G-Cafe 聖書のことば #91
【新しく生まれる】ヨハネの福音書その8
" イエスは答えられた。
「 〜 人は、新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできません。」"
ヨハネの福音書 3章3節
これは、ニコデモというユダヤ人の議員がイエス様を訪ねてきたときに、イエス様が語られたことばです。
この話は1節から15節まで続きます。
ニコデモはイエス様に「あなたは神のもとから来られたと教師です」と言いました。
そうしたらイエス様はニコデモを見透かすようにして、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言って話を始められたんですね。
ニコデモは自分の考えに基づいてイエス様のことを「神のもとから来た教師」と評したわけですが、イエス様の話は、その評価の物差しではとても測ることのできないような内容でした。
新しく生まれるとは、それまでとは違う人になる、ということです。そしてその「違う人」にならなければ、神の国は理解することはできないんですよ、と言われたわけです。
ニコデモは自分の物差しではとても量れないこの言葉を聞いて混乱してしまいます。
そこでイエス様は「イスラエルの教師」であるニコデモに、詳しくその話をし始めるのですが、ニコデモがそれを本当に理解したかどうかは、ここに書かれていません。おそらく理解できなかったのだと思います。
なぜなら、弟子達でさえ、3年もの長い間、毎日イエス様と共にいて、奇跡を見て、神の国についての話を聞き続けていたのに、結局何もわかっていなかったんですね。
本当にわかったのは、イエス様が天にのぼられた後に激しく下った聖霊によって、初めて目が開かれ、イエス様が言われたことに合点が行ったわけです。
この聖霊を受けた人たちは120人ほどの人たちでしたが、もしここにニコデモもいたなら、この時初めて目が開かれ、このイエス様のことばを理解できたのだろうと思います。(使徒の働き2章)
イエス様の話は続きました。
新しく生まれるとは「御霊によって生まれる」ことなのだというのです。
それはもっぱら外的要因によってということで、完全に受けるものだという意味を含んでいます。
ですからイエス様はこんな言い方をされました。
「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
・・と。
御霊は神から来て、その御霊によって人は新しく生まれるです。
ニコデモはこの話がさっぱりわかりませんでした。
その時、イエス様はさらにわからないことを言われます。
これは「わたしたち」が証ししているのだと・・。
「わたしたち」と言って当てはまるのは、父である神と、子であるわたし、ということです。
父なる神と一緒になって、こうしてしるしと不思議を見せ、神の国の話をしているのに、あなたのわたしに対する評価は「神のもとから来られた教師」ですか。わたしがキリストであることを信じなかったら、地上のことはもとより、神の国のことなど信じることはできませんよ・・というわけです。
そして、イエス様はご自分のことを、「天から下ってきた者、人の子」だと言われたわけです。
それはイエス様こそが、神の子として天から下り、人の子すなわち、私たちにも見える姿で来られたキリストなのだ、という意味です。
そして最後に 「人の子」が来たのは〜のためなのだ・・と、結論を言われました。
この部分、15節は次回に回したいと思います。
祈り・・「神様。この話が理解できるように、私にも聖霊を与えてください。アーメン。」
長くなりますが、1-15節を、以下に添付します。これを読まれると、この解説もさらにわかりやすくなると思います。
God Bless You !
