G-Cafe 聖書のことば #81
【私たちの役割 その2】エペソ2:7
"それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。"
エペソ人への手紙 2章7節
前回はいきなり終末の話に突入いたしました。それで戸惑っている方々もおられるのではないか思いまして、これを書きました。
この節のキーワードは「世々に示すため」です。
私たちクリスチャンは、この罪深い世から「あがない出された者」です。
クリスチャンは、たとえ迫害や困難や希望のないところに立っていたとしても、ある意味では、もうすでに天に引き上げられているという「状況を超えた」存在なんですね。
それはすなわち、この世とは混ざってしまうことのない、いわば塩味の効いた存在です。
クリスチャンと教会は、この世にあってはそのような存在、別の言い方では、暗闇の中の光であるわけです。
あなた方は世の光です、とイエス様は言われました。また、明かりを灯すなら、それを隠すようなところではなく、家全体を照らすために「燭台の上に」置くでしょう。そうすれば家にいるすべての人を照らします・・と言われました。(マタイ5:13-16)
明かりはあなた。そして燭台は教会です。(黙示録2:20参照)
今世界はまさに、その本質であるところの「暗闇」を露呈し始めています。私たちはそんな世界の中で、光として生まれ生まれかわった者なんですね。
ならば当然のこと、それを人々が見えるようにすることは、私たちの当然の義務であるわけです。
光は隠すためではなく、照らすためにあるのです。
妻の前で、夫の前で、家族の中で、職場で、学校で、近所付き合いで、いろいろなグループで・・、その場所は必ずしも明るくはないかもしれません。しかし光は、光りさえすれば、どんな暗闇の中でも圧倒的に光なんですね。
でも、ひとつ注意事項があります。
それは、光を放とうとするあまり、自分で一生懸命輝こうとしてしまい、結局はそのことに疲れてしまう・・。
これ・・私たちが陥りやすいところなんですね。
光源はまことの光なる主イエス・キリストなんです。自分で輝こうとする必要はないのです。
ですからもし、その光を放つために努力することがあるとすれば、それは自分で輝こうとすることをやめることです。
それは、灯りの上に覆いをかけているようなもので、逆効果なんですね。
自分が光源なのではないのです。
この大事なところを、結構忘れてしまうんですね。・・というより、そこには、主が本当にこの自分の内に輝いておられる存在だと、思っていない可能性があります。
もうこれは、そのように信じて、あとは忘れてそこに立つしかないんですね。
大体、その時に主が光を放ってくださっているんだぁ、なんて思っていたら、とても変になってしまうこと、請け合いですから。
主は、本当に生きておられる「光なる神」で、信じる者の内に、決して離れず、共にいてくださる方なんですね。
ですから私たちが立てば、そこは世を照らす灯台なんです。
「この限りなく豊かな恵み」を、世にはっきり示すのは、主ご自身なんですね。
そしてそれができるのは、主から与えられているものが、全て「恵み」なのだと心得るからなんですね。
これが実は「豊かな恵みを世に示す」ということなのです。
次回はエペソ2:1-10から、「神の賜物」です。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #80
【私たちの役割】エペソ2:1-9より
"それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。"
エペソ人への手紙 2章7節
この限りなく豊かな恵み・・それは4〜6節に書かれていることで、この節の言わんとしていることは、それを来るべき世々に示すのが、主が私たちに与えられた役割だということです。
そしてその目的は言うまでもなく、さらに多くの魂が主に立ち返るためです。
しかし、次のエゼキエル書37章を見ると、今はもう「来るべき世々」とか言ってられない時代に入ってきたのではないか、という気がして来ます。
"神である主はこう言われる。
見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。〜 "
エゼキエル書 37章21~22節
主なる神が、世界中に散っているイスラエルの民を集め、一つの国とするというのです。
そして「一人の王」とは、このあとの24.25節から、「わたしのしもべダビデ」すなわち「ダビデの子」と言われるキリストであることがわかります。
このことは、歴史の中ではまだ成就していません。
預言者エゼキエルの時代の30年ほど後(BC520) に、イスラエルの民は捕囚から帰り、神殿が再建され、事実上ユダの国となり、さらに500年後にイエス様が地上に来られました。しかしその「王となるべき方」は十字架に付けられ、ユダはAD70年に、ローマによって完全に滅び、ユダヤ人は世界中に散らされてしまったんですね。
ところがそれから時が経ち、1948年に世界中からユダヤ人が帰ってきて、イスラエルという国が忽然と現れます。
でも現在はまだ、そこにキリストが王として立っているという状態にはなってはいないわけです。
黙示録によれば、キリストが王として立たれるのは、大艱難時代の最後に再び来られた後の「千年王国」においてです。
その千年王国の前段階の大艱難時代には、反キリスト(荒らす憎むべき者)によって、神殿が蹂躙されるということが起こるとされています。
しかし現在、その神殿の場所にはイスラムのモスク(あの金色のドーム)があって、蹂躙されるはずの神殿がまだないのです。
