G-Cafe 聖書のことば #125
【福音その10】十字架2 愛のしるし
" 「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。
ただし、ヨナのしるしは別です。"
ルカの福音書 11章29節
今までずっと主張してきたことは、聖書に書いてある神こそがまことの神で、この神は「わたしが神である。他にはいない。」と言われる神であること。
そしてその神が天地万物を作られた方であるということ。
そしてこの方は創造主なのだから、それ以上に大きな存在はない。宇宙よりも大きい存在であるということです。
そしてキリストはその神と共に初めからおられ、人と神をつなぐ、私たちが認識することのできる「神の形」であること。
さらに信じる者たちを直接導き、その存在を確信させる「聖霊」という「神の形」があるということでした。
これを三位一体(さんみいったい)と言うわけですが、それはご自身が造られた「人」のために、神が備えられた「神の形」なんですね。
人がいなければ、三位一体は必要ないのです。
この三位一体とは実は、神の、人に対する愛の形なんですね。
キリスト教は「宗教」ではありません。
聖書の神は、人の想念によって見いだされた神ではなく、神自らが語られ、人を導き、そしてこの世の始めも終わりもその手に収めておられるという、唯一の神であって、その神ご自身が人に書かせたのが聖書だというのです。
ですからそれは一歩も後には引けない内容なのです。
そこまで言うなら、それが本当か、全くのでたらめか、どちらかしかないということを神ご自身が言っているというわけですから・・。
その中間はない。捨てるか取るかしかない話なんですね。
ここに書いてあることが本当ならば、えらいことなんです。
なぜなら、神がいたんですから。
その神を知らなかったんですから。
それが不遜であるなどとは、思ったこともなかったんですから。
でも、神はあわれみに富むお方で、そんな私たちが、その神に向き直って、そちらを見るだけで、渾身の愛をもって私たちを迎えてくださる・・そういうお方なんですね。
前回は、十字架の話への入り口でした。それは「神に従うことのできない」みじめな人間の話でした。それはこのまことの神を認めようとしない人の姿なんですね。
それを聖書は罪人だと言っているわけです。しかしこれは、アダム以来ずっと引き継いできた「肉の性質」なので、しょうがないんです。
そこで神は、人があることをするチャンスを与え、そのことで人がいのちの道に入るようにされたんですね。
そのチャンスとは、「この神こそがまことの神である」ということを信じる・・というチャンスです。
神はそこに御子の十字架の姿を見せられました。これをあなたは何と受け止めるのか・・。それはあなたの罪の赦しのためのしるしなんだよと。
十字架は簡単なものではないです。ただ絵を見ているようにして十字架を眺めることはできます。私もイエス・キリストに出会う前までは、教会の前を通っても、十字架をみても、それは人が釘付けにされている姿なのに、、なんとも思いませんでした。
十字架は、神が私たちに、まことの神の存在を知らせるための、また、まことの愛を知らせるための、父なる神と御子キリストが私たちのために示された「しるし」なんですね。
預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中にいて、そこから生還し、ニネベの人たちに悔い改めを宣べ伝えるという出来事・・、それしか「しるし」は与えられない・・とイエス様は言われたのです。
十字架は神のしるし。神の愛のしるしなんです。
God Bless You !
(神様の祝福がありますように!)