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ヨハネの福音書 3章1~15節
" さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」"
G-Cafe 聖書のことば #90
【信頼できるお方】ヨハネの福音書その7
" ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。"
ヨハネの福音書 1章14節
「ことば」とは、#84でご紹介した通り、キリストのことです。
例によって、キリストを示す部分を「キリスト」と置き替えてみますと・・
" キリストは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはキリストの栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
キリストは恵みとまことに満ちておられた。"
・・となります。
キリストは、神と共におられた「ひとり子としての神」であり、もともと「人」ではなかったんですね。
そのキリストが、私たちの見える形、すなわち「人」という姿で、しかもマリヤの胎から赤子で産まれるという形で来てくださったというのです。
「私たち」すなわち、ヨハネと当時の人々は、この方=キリストの栄光を見たというのです。
それは、この方=イエス・キリストは神のみもとから来られたひとり子なる神、すなわちこの方こそがまことのキリストであるという宣言に他なりません。
そしてこの方=キリストは、恵みとまことに満ちておられた・・と言っています。
恵みとまこと・・
主の恵みとは、これまでずっと書いてきたように、
神の方から来られた。
神から発せられた。
神が一方的に備えてくださった。
・・救いそのものです。
しかも、神に背を背ける者、もともと「御怒りを受けるべき」者のために一方的に与えられたものです。
このギフトのことを「恵み」というわけです。
そしてこれが人々に表された「神の愛」なんだ、と主張しているのが聖書です。
そしてこの方は「まことに満ちておられた」と言っています。
まこととは真実という意味です。それは、曲がったところがなく、ごまかすところもなく、一本の太い線として貫かれている・・、真実とはそういうものです。
キリストはその真実そのものだというわけです。
信じなさいと言われているこの方、イエス・キリストは「信頼に値するお方」で、この方の言われることは決してぶれることはなく、この方を信じる者は決して裏切られることはない、ということです。
でもそれを実際に見るには、本当にこの方が「実在」であることを信じる以外に、方法はないんですね。
ここからすべてが始まるんです。
イエス・キリストは、私たちに示されたただひとつの「恵みとまことに満ちたお方」なのです。
" この方以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。"
使徒の働き 4章12節
祈り・・「イエス様、あなたを信じます。私の歩みをあなたが導いてください。」
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #89
【神によって】ヨハネの福音書その6
" この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。"
ヨハネの福音書 1章13節
前回は「神の子どもとなる」ということを見てきました。
そのための人の側の行動の条件は、「その名を信じる」ということでした。
そして今回は、それは何によって生まれるのかという話です。
血によってとか、肉の望むところによってというのは、「人の側でできる何か」を表している言葉です。
血によってという言葉を見ると、聖書を読む人は、イエス様の流された血のことをイメージしますが、ここでは、人の血のことを指します。人が血を流すことによって何かを実現するという意味です。
また肉の望むところによってというのも、自分の願望の強さをテコにして、努力をすることで何かを成し遂げるということです。
また意思によってというのは、不屈の精神といった、意志の強さによってという意味です。
それらによって「神の子どもとなる特権」が与えられるのではない。「ただ、神によって」と言っているわけです。
それは、人の側からの力によって実現するのではない。起動力は神にあるということです。
人の側ですることは「信じる」という単純な動作、すなわち、心の中でスイッチを入れるだけだというのです。
今まで「恵み」ということを書いてきましたが、それも同じことです。
「恵み」とか「ただ神によって」ということを理解するのって、実はとても難しいんですね。
何故かというと、私たちの内には、どれだけぺしゃんこになっても、まだ自分の能力や意志の力に頼ろうとするという傾向があるからです。
確かに人はそれぞれ、いろいろな能力が与えられています。しかし、その能力が生かされるか、生かされないか・・。それはまた別の話なんですね。
ですから、自分の努力や発想は捨ててしまいなさいということではありません。
ある人が就職します。その会社は、悪徳会社かもしれないし、利得のためではなく社会のために貢献しようとする良い会社かもしれない。
あなたがすることは、就職先の会社によって、結果が違ってくるんですね。どこにいてもあなたの能力に変わりはありません。しかしあなたに社会貢献の一翼を担わせてくれるのは、その良い会社なのです。
人が、自分の歩みを、自分ファーストの思いに任せるのか、それとも一点の汚れも暗さもない神に任せるのか・・、
あなたの能力は同じです。しかし自分を預ける相手によって、やることは180度変わってくるというわけです。
だから「信じる」という出発点が、運命を全く別のものにするわけです。
主を信じるということは、主に自分を預けるということなのですから。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #88
【神の子どもとされる特権】ヨハネの福音書その5
" しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。"
ヨハネの福音書 1章12節
前回の最後、12節です。
「神の子どもとなる特権」ということばに、注目してみましょう。
