■□■ いちはらやすし・こんなことしてますNEWS ■□■
□□ 2012 / 5 月 / 号外 □□
今日、5月14日、大飯町町議会が原発受け入れを圧倒的多数で承認しました。その中の町議の発言。この問題は大飯町の問題で、他の者がとやかくいう問題ではないと・・。
これをニュースで見ていた私。先日配信した市原康インフォメーションで、色々書いたのだけど、結局それはカットして短い文書を配信したことをとても後悔しました。ここに、そのときカットした部分、皆さんに配信します。
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・・ある学者はもう世界は変わってしまったのだと言った。過去のどんな戦争や大災害の傷痕も四季の自然の営みは優しく包んで癒やしてきた。しかし昨年に起こった原発事故。それは自然の営みそのものを深く傷つけてしまったらしい。放射能・・その強毒の性質はDNAを壊すというもので、ありとあらゆる生き物に影響を与える。要するに優しく傷を癒やすはずの自然環境そのものが傷ついてしまい、本来の能力を失ってしまう。それがはっきり目に見える形で進行すればまだ良いが、この強毒は水や空気や食物を通して自然環境の隅々まで行き渡り、まるで風呂桶にインクを一滴垂らしたときのように、あっという間に溶けて風呂桶の水と一体化してしまう。そこに生活している者は溶けちゃっているからあまり気にならないが、毒性がなくなったわけでも薄まったわけでもない。人は痛みを感じる神経があるおかげでいろいろな危険を本能的に回避するが放射能に関してはなんにも感じない。そしてあるとき原因不明の「調子悪さ」と戦うようになる。これは放射能によるものだと言っても「原発事故との因果関係は実証できません」ということばが今から聞こえてくるようだ。
福島原発。毎日気が遠くなるほどの水を使っておきながら、それが溢れてこない。でも温度は上がらないから大丈夫って・・その大量の水は生活圏に流れ出ているのだということをどうしてマスコミは指摘しないのだろう。漏れているところが見つからないから? どこに行ったかって・・どこに行ったとしても水の行方は明らかに「生活圏」ですよ。海底だろうが土中だろうが、それは生活圏です。人は地中から水をくみ上げ、魚は好きなところを泳ぎ回り、好きなところに移動する。食物になろうが糞になろうが肥やしになろうが、家畜に入ろうが野菜に入ろうが、どこに行ったって放射性物質は淡々と放射能を発し続ける。そう。溶けてなくなるものではないんです。
大飯原発の再稼働で大飯町の住民に説明会? 大飯原発の再稼働の説明会を大飯町の住民にすると言うことは、あたかも彼らが納得すれば出来るみたいな印象を与えるけど、「有事」にとばっちりを食うのは明らかに大飯町の人だけではないでしょう。関西全体の住民、いや日本国民全体の問題、いや韓国にも中国にも。いや世界中の人の了解・・それだったら多数決でもいいかもしれない。原発を動かすと言うことはそういう問題です。どこかの大統領が原発をやるやらないはその国が決める問題だと言っていたけど、、とんでもないです。
利権、経済問題・・。70年代だったか、排ガス規制が導入され始めたときのことを思い出す。そんなことをしたらエンジンの性能は落ちるし、コストはかかるし、自動車業界は大打撃。日本の経済も落ち込んでしまう。私もあのときはあこがれのスポーツカーなんて言ってられなくなるのかと落胆したもの。 しかし自動車は見事に進化を続け、今では信じられない加速力を持つ電気自動車の商品化がそれほど遠くない将来に確実にあるという時代。 今考えればあのイメージは自動車業界が作り出したもので、排ガス規制に必死になって抵抗していたんだなと思う。排ガスは有害なのに何故それを続けようとする? それってなんだ? 儲かりさえすればそれでよいと思っている株主のためにせっせと働く会社が悪い? やっぱり人から金を預かって何かをすると正論を主張する自由が亡くなる・・いやそれ以上に・・やってはいけないことなんじゃないかと思ってしまう。
もう一ついうと、原発は防衛上だって最悪だと思います。「ここに爆弾を落としてください。そうすれば我が国は滅びます。」そう言っているんですから。核弾頭は核爆弾をわざわざ積んで飛んでくるけど、そんな手間は要りません。弾頭の部分はこちらで用意してあります。それを壊すだけであなたの勝ちですよ。・・ああ止まらない。あまりにライブ情報とはかけ離れた前置きでごめんなさい。
と、ここまで書いて5月号ではカットしたのですが、矢張り言うことにしました。一つの県をだめにしてしまうリスクを負ってまで企画を進めようとする企業が世界中のどこにありますか。それをする企業はどういう考えかというと、「一つの県がダメになること」さえもリスクにならないくらいの利益がそこにある・・それ以外にどういう説明ができるのでしょうか。利益のためならなんでもする・・時代劇の世界です。
