
しばらく文章の修正のためにこのページを閉じていました。
改めてアップさせていただきます。
「罪人だと言われるとどうも・・」
5月の二週間のTRIO'のライブツアーで「市原さんはクリスチャンですか?」と、何度か聞かれました。そういう方々とお話をして僕は、多くの人はキリスト教の「本当のところ」を聞きたいという気持ちが少なからずあるんだな感じました。このキリスト教談義もそういう思いから始めたわけです。
しかしキリスト教の話を聞こうとすると決まってあなたは罪人(つみびと)だと言われる。そしてその時点でもう何も聞きたくなくなってしまう。だから話す側もそれを恐れてか、あまりそういうことは言わないで「神はあなたを愛してますよ。」と言って、それ以上何も言えなかったりする。そうするとこれを受け取る側はかなり自分に都合の良いように受け取ることになるんですね。だいたい愛していると言われると、私のことが好きなんだと思う。確かに神は大好きなどというレベル以上に私たちすべての者を愛している。自分の子なのだから。ところがその子が家出をしてしまって、あんたなんか親じゃないよと言っているんですね。父なる神は愛する子を喜んでいるのではなくて、その子が遠くに行ってしまって悲しんでいるんです。「神はあなたを愛している」という言葉の中にはそういう意味が含まれているんですね。
ここに「罪人」の意味を知る鍵があります。犯罪者は確かに罪人です。でも聖書にはすべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・(ローマ人への手紙3:23) と、すべての人が神から称賛されるような存在ではないと、きっぱり言い切っています。例えばマザーテレサだって例外ではないわけです。正確に言うと「例外ではなかった」。先日TRIO’のライブが終了したあとに、クリスチャンですか・・と聞かれたのでいろいろ話を始めました。その時に罪の話をしていて、「犯罪者だったら分かりやすいのですが、普通の善良な市民だとそれが分かりにくいんですよ」・・と話したんです。そうしたら、そんなことはない、自分が良いなどとはまったく思っていないと言うのです。
何か感動的な話を聞いたときに「心が洗われました」と言う人がいますよね。あれは紛れもなく、自分の心は洗われる必要があるのだということを告白しているわけです。これはいったいどういうことなんでしょうか。自分の心が明るい、聖い、喜びに満たされているわけではなくて、苦いもので満ちていることが日常のことだと暗に言っているようです。
聖書の最初の方に、アダムと禁断の実の話が出てきます。聖書の基本的な立場はこうです。神と正常な関係にある者は祝福、平安、喜び、そして完全に悪からの守りの中に置かれる。ところがアダムはそれを返上してしまったというのがあのエデンの園での出来事です。神と共に生き、その祝福の中で神を喜びながら生きるために神がアダムに命じたことはひとつでした。それは園の中央にあるリンゴの木・・ではなくて「善悪の知識の実」だけは取って食べてはならない・・というものでした。これを食べるとき、あなたは死ぬ・・神はそう言われたのです。ところが妻エバは悪魔にそそのかされて食べてしまう。そしてアダムも、妻が食べるのを制することもしないで自分も食べてしまうんですね。「必ず死ぬ」とは重大な情報でした。にもかかわらず神に背いたアダム。この時アダムは自分が享受していた神と共に生きる喜びの価値をまったく分かっていなかったのかもしれません。神が必ず死ぬと言われたことばの通り、善悪の知識の実を食べた瞬間に死んだのはこの神との関係だったんですね。(私たちはそれを霊的な死と言います) それこそが真のいのちでした。そしてアダムとエバは肉体的には死なず、善と悪を認識するようになった。善と悪を知る前は、アダムはもっぱら善の中に生き、悪を意識することさえなかった。それなのに善悪の知識の実を食べたアダムは、善悪を知った自分が悪を選んでしまうような者になっていることを目の当たりにするんです。それは、自分が神のことばに背きながら、その責任をエバに転嫁し、挙げ句の果てに自分のそばにエバを置いた神にのせいにまでするんです。エバはと言えば、アダムからこの実を食べてはいけないことを教わっていたのだから責任は自分にあるのに、悪魔に責任転嫁をしている。アダムとエバは今まで全く必要のなかった自己保身をする人間になっていました。このときからアダムとエバは、神の守りの御手の中に平安に生きるという限りなく大きな恵みから、自分を守ろうとするがゆえにさらに罪を重ねる「罪人」として、恐れ、不安、戦いの中で生きる道を歩み始めることになるんです。
