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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #128

【福音その13】十字架4 病を負われ

" 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
 だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことか。
 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。"
  イザヤ書 53章7~8節

 このイザヤ書53章は、旧約聖書にあるメシヤ預言の中でも、十字架の様子を最も克明に言い表しているところです。
 このイザヤ書はイエス様がお生まれになる700年前に書かれたものです。旧約聖書には「来るべき方」の預言が星のように散りばめられています。そのひとつひとつが実に正確に書かれているんですね。

 さて、ここではキリストの悲惨な姿が描かれています。まさにイエス様が十字架にかかられた時の様子です。

 イエス様は鞭打たれ、唾をかけられ、祭司長や長老たちの訴えには何もお答えになりませんでした。(マタイ27章)
 まさに「彼は痛めつけられ、苦しんだ、・・ほふりばに引かれていく羊のように・・口を開かない」とある通りです。
 そして、彼の時代の者はイエスの姿を見て、それが「民の背きのゆえに打たれ、死なれた」のだと思うような者は一人もいない・・と書いてあるのです。
 イエス様と3年以上も共に過ごした弟子たちでさえ、イエス様の十字架を目の前にして、このイザヤ書に思いが至った者は、一人もいなかったのです。

 このイザヤ書53章は、12節までという短いものですので、ぜひ全体をお読みになってください。

 その方、来るべき方は、「痛みをになった」「罰せられた」「悲しみの人」「蔑まれた人」「打たれた」「苦しめられた」「砕かれた」「病を負わせられた」・・。
 イエス・キリストはこのすべてをその身に負われたというのです。

 キリストは、信じる者の内に入ってくださり、「古い人」の死と、よみがえりがそこに実現するのだと、前回書きました。 
 ですから、これらの境遇に立たされる私たちの内にも、キリストがそのすべてを負ってくださったということが現実になるのです。

 主と共に歩む者には、状況と関係のない平安が伴うというのは、こういうことなんですね。主がそれらすべてを負ってくださり、そして死をも負って下さったのです。
 そして、そのすべての力を打ち破ってよみがえられたのです。

 主を信じる者の内に、そのことが実現するんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

  
2020.04.30.Thu 12:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #127

【福音その12】信じる者はだれも

  前回の箇所と同じ、その前半をもう一度見てみます。

" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
  ローマ人への手紙 6章5節

 前回、パソコンのアプリの話をしました。信じた者は「聖なるアプリ」がインストールされているパソコンのようだ・・と。

 イエス・キリストは、肉のからだを釘付けにして、死に至り、そしてそこからよみがえられて、天に上られ、今も生きておられる方です。
 この方がそっくりそのまま、信じる者の内にいのちとして入ってくださる、という話です。

 しかし信じた者は、内に入ってくださった方をどのように受けとめるか、それはその人次第なんですね。
 アプリは入っているんだけど、使わないで忘れてしまったら、そのアプリは眠ったままです。
 前回はそのことに触れたわけですが、それ以前に肝心なことがあることを、はっきり伝えていなかったように思います。
 それは「信じることで」その聖なるアプリがインストール(取り込まれて)されるのだ、ということです。

 要するに、イエス・キリストを救い主として信じて、心の内にお迎えするなら、その人の内には「イエス・キリスト」という方がいのちとして入って来られ、「キリストの死」と「キリストの復活」がその人の内に現実のこととなる、ということです。
 イエス・キリストを心にお迎えすということは、イエス様はあなたの罪、すなわち古い自分のために死んでくださり、実際に死んで、三日ののちによみがえってくださったのですから、そのことがあなた自身のこととして起こり始める、ということなのです。

 昭和の時代にはクリスマスシーズンになると、救世軍が街角で生活に困窮している人たちのための募金活動「社会鍋」をする姿をよく見かけたものです。その時に歌われていた賛美歌・・。
 全く信仰を持っていなかった私にもその歌詞が頭に残っています。それは・・
 
 ただ信ぜよ ただ信ぜよ
 信ずる者はたれも 皆救われん

 これが、「古い自分をどうすることもできない私たち」に神が与えて下さった救いの道なんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.29.Wed 13:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #126

