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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #101

【葬りのため】ヨハネの福音書その16

" 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。"
 ヨハネの福音書 12章3節

 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうという計画を固めていたころのことです。
 イエス様は、彼らが守っていた律法を破るようなことを敢えてされ、しかもご自分が神の子キリストだと、はばかることなく公然と宣言されていました。
 そして、イエス様のなさる多くの奇跡のみわざは、神が共におられなかったら、どうしてこんなことが起こり得ようか、というようなことばかりでした。

 民衆はイエスを支持し、祭司長たちは自分の権威を失っていきます。
 それは自分たちが守るように教えていた律法を公然と破るイエス様の方に、皆が付いていってしまうという状況になってきていたからです。
 律法を公然と破り、それを教える者、それは彼らにとっては死に値する者でした。
 そしてイエスを死刑にすることは、自分たちの身を守ることでもあったわけです。

 一方イエス様は、祭司長や律法学者に対し、
「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。" (マタイ23:27-28)
・・と言われたんですね。

 イエス様は、人を教えておきながら、内側は神との関係よりも、自分のことで一杯になっており、しかも神の民のトップに立つその地位に安住する彼らを、厳しく糾弾されたんですね。
 安息日に働いたからと言って、病人を癒されるイエス様を罪だとする、即ち神を冒涜する者だとする彼らの心を、イエス様は見抜いておられたわけです。

 この頃エルサレムでは、イエスについて口にすることさえ憚られるようなビリビリした空気が流れていました。
 イエスがメシアだとかいうことを言ったら、自分の身に危険が及ぶという、張り詰めた空気です。

 イエス様もそれを知っておられたのですが、皆がエルサレムにのぼっていく過越の祭りの時になって、もう一度エルサレムに行こうと言われ、向かわれたんですね。
 弟子たちは、イエス様と一緒に死のうとまで言って、一大決心で付いて行きました。

 イエス様によってよみがえったラザロの家は、そのエルサレムに近いところにありました。
 いよいよエルサレム、というところで、イエス様はラザロの家に寄ったわけです。
 今回の箇所は、そこでの出来事です。
 イエス様がいると聞いた多くの人々が、よみがえったラザロ見たさもあって、集まってきました。

 そこでマリアは、非常に高価なナルドの香油に自分の長い髪の毛を浸し、それでイエス様の足をぬぐったんですね。
 家の中はその香りでいっぱいになりました。
 後にイエスを裏切るユダは、それを見て、無駄なことをするなとマリアを責めるのですが、イエス様は「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」と言われたんですね。(7節)

 葬りの日・・。イエス様はここからいよいよ十字架に付けられるという、その目的に向かって出発されるんです。

 家いっぱいに広がったこの香油の匂いは、キリストの十字架と復活という、神の計画の中での最大の出来事の幕開けを象徴したものだったんですね。

" 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章10節

 この暗い今この時、死を超えた救いを与えられたまことの神に、人々が目を向ける時となりますように。

 
2020.03.31.Tue 10:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #100
 
【詩篇23篇】

" 主は私の羊飼い。
 私は乏しいことがありません。"
 詩篇 23篇1節

 私たちは、御霊と共に歩み、キリストの十字架のもとに立ち、いつも父なる神に祈りつつ歩む者です。
 そのように、神に包まれるようにして日々を過ごしているのがクリスチャンなんですね。

 私たちはこの神を「主」と呼びます。

 詩篇23篇は、この主を喜び、賛美しているところとして、多くの人々に愛されている箇所です。
 今回は、第1節のみです。

 主は私の羊飼い・・。

 主のことを、自分の羊飼いだと言っています。
 自分は羊飼いの手で、守られ、導かれ、養われている・・そういう者なのだと、本当に思っているということです。それは主という方を完全に信頼している人のことばです。

