G-Cafe 聖書のことば #238
【命がけ】イエス様のことば 63
" 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。"
マタイの福音書 10章21~22節
イエス様の話は、宣教における厳しさの話へと徐々に移っていきます。
兄弟が殺し合う? 親子が殺し合う?
それは「イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というみことばとは正反対のように感じられます。(使徒の働き16:31)
しかしながら、このみことばの意味は、あなたが救われれば家族も自動的に救われるという意味ではないことに注意する必要があります。パウロは牢の看守とその家族に、イエス・キリストのことをしっかり語っているんですね。だから家族も皆その話を受け入れ、洗礼を受けたんです。
人は家族だからという理由だけでは、神を受け入れることはありません。神について、イエス・キリストについての話を聞いて納得して初めて、それを受け入れることができるわけです。
いい加減に神を信じても、救いはその人の中に実現しません。
ところが、人が一旦本気で神に目を向けようとすると、そこで表面化してくる霊の世界の出来事というものがあります。
それは、神に敵対するサタンの激しい憤りです。福音を伝えた時に、家族内で対立することがあります。でもそれは家族の不仲とかそういうことではなくて、サタンの憤りの表面化なんですね。
すべての人はサタンの霊的な支配の中で滅びゆく者であって、それを人々はなんとも思わないで生きているのだと、聖書は言っています。(エペソ2:1-3参照)
人が神に立ち返る・・それは人を支配しているサタンにとっては、一番腹立たしいことなんですね。その時サタンは全力を尽くして、人を自分の支配下に引き戻そうとするのです。
ですから人をまことの神に導こうとすれば、そこには激しい闘いがあって、それは命がけになることもあるのだ、というわけです。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われると、イエス様は言われました。
耐え忍ぶとは、家族の暴力に耐え続けるということではなくて、神の側に立ち続けるということです。
私たちにはなんの力もありません。しかし人が神に目をとめているならば、そこは神が働かれるところとなるんですね。
その時に人は、「人にはできないことが神にはできる。(ルカ18:27) 」・・そのことを目の当たりにするのだと言っているわけです。
神に目を止め続けていなければ、危険な状況になるけれど、神の陣営にしっかりと立ち続けるならば、かしらである主は、力あるお方として確実に戦ってくださるんですね。そして戦う相手は、家族ではなくてサタンなのです。
それは「いのちがけ」ですが、私たちには確実な勝利が与えられているのだと、今日のみことばは言っているんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #237
【御霊が語らせてくださる】イエス様のことば 62
"人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。"
マタイの福音書 10章19~20節
前回に引き続き、人々があなたを大勢の権威ある人々の前に立たせ、そこで証しをすることになるという話です。証しとは、イエス・キリストについての証言をすることです。
そして、そこで語ったりするときには何をどう話すかということは考えるな。あなたが話そうとするな。話すことはその時に与えられるというのです。
今日のテーマは「御霊が語らせてくださる」です。
人々の前に立たされ、話を求められる時に、何も用意しないで話すなどということはなかなかできるものではありません。ジャズの演奏みたいです。(笑) 話すことは「その時に」与えられるというのです。
ジャズの演奏では、一曲の中でアドリブソロをする番がまわってくるわけですが、その時にあらかじめどういうことをするか考えておきたいという衝動に駆られるんですね。しかし考えたために、逆にそれがつまらないものになってしまう・・そういうことが往々にしてあります。何故なら、やることを前もって固定してしまうからです。
演奏家にはそれまでに積み重ねてきた膨大な量の知識や言葉(フレーズ)が頭の中にストックされているんです。それなのにやることをあらかじめ決めて臨むということは、その場所を自分からとても狭い世界にしてしまうということなんですね。それでは即興演奏にならないわけです。