【福音その11】十字架3 生きている者のための死

" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちは知っています。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 死んだ者は、罪から解放されているのです。"
  ローマ人への手紙 6章5~7節

 ここで言われている「私たち」とは、イエス・キリストを救い主と信じ、心に受け入れた人のことです。
 その「私たち」は、キリストと一つになっているというのです。
 信じる者の内に、イエス様は入ってくださいます。それは言うまでもなく、霊的な意味で言われていることです。
 イエス様は「わたしがいのちです」と言われた方です。イエス様を受け入れた人は、その「まことのいのち」をいただいての歩みが始まるんですね。

 救われて、まことのいのちをいただくというのは、例えばパソコンに新しいアプリケーションをインストールすることを思い浮かべてみると分かりやすいかもしれません。
 パソコンは機種によってその力量は違うわけですが、実際に何をするかは、そこに入っているアプリで決まるわけです。能力のあるパソコンに「悪のアプリ」を入れれば、それは悪いことをすることについては強力な働きをするわけです。しかし、そのアプリが「聖なるアプリ」なら、そのパソコンは、聖なることのために大いなる力を発揮するようになるというわけです。
 
 さて、今日のみことばにある「キリストの死と同じようになり、キリストと一つになっているなら」というのは・・
「古い自分」には死んでしまって、内に入っていただいたキリストをいつも主として仰ぎ、その方が何を喜ばれるのかということに、もっぱら心を用いようとするなら・・、ということです。
 そしてその人は「キリストの復活とも同じようになる」というのです。それは今までとは違う、新しいいのちに生きる人に生まれ変わるということです。

 ここでは信じた者のことを「キリストと共に十字架にかけられた者」と表現しています。
 古い自分、すなわち、パウロが言っていた「みじめな自分」はもう死んでしまうというのです。そして「罪の奴隷」ではなくなるというんですね。

 イエス・キリストを信じた者は、キリストと共に十字架にかけられたという「型」が、自分の内に実現するんですね。そしてさらに「復活」が自分の内に実現するのです。

 罪の奴隷とは、自分中心という自分の中にある原則から、どうしたって抜けることのできない「古い人」のことであって、キリストとひとつになるとは、そんな縛りからは解放された新しい歩みが始まることを意味するわけです。

 死んだ者は、罪から解放されているのです・・。
 死んだ者とは、「古い人」が死んだという意味です。
 キリストの十字架の死は、「生きている私たちのための死」なんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.28.Tue 12:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #125

【福音その10】十字架2 愛のしるし

" 「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。
 ただし、ヨナのしるしは別です。"
  ルカの福音書 11章29節

 今までずっと主張してきたことは、聖書に書いてある神こそがまことの神で、この神は「わたしが神である。他にはいない。」と言われる神であること。
 そしてその神が天地万物を作られた方であるということ。
 そしてこの方は創造主なのだから、それ以上に大きな存在はない。宇宙よりも大きい存在であるということです。
 そしてキリストはその神と共に初めからおられ、人と神をつなぐ、私たちが認識することのできる「神の形」であること。
 さらに信じる者たちを直接導き、その存在を確信させる「聖霊」という「神の形」があるということでした。
 これを三位一体(さんみいったい)と言うわけですが、それはご自身が造られた「人」のために、神が備えられた「神の形」なんですね。
 人がいなければ、三位一体は必要ないのです。
 この三位一体とは実は、神の、人に対する愛の形なんですね。

 キリスト教は「宗教」ではありません。
 聖書の神は、人の想念によって見いだされた神ではなく、神自らが語られ、人を導き、そしてこの世の始めも終わりもその手に収めておられるという、唯一の神であって、その神ご自身が人に書かせたのが聖書だというのです。

 ですからそれは一歩も後には引けない内容なのです。
 そこまで言うなら、それが本当か、全くのでたらめか、どちらかしかないということを神ご自身が言っているというわけですから・・。
 その中間はない。捨てるか取るかしかない話なんですね。

 ここに書いてあることが本当ならば、えらいことなんです。
 なぜなら、神がいたんですから。
 その神を知らなかったんですから。
 それが不遜であるなどとは、思ったこともなかったんですから。