エバは「善悪を知れば神のようになる」という悪魔の声を受け取ってしまった結果、それがいかにも好ましいことと思えて食べてしまう。悪魔のささやきの一番のツボは「神のようになる」というところだったのではないでしょうか。人を造られたまことの神を絶対に認めようとしないのが罪人です。そしてもともと神の管轄である善悪の領域に立ち入り、神の座から神を追い出し、そこに自分が着こうとする。これが罪人の深い所にある願望なのではないでしょうか。「オレが神だ」と言う人・・結構います。どういうつもりで言っているのか、自分でも分かっていないのではないかと思うのですが、それは罪人の本質を自ら語っている姿に他なりません。そしてこの罪人の基本の姿は「最初の人」アダムからず~っと私たちに至るまでそうなんだと聖書は言っているわけです。
アダム以来、世界の歴史は善悪を知りながら悪を選んでしまう哀れな人間の歴史だと言って良いのではないでしょうか。アダムの子どもたちは、早速兄弟同士で血を流し、人殺しをします。しかも「嫉妬」「自分が認められない」とかいうことが原因で人を殺すんです。これは今の私たちの姿そのものではないでしょうか。
———————————————————————
「神」ということばをずっと使っていますが、神と言ってもそこら辺の神ではなくて、天地万物を創って、自分をも造って、いのちはその方の手の中にある・・そういう存在であり、又世の始めから終わりまでを一つの計画のもとに、その半分はすでに実行し、そしてこのあとに来る終わりの時までをもその手の中に治めておられる存在・・そういう全知全能の神です。
聖書は創造の初めからこの世の終わりまでのことが1500年あまりの間に神の霊感によって書かれた66の書物によって構成されています。これらの著者のほとんどは師弟関係などのつながりはありません。さらにこれらの著者は創造の有様もこの世の終わりも勿論自分の目では見たことがないのです。にもかかわらず神の立場と神に関して語られていることはとにかく始めから終わりまで一貫しています。
———————————————————————
結局罪人とは父なる神を神と認めず、神から遠く離れ、できれば神なしでやってみたいと思いつつ、自分の考えと自分の力で歩もうとしている人たちのことを言っているわけです。自分中心の尺度で歩む人間が罪を犯さないのはあり得ないことです。まして心の中の罪に至っては全員「アウト」ではないでしょうか。イエス・キリストは悪いことを思っただけでも罪だと言われました。あなたの心の中を映し出すモニター画面というのがあったとして、それを胸に掲げ、街に出ることができますか? 肉の思いは自分中心でそのためには人を殺すことまでするのです。パウロはそんな自分のことを・・
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ローマ人への手紙7:24-25
罪人とは哀れな私たちの姿そのままを言い表した言葉と言えるかもしれません。罪を犯す者は罪の奴隷となると書いてあります。ならば、罪人とは神から離れて自由にふるまおうとしながら、完全に不自由な罪の奴隷となってしまった存在だと言えます。
イエス・キリストとは救い主イエスという意味です。神はキリストを、この哀れな罪人が帰るべきまことの家である神のもとへと導くことのできる唯一の道、いのちとしてお遣わしになったというのです。だからパウロは自分のことを本当にみじめな者=罪人だと告白したその直後に「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と一足飛びに感謝する者へと変わるのです。クリスチャンはイエス・キリストによって神のもとに帰ることを「救われる」という言葉で表現しています。それは罪の中で滅び行くみじめな人間が、罪の奴隷から解放され、まことのいのちが与えられるということです。