これが神、イエス・キリストに関することだとしたら、その時に慌てて何をしゃべろうか考えても、話すことはその範囲内のことに限定されるだけで、結局それは、自分で考えた「神についてのほんの一部のこと」になってしまうというわけです。
神は私たちを、聖霊が働かれる器として用いようとしておられるのです。
話すのはあなた方ではなく、あなたがたの父の御霊です・・、ならば、私たちは聖霊が働くための単なる器とならなければならないわけです。
だったら私たちはその時に、何をしたら良いのでしょうか。
それはおそらく、心の目をただ主なる神にまっすぐ向けている、ということなのではないかと思います。
何をどう話そうとするか心配する・・、それは共にいてくださる聖霊を心らか追い出すことにつながりかねません。それでは神が働くはずの場所を、別のものにしてしまう可能性があるんですね。
心配というのは、自分を守るという「肉の性質」から来るものです。
それは自分の名誉、栄誉のためだったり、弁解することだったり・・。そんなことは全て捨ててしまいなさいというわけです。
キリストは私たちのためにご自分を捨てて十字架にかかられました。あなたはそのキリストにあって、自分に死んでしまいなさいということなんですね。
その時にあなたは生きて働かれる神のしもべになるのだ・・というのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #236
【用心しなさい】イエス様のことば 61
"人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。"
マタイの福音書 10章17~18節
このとき遣わされた十二弟子たちに、このようなことは起こりませんでした。この注意は将来的なこととして語られていることがわかります。
実際にこの弟子たちは、イエス様が天に上られた後に聖霊を受け、その時からイエス・キリストを宣べ伝えることになるわけですが、その時からクリスチャンへの迫害は始まり、それによって殉教する(殺される)人は今も後を絶ちません。
イエス様は、そのための備えとしての話を始められます。
今日のテーマは「用心しなさい」です。
イエス様は「人々には用心しなさい」と言われました。捕らえられる可能性があるという話です。
しかしこの話は「彼らと異邦人に (イエス・キリストを) 証しをすることになるという話ですので、用心して捕まらないようにしなさいということではないようです。
だったらそれはどういう意味なのでしょうか。
用心しなさい・・それは、人々に心を開いてしまって自分を任せてしまわないように注意しなさいという意味だとしたら、話がつながります。
人々に心を開くな・・。それは愛のない冷たい態度のように受け止められるかもしれませんが、そうではないんですね。
イエス様は人々が自分を十字架にかけることをご存知でした。イエス様はその人たちを心からあわれみ愛しておられましたが、それは心を開くというのではなく、神とその人との関係について正しいことをはっきりと示し、その人が本当に「生きる」人となるために、反感を買おうが、殺されようが、するべきことを全てされた・・これがイエス様の人々への姿勢だったわけです。
そしてここに神の愛があるのだと、聖書は言っているのです。神の愛は滅びゆく人々を救うという愛なんですね。
聖書は、人々は自分の背きと罪の中に死んでいる者であって、神に敵対する霊に従って歩んでいる者だ、と言っています。 (エペソ2:1-2参照)
ですからもしその人々に対して心を完全に開いてしまうなら、聖霊とは異なる霊の世界に自分を預けることになってしまうわけです。
彼らに心を開くのではなく、彼らにまことの命を受け取ってもらうために・・人々には用心しなさい・・すなわち、人々がどのような世界の中に生きているのかということをはっきり見分け、その上で人々に接しなさいというわけです。
それこそが、神の愛に基づいた行いだというのです。もちろんそこには、思いやる心や優しい心遣いは必要ですけどね・・。
まことの愛・・それは人々の目には見えないかもしれません。しかしイエス・キリストという救いをいただいている者は、この神の愛の上に立つことが求められているんですね。
用心しなさい・・それも愛に基づくみことばなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

■□■ いちはらやすし・こんなことしてますNEWS ■□■
□□ 2020 / 10 〜 12 月号 □□
しばらくライブ情報もお休みさせていただいていました。
告知することが何もないという突然の状況・・。3月時点では先が見えないという状況でしたが、それから半年・・年内のコンサートはすべてなしという「先の見え方」となってしまいました。
