G-Cafe 聖書のことば #217
【本番は死で終わる】イエス様のことば 42
" また、別の一人の弟子がイエスに言った。
「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
ところが、イエスは彼に言われた。
「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」"
マタイの福音書 8章21~22節
前回のテーマは「弟子の資格」でした。ここではその二つ目。しかも「弟子」に対して、すなわちすでにイエス様に従って来ている人に言われていることです。
「父を葬る」というのは、その人にとってはとても大切なことです。しかしイエス様は、それは人に任せておいて私に従って来なさい・・と言われたわけです。
聖書には、葬儀自体のことを軽く考えていると思えるような箇所はありません。丁寧に葬られるということは祝福であるというのが、旧約聖書に一貫して見られる見解です。
我々日本人には、葬るという言葉の中に、死者を見送ることでその魂を慰めるという思いが込められています。仏教などにおいては、その霊が「成仏」するようにと、残された者が最後にできる限りの事をしてあげるという思想があります。
ですから、それは人に任せてこちらに来なさいという言葉を、私たちはとても心無い言葉のように受け止めてしまいがちです。
イエス様の例え話の中に、ラザロという、生涯貧しくて良いことなど何もないまま死んで行った人と、毎日贅沢に遊び暮らしていて死後にはちゃんと葬られた金持ちの話があります。(ルカ16:19-31)
彼らには死後、行くべきところがあるというのです。しかしその行き先は全く違うところでした。貧しく不幸な男は「アブラハムの懐」で、金持ちが行ったところは「炎の中で苦しむよみ」でした。
そしてよみから「アブラハムの懐」は遠くに見ることができるけれど、両者の間には深い淵があると書かれています。それはその行く先は定められたものであって、もう変えることはできないということを示しています。
私たちは、死後に神がその人の上になさることに対して、手を加えることはできないんですね。地上の人の祈りによってすでに死んだ者の行く先が変わったり、死んだ者がそこで悔い改めていく先が変わるということは、どこにも書かれていないのです。死んだらその先のことがそこで決定する。地上の生涯があって、あとは「自分の行いに応じてさばかれる」(黙示録20:12) というのです。
そのことが示しているのは、イエス様が与えてくださるものを受け取ることができるのは、生きている間だけだということです。あの金持ちは、生きている間だったらアブラハムの懐へと、行く先を変えるチャンスはあったということです。
イエス様はすべての罪人のために、永遠のいのちへと行先を変える道をご自身で開かれ、それを人々に示されました。その「罪人」というのは、生きている人のことなんです。
今、生きているこの生涯は、一度きりの「本番」なんですね。その本番は「死」で終わるのです。そしてあとは「報い」の領域に入るんですね。
わたしの弟子は、今生きている人のために働くようにわたしが召した者です。その働きは時間との戦いです。なぜなら人は、死ぬのですから・・。
これがイエス様が言われたことなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)


ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #16
賛美歌 「私が悩む時も」から 〜与えられる確信〜
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
アップしました。
https://www.youtube.com/watch?v=BzrKaOu8xzw
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)


ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #16
賛美歌 「私が悩む時も」から 〜与えられる確信〜
お話/市原康、賛美/市原よしみ
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G-Cafe 聖書のことば #216
【弟子の資格】イエス様のことば 41
" そこに一人の律法学者が来て言った。
「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
イエスは彼に言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」"
マタイの福音書 8章19~20節
群衆が周りにいるのを見て、イエス様は弟子たちに、向こう岸に渡るように言います。そのとき一人の律法学者が来て・・と、これが今日のみことばの場面です。
この律法学者は、弟子たちがイエス様に命じられて向こう岸に渡る準備を始めるのを見て、「私も」と言わんばかりに慌ててイエス様のところに来て言いました。「 先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」・・と。要するに「私もあの弟子たちの仲間に加えてください」ということでした。
