G-Cafe 聖書のことば #123
【福音その8】生まれながらの罪人
" 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。"
ローマ人への手紙 7章18~21
福音シリーズに入ってから、8回目になりますが、まだ核心に至っていません。福音の核心とは、罪と十字架と赦し、そして神の愛です。そういった意味では、周りから攻めて行ったという感じでしょうか。罪ある者が雪のように白くされるとか、滅びる者とか・・。
前回は「いのちの場所」というテーマでした。
罪人(つみびと)とは、いのちそのものである神から離れてしまっている人のことです。神との間には深い溝ができていて、そこに帰ろうとしてもなかなか帰ることができないのです。
その結果は、神のもとから「独立」して生きようとする・・ということになるわけです。そしてその性質が、アダム以来、今まで綿々と続いてきたというのです。
罪人の性質の基本は、神を認めたくない・・というところにあります。自分の本当のいのちの父である神を認めない・・。それを罪人と言うのです。
パウロはその罪人についてこんな表現をしています。(今日の箇所です)
自分の内には善が住んでいない・・。
「良いことをしたい」という思いは十分にあるんだけど、実行ができない・・。
結局のところ、自分をよく見れば、したいとは願っても、やっていることは「悪」だと・・。
ここで言う悪とは、具体的な悪行もありますが、その出発点は「心の内にある思い」です。
それは、はなかなか気付かないものです。
罪ということについては、自分の心の深いところを見させられるということなしには、そのことに気付くことはありません。大体が、自分は善人だと思っていますから・・。
しかしパウロはここで告白しているわけです。その罪の性質に気がつき、自分の内に「罪が住んでいる」と。
人は「生まれながらにして」罪人なんですね。
パウロは続いてこう言っているわけです。
「私は本当にみじめな人間です。
だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。〜」(ローマ7:24-25)
自分は罪を治める力などない者だけど、そのみじめな状態、即ち「死のからだ」から救われる道が「私たちの主イエス・キリスト」によって与えられるのだということがわかった・・。ああ、なんという感謝なことだろう。
これがパウロの喜びの叫びです。
十字架・・ほぼ目前に見えてきました。
God Bless You !
(神様の祝福がありますように!)