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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #49
 
【祈り-4 応答の祈り】

"主が来て、そばに立ち、これまでと同じように「サムエル、サムエル」と呼ばれた。
 サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。"
 サムエル記 第一 3章10節

 これは、預言者サムエルが少年の頃、祭司エリに仕えていた時のことで、サムエルが初めて、神から直接語られた時の話です。
 サムエルは、自分が呼ばれる声を聞いて、それをエリが呼んでいるものと思い、何度もエリのところに行くのですが、エリが呼んだのではありませんでした。その様子を見ていたエリは、サムエルが神に呼ばれているのだと気付くのです。それでエリは「今度呼ばれたら『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」とサムエルに告げたという・・その話の中の一節です。

 エリは、神に語られるということを知らなかったサムエルに、神の御声に耳を傾けることを教えられたわけです。

 私たちが聖書を読む時や礼拝でメッセージを聞く時、この「主よお話しください。しもべは聞いております。」という姿勢は、その時が実のある時となるためには、とても重要です。
 その時に私たちは、ある特定のみことばが心に響き、それが離れなくなってしまうことがあるんですね。そしてそれを繰り返すことで、主が語ってくださるとはこういうことかと、徐々にわかってくるというわけです。

 さて、ここからが主題なのですが、それは、そのような時に私たちは、返事をすることが求められている、ということなんです。
 例えば「主よ、それが本当なら、本当だとわかるようにしてください」とか「わかりました。ただ、私にはそれをする力がありませんから、それを実行する勇気と力をください」とか、またあるときには「私は本当に罪深い者でした、悔い改めて、今再びあなたの十字架を見上げます。私の罪をお赦しください」ということもあるかもしれません。
 とにかく、自分のありのままの思いを申し上げるのです。
 
 お父さんが自分の子に語る時、子が何の反応もせず、分かったとも言わず、そのまま外に遊びに出て行ったら、お父さんは怒りますよね。「わかったのかどうか、返事くらいしなさいっ!」と。
 返事をしないというのは、父の権威を認めていないという態度です。
 ですから、語られたのが父なる神であるならそれは、絶対なる主権者、あがめるべきお方を無視するという、もともとの罪びとの姿と、何ら変わりがないことになってしまいます。

 でも、一言でも主に応答するならば、それが主とのコミュニケーションの入り口になるんですね。
 心にあることをそのまま申し上げることは、実は主との関係を深める上で、とても重要なことです。
 そういう関係の中で、自分が本当に求めるべきことはこっちだったのかと、軌道が修正されていったりするわけです。そうなると祈りの意味も、ずいぶん違ったものになるのかもしれません。

 このような主との関係の中で、私たちは「主と共に歩んでいる」という実感を持てるようになるんですね。
 そして、自分が思い描いていることを遥かに超えた、主によって備えられた、冒険の人生を歩み始めるのです。

 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます!) と叫びたくなります。

 ようこそ、冒険の世界へ・・!
 と、言いたい。(笑)

 祈り・・「神様、聖書を読みますから、私にお語りください。そして私が答えることも、忘れることがないようにしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 次回は「御霊による祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.31.Fri 12:32 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #48

【主の祈り その10】

「主の祈り」にはほとんどの場合、最後にもうひとつ言葉があります。
 それは・・
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」

 この最後のことばでは、それまでに祈ったすべてのことについて、どうしてそんな願いができるのかという、理由を述べているんですね。
「〜だからこそ、こんな祈りができるんです」・・と。

 その理由は、こうです。

 私は以上6つのことを祈りましたが、
 それはあなたがまことの神であり、
 国を興すも滅ぼすも
 あらゆる力(権力)も
 それが栄えるのも衰えるのも
 ぜ〜んぶ、あなたのみ手の中にある
 あなたは、そのようなお方だからです。

 だからこそ、私はあなたに祈るのです。これを求めることのできるのは、まことの神、主よ、あなたのほかには誰もいないからです・・と。

"キリストはすべての支配と権威のかしらです。"
 コロサイ人への手紙 2章10節

・・この主への信仰の告白と、賛美の思いで、この祈りを締めるわけです。

 主の祈りが、ただ習慣的に唱えられているだけだとしたら、それはとても悲しい状況だと言わなければなりません。

 6つの祈りについて、もう一度まとめてみます。

1.「御名が聖なるものとされますように。」
 ・・福音が広がって、ますます主の御名があがめられることを、御国への展望の中で願う。

2.「御国が来ますように。」
 ・・約束の御国と、主の再臨を待ち望む。

3.「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
 ・・地上における聖霊の著しい働きを求める。

4.「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」
 ・・必要なもののすべてを与えてくださる主への、信仰告白を込めた願い。

5.「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」
 ・・十字架という、自分への赦しのみわざを確認した上での告白。

6.「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
 ・・みことばと祈りの生活が、できているかを確認した上での願い。

 力強い「主の祈り」が、すべての教会でささげられますように!