この律法学者に対してイエス様は、ほとんど突き放したような言い方をされます。
今日のテーマは「弟子の資格」です。
律法学者は、自分はイエス様の弟子に加えられるのにふさわしい者であると思っていたようです。ところがイエス様は意外に冷たい反応をされたわけです。
人の子・・、枕するところがない・・。それは暗に「あなたにはふさわしくない」と言われているような感じです。
私たちは、自分がそこに立つのにふさわしい者だと、何の疑問もなく思っていることってないでしょうか。ところが周りの人たちは、そうは思っていないということ・・ないですか。
自分には当たり前のことが、他人はそう見てはいない・・。
自己中心の実態を自分の内に見ることは辛いものです。ですから本能的にそれを避けてしまうんですね。でも周りの人からは全く違う見方をされているということに気がつく時、その硬い壁に少しヒビが入るんですね。
この律法学者には、その必要があったのかもしれません。
律法学者は多くのことを「知っている人」でした。それに対しイエス様の弟子たちは、おっちょこちょいではあったけど、ひとたびそう思ったら一直線に進んでしまうような素直なところを持つ人たちだったことが、いろいろな記事から伺い見ることができます。
この律法学者は、彼ら弟子たちの仲間に入ったら、リーダー格になれると思っていたかもしれません。なぜなら自分は彼らよりも確実に「上の人」だったからです。
こんなみことばがあります。
"人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。"
コリント人への手紙 第一 8章2節
この律法学者は、自分が持っていると思っているものを捨てる必要があったんですね。
あなたがわたしに従ってこようと思うのなら、自分の能力や知識や実績とかいうものへのこだわりはきっぱり捨てなさいと、これはイエス様の私たちへの言葉なのではないでしょうか。
祈り・・「主よ、私の内にある自己中心の心が、もっと見えるようにしてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #215
【イエス様を驚かせた信仰】イエス様のことば 40
" しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」"
マタイの福音書 8章8~9節
前回の続きで、イエス様をびっくりさせた百人隊長・・その信仰を見てみたいと思います。
百人隊長は、自分のしもべが中風のためにひどく苦しんでいるので助けて欲しいとイエス様に懇願しました。(5節) そこでイエス様は「行って彼を治そう」と言われました。普通だったら大喜びで家まで案内するところが、この百人隊長はそれには及びませんと言ったのです。
百人隊長は、まず「主よ」とイエス様に向かって言いました。前々回のツァラアトを患った男と同じです。その時にも書きましたが、新約聖書における「主」という言葉には「創造に関わる主権を持たれるお方」という意味があります。この百人隊長もイエス様を、神の権威を持たれるお方だと認識していたことがわかります。
そしてこの百人隊長がさらに言ったことは、まさに驚くべきことでした。一緒に来てくださるには及びませんというのです。イエス様に来ていただかなくてもしもべは癒されるということを私は知っていますから・・というのです。
百人隊長は自分の立場から「権威」というものについて、自然と身についた感覚を持っていました。それは彼自身もローマ皇帝によって付与された「百人隊長」という肩書きが持つ権威によって、100人の兵士たちは自分に反抗することもなく、しっかり従って動くというものでした。彼は「権威」が兵士を動かしているということを良く知っていたんですね。
そして彼はイエス様に言いました。あなたのおことばには次のような権威があります・・と。その権威とは、遠く離れたところにおいてでも、イエス様がひとたびおことばを発するならば、全てのものがそれに従うのだというものでした。全てのものとは人だけではなく、病も、もちろん悪霊もです。なぜなら、この方は父なる神と共に天地万物を造られたお方で、それを消滅させる権威さえも持たれるお方なのだから・・。
百人隊長はイエス様の全てを言い当てたようなものです。
イエス様は心から驚かれ、そして喜ばれました。そして言われたのが10節のおことばです。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」
百人隊長の認識は、彼はユダヤの民からすれば異邦人ですから、自分が神の前に出る資格などもともとないというものでした。ですから自分の家に迎える資格などはないと言いました。けれども目の前におられる方が全てのものの上に権威を持たれるお方であることを認め、ただあわれみを求めて懇願した(5節) のです。
実にこの百人隊長は、全ての人が神の前に出るときに持つべき、基本的な姿勢を示してくれたんですね。
・・するとちょうどそのとき、しもべは癒やされた。(13節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #214
【問われるのは信仰】イエス様のことば 39
" イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」"
マタイの福音書 8章5~12節の中から10.12節
前回はツァラアトに冒された人の話でした。ここでは百人隊長という、ローマ兵の話が出て来ます。百人隊長とは100人ほどの歩兵の指揮官です。ということは、ユダヤ人ではないわけです。それに対して12節の「御国の子ら」とは、イスラエルの民すなわちユダヤ人を指して言われている言葉です。
今日のテーマは「問われるのは信仰」・・です。
イエス様がびっくりされるというシーンが福音書にはいくつか出て来ますが、それはどれも「信仰」の姿勢についてイエス様が本当に驚かされ、喜ばれたという出来事です。そしてイエス様を驚かせたのは、いつもユダヤ人ではない異邦人だったんですね。
それまで、神が愛し直接導かれて来たこの民族が、イエス様こそが聖書に書かれているキリストだと判別することができず、「これほどの信仰を見たことがありません」とイエス様に言わしめたのは常に異邦人だったというわけです。
イエス様は「多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。」・・と言われました。
「多くの人が東からも西からも来て」というのは、地の四方からという意味で、あらゆる民族,国民を指すわけです。ですからこれは、御国の民となるのは「あなたがた」ユダヤ人に限っているわけではないんですよ・・という話なんですね。
そして「アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着く」・・これはあきらかに地上のことではありません。
要するにこの話は、この世の先に用意されている「天の御国」のことを言われているんですね。そこで暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりする・・。それはまさに世の終わりにある、さばきの時のことを言っているわけです。(黙示録21章)
私たちの人生は、この世で終わりではないんですね。イエス様が話されたことも聖書に書いてあることも、そのことをはっきり言っています。それらのことは、一般的に受け止められているよりもはるかに具体的なんですね。
イエス様の話はこの「天の御国」を見据えての話であるということです。ユダヤ人にとって、神の祝福が異邦人に及ぶというのはおよそ考えられないことでしたが、イエス様は、救いは全世界の全民族,国民に及ぶのだということを、このときから予告されていたんですね。
ユダヤ人にしろ異邦人にしろ、問われるのは、自分と神との個人的な関係・・すなわち信仰だというわけです。
次回は、イエス様を驚かせたこの百人隊長の信仰を見てみましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #213
【栄光は神のもの】イエス様のことば 38
"イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」"
マタイの福音書 8章4節
前回は、ツァラアトを患った人をイエス様がいやされたという話でした。そして今日の箇所は、その最後にイエス様がその人に言われた言葉です。
誰にも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい・・。
なぜイエス様は誰にも話すなと言われたのでしょうか。
おそらく彼は、自分のことをみんなに言いたくてしょうがなかったはずです。「イエスという方が私をいやしてくださった・・」と。
イエス様は他にも多くの奇跡のみわざをなされたので、民衆は続々と集まってくるようになりました。しかしイエス様はこの群衆がどうしてご自分のもとに集まってくるのかをご存知でした。それは、病をいやし、パンを与えてくださる方だからです。
その群衆にイエス様は多くのことを話されたのですが、彼らにはたとえ話でしか神の国のことをお話しになりませんでした。それは、イエス様こそが聖書の初めから証しされているキリストであるということを、群衆は決して受け止めることができないということを、はじめからご存知だったからです。
事実、多くの人たちはこの奇跡の人を、当時この地を支配していたローマ帝国から救い出してくださる方だと受け止めるという傾向がありましたし、預言者だという者もいました。ひどいのになると、あれは悪霊によってやっているわざだと揶揄する者もいる始末でした。
このいやされた人においても、騒げば騒ぐほど人々はイエス様のことを勘違いして受け止めてしまう、というのは火を見るよりも明らかなことでした。
しかしイエス様が語られることは、この地上のことだけではなくて永遠のことで、それは神が計画されていることで、そのことのために、神の御子である神が「人の子」の姿をとってこの地上に来た・・それが「わたし」イエス様なのだということだったわけです。
そこでイエス様はその人に「人々への証しのために」と言われ、神殿に行ってモーセが命じたささげ物をしなさいと言われたわけです。
この人がイエス様のことを正確に証言する方法はそれしかないとイエス様は分かっておられたんですね。それは、そこに起こった出来事の根本原因は、イスラエルを導いてこられた天地万物の創造者であるまことの神なのだということを、この人が言い表すことのできる唯一の方法であるということです。
