
私が信仰を持ったのは20代の終わり。自分は明らかに変わったのですが、それをどう説明して良いのかもわからず、トラクトと言われる小さな伝道用の印刷物や、印象に残った本などを買って、片っ端からミュージシャンたちに配ったりしていました。おそらく300人以上の人に配ったのではないかと思います。タバコもいつの間にかやめ、酒もあまり飲まなくなっていました。そんな時に演奏旅行などで何日かを仲間と一緒に過ごすと、市原が何をして何をしないかがわかってくるわけです。そして、することとしないこととが自分たちとは違うということがわかって来ます。それで良く言われたものです。「市原は酒も女もやらないで、一体何が楽しいんだ?」と。でも私はうまく説明することができませんでした。<(注)現在、お酒を飲むことはあります。>
私が信仰を持つ前と後で、何が変わったのかを改めて考えますと、あの頃はひどく苦い思いにさいなまれていましたから、そこから解放されたということが先ず言えます。イエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れた時から、それまでの自分を支配していた何かが消え、平安と光という言葉にふさわしい「いのち」のようなものをいただいたという感覚です。それ以来私の内にはずっとそのいのちが宿り、そのいのちは常に私に対し、神が喜ばれる思いの方向へと私を導き続けて来ました。その思いとは、愛とそれに伴う喜び、平安、寛容といった、聖書の中に記されている聖霊による思いと一致するものです。
ところが・・です。自分が神の喜ばれる方向にそのまま変わって行けば良いのですが、なかなかそれが苦戦をしておりまして・・。そこで私が最近になって見えるようになって来たこと。それをここに書いてみようと思いました。
40年にわたる信仰生活の間、「わたしは決してあなたを見捨てず、見離さない」と言われる主は、私がイエス・キリストを主として自分の心に迎え入れて以来、一日たりとも私を離れて行かれることはありませんでした。途中十年間、私は主から逃げていたことがありますが、その時でさえ主は私から離れて行かれたことはありませんでした。主を悲しませているこんな者を、こんなにも長い期間・・約束通り・・忍耐と愛をもって寄り添っていてくださる主。それはそれは驚くべき存在でした。主という言葉を使うということは、私はこの方に仕えます、あるいは従いますということであり、その究極の関係は、「主よ、あなたを愛します」と言える関係であることが聖書の中では示されています。そして主なるイエス・キリストは、私が主を愛するその愛をはるかに超えた愛をもって私を.そしてあなたを愛してくださっている。そのイエス・キリストこそまことのいのちであって、そのことが地の果てにまで伝わるように示されたのが、あの十字架に掛けられ、死んでよみがえられたイエス様の姿だというわけです。それは、神を認めず基本が自分中心である私、何をしても自分の栄光を求めることしかしない、そんな私が死んで、そのような哀れな性質を釘づけにしてしまい、神の子として与えられる新たないのち、永遠のいのちをいただいて立つ者と変えられるために、キリストが救いそのもの、すなわち十字架の死とよみがえりのいのちそのものとなってくださったというわけです。私の罪を負い、病を担い、苦しみを負い、人の嘲りや不当な扱いを受けながら死んで、3日の後によみがえられた主。この主が自分の中に新しいいのちとして、また一点の暗いところもない神の御心を指し示し続けていてくださる存在として、私の中に生きておられる・・そういう者に変えられた。これが私の中身であるわけです。全てを言い尽くすことはとてもできませんが・・。
ところが、自分が今書いたようなクリスチャンであると同時に、自分の中にそのことに逆らおうとする性質・・正確に言うとキリストに出会う前の自分という、まことに自分中心で、恐れたり怒ったり苦い思いで一杯になったり、常に自分を弁護し、自分に栄光を帰するような考えばかりがグルグルと頭の中でいっぱいになっていたり・・そういう性質が自分の中に未だに基本的に存在していることがわかって来たんですね。それじゃあ、救われたとか言いながらキリストが共にいてくださる者というイメージとは程遠い、ただの人じゃないですかと言われたら、うんその通りと言わざるを得ない自分がいる。じゃあキリストの救いとはなんなのと問われた時に、そんな者であるにもかかわらず、神の大きな恵みによって永遠のいのちが与えられているんです。・・と、それはその通りなのですが、それでは今生かされているこの世においては昔と変わるところのない自分中心の生き方を続けるのか・・という話になるわけです。
でもそこで、もうひとつ見えてきたことがあるんです。それはそんな自分の中にキリストが厳然と生きていてくださり、私という「土の器」を通してご自身を現そうとしておられるということ。その通りなのだとしたら、これほど栄光に富んだことがほかにあるでしょうか。なのに、あろうことか、古い自分の性質みたいなものが、一生懸命になって自分の内におられるキリストに覆いをかけてしまい、相変わらず自分中心のモードで歩んでしまうんです。そんな私のままだったら、宝を土の中に隠して、そこから何も産まない生涯を送ることになってしまいます。宝が宝としての意味をなさない状態です。まさに「宝の持ち腐れ」というやつです。
