G-Cafe 聖書のことば #26
【聖書-8 神の計画の全貌 その3】
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
新約聖書 エペソ人への手紙 2章1~2節
ここには、救われたクリスチャンが、以前はどういう状態であったか、ということが書かれています。
まず、その人は自分の背きと罪の中に死んでいた、とあります。自分の背きとは神に対する背きです。罪の本質は神を認めないことです。その状態は、まことのいのちである神から離れて「死んでいた者」であり、そのままだと滅びに至るのだと言っているのです。
そしてその時には何の違和感もなく、神の基準ではなく、この世の流れ・・即ち神などいないという発想の土台の上ですべてを行っていたのだと指摘しています。
またその時の状態は、ある「霊」に従っているのだと言っています。そしてその霊こそが、その人の中に働く「空中の権威を持つ支配者」即ちサタンだというのです。
そして神は、サタンの支配下にある人・・それは「すべての人」です・・を、壮大なスパンの中で、神の手の中に取り戻す・・これが実は神の計画の最終目的なんですね。「彼らは何をしているか、わからないのです」という、イエス様の十字架上のことばを思い出します。
神は時至って、御子イエス・キリストを地上に送り、十字架に掛けることにより、これをすべての人の罪のためのなだめの供えものだとして、世に示されました。そしてキリストを復活させることによって、サタンの切り札である「罪と死」を無意味なものとしたのです。
人はこの話を信じ、イエス・キリストを救い主として受け取ることによって、罪と死から解放され、まことのいの
ちである神のもとに帰り、神の民とされ、サタンの支配からは完全に解放されるのです。即ち、キリストとともに死に、キリストとともに生きる者となるのです。
そして世の終わりの最後の最後で、神はサタンの存在そのものを滅ぼされます。これで今の世は終了となるのですが、更にそのあとに、永遠の御国を実現させ、そこに神の民を迎えて、神の計画が完了するというのです。
神は今でも即座にサタンを滅ぼすことのできるお方です。
しかしサタンの支配する暗闇の中にこそ、神は光り輝くのです。そんなこの世に於いて、まことの神に出会い、その赦しを受け取り、神のところに帰ってくる多くの人を起こすというシナリオ。これが神の計画の全貌なんですね。
このような大きな枠の中で聖書を読む時、ひとつひとつの出来事や預言や歴史の意味が開けて見えてくるんですね。
祈り・・「神様、あなたの光で私の心の内を照らしてください。アーメン。」
このシリーズは、12/31〜1/2まで、お休みいたします。
次回は1/3「聖書-9 旧約聖書に見る『救いの型』」です。
良い年をお迎えください。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #25
【聖書-7 神の計画の全貌 その2】
前回の最後に、次のように書きました。
・・それにしても、アダムがエデンを追われて以来の、決して平和とは言えない人類の苦難の歴史は、一体何のためだったのでしょうか・・と。
聖書全体を俯瞰的に見ると、神が創造された天と地は、人が生きて、神と出会うために造られた、壮大なステージのように見えてきます。
しかし人にとって、この世はいつも試される場所でした。試練のステージと言っても良いのかもしれません。そしてそのステージに、いつも見え隠れしている存在があります。それが「サタン」です。
神は、最初からサタンの存在を許しておられました。エデンの園になぜかサタンはいたのです。サタンとは、人を騙し、神に目を向けさせないようにし、怒り、狂気、破滅に人を導こうとする霊的な存在です。
サタンはアダムが造られた直後から登場し、この世の最後の最後までサタンは存在しているんですね。サタンは、この地上の最後の楽園「千年王国」の間は「底知れぬ穴」に閉じ込められて動けないのですが、最後には焼き尽くされ、火の池に投げ込まれます。ところが、その途端にこの世も終了するのです。(黙示録20章)
要するに、神はこの世の初めから終わりまで、ご自身の権威の中で、サタンの存在を許しておられたということになります。
サタンは人の持つ罪の性質につけ込み、なんとか神から人を切り離そうと躍起になっています。人はアダム以来、ずっとその惑わしにさらされて生きてきたわけです。
とにかく、サタンの存在が許される中で、この世は存続してきたんですね。