すべての栄光を神に帰せよ・・。
私たちが生かされているこの地上でのすべての事象は、この神の存在と関係があるんですね。しかしこの世では栄光が「人」に行ってしまうんですね。
オリンピックの優勝者が、その栄光は自分のものではなく、天地万物を作られたこのまことに神のものだとはっきり言い表す・・そのようなことを聞くことがあります。
その能力も、努力できたこと自体も、またここまで来ることができた全ての環境も、神が与えてくださったからこそ私は今このメダルを手にしているのだ・・と。
太陽も、空気も、いのちも、父なる神の恵みによって与えられているのだと、いつも神をほめたたえ、神をあがめる・・。これが神を知る者がするべきことなんですね。
イエス様が彼に言われたこと・・それは、そのことの栄光は父なる神のものだということを、人々に行動で示しなさい・・ということだったわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #212
【信仰があるところに奇跡が】イエス様のことば 37
" イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"
マタイの福音書 8章3節
前回で山上の垂訓は終わり、「イエスが山から下りてこられると」・・という8章の話に入っていきます。
ここに登場するのは「ツァラアトに冒された人」です。ツァラアトとは、昔の訳では「らい病(ハンセン病)」となっていました。ですが聖書時代のこの言葉はもっと広範で、皮や家の壁などにも見られる現象も含まれていました。なので「ツァラアト」という馴染みのない言葉に訳されるようになったという経緯があります。
その人がイエス様のところにやってきました。ツァラアトに冒された人は、汚れた人として人々に忌み嫌われる存在でしたが、その彼が群衆に囲まれたイエス様のところにやってきたのです。
おそらく群衆は彼を認めるやいなや、さっと彼から離れたのだと思います。彼は、何なくイエス様の真ん前に来ることができました。でもそれはとても勇気の要ることだと思います。
彼の中には一つの信仰がありました。彼はイエス様に向かってこう言ったのです。
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と。
まず彼はイエス様を「主」と呼びました。新約聖書における「主」という言葉は、原語はギリシヤ語のキュリオスですが、それは創造に関わる主権を持たれるお方という意味があります。
それはイエス様を神と同一の方と認めて呼ぶ、最高の称号です。彼にはイエス様に対する正しい認識が、そのときすでにあったのです。
どこでどういう情報を得てそのような信仰を持つに至ったかは、ここには書かれていませんが、とにかく人の話や噂を聞いて、彼にはイエス様を「主」と呼ぶ心の用意ができていました。
そして、彼は自分の信仰をイエス様に申し上げました。それは「お心一つで私をきよくすることがおできになる方」、すなわちイエス様がそのように望まれさえすればその通りになるのだという信仰です。イエス様が何にも勝る権威をお持ちのお方だということを、彼は認めていたということです。
イエス様はその彼の信仰に応えられたんですね。イエス様が奇跡をなされる時、そこにはいつも大きな原則があります。それは、イエス様の力は常に「信じる者」の上に現され、不信仰な人々の中や地域では、「彼らの不信仰にゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」(マタイ13:58) ・・という原則です。
イエス・キリストは、あなたが信じて心に受け入れさえすれば・・、あなたという存在の上にその願われることを実現される・・そういうお方なんですね。
イエス様は「お心一つできよくすることがおできになる」という彼の信仰に対して、「そうです。それはわたしの心です」とお答えになったのです。何といううるわしい関係でしょうか。
そして、言われただけではなく、「すぐに」かれのツァラアトはきよめられたのです。
信仰がなければ、大きな恵みを与えられるはずの者も、受け取ることができないのです。
イエス様は、あなたが人からはさげすまれ、嫌われるような存在であったとしても、あなたの側からイエス様に近づき、口を開き、イエス様が必要であることを申し上げるとき、あなたに具体的に応えてくださるお方なのです。
イエス・キリストを救い主として信じるとき、あなたは奇跡を見る人になるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)


ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafeたいむ #15
賛美歌 「私が悩む時も」から 〜神の優しさ〜
お話/市原康、賛美/市原よしみ
アップしました。
https://m.youtube.com/watch?v=EJ8lq5WNChk
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #211
【偽預言者】イエス様のことば 36
山上の垂訓・第30回
