
2009,スマイルキッズ/発表会というのを観てきた。これはフリーの「創作あそび作家」たにぞう氏がプロデュースする子どものダンスチーム「ヒップホップ+スポーツクラブ」の発表会。たにぞう氏はNHK教育テレビ「からだであそぼ!」ケインの体操・指導・振り付けなどをされている。元々保育士だったのが余り奇抜なことばかりやるので保育園を追い出されたらしい。彼の奥様と子どもがどこかでヒップホップを習ってきて、余りに楽しそうに踊るのを見て自分もこれをやってみようと思ったとのこと。三年前に始めたばかりなのに、すでに8チーム180名の会員がいる。子どもそしてお母さんも踊る。日野市民会館大ホールは一杯だった。
今年は「子供モノ」を随分見させられている。さいたま芸術劇場でやったダンスグループの発表会のステージにも子どもが随分参加している。そして先日の日野皓正さんの指導する世田谷の子ども達のフルバンド。そして今回のスマイルキッズ。こちらは日野市を中心に広がっている。どれも何かすごく心の深くに感動を覚えて帰ってくる。そして何よりも子どもの力を引き出すこのような仕事をしている人たちを本当にうらやましいという思いでいつも帰ってくる。
この日、子ども達はかなり小さい子から高学年、そしてお母さん達もいる。母親とこどもが一緒にヒップホップを踊る・・これはもうそれだけで熱いものがこみ上げてくる。皆かなり練習をしているのだろう。あれだけの振付を良く体に刻み込むものだと感心する。そして驚いたことは、どのグループもその中で一番に目に入ってくるのが小さい方の子であったということ。目に入るというのは単に目立つのではなくて、リズムが良い・・のだ。大きい子達もきっちり振付は練習している感じだし、ちゃんとそろっているのだが、、。小さい子の「ノリ」にはなぜか幅というかゆとりがある。もちろん技術的にこなれていて余裕があるわけはないし、ただ一生懸命にやっているだけだ。これは何なんだろうと考えていて、先月やった阿川泰子さんのステージでのことを思い出した。
阿川泰子さんのバンドのリーダーはサックスの村岡建/タケルさんといって、往年の日野皓正バンドで活躍していたベテラン中のベテランプレーヤー。僕よりも10年以上の大先輩である。さすが大先輩だけあっていろいろおもしろい話をしてくれる。ミュージシャンというのは学校を卒業すると、そのとたんに精神年齢は止まったままになるのだ・・と。要するにミュージシャンになったとたんに精神年齢の成長が止まるということらしい。だから大卒のミュージシャンの精神年齢はいつまで経っても22~3才で、高卒だったら18~9才。中卒だと15~6才というわけだ。だからボク(村岡さん)はこの中で一番若いのだ、とか言っている。なるほどと思うのは、村岡さんは子どもみたいなところがあって、変な感情は尾を引かない代わりに、何でも感じたことはどんどん言ってしまうという、、ある意味でリーダーにぴったりの性質を持っている。だから、僕らも村岡さんの手にかかるとケチョンケチョンに言われてほとんど初心者扱いになってしまってほとほと困ることもあるが、この歳になってこんなこと言ってくれる人は他にはいないよなぁ・・と、これは有り難いことなのだと気がつくのだが・・。先日、いつもやっているベースの古野さんが出来なくて、代わりに早川哲也君が来てくれた。彼は大変である。知らない曲をこなすのが精一杯なところに持ってきて、バンマスからノリのことを指摘されたりするわけだから。・・「ドラムとベースがドンカマみたいにぴったりだったりするとリズムに遊びがなくなって、僕は居場所がなくなってしまうんだよね」・・と。「黒人の歩き方を見てごらん。あの揺れ方の内にリズムの芯があるが、体は揺れている。ベースは一番先のところを行って、ドラムは下の方をキープしてリズムに幅が出てこないと全然スイングできないんだよ」と。「僕はベースとドラムがそういうリズムを作ってくれている上で先ノリや後ノリを自由にしたいんだ」・・と。まさしく仰せの通り。そして演奏をしてみて改めて確信できたことがある。