聖書のことば #19
【行う力-2 弱さ】
"しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。"
新約聖書 コリント人への手紙 第二 12章9節
私たちは「行い」のこととなると、真面目な人であればある程、自分はきっちりした人であろうと、一生懸命に努力しようとします。
ところが、自分はどうすることもできない「弱い者」であることを、初めから知っている人なら、「行い」を人に見てもらおうとかいうことは、あまり考えないものです。実はそのことは信仰者にとって、マイナス要素ではないんですね。なぜなら、そうでもなかったら、本当の力であり知識であり癒しである方のところに、行こうと思わないからです。
本当の力、解決は「主にある」ということを、私たちは経験をいくら積んでも、また知識として知っていても、なかなかそこに行かないんですね。でも「弱さ」という、自分が認めざるを得ない状況に置かれると、そっちへ行ってみようかなと・・初めて思うわけです。
「私たちがするべきこと」とは何かと言うと、「行う力を下さいと主に求める」・・、これが私たちが取るべき行動なんですね。
なぜこの発想に辿りつかないかというと、実は主という存在が、そのような方だと思っていないからなんですね。本当にそうだと思っていれば、誰でも一目散にそこへ行きます。
肝心なのは「弱さ」に到達することなんですね。弱さが「自分にとって当たり前のこと」となることなんですね。
御言葉を通して、これを行いなさいと、主から語られたら、「主よ、それを行う力をください」と祈りましょう。その時にあなたは、する力のないあなたにそれをさせてくださる主に、出会うのです。
次回は、「イエスは主」です。
God Bless You !
【行う力-2 弱さ】
"しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。"
新約聖書 コリント人への手紙 第二 12章9節
私たちは「行い」のこととなると、真面目な人であればある程、自分はきっちりした人であろうと、一生懸命に努力しようとします。
ところが、自分はどうすることもできない「弱い者」であることを、初めから知っている人なら、「行い」を人に見てもらおうとかいうことは、あまり考えないものです。実はそのことは信仰者にとって、マイナス要素ではないんですね。なぜなら、そうでもなかったら、本当の力であり知識であり癒しである方のところに、行こうと思わないからです。
本当の力、解決は「主にある」ということを、私たちは経験をいくら積んでも、また知識として知っていても、なかなかそこに行かないんですね。でも「弱さ」という、自分が認めざるを得ない状況に置かれると、そっちへ行ってみようかなと・・初めて思うわけです。
「私たちがするべきこと」とは何かと言うと、「行う力を下さいと主に求める」・・、これが私たちが取るべき行動なんですね。
なぜこの発想に辿りつかないかというと、実は主という存在が、そのような方だと思っていないからなんですね。本当にそうだと思っていれば、誰でも一目散にそこへ行きます。
肝心なのは「弱さ」に到達することなんですね。弱さが「自分にとって当たり前のこと」となることなんですね。
御言葉を通して、これを行いなさいと、主から語られたら、「主よ、それを行う力をください」と祈りましょう。その時にあなたは、する力のないあなたにそれをさせてくださる主に、出会うのです。
次回は、「イエスは主」です。
God Bless You !