神の子どもになるということは、文字通り、神の家、すなわち本当の父のもとに帰って、その家の子としていただくすべての恩恵を、当たり前のようにいただく者となる、ということです。
それは言い換えれば、「絶対なる主権を持ったお方の手の中に置かれた者になる」ということなんですね。
イエス様が弟子たちと共にガリラヤ湖を小舟で渡っている時、激しい突風が吹いてきて、舟は沈みそうになるのですが、イエス様は寝ておられたという話があります。
" そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。
イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。"
ルカの福音書 8章24~25節
私たちは、風や水の上にはもちろんのこと、天地万物の上に絶対的権威を持たれるこの神に「属する者」とされたんですね。
それまでは、神に敵対する勢力に「属していた」者だったのが・・。
人生には嵐もあれば、死の影の谷を行く時もあります。しかし私たちは、どんな時にでも、主がおられるという約束をいただいている者なんですね。
主は、次のように言われる方です。
" 主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
恐れてはならない。
おののいてはならない。」"
申命記 31章8節
しかしながら、それを忘れさせようとする力も、せっせと働きかけてきます。
弟子たちは水をかぶって沈みそうになる「状況」に目を奪われたんですね。
それに対してイエス様は「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言われたんです。
それは「状況」を見て恐れている暇があるんだったら、わたしを見なさい、ということです。
主が救いなんです。
主が助けなんです。
主が解決なんです。
これが「その名を信じた人々」の特権なんですね。
祈り・・「主よ。慌てた時に、あなたに目をとめる者とさせてください。イエス・キリストの御名によって。アーメン。」
次回はこれに続く13節を見てみたいと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #87
【すべての人を照らす】ヨハネの福音書その4
ヨハネの福音書 1章9~12節から
" すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。12 "
ここも1-5節同様、光=この方=キリストですから、その部分を「キリスト」と読み替えてみますと・・、
すべての人を照らすそのまことの光、すなわちキリストが、世に来ようとしていた。
キリストはもとから世におられ、世はキリストによって造られたのに、世はキリストを知らなかった。
キリストはご自分のところに来られたのに、ご自分の民はキリストを受け入れなかった。
しかし、イエス・キリストを受け入れた人々、すなわち、その名(イエスは救い主)を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。"
・・となります。
キリストという光は、すべての人を照らす光で、そこから漏れる人はない。
しかもその光は「まことの光」であって、それが来ようとしていたと、言っています。
そして「この方」は、大体において、この世の主(ぬし)なのに・・、
すべてがこの方の支配と権威のもとにあるのに・・、
そこに生かされている者は、その方を知らなかったというのです。
キリストとしては、ご自分のところにこられたのに、全く歓迎されなかった、というわけです。
受け入れなかったのは 「ご自分の民」。それはイスラエルの民=当時のユダヤ人のことです。
神は、ひとりの人ヤコブすなわちイスラエルを選び、一大民族とされ、奴隷状態のエジプトから導き出し、最終的には40年かけて、約束の地カナン(今のイスラエル国があるところ)に導き入れたわけです。
イスラエルの民は、自分たちを導いて来られた神が「わたしこそまことの神であり、他にはいない」という方であるというということを、こんこんと教えられながら、ダビデ〜ソロモンという王国の頂点にまで上り詰めます。
ところがあろうことか、彼らは結局その神を捨ててしまうんですね。
その結果として、他国の侵略で人々はこの地から追い出されてしまいます。
それでも神の恵みにより、もう一度人々はエルサレムに戻り、神殿を建て直し、改めて、このまことの神なる主をあがめる者となるという、復活の奇跡が起こります。
そしてそれから500年ほど経った時に、いよいよキリストが「人の子」として、地上に来られたんですね。
その時、「ご自分の民」は、この「来るべき方」キリストを受け入れなかった・・というわけです。
そして「しかし〜」と続きます。
「ご自分の民」は受け入れなかったけど、この方イエス・キリストを本当のキリストとして受け入れた人々には、イスラエルだろうが異邦人だろうが、すべての人々に「神の子どもとなる特権」をを与えたと、そう言っているわけです。
次回はこの「神の子どもとなる特権」を見ていきたいと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #86
【光】ヨハネの福音書その3
" 光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章5節
今回は1章冒頭の「ことば」、すなわちキリストについての最後のところです。
キリストが闇の中に輝いている、と言っています。
闇とは「世」すなわち、私たちが生きる地上の世界のことです。
こんなに美しい地球、ささやかな幸せ、暖かい人の絆、愛。
どうしてこの世が闇なんですか?という見方もあります。
この世界は神が創造されたもので、もともとすこぶる良いものでした。私たちは生きる中でその片鱗を見せていただきながら地上を歩んでいるんですね。
ですから、その片鱗を見させられたときには、えも言われぬ感動を覚えます。
しかし一転、人の歴史に目を向けると、それはまさしく「血塗られた世界」です。
エペソ2:2 にあるように、この世は「空中の権威を持つ支配者」すなわちサタンが支配しているのだというのです。
第二次大戦後も、戦争は止んでいません。富は、過去に見られないほどの一局集中化がますます進んでいます。