サタンがずっと、この世というステージに乗っかっているなら、神の計画の全貌を見るには、外せない存在であるわけです。
サタンは霊的な存在で、堕落した天使と言われています。はじめは神に仕えるトップクラスの御使いだったのですが、反逆する存在になってしまったといいます。その思いは「自分が神になりたい」です。
「オレが神だ」というフレーズ。なんとなくいろいろなところで聞いているような気がしませんか。
それは、人の最も傲慢な思いで、サタンの支配下で視点が狂ってしまった、考えられる限りの最大の勘違いなんですね。
まだ「苦難の歴史」の答えは先になりそうです。
次回。その3へと続きます。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #24
【聖書-6 神の計画の全貌】
"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。"
新約聖書 ヨハネの黙示録 21章1~2節
これはヨハネの黙示録の、ほぼ最後の部分です。
黙示録には、この世の最終シーンが克明に書かれています。その最後の最後で、神は現在の天地をキャンセルされ、そして「天のエルサレム」という新天新地を用意されるというのです。
その目的は、
神のもとに帰る人々のために、
永遠という次元の中、
神ご自身の光といのちの中で、
一切の暗いものが取り除かれ、
神が与えようとされたすべてのものを享受する、
そのような新しい世/新天新地を造る・・。
千年王国という言葉を聞かれたことがありますか。これも黙示録の中に出てくるものですが、それは新天新地よりも前に、今のこの地上に実現するものです。それは神の民によって支配される平和の世界だというのです。そしてそれは千年で終わり、そこでそれまでに生を受けたすべての者への最終的なさばきがあり、その後に、この世とは全く異次元の「新天新地」が、永遠という概念の中にあるというのです。
さばきという言葉が引っかかりますよね。
この世においては、災難、不幸、迫害、戦争、差別などにより一度も良い目を見ないで死んでいく人。行い云々という余地もなく、弱いまま、小さいまま、貧しいまま、虐げられるままで死んでいく人が、数え切れないほどいます。
そのような人は、このさばきの時には、どのように扱われるのでしょうか。
実はそのことについてははっきり書かれてはいません。しかし主は、そのような人々を決して忘れることのないお方であることは、福音書の中のイエス様を見ていれば自ずと分かります。あとは神に信頼して、その御手にお委ねするしかないんですね。死後のさばきに関する権威は、私たちの手の中にはないのです。
それにしても、アダムがエデンを追われて以来の、決して平和とは言えない人類の苦難の歴史は、一体何のためだったのでしょうか・・ということになります。
神の計画の全貌・・。ちょっと書ききれませんので、このあとは次回に回します。
祈り・・「神様、私が今、何故この世に生かされているのか、私がどこへ行くのか、あなたがまことの神なら、それを私に教えてください。アーメン。」
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #23
【聖書-5 見解のギャップ 】
"私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。"
新約聖書 ヨハネの黙示録 22章18~19節
この言葉は黙示録の最後で、著者のヨハネが警告として書いているものです。
この黙示録から一字一句、足したり引いたりする者は、ここに書いてある災いを受け取ることになる・・と。
黙示録はとても難解な書で、聖書学者の間でも捉え方に幅がある書物です。しかし、ヨハネの警告は、この中の言葉は、その意味合いにおいて無駄な言葉は一つもないことを強調しているわけです。ですから、この黙示録を文学的な作品と捉えたり、読む者によってその意味違っても良いというような考えは、この最後の言葉には馴染まないものです。
聖書の言葉の捉え方は、人によってかなり違うらしいということが、私は最近になってわかってきました。
ごく大雑把に言いますと、聖書の言葉を字義通りに受け取るか、あるいはもっとゆるく受け取るか・・という二派に分かれるようです。
どちらが正しいのかは、私が結論を出してもしょうがないことですが、もし、聖書の言葉を字義通りに取って、それでも筋が通るなら、私はそちらを選ぶべきだと思っています。もしそれで辻褄が合うなら、何も抽象的な解釈を施す必要はどこにもないからです。
