
YouTube 【GraceCafeたいむ #29】 「のぞみの岸」
アップしました。
痛みと苦しみの中にいる人の賛美歌、2回目です。
賛美歌 「安かれわが心よ」から その2
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=c2he5wyVTW0
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。"
マタイの福音書 16章24~25節
今日のみことばは、私たちにものすごく大きな決断を迫るものです。
なぜならイエス様のためにいのちを差し出しなさいと書かれているからです。
今日のテーマは「自分の十字架を負う」です。
いのちを差し出す・・それは、一番大切なものを差し出すということです。これがなくなったら、自分がなくなってしまうというものです。
それは自分の命であるわけですが、少し別の角度から見るとそれは「自分の考え」なんですね。
自分のためにいのちを救おうと思う者・・、それは「自分の考え」で動こうとする者のことです。
しかし、神を信じ、神とともに歩むようになる者には「みことば」あるいは「聖霊のうながし」がいつも伴っていて、私たちに語りかけてくださっています。それが「共にいてくださるイエス様」なんですね。
私たちはそれを無視することは簡単にできます。でもイエス様は「わたしについて来たいと思うなら・・」と私たちに問いかけておられるのです。
要するにイエス様について行きたいなら、自分の考えは捨てろということなんですね。
そこには常に、神の「み思い」というものがあるからです。
一兵卒は常に上官に従います。自分の意見を言うということは許されないんですね。
ですから、上官に自分の命を預けることになります。
自分のいのちを救おうと思う者・・、それは上官の言うことを聞かないで、自分だけ助かろうとする者のことです。しかし、その者は「自分のいのちを失う」のだとイエス様は言われました。
イエス様は私たちに完全なるいのちを保証される「まことの上官」なんですね。
「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25) とイエス様は断言されているのですから。
しかし残念ながら、私たちはいつもこのまことの上官である主に逆らおうとしてしまいます。
でも「わたしのためにいのちを失う」すなわち、イエス様に自分の考えを委ねてしまうなら、その人は完全に主に従う兵卒となり、まことのいのちを保証される者となるわけです。
これが「自分の十字架を負う」ということなんですね。
このことのスタートライン、それは「自分は自分の考えをに従って歩もうとしている」ということに気づくことなのかもしれません。
これは弟子たちに対して語られたことば、すなわちクリスチャンに対してのことばなんですね。
・・自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
・・ここにいのちがあるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」"
マタイの福音書 16章21~23節
イエス様は初めて弟子たちに、ご自分が十字架にかれられて殺されてしまうこと、そして死んで三日ののちに蘇られることを話されます。
今日のテーマは「サタンの惑わし」です。
ペテロはイエス様のことを「あなたは生ける神の子キリストです」言ったところ、イエス様はそのペテロに大いなる祝福の言葉を宣べられました。
その直後にペテロは「下がれ、サタン」と言われてしまうんです。
サタンという言葉の意味について、イエス様はその場で説明されています。
それは「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということです。
神の計画と人の望みは一致しない・・というよりも正反対であることが多いんですね。なぜかというと、人は「肉の性質」によって「肉が喜ぶこと」を選ぶからです。肉とは罪の性質のことを言い、その矢印は常に神に背を向けるという方向を向いています。
そして人は、この罪の性質の中で奴隷状態になっているというのが罪人(つみびと) の姿です。それは「神」という真の自由の世界に戻れなくなってしまった人のことです。
そして、人間の性質をそのようなものとして確定させるように導いたのが、あのエデンの園におけるサタンであったというわけです。
イエス様が十字架にかかられた・・それは、この世の歴史の中での最重要ポイントとなった出来事です。その時こそがサタンが切り札としている「死の力」が打ち破られた時だからです。
ペテロの言ったこと「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」・・それはまさしく「サタンの望み」の代弁なんですね。
さてクリスチャンにも、神の思いよりも自分の思いを優先させる・・そういうことって結構あるのではないでしょうか。むしろ常に、それを選択しなければならないという立場に私たちは立たされるように思います。
簡単に言えば、常にサタンのささやきが聞こえてくるんですね。
そしてそれが自分の感覚のように強く迫ってくるわけです。
自分が望むことや考えることと、祈りやみことばを通して神が言われることは一致しないことが多いんですね。
私たちは、サタンの支配からは解放され、自分の意思で「神」を選びとることができる者となりました。しかし、誘惑は常にやってくるんですね。誘惑とは欲望に挑戦するというよりも、神の思いから目を離させる力だと考えると、とてもわかりやすくなります。
ペテロはイエス様の「よみがえらなければならない」という言葉が、全く耳に入りませんでした。これがサタンの惑わしです。
みことばに注意深く耳を傾むけるとき、私たちが選ぶべき道が見えてくるんですね。
