G-Cafe 聖書のことば #173
【過失】マイナスの出来事シリーズ20
"「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。"
ヨシュア記 20章2~3節
過失・・それは、自分が意図しないことをしてしまうこと。辞書を見ると、不注意,怠慢などのためにおかした失敗、とあります。
私はこの辞書の解説を見たときに、なんだか妙な違和感を覚えました。私のイメージにあった過失というのは、全く予期できない中でしてしまったというものです。不注意とか怠慢というのは、頭の片隅でその後に起こることを予期しているという面があるのではないでしょうか。
過失について、聖書はなんといっているのでしょうか。
今日のみことばは、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったときに、部族ごとに割り当てる地について、神が語られたことばです。
「逃れの町を定めよ」というのです。それは「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込めるようにするため」だと。
神は結果だけを見て人の扱いを決めるのではなく、その心を見られ、それに従って人を扱われる方だということが、このことからうかがい知ることができます。
人は、心のことは隠しておけばわからないという感覚を漠然と持っています。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル 16:7) 心は神の前に隠すことはできないんですね。
神の判別の基準がその心であるというのは、私たちにとって弁解の余地のない厳しいことであると同時に、救いでもあるように思います。
神はちゃんと心を見ておられる・・というのです。このことは私たちの心を本当に慰めてくれます。批判や中傷の的になっても、神はちゃんとあなたのことを知っておられる・・というわけです。
だったらどうして神は、心にもなかったことでその人を苦しめるのかと思いますよね。でも神が与えてくださるものって、いつも私たちにとっては予想外の形でやってくるんですよね。
神はボロボロに砕かれた、心までが砕かれた、その人の上に最も大切なものを与えてくださるんです。それは「神を知る」という知識です。
過失は、自分が全てをコントロールする者ではないということを教えてくれます。
これって、実はものすごく大きな恵みの入り口なんですね。自分中心に生きる「罪びと」の心の壁が砕かれるための大きなチャンスになるからです。
人はそのようにして、神が与えようとされている救い、永遠のいのち、喜び、平安を受け取るんですね。
これは全ての「マイナスの出来事」について言えることなんですけどね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #172
【いじめ】マイナスの出来事シリーズ19
今日のテーマは「いじめ」です。
いじめたい心・・自分の中に見たことがありませんか。
人を潰そうとする心が自分の中にある・・恐ろしいことですね。そんなことないと、きっぱり言える人はよほど幸いな人か、あるいは自分を見つめることのほとんどなかった人です。普通の場合、そのような心は隠れているので、まさか自分の中にそんな心があったなんてと驚く・・そういう人は多いのかもしれません。
人は一旦「いじめてもいい立場」に立ったとき、そのいじめ心は頭をもたげて姿を表します。例えば相手の落ち度で、自分が責めてもいい立場に立ったとき・・のような。
その力は、人を叩きのめします。こういった場合、叩かれる人は反論はできないので、叩かれるままになって「自分」というものを失っていきます。
もうひとつ、「自分たちと違うところ」または「自分たちよりも劣るところ」を見るとき、人は群れになってその人を集中的に叩きのめすということがあります。最悪のケースは、それが昂じて死に至らしめるという「事件」。よく耳にします。
今まで、多くの「マイナスの出来事」をテーマにしてきましたが、そのほとんどは「罪の性質」と関係があります。罪の性質とは人が生まれながらに持っている性質のことです。聖書は、全ての人が罪びとだと断言しています。
ローマ人への手紙 3章17~19節には、こう書かれています。
"「彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。"
このみことばの前半は罪人の性質の指摘です。平和に向かうことを知らないし、神を認めない・・。
後半が少しわかりにくいですね。「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」というところ。これは、守るべき「律法」というものがあって、自分がそれに反していることを認めることによって、人は自分が「さばかれるべき者」だと知るのだ、と言っているんですね。
