

【GraceCafeたいむ #25 】 「神の約束」
アップしました。
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「いくつかの山を越え」から その2
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=gO-XB3sdSlc
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #259
【小さなものから】イエス様のことば 85
" イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。
「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」"
マタイの福音書 13章33節
前回は「からし種」の話でした。種をまく人はイエス様で、蒔かれた種はクリスチャンという視点で、この話をしました。
そのからし種の話と、今回のパン種の話は並んで出てきますが、実はそれらの「種」についてのイエス様の解き明かしの言葉はありません。
この二つは両方とも、「天の御国」というものがこの「種」に似ていると書かれていますが、それは天の御国が「種に似ている」のではなく、人が小さなからし種を蒔いて、それが成長するというところ、また女の人がパン種を三サトンの小麦粉の中に混ぜると全体が膨らむ・・そこが天の御国に似ているという話なんですね。
三サトンとは小麦の量のことですが、一度に百人分のパンを焼ける量だそうです。入れるパン種は小麦の量から見ればほんのわずかです。それで百人分のパン全体が膨らむという話です。
このパン種とは、世にあるクリスチャンのことと受け取ることができますし、他のたとえのようにも受け取れます。例えば「クリスチャンの祈り」だったり、また良い地に落ちる種のたとえ話のように「みことば」だと受け止めることもできます。
どちらにしても、その小さな存在が大きなものをもたらすという意味で、それは神の国のようだと言っているようです。
マルチン・ルターという人が、たった一人で聖書の御言葉に真摯に向き合ったことによって、権力の傘にしか使われなくなって腐敗していたキリスト教会ではなく、真に生まれ変わったクリスチャンによる本当の教会が世界中に広がって行きました。
また歴史を振り返ると、リバイバル(信仰復興)という、大規模な信仰の覚醒という出来事がありました。ものすごい聖霊の働きで、そこらじゅうの人がどんどん教会に来て救われるというのです。教会で、町で、あるいは驚くべきことに国で起こったということがありましたが、それらはどれも、わずかな人たちの祈りから始まるという話を聞いたことがあります。
また聖書はあのように分厚いものですが、最初の一行「はじめに神が天と地を創造した。」これだけで、人生のすべが変わってしまった人がいるんですね。
私も「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」マタイ7:2 の一言で目が開かれた者の一人です。
たった一人のクリスチャンにより、小さな祈りの輪により、たった一つのみことばにより、神の国は膨らんでいくんですね。
神の国は、人の力や知恵で膨らむものではなく、神がそれを膨らませるのです。
神はそのことがわかるようにと、小さなものを通して天の御国が膨らんでいくようにされたんですね。
小さな者で「良い」のです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #258
【小さなクリスチャン】イエス様のことば 84
" イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」"
マタイの福音書 13章31~32節
前回の毒麦のたとえ話について、イエス様の解き明かしはこうでした。
「良い種を蒔くの人の子」はイエス様のこと。蒔かれる畑は「世界」すなわちこの世。そして良い種は「御国の子」すなわちクリスチャンのことだと。
今日のからし種の話についても、それは主がこの世に蒔かれたクリスチャンのことだと理解するとわかりやすいと思います。
今日のテーマは「小さなクリスチャン」です。
クリスチャンの中には、大きな働きをして有名になる人もいます。しかし、それがクリスチャンの資格だというわけではありません。小さくて人が気付きもしないような人をも、主はちゃんと注目しておられるんですね。
主はその種を畑に蒔くというのです。初めから立派な姿をしているわけではないそのような種・・。からし種というのは100粒で1グラムという、本当に吹けば飛ぶような存在です。
そのからし種を主は地に蒔く・・それは、そのような忘れられているような存在である人を、主は世の中にクリスチャンとして置かれるということです。
ところが、その小さな種は人が知らないうちに根を張り、そして3メートルもある木に育ち、そこには鳥が巣を作るようになるというのです。
鳥が巣を作るというのは、その木を見つけて寄ってきて、そこに定住するということです。それは人がクリスチャンところに来て、そこで自分も安心して住むようになるということです。
私の母は、とても体が小さく、晩年は老人ホームでお世話になり、かろうじて自分の手で食べ物を口に運ぶくらいしかできなくなってしました。そして天に召される時には、いつ主が来られるか決して見逃すまいと、荒い息の中で渾身の力で目を開き、天を仰いですっと召されていきました。
母は施設の方に対しては、いつもクリスチャンとして接することを心がけてはいましたが、いろいろな人間関係で耐えられなくなることもあったようです。ですから、決して優等生のクリスチャンだというわけではなかったかもしれません。
