
皆さんはクリスチャンが「救われた」という言葉を使うのを聞いたことがありますか?
それは、人の魂は滅びにへ定められているところを、そこから救い出されたという意味です。神は愛です・・とクリスチャンたちは叫んでいるのに、なぜ人は滅びに定められているわけ? 神のどこが愛なの? ・・と、当然そのような疑問がわいてきます。そのことをこんな視点で捉えていただけたら理解が得られるかなと思うのです。例えばこんな父親がいたとします。
⚫︎ 父に背を向ける子
父親は息子が道を外し、欲のままに生きる破滅的な生活をするようになったのを見て、怒り、その子を叱り、懲らしめて、なんとかまっとうな道に戻らないかとあれこれと手を尽くします。それでも息子は全く耳を貸そうとしない。父親は怒りと悲しみで一杯になります。息子には将来において平安で幸せで明るい家庭生活を送ってほしい。自信に満ちて世と人とに仕えるという悔いのない生き方をする人になってほしい。しかしそんな希望も今の息子を見ていると絶望的に思える。やむなく父は息子に「勘当だ」と言って家から追い出してしまいします。そんな生活を続けるなら、その結末を見て、自らの選んだ道がどういうものだったのかを身をもって知るが良い。それで目が覚めるならいつでも帰ってきなさい。私は喜んでお前を迎えよう。私がおまえの父親なんだから。しかしお前が今の生活を続けるなら、お前はもう私の子ではない・・と。
この父の姿勢の本質は言うまでもありません。子への愛です。「神は愛です」とは、父に背を向け耳を貸そうとしない自分の子に対しての愛なのです。聖書はすべての人が罪びとなのだと言い切っています。神が本当に人を造られて、その人がご自分のもとに帰るのを愛をもって待っておられるのなら、そのまことの父を拒めば、その人の上にある神の想いは「愛ゆえの怒り」「涙を流す怒り」なのです。何度も何度も声をかけているのに・・。神は愛なのに、神がいのちなのに人の方でそれを拒んでいる・・。それが聖書が示す神と人との基本的な関係の構図です。
新約聖書にこんなことばがあります。
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"
エペソ人への手紙 2章1~5節
私たちは生まれながら御怒りを受けるべき子らだと言うのです。魂は滅びへと定められているというのでしょうか。このエペソ人への手紙には、私たちのことを「背きの中に死んでいた」者だと言っています。背きとは神に対する背きです。そしてその状態は「死んでいる」と表現されています。ところが「神のあわれみと愛のゆえに、キリストとともに生かされた」者へと変えられたと、この手紙の筆者パウロは言っています。
神の前に出る資格のない者が、あわれみと愛のゆえに神の御怒りから救い出されたというのです。その救いのためにキリストの十字架と復活がそこに至るためのたったひとつの狭き門として与えられた、というのがよく聞くところの「福音」のメッセージです。ただ恵みとして与えられた父の家へのこのパスポートによって、人は「救われる」のだと。その文脈から言えば救いとは神の御怒りからの救いであるわけです。キリストの十字架、あれは私たちが受けるべき御怒りを、キリストが受けてくださったその姿に他なりません。だからキリストが救いなんです。「神の子なる神」であるはずのキリストが十字架の上で叫んだことばが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。それは私たちの身代わりに御怒りを受けられたことを示す叫びです。神の御子が私たちの身代わりになったのです。・・あり得ない話です。でも神が、神の側からこのようにして、人をご自身のみもとに帰るための道を備えてくださったのです。神は愛ですとはこのことです。キリストご自身が身代わりの犠牲であり、キリストご自身が復活のいのちなのです。このキリストを信じて自分の内に迎えるという心の行為、そのこのとで神は、私たちがその「救い」を受け取ることができるようにしてくださった。これが神から人に提示された唯一の「救い」であって、ほかにそのようなものはありません。
でも実はこのことが世間の人にとっては一番受け入れがたいことなんです。いわゆる「それじゃあ虫が良すぎるでしょう」というやつです。その感覚の中には、神に対して何も差し出してもいないのに、そんな全面的な赦しを受け取れるなんてけしからん、不公平だ。それじゃあ悪いことした者勝ちじゃないか・・となる。これに対して「あなたは何か神の前に差し出すことのできるような、聖いもののかけらでもあると思ってるんですか?」と問いかけてくるのが聖書です。
