(これは第一回「あんなことした人がどうしてクリスチャンなの?」の改訂版です)

世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治がこういう人だったのではありません。宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがあったと言われています。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当され、小さな愛娘がヤソの子と言われ、腹を蹴られたのが元で天に送り、小学校の教師も辞めさせられる。それでも彼は新聞配達をしながら配る一軒一軒のために足を止めて祈ったという。1926年に彼は内村鑑三に招かれて東京に引っ越すことになる。花巻の地を離れるその日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一 般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたという 。・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの偉業を成し遂げたクリスチャン・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っているようです。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージと違っていると「クリスチャンのくせに」などという厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。要するにクリスチャンになるにはとにかく敷居が高いという感覚を持っているようなのです。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。だから、あんな人がどうしてクリスチャンなの・・という見方になる。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。しかしこの人たちには聖書のメッセージの本質、即ち神の愛の本質が全く届いていないと私は感じるのです。それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた性質が自分の中にあることに気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。先に挙げた斉藤宗次郎ほかの人たちも例外ではないはずです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた自分の心の実態」を知って愕然とするという経験の持ち主である筈です。要するに、神の前に出せるものなど何もないことを知り神の聖さの前に完全に降参した人たち、それがあの偉人たちの本当の姿なのです。だから神が用意された救いをそのままそっくり受け取った。その結果があの偉業なのです。あの偉業はあの偉人たちのわざではなく、神のわざなのです。絶え間ない努力や修行や強固な意志によって自分を高めてきたから出来たのではなく、何もない自分を愛なる神様に明け渡したからこそ神の力と愛と栄光を現す器とされたのです。だからそれができる。父なる神はこのどうしようもない人間=すなわちすべての人 をもう一度みもとに迎えるために、御子イエス・キリストを地上に送られ、そして十字架の死と復活という大きなしるしを示されたのです。それはすべての人が、キリストと共に死に、復活して新しく生まれ変わるためです。どうやって? それはキリストを信じて心にお迎えすることで実現します。ほかに方法はないのです。自分がどうしようもない人間だとわかったからそれができる。人の強さや能力はこのこととは無関係なのです。これは神の恵みを受け取る必要条件なのです。
・・ここにクリスチャンの本質があるのです。
人に大きな偉業をなさしめる力、それは人の努力や精進によるのではなくて、ただ自分がどうしようもないヤツだと思い知って、神にすべてを明け渡した者の上に働く生ける神の力なのです。キリストの死と復活があなたの内で重なるのです。
これが、世の中の人たちが全く知らない、想像もしていないポイントです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあって神に認められているのではないことを心底知っているのです。
さらにクリスチャンになった人は即座に「聖人」になるわけではなく、そのような自分の古い性質と戦いながら「キリストの形」に徐々に変えられていくというステップを踏みつつ信仰生活を続けます。だから当然、あれでもクリスチャンなの?と言われることはいくらでもある。けれどその人は正真正銘のクリスチャン、それは神の赦しの中で新しいいのちに導かれて生きる者であるわけです。本当はそんな大きな恵みを受けるのにはまったく相応しくない者なのです。そんな者に与えられた・・その恵みを驚き、喜び、感謝しつつ歩む者・・それがクリスチャンなのです。
「あんな人が、どうしてクリスチャンなの?」・・それは、神が「罪人のためにみ子をつかわされた」からです。それが神の愛であるということの意味です。
“イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」”
マタイの福音書 9章10~13節
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ドラマー市原康ライブインフォメーション 過去の記録
その1「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」2016/4
その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5
その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5
その4「信じることでしか出会えない神」2016/6
その5「悪質メール撃退グッズ」2016/7
その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9
その7「助けを求める心」2016/11
その8「クリスマス・・それは」2016/12
その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1
その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4
その11「聖書の目的」2017/5
その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11

世の中の人は、「クリスチャン」に対して、おおむね良い印象を持っているようです。中にはひどい人もいるけどね・・と。それは自分を犠牲にして貧しい人や弱い人のために生涯、時間を捧げて死んでいく人が歴史上も数多くいるからでしょうか。マザー・テレサのように知らない人はいないくらい有名な人から、人知れずそのような生涯を送り、人知れずこの世を去って行く人も数えきれないほど多くいるのではないかと思います。宮沢賢治の有名な「アメニモマケズ」という詩があります。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
