G-Cafe 聖書のことば #74
【罪と死】エペソ2:1 後半
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、"
エペソ人への手紙 2章1節
1節の後半「罪の中に死んでいた者」についてです。
人は罪を犯したから罪人(つみびと)なのではなく、神から独立して歩もうとする高慢から、罪を犯す人になったのだと、前回書きました。
神から独立して生きようとする者は、自己防衛が必要です。自分で自分の身を守るという姿勢です。
近頃当然のことのように使われている「〜ファースト」という言葉がありますが、罪人の基本スタンスは自分ファースト、すなわち自己中心です。
ここから派生してくるのが、心の罪であり、実際に犯す罪なんですね。
アダムの最初の子カインは、アベルを妬みのために殺します。早速殺人が始まるのです。
また、神が洪水を通して、ノアとその家族だけを救うことにしたのは、「地に暴虐が満ちていた」からだと書いてあります。
私たちは、その罪のために「死んでいた者」であったと言うんですね。
罪のために死んでいると言われると、なんとなくは、わかる気はします。
生きるというのと、罪の中にいるというのとは、どうしたって相容れない感じがしますよね。
パウロはこう言っています。
"あなたがたは知らないのですか。
あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。
つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。"
ローマ人への手紙 6章16節
ここでパウロは、罪人は罪の奴隷なのだと言っています。
それは、罪につかまって、従わざるを得なくなるということです。
私たちは自分が言ったこと、やったことの刈り取りをすることになるんですね。刈り取りとは、その結果に実ったものを自分のものとして受け取ることになる、という意味です。
思うだけでも、実際に犯す罪にしても、その結果として、人は何かを背負わなければならなくなるのです。
完全犯罪・・という言葉があります。誰にもその犯行を見抜かれないように、あらゆる場合を想定して、自分が疑われないように、知恵を絞ってあらゆる手を尽くす。
その人はまさしく、その罪の奴隷であり、罪に仕えるためだけに全てをささげて生きているという、死んだも同然の存在になってしまっているわけです。
「罪の報酬は死」なんですね。(ローマ6:23)
罪の支配下で、自由に生きることはできないんです。
パウロは、同胞に向かって、あなたがたは、以前はそういう人だったことを忘れないようにしましょうね。そして、それが過去のものとなったことを、しっかり心に刻みましょうね、と言っているわけです。
クリスチャンとは、自分の背きや罪の奴隷から解放されて、全然変わっちゃった人なんですね。
次回は、エペソ人への手紙 2章2節
"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
というところを見ていきます。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #73
【背きと死】エペソ2:1-9より
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、"
エペソ人への手紙 2章1節
エペソ2:1-10 のみことばを、今日からゆっくり見ていきたいと思います。
2章1節。「あなたがたは 〜ていた者」という言い方をしています。
信仰を持った人々に対して「以前の自分」がどういう者であったかを思い起こさせているわけです。
ということは、今はそれとは全く違う、新しい人になったんですよね、という意味でもあります。
でも「自分の背きと罪の中に死んでいた者」と言われても、背きとか、罪とか、死について、はっきりした認識を持っていないと、そのまま聞き流してしまいます。
背きとは、言うまでもなく、父なる神に対する背きです。
それは、父に対して背を向けること。向き合おうとしないことです。
しかしながら私たちは、意識的に神を無視してきたというよりも、むしろ当たり前のようにして無視してきたような気がします。
これがエデンの園から追放されたアダム以来の、人の姿なんですね。
エデンの園は、人が神と共にいて、神の祝福と守りの中で、永遠のいのちをもって過ごすはずのところでした。
ところがアダムは、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木の実」を食べてしまったというのです。
善悪というものは、神しか管理できないものだから、そこに手を触れてはいけないよ、と神は警告されていたのです。ところがアダムはそれを無視してしまったんですね。
要するに人というものは、神と共にあって初めて、正しく歩むことができるように作られたのに、アダムはその神から「独立」しようとしたということです。
そしてその一歩を踏み出してしまった・・それが「善悪の知識の木の実を食べた」ということになるわけです。
それでアダムは、同罪のエバと共に園を追放されることになるんですが、この時から人は「死ぬ者」となったと書いてあります。(創世記3:22)
アダム以来の「人」というものは、神から独立して歩もうとする者。
すべての人がそのような基本的な性質をもって、生まれ、そして育ち、その生涯を死に向かって、汗水流して生きる・・。
人類の歴史は、「そういう人」の歴史なのだというのです。
そしてそこに神が介入されてきた様子を、聖書は記しているんですね。
エデンの園から追放したからと言って、神は人を見捨ててしまったわけではなく、ここに大きな神の計画があったというわけです。
