
【信じることでしか出会えない神】
私の友人の科学者はこんなことをメールで書いてきました。前後は略してあります。
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これは市原に何度も伝えたかもしれないけれど、神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
そして、市原が言うとおり、神はあるかないかどちらかだ。
でも、仮に神があるとすると、神は偉大すぎて人間などからは推し量れないほど大きい存在だ。
三位一体という教義があり、市原の信仰がそれかどうかは知らない。
でも、僕はイエスが神と一体などとは思わない。
僕は曲がりなりにも科学に携わってきた人間で、疑って、疑って、疑って、それでも否定できないものだけが真理だと考えている。
ただし、科学で推し量れないようなことは無限にある。
宗教を持っている人はそれでもいい。
ただし、僕自身は、神がいることは、人から見れば不可知なことだと思っていて、神を信じたりしない。
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彼は(僕の目から見ればの話ですが)とにかく人やその他すべてのいのちに対して限りなく忠実に生きようとしている人で、僕が知る多くの人の中でもその徹底ぶりは稀有とも言えるような人物です。彼は神を全く信じようとしていないのですが、私が投げかけることばには忠実に応えようとしてくれています。上記の文の最後の行が特に印象的です。
・・僕自身は、神がいることは、人から見れば不可知なことだと思っていて・・
彼がいう通り神は不可知なんですね。なぜなら、これも彼が言っている言葉ですが、
・・仮に神があるとすると、神は偉大すぎて人間などからは推し量れないほど大きい存在だ。・・
同感です。神が創造者で人は被造物だったら人は神のことを「把握」できるというような立場には立てないですね。人の能力はまだまだ科学でも解明できていないところもあり、その奥深さは計り知れないものがあるそうですが、神がその私たちを造られたとなれば当然のこと、例え人がその能力を100%発揮したとしても、人という被造物がそれを造った神を把握するなどということは到底できないことです。これが神が完全なる創造者で人は完全なる被造物であるということの意味です。
神は研究あるいは探求によって認知できるような存在ではないのです。人間の能力の限りを尽くして理論的に説明できたとしても、それこそ「絵に描いた餅」程度にはわかるかもしれませんが、どうあがいても「わかる」ことはかなわない存在。これこそが天地万物をつくられた創造者なる神なんですね。
宇宙の大きさの話を聞くと、本当に目眩がしてきます。神が天地を作られたという記述からはどう見てもこの地を中心として宇宙があるというように受け取れますが、この地球の大きさと宇宙の大きさを比べたら、この地球のために宇宙が存在するなどとは到底ばかげた考えのようにしか思えません。そんなことを思うとき、僕はこんなことを考えるんですね。もし自分が神で、宇宙と地球、そして人をはじめとする全ての生き物を作る存在で、ある計画をもってこの天地の始めから終わりまでを計画したとしたら・・。人間の能力がどの程度まで宇宙の謎を解くことができるかも知っているわけで、それに合わせて宇宙の大きさはどのくらいにするかなと考えるでしょう。そして人間が探求して見出すであろう宇宙の実体よりもほんの少しだけ大きいものにするんじゃないかな・・と。現在宇宙に関する人間の知識は、その端までをも見ようとする勢いで解明が進んでいますね。でもまだ謎だらけ・・。人間を宇宙の中で生きる者とするにはこれほど大きな宇宙が必要なんだなと・・そんなことを時々思ったりします。これは全く私の考えで余談に過ぎませんが・・。
宇宙をつくったのが神でその同じ神が地球の上のさらにちっぽけな、一緒に住んでいてさえ忘れてしまうようなひとりひとりの「人」の存在を顧みられているというのは、これは理解を超えた、想像を超えた、人の想像力からすれば「あり得ない」世界です。
神の存在は私たちの想像力をはるかに超えています。そんな神を人が見出すことなどあり得ないことです。しかし聖書の中に面白いことばがあります。「人には出来ないことが、神には出来るのです。」ルカの福音書18章27節
人は自分の知恵では神を知りえないですが、神は人にご自身を現し、その存在を知らせること・・神が宇宙、地球、人を造られたのなら、神の側から人間にご自身を現すことは言うまでもなく可能なわけです。