しかし、母が天に召されたあと、母をずっと見守っていてくださっていたある方が、私もあの人のようになりたいということを言っておられました。
その方が信仰を持たれたかどうか、私は知りませんが、その人は確かに母という木を見つけてそこに巣を作ろうとした鳥だと思うのです。
母は寝返りさえも自分でできない状態でしたが、いつの間にか鳥を宿すほどの木に育っていたんですね。
クリスチャンは「からし種」でいいのです。なまじっか良い姿をしていたりすると、自分というものにおごって、神がそこに働かれるチャンスを閉ざしてしまうんですね。
からし種のような小さなクリスチャン・・。それは自分の力に頼ろうとは初めから思いもせず、すべて与えられる恵みに委ねて生きる人。その人こそが大きく成長し、鳥が巣を作るほどになるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #257
【天の御国の前段階】イエス様のことば 83
" イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。"
マタイの福音書 13章24~26節
今日のテーマは「天の御国の前段階」です。
私はこの「良い種」について「良い地に蒔かれる種」同様、それは福音が伝えられるために蒔かれる「みことば」であり、蒔かれるのは私たちの心のことだと理解していました。ところがこの毒麦の話のイエス様の解き明かし(37-39節) を見ると・・
良い種とは御国の子ら。その種を蒔く人はイエス様。畑は世界。毒麦は悪い者の子ら。毒麦を蒔いた敵は悪魔だと、イエス様はそのように言われています。
要するにこの「良い種と毒麦」の話は、人の心の話ではなくて、この世における出来事の話なんですね。
この世は言うまでもなく「天の御国」ではありません。この世に多くの種が蒔かれるわけです。それはイエス様がされたことで、畑であるこの世に多くの良い種が芽を出し、穂をつけるまでに育って「御国の子ら」の世界がそこに出現するという話であるわけです。御国の子らとは言うまでもなくクリスチャンで、その穂の集まりは教会ということになります。
教会というのは「天の御国」がこの世において形になって現れているところなんですね。
そして、そこに毒麦を蒔く者がいる・・。それは悪魔だとイエス様は言われたわけです。そしてその麦は見分けにくいというのです。
" しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』" 29~30節
結局毒麦が出てくるというのはこの教会の中での話なんですね。
教会の中に間違った教えを持ち込む者たちが出てくるというのは、パウロも散々悩まされてきたことでした。そしてそれは現代においても見られることです。
それによって明らかに様々な不都合が起こってくるなら、それは解決しなければならないことですが、見分けにくい毒麦なら、それを引き抜こうとして良い麦まで一緒に引き抜いてしまうかもしれないから、それは育つままにしておけば「収穫の時」に毒麦は焼かれる麦として選り分けられます・・というわけです。
パウロは明らかに違う教えを持ち込む者たちは教会から排除するように勧めていますし、旧約聖書の歴史を見ても、それらは常に腐敗の元でした。けれどもそのことに熱心になる余り、良い麦まで巻き込むおそれがあるならば「育つに任せなさい」というわけです。
一人一人がどのような信仰をもって歩んでいるか、それを知っているのは神のみです。ですが、それが「収穫の時」にはきっちりと扱われるのだというわけです。この13章の中にも「収穫の時」「燃える炉」「この世の終わり」ということばがでてきます。
結局イエス様が言われている「天の御国」の話というのは、「今」から繋がっている話なのだというわけです。
私たちは天の御国の前段階にいる、その当事者なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
10月27日にアップしました「G-Cafe 聖書のことば #257」は、
訂正しなければならない箇所があることが判明しましたので、削除させていただきます。
G-Cafe 聖書のことば #256 201026
【行いという実】イエス様のことば 81
" 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。
本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。"
マタイの福音書 13章23節
「蒔かれた種」の最後、「良い地に蒔かれた種」です。
良い地に種が蒔かれれば、あとは雨が降りさえすれば、種は芽を出し根を張るわけです。そして成長し、実を実らせます。
その実の結び方が「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍」となっています。私はこの数字の並び方がなんとなく不自然だと感じていました。なぜかというと、普通だったら三十倍から始まって、もっと大きな人もいますよと、その能力に応じて数字がだんだん大きくなるのが普通だからです。
でもそれが、みことばの受け取り方で実のつき方に差が出てくるんですよという意味だとしたらどうでしょうか。
普通なら百倍で、受け取り方次第では、実のつき方に差が出てきて、六十倍だったり三十倍だったりする・・。それならば、この数字の並び方もなんとなくわかります。
基準が百なんですね。でも、ちょっと残念な場合でも三十倍もの実を結ぶんですよと・・。
「みことばを聞いて悟った人」、それはイエス・キリストについての話と罪と赦しの話がわかった人のことです。そしてそれを心に信じてイエス・キリストという存在を受け取るなら、その人は新しく生まれる者となるんですね。