" 偽預言者たちに用心しなさい。
彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。"
マタイの福音書 7章15節
イエス様が弟子たちに教えられたこと・・、それはもっぱら心のあり方でした。それらはイエス様の弟子として、世に出て行く際に土台となる大切な教えでした。そしてこの最後のテーマ。これも自分に対する吟味へと私たちを導いてくれるんですね。
偽預言者たちに用心しなさい・・・。
彼らは「羊の衣」を着ています。それはイエス様のしもべを装うということです。ところがその内側は「貪欲な狼」・・それは多くの魂を自分のものにしようと、獲物を探し回っているというのです。それは、人々がイエス・キリストの方に行くのではなく、自分に寄ってくることを願っているということです。
そのあと28節までに語られていることをざっと見てみますと・・、
その見分け方・・。それは「実」となって堂々と実ってしまうので、見ればわかるというのです。悪い木が良い実を結ぶことはないわけで、それはもう一目瞭然だというわけです。そして、そのような存在は「切り倒されて、火に投げ込まれる」・・(〜20節)
火に投げ込まれるというのは最後の審判の様子です。世の終わりに、地上に生きたすべての者は「いのちの書」に従ってさばきを受けるというのです。(黙示録20章)
その日には多くの者が「預言をした、悪霊を追い出した」と、その実績を並べ立てるかもしれないが、主はその者を「不法を行う者たち」と言ってさばかれるのだというのです。
そして24節で言われていることがポイントとなります。それは「わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行う者とそうでない者」というところ・・。
これらの言葉とは、ここまでずっと語られてきた山上の垂訓のことです。ここでも既に30回目となっています。それを行うかそうでないか・・。
そこで問われていることは大雑把に言ってしまえば、父なる神との関係について自分の心の中を真剣に問うているのか・・ということなんですね。
私たちと神との関係の基本は、神の大きな愛と犠牲のゆえに、赦された者となっているということです。そしてその赦しはあのキリストの十字架が表しているのだということです。
それほどにあなたの罪は動かし難く、またそれがそのままそっくり赦されているという、その神の恵みの基本にあなたはいつも立っているのか・・。これが実は問われている核心の部分なんですね。
そしてその「神との心の関係」がしっかりしているならば、洪水や風が吹いたとき、すなわち逆境や困難の中に立たされたときにもそれはびくともしない・・というわけです。(〜27節) ここに実を結ばせる基本があるというのです。
これが、山上の垂訓で言われた最後のメッセージです。
あなたの心の向きがどこを向いているかが、全てを決めるのだというのです。
これは、まだキリストを知らない人々に言っているのではなく、キリストに従う「弟子たち」への言葉です。
キリストに出会って、キリストと共に歩む者とされたのなら、しっかり主に繋がっていなさい。そして自分が以前はどういう者で、どのようにして神と共に歩む者とされたのかを忘れないようにしていなさい・・これがこの山上の垂訓の最後のまとめなんですね。
自分が偽預言者のようになっていないか、自分の心はキリスト者を装っていながら、その心は父なる神にではなく、自分にばかり向いていないか、よく自分を吟味しなさい、というわけです。
偽善者たちに用心しなさい・・。その偽善者は自分の内にもいるかもしれないのです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
【偽預言者】イエス様のことば 36
山上の垂訓・第30回
" 偽預言者たちに用心しなさい。
彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。"
マタイの福音書 7章15節
イエス様が弟子たちに教えられたこと・・、それはもっぱら心のあり方でした。それらはイエス様の弟子として、世に出て行く際に土台となる大切な教えでした。そしてこの最後のテーマ。これも自分に対する吟味へと私たちを導いてくれるんですね。
偽預言者たちに用心しなさい・・・。
彼らは「羊の衣」を着ています。それはイエス様のしもべを装うということです。ところがその内側は「貪欲な狼」・・それは多くの魂を自分のものにしようと、獲物を探し回っているというのです。それは、人々がイエス・キリストの方に行くのではなく、自分に寄ってくることを願っているということです。
そのあと28節までに語られていることをざっと見てみますと・・、
その見分け方・・。それは「実」となって堂々と実ってしまうので、見ればわかるというのです。悪い木が良い実を結ぶことはないわけで、それはもう一目瞭然だというわけです。そして、そのような存在は「切り倒されて、火に投げ込まれる」・・(〜20節)
火に投げ込まれるというのは最後の審判の様子です。世の終わりに、地上に生きたすべての者は「いのちの書」に従ってさばきを受けるというのです。(黙示録20章)