 でも、神はあわれみに富むお方で、そんな私たちが、その神に向き直って、そちらを見るだけで、渾身の愛をもって私たちを迎えてくださる・・そういうお方なんですね。

 前回は、十字架の話への入り口でした。それは「神に従うことのできない」みじめな人間の話でした。それはこのまことの神を認めようとしない人の姿なんですね。
 それを聖書は罪人だと言っているわけです。しかしこれは、アダム以来ずっと引き継いできた「肉の性質」なので、しょうがないんです。
 そこで神は、人があることをするチャンスを与え、そのことで人がいのちの道に入るようにされたんですね。
 そのチャンスとは、「この神こそがまことの神である」ということを信じる・・というチャンスです。

 神はそこに御子の十字架の姿を見せられました。これをあなたは何と受け止めるのか・・。それはあなたの罪の赦しのためのしるしなんだよと。

 十字架は簡単なものではないです。ただ絵を見ているようにして十字架を眺めることはできます。私もイエス・キリストに出会う前までは、教会の前を通っても、十字架をみても、それは人が釘付けにされている姿なのに、、なんとも思いませんでした。

 十字架は、神が私たちに、まことの神の存在を知らせるための、また、まことの愛を知らせるための、父なる神と御子キリストが私たちのために示された「しるし」なんですね。
 預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中にいて、そこから生還し、ニネベの人たちに悔い改めを宣べ伝えるという出来事・・、それしか「しるし」は与えられない・・とイエス様は言われたのです。

 十字架は神のしるし。神の愛のしるしなんです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.27.Mon 10:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #124

【福音その9】十字架1

" 私たちは知っています。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
 罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"
  ローマ人への手紙 6章6節

 前回は、神に近づこうと思っても、近づくことができない者の話でした。パウロは自分のことを「みじめな人間」で「死のからだ」を持つ人間なのだと言って、罪人の本来の有様を言い表しました。
 人は「生まれながらの罪人」なのだというのです。
「義人はいない。ひとりもいない」「彼等は平和の道を知らない」「彼等の目の前には、神に対する恐れがない」と聖書に書いてあるではないか、とパウロは言っています。(ローマ人への手紙3:10-18)

 自分が罪人であるということを知るということほど、難しいことはないかもしれません。
 罪とは、まことの神から離れていることです。それは神を否定すること。そしてその心から出てくるのは、人を傷つけようとする思いなんですね。

 その性質は、余裕のある時にはかくれています。しかし、気持ちの余裕がなくなると、返って自分の行動原理が見えてきたりします。
 今人々は、突如としてこの閉塞した世界に閉じ込められましたが、そこで徐々に現れてくるのがそのことなんですね。
 私たちは教育によって、してはならないことを教わり、それを守り、それを実践し、平和な関係を実現しています。しかし、それが崩れ始める時、人は人を責め始めます。
 私たちは実は「みじめな人間」で「自己中心」という王座に座っている者なんですね。
 
 私たちは「助け」がないと、ここからは抜け出られない者なのだと、聖書は言っているわけです。そしてそれは、「罪の奴隷」という状態だというのです。

 パウロはそのような私たちのことを「古い人」という言葉で表現しています。そしてその古い人は、十字架につけられる必要があるというのです。
 それは生まれながらの肉の性質なのだから、釘付けにしてしまわないことには、それはいつまでもうごめき続けるのだと言っているわけです。
 私たちは「罪のからだ」を持つ者で、実にキリストの十字架はそのためなのだ、というのが今日のみことばです。

 そう言われて、なんとなく ??? となる方もおられることと思います。
 だって、キリストが十字架にかかったことと、自分と何の関係があるの? と思うからです。

 イエス・キリストは、直接私たちの内に入って、私たちに関わってくださる方なんですね。そしてそのことは、人がその存在を信じて、自分の内にお迎えすることによって起きるのです。

 その時に、キリストの十字架は自分の中に実現するのです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.26.Sun 08:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #123

【福音その8】生まれながらの罪人

" 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。
 私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。"
  ローマ人への手紙 7章18~21

 福音シリーズに入ってから、8回目になりますが、まだ核心に至っていません。福音の核心とは、罪と十字架と赦し、そして神の愛です。そういった意味では、周りから攻めて行ったという感じでしょうか。罪ある者が雪のように白くされるとか、滅びる者とか・・。

