G-Cafe 聖書のことば #196
山上の垂訓・第15回
【レッテル貼り】イエス様のことば 21
" さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。
見なさい。自分の目には梁(はり)があるではありませんか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。"
マタイの福音書 7章1~5節
6章では、人の行動に隠れている「下心」を見ました。そして今回のこの箇所「さばいてはいけません・・」は、心の奥で王様のように振舞っている「傲慢」の指摘です。
ここで言う「さばく」とは、人を評価するという意味です。
そして、さばいていたら同じように厳しい目で人からの評価を受けることになりますよ、というのです。評価をするというのはいわゆる「レッテル貼り」をすることです。それは、あの人はああいう人なんだからと、人の評価を固定してしまう行為です。そしてそれが自分に返ってくるというのです。
人を量る人は、自分が量られて、自分自身も身動きが取れなくなってしまうんだよと言っているわけです。
あなた方は、人の目にあるチリはよく見えるくせに、自分の目の中に梁があることには気がつかない・・。梁とは、天井に使われる太い丸太です。
それは、あなたの目には梁が入っていて、見えるものも見えない状態であることに、あなたは気がついていないのだという指摘です。
そしてまずそのことに気付きなさいというのです。そしてその梁を取り除けば、目に入っているチリで困っている人を助けることができるというのです。
目にチリが入るとは、小さなことで物事がよく見えなくなってしまっている状態なのではないでしょうか。自分の目に梁が入っていたら、そんな人を助けようと思うこと自体がお門違いですよ、というわけです。
この梁・・どうやって取り除くことができるのでしょうか。
聖書は、すべての人は罪人(つみびと)だと言っています。それはあなたを愛する神がおられるのに、その神から離れ、自分を中心にして物事を見て、すべてを自分で解決しようとする人で、そこには必ず罪があるというのです。
自分がこの罪人であることを認めること・・実はそれが「自分の目にある梁」を認めることなんですね。それは人の弱さや愚かさというものが自分の中にも基本的にあるのだということを、はっきり認めるということなんです。
偽善者・・それは自分が罪人であることを認めていない人のことです。
梁を取り除く・・それは自分ではできないことなんですね。しかし、その罪を背負ってくださったイエス・キリストの十字架はそのためだったんだと知る時、それが梁を取り除く時なんですね。そしてそのイエス・キリストをあなたの内にお迎えする時、それがあなたの内に実現するのです。
祈り・・「神さま、私の目に梁があること、罪人であることを、もっとよく知ることができますように。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #195
山上の垂訓・第14回
【心が求めていること】イエス様のことば 20
山上の垂訓・第14回
" あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
マタイの福音書 6章21節
今日のテーマは「心が求めていること」です。
前回の内容はこうです。イエス様の話の矛先がパリサイ人と律法学者に向けられて行き、「兄弟をバカ者というな」「情欲の目で女を見るな」「姦淫以外の理由で離縁するな」「誓うな」「悪い者に手向かうな」「自分を迫害する者のために祈れ」と言われた。でもそれは実は私たち自身に向けられていることばだけど、そんなことはとてもできない・・。しかしイエス様を信じる者は聖霊を受け、「神によって、神の形に変えられて行く者」とされる。その歩みの中でこれらのことが実現して行く・・。
その一つ一つのことはここでは飛ばして、次に行こうと思います。次の6章でもその話は延々と続くのです。
「善行」「施し」「祈り」「断食」「蓄え」・・。(6章1-34)
6章を読んで行きますと、私たちの行動には全て「下心」が隠れているのだということを示されます。良いことをするにも、結局自分のためだと言う、その究極の「本音」がそこにはあるというのです。
それらの話の中で言われているイエス様の言葉が今日のみことばです。
・・あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある・・
宝とは、あなたが一番大切にしているもののことです。そして、人はそのことのためにもっぱら「心」を用いるのだというのです。
そしてそのポイントは、自分を喜ばせようとしているのか、それとも神を喜ばせようとしているのか、という視点でこれらのことが語られています。
先ほどの「善行、施し、祈り、断食、蓄え」は、実は自分のために行うこともあり、また神のために行うこともある、、そのどちらもあり得るというわけです。
結局これらのことを、自分はどういう動機でしているかということをもう一度静まって、その心のうちを観察してごらんなさい、、ということなんですね。
あなたはなんのためにそれをしているのですか・・と。
神に仕えるパリサイ人や律法学者。その神のための働きの内にも、自分を喜ばせることと神を喜ばせるという、二つの動機が隠れているというのです。