人はどうしようもない罪人なんですね。そしてあなたも私も、そこから漏れることはないと、聖書は言っているのです。
だからこそ人は神の前に、「キリストの十字架」のあがないがどうしたって必要なんですね。自分の悔い改めや行いで神の前に良しとされる道は、あり得ないというのです。
人は神のさばきの下にあるんですね。その魂は滅びに直行だと示しているのが、あのキリストの十字架なんです。そしてもうひとつ意味があって、わたし(イエス・キリスト) がその身代わりになったのだと示しているのが、あのキリストの十字架なんですね。
いじめの事件に心が痛みますか。それだったら、まず自分の罪を知りなさいと聖書は言っているのです。問題の根は事件を起こす社会ではなくて、人の心の性質にあるんですね。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
使徒の働き 4章12節
人は、このキリストが成し遂げられたあがないを、神が与えられた救いの道だと信じることで救われるのです。
そしてキリストは実際に死んでその後、死の力を打ち破ってよみがえられたんです。
イエス・キリストは「生ける救い主」なんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

GraceCafeたいむ#7
YouTube動画シリーズ。7回目となりました。
今回のタイトルは「帰るべきところがある」です。
そこに行くには、ただ一つの決断が・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #171
【劣等感】マイナスの出来事シリーズ18
" 弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。"
ルカの福音書 6章40節
今日のテーマは「劣等感」です。
誰しも、他人と自分を比べる時、その差を見せつけられるということはよくあります。しかしそれが劣等感となり、自分を卑下し、そこに希望を見出せなくなる人と、そのことを受け入れて、そのことをきっかけにして、自分の中にある新たな可能性に目を移していく人と、二種類あるようです。
イエス様は「誰でも〜師のようにはなれます」ということを言われました。そしてそれに続いて「兄弟の目にあるちり」の話をされています。それは、他人のことに目を奪われていることへの警告の話です。
私たちが師とすべき存在は、イエス・キリストのみです。イエス様は弟子たちに、あなた方は先生と呼ばれてはならない、師とも呼ばれてはならないと言われました。先生も師もただひとり、キリストだけだと言われました。(マタイ23:8-10) そしてその方を師とする時、人は十分な訓練を受けて、その方のようになるとイエス様は言われたのです。
このことの裏にあること・・。それはキリスト以外の存在を師としてはいけない、先生としてもいけない、ということです。それはキリスト以外の存在を、先生や師として自分の目標にしてはならないということです。
ある人を目標にしている限り、その人以上にはなれないんですね。ですから、人と自分を比較するということは、その人以上にはなれないという、とても狭い世界の中に自分を置くということになるのです。
私は大学でドラムを教えていますが、本当にドラムを悔いのないライフワークとしてやって行こうと思うなら、自分に与えられているものが全開になるようなスタンスに自分を置くようにしないといけない・・ということを常に言っています。
最初はある人を目標にして、色々と勉強しますが、ある時からはそこから脱しないと「その人以上にはなれないよ」と言っているのです。それは、最初から限界のある世界に自分を置くことです。
私はある確信を持っています。それはどんな生徒でも、その子が自分の感性を全開にした時、それは世界中のどこにも見られないタイプのドラマーが生まれるはずだということを。しかも、100人いたら、その100人が、皆違うタイプの、しかもカラフルで美しい、見ていて嬉しくなるような「世界一のドラマー」になるのだということを・・。
ドラムは単純で、誰でもすぐに演奏できる可能性のある楽器なので、その点がとてもわかりやすいんですね。
この「ドラマー」を「人」に置き換えれば、自ずと答えが出てきます。人は他人と比較している限り、自らを狭い世界に閉じ込めたままになるのです。だれでも、こだわりというものがあります。そのこだわりを神様に忠実に取り扱っていく時、人は神の栄光を表す、きらきら輝く星のような存在としてこの世に立つ者になるんですね。「こだわり=どうしても気になって仕方がないところ」は、神が与えてくださった賜物(たまもの)を見出すヒントなんです。
人を見ないで、私たちのためにいのちを捨てられたイエス・キリストを師として歩む時、私たちは「神の栄光を表す」という、思ってもいなかった役割を果たす者に作り上げられるんですね。