 前回は「いのちの場所」というテーマでした。
 罪人(つみびと)とは、いのちそのものである神から離れてしまっている人のことです。神との間には深い溝ができていて、そこに帰ろうとしてもなかなか帰ることができないのです。
 その結果は、神のもとから「独立」して生きようとする・・ということになるわけです。そしてその性質が、アダム以来、今まで綿々と続いてきたというのです。
 
 罪人の性質の基本は、神を認めたくない・・というところにあります。自分の本当のいのちの父である神を認めない・・。それを罪人と言うのです。
 
 パウロはその罪人についてこんな表現をしています。(今日の箇所です)
 自分の内には善が住んでいない・・。
「良いことをしたい」という思いは十分にあるんだけど、実行ができない・・。
 結局のところ、自分をよく見れば、したいとは願っても、やっていることは「悪」だと・・。
 ここで言う悪とは、具体的な悪行もありますが、その出発点は「心の内にある思い」です。
 それは、はなかなか気付かないものです。

 罪ということについては、自分の心の深いところを見させられるということなしには、そのことに気付くことはありません。大体が、自分は善人だと思っていますから・・。
 しかしパウロはここで告白しているわけです。その罪の性質に気がつき、自分の内に「罪が住んでいる」と。

 人は「生まれながらにして」罪人なんですね。

 パウロは続いてこう言っているわけです。
「私は本当にみじめな人間です。
 だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。〜」(ローマ7:24-25)

 自分は罪を治める力などない者だけど、そのみじめな状態、即ち「死のからだ」から救われる道が「私たちの主イエス・キリスト」によって与えられるのだということがわかった・・。ああ、なんという感謝なことだろう。

 これがパウロの喜びの叫びです。

 十字架・・ほぼ目前に見えてきました。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.24.Fri 09:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #122

【福音その7】いのちの場所

" わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。
 人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。"
  ヨハネの福音書 15章5節

 前回の「滅びる者?」では、人はまことのいのちである神から離れて「死ぬ者」となった、ということを書きました。この死は、肉体の死だけでなく、霊的な死でもあります。それはいのちである神から離れたまま死ぬからです。
 神は万物を創造されたとき、「すべてが非常に良かった(創世記1:31)」と言われました。
 人は初め、造り主である神と共に生きる「非常に良い」ものという存在でした。ところが人は、神と共に生きることが許されていたエデンの園から追放されてしまったんですね。「非常に良かったもの」としてスタートすることは出来なかったわけです。

 神はノアの時代に至って、地が暴虐で満ちるのをご覧になり、「すべての肉なるものの終わりがこようとしている」と言われ、洪水を通してノアとその家族だけをそこから救い出されました。
 ノアについてはこのように記されています。

" ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。
 ノアは神とともに歩んだ。"
  創世記 6章9節

「神と共に歩んだ」・・、それが神がノアを選ばれた理由だったんですね。

 イエス様は言われました。「わたしはぶどうの木」であると。そして私たちは枝だというのです。またイエス様はこうも言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と。(マタイの福音書14:6)
 結局、いのちというのは主ご自身のことであって、私たちはその主につながっていれば「実を結ぶ」のだということです。「実」というのは、自分で力んで実を実らせるのではなくて、ただその幹にくっついていさえすればいいんですね。これが「神と共に歩む」ということであるわけです。

 イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と、はっきり言われました。
 私たちのいのち、正しさ・・それは、神につながっていることで、それ以外にそれを望めるところはないと言われたのです。

 ところが・・です。私たちの内には、主に堂々と顔を向けることができない「何か」があるんですね。それを「罪」と言います。心の内を照らされると、そこにはそのまま神のもとに帰ることが出来ない「何か」があるんです。
 イエス様は「わたしがいのちである」と同時に、「わたしが道である」と言われました。それは、そんな私たちが神のもとに行くために用意された道だという意味です。
 その道・・そこには私たちの罪のためのあがないである「キリストの十字架」があるんですね。

 いよいよ十字架に近づいてきました。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.23.Thu 11:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #121