それはともかく、これが「人」の基本的な姿なんですね。これを聖書では「罪人(つみびと)」と呼んでいます。
私たちは罪を犯します。だから私たちは罪人と言われても仕方がないのですが、それだから罪人だというのではないんですね。
罪人とは、神を脇に置いて、神を無視して歩もうとする者のことを言うのです。
罪を犯したから罪びとになったのではなくて、神から独立しようという高慢の結果、罪を犯すんですね。
そして、ここではそれを「罪の中に死んだ者」と言っているわけです。
後半はその「罪の中に死んでいた者」について考えてみたいと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #72
【エペソ2章1〜9節】
少し長いですが、このエペソ人への手紙 2章1〜9節を、お読みください。
ここには、人とはどういう者で、どういうことをしていた者で、神との関係はどうで、神はどういう方で、私たちに何をしてくださったか、その目的は何か、私たちが最終的に行くところはどこか、どうすることによって、そうなるのか、何のためにそうなったのか・・、
それらのことがまとめて書かれています。
これからしばらくは、その御言葉をひとつひとつ、じっくり見ていきたいと思います。
先ずはその全部をお読みください。
今回はそれだけで終わります。
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、
ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。"
エペソ人への手紙 2章1~9節
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #71
【聞いてもわからない】
"あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。
見るには見るが、決して知ることはない。
この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。"
使徒の働き 28章26~27節
今回のこの聖書の箇所は、話を信じようとしないユダヤ人たちに向かって、パウロが言った言葉です。
それはイザヤ書(6:9-10)に書かれていることを、そのまま彼らにぶつけたものでした。
このイザヤ書は、パウロの時代から遡ること700年、すでにこの時イスラエルの民がいかに神のことばに対してかたくなであるかを指摘しています。
しかし同時に、イスラエルの民であるユダヤ人たちにとって、自分たちが神に選ばれた民であるこという自負は、揺るがないものでした。
実際、神はイスラエルを特別に取り扱ってこられました。そんなユダヤ人にとって、イエスが本当にキリスト (イスラエルの歴史の中で預言されてきた「来たるべきお方」) であるかどうかは、命をかけるほどの重大事だったわけです。
来たるべきお方が、その当時の世の中に登場したというのですから、にわかには信じがたい話であるのはわかります。
そこでパウロは、聖書に書いてあることと、イエス様のすべてのことを照らし合わせ、それは一致しているのだということを示し、イエスこそが本当にそのメシヤであるのだと話したわけです。
ですから、そのことが一番はっきりわかるのは、聖書に精通したユダヤ人であるはずなのです。ですが彼らは、その上でパウロの言うことを拒んだのです。
彼らはパウロのことばを聞いても、それがわからなかったのです。
話は飛びますが、今の世においても、福音を聞いて、ある人たちはそれを受け入れますが、ある人たちは受け入れません。
それはどういうことなんだろうと考える時、「あるものを捨てなければならないことを直感するから」・・なのかなぁという考えに思い至ります。
それは「今までの自分」です。
イエスを自分の救い主として受け入れるということは、自分の生活を「自己中心から神中心へ」と切り替えることです。
それって、言ってみれば、今まで自分が立っていた土台がなくなってしまうということです。
自分には助けが必要だとわかる人であれば、自分を切り替えることは、進んでできるかもしれません。しかし今のままの自分に何の問題も感じない人は、今の自分が揺らぐようなことは、決してしないんですね。
神という存在を認めること。それは自分の土台を崩してしまうことなんですね。
福音の大前提は、この神がおられるということです。
ですから、私は神を信じることにしようという決心は、一大決心であるわけです。
神からのメッセージは、神を認める者の耳に、初めて聞こえてくるのです。
あなたを愛し、あなたの帰りを待つ、父なる神がおられる・・。
これも神を信じる者でなければ、意味のない言葉なんですね。
神を信じる・・ここが「真理」の要なのです。
祈り・・「神さま、もしあなたが本当の神なら、信じてみようと、思えるようにしてください。」
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #70
【愛する】
"愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。
神は愛だからです。"
ヨハネの手紙 第一 4章7~8節
愛する人というのは、神から生まれて、神を知っている人だということを、ヨハネは強調しています。
さらに、「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」と言っています。
神を知っている、神を信じていると思っていても、そこに愛がないなら、クリスチャンとしては失格ですと言われているようです。