 しかも大胆にも「私の」と、あたかも独り占めにするような言い方をしています。筆者ダビデは、それを確信していたんですね。

 ダビデが、一介の羊飼いだった頃からイスラエルの王となるまで、主はダビデと共に歩み、命の危険のある中を歩んだ時にもダビデは信仰を捨てず、主もダビデを見捨てず、導き、力を与え、道を開き、祝福されました。
 ダビデにとっては、主は疑いもなく「私の主」と言えるお方でした。

 この「主」は、私たちにも、全ての人にも「主」となってくださるお方なんですね。
 これを読まれているあなたも、「主は私の羊飼い」と言う可能性があるわけです。

 主はその人個人のことを心配し、例え羊のように臆病でも、何も分からなくても、それは関係のないことなんですね。
 一旦主の羊となったら、主が心を砕かれ、導かれるのです。
  
 主は「あなたの羊飼い」となってくださるお方なんです。

 そのあとにダビデは言いました。
「私は乏しいことがありません」と。
 それは、何も乏しいことが見当たりません、ということです。 
 ダビデは、あらゆることにおいて、足りないと感じることはない。すべて満たされていると・・、本当にそう感じていたわけです。
 このあとに、主がなさってくださったことについて、いろいろなことが挙げられていて、「だから私は乏しいことはない」と、ダビデは言い切っているわけです。

 イエス・キリストの存在は絵空事ではないように、ここに書かれていることも、単に格好をつけて言っていることではないんですね。
 あなたも本当に受け取ることのできる「乏しいことがない」・・ということがあるのだとダビデは証言し、聖書はそれを記載しているわけです。

 そしてその「乏しいことがない」ことの原因は「主」という存在であり、それは求めれば受け取ることのできる、「実存」のお方なんですね。

 ですから呼べば聞かれているんです。探せば、主はあなたの方に目を向けられるんです。

" 求めなさい。
 そうすれば与えられます。
 探しなさい。
 そうすれば見出します。
 たたきなさい。
 そうすれば開かれます。"
  マタイの福音書 7章7節

 見出すことができるから、このことが書かれているんですね。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

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詩篇23篇

主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
詩篇 23篇1~6節

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2020.03.31.Tue 04:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #99

【よみがえる】ヨハネの福音書その15

" イエスは彼女に言われた。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」"
 ヨハネの福音書 11章25~26節

 イエス様ご自身がよみがえりで、いのちだと言われています。
 でもそれを眺めているだけでは、イエス様がいのちであるということが、私たちの内に実現することはありません。

 そこでイエス様は続いて「わたしを信じる者は」と言われました。
 信じるとは、信頼して、自分を預けるということだと考えると、わかりやすいかもしれません。

 それは心の行動です。
 自分の心で、この方の存在を先ず信じなければなりません。
 そして、その方は、自分に関わってくださる方であることを信じなければなりません。
 そして、自分が声をかけたら、聞いてくださる方であることを信じなければなりません。
 そしてこの方は、自分を迎えてくださる方であることを信じなければなりません。

 そこがクリアできたら、次に求められるのは、話しかけるという、実際の行動です。
 イエス様、私はあなたを神の子なる神、救い主、私を愛し、私を覚えてくださる方であることを信じます・・と。
 そして、私はあなたを信じ、私の生涯をあなたに預けます・・と。
 それを実際に申し上げなければ、信じる者としての手続きは完了しないんですね。
 次のみことばの通りです。

" 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
 ローマ人への手紙 10章10節

 そしてその段階を通過した者が、「死んでも生きる」者となるというのです。

 そうなると「死」に対しての理解は、全く違ったものとなります。
 救われた者にとって、死は、帰るところに帰るための通過点にしか過ぎなくなるんですね。

 先日、私は新しく作ったお墓に、両親の遺骨をやっと納めることができました。その墓には大きく、こう書いてあります。
「私たちの国籍は天にあります。」と。
 ピリピ人への手紙3章20節のみことばです。

 主は、信じる者をよみがえらせることがおできになる。それをイエス様はラザロを通して人々に示されたんですね。
 そして今度は、イエス様ご自身が、そのことをご自身の御からだをもって表され、十字架にかかって、死んで三日の後によみがえり、世の終わりまでいつまでも共にいると約束され、さらにあなた方を天の住まいに迎えるのだと言われて、天に上られたのです。
 イエス・キリストは、死の力を打ち滅ぼし、永遠を指し示されたんですね。

 よみがえりが、あるのです。

 「死んでも生きる」というのは、よみがえるということなんですね。

 これを読む方が、それを手にされますように!