当のユダヤ人たちはそこに入ることができず、神殿の城壁の外「嘆きの壁」で祈り続けているという状態です。
ところがそのユダヤ人たちは今、神殿再建に向けて着々と準備をすすめているんですね。
あの金のドームがイスラエルの神殿に替わるようなことがあれば、それは紛れもなく「秒読み開始」の時となります。
これらのことを並べて見ますと、今は、このエゼキエルや他の預言者、またイエス様ご自身が「終わりの時」について語っていることが、とてもリアルに感じる時代になってきていることがわかります。
今はもう「来るべき世々」という言葉が似合わなくなってきている・・そんな風に感じるのは私だけでしょうか。
私たちは、この終わりの時にあっても、いや、あってこそ、「この限りなく豊かな恵み」を世に示すことに力を尽くして、主に仕えたいものです。
次回は、もう一度、この箇所の補足です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #79
【天上にすわる】エペソ2:1-9より
"神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。"
エペソ人への手紙 2章6節
これらのことは、過去形で書かれていますが、クリスチャンが、キリストにあってよみがえったり、その後に天上に座するというのは、携挙(けいきょ/後述) という出来事以前にはあり得ないことです。
ですからこれらは明らかに、未来のこと「これから起きること」で、将来的な確定事項を過去形で表して、それが揺るがない約束であることを表現しているように思えます。
イエス様がこう言われているところがあります。
"人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。
すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。"
マタイの福音書 24章31節
イエス様は再び来られるんですね。それを「再臨」と呼んでいます。
私たちは再臨という言葉を漠然と使っているかもしれませんが、聖書を読んで行きますと、キリストが再び来られる時というのには「携挙」と「地上再臨」の二つがあることがわかります。
携挙とは「上に引き上げられる」ことで、キリストが地上に来られるのではなく、キリストにある者が「空中」に引き上げられるというのです。
その時のキリストの御姿は、イエス様が天に上られた時と「同じ有様」で来られる、と使徒行伝1:11 に書いてあります。
これに対し、地上再臨は「王の王、主の主」として、燃える火のような目を持ち、白い馬に乗られ、天の軍勢を率いて、「全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれる」(黙示録19章) ために来られるという、初臨のキリストとは打って変わった御姿で来られるものです。
携挙の様子が具体的に書かれているところがあります。
" 〜 号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。
そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。
こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。"
テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節
この携挙がどの時点なのかについては、意見が分かれるところなのですが、ヨハネの黙示録の7章9節には「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」とあります。
この群衆は、明らかに御使いではなく、キリストによってあがなわれた者たちです。その無数の大群衆がすでに天にいるという場面です。
しかし、今の時点でそのような存在が天にあるというような記述は、聖書のどこにもありません。
そしてこの天の大群衆の光景は、黙示録で子羊が7つ目の封印を解くより以前のこと、として記されています。
ですから携挙は、少なくとも大艱難時代の初頭かそれ以前ということになります。
どちらにしても、この携挙という出来事を通して、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださる」ということは実現するんですね。
今日の箇所は、そのことが約束されているんですよということを、この手紙を見る者たちに思い起こさせているわけです。
次回は2章7節から「限りなく豊かな恵み」です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #78
【恵みによる】エペソ2:1-9より
"しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"
エペソ人への手紙 2章4~5節
3節には、すべての人は「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であるとあり、それは神の御怒りだと書きました。
え? 神は愛なんでしょ? 自分たちの上に神の怒りがとどまっているというわけ? そんな神、俺は信じないよという話。時々聞きます。
そのことは、これまでにず〜っと言ってきたことですが、それは順番が違うんです。
すべての人は、神にとっては、怒りの対象でしかないような者なんです。そんな私たちをそこから救い出すために、神ご自身の側から、その道を開いてくださったんです。
それは、怒りの対象である私たちを、神は断腸の思いで愛してくださっていることのゆえ、なんですね。