これは私の見解ですが、聖書は抽象的に捉える必要のあるところはない、という立場で読んだ方が、筋がはっきり見えてきます。
このことは、いわゆる神学論争の世界ですので、そのようなところに立ち入りたくはありません。ですが、実際に読み方については相当に幅があることも事実です。では、そのような事実をどのように受け止めたら良いのでしょうか。
その答えは明確です。どのような読み方であろうが、その人がイエス・キリストを救い主として信じて、新しく生まれ変わり、喜びと愛に満たされて歩むようになるなら・・、読み方を論じる必要はないと思います。
ただ、私が聖書を読み進めていく中で思わされたことは、そこに書かれていることばは、思っているよりも遥かにきっちりと意味をもって書かれているということなんですね。
それはさて置き、聖書の言葉が初めから終わりまで、その矢印がしっかりと天の御国に向いている・・。そのような受け止め方は、聖霊によらなければ見えてこないことのように思われます。
みことばは、御霊の助けをいただいて読むものである。そこがおさえどころなのではないでしょうか。
ですから、聖書を読むときには、祈ってから読むことをお勧めします。
祈り・・「神様、聖書を読むときは、どうかいつも御霊の助けを与えてください。アーメン。」
次回は「聖書-6 神の計画の全貌」です。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #22
【クリスマス】
"「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」"
新約聖書 ルカの福音書 2章14節
これは、イエス様がお生まれになったときに、神の御使いと天の大軍勢が、野宿をしていた羊飼いたちに現れて、神を賛美して言ったことばです。
私は、信仰を持って間もない頃、このみことばをクリスマスカードに書いて、沢山の友達に送ったことがありました。
そうしたら、ある友達から返事が来て「みこころにかなわない人の上にも、平和がありますように!」と書かれていました。私はギャフンとやられて、返す言葉が見つかりませんでした。
確かにその通りです。みこころにかなわない人の上に平和がありますようにというのは、父なる神の悲願なんですね。
平和どころか、いのちを、いやしを、罪からの解放を、休みを、そして喜びと愛と永遠の希望を与えようと・・。それが神の悲願なのです。ところが人々は「あんたが神なんて、嘘っぱちだ」と言っているんですね。その上で、あんたが全能の神なら、みこころにかなわないオレだって、救えるんじゃないの?と言っているわけです。
聖書の中でもそういう人を見ることができます。それは、イエス様が十字架に掛かられたとき、両側にも十字架に掛けられた二人の犯罪人がいたのですが、その一人です。
彼は言いました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と。(ルカ23:39)
福音を語る上でいつも強調されるのは「人は行いによって救われるのではない」、そして「恵みにより、信仰によって救われるのだ」ということです。
行いとは、神の前に良いと思われる行いのことですが、それによって救われるのではないというのです。でも信仰という「心の行動」は求められているんですね。そして「恵みにより」というのは、その心の行動だけで、すべての罪は不問とされて救われる、すなわち本来あるべき神との関係に立ち返ることができるのだというのです。
ですから「自分を救え」と言った犯罪人は、この信仰の部分が欠けているのでアウトなんですね。
一方、もう一人の犯罪人は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。
そうしたらイエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。(ルカ23:42-43)
この犯罪人は条件を満たしていました。イエス様をキリストと信じて、それをイエス様の前に口で告白したのです。
神を信じないまま、救われることはないのです。
クリスマスは、神が私たちの救いのために、御子を人の子として地上に送られたその日のことを覚え、神をほめたたえ、感謝をささげる日なんですね。
皆さんのクリスマスが、感謝と賛美のクリスマスとなりますように!
メリー・クリスマス!