 これで祈りのシリーズの3番目「主の祈り 全10回」を終わります。

 次回は「祈り-4 応答の祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.30.Thu 04:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #47

【主の祈り その9】〈皆で祈る祈り〉
 
 主の祈りの中には「私たち」という言葉が6回出てきます。そのことを意識すると、例えば試練だったら「群れとして受ける試練」と言ったイメージが浮かんできます。

 群れ(教会)として受ける試練で、先ず思い浮かぶのは、教会が始まってから今日に至るまで、ずうっと続いてきた「迫害」です。
 この迫害によって、数えきれないほどの人がイエス・キリストの名の故に殉教 (信仰の故に殺される) してきました。それは多くの場合、キリスト教を排除しようとする権力者による死刑でした。その数は日本だけでも20万人だそうです。(ウィキペディア参照)
 現在では、イスラム圏や中国で信仰を持つことは命がけです。そして殉教者の数は、報じられてはいませんが、決して減ってきているわけではないそうです。

 そしてもう一つ、教会が会う試練として、教会内に微妙に違う教えが入り込み、福音を骨抜きにしていくという「異端の教え」があります。
 この世における教会の使命は、イエスこそがまことのキリスト=救い主であり神であることを証しし、滅びゆく魂を救いに導き、永遠のいのちと御国への希望を得させることです。
 ところが異端の教えが入り込むことによって、イエス・キリストの存在とか十字架がいつのまにかどこかへ行ってしまうという「福音の空洞化」を招くようなことが起こります。 
 すると、永遠のいのち、キリストの再臨と天の御国という、神が提供されているものからは、全く視点が逸らされてしまって、慈善や博愛、また精神修養などを標榜する人の集まりになったりするんですね。こういうことは新約聖書の書簡(手紙)の中でも既に見られます。

 異端は現在、はっきりした宗教団体がいくつもありますが、教会の中にも異端の教えが忍び込むこともあるようです。
 異端とは、聖書を使っていながら、その本筋を大きく外れている教えです。異端を見分けるのに簡単なリトマス試験紙のような言葉がありますが、それは「イエスは神ですか」というものです。
「はい、そうです」と言えなかったら、おそらく異端ですから注意なさってください。
 そのようなところでは、行いやお金を積むことで救われると教えられたり、聖書のほかに「正典」なるものがあったりします。

 迫害は力づくで、そして異端は教えのすり替えによって、まことの神があがめられるのを、あらゆる手を尽くして阻止しようとして働く力、すなわちサタンの働きの顕現 (見える形で現れること) なんですね。
 これが「悪からお救いください」の「悪」の正体です。

 今の日本にはあまり危機感がありませんが、いつ体制がひっくり返るか分からないのが、今の世界情勢です。そして世界の半分では、クリスチャンたちが命をかけて信仰を守っています。
 教会が悪の力によって試練に立たされることのないように日々祈ることは、私たちの当然の務めなのではないでしょうか。そしてそれは「自分の教会が」というイメージではなく、全世界に於いて一つの「キリストのからだ」という意識をもって祈っていくことが求められているのだと思います。

 次回は、「主の祈り」の最後に付け加えられる言葉・・
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」
 について考えてみようと思います。

 おっとその前に・・、主の祈りは、個人で祈ることを否定するものではありませんので、お一人でも祈ってくださいね。イエス様が教えられた祈りですから。

 God Bless You !
  