では一体どうやってイエス・キリストによって救われるというのでしょうか。
イエス・キリストは「神のひとり子である神」と表現されています。聖書に記された神と神の計画については本当に私たちの理解をはるかに超えています。キリストはこの世が神によって創造される前から父なる神と共にいたと、ご自身で言っています。(これだけでも目眩がしてしまいます。) そして、神=まことのいのちから離れてしまった人々の救済のために、人のかたちをとって地上に来られたというのです。
人は誰でもイエス・キリストを救い主として信じれば、キリストご自身が私たちのいのちとなってくださるという奇跡に遭遇します。そしてそのいのちのうちには、あの十字架と復活があります。あの十字架は罪人である私たちのために肉の性質を釘付けにしたもので、そのキリストご自身を救い主として信じる者は十字架につけられたキリストと共に罪に死に、復活されたキリストと共に永遠のいのちに生きるようになるというのです。こうして初めて人は罪人という拘束状態から開放され、神が用意されているすべての祝福の中、神の家に帰る者とされるというのです。神はその際に「信じる」という行為だけを私たちを迎え入れるための条件としました。行いによってではなく、ただイエス・キリストを救い主として信じることだけが救いの道だというのです。罪人が行いを正して神の前に良しとされることなどあり得ません。無理な話です。そんな私たちに救いの道が開かれたというこのニュースを英語ではGood News、日本語では良きおとずれ=福音(ふくいん)と言います。それは、良い物を受けるのにまったくふさわしくない者であるにもかかわらず良い物を受けるという、大いなる恵みの話です。
聖書には全巻を通してこのことがはっきりと書いてあります。これは完全な作り話か真実かのどちらかであって、その中間というものはありません。聖書はただの道徳とか善意についての教えが書いてあるものではありません。お読みになれば、拾うか捨てるか、どちらかしかできない書物であることがおわかりになるでしょう。
こういうわけで、罪人だという指摘は、あなたを責めるためではなく、あなたが今立っているところの意味と、それに対して与えられている救いとを見るためにどうしても外せない部分なのです。罪人であることを認めることが神のもとに帰るための、罪の奴隷からの解放の絶対必要条件なのです。
あのキリストの激しい苦しみ、そしてひとり子を十字架につけることの父なる神の痛みと悲しみは「罪人=あなた」のためのものだった・・ここに愛がある。愛する者がいて喜んでいるのではなく、愛する者のためにいのちを差し出す・・。神はあなたを愛しているとは、このことだと聖書は言っています。これが聖書に書かれている最も重要なポイントなんですね。
神は愛です。 ヨハネの手紙第一 4章16節

5月のTRIO’/春のライブツアー。無事全行程終了いたしました。ご来場の皆様、応援を下さった皆様。ありがとうございました。TRIO’熟成という声も聞かれ、とても良い感触で帰って参りました。次回は9月に短期間のツアーをいたします。東京を中心に横浜、高崎、新潟方面へと、ただ今準備中です。
さて、6月7月・・市原、かなり忙しくなります。6月からは大野雄二「Yuji Ohno & Lupintic Six」が始動。そして、7月には黒鯛プロデュースの第14回公演。市原は役者をやります。この公演があると、不慣れな舞台稽古にかなり身も心も持って行かれます。その他にもいろいろなライブがありますので、さて、、どういうことになりますでしょうか。市原を温かい目で見守っていただけましたら幸いです。
ざっとご紹介いたしますと。
6/2(木)、自由が丘マルディグラ/大久保明ユニット。いろいろなミュージシャンに会えるライブです。
6/3(金)、赤坂B♭/林研一郎・Unit 9 Jazz Ensemble。毎年恒例となっています,6本の管によるジャズアンサンブルのグループです。
6/8(水)、大野雄二ニューバンド/Yuji Ohno & Lupintic Sixの1stアルバム「YEAH! YEAH!」発売。http://www.vap.co.jp/ohno/discography/vpcg-83511.html 市原からも購入出来ます。送料無料、振込手数料不要・・お得ですっ!