ここが「信仰」という言葉を理解する上で大いに助けになるところです。人の知恵では分かりようがないのに神がそれを人に知らせる・・。先ほどの論法だとそれでも人は理解できないことになります。そこで神は人が神を知ることができるひとつのシステムを作られました。それが「信仰」です。その入口は「信じる」という行為。これも人間の知恵にとっては「想定外」ですね。頭や理屈で考えても「絵に描いた餅」。しかし信じた時、神は霊というレベルで人にご自身を現される。神がされることには驚かされるばかりです。因みに、この霊の領域というのは科学がほとんど手をつけられないでいる領域ですね。なんと、神を信じた者はこの霊の領域において神との交流を始めるんですね。これが「祈り」です。神との交流を始めた人は、神から語られたり神に語ったりするようになります。
旧約聖書の時代から神は人に「わたしが神である」と言い続けてきました。それに対して人の側では、それを信じたり拒否したりしてきたわけです。それは今でも変わりません。神は人に直接語ったり、また預言者(神のことばを預かって私たちに知らせる者。未来を予告する予言者ではない)を通して語ったりしてきました。さらに御子イエス・キリストを地上に送り、霊であり目には見えない神が人となり、神がどのようなお方なのかを示され、御子が十字架につけられて死んで三日ののちによみがえり、天にのぼり神の右に座しておられるということの意味を聖霊によって人々に教え、それから全世界に神からのメッセージが宣べ伝えられていきました。そして現在の私たちにはそれらのことを記した書物「聖書」によって、あるいは神が選ばれた器(宣教師とか牧師)によって私たちに語られているわけです。こうして神を受け入れなければ神との接点を持つことはできないが、神を信じる者の内に神はご自身を現す・・。そういうシステムを作られたんですね。
話はちょっと飛びますが、パウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって・・」ローマ人への手紙1章20節
と言っています。僕は随分以前にこの箇所を読んだとき、その意味が皆目分かりませんでした。神の永遠の力と神性は・・被造物によって・・はっきり認められる、というのです。ええっ?そこらへんのものを見ただけで神の存在を認める人なんかいないよ、と思っていました。でも今はまことにその通りだと思うようになりました。先日外を歩いていたらトンボが家の壁で行き場を失ってパタパタやっていました。それを横目に見ながら通り過ぎ様に頭に浮かんだことは。こんな透き通った2枚づつの羽根で空中を自由自在に飛べるものなど、どうして偶然の積み重ねでできるわけがあろうか・・。
よくこんな話をするのですが、目玉と視神経とそこから情報を受け取って映像の意味を把握する脳の機能。この三つのどの部位が最初に出来たと思いますか? よく考えるとこの三つはどの部位にしろ、単独で存在する理由などはどこにもないわけで、この三つが同時に立ち上がるのでなくて、ひとつひとつが長い年月をかけて進化によってできたとするなら、無意味なものが次の進化を待って何億年も存在するということになります。言うまでもありませんが、そんなことはあり得ないことです。進化論のばかばかしさに気がつかない方がおかしいでしょうと今では思うのです。この三つは同時に出来たとしか言いようのない存在です。すなわち、これを作った設計者が存在したという方が妥当だと考える方が僕は科学的だと思うのです。このことをパウロは「被造物によってはっきり認められる」と言っているわけです。余談ですが、神はデザインの天才ですね。花や虫や微生物ひとつをとっても、そのデザインたるや腰を抜かすほど驚異的です。しかもユーモアまであるというから「完全に参りました!」です。でもこの「科学的」な話でさえ、信仰を持って神を受け入れた人でなければ認めることが出来ないようです。
大体神が人を造っておいて、そのことを人に知らせないのなら創造の意味もピンと来ません。せっかく天地と人やあらゆる生き物をつくっておきながら、生き物、特に「ご自身の形に造られた人間」が自分を造られた神の存在もわからずに、なぜ生きているのかもわからずに、死の意味もわからずに、人類の運命がどうなるかもわからずに、それがいつしか滅びるのか、あるいは果てしなく続くのかもわからずにいるのをただ見ているだけで、その行く手に全く介入しないのだとしたら、神の「人格」というか「神格」を疑わなくてはなりません。神はただの気まぐれで天地万物と生き物を作ったのではない。創造には意味があるのです。
聖書はなんと言っているかというと、神が天地創造の初めから現在に至るまでの過去、そして未来の「世の終わり」とその後の新天新地に至るまで、神が人にご自身を現され、また現されるのみならず、この苦難の世を経て、最後の最後に生きている人と死んだ人との裁きを経て天の御国を作るというところまで、神の御手の中ですべてが進められるのだと宣言しています。
信じることでしか出会えない神というタイトルでこんな話になってしまいました。では「信じる」そして「神と出会う」ことに一体どんな意味があるのでしょう。そのことについてはキリスト教談義の3「罪人だと言われるとどうも・・」.をお読みになってみてください。私たちには帰るべき家があるのです。私たちはまことの父の家から出てしまった家出人=放蕩息子だという話です。