しかし、自分の中に愛がないことを感じているクリスチャンも、少なからずおられるのではないでしょうか。
クリスチャンは、イエス・キリストを内にお迎えして、キリストにあって死に、キリストにあって新しいいのちに生きるようになった者です。
ですがクリスチャンは、その時から突然神のようになるわけではないんですね。
新しく生まれたクリスチャンは神の取り扱いの中で「変えられて行く」んですね。(第二コリント3:18 参照)
だから安心してください。自分がどうあろうと、大船に乗ったつもりで、自分を主に預けることに専念すれば良いのです。
そして主との交わりが深まることによって、主ご自身を内にいただいていることが喜びとなり、力となり、愛が形になって出てくるようになるわけです。
イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。
(ヨハネの福音書 13章34節)
ならば、主がどのようにして愛してくださったのかを知らなければ、愛するということが何のことだかよくわからなくても、仕方がありません。
だったら、主の愛がどのようなものなのかを知ることを求めなさいということです。
"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節
この愛がわかるようにしてくださいと、祈り求めましょう。
主にすべてを預け、「主よ。私に、あなたの愛がわかるようにしてください。」と。
人の愛を求めても、そこには限りがあります。人は弱い者ですし、その愛も変わっていってしまうこともあります。
愛されることの中にではなく・・
愛することの中に、本当の満たし、豊かさがあるんですね。
愛することの中に、自分の癒しがあるんですね。
愛することの中に、力があるんですね。
そして、愛することの中にすべての解決があるんですね。
自分の内に愛がないことに気付くなら、それは大きなプレゼントなのです。
なぜならその人は、自分を主にゆだねるしかないことを知るからです。
主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #69
【天の御国】
"ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。
その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。"
マタイの福音書 18章23節
今日の箇所は、全財産と家族、あらゆるものを差し出しても返せないほどの、とてつもない額の借金の清算を迫られた人の話。その冒頭の部分です。
清算を迫られた時に、その男はとても返せなかったので、平伏して「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言います。
その様子を見て、金を貸した主君は、かわいそうに思って彼を赦し、その負債を免除したというのです。
そうです。借金が帳消しになったのです。
普通ではあり得ない、哀れみを伴った赦しを、この男はいただいたという話です。
ところが彼は、100デナリの金を貸していた男に出会い、「借金を返せ!」と迫るのです。1デナリは1日分の労賃です。ですから100日分の労賃ということになるわけで、結構な額の借金です。それを返せ!と迫るわけですが、それは無理な話でした。それで彼は「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言う男を、怒って牢に放り込んだというのです。
100万円貸しているのに返さない人。腹が立ちませんか?
この男は怒って、彼を牢に放り込んだんですね。分からないでもない話です。
ところがこの男は1万タラントの借金を免除してもらっているんですね。1タラントは1デナリの6000倍です。1デナリが仮に1万円だとすると、1万タラントは間違っていなければ6兆円になります。
すなわち、返し得ない借金だということです。
とても返せない負債を負っていたのを、なんとこの男は、免除してもらっていたんですね。
ところが100万円を自分から借りているのに返せない人を、この男は許すことが出来なかった・・。
私たちが罪を赦されるために、支払われた額は、神ご自身が人の子という姿で御子を遣わし、十字架にかけるというものでした。それが6兆円に例えられているんです。
ところが日常の生活の中に立ったとき、「許されるべきではない人」に向き合うことがあります。その時に迷わず「許さない人」になってしまう・・。そのことの例えであるわけです。
要は、神に対する自分の借金が、本当に6兆円だと思っているのか、さらにそれが帳消しにされたと、本当に思っているのか・・。それが問われる話なんですね。
主君の最後の言葉はこうです・・。
"私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』" 33節
私たちにはもともと、そのようなあわれみの心はないんですね。でも自分があわれみを受けた「額」を知れば、あなたはあわれみをもって人に接する者となるんですよ、と言っているわけです。
許せない人がいますか? それは、あなたが主の赦しの額が分かっていないことの印なんですね。
ですが、主はそんな私たちをもあわれんでくださるお方です。
ですから、次のように祈りましょう。
「主よ、私が赦されるのに、どれほどの大きな犠牲が払われたのか、私がそれほどの罪びとであること、それがはっきり分かるようにしてください。」
私たちをあわれみ深い者としてくださるのは、主ご自身なんですね。
主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #68