次回は戻りまして「聖書-5 見解のギャップ 」です。
G-Cafe 聖書のことば #21
【聖書-4 大前提】
"地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神だ。ほかにはいない。"
イザヤ書 45章22節
聖書の大前提・・それは、聖書に書かれている神が本当の神なのである、ということです。
聖書の神は、天地万物を造られた創造主なる神です。しかも「父・子・聖霊」という三つの位格を持った「唯一の神」です。
その神ご自身が「わたしが神だ。ほかにはいない。」と、はっきり言われているのです。ならばそれは、本当か真っ赤な嘘かのどちらかでしかない、というわけです。
以下は、イエス様が十字架に掛られる前に祈られたことばです。
"父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。"
ヨハネの福音書 17章5節
耳を疑われませんでしたか? イエス様は、世界が始まる前に、父なる神と一緒にいたと言われているのです。
創世記1章には、天地創造の過程の中で、天と地と植物と動物を造られた後、さあ人を造ろうという時の神の言葉が記されています。
"神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」" (創世記 1章26節 前半)
神は唯一なのに「われわれ」と言われているのです。でもそれは、イエス様が「あの時一緒にいた」と言われていることと一致しているんですね。
そしてもうひとつ、創世記1章の2行目には「神の霊が水の面を動いていた」と書いてあります。この時点ですでに「神の霊」が登場しているわけです。
唯一であり、しかも三位一体の神「父なる神・子なるキリスト・神の霊である聖霊」が、聖書には最初から言い表されているんですね。
でもこれが聖書の「大前提」なのです。
祈り・・「神様、あなたが本当に生ける神なら、まず私に信じようと思う心を与えてください。アーメン。」
次回は「聖書シリーズ」をちょっと一休みして、「クリスマス」です。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #20
【聖書-3 神の介入による歴史】
"確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」"
創世記 22章17~18節
聖書は神の霊感を受けて書かれたということだけでなく、時間軸に沿った歴史の中で、神がどのようにその中に介入してこられたかが書かれている書物でもあります。
今日のみことばは、イスラエル民族の祖 ヤコブの祖父にあたるアブラハムに与えられた、神からの約束です。
その約束の内容は、第一に「あなたの子孫」を大いに増やすというものです。この時アブラハムと妻のサラには、イサクという息子が一人いるだけでした。そこから千年余りで、栄華を極めるソロモン王国へと発展するのです。
そして第二に、あなたの子孫は敵の門を勝ち取る、とあります。しかしイスラエルは結局、敵国に滅ぼされてしまうのです。また「敵の門」というのも不思議な言い回しです。実はこの「子孫」というのは、旧約聖書の中に多く出てくる「メシヤ=キリスト」のことなんですね。敵とは「サタン」を差します。
敵の門とは、サタンが切り札としている死の力のことなんですね。それをイエス・キリストが取り戻すことの預言であるわけです。
さらに、その子孫=キリストによって、すべての国々は祝福を受けるようになると言うのです。「すべての国々」ですから、それはイスラエルから異邦人へと、祝福の門が開かれたということです。もちろん私たち日本人も入るわけです。
結局この17-18節の神の約束には、キリスト以前とキリスト以降の神の祝福の約束が、両方ともに記されているわけです。
すでにこの時点で、アブラハムから始まり、世の終わりまでをも見据えた約束がなされているんですね。
神の計画は初めからあり、人類の歴史はその計画に従って進めて来られ、そして未来に関しても、黙示録や旧約聖書の終末預言にある通り、神が介入される中で、終わりの時、さらに新天新地まで続くというのです。
天地創造〜バベルの塔崩壊〜ノアの洪水〜出エジプト〜イスラエルの王国確立〜南北分裂〜民族の捕囚、帰還、神殿再建。
キリスト降誕〜十字架〜復活〜教会誕生〜エルサレム神殿崩壊〜民族離散。
イスラエル建国(1948年)〜そして終末。
このすべての出来事は、紛れもなく神の介入によるものです。聖書に書かれている歴史は、神の介入の歴史なんですね。
それを神は聖書を通して、ず〜っと言い続けておられるわけです。