⚫︎ 普段は決して考えることのないこと
イエス様の話の中に、こんな話があります。
"すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」"
ヨハネの福音書 8章3~11節
姦淫の現場で捕まえられた者を石打ちにして殺すことは、当時律法では「正当なこと」でした。ところがイエスの「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」との言葉で、律法学者やパリサイ人たちはハッとするわけです。この人たちは神のことに関しては教える立場にある人たちでした。世間的には、自分たちは神との関係に関しては健全であることが大前提であること・・彼等はその大前提の上にあぐらをかいていて、実はそれに相応しい内実などどこにもないことが、イエス様のことばによって瞬時に示されたわけです。それで彼らは、石を投げてこの女を死刑に定める資格など、自分にはどこにもないことに気がつくのです。最初に気がついたのは年長者でした。それだけ自分の罪の性質を示されたことの多い人たちなのだと思います。
自らの罪に目を向けることをしようとせずに人を断罪する。これは聖書に言うところの「罪びと」の基本的な立ち位置のひとつです。罪びとを目の前にしたときに、その人の思いの中に浮かぶ光景はもっぱらその人の罪であって、自分の罪からは見事に目をそらす。これが罪人の罪人たるゆえんです。そしてこれが「生まれながらみ怒りを受けるべき子」の姿です。
幸いこの女に石を投げる人は結局ひとりもいなかった。彼等は神の選びの民であり、神の偉大なみわざを通してエジプトから導き出された特別な民族であるにもかかわらず、神の前に自分は正しいと認めることが出来る人は、そこにはひとりもいなかったんです。それは今の私たちが、そのまま受け取るべき話でもあるわけです。私たちは他人の罪はよく見えて、それを断罪するのは大得意です。それは自分が神の座に座ろうとする罪人の基本的な性質です。イエス様はそういう私たちを罪人だとし、さらにこれを赦されるために来られた・・。それはイエス様の女に対する姿勢そのままです。イエス様は女に「あなたに罪はない」とは言われませんでした。彼女が罪人であることを認め、その上で「わたしもあなたに裁きを下さない」と言われたのです。
彼らはその場からいなくなりました。それは神に受け入れられることでした。自らの罪に気がつくこと・・それが神の御怒りから救われるための第一歩なのです。あの出来事は人と神の関係において、とても重要な瞬間を表しています。クリスチャンとは、自らの罪を認めイエス・キリストを救い主として信じる信仰によって救われる、という道を選んだ人たちです。何から救われた? 神の御怒りからであり、その結果である魂の滅びから救われ、まことのいのちである神のみもとに帰ることが許された者たちです。イエス・キリストは私たちに赦しを与えるために、人の子として来られ、その体を罪人の私たちの代わりに釘付けにされることによって、これが神の赦しの姿なのだと、十字架の上で示されたのです。
● そもそもの話
ここで大前提の話をします。もし神が私たちを造られたというのが文字通りの現実でなければ、聖書の言う神はかなり信用できないものになります。自分を神だと言い、自分がおまえを造ったのだと言い、宇宙とこの世を造ったと言い、この世の終わりについても明言し、そのあとに来る神の国のこともはっきり言っている。これが単なる想像の産物だったら聖書ほど人騒がせな書物はありません。だってあり得ないことばっかり書いてあるんですから。モーセが紅海を渡るのに海が割れた? モーセが神から直接十戒を受けた? 天からの食物であるマナが荒野で「40年間」降った? キリストが天地創造の前から父なる神と一緒におられた? キリストが処女から生まれた? キリストが十字架にかかって死んでよみがえった? 世の終わりが来る? その時には大艱難がある? 最後にはキリストはもう一度来られて生きている者と死んだ者すべてを裁かれる? サタンがいる?・・神を信じないで聖書を読もうとしたら、聖書の90%は無視しなければ、読めるものではありません。聖書は神の存在を認めたときに初めて、そこに隠れている「真理」を見させてくれるのです。神を認めずに聖書の研究をしたって、そこから得られるものなど何もありません。
