ありがとう、ありがとう。私をこの世界に引き込んでくれたちぬさんに感謝感謝。