祈り・・「主よ、神のご計画のあまりの大きさは、私の想像力を超えています。どうかそのことの理解を、御霊によって与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
次回は「聖書-4 大前提」です。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #19
【聖書-2 神の霊感による】
"聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。"
新約聖書 テモテへの手紙 第二 3章16節
聖書は、旧約と新約で完結します。聖書は、創世記に始まり黙示録まで、小さな書物66巻で出来上がっています。著者は約40人だそうです。書かれた期間は創世記から黙示録まで、ざっと1600年。
普通ですと、師という存在がいて、それが弟子に受け継がれると、少し世界が変わり、またその弟子だとさらに変わるというのが普通のことですが、聖書においては、こんなに長期間、しかも殆どが子弟関係でもない40人の人たちによって書かれたのに、言わんとすることが創世記から黙示録まで、ブレることのない一本の太い線でつながっているんですね。
今日のみことばには、聖書はすべて神の霊感によって書かれた、とあります。
創世記を書いたのはモーセだと言われていますが、天地創造の際に、モーセはそこにいたわけではありません。
また黙示録にはこの世の終わりのことが書かれていますが、著者のヨハネは、天からの啓示によってすべてを書いています。
それから旧約聖書にはメシヤ(キリスト)に関する預言が300以上あると言われていますが、それは今から2000年前の「キリストが地上に来られた時代のこと」と、今から見ても未来のことである「キリストの再臨(再び来られる)の時のこと」の両方が含まれています。
旧約聖書の記事は、少なくとも紀元前400年、あるいはそれよりもさらに昔の時代に書かれたものです。見ていないのに、はるか未来のことを著者は書いているわけです。
さらにその旧約聖書には、終末(終わりの時代)の記事がいくつかありますが、それらと新約聖書の黙示録が、相互にその難解な部分を解き明かすのに助けになっているというのです。黙示録とは、キリスト降誕後の紀元90年に使徒のヨハネによって書かれたものです。
なんだか、目眩がしてきそうです。
要するに、1600年間を費やして、互いに知りもしない40人の人物によって書かれたこの聖書。そこには著者が実際に見ていないことまでも書かれていながら、その内容は一直線上に置かれていて、全部筋が全部通っているというのです。
しかもこの40人はすべてイスラエル民族でありながらも、王もいれば漁師もいるという、実に様々な立場の人たちによって書かれているのです。
これは、今日のみことば「聖書はすべて神の霊感によるもの」である、という以外に、説明のしようがないことです。
聖書は少しもぶれることなく、最後まで太い線で貫かれているのです。
もちろん神が生けるまことの神だからこそ、この説明は成り立つのです。
もしお手元に聖書がありましたら、是非開いてみてください。1頁目の創世記から、又は新約聖書の「福音書」から読まれるといいかもしれません。あるところはちんぷんかんぷんですけど。(笑)
しかしこれが、神の御言葉なら、あなたの目をも開いて、少しずつ言葉に光が差し込んでくるのだと思います。私がそうでした。
祈り・・「神様、あなたのことはよくわかりせんが、聖書を開きます。どうぞ必要なところに光を当ててください。アーメン。」
次回は「聖書-3 神の介入による歴史」です。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #18
【聖書-1】
ここまでこの配信を読み進められて来られた方々には、ぜひ「有史以来のベストセラー」聖書を手にしていただきたいと思います。
言うまでもありませんが、私は聖書の専門家ではありませんし、体系的に学んでいるわけではありませんので、あまり細かいことには触れません。
ただ、私自身が聖書を読むに当たって、このようなポイントを理解していると、すごく楽に読めるということが、いくつかあります。それをご紹介したいと思います。
まずその前に、聖書のごく基本的なことについてご紹介しておきます。
聖書は、日本語に翻訳されているものだけでもいくつもあります。時代を追って、翻訳が見直されて改訂版が出ているものもあります。
聖書は、初めて読む人には、確実にちんぷんかんぷんです。このシリーズが少しでも聖書を読む助けになれば、この上ない喜びです。