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.28.Sat 19:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #98

【信じてみる】ヨハネの福音書その14

" イエスは彼女に言われた。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」"
 ヨハネの福音書 11章40節

 ラザロは死んでから4日経っていました。遺体はもう腐敗が始まっています。
 このラザロをイエス様が、墓からよみがえらせた時の話。それが11章全体の話です。

 イエス様が、石の蓋を取り除けなさいと言われた時、ラザロの姉妹マルタは、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」とイエス様に言います。
 そこでイエス様が言われたのが、今回のみことばです。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

 イエス様が言われることは、およそ受け入れられないことが大半を占めています。到底できないこと。今考えてもしょうがないんじゃないかと思われるようなこと。到底受け入れられないこと・・。
 とにかくイエス様が言われることは、自分の感覚を遥かに超えた次元のことばかりなんですね。

 私たちは被造物で、イエス様は創造者なる父のみもとから来られた御子なる神、すなわち創造者の側のお方です。

 イエス様は、地上のレベルのことしか理解できない私たちに、天上の、神のレベルのことを言われているんですね。
 ですから受け入れられないというのは、むしろ当然であるわけです。

 男性たちが石の蓋を取り除けた時、それは半信半疑でした。当然のことです。これから目の前に繰り広げられようとしている光景は「天上のこと」なんですから・・。
 でも彼らは「従ってみた」んですね。
要するに、とりあえず「信じてみた」わけです。

 そうしたら、もう腐っているはずのラザロが、包帯で包まれたまま出てきたんです。
 死んだ者のよみがえりです。
 天上の出来事が目の前に繰り広げられたのです。
 腐った度合いが軽度だったから、ラザロの肉は蘇生したんでしょうか。
 もう少し腐敗が進んでいたら、やっぱりダメだったんでしょうか。
 もちろんそんな話ではないわけです。

 マルタが「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」と言った後に、イエス様はこのことをされました。
 それは、終わりの日に人々は主にあってよみがえるという「天上の出来事」を、イエス様はここで、前もって見せたということなんですね。

 イエス様はラザロをよみがえらせる前にマルタに言われたことばが、これです。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。〜
 あなたは、このことを信じますか。」

 あなたは、このことを信じますか?

 これが私たちに問いかけられていることで、それは、自分の尺度をはるかに超えたこと、天上のこと・・なんですね。

 祈り・・「神様、あなたのことは少ししかわかりませんが、信じてみようという思いを与えてください。」

 信じてみよう・・これが神の栄光を見る、その入り口なんですね。

 God Bless You !
 
 
2020.03.27.Fri 11:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #97

【まことの礼拝者】ヨハネの福音書その13

" まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。
 今がその時です。
 父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。"
 ヨハネの福音書 4章23~24節

 イエス様は、まことの礼拝者とは「御霊と真理によって父を礼拝する者」だと言われました

 御霊は神を信じる者に与えられる神の霊です。
 そしてここで言う真理とは、神の一方的な恵みによって神を礼拝する者とされたという、私たちのうちにある「真理」なのだと思います。

 つまり、御霊と真理によって父を礼拝するとは、イエス・キリストによって神のもとに帰った者たちが、形だけの礼拝ではなく、聖霊に満たされ、新しくされた者としての喜びと感謝をもって、まことの神に心から礼拝をささげること・・ということになります。

 そしてそういう時が、やがて来るのだと、イエス様は言われたわけです。
 そして直前の21節では、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」とイエス様は言われています。

 ですからそれは、約束の民イスラエルだけではなく、全世界で主を礼拝する時が来るのだ、ということになります。
 今、私たちは、実際にそうなったところを見ているわけです。

 ・・と、ここまではとてもわかりやすいのですが、イエス様は続いて「今がその時です。」と言われました。
 え? 今が? となり、わけがわからなくなります。
 なぜならその当時は、イスラエル以外のところで礼拝がささげられるという時代ではなかったわけですから・・。

 だったら「今がその時」とは、どういう意味なのでしょうか。

 イエス様がこの話をしていたのは、ユダヤ人ではないサマリヤの女性に対してでした。

" イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」" 26節

「それ」とは、彼女が言った「キリストと呼ばれるメシア」という言葉を指しています。(25節)
 要するにイエス様は、「わたしこそが礼拝されるべき者、キリストである」と言われたわけです。
 これはもう、聞いたら気絶するくらいの大胆な宣言です。

 女は町に行って、私のことをすべて言い当てた人がいるけど、この方こそキリストではないのかと言って、多くの人を連れてきました。そして、連れてこられた彼らは、イエス様から直接話を聞いて、この方は本当にキリストだと信じた、というのです。(39-42節)

 イエス様は、「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」と言われました。
 このサマリヤで起こった出来事。それがまさにユダヤ人ではない人々がキリストを受け入れることだったわけです。
 それでイエス様は「今がその時です」と言われた、ということなんですね。

 結局、この話の主旨は・・、
 キリストによって礼拝者となるなら、ユダヤ人でなくとも、すべての人が「真の礼拝者」となるのであり、父なる神はそのような人を礼拝者として求めておられるのだ、ということになります。

 このヨハネの福音書では、イエスこそ神の御子なる神、キリストであるということを、びっくりするくらいに、随所で、はっきり、しかもイエス様ご自身が言われたということを証言しているんですね。

 今、イエス・キリストにあって礼拝者とされた私たちは、形だけの礼拝者ではなく、いつも祈り「御霊と真理によって礼拝する」者であることを求めていきたいものです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.26.Thu 12:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #96

【光の方】ヨハネの福音書その12

" 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。"
 ヨハネの福音書 3章20~21節

 悪を行う者は光の方には来なくて、真理を行う者は光の方に来る、と言っています。
 真理について、イエス様はこう言われています。

 真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネ16:13)

 ですから真理を行う者とは、御霊に導かれる人のことなんですね。
 御霊を送ってくださるのは主イエス・キリストですから、それはクリスチャンを指すわけです。

 悪を行う者というのは、悪事の限りを尽くしている人ももちろんその中に入りますが、そればかりではなく、神から離れ、自分中心に生き、ひそかに行っているその行いが明るみに出ることを恐れる人。すなわち「罪人(つみびと)」のことを言っているわけです。
 ですから罪人は、光であるキリストの方には、来ようとしないんです。

 それに対しクリスチャンは、その行いについてはすでに精算済みとされた人たちです。
 彼らは、ひょっとしたら罪を犯してしまうような者ではあるけれど、それもすべて主なる神様に任せてしまっている者なんですね。
 その人は、「万物を従わせることのできる方の、その御力によって、主と同じ姿に変えられて行く者とされている」(ピリピ3:21参照) ので、そんな主の力を日々体験しながら成長していくわけです。
 ですから主のもとに行って、「主よ、私はこんなことができました。これはあなたがさせてくださったことです。」と言って、主をほめたたえ、喜び、礼拝する者となるんですね。

 これが「光の方に来る人」、すなわち、「その行いが神にあってなされたことが明らかになる」ことを喜ぶ人です。その人は、光の方に行こう行こうとするのです。

 ですからここで言っていることは、世の中にはもともと「悪を行う者」と「真理を行う者」がいて、キリストのもとに来るのは、真理を行っている者だ、と言っているわけではないんですね。
 最初から真理を行う人など、いないのです。
 ですからこれは、イエス・キリストのもとに来た人と、まだ来ていない人の話なんです。

 神は、あなたが光の方に来ない人だということはわかっているんです。そのあなたを、光は照らし続けているんですね。
 恐れてはならない。私のところへ来なさい、と、主はあなたに向かって言われているのです。

 恐れることはない、わたしはあなたを愛し、あなたのためのあがないのささげ物をすでに用意して、あなたを迎える準備は整っている。そして、天に住まいも用意したのだ。
 今、いのちのあるうちに・・、あなたのその心で神に目を向けられる今のうちに、わたしを呼び求めなさい。わたしをたずね求めなさい。私のところへ来なさい。
 あなたがわたしに心を向けるなら、わたしはあなたのところへ飛んでいって、あなたを抱きしめるから・・。

 主は、そう言われる方なんですね。

 神の国への扉は、あなたの前に開かれています。それは「光の方に来ようとしないあなた」が「光の方に行こうとする者」となるための入り口なのです。

 祈り・・「私はあなたのことがまだよくわかっていませんが、あなたに祈ります。あなたがまことの神なら、私にもわかるようにしてください。アーメン。」


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.25.Wed 10:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #95

【心の闇】ヨハネの福音書その11

" 御子を信じる者はさばかれない。
 信じない者はすでにさばかれている。
 神のひとり子の名を信じなかったからである。
 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。"
 ヨハネの福音書 3章18~19節

 御子を信じる者とは、言うまでもなくイエス・キリストを救い主、主として信じる者です。
 御子は私たちの古い性質を釘付けにしてしまうために、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。そして新しいいのちとなってくださるために、よみがえられました。
 御子を信じる者は「御子にあって」罪が赦され、神の家の子として、死を超えた永遠のいのちが与えられます。これが福音です。
 ですから、御子を信じる者は、叱られることはあっても(笑)、さばかれることは、もうないのです。
 
 この救いは、神が与えてくださった奇跡の中の奇跡。受け取らなかったら、もう行きどころがない。そういうものです。

 資金繰りに困ってどうにもならない時に、お金を融通しようという話があったのに、それを拒んでしまった・・。
 そうしたら、それはもう誰の責任でもない。拒んだあなたの責任で店は潰れるわけです。

 さばきを取り除かれる道が目の前に置かれているのに、それを拒めば、そのこと自体によって「さばき」は確定してしまう、というわけです。
 信じない者はすでにさばかれている。それは自分の選択だというのです。

 そして「さばきとは」と続きますが、これは「信じないこと」とはどういうことなのか、ということの解説になっています。

 光が世に来ているのに・・と言っています。それは世を照らす光であり、永遠の希望がそこにあることを示す光でした。
 と同時にこの光は、私たちの心の奥も照らし出すんですね。
 心の奥まで光で照らされてしまったら、もうたまったものではありません。
 私たちは本能的にそれを隠そうとします。
 それが見えてしまったら、誰にも顔向けできないことを直感するからです。
 だからそれを避けて、心の奥のクモの巣が張ったような闇の部分は、とりあえずそのままにしておこうと思ってしまうんですね。
 それは「自分の行いが悪いため」だというのです。だから「光よりも闇を愛する」のだというわけです。

 人の心の奥には、闇があるんです。
 本当はその奥の部屋は、綺麗にそうじされ、しかもそこは、満たすべきもので満たされる必要があるんですね。
 人はその必要を、なんとなく感じていはいるんだけど、結局「闇を愛する」ことでまぎらわせているというわけです。

 この必要のことを「心の渇き」と言います。

 イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」" (ヨハネの福音書 7:37-38)

 心の奥底から生ける水の川が流れ出る・・。これが実は、私たちの心が切に求めているものなんですね。

 イエス・キリストは「そんな私たちのために」来てくださったんです。

 心の奥を光で照らし、その汚れを見せ、神の前に出るには、およそ相応しくない者であることを、その光は示されるんですね。
 その時、人はまことの神の前に、ただ平伏すしかなくなるのです。
 しかしそこで目を上げると、そこには十字架にかかられ、死んでよみがえられたイエス様が立っておられるんですね。

 イエス様は言われます。
 わたしがあなたの心の闇の処分をしたよと・・。
 わたしがその汚れを取り除き、傷を癒し、あなたの心を愛で満たし、それがおさえきれなくなって、外にあふれて流れ出るようになるよ・・と。

 もう、心の闇を隠す必要はなくなったんですね。

 祈り・・「イエス様、私を導いて、私の心を愛で満たしてください。」


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.24.Tue 11:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #94

【神の計画の全貌】ヨハネの福音書その10

" 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
 ヨハネの福音書 3章16節

 この3章16節は、聖書全体を一言で言い表しているところとして、有名な箇所です。

「神は世を愛された」と書いてあります。
 しかし、エペソ2章のシリーズでも見てきたように、
 人は「御怒りを受けるべき子ら」であり、しかも「空中を支配する権威」を与えられているサタンの支配下にある者だと言っています。

 ここがとても惑わされるところなので、何度でも書きますが・・、
「その人々」を、神は愛されたというのです。

 元来、神と人は相思相愛の関係が前提で造られました。ところが「人」が家出をしてしまったんですね。
 でも最後には、「人」が神のもとに戻り、「神の国の民」となる、というのが聖書全体の筋書きです。
 そして、神の国の民となる人々は「キリストの花嫁」だというのです。
 神の当初のもくろみである「相思相愛の関係」が、ここで初めて不動のものとなるというわけです。

 なぜ神はそんなめんどくさいことをするのか・・。

 最初から相思相愛のパラダイスを創り、そこに人を住まわせる・・。
 そういう手もあるかとは思います。
 
 しかし全能の神はもっと別の方法をとられたんですね。
 神は暗闇の中に光を提示され、人がそれを「自分の決断で受け取るようにされた」んです。
 そしてそれを受け取った人を、神はご自分の国の永久メンバーにすることに決めたんです。

 こうして3章16節を見ますと、

 神はなんと、ひとり子を世に送られた。それは何のためかと言うと、
 人々がその御子キリストを信じることによって、滅びの運命「罪の奴隷」から救われて、永遠のいのちを持つ「神の国の民」となるためなのだ。
 このようにして神は、ご自分に背を向ける世に対して、愛を表されたのである。
 ・・となります。

 神がこの方法を取られたのです。私たち被造物は、このことに口を挟む権限はないんですね。

 こんなみことばがあります。
「陶器師」は神で、「粘土」は人です。

" ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。
 陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。
 造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。"
  イザヤ書 29章16節

 すべては、神から始まったのです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.23.Mon 10:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #93

【身を慎み、目を覚ましていなさい】

" あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
 神があなたがたのことを心配してくださるからです。
 身を慎み、目を覚ましていなさい。"
 ペテロの手紙 第一 5章7〜8節

 今、世界はこれまでに体験したことのないような恐慌に突入しようとしているように見受けられます。
 正体不明のウィルスによる死者の数もさることながら、世界の経済活動が止まっていることによって、すでに経済的な破綻に追い込まれる企業や個人事業主が望みを失い、それに伴う自殺者の急増は、ウィルスによる死者を上回ることは必至である、という声が出始めています。

 感染を抑えれば、病死者数は抑えられるが、それに伴って自殺者が増えるという板挟みの中に私たちは置かれています。大阪の吉村府知事は、その両者を天秤にかけながら、自粛要請を解除していくという方法を取るしかないのだと言っていました。
 どっちに転んでも死者が増えるという事態・・これこそ恐慌、すなわち恐れ慌てるという事態が、地球全土を覆うということになるというシナリオが、少しずつ見えてきた。そんな状況のように思えます。

 あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい・・。

 今はほぼすべての人が、様々な思い煩いの中に置かれているのではないでしょうか。
 このみことばの大前提は、いっさいをゆだねることのできる方が、本当におられるのだということです。
 私たちのすべての必要をご存知の神、また「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言い切っておられる神。この方にゆだねよ、というのです。

 私たちの思い煩いは、ほぼすべて「死」という要因がからんでいるものです。この「死」につかまってしまうと、思い煩いは不動のものとなってしまい、最悪の事態には、それだったら先に命を絶ってしまおうということになってしまうわけです。
「死」というものが、それまでとは全く別の「単なる通過点」に変わってしまったクリスチャンでさえも、うっかりすると、この「死」につかまり、恐れと不安の中から出られなくなってしまいます。

 聖書の中で、常に問われていること、それは「信仰」なんですね。

「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」というみことばに、耳を傾ける余裕が自分の中にあるのかを、今問うてみる必要があるかもしれません。
 本当に困り果てたときに、頼りになる人がいれば頼もしいですが、それでも人の力には限界があります。
 
 ここでは「神に信頼を置け」と言っているのです。それは多分・・大声です。

 それで「身を慎み、目を覚ましていなさい。」というのです。

 身を慎みというのは、自分のイメージする世界に、自分の心までも奪われないようにしなさいということです。
 目を覚ますとは、我に帰るということです。我に帰れば、そこに主がおられる。そのことに気付く。 
 そこに立っていなさい、というんですね。

 この危機的な状況の中で祈ること、それは、
「主よ。ここにあなたの栄光を現してください。あなたが、私のことを心配してくださっている方であることを、信じることができるように、私を助けて下さい。」

 そのように祈ってみませんか。
 その時、私たちの目は、自分にではなく、困難と絶望の中にいる人々に向けられ、その人々のために祈り、具体的に助ける人へと変えられて行くのだと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.22.Sun 09:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #92

【イエス様の目的】ヨハネの福音書その9

 イエス様がニコデモに話をされた、その最後の部分です。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 ヨハネの福音書 3章15節

 モーセが荒野で蛇を上げたという話は、旧約聖書の民数記21 章に出てきます。

 イスラエルの民は、神の偉大な御手のわざによって、奴隷として散々苦しめられていたエジプトから逃れることができました。
 ところが、荒野の生活が不自由だと、とたんに不平を言い始めます。でもそれは、先行きが全く見えないことによる不安から来ていたわけです。
 
 自分だったらどうするだろうかと考えると、彼らが恐れるのは無理もないなあと思うのですが、人々はその恐れの挙げ句の果てに、そこまで強い御手をもって導いて来られた神に対して、不遜な態度を取り始めるんです。

 彼らは毎日、天から降る不思議な食べ物「マナ」によって養われていました。マナはそれだけで人を生かすという、いわばスーパーフードだったわけです。
 ところが人々は、神の人モーセに対して決定的な言葉を投げつけてしまいます。
「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と。民数記21:5

 その不遜な態度に主の怒りが臨み、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ、・・これがその結末です。

 モーセの必死のとりなしの祈りの結果、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きるから」とモーセに命じます。
 それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付け、高く掲げました。そしてそれを見た人々は、蛇に噛まれても、死ぬことはなくなりました。
 この蛇を仰ぎ見た人は、神の怒りの対象ではなくなったのです。
 
 それは「上げられたイエス様」を仰ぎ見る者は生きる、という「救いの型」がこの出来事にあるということなんですね。

 人々が青銅の蛇を見上げたというのは、自分の罪の姿を直視するということでした。
 イエス様の十字架の姿は、人々の罪の結果の姿なんですね。
 あのキリストの姿は、自分が受けるべきものだと気付く時、それを仰ぎ見て救われるというわけです。

 イエス様は十字架にかかられて死んで、三日の後によみがえられた方です。
 神は私たちに、このイエスを救い主として、全世界に高く掲げられたんですね。
 このキリストにあって、信じる者は、罪が赦され、永遠のいのちをいただくのだと・・。

 そのために先ず「人の子は上げられなければなりません」と、イエス様は言われたわけです。
 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためだ・・と。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.21.Sat 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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