ところがその受け取り方で、実の実り方にはいろいろあるというわけです。
今日のテーマは「行いという実」です。
実とは、実って初めて「見えるようになるもの」のことです。ですから、信仰を持って新しい人に生まれ変わっても、それが見えてこないのだとしたら、実が実っているとは言えないということになります。商売だったら「実績」あるいは「売上」を見て初めて、その実を目で見ることができるわけです。
信仰を持った者の「実績」・・それは「行い」です。
人は、行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるというのが福音です。しかし、信仰生活には行いが伴うというのです。
ヤコブはこう言っています。「行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブの手紙2:18)
信仰を持って、神と共に始まるその歩みは、行いという形で見えるようになってくるんですね。それは誰が見ても明らかに見える・・。だから「実」なんですね。
行いとはイエス様に従うということです。それはとても身近なところにあります。あの人を赦すことかもしれません。忍耐することかもしれません。また愛をもって悟すことかもしれません。
「実」は人それぞれです。でも百倍の実・・実らせたいですね。
あなたが主と共に一歩踏み出したとき、あなたに実が実るという奇跡を、人々は見るようになるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

YouTube【GraceCafeたいむ #24 】 「共に歩んでくださるお方」
アップしました。
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「いくつかの山を越え」から その1
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=a10sekIOV-E
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #255
【目の向き】イエス様のことば 80
" 茨(いばら)の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。"
マタイの福音書 13章22節
「蒔かれた種」の三番目。そのたとえ話はこうです。
" また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。" (13章7節)
種は芽を出し、根は地中に伸びていきます。成長を始めるのです。ところがそれをふさいでしまうものがあるというのです。とりあえず芽は出て伸びようとしています。そして伸びていくわけですが、天井があってつかえてしまうというのです。
その天井の第一は「世の思い煩い」。
思い煩いが「みことばをふさぐ」のだと言っています。要するに、思い煩っているそのとき・・、あなたの頭はみことばのことなど、そっちのけになっているというわけです。
しかし思い煩いを吹き飛ばすのは、このみことばなんですね。でもそこに覆いがかかってしまっているわけです。
例えば、主は決してあなたを見離さず、見捨てないという主の約束があります。ならばどの道を選んでも主が共にいてくださり、主はあなたに果たすべき役割を与えてくださり、その道を確実に導いてくださいます。だからどの道を選ぶにも思い煩う必要はない・・、これはこのみことばから導き出される答えの中の一つですが、そうでなくとも答えはみことばにあるのです。
もう一つは「富の誘惑」。
自分の生活がほぼほぼ満たされているならば、富の誘惑に陥る可能性は小さいと思いますか。誘惑というのは、自分から出るものではなくて外から来るものです。ですから、自分がどうあろうとも、来る時は来るんですね。
富への誘惑に乗ってしまう動機の第一は「安心」かもしれません。生活の上での安心、地位に関しての安心、子孫の行く末に対する安心。しかしそれ以上に誘惑の形でやって来るのは、物によって心を満たすことへの欲望です。
要するに、富は「一番欲しいもの」になってしまう可能性があるものなんですね。
欲しいものが手に入れば、本当に心が満たされますよね。しかしそれをもっばら求めるようになってしまうと、今度はその「もの」に心を奪われるようになります。すなわち、そのことだけのために動く人になってしまうというわけです。そうなると「富の奴隷」へと転落してしまい、「実を結ぶ」というのとは程遠い存在になってしまうわけです。
実を結ぶとは、神とその愛を、自分を通して世に表す者となることです。
イエス様が提示され、私たちが受け取るようにしてくださったものは、この世とそして、死を通過した永遠においての本当の安心、本当の満たしです。
だからこういうことは「死を超えている」という視点に立たなければ見ることができないんですね。それを見えなくするのが、これらの「茨」だというわけです。
主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記 31:8)
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書 14:6)
これらのみことばは、死を超えたところで語られているのです。
目をとめているべきは、我らの罪のために十字架にかかられ、死んでよみがえられ、王として永遠を治められるお方なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #254