これはサタンが最も嫌がることです。
サタンに立ち向かいましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。
あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」"
マタイの福音書 16章19節
「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白したペテロに対して、イエス様は祝福の言葉を宣べられました。
ここではそれを、クリスチャンに対する言葉だという視点で見てきました。今日の箇所はその締めの部分です。
今日のテーマは「クリスチャンの務め」です。
わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます・・。
鍵が与えられるというのは、その門を開く鍵をクリスチャンであるあなたが預かったということです。ですから開くのはあなたです。
あなたが天の御国の門を開けて、さあどうぞと言って、人々をそこに招き入れる・・。そのために鍵が与えられたのです。そうでなければ鍵を預かったのに、ただの「役立たず」になってしまいます。
結局それは、御国のことを人々に紹介して、人々には開くことのできない門を開いてあげるということです。それはすなわち、御国の福音を伝えるということなんですね。
地上でつなぐことは、天においてもつながれ・・
ということは、福音を伝えるということは、そのまま天での出来事をそこに具現しているということです。
あなたが地上で解くことは、天においても解かれます・・・。
解くとは、つなぐという言葉との対比で使われています。
この「つなぐ」と「解く」は、ラビ (ユダヤ人の指導者) が律法の解釈において、禁止したり許可したりすることを表す言葉だそうです。
要するに、イエスをキリストと告白したクリスチャンは、その権威が与えられるのだというわけです。しかも、それは天においての価値判断と一致するものだというわけです。
なんという責任ある務めでしょうか。
他でもない、ペテロ自身が手紙の中でこう言っています。
" しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。
それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。"
ペテロの手紙 第一 2章9節
クリスチャンは地上で神の栄光を語り告げ、人々を御国に招き入れるために立てられた者なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。"
マタイの福音書 16章17~18節
シモン・ペテロはイエス様の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いに対して、「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。
イエス様は「バルヨナ・シモン」と彼の名を呼び、「あなたは幸いです」と言われたのです。
今日のテーマは「幸いな者」です。
イエスは神の子キリストである・・。それはあなたの考えから出たものではなく、天の父があなたに明らかにしたからそのように告白することができたのです、とイエス様は言われた・・。これが前回見たところです。
そのシモンに対してイエス様は、「あなたはペテロです」と言われました。イエス様はわざわざ以前の名「バルヨナ・シモン」で呼び、その彼に新しい名をつけたのです。それは、あなたは今までとは違う、新しい人になったのだということです。
なぜ新しい人になったのかというと、「イエスをキリストと告白した」からです。
クリスチャンとは、イエスを主と告白して、新しくされた人のことです。ですから、このシモンの出来事は、クリスチャンのこととして受け取ることができるんですね。
ペテロとは「岩」という意味です。そしてイエス様は「この岩の上に」と言われました。ですからそれは単に名前のことではなくて、シモンという人が新しい「岩」として生まれ変わったことを象徴しているわけです。
そしてイエス様は「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われたのです。
それはとりもなおさず、キリストによる教会というのは、この岩、すなわちクリスチャンという、新しくされた人によって構成されるもので、それを建てるのは「わたし」すなわちイエス様だということなんですね。
そしてその教会は「よみの門もそれに打ち勝つことはできない」とイエス様は言われたのです。
「よみ」とは、死者が集められるところで、他の聖書では「ハデス」と訳されていることばです。そしてそれには「サタンの根拠地」「サタンのために備えられた場所」という意味も含まれています。そしてイエス様が十字架で死なれて下られたのも、この「よみ」です。
そして三日ののちにイエス様はよみがえられました。
まさに、イエス・キリストは堅い要塞のようなこの「よみの門」を打ち砕かれたんですね。
イエス・キリストの死と復活によって、このよみの門の力すなわち「死の力」が教会を脅かすことはなくなったのです。
人を支配するのは「死」です。人はそれに打ち勝つことができないからです。しかし、イエス・キリストは死に打ち勝ったのです。
そしてクリスチャンは、そのよみがえりのいのちにあずかる者だというわけです。
この勝利の力をいただき「幸いな者となる」その門は、すべての人に開かれているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。"
マタイの福音書 16章15~18節
今日のテーマは、「イエスをキリストと認める者」です。