これは弟子たちに語られたイエス様の山上の垂訓です。ですからそれは、今のこの時代においても、イエス様に仕えて行こうとする者、すなわちクリスチャンに対しての、とても重たい指摘なんですね。
祈り・・詩編139:23-24(口語訳聖書)から
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。
わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #194
山上の垂訓・第13回
【無理ないましめ】イエス様のことば 19
山上の垂訓・第13回
" ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"
マタイの福音書 5章48節
イエス様の山上の垂訓と言われるところに入ってから13回目になりました。
今日のテーマは「無理ないましめ」です。
このイエス様の説教は、一般の人に対してではなく、弟子たちに対してであるという観点から、一つずつ見てきました。
そしてこれらのことを考えるときにイエス様は、「パリサイ人や律法学者」を物差しとして見せられた、というのが前回です。
あなた方はパリサイ人や律法学者を何か偉い存在のように思っているかもしれないが、その内側を見るのでなければ全てを見誤るから気をつけなさい・・というわけです。
そしてこの後に、有名な箇所がいくつも出てきます。「兄弟をバカ者というな」「情欲の目で女を見るな」「姦淫以外の理由で離縁するな」「誓うな」「悪い者に手向かうな」「自分を迫害する者のために祈れ」・・
これらは、私たちには到底できそうもないことばかりです。そしてその共通点は、心のコントロールということなんですね。
そして、これらの話の最後にまとめのようにして言われているのが今日のみことば・・天の父が完全であるように、完全でありなさい・・です。
結局、心をコントロールできるならそれは「完全な人」であるのかもしれません。でもこれらはほとんど「でき得ない」ことばかりです。
所詮私たちは、天の父「神」のように完全になれるわけがない・・これが普通に行き着くところです。
それでもイエス様は「完全でありなさい」と言われたんですね。
イエス様が人々に言われたこと・・それらはわけがわからないこと、できそうにないことばかりだと言っても過言ではないように思います。
ところが・・です。イエス様が十字架で死なれ、よみがえって天に上られ、そして弟子たちの上に激しく聖霊が下った・・その時に、あのわけがわからない話の意味が突然開け、見えるようになり、また、この世的な欲の中にいた弟子たちが完全に変えられ、その心は主なる神にのみ向く者とされたんですね。
イエス様が言われたことはみな「あらかじめ」なんですね。後になって、ああこういう意味だったのかとわかる・・。それは聖霊によってわかるものであるわけです。
要するにこれらのことは、イエス・キリストを救い主として自分の内にお迎えして後のことだ、というわけです。
今日のみことばをよく見ると、「あなた方の天の父」と言っています。それは「信じた者」というのが前提の話だということです。
その意味は次のみことばに集約されています。
" イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」"
ルカの福音書 18章27節
あなたを変えるのは、あなたの努力や力ではなく、神なのだということです。
わたし(イエス・キリスト)を信じる・・ここが完全になる入り口なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #193
山上の垂訓・第12回
【天の御国に入る資格】イエス様のことば 18
" ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
わたしはあなたがたに言います。
あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。"
マタイの福音書 5章19~20節
今日のテーマは「天の御国に入る資格」です。
前回の17-18節では、イエス様の話の矛先が律法学者やパリサイ人に向けられたということを見ました。今日の箇所は、まさにそのことがわかる箇所です。
この文脈から見ますと、このユダヤ人の指導者たちは天の御国に入れない、ということになります。
神からの戒めは、本来ならきっちり従うことが求められているものです。イエス様も律法の一点一画も消え去ることはない(18節)と言われました。
彼らパリサイ人や律法学者は、民衆に対して神の言葉を伝え教える者として立てられた人たちです。その彼らに対して言われているこの言葉は、それをあなた方は全くしていないではないかという指摘です。完全に失格だということです。
「律法学者やパリサイ人の義」とはどういうものなのでしょうか。
「義」とは正しさのことです。「それで良しとしていること」のことです。
イエス様は彼らを評して「白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。(マタイ23:27)」と言われました。簡単に言ってしまえば、その心は外見を繕うことで一杯になっていて、内側の「汚れ」について、悲しもうともしていない。そしてそれで良いと思っている・・ということになります。
厳しいですね。でもこれって・・他人事ではないんですね。パリサイ人や律法学者というのはそういう人たちだったんだぁ、とか言って見ている場合ではないのです。これは実は私たちに言われていることなんですね。
私たちの心の基本は「自分ファースト」なんです。それはパリサイ人や律法学者に限ったことではなく、私たちもそうなんです。人はそのような「肉の性質」を背負って、この世では生きていくしかない者なのです。
イエス様は、この話を弟子たちにしました。それは彼らが後に聖霊を受ける時に備えるために、このことをあらかじめ語られたんですね。イエス様の十字架の意味を知る土壌は、自分を直視するところにあるからです。そうでなければ、十字架は必要なものではなくなってしまうのです。
十字架で死んでよみがえられ、天に上り、今も生きておられるイエス・キリストご自身が、人の罪の性質に関しての完全な解決なんです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの身代わりの死となり、よみがえりとなってくださったからです。
天の御国に入る資格は、自分の罪を認める人であるということなんですね。
そしてそのためには、イエス・キリストを自分のうちに迎えれば良いのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
山上の垂訓・第12回
【天の御国に入る資格】イエス様のことば 18
" ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
わたしはあなたがたに言います。
あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。"
マタイの福音書 5章19~20節
今日のテーマは「天の御国に入る資格」です。
前回の17-18節では、イエス様の話の矛先が律法学者やパリサイ人に向けられたということを見ました。今日の箇所は、まさにそのことがわかる箇所です。
この文脈から見ますと、このユダヤ人の指導者たちは天の御国に入れない、ということになります。
神からの戒めは、本来ならきっちり従うことが求められているものです。イエス様も律法の一点一画も消え去ることはない(18節)と言われました。
彼らパリサイ人や律法学者は、民衆に対して神の言葉を伝え教える者として立てられた人たちです。その彼らに対して言われているこの言葉は、それをあなた方は全くしていないではないかという指摘です。完全に失格だということです。
「律法学者やパリサイ人の義」とはどういうものなのでしょうか。
「義」とは正しさのことです。「それで良しとしていること」のことです。
イエス様は彼らを評して「白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。(マタイ23:27)」と言われました。簡単に言ってしまえば、その心は外見を繕うことで一杯になっていて、内側の「汚れ」について、悲しもうともしていない。そしてそれで良いと思っている・・ということになります。
厳しいですね。でもこれって・・他人事ではないんですね。パリサイ人や律法学者というのはそういう人たちだったんだぁ、とか言って見ている場合ではないのです。これは実は私たちに言われていることなんですね。
私たちの心の基本は「自分ファースト」なんです。それはパリサイ人や律法学者に限ったことではなく、私たちもそうなんです。人はそのような「肉の性質」を背負って、この世では生きていくしかない者なのです。
イエス様は、この話を弟子たちにしました。それは彼らが後に聖霊を受ける時に備えるために、このことをあらかじめ語られたんですね。イエス様の十字架の意味を知る土壌は、自分を直視するところにあるからです。そうでなければ、十字架は必要なものではなくなってしまうのです。
十字架で死んでよみがえられ、天に上り、今も生きておられるイエス・キリストご自身が、人の罪の性質に関しての完全な解決なんです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの身代わりの死となり、よみがえりとなってくださったからです。
天の御国に入る資格は、自分の罪を認める人であるということなんですね。
そしてそのためには、イエス・キリストを自分のうちに迎えれば良いのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #192
山上の垂訓・第11回
【聖書の成就】イエス様のことば 17
" わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。"
マタイの福音書 5章17~18節
弟子に対しての山上の垂訓。初めの8つの「幸いな者」は、イエス様の弟子としての資質のことだという観点から見て来ました。その結論は、この世で「愛の行い」をして、人々が父なる神をあがめるようにしなさいということでした。
そしてここからイエス様の話の矛先は、パリサイ人や律法学者の方に向けられて来ます。この後に出てくる有名な話、例えば「右の頬を打たられたら、左を出しなさい」などは、全てこの土台、すなわちパリサイ人や律法学者たちを意識して言われているのだという視点で見ると、イエス様がこの話をしている時のお気持ちに触れることができるような気がします。今日の箇所はそのイントロであるわけです。