聖書のことば #18
【行う力】
"私たちはみな、〜 主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
新約聖書 コリント人への手紙 第二 3章18節
前々回に引用した聖句(聖書のことば ) には、この最後の部分が抜けていました。「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
御霊(みたま)=聖霊。イエス様は父のもとから助け主を送ると約束されました。それが聖霊です。この存在は「三位一体(さんみいったい)の神(父,子,聖霊)」の中のひとつですので、神そのものと考えて良い存在です。
信じた者の内には、聖霊が宿ります。この聖霊の働きによって「主と同じかたちに変えられて行く」というのです。
しかし同時にイエス様は、行いについての規範を示されているんです。
私たちがすべきことの基本は、次の二つに要約できるというのです。
ひとつ目は、心といのちと知性を尽くして、主なる神を愛しなさい。
もう一つは、自分自身のように、隣人を愛しなさい。
さらにイエス様は、もっと具体的にも、いろいろなことを言われているんですね。しかも「ちょっとムリ」みたいなことばっかりなんですね。
山上の垂訓 (マタイ5:17 - 47) と言われるもので、一番有名なのが「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」という、あれです。
おまけに、その最後にはこう書いてあるのです。
"ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"
それ、ムリでしょう!となります。ですが、これらのことを聖霊によって行う者へと、変えられて行くというのです。
もし自分の努力でそんな人になろうと思っても、行う力などどこにもないことが、だんだんわかってくるんですね。それじゃあ、主と同じ姿に変えられて行くどころか、その正反対であることをますます思い知らされて、惨めになって行くばかりじゃないですか。
聖霊によってとは、一体どういうことなのでしょうか。そろそろ「私たちの側でするべきこと」をはっきりさせなければいけませんね。
次回「行う力-2 弱さ」で見ていきましょう。
God Bless You !
聖書のことば #17
【信仰と行い】
"行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。"
新約聖書 ヤコブの手紙 2章18節
人は何かを行うことによって救われるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じるという「信仰」によって救われる・・。
これがこの16回を通して見てきたことですが、この救いの話が「信仰生活」の話とごっちゃになってしまうことが、よくあるようです。
「救い」とは、まことの神のもとに帰るという話です。そして帰った時点で、今度は「信仰生活」が始まるのです。「救い」と「信仰生活」は全く別の話です。
それが何故ごっちゃになるかというと、救われても相変わらず「行いが伴わないと救われない」という感覚が残っているからです。そうすると当然、そんな力など自分にはないものだから、行いのことなどとても考えられない信仰生活が始まっちゃうんですね。そうなると神のもとに帰った者でありながら、いつのまにか自分の思いのままに行動するという、放縦の生活の中にどっぷり浸かってしまったりするんですね。そうなると、あれっ! クリスチャンになったのに、世間の人とやることが全然変わってないわ、となるわけです。
クリスチャンは、聖霊を内側に宿しています。聖霊は絶えず私たちに、神が示される方向を示してくれます。それは人によって様々ですが、大抵の場合、自分の考えとは異なることが多いです。なぜなら、古い性質が私たちの内に残っているので、どうしても神に背を向ける方向に心が向くからです。
しかし、自分の考えではなく、聖霊の促しに従って行動した時には、いつも主が共にいて、すべての意味で最善に導いておられるのだということが、はっきりわかったりするんですね。そうすると私たちは、ますます神に従って行きたいと思うようになる。
そして気がついたら、人々があなたを見る時、そこにあなたの内におられる神を見るようになる・・。何故なら、「主に従う」ということでそのような存在へと、あなたは変えられて行くからです。「主と同じ形」へと・・。(2コリント3:18)
マザー・テレサは、その見本のような存在ですね。
ああ、自分は聖人でもあるまいし、そんな力はないよ、と思っちゃいますよね。
よくわかります。(笑)
そこで次回は「行う力」です。
God Bless You !
【信仰と行い】
"行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。"
新約聖書 ヤコブの手紙 2章18節
人は何かを行うことによって救われるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じるという「信仰」によって救われる・・。
これがこの16回を通して見てきたことですが、この救いの話が「信仰生活」の話とごっちゃになってしまうことが、よくあるようです。
「救い」とは、まことの神のもとに帰るという話です。そして帰った時点で、今度は「信仰生活」が始まるのです。「救い」と「信仰生活」は全く別の話です。
それが何故ごっちゃになるかというと、救われても相変わらず「行いが伴わないと救われない」という感覚が残っているからです。そうすると当然、そんな力など自分にはないものだから、行いのことなどとても考えられない信仰生活が始まっちゃうんですね。そうなると神のもとに帰った者でありながら、いつのまにか自分の思いのままに行動するという、放縦の生活の中にどっぷり浸かってしまったりするんですね。そうなると、あれっ! クリスチャンになったのに、世間の人とやることが全然変わってないわ、となるわけです。
クリスチャンは、聖霊を内側に宿しています。聖霊は絶えず私たちに、神が示される方向を示してくれます。それは人によって様々ですが、大抵の場合、自分の考えとは異なることが多いです。なぜなら、古い性質が私たちの内に残っているので、どうしても神に背を向ける方向に心が向くからです。
しかし、自分の考えではなく、聖霊の促しに従って行動した時には、いつも主が共にいて、すべての意味で最善に導いておられるのだということが、はっきりわかったりするんですね。そうすると私たちは、ますます神に従って行きたいと思うようになる。
そして気がついたら、人々があなたを見る時、そこにあなたの内におられる神を見るようになる・・。何故なら、「主に従う」ということでそのような存在へと、あなたは変えられて行くからです。「主と同じ形」へと・・。(2コリント3:18)
マザー・テレサは、その見本のような存在ですね。
ああ、自分は聖人でもあるまいし、そんな力はないよ、と思っちゃいますよね。
よくわかります。(笑)
そこで次回は「行う力」です。
God Bless You !
今まで、16回に渡って、私が信仰生活の中で受けたことを、聖書に照らし合わせつつ、書いてきました。
11月11日に、突然これを始めて、取りあえず今は毎日更新をしています。
しかしながら、今まで書いたものを見てみますと、言葉が足りなかったり、思っているのと違うイメージで伝わってしまうような表現をしていたりと、反省しきりであるわけです。
先日、これを毎日お送りしている方に、誤って前日のものをダブってお送りしたことがありました。その時その方がおっしゃったことは、二回目に読むと、またさらに理解が広がることに気がついたと・・。
ということで、現在アップされている #1〜#16 までを、もう一度見直し、表現の仕方や、足りないところを足すことにしました。
ということで、今までの記事が、すでに過去のものと少し変わっています。
良かったらご確認下さい。
さらに続けていきますので、どうぞご覧になって下さい。
これを読まれる方々の上に、
特に、ここでしかこのようなものを読まれる機会のない方々に、
神様の導きがありますように。
God Bless You !
聖書のことば #16
【聖書を一言で】
ここまで読み進められたあなたは、次の聖書の言葉が、リアルに伝わってくるのではないかと思います。
これは、聖書がその全体を通して言おうとしていることを、一言で言い表した箇所だと言われています。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節
今日はこの御言葉を、ご自身でゆっくり味わってください。
神は、実に、
そのひとり子を
お与えになったほどに
世を愛された。
それは
御子を信じる者が、
一人として
滅びることなく、
永遠のいのちを
持つためである。
ヨハネの福音書
3章16節
次回は「信仰と行い」です。
God Bless You !
【聖書を一言で】
ここまで読み進められたあなたは、次の聖書の言葉が、リアルに伝わってくるのではないかと思います。
これは、聖書がその全体を通して言おうとしていることを、一言で言い表した箇所だと言われています。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節
今日はこの御言葉を、ご自身でゆっくり味わってください。
神は、実に、
そのひとり子を
お与えになったほどに
世を愛された。
それは
御子を信じる者が、
一人として
滅びることなく、
永遠のいのちを
持つためである。
ヨハネの福音書
3章16節
次回は「信仰と行い」です。
God Bless You !
聖書のことば #15
【救われるとどうなるのか】
"私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 6章5節
イエス・キリストを救い主として受け入れた者は、キリストの死と同じようになり、キリストの復活とも同じようになると、パウロは言っています。
今時の言い方をすれば、イエス・キリストがインストールされたとでも言いましょうか。その人はイエス・キリストを内に頂いている者として、歩み始めます。
しかしながら、キリストにある全ての性質に瞬間的に生まれ変わる、というわけではありません。私たちが持つ生まれながらの罪の性質は、そのまま残るからです。パウロはそのことを「この宝を土の器の中に入れている」(2コリント4:7) と言いました。
ということは、キリストを内にいただいた者は、「変わって行く」のです。パウロはこんな風にも言っています。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」(2コリント3:18)
変えられていくのです。どういう方向に変えられて行くのかというと、肉=古い性質には死んで、主と同じかたちに・・というわけです。主と同じ形にとは、主の聖さに限りなく近付くということです。
そんなこと、程遠いですよね (笑) 。
でも、それでいいのです。変えられて行くのですから。
「主の栄光」を言葉に言い表すことなど、到底できませんが、その人は確実に、主の栄光を表す「世の光」へと変えられて行くというのです。
God Bless You !