 
2020.01.29.Wed 08:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #46

【主の祈り その8】

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」

 試みと言いますと、試練すなわち誘惑、困難、失敗、挫折、絶望など、信仰生活に於いても順風満帆には行かない様々なことがあります。
 
 次の二つのみことばを見てください。

"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。"
 コリント人への手紙 第一 10章13節

" 苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っている 〜 "
 ローマ人への手紙 5章3~4節

 これらのみことばは、どんな試練の中でも神は必ず共にいてくださり、脱出の道を備えてくださるし、返って私たちに良いものをもたらすのだ、と教えているわけです。
 となると、今日の祈りの後半の「悪よりお救いください」という願いの言葉が、なんとなくピンとこなくなるんですね。

 しかし一方、こんなみことばもあります。

"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。"
 ペテロの手紙 第一 5章8~9節

 私たちは、実はこの悪の力に常にさらされているんですね。そして、主が完全に勝利をされたのだから、この悪の力は消え去ったのかというと、そうではないのです。私たちを神から引き離そうとする力は、今もあらゆる機会を狙って攻撃してきます。特に私たちが神に近付こうとすればするほど、その力も増してくるので、とてもわかりやすいんですね。
「悪からお救いください」の「悪」とは、サタンのことです。
 サタンがしようとすること・・、それは「神を見えなくすること」です。

 パウロは、信仰生活には戦いがあるのだと言っています。

"私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。"
 エペソ人への手紙 6章12節

 そしてさらに私たちには、この戦いのために与えられている「武具」というのがあって、それを用いればサタンの力に振り回されることはない、というのです。
 武具、それは真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣であるみことば、御霊による祈り・・という7つのことばで表現されています。

 この7つの内、特に最後の二つ、即ちみことばと祈りは、「御霊の」とか「御霊による」とか言われているように、主との関係をさらに深めていくための重要なものです。そしてこの二つが土台となって、他の武具についても理解が深まり、武具を使いこなす者としてさらに成長させられていくんですね。
 みことばと祈りは、戦いにおける必須のアイテムなんです。

 こうして見ると、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」という祈りは、祈りと聖書を読むという備えがされている上での、戦いの最前線でする祈りである、ということがわかります。

 このように主の祈りは、最後まで実に様々な角度から、信仰生活の見直しをさせてくれる祈りなんですね。

 この主の祈りシリーズ、もう少し続きます。

 次回は「皆で祈る主の祈り」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.28.Tue 11:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #45

【主の祈り その7】

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」・・続きです。

 前回は「交通事故で我が子を失った人がこれを聞いたら、どうなるのでしょうか。これでは八方塞がりです。」というところで終わりました。

 私たちは、こういうことの小さなケースだったらよく体験するのではないでしょうか。小さなことを赦せないんです。
 自分が赦されていることをすっかり忘れて、人のことは赦せなくなるという、どちらかというと情けない状態です。
 ひょっとしたら私たちは、日常的にそういう状態に陥っているということはないでしょうか。
 
 ペテロはイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」とお聞きしたら、イエス様は「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」と言われました。(マタイ18:21-22)
 もちろん490回までは許しなさいという意味ではありません。完全に赦しなさいという意味です。
 私たちは、そうしなければいけない存在だというのです。

 小さなことでさえも赦せないというのは、一体どういう状態なんでしょうか。
 それは・・、自分が赦されているということについて、本当に思い知ってはいない、ということなのではないでしょうか。
 簡単に言えば「十字架の意味が漠然としている」ということです。

 自分が赦されていることに実感が持てていないから、赦すことができない自分がそこにいたとしても、当たり前のように思っている・・。そのような事態になってしまうわけです。

 私たち(クリスチャン)は、イエス様の十字架のあがないという保証書をいただき、永遠に赦されながらこの地上を歩んで行ける者とされているんですね。
 そうでなかったら 「私たちの負い目をお赦しください。」という祈りは、赦されるかどうかもわからないのに、ただ物乞いをする様に祈るということになってしまいますが、そうではないのです。この祈りは確実な赦しをいただいている者としてする祈りなのです。

 そして「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という祈りは、その土台の上での祈りであるわけです。

 この五番目の祈りを祈る時に、それが真実な祈りであるという実感を持てないとしたら、その人に必要なことは、次のように主にお願いすることなのではないでしょうか。

「主よ。この私が、あなたの十字架の意味を、十字架上での苦しみの意味を、それが愛であるということの意味を、明確に知ることができるようにしてください。」と。

 イエス様は例え話の中で、熱心にしつこく、何度も何度も求めなさい。そうすれば聖霊は与えられるのです、と言っておられます。(ルカ11:13)