その日には多くの者が「預言をした、悪霊を追い出した」と、その実績を並べ立てるかもしれないが、主はその者を「不法を行う者たち」と言ってさばかれるのだというのです。
そして24節で言われていることがポイントとなります。それは「わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行う者とそうでない者」というところ・・。
これらの言葉とは、ここまでずっと語られてきた山上の垂訓のことです。ここでも既に30回目となっています。それを行うかそうでないか・・。
そこで問われていることは大雑把に言ってしまえば、父なる神との関係について自分の心の中を真剣に問うているのか・・ということなんですね。
私たちと神との関係の基本は、神の大きな愛と犠牲のゆえに、赦された者となっているということです。そしてその赦しはあのキリストの十字架が表しているのだということです。
それほどにあなたの罪は動かし難く、またそれがそのままそっくり赦されているという、その神の恵みの基本にあなたはいつも立っているのか・・。これが実は問われている核心の部分なんですね。
そしてその「神との心の関係」がしっかりしているならば、洪水や風が吹いたとき、すなわち逆境や困難の中に立たされたときにもそれはびくともしない・・というわけです。(〜27節) ここに実を結ばせる基本があるというのです。
これが、山上の垂訓で言われた最後のメッセージです。
あなたの心の向きがどこを向いているかが、全てを決めるのだというのです。
これは、まだキリストを知らない人々に言っているのではなく、キリストに従う「弟子たち」への言葉です。
キリストに出会って、キリストと共に歩む者とされたのなら、しっかり主に繋がっていなさい。そして自分が以前はどういう者で、どのようにして神と共に歩む者とされたのかを忘れないようにしていなさい・・これがこの山上の垂訓の最後のまとめなんですね。
自分が偽預言者のようになっていないか、自分の心はキリスト者を装っていながら、その心は父なる神にではなく、自分にばかり向いていないか、よく自分を吟味しなさい、というわけです。
偽善者たちに用心しなさい・・。その偽善者は自分の内にもいるかもしれないのです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #210
【狭き門】イエス様のことば 35
山上の垂訓・第29回
" 狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。
そして、それを見出す者はわずかです。"
マタイの福音書 7章13~14節
今日のテーマは「狭き門」です。
アンドレ・ジッドの「狭き門」は、この聖書の言葉を取ったタイトルの小説です。
狭い門から入りなさい・・と言われると、楽そうな方と困難な方という二つの選択肢があって、その困難な方を選びなさい、というのが一般的な教訓としての受け止め方のようです。
「狭い門」・・それは「いのちに至る門」のことだとイエス様は言われています。そしてそれを見出す者がわずかしかいないというのです。
多くの者は「滅びに至る門」に向かって行ってしまう・・というのです。
この話には二者択一的なイメージがありますが、実は「どちらを選びますか」という立場に立たされるという話ではないんですね。そうではなくて、選ばなければそのまま「広い門」すなわち滅びに至る門に自動的に行ってしまうんですよという話なのです。
この話は「いのちに至る門」の話なのです。それは「滅びが定められている罪人(つみびと)が救済を得る道」の話なんです。
ですから狭い門とは、イエス・キリストを救い主として信じて、新しく生まれ変わるという歩み・・そこに入るための「門」のことを意味するわけです。
・・それを見出す者はわずかです。
福音は「滅びからの救済の道案内」です。実はここに、見出す者がわずかである理由があるんですね。なぜならこれは「滅び」ということが大前提の話だからです。滅びが大前提ということは、それはとりもなおさず、すべての人が「罪人」であるということの指摘なんですね。
もし自分が滅びゆく罪人であることを認めるならば、福音の意味を見出すのはごく簡単なことです。ところがそれを見出す者がわずかである・・。
なぜでしょうか。それは「罪人」の意味がわからないからなんですね。
罪人の基本は「神から離れた人」です。それはまことのいのちから離れた人のことで、アダム以来変わることのない「人の基本」だというのが聖書の言うところです。
神から離れてしまった人類は、自分の判断で、自己防衛しながら、暴虐の世界の中を生きていかなくてはなりませんでした。何が善で何が悪であるかを自分で判断するのです。そしてその判断は当然のように自己防衛=自分ファーストという基本の上に立つことになります。それで人は罪を犯す者となったんですね。すべての人が・・です。
罪を認めること・・その一番わかりやすい方法は、自分の心の内を眺めることです。自己防衛の壁を透き通して、心の内を眺めるのです。そこには実にわかりやすい「罪人」がいるんですね。
この「罪人であることを認めること」・・それが「狭き門」なんです。
祈り・・「神さま、私が自分の心の内をよく見ることができるように助けてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)