前回の大震災の規模にも耐えうるものを作れば稼働できるのか。当の本人たちが言っていたではないですか。あれは想定外だったと。想定外のことが起きるんです・・。今は昨年の震災を想定できるようになったかも知れないけど、その上に想定外というものがあるんです。それを「想定外」と言うんです。原発は休んでいたって同じこ。そこにあるだけでやばいんです。
と。私はこれを毎月ライブ情報を配信している皆さんに言わなければ、自分が悪いことをしているみたいな気分になってきましたので、この号外・・お送りすることにしました。
さらに先月の文書の最後には以下の4行がありました。
世界が変わってしまっても。
営みは続けます。
私はドラムを叩き続けます。
生きている限り。
あっ、それからもう一つ。
今日のニュースで京都10人の死傷事故。少年を運転過失致死傷容疑で家裁送りに。遺族の何ともやり場のない思いがテレビの画面から伝わってくる。
過失致死傷よりも罪が重いとされる危険運転致死傷は適用できないとの判断。何故? 「未熟な運転技能」は充分に危険運転致死傷に該当するというのに。少年は以前にも無免許運転をしている。それがどうして「未熟」でないという考えに至るのか・・。
危険運転に当たるか否か・・そればかり考えていて、そこがちゃんとしないと過失致死傷と言わざるを得ない・・とか思うのだろうか。ここで危険運転致死傷にしたら色々クレームが来そうだと思ってしまうのだろうかと・・そんなことを考えてしまう。そっちではなくて、この事例はどう見ても「過失致死傷」には当たらないと・・どうしてそう言う考えに至らないのだろうか・・。以前に無免許運転をし、今回も無免許で、しかも一晩中運転して疲れ果てている・・そんな運転をする者の行為がどうして「過失」なの? 過失致死傷というのは、普段はまっとうな生活と仕事をしている人が「誤って」人を死に至らしめてしまった・・ということでしょう。それでも罰せられるんでしょう。こんなことばは使いたくないが、地検の担当者は頭がおかしい・・と思ってしまう。危険運転に当たらないから過失運転なの? いい加減にしてもらいたい。人をバカにしないでもらいたい。
原発の話と言い、検察の話と言い、人間はこうも簡単に同じ「人間」を踏みにじることができるのかと、今更ながらに「人は罪人」ということば・・この原点に立ってものを考えないと、考えは先に進まない・・そんな気がする。
怒りを多くの人に投げかけるのは、直感的にはやりたくないこと。でも、このことは皆さんにも考えてもらいたいです。
□□ 2012 / 5 月 / 号外 □□
今日、5月14日、大飯町町議会が原発受け入れを圧倒的多数で承認しました。その中の町議の発言。この問題は大飯町の問題で、他の者がとやかくいう問題ではないと・・。
これをニュースで見ていた私。先日配信した市原康インフォメーションで、色々書いたのだけど、結局それはカットして短い文書を配信したことをとても後悔しました。ここに、そのときカットした部分、皆さんに配信します。
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・・ある学者はもう世界は変わってしまったのだと言った。過去のどんな戦争や大災害の傷痕も四季の自然の営みは優しく包んで癒やしてきた。しかし昨年に起こった原発事故。それは自然の営みそのものを深く傷つけてしまったらしい。放射能・・その強毒の性質はDNAを壊すというもので、ありとあらゆる生き物に影響を与える。要するに優しく傷を癒やすはずの自然環境そのものが傷ついてしまい、本来の能力を失ってしまう。それがはっきり目に見える形で進行すればまだ良いが、この強毒は水や空気や食物を通して自然環境の隅々まで行き渡り、まるで風呂桶にインクを一滴垂らしたときのように、あっという間に溶けて風呂桶の水と一体化してしまう。そこに生活している者は溶けちゃっているからあまり気にならないが、毒性がなくなったわけでも薄まったわけでもない。人は痛みを感じる神経があるおかげでいろいろな危険を本能的に回避するが放射能に関してはなんにも感じない。そしてあるとき原因不明の「調子悪さ」と戦うようになる。これは放射能によるものだと言っても「原発事故との因果関係は実証できません」ということばが今から聞こえてくるようだ。
福島原発。毎日気が遠くなるほどの水を使っておきながら、それが溢れてこない。でも温度は上がらないから大丈夫って・・その大量の水は生活圏に流れ出ているのだということをどうしてマスコミは指摘しないのだろう。漏れているところが見つからないから? どこに行ったかって・・どこに行ったとしても水の行方は明らかに「生活圏」ですよ。海底だろうが土中だろうが、それは生活圏です。人は地中から水をくみ上げ、魚は好きなところを泳ぎ回り、好きなところに移動する。食物になろうが糞になろうが肥やしになろうが、家畜に入ろうが野菜に入ろうが、どこに行ったって放射性物質は淡々と放射能を発し続ける。そう。溶けてなくなるものではないんです。