クリスチャンとは、主が内にとどまっていて、いつも主が語りかけてくださっている。そういう状態にある者です。優しく語りかけられることもあれば、強く語られることもある。またある時にはガツ~んとやられることもあるようです。でもそれは常に、先ほど書いた堅固な城壁のように残っている古い自分の性質が少しずつ砕かれるという方向への促しであるようです。私は今、「静まりなさい」ということをいつも主から語られているような気がしています。城壁のような堅固な古い性質はいくら砕かれても、やはりまだまだ残っている。勿論自分で自分を砕くことなど出来ないことです。静まること・・それは暴れ回る古い性質のギヤーをストンとニュートラルに入れてしまうことに似ているかもしれません。古い性質に振り回されて走っていた車のギアーが、突然ニュートラル状態になってしまうんです。そのとき車は暴走するエンジンの影響から解放されるんですね。エンジン=古い自分がいくら回転を上げても、車の動きとは関係がなくなるんです。これが「静まる」という言葉のイメージです。そしてその時、気がつくとその車にはイエス様が乗っているんです。うまく表現出来ませんが、そこでイエス様にギヤーを入れ替えるのかというと、そうではなく、ギヤーはすでに入っているんです。イエス・キリストというモードに・・。私はそのことに気付かされました。私が静まる時、共におられる主が私の主としてそこに立たれるのだということに・・。みなさん、考えてみてください。あの新約聖書の時代のように、そこにイエス様が立たれたら。そりゃもう、自分の中にこもったりしている場合ではないでしょう。私が見えて来たことというのは、私たちクリスチャンはイエス様にそこに立っていただくためにこの地上に生かされているのだということなんですね。でも誤解しないでください。このことを没個性だと言って批判の材料にする向きもありますが、とんでもない。イエス様は、あの古い性質から解放された、神によって作られた本来の100人100色のひとりひとりが、喜びはばたき、愛をおし流していくことを通してその御姿を現されるのです。
騒いだり恐れたり、相変わらず人を計り見たりと、心と頭がグルグル回っている私に主はいつも「静まりなさい」と語られます。「あなたの本当のいのちはわたしなのだ」と。あなたは先ず、騒いだり恐れたりして、いつもわたしに覆いをかけていることを知りなさい・・と。あなたはあなたというひとりの人としてわたしの栄光を輝かせ、わたしを世の人々に証しし、その栄光を神に帰するというのがあなたの、この地上での役割なのだ・・と。何というエキサイティングな話でしょうか。私たちクリスチャンは無力な自分の内にイエス・キリスト、すなわち「愛という名のいのち」をいただいているのです。自分というものはニュートラルにして、イエス・キリストに立っていただくとき、私たちは、世の光、地の塩、そして心の底から生ける水の川が流れ出る者として、しかもひとりひとりがそれぞれの形をもって輝くのではないでしょうか。あなたがどこにいても何をする人であっても、また何をした人であっても、富んでいても貧しくても、能力があってもなくても、また頑固であっても短気であっても・・。
以下はこのことを想起させる聖書のことばです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
・・新約聖書/ヨハネによる福音書 12章 24節
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。 ・・旧約聖書/ゼカリヤ書 4章 6節
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 4章 7節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 12章 9節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
・・新約聖書/ガラテヤ人への手紙 2章 20節
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
・・新約聖書/コリント人への手紙 第二 3章 17.18節
土の器の中にいただいているこの宝を、暗黒が支配するこの世に輝かせるのは、私たちの能力によるのではない。資格の問題ではない。信仰の年数の問題ではない。ひとたびキリストを自分の中に迎えた人は、たとえそれを忘れても、キリストが「決してあなたを見離さず、見捨てない」と言われた通り、地上で見出すことのできる最高の宝であり永遠のいのちであるイエス・キリストを自分の中に入れている人となっているのです。イエス様は単純にこう言われました。「あなたがたは世の光です」と。もしその光に覆いをかけているなら、ただギアーをニュートラルに入れてみませんか。死の影の谷を歩く時も、谷底に転落した時も、希望を失った時も、落胆の中にある時も、問題に直面した時、重大な責任を負った時、喜ぶ時、また幸せを噛み締めている時も・・、ただ静まって共におられる主を喜び、主の御名をほめたたえようではありませんか。私たちが世の本当の光としての役割を果たす者となるために。
・・と、ここまで書いて、あれっ? テーマは「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間なのか」でしたね。クリスチャンとは、こんな姿で、無力な自分を覚えるにもかかわらず、世の中で光を輝かせるという、特別な使命を帯びた人。だからといって何か偉いところがあるかというと、そんなものは全くなく、ただ、神の愛とあわれみに気付かされ、「行いによってではなく、信仰によって」その役割を担う者とされた人。それは自分の罪を神の前に認めるという、罪人の本質=神を認めない の部分が砕かれ、神の御前にひざまずいた人。そして、キリストがそのために激しい苦しみを伴う十字架にかかられると言うことの中に、神の愛を見出しあ、神を愛し、人を愛する者に変えられた人・・。勿論言い尽くすことは出来ませんが、あなたが今までクリスチャンに対して持っておられたイメージは、これで少しなりとも変わったのではないでしょうか。
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