【言葉の解説】イスラエルとユダヤ人

 #119にて、同一民族を「イスラエル」「ユダ」「ユダヤ人」と、いろいろな言い方をしていることについて、その解説をしてほしい旨、お声をいただきました。

 イスラエル・・、これは元々アブラハムの孫であるヤコブが、神の祝福の約束をいただいた時に与えられた新しい名で、人の名なんですね。
 そのイスラエルには12人の子がいました。そこから12部族によって成る強大な民族へと成長するわけですが、この民族を指す時にも「イスラエル」と言うわけです。
 このイスラエルは奴隷状態のエジプトから脱出し、荒野を40年間過ごし、約束の地カナンに入って、王国にまで発展します。「イスラエルの民」という言葉を使う時には、そういう背景を思って使うことが多いように思います。

 イスラエル王国は一つの国でした。しかし、ダビデ王が犯してしまった罪、またソロモン王が犯してしまった罪の結果、北の10部族と、ユダ部族+ベニヤミン族そして祭司職を務めたレビ族によってなる南の三部族という、二つの王国に分裂します。これが「北イスラエル王国」と「ユダ王国」なんですね。(ここには全部で13の部族が出てきますが、それはヨセフの部族が二つの部族として数えられているからです)

 ですから「イスラエル」とはヤコブの名であり、また民族の名であり、分裂後の北王国の名もであり、また現在のイスラエルという国の名でもあるわけです。
 そして「ユダ」はヤコブの子の名であり、そこから生まれた民族の名であり、また分裂後の南王国を指して言うことがあり、さらに、メシヤはこの部族から出るという特別な意味合いを込めて「ユダ」と言われることもあるわけです。

 北イスラエル王国の腐敗ぶりは目を覆うばかりで、偶像を礼拝する異邦人との混血が進み、神に導かれてきた「イスラエル」の影も形もなくなってしまう有様で、そのままアッシリア帝国に攻め取られ、捕囚の民(外国に連れ去られる)となり、その消息はわからなくなってしまいます。これを「イスラエルの失われた10部族」と言います。

 南王国ユダはさらに100年以上持ちこたえますが、結局バビロン帝国に滅ぼされ、彼らも捕囚の民となります。しかし奇跡的に帰還を果たし、神殿を再建し、モーセの教えに立ち返って熱心に信仰生活を始める人たちが起こされます。これがイエス様が来られた時代まで続くわけです。新約聖書に出てくる「ユダヤ人」とは、その時そこにいたイスラエルの子孫たち、バビロンから帰還したユダ王国の末裔のことなんですね。
 しかし彼等の信仰も形骸化され、イエス様や、その来臨を預言していたバプテスマのヨハネからは「まむしの子孫」と言われる有様に成り果てていたわけです。

 結局ユダヤ人は、イエス・キリストを受け入れたユダヤ人と、彼等を迫害するユダヤ人とに分かれるわけですが、クリスチャンとなったユダヤ人たちは世界中に散っていき、残ったユダヤ人は、支配国ローマに逆らい、こちらもAD70年には完全に滅ぼされて、世界中に散らされて行きました。

 その後ユダヤ人は、世界の民の中で混ざり合ってわからなくなってしまうことなく、その民族性を保ち、ひどい迫害に遭いながらも、世界中の富を握り、優れた人種と言われる存在となっているんですね。そして1948年には「イスラエル」が建国されます。
 なので、今の時代にユダヤ人というと、世界中に散っていった人の中でその民族性を保っている「ユダヤ人」たちのことであるわけです。
 そしてもう一つ、今もエルサレムの「嘆きの壁」で祈り続けるユダヤ教のユダヤ人。彼らはキリストはイエスではなく、これから来るのだと主張している人たちです。

 まだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、ここまでにしておきます。

 God Bless You !
 
 
2020.04.22.Wed 14:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #120

【福音その6】滅びる者?