【人を量り見る】
私が初めて聖書を読み始めた時、最初に立ち止まって、そこから目が離せなくなってしまったことば。それが今日のみことばです。イエス様は言われました。
"さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。"
マタイの福音書 7章1~3節
さばくとは、ある秤(はかり)で人を計り、その数値に従ってその人を評価する、すなわちその人の存在価値を、自分が決めるという行為です。
秤にはいろいろなものがあります。学歴とか家柄とか、また感性などもそのひとつかもしれません。自分と合わない人は存在価値がない。この世にいることの意味さえも認められない・・。
私はこのみことばに出会った時に、そんな感覚が自分の中にあることがはっきりわかったんですね。
「自分が量(はか)るその秤で量り与えられる」とあります。
秤が厳格な人は、人からも厳格な評価を受けるということです。
でも私たちの実態は、そんな評価を受けたらひとたまりもない、欠けだらけの人間なのではないでしょうか。
目の中にちりとかホコリがあれば、なかなか景色も見えにくいものです。まっすぐに物事が見えないんです。
そんなことは、自分だっていくらでもあります。
なのにあなたは、そういう人の様子を見て、秤の材料にしているでしょう・・という指摘です。
それを秤に使っていながら、なんとも思わないでいるあなた。そのあなたの目。それは、何も見えていない「梁の入った目」だというのです。
梁(はり)とは、家の柱の上に横に渡し、屋根を支えるための太い材木です。そんなものが目の中に入っているんだったら、正しい秤ではかるとかいうことよりも、まずその太い梁を外しなさいという話です。
片っ端から人をさばき、評価をして、一体あなたはどこに座っているんですか、と問いかけられているのです。
そのことを私は、がつ〜んと言われたんですね。
私は、この言葉に逆らえる何ものも持ち合わせていませんでした。ですから、「はい、その通りです」と、素直に思いました。
イエス様は「まずその梁を取り除きなさい」と言われました。でもみなさん。その梁・・取り除けますか。
イエス様はいろいろなところで、私たちにはでき得ないことを「しなさい」と言われています。
どうすればいいんでしょうか。そこでイエス様が言われている答えがあるんですね。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
(マタイ9:13)
イエス様のもとに行って、その赦しといやしと、聖められる者としての歩みをいただくことができるのは「罪人」すなわち「自分が罪人だと認めた人」だというのです。
今日の結論・・
イエス様は、梁を取り除きなさいと言われているのですが、実はそれを取り除くことができるのは、イエス様ご自身なんですね。
悪魔がやってくる所について書くつもりが、イエス様が来られるところの話になってしまいました。こっちの方が大事です。(笑)
次回は「天の御国」です。
主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #67
【成功を収めた時】
"あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"
申命記 8章17節
私たちは成功した時、何かを成し遂げた時、何を思うでしょうか。
もし人の内に、神という存在がなかったら、この成功は自分の努力の賜物だと思うでしょう。それが一般的な考え方です。
しかし、今日のみことばは、富を手にした時、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」とは思うな、と警告しています。
こんなみことばがあります。
"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。"
箴言 10章22節
国が栄える時、それはその国民が勤勉だったからだと考える。また会社で昇進した時、それは自分の能力とか努力によって得たのだと思う。
でも実際は、もっと違う要素が絡み合って、その国.その人は栄えたのだということが、後になって分かったりすることがありますよね。
聖書は、祝福は神によるのだと、初めから終わりまで、口を酸っぱくして言っているのです。
しかし聖書の中でも、残念なことに殆どの場合、祝福を手にすると心に奢(おご)りが入り、不遜になり、神の怒りをかって、その祝福が取り除かれてしまうというパターンが、ずっと繰り返されて来ているんですね。
私たちは、どれだけ謙虚に生きようと思っても、心の奥の奥では、「おれなんだよ、これは。。。」と思っちゃうんですね。
それを神は、ダメ・・と言われるんです。
なぜかというと、そうやって神を忘れてしまうからです。
努力が報われない人だっているんです。また、才能があるにもかかわらず、世に埋もれて死んでいく人もいるんです。
人の成功の秘訣は、一にも二にも、努力しかないんだよ・・という考えは、間違っているということです。
聖書は次のように言っています。
"あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。"
箴言 3章6節
簡単に奢りの方向に向いてしまう私たちの内に主がいてくださる。
その主は、肉の性質を釘付けにした死と、今までの自分にはなかった新しいいのち、そのものであるお方なんですね。
その名はイエス・キリスト。
この主を見上げるときに、「あなたの道はまっすぐにされる」んですね。
祈り・・
「主よ、私が成功した時、富を得た時、どうかあなたを忘れることがないように助けてください。