Lupintic6のかしらである大野雄二は、すこぶる元気なのではありますが、年齢のことなど考えますと大事をとってということで、12月に引き伸ばしたコンサートもさらに先にということになっていました。
またTRIO’(pf,福田重男、b,森泰人、ds,市原康) は、森が来日できる見通しが立たず、こちらも全く予定が立てられない状態となっています。
しかし、年明けからはなんとなく以前の活動が始まって行くのだと思います。
その節にはどうぞよろしくお願い申し上げます。
そんな中、わずかですが、ライブの予定がありますので、ご案内させていただきます。
ひとつは、すべてキャンセルとなっている大野雄二トリオの「代打トリオ」というのが、すでに二回ばかりのライブを実施しています。
代打というのは、大野雄二の代打として、Lupintic6でハモンドオルガンを担当するビアニスト、宮川純がトリオのピアノを務め、大野雄二トリオ復活まで「代打トリオ」を続けて行くというものです。
どのような展開になるのか、まだ未知数ですが、何か面白い形が出来上がる予感があります。こちらもどうぞ応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
そして、もうひとつはギターの直居隆雄率いるTDY (gt,直居隆雄、HammondOrgan,河合代介、ds,市原康) があります。
こちらも無観客ライブを一度やり、このあと、鎌倉ダフネ、沼袋オルガンジャズクラブなどを予定しております。
市原もほとんどドラムの叩き方、忘れているんじゃないかと不安の中、ドラムに座るのですが、どうもなんとなくできてしまうようです。(~_~;)
ということで、2020年のライブのご案内。わずかですが、覚えていただき、ご来場いただけましたらこの上ない喜び。
皆様のご来場をお持ちしています。
10/15(木) 大野雄二代打トリオ 御茶ノ水NARU (ピアノは宮川純です)
10/16(金) TDY/直居隆雄トリオ 沼袋オルガンジャズクラブ
11/8(日) 大野雄二代打トリオ 鎌倉ダフネ (ピアノは宮川純です)
12/19(土) TDY/直居隆雄トリオ 鎌倉ダフネ
G-Cafe 聖書のことば #235
【愛していいんだよ】イエス様のことば 60
" いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。
ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。"
マタイの福音書 10章16節
イエス様は十二弟子をお遣わしになる際に様々な注意をされました。そしてこの話は、その時代以降のことへと変わっていきます。なぜそれがわかるかというと、この後に人々はあなた方を捉え、会堂でむち打ちますと言っているのですが、そのことはこの十二弟子にはまだ起こってはいないからです。今日の箇所は、その話に入っていく入り口のところなんですね。
テーマは「愛していいんだよ」です。
イエス様が人を選んで世の中に送り出す時、それは羊を狼の中に送り出すようなものだというのです。本当に羊を狼の中に放り込んだら、そのまま餌食にされてしまうわけですが、それほどに危険が伴うというのです。
イエスを知らない人は、神の方に心を向けていません。ですから、神について、救いについて、罪について、救い主について話をするということは、人々をまず振り向かせるということになります。
振り向いたらその人の心の内は神の光に照らされ、そこにある罪を見させられるわけです。しかしそんなことを歓迎する人はいないわけで、直感的にそれを拒むんですね。彼らにとっては全く余計なこと。それを受け取ってもらうために出て行くのですから、噛みつかれる確率は高いですよね。
イエス様はそのような状況に備え、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われたわけです。
遣わされる者は、噛みつかれる危険性があるわけですが、その相手は「敵」ではありません。出て行く先の人々は、イエス様がいのちをかけて救い出そうとしている人々です。その人々はそこまで愛されているひとりひとりなのです。
愛を伝えると噛みつかれる、という構図です。
ですから賢さが必要だというわけです。
出て行く者は、人のニード(必要)に敏感でなければなりません。そして、その人が置かれている立場を見分け、その人の心が真に求めている部分を見分ける目が必要になります。それが賢さですね。
そして、鳩のような素直さ・・。
素直というのは、考え、態度、動作がまっすぐなこと、と辞書にありました。