今平和でも、それが一瞬のうちに崩れてしまう・・。私たちは今、それをまざまざと見せられているようです。
聖書は、世は暗闇だと言っています。しかしそこに光が「輝いた」というのが、その全体のメッセージなんですね。
そして、闇がどんなに闇だったとしても、この光には勝つことができないというのです。
闇の支配者は、一つの切り札をもって人々を支配しています。それは「死」です。
光はこの「死」の力を打ち破ったんですね。復活のキリストのことです。
今も私たちには死が待っています。もしそれが終わりという意味ではなく、希望という意味に変わるのだとしたらどうでしょう。
それは、よみがえりと永遠への希望です。そしてこの地上において真理を手にしたのだという充足感をもって、死という「通過点」に臨む者となる、という希望です。
キリストが光であることは、光そのものを内にいただかなければ確認することができません。
確認してから内に迎えるのではなくて、信じて迎えたら確認できるのです。
イエス・キリストが光で、いのちで、よみがえりで、救いなのです。
キリスト降誕の700年前に、イザヤは預言をして言いました。
" 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。"
イザヤ書 9章2節
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #85
【いのち】ヨハネの福音書その2
この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章1~5節
前回のみことばの後半です。
ことば=キリスト という理解によって、このヨハネの福音書の冒頭が、イエス・キリストをという方をはっきり指し示すためのイントロ(序章)であることが見えてきましたね。
ヨハネの福音書は、新約聖書の初めに出てくる4つの福音書の4番目です。この4つはそれぞれ特徴がありますが、このヨハネの福音書は、イエス・キリストの「神性」を特に強調しています。
「神の子なる神」ということを、はっきり述べているのが、このヨハネの福音書なんですね。
"いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"
(ヨハネ1:18)
この「ひとり子の神」ということばがそれを象徴しています。
そして今日の箇所。「この方にはいのちがあった」・・
「いのち」・・それは、生まれてから定められた期間を生き、時が来ると死ぬといういのちではないことは、明白です。
このいのちは「死」とは別のもので、ここに死はないんですね。
「永遠のいのち」ということばが、福音書の随所に出てきますが、この「いのち」は「死」のないいのち、いのちそのものなんですね。
まことのいのちは死には繋がっていないのです。
エデンの園でアダムとエバに与えられたものは、この「いのち」でした。
そして、聖書の最後、黙示録に出てくる新天新地における永遠のいのちも同様です。
アダムは、神から独立する道を選んでしまったので、園にはいられなくなりました。ここで初めてアダムとエバは「死ぬ者」となったんですね。(創世記3:19-22)
この方にはいのちがあった・・。
神ならば、いのちを造られた側の存在ですから、いのちが必要であるはずはありません。
そのいのち・・、それは「人に与えることのできるいのち」そのものだと言っているんですね。
キリストがまことのいのちだというのです。イエス様は言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)
そして次、
このいのちは人の光であった・・。
このまことのいのちは「人の光」だというのです。
光は人を照らします。どんなお化粧をしているか、全部見えちゃうんですね。心のお化粧の話ですけど。
あるいは、人の歩みのための光という風にも受け取れます。すなわち、歩むべき道を照らす光です。
でも、そんな意味を超えて、光とは本来、人を通して発する、神ご自身の存在、栄光なんですね。
そしてその光を輝かすことこそが、人が生きることの意味であるとも言えるわけです。
次のみことばが、そのことを一言で言い表しています。
"イエスは再び人々に語られた。
「わたしは世の光です。
わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
いのちの光を持ちます。」"
ヨハネの福音書 8章12節
ヨハネの福音書、しばらく続きそうな気配がしてきました。(笑)
余裕のある方は、ヨハネの福音書を先に読み進めておかれると良いかと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #84
【ことば】ヨハネの福音書その1
"初めにことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネの福音書 1章1~5節
私たちが一番わかりにくいのは、イエスが神の御子であり、しかも神であり、天地創造より前に父なる神と共におられたキリストである・・ということではないかと思います。
キリストは「人の子」という姿をとって2000年前、ベツレヘムに登場したと、聖書は言っています。
そして赤子から成長し、30歳ほどになった時改めて、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受け、神から遣わされた御子キリストとしての働きを開始されました。
人々は、聖書の400にも及ぶ箇所で預言されているメシヤ=キリスト=油注がれた者「来るべき方」を、待ち望んでいました。
それは、ダビデの子孫として来られて、神の国を確立させる方という理解でした。
ですからイエス様がロバに乗って入城された時に、人々はこう叫びました。
「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(マタイ 21:9)
ホサナとは、「今、救ってください」という意味です。
人々は、当時のローマの圧政下から救ってくださるヒーローとして、イエス様を迎えたんですね。
しかし、それは人としての英雄でした。
しかしイエス様はご自身について、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9) と言われたんですね。