6/9(木)、塚山エリコオルガン4/feat.直居隆雄gt./調布・さくらんぼ。
6/10(金)、金城寛文5、お馴染み、菊川・な〜じゅです。
6/12(日)、いよいよ大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six。デビュー公演、東京はタワーホール船堀です。大変申し訳ありませんが、チケットは完売となりました。
6/16(木)、先日TRIO’ライブをした浜松町・サンミケーレにて、市原が集めたユニットでのライブ。サックスの小池修を中心に、ピアノとベースは若手、松本茜と大塚義将を迎えて、誰もが聞いたことのあるジャズ特集をやりたいと思っています。
6/17(金)、大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s。松本市民芸術館。女性三人の強力chorus「Fujikochan’s」を加えてのルパンコンサートです。
6/18(土)、同じく大野雄二/Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochan’s。上田市サントミューゼです。
6/19(日)、古野光昭4、蕨アワーデライト。アルトサックスの纐纈歩美/コウケツアユミを迎えてあとはギターの道下和彦と市原、古野のおじさまたちがサポートします。
6/21(火)、歌声ペトラ。毎月の新しい賛美歌を歌う会です。
6/25(土)、大野雄二、ピアノトリオ編成で香川県ユープラザ宇多津。ベースは上村信です。
6/26(日)、豊橋で、「突撃おたま苦楽部、CDリリース記念ライブ」。これが又面白いアルバムで、タイトル「Adult Toy Box」の通り、大人のおもちゃ箱状態。飽きの来ない選曲内容になっています。ピアノの納屋嘉彦を中心にリズムセクションが市原と岡沢章、岩瀬立飛と俵山昌之、そしてギターに伊丹雅博。パーカッションに仙道さおり、ボーカルが石塚まみ。さらにこれらが入り交じってのライブ。アルバムも是非お聴き下さい。市原へメールを頂ければお送り出来ます。TRIO’のCDと同じ要領で販売させていただいていますので、どうぞよろしくお願いいたします。このアルバムの評価をある方が書いて下さっています。こちらをご覧下さい。http://sakejazz.hamazo.tv/e6821518.html
7/7(木)、JCAA/日本作編曲家協会主催/タイムファイブ+まきみちる/品川ステラボール。これも毎年恒例となっています。
7/9(土)、Yuji Ohno & Lupintic Six/福岡県黒崎ひびしんホール。
7/12(火)、歌声ペトラ。
7/15(金)、直居隆雄トリオ、オルガンの河合代介さんとのトリオです。沼袋オルガンジャズ倶楽部
7/18(月,祝)、市原よしみのリトルミュージシャンコンサート。南大沢文化会館。
そしていよいよ、
7/28(木)〜31(日)、黒鯛プロデュース第14回公演。「テラバン」築地本願寺内プティストホール。こちら市原は役者です。チケット・・市原までお申し込み下さい。たくさん来てね。
http://prestage.info/2016/05/14/6362
と、こんな調子で、急に忙しくなる市原です。体と気力がついていくのか・・。みなさん、やさしくしてね・・・。
当ブログでの「ドラマー市原康のキリスト教談義」、第三回「罪人だと言われるとどうも・・」をアップいたしました。ご覧下さい。第一回は「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」。第二回は「熊本地震・・神は何をしているのか」です。
ライブ詳細はホームページ http://i-produce.net からライブ〜6-7月をご覧下さい。
ということで、6-7月も皆さまのお越しをお待ちしています。ドラマー市原康、Yuji Ohno & Lupintic Six、黒鯛プロデュース、そしてTRIO’。どうぞよろしくご贔屓のほど、よろしく御願い申し上げます。
罪人だと言われるとどうも・・2016.6
文章を修正した物を5/31日付で別にアップしました。
ご覧下さい。
文章を修正した物を5/31日付で別にアップしました。
ご覧下さい。

自分はクリスチャンですと言うと、よくこんな質問を受けます。・・神が愛の神なら何故戦争があるのか飢饉があるのか・・など、神は人の不幸を見ていながらなぜ何もしないのか・・というのです。