相手をまっすぐに受け止める。誠実な態度をとる。行動も自分の価値観から外れない。しかし、まっすぐにすれば当然相手には容赦なくぶつかる可能性があるわけですが、それを鳩のように、というわけです。鳩には平和のイメージがあります。
両方ともに、なかなか難しいですね。私など、こんなことを書いていながら恥ずかしくなります。
しかし御霊はその都度、様々なことを教えてくださるんですね。
私が信仰を持って間もない頃、主はこんなことを私に語りかけてくださいました。それは、「あなたは愛していいんだよ。」という不思議なことばでした。
しかし私にはその意味が直感的にわかりました。私はそれまで、人を片っ端からさばいて見ていたので、まさかすべての人が愛する対象であるなどということは、これっぽっちも思っていなかったんですね。ですから、愛していいんだよという主のことばは、私にとっては大いなる「解放」だったわけです。
見渡す限りの人・人・人。その一人一人を神は心から愛して、その滅びに心を痛めておられる・・。その目をいただいた時、蛇のような賢さと、鳩のような素直さを身につける入り口に立たされたのかもしれません。
祈り・・「主よ、あなたがこのすべての人々を、いのちをかけて愛してくださっていることを、さらに深く知ることができるようにしてください。イエス・キリストの御名によって、アーメン。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #234
【イエスが救い】イエス様のことば 59
" まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。"
マタイの福音書 10章15節
昨日と同じ箇所の後半です。昨日は「さばきがある」というところに注目しましたが、今日は「ソドムとゴモラのほうが、その町よりもさばきに耐えやすい」というところに注目したいと思います。
今日のタイトルは「イエスが救い」です。
「その町」とは、イエス様につかわされた弟子たちが、いやしを行なったり悪霊を追い出したりして「天の御国が近づいた」とのメッセージを伝えた町で、しかも彼らを受け入れなかった町々のことです。
ソドムとゴモラは「主に対し甚だしく罪深い」人たちの町でした。それはノアの洪水の時もそうでした。神はそれが理由で彼らを滅ぼされたのです。
神を認めない人間がどれほど暴虐に満ちた行為を当たり前の様にするものなのか、歴史がそれを語ってくれています。未曾有の殺戮は繰り返されてきています。それも国家という単位でそれが行われてきました。
しかし、その様な国よりも「その町」すなわちキリストを拒む町の方が、きびしいさばきを受けるというのです。
聖書は全ての人は罪人だと言っています。それがソドムだろうと弟子たちが出て行った町だろうと、そこにいるのは「罪人」なんですね。罪人とは神のもとに来ようとしない人のことです。
キリストはまさにその罪人の罪を背負い、それらの人を神のもとに帰らせるために来られたのだというのが、聖書の知らせです。
その手段は御子キリストの十字架です。神はすべての人々を、善人だろうが悪人だろうが、命を捨てるほどに愛しておられ、まことのいのちである神のもとに帰る道を開かれたのです。
ソドムとゴモラのほうがさばきに耐えやすい・・それは、救いの道がまだそこに開かれているということなんですね。
しかしイエスを拒んでしまえば、その道はそこで閉ざされるのだと言っているわけです。
聖書は言っています。
「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていない 」(使徒の働き4:12)
神からの愛のメッセージを受け取るということは、あなたがいのちを得るということなんですね。
イエスが救いなんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #233
【さばきがある】イエス様のことば 58
" だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。"
マタイの福音書 10章14~15節
今日のテーマは「さばきがある」です。
弟子たちはすべての町に行き、そこで人々は「天の御国が近づいた」という、神からのメッセージを聞きます。「受け入れない人」とは、それを聞いた人たちです。
そういう人や、家や、町があるなら、その時には「足のちりを払い落としなさい」と、イエス様は弟子たちに言われました。それは、弟子たちにはこれ以上の責任はないということです。