 十字架の意味は聖霊によって初めて見えてくるものです。ですから十字架の意味が見えるように、粘り強く願い続けることをお勧めしたいと思います。

 主の祈りが、力ある祈りとなるためには、クリスチャンであることの土台ともいうべきこの部分が、固く据えられている必要があるんですね。

 赦し難い加害者を赦すというクリスチャンの話を聞くことがありますが、それは、この十字架という土台の上にあって、初めてあり得る「神の奇跡」なのです。

 次回は、最後の願い「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.27.Mon 06:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #44

【主の祈り その6】

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 負い目とは、赦すか赦さないかを問われている状態のことです。
 人との関係に於いて、これは避けられないことなのではないでしょうか。残念なことですが、クリスチャン同士でさえ、許す許さないの関係になってしまうことがあります。

 クリスチャンは、キリストのあがないを信じて、救いそのものとなってくださったキリストを自分の内にお迎えして、古い自分に死んで新しいいのちに生きる歩みを始めた者です。
 しかしながら、肉体には罪の性質というものがあって、それが残っているんですね。クリスチャンだからといって、別に立派な人になったわけではないのです。次のみことばがそれを語っています。

"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。" コリント人への手紙 第二 4章7節

 宝とはキリストご自身です。そしてキリストをいただいている私たちは「土の器」だというのです。ちょっとぶつけるとすぐに壊れちゃうんです。そのようなもろさ、弱さ、そして愚かさを持つ私たちから、光が輝き出てくるものだから、「これはあんたじゃないわ」と、人々はそこに立たれているキリストを見るというわけです。もしその人が土の器じゃなくて、立派な陶器のようだったら「あんたは偉い!」となってしまって、逆にキリストの存在が隠れてしまうんですね。だから「土の器」であることは、それで良いです。
 しかし、「土の器」は愚かなこともしてしまうんですね。
 そして、冒頭で書いたような「赦すか赦さないかを問われている状態」、すなわち負い目を負ってしまうようなことさえあるわけです。

 でも私たちは、キリストの十字架の下に身を置くことによって、その都度キリストの赦しと愛の中に立ち返ることができる。要するに、神に愛され、赦され、さらに赦され続けている者なんです。
 でもそれがために、逆に身動きの取れない状態にはまってしまうことがあるんですね。
 それは、ただ信じただけで赦されたのに、また今も赦され続けている者なのに、「自分に負い目のある人を赦せない」・・という事態です。

 これだけはどうしても赦せないということ・・、おそらくあると思います。例えば交通事故で我が子を失った親御さんは、加害者を憎み赦せない心に苛まれて、本当に苦しまれるのだと思います。許せないからといって、それを責めることなど、できようはずがありません。

 でもイエス様は、この「主の祈り」を教えられた直後に、こんなことを言われているんです。

"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。"
 マタイの福音書 6章14~15節

 交通事故で我が子を失った人がこれを聞いたら、どうなるのでしょうか。これでは八方塞がりです。

 今回は長くなりそうなので、二回に分けたいと思います。

 この答え・・知りたいですよね。

 では次回。、

 God Bless You !
 
 
2020.01.25.Sat 06:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #43

【主の祈り その5】

 主の祈りの後半の三つは、「自らのことについて、神に求めるべき基本的な願い」です。

 その第一番目。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」

「今日も」というところに注目してください。これは、昨日まで与えられたすべてのものは、あなた(神)が与えてくださったものですという、信仰の告白に他なりません。
 
 このように、すべてのことの上に主を認めることは、信仰の基本です。
 ところがうっかりすると、自分に能力があるからだとか、自分が努力してるからだとか思ってしまいがちです。
 しかし能力はもちろんのこと、努力する力や、さらには努力しようとする思いさえ、神から与えられているものなんですね。それらが一瞬のうちに取り去られてしまって初めて、あれは自分のものではなくて与えられていたものなんだと、気付いたりするわけです。

 ですから日毎の糧を「今日も」と言うことは、その信仰に今日も立っていますということを、神の前に言い表すことであるわけです。そしてその姿勢を神は喜ばれるのです。

 信仰は、神が私たちを判別するための最も大切なポイントなんですね。信仰こそが実は、神の前に一番へりくだった姿勢だからです。

 ですから、祈るときには「今日も」というところに、心を込めたいものです。
 主はそれを聞かれるたびに、微笑んでおられるに違いないのです。

 次回は、自分のことについての二番目の祈り・・
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.24.Fri 09:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #42