放蕩息子の話が一番わかりやすいように思います。私たちはもともと「その家の子」だったんですね。
神の怒りは、帰ってくるべき子に対する怒りなんです。
その子のいのちの救いのために、ご自身のいのちをささげてくださったんですから、これ以上の愛はないわけです。
ですから、その息子が一旦家に帰ると決めたら、父は帰ってくる子を走って行って抱きしめ、無条件で受け入れてくださるんです。
私たちは神の怒りの対象であると同時に、愛の対象なんですね。
その神を、この エペソ2:4 では「あわれみ豊かな神」と表現しているわけです。
そして、その神が何をしてくださったのかというと、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」のだと言っています。
そうです。「キリストとともに」という方法で生かしてくださったというのです。
私たちは、キリストを救い主として自分の内に迎えることで、新しい者に変えられるのです。
このあまりにも私たちに良すぎる計らい。それが「恵み」という短い言葉で言い表わされています。
しかし神は、そのために筋を通さなければなりませんでした。
赦されるはずのない者の罪をうやむやにすることは、神にはあり得ないことなんですね。
そこで神は、人々の目の前に「これを見よ」と言って、私たちの身代わりとして十字架にかけられた御子イエス・キリストを掲げて見せたのです。
これがわたしの赦しのしるしなのだと、人々に、そしてそれが全世界に提示されたのです。
キリストは、あなたの罪を負って死なれ、そして三日ののちによみがえられました。
そのイエス・キリストご自身が、信じるあなたの内に救いとして、古い自分の死と、新しいいのちとなって生きてくださるのです。
そうです。死といのちをいただくのです。いのちだけいただくわけにはいかないんですね。まず「死」をいただいて初めて、いのちをいただくにふさわしい者となるのです。
実際には両方同時に・・ですが。
ここでもう一度、今日のみことばを味わってみましょう。
"しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"
次回は、「天上にすわる」です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #77
【生まれながら御怒りを受けるべき子】
エペソ2:1-9より
"私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"
エペソ人への手紙 2章3節
罪人の行動パターンは、サタンの支配下にあることに全く気付かず、この世の流れに従って「生き残り競争」の中を歩んでいるのだということを、前回は見てきました。
そしてこの3節では、もう一つの行動パターンとして「肉の欲のままに生きる」というのが出てきます。
そしてその罪人は「生まれながら御怒りを受けるべき子」だというのです。
肉の欲のとはなんでしょう。ガラテヤ人への手紙5章19-21節には、こう書いてあります。
"肉のわざは明らかです。
すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。"
淫らな行い、汚れ、好色・・これらが肉の欲だというのは、なんとなくわかります。
二つ飛ばして、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ・・これらもみな「自己保身」から来るもので、肉の性質であることはなんとなくわかります。
最後の二つの泥酔、遊興・・これは、神どころか、現実の全てからの逃避ですから、神とは真逆の方向すなわち、肉の欲に向いている有様そのものです。
そして、偶像礼拝、魔術・・
偶像礼拝とは、神以外のものを礼拝するということです。これが「肉の欲」だというのです。
まことの神から離れ、自分の考えで歩もうとする罪人・・それは結局虚偽の神を拝むようになるんですね。
その礼拝対象は、天地万物を造られた神ではない「偶像の神」などをはじめとし、もっと身近に頼れるもの、例えば人間だったりお金とかに至るまで、実に様々です。
私のミュージシャン仲間で、「オレの神はジャズだ」と豪語している人がいましたが、これも偶像礼拝であるわけです。
そしてこのような、神以外のものを拝もうとするのが罪人の基本であり、神に背を向ける行為の代表なんですね。
そしてその礼拝対象が悪魔である「魔術」は、明確に神に敵対し、自ら暗闇に突き進むという、罪人の肉の欲の最たるものと言えます。
そして、ここからが肝心なところですが、そのような者、すなわち罪人は、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だというのです。
誰の怒りかって、もちろん神の御怒りです。
え? 神は愛なんでしょ? 生まれながらの自分たちの上に神の怒りがとどまっているというわけ? そんな神、僕は信じないよという話。よく聞きます。
そのことが、次の4-5節に出てきます。
次回は「恵みによる」です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #76
【空中の権威を持つ支配者】エペソ2:1-9より
"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
エペソ人への手紙 2章2節
前回は「罪の中にあってこの世の流れに従い」というところだけを見ました。
今回は2節の後半、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」を見ていきます。
先ず、「不従順の子ら」・・それは何に対して不従順かというと、「父なる神」にです。