しかし人々にとって、目の前に見ているキリストが神と同格の方であるということなど、とても理解できることではありませんでした。
この前提を踏まえて、今日のヨハネの福音書の冒頭を見ていただきたいのです。
「ことば」とは、ギリシャ語で宇宙の支配者的な意味を表すロゴスという原語を訳した言葉です。
これがキリストを指すことばなんですね。
ヨハネ1:1〜5 の文脈は、ことば=神=いのち=人の光、となります。
ですからこれらを「キリスト」と読み替えると、その全貌が見えてくるわけです。
初めにキリストがあった。
キリストは神とともにあった。
キリストは神であった。
キリストは、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、キリストによって造られた。
造られたもので、キリストによらずにできたものは一つもなかった。
キリストにはいのちがあった。
このキリストは人の光であった。
キリストは闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。
びっくりするようなことが書かれているわけです。
しかしイエス様が十字架に掛かられる直前の祈りの中にも、こんな言葉があります。「世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光」(ヨハネ17:24)
キリストは天地万物が造られる以前に神とともにおられた神なんですね。
そしてさらに、このイエス・キリストが、砂粒の中の一つのような私たちのことを、かえりみてくださるのでというのです。
これはもう、私たちの理解の限界を超えています。
しかも、私たちはその方とつながり、心に迎え、自分の存在をその方に委ねるということができるというのです。
ここを繋ぐのはもう「信仰」以外にはないんですね。
これからしばらく、キリストとはどういうお方なのかを見ていきたいと思います。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #83
【誰も誇ることがないため】エペソ2:1-9より
今回は、もう一度前回の8節と、それに続く9節を、合わせて見てみます。
" この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。"
(エペソ人への手紙 2章8-9節)
「それはあなたから出たことではない」・・
この救いのシステムは、人の英知によって考え出されたものではない。また自分の良心とか深い洞察力とかによって得られるようなものでもない。神の賜物なんだ、というわけです。
賜物とは、何かに対する報酬ではなくて、一人一人の上に「恵みとして与えられる良いもの」のことです。
その人の行いがどうだこうだという次元のことではない、というわけです。
そしてそれは「だれも誇ることのないため」なのだというのが、最後にくる言葉です。
すなわち、だれも誇ることがないように、神はこういうやり方で人を救うことにしたのだ、というのです。
パウロはこう言っています。
"有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。"
コリント人への手紙 第一 1章28~31節
神が人を用いられる時には、「取るに足らない者、見下されている者」を選ばれるのだというのです。
何か良いところがあるとその人は、神の前に、自分が何か資格があるから選ばれたのだと勘違いするから、そういう人は選ばないというのです。
私たちは、神を信じてどうなったのかというと、ただキリストのうちにあって、生かされているだけ。だってキリストが私たちにとっての「知恵と、義と聖とあがない」そのものなんだから・・と、そういう人になったんですね。
だから、もし何か誇れるものがあるとすれば、主を誇る以外に何もない・・。
主にあって新しく生まれた者とは、そのような者なんです。
誰も誇ることがないためです。
誇る者は主を誇れ。
ここがある意味で、神が導かれるゴールなんですね。
主なる神の御名がほめたたえられますように!
祈り・・「主よ、あなた以外に私が誇りとしているものがあるなら、それが見えるようにしてください。」
今回でエペソ1-9シリーズは終わりにします。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #82
【神の賜物】エペソ2:1-9より
" この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。"
(エペソ人への手紙 2章8節)
救いについての捉え方として、この最初の二行は、とても大切なことを教えてくれています。
それは、上から来る「恵み」と、私たちの側から発する「信仰」、そして結果として「救い」。この三つはセットなんですよというものです。
救いは、神が提示された恵みに対し、人が受け取るという形で実現するのだということです。
そしてさらに、次の説明が加わります。
「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
賜物とは、神から一方的に与えられた良いもの、という意味です。
ここでやんわりと、次のように注意しているわけです。それはあなたがたから出たことではないのですよ・・と。
それはただ恵みとして、ありがとうございますと言って、受け取るしかないものなのですよと。
神を本当に神とするというのは、肉の性質を持った私たちが最も苦手とすることなんですね。
でも、聖書に書かれている恵みを、私たちが本当に理解するために、最低限に必要なことが、このことなんです。
主は言われます。
"地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神だ。
ほかにはいない。"
イザヤ書 45章22節
そしてもうひとつ、パウロの言葉をここにご紹介します。
" すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。
アーメン。"
(ローマ人への手紙 11章36節)
神を本当に神と認めること・・。これって、結構な難関なんですね。
祈り・・「主よ、あなたを本当の神だと認めるとは、どういうことなのか、私にもわかるようにしてください。」
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !