G-Cafe 聖書のことば #101
【葬りのため】ヨハネの福音書その16
" 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。"
ヨハネの福音書 12章3節
祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうという計画を固めていたころのことです。
イエス様は、彼らが守っていた律法を破るようなことを敢えてされ、しかもご自分が神の子キリストだと、はばかることなく公然と宣言されていました。
そして、イエス様のなさる多くの奇跡のみわざは、神が共におられなかったら、どうしてこんなことが起こり得ようか、というようなことばかりでした。
民衆はイエスを支持し、祭司長たちは自分の権威を失っていきます。
それは自分たちが守るように教えていた律法を公然と破るイエス様の方に、皆が付いていってしまうという状況になってきていたからです。
律法を公然と破り、それを教える者、それは彼らにとっては死に値する者でした。
そしてイエスを死刑にすることは、自分たちの身を守ることでもあったわけです。
一方イエス様は、祭司長や律法学者に対し、
「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。" (マタイ23:27-28)
・・と言われたんですね。
イエス様は、人を教えておきながら、内側は神との関係よりも、自分のことで一杯になっており、しかも神の民のトップに立つその地位に安住する彼らを、厳しく糾弾されたんですね。
安息日に働いたからと言って、病人を癒されるイエス様を罪だとする、即ち神を冒涜する者だとする彼らの心を、イエス様は見抜いておられたわけです。
この頃エルサレムでは、イエスについて口にすることさえ憚られるようなビリビリした空気が流れていました。
イエスがメシアだとかいうことを言ったら、自分の身に危険が及ぶという、張り詰めた空気です。
イエス様もそれを知っておられたのですが、皆がエルサレムにのぼっていく過越の祭りの時になって、もう一度エルサレムに行こうと言われ、向かわれたんですね。
弟子たちは、イエス様と一緒に死のうとまで言って、一大決心で付いて行きました。
イエス様によってよみがえったラザロの家は、そのエルサレムに近いところにありました。
いよいよエルサレム、というところで、イエス様はラザロの家に寄ったわけです。
今回の箇所は、そこでの出来事です。
イエス様がいると聞いた多くの人々が、よみがえったラザロ見たさもあって、集まってきました。
そこでマリアは、非常に高価なナルドの香油に自分の長い髪の毛を浸し、それでイエス様の足をぬぐったんですね。
家の中はその香りでいっぱいになりました。
後にイエスを裏切るユダは、それを見て、無駄なことをするなとマリアを責めるのですが、イエス様は「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」と言われたんですね。(7節)
葬りの日・・。イエス様はここからいよいよ十字架に付けられるという、その目的に向かって出発されるんです。
家いっぱいに広がったこの香油の匂いは、キリストの十字架と復活という、神の計画の中での最大の出来事の幕開けを象徴したものだったんですね。
" 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節
この暗い今この時、死を超えた救いを与えられたまことの神に、人々が目を向ける時となりますように。
G-Cafe 聖書のことば #100
【詩篇23篇】
" 主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。"
詩篇 23篇1節
私たちは、御霊と共に歩み、キリストの十字架のもとに立ち、いつも父なる神に祈りつつ歩む者です。
そのように、神に包まれるようにして日々を過ごしているのがクリスチャンなんですね。
私たちはこの神を「主」と呼びます。
詩篇23篇は、この主を喜び、賛美しているところとして、多くの人々に愛されている箇所です。
今回は、第1節のみです。
主は私の羊飼い・・。
主のことを、自分の羊飼いだと言っています。
自分は羊飼いの手で、守られ、導かれ、養われている・・そういう者なのだと、本当に思っているということです。それは主という方を完全に信頼している人のことばです。
しかも大胆にも「私の」と、あたかも独り占めにするような言い方をしています。筆者ダビデは、それを確信していたんですね。
ダビデが、一介の羊飼いだった頃からイスラエルの王となるまで、主はダビデと共に歩み、命の危険のある中を歩んだ時にもダビデは信仰を捨てず、主もダビデを見捨てず、導き、力を与え、道を開き、祝福されました。
ダビデにとっては、主は疑いもなく「私の主」と言えるお方でした。
この「主」は、私たちにも、全ての人にも「主」となってくださるお方なんですね。
これを読まれているあなたも、「主は私の羊飼い」と言う可能性があるわけです。
主はその人個人のことを心配し、例え羊のように臆病でも、何も分からなくても、それは関係のないことなんですね。
一旦主の羊となったら、主が心を砕かれ、導かれるのです。
主は「あなたの羊飼い」となってくださるお方なんです。
そのあとにダビデは言いました。
「私は乏しいことがありません」と。
それは、何も乏しいことが見当たりません、ということです。
ダビデは、あらゆることにおいて、足りないと感じることはない。すべて満たされていると・・、本当にそう感じていたわけです。
このあとに、主がなさってくださったことについて、いろいろなことが挙げられていて、「だから私は乏しいことはない」と、ダビデは言い切っているわけです。
イエス・キリストの存在は絵空事ではないように、ここに書かれていることも、単に格好をつけて言っていることではないんですね。
あなたも本当に受け取ることのできる「乏しいことがない」・・ということがあるのだとダビデは証言し、聖書はそれを記載しているわけです。
そしてその「乏しいことがない」ことの原因は「主」という存在であり、それは求めれば受け取ることのできる、「実存」のお方なんですね。
ですから呼べば聞かれているんです。探せば、主はあなたの方に目を向けられるんです。
" 求めなさい。
そうすれば与えられます。
探しなさい。
そうすれば見出します。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。"
マタイの福音書 7章7節
見出すことができるから、このことが書かれているんですね。
主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!
God Bless You !
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詩篇23篇
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
詩篇 23篇1~6節
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