G-Cafe 聖書のことば #184
山上の垂訓・第3回
【主に従えない悲しみ】イエス様のことば 9
" 悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。"
マタイの福音書 5章4節
前回と同じ箇所、「悲しむ者」のところです。
キリストに従う者が世の光となるという流れの中で出会う悲しみ、考えてみれば、それにはもっと個人的なことがありましたね。
それはキリストに従いたいのに従えないという悲しみです。あるいは従う力がないという絶望・・。
イエス様が私たちに命じられた二つの大きな命令、それは心と思いと力を尽くして主なる神を愛すること。
そしてもう一つは、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する。
この両者ともに、私たちの内にはそれを妨げるものがあります。それは「自我」。聖書ではそれを「肉の性質」と呼んでいます。
神を愛するとは、神が喜ばれることはなんだろうと、いつもそういう思いの中で自分の行動も決まってくる・・そういうことなのだと思うのですが、これがなかなかできない。
隣人を愛するとは「自分がして欲しいと思うことをその人にもしてあげる (マタイ7:12) 」、すなわち人が何を必要としているのかにいつも心を用い、そのように行動することです。ところがそれもやっていない・・。
さあ主に従って行こう! と勇んで歩み始めても、自分がそれとは程遠いことを知り、がっかりしてしまう・・。
しかし、もしあなたが熱意や誠意でそれを行おうとするなら、おそらくその通りになってしまうのだと思います。
だいたいこの後(マタイの5章)に出てくる、イエス様が言われていること・・。そのほとんどは、私たちがそんなことできるのかなと思うようなことばかりです。それを自分の力で一生懸命にやろうとすると、自分との大きなギャッブを見せつけられて、悲しみと絶望にという結果になるというわけです。
でもあなたがもしそうなら、あなたは慰められる・・、と今日のみことばは言っているんですね。
主に従いたいという思いが強ければ強いほどがっかりする・・それは慰めに通じるということになるわけです。それは何故かというと、自分の力や能力に期待することをあきらめる人になるからなんですね。普通の人ならそのまま諦めるしかないわけですが、イエス様を信じて内にいただいている者は、そこで初めて「イエス様の力」に委ねるというところへと導かれるわけです。
その時に初めて自分の内に、自分を新しくする力をいただいたいるということを目の当たりにするんですね。
逆に言いますと、主に従うことができなくて悲しむ者でなければそこに到達することができない。だからこそ、そうして悲しむ者は慰めを受けると言っているわけです。自分はこんなに無力で、しかも相変わらずのどうしようもない者でも、そのまま主にすべてを開け渡せばいいのだ・・と。それは大きな慰めです。
主を愛するなら従いたい・・。そこが出発点になり、そこに当然のようにして悲しみと絶望がやってくるわけですが、そのことを通るからこそ、それが慰めに変わるのだというわけです。だから幸いだというのです。
ですから、そのような意味でこのみことばを受け取る時に、あなたにとって問題はなんでしょうかといえば、それはあなたはそこまで主を愛してますかということになるんですね。
私たちがまず最初に求めること・・それは、
「主よ、あなたを愛すること・・それを心から願う者とさせてください。」ということになるのかもしれません。
まずそのスタートがあれば、あなたは主が与えてくださる「幸い」を実際に受け取る者としての歩みが始まる、ということになるわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)