聖書のことば #14
【正しい人】
"こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
新約聖書 マタイの福音書 25章46節
再びこの聖句です。この文は、永遠の刑罰に入らないで済むのだ、というのが主旨です。
でも自分を「正しい人」とは言いにくいですよね。
聖書に登場する代表的な人物は、ほとんどがひどい失敗を犯す、情けないと言われも仕方がない人ばかりです。モーセにしてもダビデにしても、ソロモンにしても、ひどい失敗をしています。新約聖書の書簡の多くを書いているパウロなどは、自分を罪人の頭であると断言しています。12弟子の筆頭のペテロも然りです。では、正しい人なんているのでしょうか。いるのだとしたら、どういう人のことでしょうか。
イスラエルが王国となった初代の王はサウルと言います、そして二代目がダビデです。この二人ともに、神の前に大きな罪を犯しました。しかし二人の間には決定的な違いがありました。
サウルは罪を示されてもなお、自分を弁護し、最後まで保身の姿勢を変えませんでした。しかしダビデは罪を指摘されたときに、それを認め、神の前にひれ伏し、悔い改めたのです。サウルの王位は退けられ、ダビデの家系は「ダビデの子」と言われるメシヤの家系となるという、この上ない祝福に預かるのです。
義人即ち神の前に正しい人などは、一人もいないと、聖書は断言しています。ですから、もし私たちが正しいとされることがあるとしたら、それはダビデのように、あの放蕩息子のように、自分の罪を認め、主のもとへ帰ろうと心に決めて、その一歩を踏み出す・・それ以外に神の前に「正しい人」では、私たちはあり得ないということです。
「義人は信仰によって生きる」(ガラテヤ人への手紙3:11) とは、このことです。
正しい人とは、このまことの神を、崇めるべき神として認める人。その一言に尽きるのです。
逆に言えば、神の前に正しいとされる道を閉ざされている人は、一人もいないということです。これはすべての人に開かれている門なのです。
これは神がなされたことです。人が考え出すようなレベルのことではないのです。
これこそが人類に提示された、神の恵みなんですね。
Amazing Grace という賛美歌は、そのことを謳った歌です。
邦題は「驚くばかりの恵みなりき」。
次回は、「救われるとどうなるのか」です。
God Bless You !
聖書のことば #13
【永遠のいのち】
"こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
新約聖書 マタイの福音書 25章46節
今日は「永遠のいのち」という言葉について、見てみたいと思います。
これはイエス様が、マタイの福音書の24章以降、世の終わりの時について話されたことと、それに伴う4つの例え話をされた部分の、最後のことばです。
ここで言われていることは、イエス様が再び来られること(再臨)と、そこで人々は死んだ者も含めて、御国を受け継ぐ者とそうでない者が選別されるという「さばき」のこと。そしてそのあとに来る天の御国のことが語られています。イエス様が「天の御国」について、話されている箇所は50近くあります。このことが福音の重要なポイントであることがわかります。
永遠のいのちとは、御国で生かされる者に与えられるものであることがわかります。ヨハネの黙示録には、それに関わるこの世の最後の時の様子が、恐ろしいほどリアルに予告されています。
それによれば、天の御国でのいのちを保証された者は、復活のからだをいただき、まずこの地上に実現する楽園「千年王国」を治める者として立てられるのだというのです。
さらにその後には、神に敵対する勢力 (千年間縛られていたサタンに属するもの) が解き放たれた瞬間、永遠の火に投げ込まれ、そして死んだ全ての者がよみがえって、「その行いに応じて」さばかれるのだと言うのです。
そしてそのあとに、天から下りて来る永遠の御国「天のエルサレム」が実現するというのです。これが黙示録に書いてあることです。
「永遠の」という言葉の意味は、「固定された」というようなイメージなのではないでしょうか。
そして「いのち」はと言いますと、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。キリストご自身と、神と、共に、あるいはその中に生きること。それが「いのち」だということになります。
では、「永遠のいのちに入る正しい人」とは、どんな人なのでしょうか。
次回は「正しい人」です。
God Bless You !