まず、私たちが手にする、あの分厚い聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」とが合わさってできています。「約」という字は、翻訳の「訳」ではなく、契約の「約」です。旧約聖書は創世記の天地創造から、イエス・キリスト降誕以前まで(BC=before Christ)に書かれたもの。新約聖書はイエス・キリスト降誕以降(AD=Anno Domini/主の年.ラテン語)に書かれたものです。なぜ旧約と新約かというと、神との約束(契約)の対象が、選民イスラエルから全世界のすべての民へと移行したということ。それを旧約/新約という言葉は表しています。
ですが、新しい契約(新約聖書)は、古い契約(旧約聖書)を理解して初めて、その意味が明確になってくるんですね。
聖書について話そうと思うと、あまりにいろいろなことがあって、何から話して良いのやら、とても迷います。
先ずは、聖書全体を見たときに何が見えてくるかということを、書いて行きたいのですが、それは次回以降ということで、続けて目を通していただけたら幸いです。
聖書は一般の書店にもあります。もし初めて買われるなら、主な所では新改訳第三版、新改訳2017、新共同訳、口語訳などがあります。内容は全く一緒ですが、訳された言葉が微妙に違うところがあります。また解釈も微妙に違ったりしていることもあります。
聖書の翻訳は、学者間でも意見が違うところがありますので、どの聖書がお勧めということは言えないのですが、このメッセージでは主に新日本聖書刊行会の新改訳2017から引用させていただいています。
キリスト教書店というのが都内には、私が知るだけでも5箇所あります。また各地の大都市にも、ひとつはあると思います。ネットでお調べいただければすぐにわかります。これらの専門書店では様々な信仰書や、賛美歌、CDなども見ることができます。
またスマホなどにダウンロードできる聖書アプリも各種そろっています。これらのアプリの長所は、どんなに細かい語句でも検索できるという点です。また聖書注解が添付されているものもあります。
是非お調べいただいて、聖書をお手元に置いてください。
それでは、今日も良い一日を!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #17
【 聖霊-6 ともしび 】
"そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。"
新約聖書 マタイの福音書 25章1~3節
この話は、イエス・キリストが再び迎えに来られる時のことです。その時、ともしびは持っていたけれども、油を用意していなかった「愚かな娘」の話です。ともしびとは聖霊のことです。
愚かな娘と賢い娘はどちらも、ともしびは持っていました。聖霊はイエス・キリストを主として信じた者の内に住まわれる、神なる存在、内に燃えるともしびです。ですから、愚かな娘も賢い娘も、どちらもクリスチャンです。
パウロはこう言っています。
"勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。" ローマ人への手紙 12章11節
霊に燃えているとは、聖霊の火がいつも燃え上がっていて、聖霊との関係を日々深めようとする人の有様です。
聖霊はクリスチャンの一人一人を、この世で特別な役割を果たすように導かれます。その役割というのは、人によっていろいろです。でもそれらはすべて、人々があなたを通して、そこに神を見るために与えられた役割なんですね。
でもそれは自分の努力や誠意、力や頑張りによってできるようなことではありません。私たちの内にそんな力はもともとないのです。
それはただ、聖霊の促しに耳を傾けて、従って歩むことによって実現するのです。しかも、従う力や従いたいという思いさえも、聖霊によって与えられるのです。だからとにかく聖霊を求める・・これが第一にするべきこと、ということになりますね。
せっかくともしびをいただいているのに、それを高く掲げ、いつも光輝くようにしようとはせず、人の見えないところに置いて、それを無用なものとして取り扱ってしまう・・。それが入れ物に油を用意しなかった愚かな娘だというわけです。すなわち、聖霊を求めない人です。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9) とは、聖霊のことを言っているんですね。
聖霊は、信仰生活の要です。
結論は、聖霊を求めなさい・・です。
祈り・・「主よ、あなたとの関係を深めるということの意味が、私に分かるようにしてください。そしてそのためにこの私を聖霊で満たしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
これで6回にわたる「聖霊」は終わります。
次回から「聖書」です。
God Bless You !
※ 聖書のメッセージを初めてお読みになる方は、#1からお読みになることを、お勧めします。