そして15節では、「聞いたのに受け入れないこと」に対するさばきの日というものが「ある」のだと言っているんですね。それは神から語りかけられているのに、それを受け入れなかったことに対するさばきです。
ソドムとゴモラというのは創世記のアブラハムの時代の町です。その人々は甚だしく罪深い者たちであったので、神はその町を滅ぼそうとされます。それを知ったアブラハムは必死になって神にとりなします。そこにはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいました。(創世記13章)
そしてそこにもし十人の「正しい者」がいたならこの町を滅ぼさないと、主はアブラハムに約束します。ですが結局救い出されたのは、ロトとその娘たちだけで、あとは滅ぼされるという結果になってしまいます。
ノアの洪水と同様に、このソドムとゴモラの話の中にも「さばきの日」とそこから救われる者の型を見ることができるんですね。
正しい者とは、弱さを担っていても神を神としてあがめる者のことなんですね。ロトはその様な人でした。そうして救われたのがロトとその家族・・それは私たちの型。そしてとりなしをしたアブラハム・・それが十字架にかかられて「父よ、彼らをお許しください」と祈られたイエス・キリストの型です。
聖書は、天地創造の始めから今に至るまで、生を受けた者はすべて「さばきの日」を見るのだと言っています。それが「白い御座のさばき」です。それは、この地がさばかれ、地上の楽園「千年王国」がやってきて千年経った、さらにその後の話です。(黙示録20章)
その日をすべての者は見るのだと言っているわけです。わたしたちの霊はそのときまで滅びることはないんですね。肉体において死んでも・・です。
さばきがあるのだと、聖書は言っているのです。
私たちは誰もが、そのさばきに耐えられる様な者ではありません。神を拒んでいたのですから。
ところがイエス・キリストのあがないの印がその身に刻まれている者はただ恵みのゆえに、すでに天の御国=天国の民となっており、そのさばきは過ぎ越されてしまう・・これが福音なんですね。
あがないのしるしとは、十字架の上でわたしたちの罪をイエス様が負われた、あの御姿です。
救われるとは、具体的なことなのです。
これを読まれる方々が、神の救い=イエス・キリストを受け取ることができますように。
God Bless You !
G-Cafe 聖書のことば #232
【涙があれば喜びがある】イエス様のことば 57
" どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。"
マタイの福音書 10章11節
イエス様が弟子を送り出す際の注意事項の四つ目です。
町に入って行くときに、誰がふさわしい人かをよく調べよとイエス様は言われました。
そして、家に入るときにはとにかくその家の平安を祈り、その家がその平安にふさわしければ、平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければその平安はあなた方のところに帰って来るようにしなさい・・というのです。(13節)
要するに、よく調べてその家を選んでも、それが当たるとは限らないというわけです。しかもそこを立ち去るまでその家にとどまりなさい・・と。
この弟子たちは主であるイエス様が遣わされたのですから、明らかに神の御心に従っての働きです。ところが、それが人々に受け入れられる場合と受け入れられない場合があるというんですね。
弟子たちには悪霊を制する権威が与えられていて、病人は癒され悪霊は人から出て行ったはずです。もしそれだけだったら、全ての人が喜んで受け入れたかもしれません。
でも、弟子たちがしたことはもうひとつありました。それは「天の御国が近づいた」と宣べ伝えることです。
人々が受け入れたり受け入れなかったりするのはまさにこの点ではないでしょうか。いやされるのを拒む人はいません。
御国の福音を宣べ伝える務め。それは人々が受け入れるかどうかでは左右されないということです。人々がそれを拒むことも十分にあり得るのだということを、イエス様は初めから言われているわけです。
それでもあなた方は行きなさいと。そして受け入れられるなら、平安はその人たちのものだし、受け入れてもらえないなら、それはただ種を蒔いただけの仕事の様ではあるけれど、平安はあなた方の上にあるから、あなた方はそれを受け取っておきなさい・・と。
次のみことばを思い出します。
"涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。" 詩篇 126篇5節
刈り取りは種を蒔いた時から一定期間待たなければなりません。その間、肥料をやったり害虫を取り除いたりして、世話もしなければなりません。