※ 世の終わりについて、触れていない重要な事柄に「携挙」があるのですが、敢えて後回しにしています。
聖書のことば #12
【父の愛】
神は愛であると、聖書ははっきり言っています。無限の赦しといのちと祝福の神です。しかしそれだけの情報ですと、どうしても自分の尺度に合わせた愛のイメージになりがちなんですね。
神は創造主であり、愛なるお方です。その方を父として愛し崇めるのが、造られた子としての当然であり自然な行為であるわけです。しかも人は、神の似姿として造られた(創世記1:26) のですから、そこにある神の愛は、人が言葉に表すことなどでは、とても及ばい、大きく深いものではないでしょうか。
私たちが押さえておかなければならない部分は、その私たちが、父に背を向けて、あんたなんか知らないよと言って、勝手に歩んでいるというところです。そんな私たちに対する父の思いは、どんなものなのでしょうか。子を愛する父は、放蕩息子が家を出たままでいるのを、喜んでいるわけがありません。父の心は悲しみと嘆きとで一杯です。
父は、帰ってこない息子を助けることは出来ないのです。その手を離れて、遠くに行ってしまっているのですから。そんな放蕩息子の父が、喜んで無条件で息子を受け入れることができるのは、息子が帰ってきたからです。
息子はある時決意しました。自分には資格はないけど、父の元へ帰って、父に謝り、家の片隅にでも置いてもらいたい。そう思って帰ってきたら、びっくり。大歓待でした。息子はもう一度心を父に向けて、父の家に向かって歩き始めただけです。
まことの父なる神の家。
そこが私たちが帰るべき、まことの家なのです。
父の悲しみは、愛の故なのです。
そのためには御子をも惜しまなかった・・。
それは、御子を惜しまないで死に渡された、ということです。
あなたは、それほどに愛されているのです。
God Bless You !
聖書のことば #11
【救いとは-2】
"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。"
新約聖書 マタイの福音書 7章13節
イエス様のことばです。ここに、ひとつの現実が、短くさらっと語られています。それは、「滅び」という確定事項があるのだということ。そして、ただひとつある「狭い門」から入れば、そこから逃れることができる、ということ。
狭い門とは、イエス・キリストのことです。
ヨハネの黙示録には「第二の死」という言葉が4回出てきます。人は一度死ぬことが定められているというのは、ほぼ全ての人が認めるところです。しかしそれは肉体の死です。では霊魂は不滅なのでしょうか。聖書にはこう書いてあります。この世の最終段階において、全ての死んだ者が神の前によみがえって、裁きを受ける。そこで第二の死による永遠の苦しみを伴う滅びか、恵みの救済による永遠のいのちかという、究極の分かれ道があるのだと。
何度も言いますが、福音は滅びからの救済情報なんです。滝壺に向かう川に浮かぶ舟に乗って、何も知らないで昼寝している人たちに、岸辺から大声で警告を発しているのです。「このロープにつかまれ!」と。
新約聖書のヘブル人への手紙9:27-28には、このように書かれています。
"そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。"
さばきは、この地上ではなく、死後にあるんですね。救いとは、そのさばきによる「永遠の滅び」からの救いなんです。
そしてそのために、イエス・キリストは再び来られる(再臨)と、聖書は言っています。
あなたは救いを選び取りなさい。これが福音 = Gospel = Good News のメッセージなんですね。
次回は、「父の愛」です。
God Bless You !