大飯原発の再稼働で大飯町の住民に説明会? 大飯原発の再稼働の説明会を大飯町の住民にすると言うことは、あたかも彼らが納得すれば出来るみたいな印象を与えるけど、「有事」にとばっちりを食うのは明らかに大飯町の人だけではないでしょう。関西全体の住民、いや日本国民全体の問題、いや韓国にも中国にも。いや世界中の人の了解・・それだったら多数決でもいいかもしれない。原発を動かすと言うことはそういう問題です。どこかの大統領が原発をやるやらないはその国が決める問題だと言っていたけど、、とんでもないです。
利権、経済問題・・。70年代だったか、排ガス規制が導入され始めたときのことを思い出す。そんなことをしたらエンジンの性能は落ちるし、コストはかかるし、自動車業界は大打撃。日本の経済も落ち込んでしまう。私もあのときはあこがれのスポーツカーなんて言ってられなくなるのかと落胆したもの。 しかし自動車は見事に進化を続け、今では信じられない加速力を持つ電気自動車の商品化がそれほど遠くない将来に確実にあるという時代。 今考えればあのイメージは自動車業界が作り出したもので、排ガス規制に必死になって抵抗していたんだなと思う。排ガスは有害なのに何故それを続けようとする? それってなんだ? 儲かりさえすればそれでよいと思っている株主のためにせっせと働く会社が悪い? やっぱり人から金を預かって何かをすると正論を主張する自由が亡くなる・・いやそれ以上に・・やってはいけないことなんじゃないかと思ってしまう。
もう一ついうと、原発は防衛上だって最悪だと思います。「ここに爆弾を落としてください。そうすれば我が国は滅びます。」そう言っているんですから。核弾頭は核爆弾をわざわざ積んで飛んでくるけど、そんな手間は要りません。弾頭の部分はこちらで用意してあります。それを壊すだけであなたの勝ちですよ。・・ああ止まらない。あまりにライブ情報とはかけ離れた前置きでごめんなさい。
と、ここまで書いて5月号ではカットしたのですが、矢張り言うことにしました。一つの県をだめにしてしまうリスクを負ってまで企画を進めようとする企業が世界中のどこにありますか。それをする企業はどういう考えかというと、「一つの県がダメになること」さえもリスクにならないくらいの利益がそこにある・・それ以外にどういう説明ができるのでしょうか。利益のためならなんでもする・・時代劇の世界です。
前回の大震災の規模にも耐えうるものを作れば稼働できるのか。当の本人たちが言っていたではないですか。あれは想定外だったと。想定外のことが起きるんです・・。今は昨年の震災を想定できるようになったかも知れないけど、その上に想定外というものがあるんです。それを「想定外」と言うんです。原発は休んでいたって同じこ。そこにあるだけでやばいんです。
と。私はこれを毎月ライブ情報を配信している皆さんに言わなければ、自分が悪いことをしているみたいな気分になってきましたので、この号外・・お送りすることにしました。
さらに先月の文書の最後には以下の4行がありました。
世界が変わってしまっても。
営みは続けます。
私はドラムを叩き続けます。
生きている限り。
あっ、それからもう一つ。
今日のニュースで京都10人の死傷事故。少年を運転過失致死傷容疑で家裁送りに。遺族の何ともやり場のない思いがテレビの画面から伝わってくる。
過失致死傷よりも罪が重いとされる危険運転致死傷は適用できないとの判断。何故? 「未熟な運転技能」は充分に危険運転致死傷に該当するというのに。少年は以前にも無免許運転をしている。それがどうして「未熟」でないという考えに至るのか・・。
危険運転に当たるか否か・・そればかり考えていて、そこがちゃんとしないと過失致死傷と言わざるを得ない・・とか思うのだろうか。ここで危険運転致死傷にしたら色々クレームが来そうだと思ってしまうのだろうかと・・そんなことを考えてしまう。そっちではなくて、この事例はどう見ても「過失致死傷」には当たらないと・・どうしてそう言う考えに至らないのだろうか・・。以前に無免許運転をし、今回も無免許で、しかも一晩中運転して疲れ果てている・・そんな運転をする者の行為がどうして「過失」なの? 過失致死傷というのは、普段はまっとうな生活と仕事をしている人が「誤って」人を死に至らしめてしまった・・ということでしょう。それでも罰せられるんでしょう。こんなことばは使いたくないが、地検の担当者は頭がおかしい・・と思ってしまう。危険運転に当たらないから過失運転なの? いい加減にしてもらいたい。人をバカにしないでもらいたい。
原発の話と言い、検察の話と言い、人間はこうも簡単に同じ「人間」を踏みにじることができるのかと、今更ながらに「人は罪人」ということば・・この原点に立ってものを考えないと、考えは先に進まない・・そんな気がする。
怒りを多くの人に投げかけるのは、直感的にはやりたくないこと。でも、このことは皆さんにも考えてもらいたいです。