ちょっと話は逸れますが、今の世において戦争も飢饉もそれは人災だという話を聞いたことがあります。近代の戦争はとにかくふたつの国や民族が互いに緊張状態にあることを望む一団、すなわち両者に武器を売って緊張を煽り、戦争になればその儲けが倍増する軍産と言われる一団と、それを後押しして利益を分かち合おうという人々によって引き起こされているのだというのです。金儲けのために戦争を起こさせようとする人々が巨大資本とくっついているとしたら、戦争がなくなる日など、夢物語にすぎないということになります。難民、あの人々の姿は弱者の代表で、莫大な利益をむさぼるそのような人々の犠牲になっている姿そのものです。飢饉も、世界の食料を人口で割れば、食料は十分にあるという話を聞いたことがあります。食料が十分に回らない何らかの理由がいつも紛争だったり搾取だったりする。これらはみな、ある一部の人たちの利益追求の結果として起きている「無くても良いはずのわざわい」で、それが世界中至る所で見られるというのが現実のようです。今、世界はほんの数%の人が、それ以外の全ての人の財産と同じだけの富を握っているのだそうです。もしその人たちがその財産を貧しい人たちや平和のために用いようとするなら世界は激変するでしょうが、そうではなくて戦争をさせたりすることで、さらに富を貯め込もうとするなら、世界は真っ暗でしょう。いや、どうもそれが今の世界の現実であるようです。日本人はその辺のところには驚くほど無関心と言うか、報道もされないので「世界の流れ」などについてはおよそ興味がないかのようです。今の世界の状況は人間の強欲の形がますます目に見えるように現れてきていると言っても良いのではないでしょうか。聖書には人は生まれながらの罪人だと書いてあります。基本的に自分中心なのであって、その人間が思うままに世界を支配している。そしてその欲はとどまるところを知らない・・これが今の世界の姿です。(聖書は支配している人たちだけが罪人だと言っているわけではなく、すべての人は・・と言っています。世界情勢から家族の関係まで、この罪の性質の支配下にあるというわけです。)
では、全ての悲惨な事象が人の罪から発しているのかというと、勿論そうではなく自然災害などもあるわけです。それらも含め、今世界中の悲惨な状況の上に神がいるというなら、神はどうしてそれを許しているのか・・というのが世の人々の受け止め方なのではないでしょうか。神が全能なら悪人を罰し、自然災害だって全能の力によってコントロールすれば良いではないかというわけです。
ところで私たちクリスチャンは神が全能であることを信じています。だから、神は思いのままに悪人を罰することも出来るし、自然災害だって、コントロールすることが出来ると信じています。だいたい天地万物=宇宙とその中のすべてのものを創られたのだったら、災害が起こらないようにすることなど、朝飯前なわけです。だとすると・・。そうです。神はこれらのことが起こっているのを承知しているということになります。そんな神なら要らないよ・・という声が聞こえてきそうですね。
もし私たちが要る要らない、又いるいないで、神のことを決められるのだとしたら、それはもはや「神」ではなく、人によって考え出された「人にとって都合の良い存在」でしかありません。人間の手によるのであれば、それはすでに神ではないはずなのですが、人々が持っている「神」のイメージはどうもそういうもののようです。要するに、私たちにはもともと全知全能の神を神として認めるという発想がない。だから世の中の人は「神」という言葉を使っていながら、本当に神だとは微塵も思っていないので、神の話をしても全く通じ合わなかったりするわけです。
クリスチャンは神のことを「父なる神様」とか、もっと親しみをこめて「天のお父さん」と言ったりします。神が私たちを造られたのならば、神こそがまことの父であり、本来親子関係で、父の家に住むのが当然である存在です。だからクリスチャンは帰るべき家に帰ったという感覚を持っています。ところが世の中の人は神に向かって「お前なんか親でも何でもないし、知らないよ」と言って背を向けているわけです。神が私たちの本当の父だとしたら、それはそれは悲しまれるのではないでしょうか。このようにクリスチャンというのは、世の中の人とは根本的に違う神概念を持っています。というより、本当に神を神だと思っているのです。神は人と同等ではない。クリスチャンは創造者である神と被造物である人という関係を認めた人たちなのです。
それに関連して、死についてもクリスチャンは世の中の人たちとは違う概念を持っています。簡単に言ってしまえば、肉体の死はあるひとつの通過点であり、そのあとに世の終わりの時があって、その時には永遠の滅びか永遠のいのちのどちらかがあるというのです。そうなってくると、この世における肉体の死に対しての見方は大幅に変わってきます。その死に方が病気だろうと、災害だろうと、老衰だろうと・・。そして、悪事を尽くしても長生きする人がいれば、善人でも悲惨な最期を遂げる人もいる。また幼いときにいのちを失う子どももいる。こういうことに対しての受け止め方も当然見方が変わってくるわけです。簡単に言ってしまうと、死に方やその人の地上での生涯の幸不幸という事がらは、その先にある永遠への行き先を決めるものではない・・。クリスチャンはそういうところに立っている人たちです。