村岡さんの言葉とは少し違ってくるかも知れないが、それはベースに対して云々、メロディーに対して云々、全体の音に対して云々、、。「・・に対して」という相対的なリズムのあり場所の捉え方、いわば二次元的なリズムの捉え方をしていてはいけないんだということ。実はリズムというのは四次元を超えた、はるか超能力的とも言える部分で生まれるもので、そのようにとらえないととてもじゃないけど数え切れない音が交錯する時間軸の中でタイムをキープしたり乗ったりするということは無理なのだということ。それを思い出した。先日「ドラマーになった」と、妙な宣言をしたときの感覚に近いのかも知れない。 小さい子は決して二次元的に考える頭などは持っていないし使ってもいない。だが少し大人になって理性が働く歳になると物事の捉え方が具体的になってきて、いわゆる「頭で」考える演技になってきてしまう。だからおもしろみがなくなってくる。でも小さい子が超次元で踊るときにはもちろん技術があるわけではないのに、見ていてものすごくおもしろくて、、そしてかっこいい。小さい子の方ががかっこいい・・。これはひょっとしたら初めて見ることかも知れない。
僕は生徒に、「音は聴くのではなくて見るもんだ。」という話をすることがある。音の交錯する様子を聴いている自分を思い起こすと、あれは聴いているのではなく、確かに「見て」いる。音の様子が見えるのだ。聴くときは平面的だが、見ているときはそれが立体的になる。だが、先の話のようなことを確信するに至り、音は見るもの・・という立体的な捉え方よりも更にそれ以上の次元の話なのだなあと思わされる。見たとしたら、そのとたんにそのひとつひとつの輪郭や細部の様子を特定してしまう。だが、音の存在はそんなものではなくてもっと宇宙的な意味合いをも持つもののようだ。これではちょっとわかりにくいかも知れないけど、今僕が言い表せる精一杯のところ。もうこうなってくると、最初から何か考えて臨んではいけないのはもちろんのこと、そこで受け取れるイメージをただ全力で表現する他ない・・という話になってくる。いろいろなアーティストが、「上から降りてくる」といった発想の表現をするのを良く聞くが、僕はどうもそういう考え方にはなじめなかった。何かすべてを解決できる切り札をいつも持っていなければ不安になるのだろう。だからいつもそれを持ち歩いていた。尤もその切り札は結局「本物」ではなかったわけだが・・。どうも降参しなければならない時が来たらしい。
あの小さい子達は何も余計なことは考えていないわけで、ただその次元を超えたところでやっていたんだ。そう言えば生徒に関しても思い当たることがある。僕が教えているのはドラマーになるドラムの専門科と、もうひとつ作曲科の生徒にも副科でドラムを教えている。副科の生徒は二年生から始めて一年間ドラムの奏法をみっちりやり、そして翌年には仲間が書く譜面のドラマーを務め、それでレコーディングするところまでやってしまう。ただ、リズムのことやノリのことについては一言も語らない。そして彼らはほとんどがドラムに関しては初心者である。その授業ではプロのドラマーを目指す専科の生徒も一緒にやったりするのだが、ここでも同じようなことが起こるのだ。ドラマーになる者としていろいろな指摘を受けながら勉強をしている専科の生徒と、初心者状態からたかが二年目の生徒、、どちらかというとこの初心者の生徒の方がリズムが味わい深い場合が圧倒的に多いのである。彼らは「頭で」考える余裕などはほとんどない。これもある意味で「幼い者」が超次元でやってしまう良い例なのではないだろうか。
この話の結論? そう。先ず自分が超次元の奏者にならなければ話にならない。演奏家って、、現金なんですね。変な演奏していると年上でも見下げる代わりに、良い演奏をすれば今まで呼び捨てにしていた人が「さん付け」にコロッと変わる。これ・・前にも書いたか。だから、こんな理屈をこねていないで、あんたがやれよ・・という声が、、、ああ、聞こえてくる。
写真は話とはまったく関係がない、、すでに葉が色づき始めた近所の街路樹。アキニレ・・かな。