【岩地の心】イエス様のことば 79
" また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。"
マタイの福音書 13章20~21節
「蒔かれた種」の二つ目です。イエス様がたとえで語られた部分はこうです。
" 別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。" 13章5~6節
みことばを聞いて喜んで受け入れる人でも、その中に「根がない」人がいて、その人は日が昇ると熱さのために焼けてしまうというのです。
太陽の熱はそのまま受けていたら焼けてしまうほど熱いのですが、ちゃんと根を張っている植物は根を張って水を吸収するなら、枯れてしまうほどの熱い太陽の日差しも返って、逞しい成長をするために欠かせないものとなるわけです。
しかし、岩地だと根を伸ばそうとしても、水分も土の栄養も吸収できないというわけです。
ここで言われていることのまず第一は、みことばを聞いてイエス・キリストを信じたがために迫害にあったり困難な事態に陥ってしまうということは、「ある」ということです。
そしてもう一つは、岩地ではなくて、深く耕されている土地に種が落ちるなら、それも逆に力になるということです。
では、困難や迫害にあって「つまずく」とはどういうことでしょうか。
それは、こんなことが起きるというのは神不在が原因なのだと思ってしまう。信じたはずのイエス・キリストというお方は肝心な時に共にいてくれないと思ってしまう。そして神との関係ではなく、他の物事との繋がりで、現状を理解しようという受け止め方に変わってしまう・・それがつまずくということ、すなわち困難の中で主への信頼を失うという事です。
土が薄い岩地とは、主への深い信頼を置いていない心を象徴しているわけです。
イエス様が一番喜ばれたのが信仰なんですね。イエス様をどのような方と受け止めるのか・・それが信仰という言葉の中身です。
イエス様は私たちのような者一人一人に対して完全に真実なお方で、最後まで見離さずに共にいてくださるお方なんですね。
ところが、この「最後まで」というところが理解の分岐点になるのかもしれません。最後とは「地上での死」ではなく「天の御国」なのです。
結局「すぐに喜んで受け入れるけど、根がない人」というのは、そこまで信じていない人の事なんですね。
イエス・キリストを救い主として信じた者は、死を超え、また最後のさばきを超えた最終目的地、天の御国までを完全に保証された者なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
G-Cafe 聖書のことば #253
【柔らかい心】イエス様のことば 78
" だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。"
マタイの福音書 13章19節
イエス様は「地に蒔かれた種のたとえ話」の意味を弟子たちに話し始められました。
その一番目は、道端に落ちた種の話です。
今日のテーマは「柔らかい心」です。
" 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。" (13章4節)・・これが元の話で、今日の箇所がその解き明かしです。
種を道に蒔く人はいません。耕された良い地に蒔くのですが、それがいくつか道端に落ちてしまったというのです。
道端とは心の状態のことです。道は人が通るところであって、種が落ちて芽を出すにはおよそ相応しくない地です。たとえ芽が出てきたとしても、ただ落ちたままだから、鳥が来て食べてしまうというのです。
イエス様は、道端とは「御国のことばを聞いて悟らない」人のことだと言われました。悟るには、良く耕された柔らかい心で種を受け取る必要があるということなんですね。
悟りというのは、今まで知らなかったことに目が開かれ、新しい世界を見ることです。それには受け取るという心の柔らかさがなければ、そこから芽は出てきません。それでは受け取った言葉の意味は見えてこないんですね。また少し興味が湧いてきたとしても、すぐに「鳥が食べてしまう」というのです。
でもそれは逆に言えば、もし柔らかい心で種を受け取るなら、芽は出てきて成長するということです。そうすればさらに養分が必要になってくるので、根を出して土から栄養を受け取ろうとするようになります。
この種とは、イエス・キリストについてのみことばです。
みことばは、芽を出し、根を張って養分を吸い上げるようになるために蒔かれる種なんですね。
根は神につながり、芽は大きく成長し、「キリストの形」という実を実らせるのです。
イエス様はさらに、悟らなければ悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪うのだと言われました。
私たちはもともと神から離れた者です。それはサタンのコントロールに身を任せている状態だと聖書は言っています。
サタンの目的は、私たちを神から引き離すことです。みことばを吟味しようとしないで他のものに興味が湧き、蒔かれたことさえ忘れてしまう・・。それはサタンの仕業で、鳥が食べてしまうとは、そういうことだというのです。
蒔かれたのは「いのちの種」なんですね。
心を開いて、神からのメッセージという、今までに見たことも聞いたこともない「種」を、受け取ってみようと思う時、それは芽を出すというのです。
" 信仰は聞くことから始まります。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。"
ローマ人への手紙 10章17節
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)