
TRIO’ 2016 春のライブツアー・・5月8日(日)〜21(土)。近づいて参りました。大まかなスケジュールは以下の通りですが、いろいろお問い合わせを頂き、やはりご予算が分からないと行きにくいですよね。そこでホームページにはそれぞれのミュージックチャージを載せました。一般のライブハウスでは大体そのサイトでご確認出来ますが、そうでないところも含めて、掲載しました。http://i-produce.net の「live」の4-5月をご覧下さい。
8(日) 東京/南青山 Body & Soul
9(月) 熊谷 スペース1497
10(火) 鶴岡 三瀬ユースホステル
12(木) 山形 NOISY DUCK
13(金) 仙台 Jazz Me Blues noLa
14(土) 柏崎 うたげ堂
15(日) 豊橋 Jazz & Dinning コティー
16(月) 浜松 ポルテシアター
17(火) 横浜 ドルフィー
19(木) 高崎 ケイノート
20(金) 東京/代官山 LEZARD
21(土) 東京/浜松町 サンミケーレ 開成ライブ ゲスト/市原ひかり
そして、6月からは今まで10年続いた「大野雄二/ルパンティック5」がリニューアル。市原がこれに参加することになりました。今までのメンバー 大野雄二pf、松島啓之tp、鈴木央紹sax、和泉聡志gt に加え、エレキベースの長岡道夫、そしてドラムの市原、さらに超若手/ひかりとほぼ同期です、宮川純0rg/ベテランに負けない強力なプレーヤーです/という編成になっています。新しいグループの名は「Yuji Ohno & Lupintic Six」。6月から活動開始です。先日このグループのニューアルバムのレコーディングを終えました。それともうひとつ、このグループに三人の強力なボーカルが加わって「Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s」というバージョンもあります。ボーカルに佐々木久美、Tiger、佐々木詩織が加わります。詳細は大野雄二サイトをご覧下さい。こちらでも来月にはご案内いたします。 http://www.vap.co.jp/ohno/info/index.html#160323
おっと、4-5月のその他のライブ、4/9(土)古野光昭カルテット/町田ニカス。4/16(土)岩渕まこと・Acoustic Bonbon/狭山ギンイロヒコーキコーヒーハウス。それと、毎月の賛美歌集会/歌声ペトラは4/19(火)、5/31(火)、となっています。
お知らせ・・当ブログで「ドラマー市原康のキリスト教談義」という連載をしたいと考えました。このライブインフォメーションのお知らせのタイミングに合わせて書いていこうかなと考えております。まず第一回目は「あんなことしてる人が、どうしてクリスチャンなの?」というタイトル。おもしろそうでしょ? 覗いてみて下さい。この下です。
4,5月のライブ、TRIO’ 春のライブツアー。皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。詳細はドラマー市原康のホームページ http://i-produce.net をご覧下さい。

第一回 「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」 2016年4月
世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがありました。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当された人物・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。このように現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの人を感動させ、自らがキリストのように死んだ者となり、そこに大きな偉業を成し遂げた人物・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っています。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージに合わなかったら途端に「クリスチャンのくせに」などと言う厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。あるいは、あんなことをしているひとがどうしてクリスチャンなの・・と言った見方さえする。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。この人たちが全く知らないこと・・それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた自分の中にある本質を思い知った人、気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。およそ、世間一般の人がイメージするクリスチャン像とはかけ離れた者であることを自分の中に見ている・・そういう人です。そしてあの偉大な人たちも、例外ではないのです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた心の実態」を人一倍知った人たちなのです。要するに、神の前に完全に降参した人たち・・。これがあの偉人たちの本当の姿なのです。自分に降参して、神に完全に明け渡した人、、だからこそあの偉大な業を行うことが出来た・・。それは絶え間ない努力や修行や行いによって自分を高めてきたのではなく、良いものが何ひとつないような自分のために与えられた「救い」を受け取ったから出来たのです。これがクリスチャンの本質です。この救いとはあの十字架にかかって激しい苦しみの中で死んで、そして三日の後によみがえったイエス・キリスト、その方ご自身のことです。「バカ、死ね!」と言われるどうしようもない人間。まさに自分がそれであると知ったときに、本当に死んでよみがえったイエス・キリストがそのまま救いとなる・・。これがクリスチャンのスタートラインです。この救いにこそ人に大きな偉業をなさしめる力があるのです。偉業と言ってもそれは歴史的な偉人であるか、全くの無名な存在であるかには関係ありません。刺青悶々の人が回心して牧師になるというケースは結構ありますが、これなどはとてもわかりやすい例です。
世の中の人たちが全く知らないのは、実にこの点です。どうしようもない人間は、日々、神から与えられたまことの救い、十字架にかかられて死んでよみがえられたイエス・キリストを見上げ、そのような者に与えられた計り知れない神の恵みと愛とを思い知りつつ歩む。これが「クリスチャン」の歩みなのです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあってそれが出来ているのでは全くないことを知っているから。でも勿論クリスチャンになった人が一辺に「聖人」になるわけではなく、自分のその古い性質と戦いながら「キリストの形」に変えられていくので、あれでクリスチャンなの?と言われることはいくらでもあります。
十字架・・不思議です。世界中でこの十字架を見ることができるのですが、その意味を知っている人はあまりいないんですね。少なくとも日本には百人にひとりもいない・・ということになります。
クリスチャン・・それは神の前に降参した人・・なんです。そもそも神とは人が作ったものでしょう・・と言っているのが世の人たちです。それが、神を神とした人・・これがクリスチャンなのです。神とは天地万物を創られ、人を創られ、その愛をもって永遠を計画しておられる、人の知恵、知識、理解力では到底カバーすることの出来ない全能者という存在です。この神を信じると言うこと・・これがまさに奇跡の始まりなんですね。
God Bless You !