【主の祈り その4】

 主への願い。その三つ目。

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」

 前半の三つは神の国に関することだと書きましたが、この三番目の願いは、その神の国の力がこの世にもたらされるための願いです。

 天とは、ある空間のことを言うのではなくて、神とその右の座に着かれておられるイエス・キリストの存在そのもののことを指しているんですね。
 ですから天では、神のみこころが行われるのに、障壁はどこにもないわけです。
 それに対し、地上とその空間は「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)」すなわちサタンが私たちの目に覆いをかけて、その心が神の方に向いたりすることが決してないようにと暗躍している世界なんですね。

 ところが神は、今この暗闇の世において、サタンの支配に風穴を開けられたのです。それが御子イエス・キリストの十字架による、すべての人の罪のあがないと、復活による死の力の無力化です。
 なぜそれが風穴なのかと言うと、サタンは罪と死という、二つの切り札を使って、私たちを神から引き離そうとしているからです。その二つの切り札が、イエス・キリストによって完全に無効とされてしまったんですね。それで、人々が神の国に一歩足を踏み入れるための扉が開かれたのです。
 そして、このイエス・キリストを心にお迎えした者は、罪と死から解放された「世の光」とされて、暗闇を照らすようになるのです。

 世の光・・それはその存在によって、人々がそこに神を見るという役割を果たす存在だということです。
 クリスチャンが自覚しなければならないことは、自分が神の権威を帯びてこの世に立っているということです。
 サタンの支配が打ち破られて、風穴が開いているのは、このクリスチャンを通して神の栄光が表されるところだけなのです。

 そしてさらに、もう一つ考えなければならないことがあります。それは、福音が広がり多くの者が神に立ち返るというのは、聖霊の働きだということです。
 キリストが天に上られた後の著しい聖霊の働きを見れば分かるように、世に光をもたらすその働きをするのは、実は聖霊であって、その聖霊に仕えるているのがクリスチャンだということです。
 
 ですから「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るときには、以下のことをはっきりと覚えるべきなんですね。

 この祈りは、聖霊の著しい働きが、教会とその地域と国の上にあるようにという願いであること。
 そして祈る自分自身も、御霊に自らを預けて、神に用いていただく者にしていただきたいという願いであること。

そのような思いで、毎回祈っていきたいものです。

 これで神の国に関する願いが出揃いました。

 そして後半は自分に関わる身近なことについての祈りです。
 
 God Bless You !
 
 
2020.01.23.Thu 09:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #41

【主の祈り その3】

 主の祈りの二つ目の願いは、
「御国が来ますように」です。

 聖書には、メシヤであるキリストは、二回来られると書いてあります。
 一回目は、ベツレヘムで赤子として生まれ、人の子という姿で地上に来られました。すなわち初臨のキリストです。

 そして二回目を再臨と言います。キリストはまだ再臨していません。キリストの再臨は、旧約聖書の多くの箇所や、イエス様のことばや弟子の言葉、そして黙示録に預言されているところの「終わりの時」にあるとされているものです。

 初臨は救いの完成をもたらしたものですが、再臨は救われる者とさばかれる者とをふるい分けるために、天上の御姿をもって再び来られるというものです。

 そしてそのあとに用意されているのが、地上に於ける千年王国という、キリストとその聖徒たちが支配する世の中。さらにそのあとには、今の天地は消え失せ、新天新地「天のエルサレム」が与えられるというのです。

 御国とは、千年王国なのか天のエルサレムなのか、意見が分かれるようです。
 でもイエス様は御国のことをたくさん話されていて、そのほとんどが、この御国に入れる人と入れない人の話なのですが、黙示録によれば、それが確定するのは天地が滅び去った後のことなんですね。
 またマタイの福音書には、御国という言葉が45回も出てくるのですが、その内の32回は「天の御国」なんですね。
 だったら「御国」というのは、地上に実現する千年王国のことではなくて、神のすべての計画の最終の着地点、天のエルサレムだということになります。

 どちらにしても、御国の到来を待ち望むということは、主の再臨を待ち望むことでもあるわけです。
 でも私などは、神と出会う人々がもっと起こされなくてはと思うと、「イエス様、もうちょっと待っていただけませんか」と言いたくなってしまいます。