でもその者は喜びながら刈り取るとの約束が与えられています。刈り取るまでにどれだけ時間がかかるのか、、それは麦の場合とは違って、私たちにはわかりません。
でもとにかく行って「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさい。人々の中には必ずそれを受け入れる人と受け入れない人がいるのだというのです。受け入れられないことがあっても、それはあなたの準備や判断の誤りではなく、必然だというのです。
必ず涙が伴う。そして喜びが伴うと、主は言われるんですね。
このグレイスホームチャーチは7月から始まり、まだ産まれたばかりです。その歩みの中にも必ず涙があり、そして必ず喜びがあると約束されているんですね。
今日のみことば、これはグレイスホームチャーチの私たちがいただきました。
私たちの願い・・。それはいつも最後に書く「 God Bless You ! 」のことばが、本当にこのメッセージを受け取る方々の上に実現することです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #231
【ただで受けたのだから】イエス様のことば 56
"病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。"
マタイの福音書 10章8節
9章38節でイエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない。」という話をされ、そこから話は「遣わされる者」に対しての話に移っていきます。
十二弟子は「汚れた霊どもを制する権威」をイエス様から授かり、出て行くのですが、今回はその時の具体的な注意事項の2つ目です。
「あなた方はただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
十二弟子たちは病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアト(以前はらい病と訳されていました) に冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出す・・これらのわざを行なった時、人々は弟子たちに多くの金品を彼らのもとに持ってきたに違いありません。しかしイエス様は、その力はただで受けたのだからただで与えなさいと、あらかじめ言われたわけです。彼らがもし、人々が持ってくるものをすべて受け取っていたら、抱えきれないほどの金品を持って帰ってくることになったでしょう。しかし、それらはすべて断れというわけです。
彼らは「汚れた霊どもを制する権威」を授かったことによって、聖霊に満たされて、神の圧倒的な臨在の実感の中、自信をもって悪霊に命ずることができたのだと思います。そして実際に悪霊が出て行くのです。
言うまでもないことですが、彼らはそんなものを受けるにふさわしいような者ではありませんでした。漁師だったり、嫌われ者の取税人だったり・・、そうでなくても全く「普通の人」だったわけです。ただイエス様について歩き、話を聞いていた人たちだったんですね。要するに、彼らはこれらの力を「ただで受けた」のです。だからそれは、ただで与えなさい、というわけです。
そしてこのあとイエス様は、最低限必要なものを持ち、世話をしてくれる人の世話になりなさいという3つ目の注意事項の話をされます。
弟子たちはそれによって、このような大きな力も、また生きる上で最低限必要なすべてのものも、完全に「恵みによって与えられる」のだということを常に忘れないで、また、これらの力があたかも自分から出たかのように高ぶらないで、その働きを続けることができたんですね。
私たちクリスチャンは、神の大きな赦しと愛を、信じるということだけで、すなわちただで神から受け取りました。そのことを自分の内にいつもはっきりさせておくということは、私たちが高ぶらずに大きな恵みの中を歩むために、実はとても大切なポイントなんですね。
ふさわしくない者が、ただで受けたのです。
そのような認識をしっかり持つ者が「ただで与えることのできる人」になるんですね。そして与えられている聖霊の力を尽きることのない生ける水の川として、世に流して行く者となるというわけです。
これは私たちクリスチャンにとって、大きなチャレンジです。でもそのことを忘れない限り、その祝福は揺るぎなく続くのだと、イエス様は私たちに約束してくださっているんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)