その時には、返って、あなたの御名をほめたたえる者でいられますように。」
主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
次回は、「計り見る」です。
G-Cafe 聖書のことば #66
【神の武具 まとめ】
"悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。"
エペソ人への手紙 6章11節
今日のみことばは、7つの武具の前置きの部分で、このシリーズの最初に引用したみことばの一部です。
ここでは、神のすべての武具を身につけなさい、と言っています。
そうです。「すべての」です。
ということは、ひとつひとつの武具は、どれも欠かせないものだということです。
その目的は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」と言っています。
悪魔の策略、それは、まことのいのちである主なる神のもとにいるあなたを、暗黒の世界に転落させようと、あらゆる手を尽くして張り巡らされた罠のことです。
悪魔の手口は実に多岐に渡っていて、常に警戒しているということが、なかなか難しいんですね。
悪魔がやってくる入り口の中には、とても分かりづらいものがあります。
例えば成功を収めた時、知識があると思った時、悪を見た時、人の愚かさを見た時、人の成功を見た時など・・。
分かりやすいものだと、各種の誘惑、失敗、絶望、怒り、高慢、批判、貧困、劣等感など・・、並べたらきりがありません。
これらを並べれば分かるように、悪魔に足を救われる場面は、生活のあらゆる場面に、地雷のように埋め込まれているんですね。
でも、神が示された7つの武具をしっかり備えれば、このようなすべての状況の中にあっても、足を救われることなく、しっかり乗り切ることができるというわけです。
そんな地雷群の中で「堅く立つ」ことができたら、それはもうスーパーマンです。
では、7つの武具のおさらいです。簡単な言葉で頭に叩き込みましょう。
1 真理の帯・・全能の神である主を信じていることを思い起こせ。
2 正義の胸当て・・神の御心がなんであるかを、常に知ろうとせよ。
3 平和の福音の備え・・福音についての明確な理解を、いつも求め続けよ。
4 信仰の盾・・ハッとしたら、いつでも主に目を向けられるように心備えをせよ。
5 救いのかぶと・・「恵み」によって救われた自分の身分を思い起こせ。
6 御霊の剣・・聖書を読め。
7 御霊による祈り・・どんな祈りも、共にいてくださる聖霊を覚えて祈れ。
私自身、これらの武具について毎回書くごとに、新しい認識をいただいてきました。
主の御名を心より賛美します。
皆さんが、主にあって与えられる武具を備え、堅く立つ者とされますように・・、心より願っています。
次回は「成功を収めた時」です。
主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
G-Cafe 聖書のことば #65
【神の武具 その7】祈り
"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
エペソ人への手紙 6章18節
神の武具の最後に登場するのは「祈り」です。大体において、一番最後に出てくるものは、一番重要なものなんですね。
祈りが戦いのための武具になるというのは、なんとなくわかりますよね。でもここでは「どんな時にも御霊によって祈りなさい」と言っています。
御霊によって祈るって、どういう祈りなんでしょうか。
祈り始める時、共におられる御霊を覚えて祈ると、自分が思っていたこととは違うことを祈っているということが、よくあります。
御霊によって導かれる祈りというものがあるんですね。
それは、御霊の思いと波長を合わせて祈っていると言ってもいいかもしれません。演奏家が共にリズムを合わせて合奏する、といった感じですか。。
そしてその祈りは、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも」・・と言っています。
ということは、祈るのだとしたら、それらはすべて「御霊によって祈る」というスタイルで祈りなさい・・ということになります。
そうなるともう、一日中御霊の思い、すなわち主に寄り添って過ごすという話になってきます。
でもこれこそが、私たちがさまざまな武具を、いつでもさっと取り出して的確に使えるために、欠かせない環境だというわけです。
だとすると「御霊による祈り」は武具のひとつというより、あらゆる武具を、いつもさりげなく使えるようにするための土台だと言えるのかもしれません。
そして今日のみことばの後半は、すべての聖徒のために祈りなさいという話になっています。聖徒とは、主と共に歩む同胞のことです。
ですから、ここで言いたいことは、日常の「御霊による祈り」を、さらにあなたの身の回りの、戦いを共にしている人たちのためにも祈るというところまで広げなさい、ということになります。
ですからパウロはこの流れで、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っているわけです。
御霊によっていつも祈り、主の御思いの中にいつも自分を置く・・。
これで、あなたはいつでも、さりげなく日常的に、神の武具を取り出して使う人になる、というわけです。
これで、武具のシリーズは終わりですが、次回は今までに見てきた7つの武具を、もう一度まとめて目直してみたいと思います。
祈り・・「主よ、御霊による祈りを教えてください。」
主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!