劣等感は「余計なお荷物」なんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #170
【嫌な先生・上司】マイナスの出来事シリーズ17
" 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。"
ヨハネの手紙 第一 4章18~19節
どの世界にも嫌だと感じる人というのはいるものです。ましてやそれが先生だったり上司だったりすると、本当に自分は不運だと思ってしまいます。
先生や上司というのは「教育や指導をするために任ぜられた人」であるわけです。しかし先生とか上司とかいっても、所詮人は人です。
世の中には理解のできない人の行動とか、心を痛めるような出来事というのが実に多く見られます。そのような時、聖書が言う「罪人」という視点に立つと、その行動の謎が解けることが少なくありません。
罪人の基本は「神を外に置いて自分で自分を守る」というところにあります。
先生も上司も、自分の役割をしっかり果たし、愛される人になりたいと思うのが普通です。ところが、人を前にした時に、特に自己防衛の傾向が強かったりすると、まず人をねじ伏せてから言うことを聞かせようとしてしまったりします。
尤も、そこのところが人の上に立つ者の資質を決定する部分なのだと思うのですが、そういうことを教える学校などはなく、実際に上に立った者はその時からほとんど「指導者一年生」としてスタートするわけです。
いやな先生、上司・・どうして神様はこういう人を自分の前に置かれたのか思うことがありますが、それは先生や上司にとっても同じことなのかもしれません。人の扱いというのは難しいものなんですね。
上司、先生との関係は言って見れば上下関係なのですが、その関係を良くすること・・それは上下関係ではないんですね。関係を良くするのは、上に立つ者であることもあれば、下に立つ者であることもあるということです。
聖書は「人」について、とても重要なことを教えてくれています。それは、人は罪人であり、自分を守ろうとするものであり、そのゆえに失敗するような「弱い者」であること。まただれしも「愛されること」を求めているということ。そして「恐れる者」であるということ・・。
そこが見えてきた時に、関係悪化の事態についての真相が見えてくるんですね。
そしてここにつける妙薬、それは「愛」だということがわかってきます。愛があるなら人を恐れることはなくなるのだと、今日のみことばは言っています。
そして「神がまず、私たちを愛してくださった」のだと・・。キリストの十字架は人が考え出したものではないのです。あれは神の方から先に提示された愛のしるしです。その愛の中に移された者は、「先に愛する者になる」ことの大きな力を見させられるんですね。
これが答えなのかもしれません。
我が家のトイレには、マザーテレサに仕えていたことのある日本人の神父(カトリックの教職者) 片柳弘史という方がマザーの言葉を意訳した日めくりがかかっていますが、それ以上めくらなくなってしまい、止まってしまったページがあります。そこにはこう書いてあります。
「愛されるためには、心を開くだけでいいのです。」と。
・・これって実は、すべての対人関係全てに言えることであるわけで、これで「マイナスのできごと」の多くが解決されるのではないかと思う、大事なポイントなのではないでしょうか。
でも、私たち自身にはそんな力はない・・。これも現実です。
その力は、私たちをまず愛してくださった神の内にあるんですね。
ここに救いがあるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #169
【失敗】マイナスの出来事シリーズ16
" 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章28節
今日のテーマは「失敗」です。この失敗というのは、世の中においても比較的肯定的に受け取られているようです。
「失敗は成功のもと」ということわざにある通り、失敗がなければ次には進まないという受け止め方をもって、それをバネにして次に進むんですね。
ただ、「取り返しのつかない失敗」というものもあります。自分の過失によって人を死に至らしめてしまった・・。これは次につなげるなどということ以前に、一生の重荷を負ってしまうという失敗です。
そのような失敗は、それなりの償いをすれば社会に復帰することも許されますが、自分の心の傷はいつまでも残ってしまいます。そして自らの存在の価値を見出すことさえできなくなってしまいます。
きょうのみことば、「すべてのことがともに働いて益となる・・」などということを、このような場合に果たして当てはめることはできるのでしょうか。
罪の縄目ということばがあります。自分の罪で自分が縛られ、動きが取れないというのです。この罪というのは、神から離れているという「原罪」を表す言葉ですが、実際に起こしてしまった罪もそこから派生したものです。
この罪のゆえに自由を失ってしまう。その失敗は大きいです。
その人はおそらく神に聞きますよね。「神様、どうして私がこんなことをしてしまうことをお許しになったのですか」と。
しかし神のもとに起こる出来事に偶然はないんですね。神は全能の神ですから、神を愛するあなた、あるいはまだ神を知らなくとも「神のご計画に従って召されたあなた(エペソ1:4)」の上にそのことが起きた・・。ならば神はそのことが起きることを許されたんですね。
このことの上に神がおられることを認めるか否か・・。普通の人でしたら、神も仏もあるものか・・これが結論です。しかしそのことの上におられる神を認めるのだとしたら、これ以上の「認める」はありません。絶対者に対する完全なへり下りです。絶対にしてはならないようなことを自分にさせてしまう神を、神として認めるのですから。
このようなことは、私などに言えることではもちろんありませんし、誰にも言えることではありません。ただ、これが聖書が言っていることなんですね。
信仰をもって、改めて神とともに歩む決意をするなら、神はその人を天の御国の一員としてくださる・・これは神の不動の約束なんです。
ここに理屈抜きの癒しが、そして新たな希望があるんですね。
" 神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。"
詩篇 51篇17節
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #168
【憎しみ】マイナスの出来事シリーズ15
" 憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。"
箴言(しんげん) 26章26節
今日の主題は「憎しみ」です。
前回は妬(ねた)みからくる憎しみについて見ましたが、他にも憎しみの理由はいろいろあります。でもどんな種類の憎しみであれ、一旦憎しみを持ってしまうと、それは自分では管理できない、心の中のモンスターになってしまいます。
さて、今日のみことば・・、ドキッとしませんか。
ここではまず、憎しみは隠そうとするものだと言っているんですね。もし憎しみを表に出したら、それは憎む相手を殺すということにつながるからです。だから隠すこと自体は賢明なことなのかもしれません。しかしここではその憎しみそのものが「彼の悪」だと言っています。
そしてその悪は「集いの中で現れる」というのです。集いとは人々がいるところです。それがそこで表に出る・・というのです。
憎しみの原因が妬みなどであるとすれば、それは人々の集いの中で現れて、その人はその心の内を皆に見られてしまうということになって、言って見れば自業自得だよという話になるのですが、これが加害者に対する「正当な憎しみ」のようなものだと、それは実に辛い状況です。
憎しみ自体が、その人を一生の間さいなむことになり、おまけにそれが人々の間では隠そうとしても、表に現れてしまうというのです。
こうなると前回同様、ここでも私たちは「私は本当にみじめな人間です。」と言わざるを得ません。
自分の家族を殺した加害者への憎しみに苛まれている人は少なくないと思います。
そんな人が、キリストに出会い、人の罪のために自分のいのちをささげたその方を信じたとき、思ってもみなかった「許す心」が与えられた・・。
そのような話を聞くことが何度もあります。心から許したときに、その人は自分を縛っていた憎しみから本当に解放されたという話です。
もちろん、その間の葛藤は他人が想像できるようなことではないと思いますが、その暗黒の中でその人たちはイエス・キリストという、まことのいのちに出会ったんですね。
どのような正当な理由があろうとも、憎しみは私たちを縛り、死へと導くんですね。
私たちは「罪の縄目」の中で生きています。それは自分の罪であり、人の罪である・・言ってみれば罪のネットワークが張り巡らされている世界のなかで生きているんです。
要するに人の世は、「許さなければならないこと」で満ちているんですね。しかし同時に、許す力など私たちは持ち合わせていないことを見せつけられます。
この悪の循環を止めるのがキリストの十字架なんですね。
家族を殺した者を許すなんて・・それはあり得ない、絶対にしたくない、望まないこと・・それをする人に変えられる・・。そしてそこにしか真の解放がないことを知る・・というわけです。これは神の奇跡以外のなにものでもありません。
"イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」"
ルカの福音書 18章27節
救いは「神の力」なんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #167
【妬み】マイナスの出来事シリーズ14
" 私は本当にみじめな人間です。
だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。"