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
 ヨハネの福音書 3章16節

 このみことばは「聖書全巻をひと言で言い表したみことば」と言われる有名な箇所です。

 前回は、救いとは「滅びる者であるところからの救い」なのだということを書きました。
 それを初めて聞いた方の率直な反応は、「私たちは滅びる者なの?」ということなのではないでしょうか。
 普通でしたら、自分は滅びる者だとは思っていないです。ところが、今日のみことばでは、神は私たちが滅びないで、永遠のいのちを持つために、御子を送って下さったと言っているんですね。
 ここには 、「滅びる」ということばと「永遠のいのち」ということばが対比して書かれています。

 死・・、それは全ての人に必ずやってくるものです。しかし最初はそういう予定ではなかったことが、聖書に書かれているんですね。
 アダムが神の言葉に逆らって「善悪の知識の木の実」を食べてしまった時、神のアダムに対する宣告の中にこんな言葉があります。

" あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」"
  創世記 3章19節

 この時から「人」は死ぬ者となったというのです。
「神が共におられる」というエデンの園は、そこに生かされていること自体が「永遠のいのち」なのだという話なんですね。
 この世に生きる人は、そのまことのいのちを損なった者だというわけです。だから生きていても、その意味がわからないのです。

 神の全計画は、この失われた永遠のいのちを、御子を送ることによって「人」に回復させるものだというのです。そしてそれが具体的に実現するのが、終わりの日に続く「神と共に生かされる天の御国」だというわけです。クリスチャンというのは、この地上でその前味を味わいながら生きている者なんですね。

 人類は、まことのいのちを損なった者として、アダム以来その歴史を刻んできた・・、これを「罪人(つみびと)」と呼ぶわけです。

 人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯すんですね。
 世の中のすべての不幸や悲惨や暴虐は、罪人のなせるわざだというわけです。
 私たちは罪人で、滅びる者として生を受けているというのです。しかしイエス様は言われました。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書 14章6節)

 イエス・キリストという存在がいのちであって、その存在自体が「父のみもとに行く」ことだというのです。

 イエス・キリストは、滅びに定められている私たちに、神とともにあるという、まことのいのちを回復させるために来られたんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.21.Tue 10:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #119

【福音その5】赦すために残された者

" その日、その時──主のことば──
 イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。
 わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」"
 エレミヤ書 50章20節

 この福音のシリーズ。今回は「赦すために残された者」です。

 その日、その時、、イスラエルの咎を探してもそれがない。ユダの罪も見つからない、、とエレミヤは語っています。
 そして主は、その人たちを「わたしが残す者」だと言っています。そしてその者は「わたしが赦す」から、咎を探してもそれはないし、罪も見つからない・・というのです。

 ユダの民の罪により、神はバビロン帝国を使ってユダを滅ぼされました。
 イエス様が「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」と言われた通りで、イスラエルの民はその結末を自ら招いてしまったわけです。
 ユダの民はボロボロになりますが、その中に「残された者」がいて、その者の咎は探しても見つからないというのです。彼等は神のさばきの中から残された者、即ちさばきにあわずに救い出された者で、しかも彼等は神の目から見て咎が見いだされない、「雪のように白い」(イザヤ1:18) 者となるというのです。

 人はイエス・キリストを信じることによって、神はその人の上にキリストの流された血を認め、「咎は認められない者」とされるんですね。それ以外に「罪がない」という可能性など、どこにもありません。
 イエス様を十字架にかけたのは他でもないユダヤ人ですが、イエス様を信じた人もユダヤ人から起こされてきたわけです。
「罪が見つからない」と言われるユダヤ人がいるとしたら、まさにこのユダヤ人たちを置いては他にいません。彼等こそが「わたしが残す者」であるわけです。

 そして現在、メシヤニックジューといわれる、クリスチャンになるユダヤ人が急速に増えていると言われています。まさに本家本元の民が、本当のキリストに立ち返って来ているというわけです。彼等も正真正銘の「残された者」であるわけです。

 ですから、ここでエレミヤが言っている「その日、その時」・・それは、イエス・キリストによる救いの福音が宣べ伝えられ始めてから「終わりの日」に至る、今の時代だということになるわけです。

 そしてこれはイスラエルだけではなく、全世界のすべての民族に与えられた救いの「型」でもあるんですね。

 イエス・キリストを信じる者は、滅びの中から「残されて救われた者」なんです。

 聖書の救いのメッセージは、滅びる者の中からの救いなんです。
 滅びという決定事項からの救いなんです。
 だから「救い」なんですね。

 福音・・さらに続きます。


 God Bless You !
 
 
2020.04.20.Mon 10:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
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そしてキリスト教談義・・
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