旧約聖書にはイエス・キリストがメシヤ=救い主として来られることが書いてあります。イエス・キリストは今から二千年前の新約聖書の時代に人の子として登場しますが、旧約聖書の中の書物はその時代に最も近いものでも紀元前400年に書かれています。キリストが人の子として生まれる400年前です。さらに旧約聖書の中でキリストの十字架の様子が最も克明に書かれているのがイザヤ書という預言書ですが、これなどは700年も前の書物です。そして聖書には世の終わりのことが旧約聖書にも新約聖書にも書かれていますが、これは言うまでもなく、私たちが生きている今の世よりも後の話です。世の終わりに際して起きることの順番は色々な見解の相違があるようなので細かいことには触れませんが、世の終わりの前兆として確実に起きることとして、偽キリストの登場、戦争、民族や国同士の対立、方々に起きる飢饉と地震。クリスチャンに対する迫害などがあるとキリストは言われました。私は今から30年前に、民族が民族に敵対すると言われてもまるでピンと来ませんでした。今は民族とかいう時代ではなく、国と国の時代なのだ。やはり昔に書かれた書物だなと思っていました。ところが1991年にソビエト連邦が崩壊してからというもの、民族同士の対立は日常茶飯事のようになっています。それは予想だにしなかったことです。今の世界の流れと、聖書にある「終わりのとき」の流れと食い違う点を探す方が難しいくらいです。飢饉も地震も戦争も、収まっているものなどひとつもありません。イエス・キリストは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。・・マルコの福音書1:15」と言われました。悔い改めよとは、まことの神を本当に認めよ、そして神に立ち返れ、ということです。神は今までずっと、人々のしてきたことを見てこられた。そして神は御子イエス・キリストを遣わし、私たちの罪の身代わりの贖いとして十字架につけ、これを見よと言われたのです。それまでイスラエルという特定の民族と神との関係の中で、民は結局神に従うことが出来ず、神を忘れ、祝福ではなく呪いを招くことを繰り返し、最後にはエルサレムの神殿は破壊され、イスラエルは完全に崩壊してしまうのですが、その40年前にキリストはこの贖いの手続きを完成させたというのです。しかも、それはイスラエルという特定の民のためではなく、世界のすべての国民のためだと神は使徒たちに教えられました。神とイスラエルとの契約はイエス・キリストの十字架以降、全世界の民との契約とされたのです。キリストは十字架上での最後の言葉として「完了した」と言われました。これはもう、神の前にいけにえの動物のささげものをして神との関係を保つという古い契約を終わらせ、新しい契約が完了したことの宣言です。キリストご自身が神の前の永遠のなだめの供え物となられたのです。そして、キリストは頭をたれて、霊をお渡しになり、葬られ、三日の後によみがえり、天に上られた。これが新しい契約の時代の始まりです。この神こそ、まことの神であり、世界中のすべての民の罪の赦しのために御子イエス・キリストにあの激しい苦しみを十字架の上で負わせられた・・ここに神の愛が形をとって現されたのだと聖書は言い切っています。神は愛です。でも、その愛は私たちが想像するようなところにではなく、「ここ=十字架の贖い」に神の愛が現されたのだというのです。
全知全能の神は世の初めからこの全てを見据え、終わりまでを計画された。それが余すところなく記されているのが聖書です。そんな大胆なことが書かれた書物がもし作り話ならうっちゃっておけば良いですが、そうでなかったらこれはとんでもない書物で、私たちに差し出された問題は二択・・「信じるか信じないか」ということになります。
今、熊本で被災した方々は本当に辛い毎日を送っておられることと思います。東北の被災者の方々も未だに元の生活を取り戻してはいません。神は何をしているのか・・。神が世の初めから決められたことは、滅びゆく魂のために御子イエス・キリストの、死とよみがえりのいのちそのままを私たちに与え、人々に神との関係の回復という死を超えた永遠の祝福を与えることでした。この愛の神が、今苦しみの中にいる熊本の人たちを愛していないわけがありません。神は涙を流しつつ、この最後の時を迎えようとされている・・。熊本だけでなく、大震災はいくつもあったし、これからも世界中でありそうです。また飢饉もあるし、戦争も止みそうにありません。今世界中の人が理不尽な死を迎えて亡くなっています。そしてそれはとどまることを知りません。悔い改めよ、悔い改めよ、神は生きておられる。神のところに永遠の命があり、全ての地上の困難、悲惨、苦しみからの解放と永遠の祝福があるのだと聖書は教えています。クリスチャンは生ける神の働きのためのしもべとして全ての社会生活の中で生きる者とされています。そして主なる神がこれほどまでに愛しておられるすべての人々にイエス・キリストこそが救いであることを伝えたいと願っています。だからクリスチャンは被災した方々にも愛をもって具体的な支援をし、そこに今も生きて働かれるイエス・キリストに人々が目を向けることを願って、神と人に仕えるわけです。
熊本地震、神は何をしているのか・・。神は天地万物を造られた当初からの人類救済のご計画を愛の中で確実に進められている・・。これが答なのだと思います。