G-Cafe 聖書のことば #181
【新しい役割】イエス様のことば 6
" イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしてあげよう。」"
マタイの福音書 4章19節
今日のテーマは「新しい役割」です。
人はこの地上において、それぞれが何らかの役割を果たす者として生きています。その役割が一瞬にして変わった・・。それが今日のみことばの出来事です。
世の人々は何も知らずにこの世を浮遊するように歩んでいて、どこから来たかもわからず、どこへいくかもわからない。また、おそらく最終到着地点は「死」であろうことは感じつつも、その死を本能的に忘れようとしながら、あるいはそれを目前にした時には必死になってそこへ行くまいとしながら、いろいろなものにすがりながらもその先は結局わからずじまいで、善良な人として、あるいは悪の限りを尽くしながら、人々はその一生を終えるわけです。
聖書は言っています。人は死の後に「その行いに応じたさばき」があって、すべての人は今のままでは「まことのいのちを失った」ままで、その魂は滅びゆくしかないのだと。そしてそれは、自分が善良と思っている人たちも例外ではないというのです。
まことのいのちは、まことの神という、いのちの源なる方のもとに立ち返った時に与えられるものだけれど、人と神との間には深い溝ができてしまっているというんですね。それは、人が神を認めないという「罪」からくるもので、父なる神はそのために御子を遣わして、その罪の解決のために、十字架の身代わりの死という、想像を絶する方法をもって人々が神のもとに帰ることができるようにされたのだ。この御子キリストの十字架が自分の罪のためだと信じる者が救われる・・。これが聖書に書いてあることです。
漁師の仕事は魚を「とる」ことです。魚は何も知らずに湖の中を悠々と泳いでいるわけですが、そこに上からさっと網が降りて来て、気が付いた時には捕らえられて、陸に引き上げられしまうわけです。魚にとっては「一巻の終わり」です。
人間をとる漁師とは、この世を浮遊していた人生をある意味で「一巻の終わり」にさせ、想像さえしなかった新しいいのちと希望の世界に、さっと引き上げてしまう・・それがその仕事だというんですね。
イエス様が声をかけられたアンデレとシモンについて、他の福音書を見ると次のことがわかります。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でした。すでにある種の志(こころざし)を持っていた人であることがわかりますね。
ヨハネは「見よ、神の小羊」と、イエス様を指して言います。それを聞いていたアンデレはイエス様について行き、その日にイエス様のところで一晩過ごします。そして帰って弟を見つけ「キリストに会ったぞ」と言って彼をイエス様のところに連れていったら、イエス様はその弟シモンに向かって「あなたはペテロと呼ばれるようになる」と言われました。(ヨハネ1:35-42)
イエス様が活動を開始されたのはバプテスマのヨハネが捕らえられた後ですから、今日のみことばの出来事はその後のことであるわけです。
漁師である彼らはガリラヤで網を打っていました。そこにイエス様が現れたのです。彼らはその時すでにイエス様を知っていたんですね。その時には何か期待感で一杯になったことは容易に想像できます。
そこでエス様が言われたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らは喜び勇んで、網を捨ててイエス様に付いて行きました。
全ての人は、イエス・キリストを信じることで、その罪は赦され、永遠のいのちをいただき、死を通り越した永遠への希望が与えられます。しかし同時に、それらの人はこの地上において「新しい役割」が与えられるんですね。
それは、「人間をとる漁師になる」ことです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
【新しい役割】イエス様のことば 6
" イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしてあげよう。」"
マタイの福音書 4章19節
今日のテーマは「新しい役割」です。
人はこの地上において、それぞれが何らかの役割を果たす者として生きています。その役割が一瞬にして変わった・・。それが今日のみことばの出来事です。
世の人々は何も知らずにこの世を浮遊するように歩んでいて、どこから来たかもわからず、どこへいくかもわからない。また、おそらく最終到着地点は「死」であろうことは感じつつも、その死を本能的に忘れようとしながら、あるいはそれを目前にした時には必死になってそこへ行くまいとしながら、いろいろなものにすがりながらもその先は結局わからずじまいで、善良な人として、あるいは悪の限りを尽くしながら、人々はその一生を終えるわけです。
聖書は言っています。人は死の後に「その行いに応じたさばき」があって、すべての人は今のままでは「まことのいのちを失った」ままで、その魂は滅びゆくしかないのだと。そしてそれは、自分が善良と思っている人たちも例外ではないというのです。
まことのいのちは、まことの神という、いのちの源なる方のもとに立ち返った時に与えられるものだけれど、人と神との間には深い溝ができてしまっているというんですね。それは、人が神を認めないという「罪」からくるもので、父なる神はそのために御子を遣わして、その罪の解決のために、十字架の身代わりの死という、想像を絶する方法をもって人々が神のもとに帰ることができるようにされたのだ。この御子キリストの十字架が自分の罪のためだと信じる者が救われる・・。これが聖書に書いてあることです。
漁師の仕事は魚を「とる」ことです。魚は何も知らずに湖の中を悠々と泳いでいるわけですが、そこに上からさっと網が降りて来て、気が付いた時には捕らえられて、陸に引き上げられしまうわけです。魚にとっては「一巻の終わり」です。
人間をとる漁師とは、この世を浮遊していた人生をある意味で「一巻の終わり」にさせ、想像さえしなかった新しいいのちと希望の世界に、さっと引き上げてしまう・・それがその仕事だというんですね。
イエス様が声をかけられたアンデレとシモンについて、他の福音書を見ると次のことがわかります。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でした。すでにある種の志(こころざし)を持っていた人であることがわかりますね。
ヨハネは「見よ、神の小羊」と、イエス様を指して言います。それを聞いていたアンデレはイエス様について行き、その日にイエス様のところで一晩過ごします。そして帰って弟を見つけ「キリストに会ったぞ」と言って彼をイエス様のところに連れていったら、イエス様はその弟シモンに向かって「あなたはペテロと呼ばれるようになる」と言われました。(ヨハネ1:35-42)
イエス様が活動を開始されたのはバプテスマのヨハネが捕らえられた後ですから、今日のみことばの出来事はその後のことであるわけです。
漁師である彼らはガリラヤで網を打っていました。そこにイエス様が現れたのです。彼らはその時すでにイエス様を知っていたんですね。その時には何か期待感で一杯になったことは容易に想像できます。
そこでエス様が言われたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らは喜び勇んで、網を捨ててイエス様に付いて行きました。
全ての人は、イエス・キリストを信じることで、その罪は赦され、永遠のいのちをいただき、死を通り越した永遠への希望が与えられます。しかし同時に、それらの人はこの地上において「新しい役割」が与えられるんですね。
それは、「人間をとる漁師になる」ことです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)