 しかし今、世界は歴史上見たこともないような事態になっています。それは1%の人間が全世界の富の90%を握っているという、恐るべき「終末的な」状況です。しかもその1%の人間は、自分の富をさらに増やし続けなければいけないという構造の中で、そこから抜け出そうとしているならまだしも、そのために人の命を虫けらのように扱って、金儲けにいそしんでいるという有様です。
 貧困や飢餓や難民・・それらはすべて利権獲得を最優先にして引き起こされた出来事の結果です。
 聖書によれば、こういうことは空中の支配の権威を持つサタンが、罪の性質を持つ人間を、死への恐れでがんじがらめにし、とにかく自分を守るという行動原理の中に閉じ込めた、その結果が形になって現れて来たものだというのです。
 貧困や悲惨の中に生きる人々にとっては、こんな世の中は生きる価値のないところです。

 神は、永遠というスパンの中で「今」を見せてくださり、この世では寄留者で、帰るべき故郷を持つ旅人なのだということを示してくださいました。

"彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。
 ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
 神が彼らのために都を用意されたのです。"
 ヘブル人への手紙 11章16節

 結局この「御国が来ますように」という祈りは、この暗闇の世にあって、本当の光の世界が約束されているということを覚え、主の再臨を待ち望む祈りなんですね。
 ですから「御国が来ますように」と祈るたびに、私たちは主の再臨の御姿を思うのです。

 次回は三つ目。
「みこころが天で行われるように、
 地でも行われますように。」です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.22.Wed 10:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #40

【主の祈り その2】

 主の祈りについて、そのひとつひとつを見ていきたいと思います。

 まず冒頭の「天にいます私たちの父よ」に関しては、#38の「祈り/最初の言葉」をご参照ください。

 今回は、主の祈りの6つの願いの一つ目。
「御名が聖なるものとされますように」
についてです。

 今までの多くの聖書では、ここは「御名があがめられますように」となっています。また教会の礼拝では、「御名をあがめさせ給え」と祈っているところもあります。
 しかしこの三つの言い方を見ても、なんとなく分かりにくいのではないでしょうか。

 その意味を一言で言えば、「主なる神が本当に神としてたたえられることを私は願い、それを喜ぶ者です。」という思いを表す祈りです。
 そしてこれがまず、筆頭の願いであるべきだというわけです。

 神をたたえるのは「人々」です。それを望むということは、世の人々が皆、まことの神様を礼拝するようになりますように・・という願いに通じます。
 しかし、この世の人々は神から離れて、神に背を向けて歩もうとしています。そしてその人々の心をしっかり掴んで、神に目を向けさせないようにしているのがサタンで、この世はそのサタンの支配下にあるのだと聖書は言っています。(エペソ2:2)
 そこにイエス・キリストによる救いのみわざが成し遂げられ、今は地の果てまでその救いが届こうとしているわけです。
 要するにそれは、一人一人が神の手の中に取り戻されてきているということです。そしてその一人一人が、神の御名を聖なるものとしてあがめる者となるわけです。

 でもサタンは相変わらず暗躍を続けています。世はまだ神の手に取り戻されてはいません。今まで見てきた神の全体の計画によれば、このサタンが完全に駆逐されるのは、世の終わりの時点なんですね。そして神の手に完全に取り戻される世界が実現するのは、そのあとだというのです。
 そしてこここそが、文句なしに御名が聖なるものとしてあがめられるところであるわけです。

 ですからこの「御名が聖なるものとされますように」という願いは、世の人々の救いに始まり、最終的には完全に神の支配下にある御国を求めるという思いにもつながる、壮大な祈りなんですね。
 またこうしてキリストと共に歩むようになった者に、どのような希望が与えられているのかを、その都度思い起こさせてくれる祈りでもあるわけです。

 次回は主の祈りの二つ目、
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
 です。

 God Bless You !
 
 
2020.01.21.Tue 11:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
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そしてキリスト教談義・・
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G-Cafe 聖書のことば #68【人を量り見る】(02/22)
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G-Cafe 聖書のことば #66【神の武具 まとめ】(02/20)
G-Cafe 聖書のことば #65【神の武具 その7】祈り(02/19)
G-Cafe 聖書のことば #64【神の武具 その6】御霊の剣(02/18)
G-Cafe 聖書のことば #63【恵みの故の成長】(02/17)
G-Cafe 聖書のことば #62【神の武具 その5】救いのかぶと(02/15)
G-Cafe 聖書のことば #61【神の武具 その4】信仰の盾(02/14)
G-Cafe 聖書のことば #60【神の武具 その3 】平和の福音の備え(02/13)
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