ローマ人への手紙 7章24節
妬(ねた)み・・辞書には「他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む」とあります。そう、、憎むんですね。
もし憎んでしまったら、その憎しみがその人の心を支配してその人を動かします。そしてその人に与えられている貴重な時間は、その憎しみに囚われた行動で埋め尽くされてしまうのです。
はたから見れば、なんと哀れな状態かと思うのですが、本人は囚われている状態であることすら、わからないわけです。
パウロは言いました。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と。
これは罪の奴隷になっている「人」の状態、すなわち罪びとについてパウロが語ったところです。妬んでしまうというのも罪なんですね。
パウロはまずその状態を「この死のからだ」という言葉で表現しています。もはや、自分にとって良きことを選択できない哀れな性質の中に閉じ込められた「罪びと」の姿です。
そして、そこから救い出してくれる、そんな存在はどこかにあるのでしょうか、と言っているわけです。そして続くのがこの言葉です。
" 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。"
ローマ人への手紙 7章25節
それは、そのような惨めな自分を救うことができるイエス・キリストに私は出会ったのだ。私はその方を信じたことによって「そうした性質から来る縛り」から解放されました。神に感謝します!・・と言っているわけです。
そしてそのあとに、不思議な表現があります。心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている・・と。それは、クリスチャンになっても、そのような昔の性質は残っていますが、キリストと共にあることによって、神の喜ばれることを喜ぶ自分は、キリストの力によってそのような性質から解放されているのです・・というわけです。
" 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。" ローマ人への手紙 6章23節
イエス・キリストは滅びに至る者を、罪から解放し、永遠のいのちを与えるために人の姿をとって来られたんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

YouTube動画 「GraceCafeたいむ」
〜ミュージシャンにもわかる聖書の話〜 #6「変えられていく」
https://www.youtube.com/watch?v=kf5-UeL_4b4&t=13s
G-Cafe 聖書のことば #166
【不遇】マイナスの出来事シリーズ13
" なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。"
マタイの福音書 6章28~29節
今日のテーマは「不遇」です。その意味が自分の中でも漠然としていたので、調べてみましたら、このように書いてありました。
不遇・・実力や才能はあるが運に恵まれず、他者や世間一般に認められないさま、あるいは表に出ることなく苦難の時を過ごすさま。
そうだとすると、それはある種の「不幸」と言えるのかもしれません。でも実はそのような人の存在は、表に出てくる人よりもはるかに多いのではないでしょうか。
努力をすれば必ず報われるということを聞くことがあります。でも現実はそうではないように思うのです。だいたい努力できること自体がその人に与えられた才能、また力なんですね。
才能を発揮するのは、努力ではなくて、自分に与えられているこだわりに忠実に生きることによってなのだと思うのです。つまりやってしまう・・ということです。だから一人々々やることがそれぞれ個性があって、みな違うんですね。
その時には、世間に認められようが、忘れられていようが、野の一輪の花のように、凛として咲いているわけです。
要は、不遇という考えは、野の花のように、虫めがねで見ればびっくりするような創造者の作品として咲いているにも関わらず、それがひっそりと人知れず咲いていて、世間に認められないのだったら、それは不幸だ・・という考えです。
一輪の花として咲くのは「栄華を極めたソロモン」の装い以上のものだと、イエス様は言われました。
あなたは何を喜ぶかで、それが「不遇」か「喜び」かに変わってしまうというわけです。
世に認められなくとも、それが自分にとってのマイナスのことにはならない・・不遇というものの意味がどこかに消えてしまう・・。これは、天に国籍が移された者が確実に手にする、大きな恵みのひとつなんですね。
あなたは「人の称賛」から解放されるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)