宮沢賢治がこういう人だったのではありません。宮沢賢治は「そういうものに、わたしはなりたい」と言ったのです。この「そういう者」には実在のモデルがあったと言われています。1887年に岩手県花巻でお寺の三男に産まれた斉藤宗次郎という人物。この人は内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになりクリスチャンになりました。ヤソ、国賊と言われ、石を投げられ、親にも勘当され、小さな愛娘がヤソの子と言われ、腹を蹴られたのが元で天に送り、小学校の教師も辞めさせられる。それでも彼は新聞配達をしながら配る一軒一軒のために足を止めて祈ったという。1926年に彼は内村鑑三に招かれて東京に引っ越すことになる。花巻の地を離れるその日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一 般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたという 。・・これがこの宮沢賢治の詩の中に登場する人物「こういうもの」です。現代の人からは名前すら知られていない人でも多くの偉業を成し遂げたクリスチャン・・。それは歴史の中で数えきれないほどいるようです。日本人で誰もが知っているような人物は他にもいないかなとちょっと調べただけで、野口英世、滝廉太郎、杉原千畝、賀川豊彦、、、おもしろそうな人がたくさんいそうです。
さて、本題はここからです。世間一般の人はクリスチャンに対してあるイメージを持っているようです。「敬虔なクリスチャン」という言葉から思い起こされるイメージは「聖い」「汚れのない」「悪からは全く遠ざかっている」「この世の遊興などとは縁のない」・・といったイメージで、もしそのようなイメージと違っていると「クリスチャンのくせに」などという厳しいことばが飛んでくる。そして一方で、自分はそんな堅苦しい生活はまっぴらごめんだ・・あるいは、自分にはそんな風にはなりたいとも思わず、出来るとも思っていない。要するにクリスチャンになるにはとにかく敷居が高いという感覚を持っているようなのです。
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。要するに99%以上の人がクリスチャンではないのです。これは欧米その他、イスラム圏以外の国では考えられないほどの低い数字です。そういうほとんどの人たちがクリスチャンという存在に対して、以上のような見方をしている。だから、あんな人がどうしてクリスチャンなの・・という見方になる。また、聖書に対して学者的な知識は持っているもののクリスチャンではないという人も大勢いる。しかしこの人たちには聖書のメッセージの本質、即ち神の愛の本質が全く届いていないと私は感じるのです。それをここに書きたいと思います。
クリスチャンというのは・・・、自分の愚かさ、弱さ、無力さ、自己中心、横柄さ、高慢さ、陰険さ、悪辣さ・・書いていけば切りがない、世の一般の人がクリスチャンに対して持っているイメージとはおよそかけ離れた性質が自分の中にあることに気がついた人・・そういう人がなるものです。あるいは、クリスチャンになってから自分がそのような愚かな者であることを信仰生活を重ねるほどに思い知る。それがクリスチャンという人間の共通した特徴です。先に挙げた斉藤宗次郎ほかの人たちも例外ではないはずです。例外と言うよりも、あの人たちは自分の中にある「聖さとはおよそかけ離れた自分の心の実態」を知って愕然とするという経験の持ち主である筈です。要するに、神の前に出せるものなど何もないことを知り神の聖さの前に完全に降参した人たち、それがあの偉人たちの本当の姿なのです。だから神が用意された救いをそのままそっくり受け取った。その結果があの偉業なのです。あの偉業はあの偉人たちのわざではなく、神のわざなのです。絶え間ない努力や修行や強固な意志によって自分を高めてきたから出来たのではなく、何もない自分を愛なる神様に明け渡したからこそ神の力と愛と栄光を現す器とされたのです。だからそれができる。父なる神はこのどうしようもない人間=すなわちすべての人 をもう一度みもとに迎えるために、御子イエス・キリストを地上に送られ、そして十字架の死と復活という大きなしるしを示されたのです。それはすべての人が、キリストと共に死に、復活して新しく生まれ変わるためです。どうやって? それはキリストを信じて心にお迎えすることで実現します。ほかに方法はないのです。自分がどうしようもない人間だとわかったからそれができる。人の強さや能力はこのこととは無関係なのです。これは神の恵みを受け取る必要条件なのです。
・・ここにクリスチャンの本質があるのです。
人に大きな偉業をなさしめる力、それは人の努力や精進によるのではなくて、ただ自分がどうしようもないヤツだと思い知って、神にすべてを明け渡した者の上に働く生ける神の力なのです。キリストの死と復活があなたの内で重なるのです。
これが、世の中の人たちが全く知らない、想像もしていないポイントです。あの偉人たちも間違いなくそのような歩みをしてきた人たちです。だから、彼らは誰に対しても高ぶる思いで接することはしない、、いや、、出来ないんです。全てが恵みによって与えられていることを知っているから。自分に何か褒められることがあって神に認められているのではないことを心底知っているのです。
さらにクリスチャンになった人は即座に「聖人」になるわけではなく、そのような自分の古い性質と戦いながら「キリストの形」に徐々に変えられていくというステップを踏みつつ信仰生活を続けます。だから当然、あれでもクリスチャンなの?と言われることはいくらでもある。けれどその人は正真正銘のクリスチャン、それは神の赦しの中で新しいいのちに導かれて生きる者であるわけです。本当はそんな大きな恵みを受けるのにはまったく相応しくない者なのです。そんな者に与えられた・・その恵みを驚き、喜び、感謝しつつ歩む者・・それがクリスチャンなのです。
「あんな人が、どうしてクリスチャンなの?」・・それは、神が「罪人のためにみ子をつかわされた」からです。それが神の愛であるということの意味です。
“イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」”
マタイの福音書 9章10~13節
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ドラマー市原康ライブインフォメーション 過去の記録
その1「あんなことした人が、どうしてクリスチャンなの?」2016/4
その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5
その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5
その4「信じることでしか出会えない神」2016/6
その5「悪質メール撃退グッズ」2016/7
その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9
その7「助けを求める心」2016/11
その8「クリスマス・・それは」2016/12
その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1
その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4
その11「聖書の目的」2017/5
その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11