あの分厚い聖書が始めから終わりまで一貫して、これでもかというほど言い続けていること。それは「わたしが神である」という神からの主張です。「わたし」とは、聖書を通してご自身を現されている全知全能の神のことですが、宇宙を含めその中にあるすべてのものがこの神による被造物だと、神ご自身が宣言しています。だから当然のこと、人も神の手によって造られた存在です。
神にとってアダムはご自分が創造された最初の人、それは神の家の長子のような存在です。ところがその長子がこのお父さんをお父さんと認めない。即ち、自分を造られた神を神として認めなくなってしまった事件・・それがあの創世記のアダムが禁断の木の実を食べてしまった話です。聖書全体の主題「罪人の歴史とその上にある神の愛」の話はここから始まっているわけです。アダムが犯した罪はいのちそのものである神に対する反逆。滅びの選択でした。神はちゃんとアダムに告げていたのです。「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。園の中央にはもう一本の大切な木がありました。それが「いのちの木」です。ですから、エデンの園からアダムが追放されたという話は、まことのいのちから切り離されたということを表しているわけです。あなたは死ぬ・・ということは、そうでなかったら死ななかったのにという意味です。そうです。死はなかったのです。この時からアダムは汗水流して働き、最後には土に返る者となったと聖書は記しています。ここから魂の深いところでの充足から切り離され、死を恐れながら行く先もわからずに歩む「罪びと」の歴史が始まります。その罪人の歴史は悲惨なものでした。簡単に暴虐で満ちる世界へと突き進むんです。自分を守るために・・。しかしこれで神の計画が頓挫したのではなくて、実はここから始まるんです。それは神を無視し自分中心に生きる人類の世界「この世」への、神の愛と哀れみをもっての介入です。
● 未来のことも書いてある聖書
聖書にはこの世の初めから終わりまでのことが書かれています。ですから当然、私たちにとって過去のことも書いてあれば、これから起こることも書いてあるわけです。イエス・キリスト降誕の700年前、イザヤという預言者は、キリストの十字架の様子を克明に記しています。当時その世界に生きていた人にとって、キリスト降誕ははるか未来のことだったわけです。そしてその700年後、イエス・キリストが来られた時代でも、ユダヤ人たちはこの預言書のことには精通していました。ところがあろうことか、彼らは自分たちの手であのイザヤ書の預言通りに、イエス様を十字架にかけて殺してしまうのです。預言書を警告とは受け止めずに、キリストを殺す方の役を果たしてしまったのです。
今の私たちにとって、キリスト降誕は過去のことですが、もうひとつ書かれているのがキリストの再臨です。それに関する聖書の記事の代表的なものは、キリスト降誕よりも550年も前の、ダニエルとかエゼキエルその他の預言者が記しています。と同時にイエス様ご自身も、世の終わりのことについて、何度も語っておられます。そして弟子たちの手紙の中にも書かれており、その総まとめのようなものが黙示録です。そこにはこの世の終わりの時に、キリストが再び来られるということが書いてあるのです。
具体的に語られていたことが今目の前で起こったとしても、それが大昔から言われていたことの成就だということを、信じるのは難しいことかもしれません。しかし預言の通りのことが、将来的に起こるということを聖書は言っているのです。ならばそれは私たちに語られている警告です。キリストは再臨される。すなわち再びやって来られる。復活したキリストが、弟子の見ている前で天に上られた、その同じ有様で再び来られるというのです。そして神に背を向け続ける者と、キリストとともに神のみもとに帰る者とを振り分け、神に立ち帰らない者を永遠の火の中の苦しみに入れ、キリストと共に父なる神のみもとに帰る者には、永遠のいのちとその住まいが用意される。具体的にはもっと細かく書かれていますが、大雑把に言えば聖書にはそういうことが書いてあるのです。
「さばき」・・そのことを否定することは、神の存在を信じていないということです。神が存在しないなら、さばきなどはあるはずもないですから。「救われる」という言葉も、神がおられて初めて意味を持つわけです。