要するに「罪人」のことで、神に目を向けない人たちのことです。
そして、その人々の上には「ある霊」が働いているのだと言っているわけです。
それが「空中の権威を持つ支配者」で、その支配者の霊に「不従順の子ら」は、従っているというのです。
空中の権威を持つ支配者なら、それは神だと思われるかもしれませんが、それは不従順の子らを支配する「サタン」のことなんですね。
「サタン」と言われても、人々の受け止め方は漠然としたもので、どちらかというとおとぎ話の登場人物くらいにしか思えないかもしれません。
しかし聖書は最初から「サタン」という存在を認めているんですね。エバを誘惑した「蛇」がサタンです。
ヨブ記には神のところに行って願い事をするサタンが登場しますし、イエス様が荒野で断食している時も、サタンはイエス様に語りかけて誘惑したのです。
サタンは、神にもイエス様のところにも平気で近づくんですね。そして神はそれを許しておられる。そして「不従順の子ら」を支配するという状況さえ許しておられるんですね。
サタンは「終わりの時」の後に約束されている千年王国の時代にも、閉じ込められているだけです。その千年王国の最後から新天新地に移行する段になって、やっと「火と硫黄の池」に投げ込まれるのだそうです。(黙示録20章) なぜかサタンは、この世の最後の最後の時まで存在が許されているんですね。
聖書が正しいなら、サタンは実在するのです。
罪と滅びの中にある者に、それでいいんだよとささやく存在。それがサタンなんですね。
そして罪人は、何の疑いもなく「生き残り競争」のこの世の構造にがっちり組み込まれて、神などという存在はあり得ないという確信の中を歩んでいるわけです。
これが、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいる人」の姿なんですね。
次回は「御怒りを受けるべき子」です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
新型コロナウイルス感染症防止対策のため、
大野雄二トリオ/3月5日(木)鎌倉ダフネ公演は中止となりました。
お問い合わせは、鎌倉ダフネ (0467-24-5169)へお願い致します。
次回の鎌倉ダフネ/大野雄二トリオは
5月1日(金)です。
大野雄二トリオ/3月5日(木)鎌倉ダフネ公演は中止となりました。
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次回の鎌倉ダフネ/大野雄二トリオは
5月1日(金)です。
G-Cafe 聖書のことば #75
【この世の流れ】エペソ2:1-9より
"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
エペソ人への手紙 2章2節
この2節では、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」について、さらに具体的な説明をしています。
人々はそれらの罪の中にあって・・と書かれていますが、それは一言で言ってしまえば「神不在で」ということです。
ですから、神不在でこの世の流れに従っている、という意味になります。
神不在ですから、自分の道は自分で切り開き、自力で戦い、そのために備えをし、滅びることがないために、あらゆる知恵と力を尽くして生き残りを図る、ということになります。
それが実は「この世の流れ」なんですね。
それは、会社とか国を見れば、わかりやすいです。利権の確保を目指し、国でさえ生き残るためなら何でもする、というところがあるからです。
これは、今世界で起こっていることの、ほんの一例ですが、
例えば、世界中のすべての内戦には、それを後ろから支えている者たちが必ず背後にいます。内戦で戦う民は、ほとんど武器を持つ力などないところばかりですが、そこに武器を提供して戦わせ、勝てば恩を着せ、そこに自分たちの資本を投入して、経済的な支配者となるという構図があります。
今世界中のあちこちでそのようなことが起こっています。それをやっているのはもちろん「大国」です。それは「正義」とは程遠い、一般人でしたら死刑に当たるようなことばかりです。
また、神を全く認めていない一党独裁国家は、生きている人の臓器を奪取して、いつでも提供できるシステムを作り上げて、どんな臓器も二週間ほどで調達できる世界一の臓器提供国家になっています。
またあらゆる知的財産や機密情報を盗み取ることで、とうとうAI技術で世界最高峰に上り詰めました。
また巨額の融資をして、その国を借金漬けにして、実質的にその土地にある利権を奪ってしまうということを、あちこちでしています。
また強引なやり方で各国の指導者層を抱き込み、逆らえないようにして支配権を行使するというようなことも、何の疑いもなく行われているようです。
神を知っていながら無視して・・、あるいは全く神を全く認めないで、神の目から見たら、とんでもなく悪辣なことをして、生き残りを競争をしている・・。
そして弱者は、神不在の絶望の中で、強い者の支配下で生きるしかないという世界です。
これが「世の流れ」なんですね。実に罪に満ちた世界です。
「罪の中にあって、この世の流れに従う」とは、そういうことなんですね。
そしてさらに気になる言葉が付け加えられています。
それが「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」という言葉です。
この2節も、二回に分けたいと思います。
次回は「空中の権威を持つ支配者」です。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !