G-Cafe 聖書のことば #191
山上の垂訓・第10回
【良い行いとは】イエス様のことば 16
" あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。"
マタイの福音書 5章13~16節
イエス様は、弟子たちに向かって八つの「幸いな者」の話をされました。それは「心の貧しい者」から始まり、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者・・。こうしてみると「幸いな者」とは、イエス様の弟子としての資質のことを言っているのだということが見えてきます。
それに続いて言われたのが、今日の「地の塩」「世の光」の話です。
今日の13節から16節までは、文脈から言えばこれで一括りです。最後にその目的が書かれているからです。それは「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるため」だというのです。
ですから、「地の塩」とか「世の光」「灯をともす」というのは、ここで言われる「良い行い」のことなんですね。
そしてその良い行いとは、人がそれを見ると「天の父をあがめる」ような行いだというわけです。
良い行いをする人は、世の中にはたくさんいます。しかし善行一般では、ここで言われる「地の塩」や「世の光」にはならないんですね。
弟子たちに求められる「良い行い」・・それは、その行いがイエス・キリストから来ているのだということがわかる必要があるというわけです。
イエス・キリストという旗印をはっきりさせないことには、それは世の中に埋もれていってしまうんですね。ですから塩気とは、イエス・キリストご自身のことを言っているわけです。要するに「塩が塩気をなくす」というのは、自分がキリストの弟子であることを忘れるということなんですね。
また世の光になり得るのもの・・それは、イエス・キリストをおいて他にはいないんですね。イエス・キリストを標榜したら、それは決して隠れることなどできないんです。
そして、家の中でもイエス様の御名を明確にするとき、それは家にいるすべての人(家族)にイエス・キリストを見せるのであって、そのためにあなたはいるのだということです。
イエスに従う者の上にある大きな神の愛・・、それはいのちをかけてその人の全人格を受け入れるという、大きな愛です。ですからそのイエス様に従う者の「行い」は、種類は様々であってもすべて「愛の行い」なんですね。
これまでは、弟子の資質について見て来ました。そしてここからは弟子がすべき「行い」の話に入ったわけです。
イエス様の御名によって愛の行いをする・・。
それで人々は、そこに神を見る・・。
そのためにあなたがたは世に置かれるのだ・・というわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)