「御怒り」ということばは旧約聖書の中には55回出てきます。それはイスラエルの民が、神の御怒りとゆるしの繰り返しの中を、歩んで来たことを物語っています。そしてイエス・キリスト以降の新約聖書には14回出てきます。そのほとんどすべて、厳密には13回が「終わりの時の御怒り」についてのことばです。聖書は1400年間で執筆された66巻の書物の集合体であるにもかかわらず、世の初めから終わりまで、そのタイムテーブルにブレはないのです。それによれば「神の御怒りの時」、その時に生きている者と今までに死んだすべての者も、神のみ前によみがえり、さばきを受ける・・それは今の世には終わりがあって、その時の話だというのです。ここからわかることは、この御怒りでさばかれた人は、まだいないということです。さばきについては、すべてこれからのことだと聖書は言っているのです。そして、救われて神の国の民とされるという約束も、実際に訪れるのはこの終わりの時だと、聖書は言っています。神の計画のクライマックスはまだやって来ていないのです。
● 忘れてはならないのが・・
神のみもとに帰った、救われたという言葉には以上のような意味があるわけです。罪びとの状態のまま神のもとに行こうとしたところで、神の聖さと罪びとの高慢な性質はまったく相容れません。本当の光と喜びと納得は、神の聖さの中にあるのです。愛なる神のもとに帰ったという時に、忘れてはならないのが、本当は帰る資格のない者に、その救いの扉が開かれたということです。信じるだけで救われるというのなら、それは「ただ=無償」です。しかし、その信じることの中身は、神の御子がわざわざ天から下り、肉体をもって「人の子」となり、その人の子が私たちの罪の身代わりとして十字架にかかるという、「いのちの代償」なのです。そこには激しい痛みと苦しみの果ての死と、そして愛があるのです。神の愛の形とは痛みであり、言いようのないうめきと苦しみに重なるものなのです。私たちが救われるために、ちゃんと代償が支払われたのです。神の御子キリストが、そのために「人の子」の形で地上に来られ、それを釘付けにしたその事実と、死の後によみがえられたその存在とが、私たちの「救い」の実体として与えられているのです。あなたが無償でいいのは、神が代価を支払ってくださったからなのです。どうして?・・。それはあなたに代価を支払う資格も能力もないからです。なぜそんなことしてくれるの?・・。それは、あなたは父なる神の実の子なのだから。
神がなさったことを信じる者には、主ご自身が聖霊という形をもって、入ってきてくださいます。それによって、人は神の子として、父なる神と話を交わす者となり、すべての罪が赦され、永遠の神の御国の子とされるということを、確信し喜ぶ者となるのです。それは、死というポイントを超えた希望です。救われた者にとって死は、その意味が完全に変わります。死は恐れや絶望ではなく、単なる通過点であり、「終わり」ではなく「永遠のいのち入り口」へと、その意味が完全に変換する希望のポイントとなるのです。私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえられたイエス・キリストを信じる者には、今から後にある「終わりの時の神のみ怒りによるさばき」から救われ、永遠の天の御国の民となるという、本番が待っているのです。
"これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。"
新約聖書ヘブル人への手紙 11章13節
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【バックナンバー】
その2「熊本地震・・神は何をしているのか。」2016/5.2
その3「罪人だと言われると、どうも・・」2016/5.31
その4「信じることでしか出会えない神」2016/6.28
その6「イエスのことばが全く理解できなかった人々」2016/9.8
その7「助けを求める心」2016/11.12
その8「クリスマス・・それは」2016/12.30
その9「クリスチャンとはどういう風な仕組みの人間か」2017/1.20
その10「聖書を読むと何がわかるのか」2017/4.24
その11「聖書の目的」2017/5.11
その12「キリストは絵に描いた餅?」2017/11.21