実は、イエス様が話される大半のことは、このパリサイ人や律法学者というユダヤ人たちの指導者層に対する厳しい糾弾という意味合いが含まれているんですね。そしてこの糾弾の姿勢は「上席を選ぼうとする」という、指導者になれば人の上に立とうとしたがる「人」の傾向に対して、これからイエス・キリストを宣べ伝えるであろう弟子たちに対するいましめでもあったわけです。
当時のユダヤ人にとって、律法を守るということはとても重要なことで、それに反するということは神様に対する反逆に等しい行為とみなされました。安息日には働いてはならないというのもそのひとつです。ところがイエス様が色々な奇跡のわざをされた時、それが安息日だったというので、パリサイ人や律法学者たちはイエス様を「神に反逆する者」とし、そのとどのつまりがあの十字架だったわけです。
ところがイエス様は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と言われたのです。
ここでイエス様が言われた律法とは、モーセが受けた十戒を含む創世記に始まるモーセ五書のことです。そして預言者とはその後に出てくるイスラエルに対して警告を発した多くの預言者たちのことです。すなわち「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことを指しているんですね。
ところが当時のユダヤ人の生活を支配していた律法は口伝律法という、生活上のこまごまとした、あとから付け加えられた規則でした。安息日は働きをやめて休む日だというところから、重たい物を持って歩くことも禁じるという、ただ生活を縛るだけのものになっていたわけです。そんな彼らは安息日に病人を癒すイエス様を「安息日を破る不遜な者」だとしたのです。ところが人々は安息日にも牛やろばの世話をし、水を飲ませたりしていながら、それは問題にしていませんでした。
イエス様の指摘はこうです。あなたがたは神に従っていると言いながら、その心は神から離れ、こまごまとした規則に縛られるだけの者になってしまっているが、聖書(旧約聖書)に記されていることは、主なる神だけを神とし、愛せよということで、あなたがたは実はそこから大きくそれてしまっている・・ということなんですね。
そしてさらにイエス様は聖書に記されていることについて、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」と言われたのです。
それは、聖書の全ては成就するということであり、それは天地が消え去る最後の最後まで、きっちりその通りになるんだと言われたんですね。
それは一言で言えば、キリスト(わたし)は今ここに来て、終わりの時にも再び来るのだということです。
わたしが来たのは「聖書が成就するため」なのだ。そこから目を逸らせようとするすべてのことに気をつけなさい・・と、これがイエス様の教えの始めなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

GraceCafeたいむ#11 / YouTube動画
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #11
賛美歌 Amazing Graceから 〜わたしはあなたを愛している〜
お話/市原康、賛美/市原よしみ
アップしました。
https://www.youtube.com/watch?v=eUqXpvL-3mM&t=4s
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #191
山上の垂訓・第10回
【良い行いとは】イエス様のことば 16
" あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。"
マタイの福音書 5章13~16節
イエス様は、弟子たちに向かって八つの「幸いな者」の話をされました。それは「心の貧しい者」から始まり、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者・・。こうしてみると「幸いな者」とは、イエス様の弟子としての資質のことを言っているのだということが見えてきます。
それに続いて言われたのが、今日の「地の塩」「世の光」の話です。
今日の13節から16節までは、文脈から言えばこれで一括りです。最後にその目的が書かれているからです。それは「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるため」だというのです。
ですから、「地の塩」とか「世の光」「灯をともす」というのは、ここで言われる「良い行い」のことなんですね。
そしてその良い行いとは、人がそれを見ると「天の父をあがめる」ような行いだというわけです。
良い行いをする人は、世の中にはたくさんいます。しかし善行一般では、ここで言われる「地の塩」や「世の光」にはならないんですね。
弟子たちに求められる「良い行い」・・それは、その行いがイエス・キリストから来ているのだということがわかる必要があるというわけです。
イエス・キリストという旗印をはっきりさせないことには、それは世の中に埋もれていってしまうんですね。ですから塩気とは、イエス・キリストご自身のことを言っているわけです。要するに「塩が塩気をなくす」というのは、自分がキリストの弟子であることを忘れるということなんですね。
また世の光になり得るのもの・・それは、イエス・キリストをおいて他にはいないんですね。イエス・キリストを標榜したら、それは決して隠れることなどできないんです。
そして、家の中でもイエス様の御名を明確にするとき、それは家にいるすべての人(家族)にイエス・キリストを見せるのであって、そのためにあなたはいるのだということです。
イエスに従う者の上にある大きな神の愛・・、それはいのちをかけてその人の全人格を受け入れるという、大きな愛です。ですからそのイエス様に従う者の「行い」は、種類は様々であってもすべて「愛の行い」なんですね。
これまでは、弟子の資質について見て来ました。そしてここからは弟子がすべき「行い」の話に入ったわけです。
イエス様の御名によって愛の行いをする・・。
それで人々は、そこに神を見る・・。
そのためにあなたがたは世に置かれるのだ・・というわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #190
山上の垂訓・第9回
【義のために迫害されている者】イエス様のことば 15
" 義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章10節
イエス様が弟子たちに言われているという前提で、ここまで7つの「幸いな者」を見てきました。そして今回が最後の八つ目ですが、ここでいよいよ、キリストに従う者に向けて言われているということが鮮明になります。
義のために迫害されている者については、この後さらに二節を用いて語られています。その迫害とは、人々にののしられる。ありもしないことで悪口を浴びせられる。過去の預言者たちが受けたと同じような迫害を受ける・・というのです。その時に、その者は幸いだと・・。
天の御国はその人たちのものだから。天での報いは大きいから大いに喜びなさい・・となります。
改めて「義のために迫害されている者」について考えてみますと・・
義とは、「神が良いとされること」です。そしてそのことのために迫害されるというのです。
神が良いとされていること。それは人に関しては次のようなことです。
まずは人が聖であること。そして聖くない状態に対しては見逃すことができないということ。そしてそのためにご自身が備えられた「赦しの道」を人が受け取ること。これが「神が良しとされること」なんですね。
すなわち、人は神の前に赦されるものではないけど、特別な方法で「赦す者」を選び出し、聖い者としてご自身のもとに帰らせるという、一見逆のことが同時に存在している・・これが「神の義」なんですね。
そのために具体的な道を備えられた方・・それが御子イエス・キリストです。
ですから、義のために迫害されてるというのは、イエス・キリストの故に迫害を受けるということに他なりません。
そしてその者は天の御国を受け継ぐというのです。さらに「天においてその報いは大きい」(12節) と。
このことばには、天における報いには大小があることを予感させます。そしてそのことをさらに強調するように、このあとの19節には「天においての偉大な者と小さい者」(マタイ5:19) という言葉が出てくるんですね。
これはびっくりですね。イエス様によって救われ従っていく者には、みな天の御国を約束されているけど、その働きに応じての報いには差があるというわけです。
イエス様は、ご自分に従っていこうとする者は、迫害を受ける、ののしられる、ありもしないことで悪口を浴びせられる、と言われたのです。
すなわち、この世において、神のしもべには苦難が伴う。しかし天における大いなる報いを期待して、この世で受ける苦難を受け取りなさい・・。イエス様は、弟子たちに向かってそう言われたんですね。
わたしに従う者には苦難が伴う。しかし死の先には、気休めではない具体的な、その働きに応じた報いがあるのですよと・・。
このことをイエス様は、弟子たちにあらかじめ言われたわけです。
聖書はこの世における価値観をひっくり返してしまうんですね。
神の与えられる「希望」は永遠の中での話なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #189
山上の垂訓・第8回
【平和をつくる】イエス様のことば 14
" 平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。"
マタイの福音書 5章9節
今日のテーマは「平和をつくる」です。
世界平和という言葉を、最近はあまり聞かれなくなりました。最近の世の中は、平和を叫んだところで「焼け石に水」の様相を呈しているように見えます。
人の世界には常に戦いがあります。しかし聖書の言う「罪人」は、神から離れて、自分の力で自分を守るという基本的な姿勢があるから、そこに戦いがあるのは当たり前といえば当たり前なんですね。そして、すべての人が罪人だというのです。
そのように考えると、平和を作るというのは並大抵のことではないということが見えてきます。
世にあって、平和は作れるものなのでしょうか。こうして世の中を見渡す限り、どんなにしても人の力で平和はつくれないと思ってしまいます。
いや、だからこそ、がんばりなさい・・という考え方もありますが、神の目から見た「人」の心は、それこそ見せられるようなものではなく、綺麗事など言ってられないというのが正直なところなのではないでしょうか。
私たちは、平和を作ろうと思うならまずあなたの心を正しなさい・・と言われてしまうような者なんですね。
イエス様の弟子たちも例外ではないわけです。その弟子たちにイエス様は「平和をつくる者」という言葉を投げかけられました。
平和を作るという意識は大切なことだということは示されています。しかしそれは、それを作る力など私たちのうちにはない・・そのことも織り込み済みでイエス様は語られているのではないでしょうか。
ですからイエス様が言おうとされていることは、そこに平和があるように「わたし」に願い求め、そこに神が立ち上がってくださるという場面を招く者となりなさい、ということなのではないでしょうか。
私たちに「平和を作る」力など、どこにもないのです。平和のないところに行って、あなたは平和をつくれますかと問われたら、それは家庭の中でも国のレベルでも、お手上げなのではないでしょうか。
イエス様は言われました。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27ほか)
だから、私たちにできることは、そこに神をお招きすることなんですね。
もしそのようにして平和をもたらす人がそこにいるのだとしたら、その人は言うまでもなく「神の子」と呼ばれるわけです。
ですから、ここで言われている幸いな者とは、平和をつくろうとする時にも神に依り頼む者・・ということになりそうです。
旧約聖書は戦争の歴史でもあります。しかし主なる神を信じ、他のものに依り頼むことなく、主にのみ従うところにいつも「平和」があったんですね。
平和をつくるのは神なんです。ですから私たちは、神の陣営に属する者にならなければ「平和をつくる者」とはなり得ないんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #188
山上の垂訓・第7回
【神を見る者】イエス様のことば 13
" 心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです。"
マタイの福音書 5章8節
心のきよさとはどういうことでしょうか。
聖書を見ると「聖」ということばは千回以上出てきます。なんとなくその意味をまとめてみると、それは「神の側に聖別された」というようなイメージになります。
ということは、心のきよい者・・それは、その心が神の目から見て、いつも神の側に立っている者というような意味になるのでしょうか。
それは神の御心をいつも慕い求める心。神の喜ばれることを喜ぶ心。そのような心を持つ者・・ということになます。
その人たちは幸いです。その人たちは神を見る・・と、今日のみことばは言っているわけです。
しかしヨハネは、福音書でも手紙の中でも「いまだかつて神を見た者はいない。」と言っています。ならば、神を見るとイエス様が言われたその言葉には、どういう意味があるのでしょうか。
イエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。
ところがイエス様を見ている弟子たちにはそのことがわかっていなかったことは明白です。しかしイエス様が十字架にかかられ、死んでよみがえり、天に上られた後に、弟子たちの上に激しく聖霊が降ってから弟子たちは、このイエス様の上にある神の栄光を見るようになったんですね。
弟子たちはその時に初めて、イエス様の「わたしを見た人は、神を見たのです。」ということの意味がわかったのです。
こうして見ると、神を見るとは「イエス・キリストが神であるということを知る」ということであることがわかります。
心がきよい・・。それは、いつもイエス様を見上げ、イエス様の言われたことに心をとめ、イエス様に従おうと心に決めるということなんですね。
その人たちは、イエス・キリストの上に神の栄光、すなわち神そのものを見るようになるというわけです。
では、私たちは果たして「心のきよい者」なのでしょうか。そうでなかったら、どうすれば心のきよい人になれるのでしょうか。
弟子たちの上に聖霊が激しく降ってから、彼らは聖霊に満たされる人になりました。それ以来、彼らの心はもっぱらイエス様の方を見る者となりました。それまで彼らは恐れて戸を閉めて隠れていたんですね。その心はイエス様ではなく恐れの方に向けられていたわけです。
私たちは、自分の心を一生懸命イエス様に向けようと努力しても、それがなかなかできない自分に出くわします。そんな私たちにイエス様は、聖霊を叩くようにして求めなさいと言われました。そうすれば聖霊は与えられることを保証しておられるんですね。
" ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」"
ルカの福音書 11章13節
結局「心のきよい者」とは、聖霊をいつも、これでもかというほどに求める者で、その人は幸いだたということになります。イエス様は、聖霊は求めるものだと言われているんですね。
だったらそれに従う・・。従うというのは、イエス様を愛しているという意味です。
イエス様は、そのような人は幸いな人だと言われたわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)