シモンはイエス様に対して、「あなは生ける神の子キリストです」と言いました。それは旧約聖書に書かれているメシヤについての多くの預言の、まさに「あなたがその方です」という意味です。
そしてそのペテロに対してイエス様は喜びの声を上げられ、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」と言われます。そして彼に「ペテロ」という名を与えられます。それは「岩」という意味です。
そしてイエス様はこの岩の上に「わたしの教会を建てる」と言われたわけです。
この話をペテロ個人の話としてではなく、「あなたは生ける神の子キリストですと告白する者」すべてに対して、イエス様はその者を「岩」と呼び、その岩の上に教会を建てられるのだと受け止めると、信じる者に対して与えられる大きな祝福が見えてきます。
そのペテロ(岩)に対して与えられる大きな役割については、次回以降見ていくこととして、今日は「このことを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」というところを見てみましょう。
「このことを明らかにしたのは」・・その意味は、イエス様が神の子キリスト「神そのものなるお方」であることが、その人のうちに明確になったということです。
しかしこのような情報は、今まで私たちが教わってきた「神を抜きにした知識」では受け取ることができないんですね。
それが「あ、そうか」とわかったのだとしたら、それは「天の父がなさったこと」だというのです。
聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」ということはできません。(ローマ12:3)
人がイエス様に顔を向け、そして信じるというその流れ、その全ては聖霊の導きによるものなんですね。
今あなたが、「信じてみようかな」・・と思われているのだとしたら、そこにはあなたを導く聖霊という存在があるのだというわけです。
聖霊とは三位一体の神の一つの位格、すなわち神そのものという存在です。
今、神の導きを感じるなら、それはあなたに差し伸べられている「神の御手」なんですね。
イエスをキリストと認める者・・あなたは幸いです。
あなたは「岩」と呼ばれるにふさわしい者となるのだというのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」"
マタイの福音書 16章8~11節
イエスはそれに気がついて・・と書かれていますが、何のことかというと、「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」というイエス様の言葉に対して弟子たちは、自分たちがパンを用意していなかったことをイエス様は責めておられるのだと思って議論を始めた・・、そのことに気がつかれたということです。
彼らは異邦人の地に行く時には、異邦人が焼いた汚れたパンを食べることのないように、自分たちで焼いたパンを持参していました。それを彼らは忘れていたというわけです。それで彼らは、イエス様がパリサイ人やサドカイ人たちのことについて話されているのに、全く関係のないことで議論を始めました。それは恐らく、誰の責任でこうなったのか・・というようなことだと思います。
イエス様は以前に「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」 (15章17~18節) と弟子たちに教えておられます。弟子たちはそれをすっかり忘れ、そのこととは真逆の議論をしていました。
食べるパンは、異邦人が焼くものであっても、それで汚れるわけではないのに、まだ弟子たちはそんな議論をしていたというわけです。
弟子たちはみな、パンを持ってこなかったことの責任は自分にもあったことを、薄々感じていたのではないでしょうか。
人は何か後ろめたいことがあると、そのことを中心に物事を考えてしまって、肝心の話の焦点が全く見えなくなってしまうんですね。
話を聞けなくするもの・・それは「罪責感」だということが言えるのではないでしょうか。
世の多くの人は「あなたは罪人だ」と言われると、その話に過剰に反応します。その話が「それが全面的に赦されるのだ」という話であるのに、その前の段階でその話を拒んでしまうんのです。
それは「自分を守る」という当然の姿であるわけですが、実はそれこそが自分は罪人であることを告白していることに他ならないわけです。
「信仰の薄い者たち」というその意味は、「自分のことではなくて神のことを考えよ」ということなんですね。あなたは自分の罪を弁護する必要はないのです。
あなたを愛する神という存在にあなたの目を向けるというところから、信仰は始まります。
その時に初めて、イエス様の言葉の真意が心に入ってくるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは彼らに答えられた。
「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。
空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。
しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。"
マタイの福音書 16章2~4節
ユダヤ人を指導する立場にいるパリサイ人やサドカイ人たちは、イエス様に「天からのしるしを見せてほしい」と言いました。その意味は、あなたが神の子キリストであることを主張するなら、そのはっきりした証拠を見せてみろという意味です。
その「天からのしるし」という彼らの言葉に対してイエス様は、天の状況を見て空模様を見分ける話をされます。
それは、夕方に天を見て、それが夕焼けだったら晴れを予想し、朝焼けだったら荒れ模様を予想するという、人々のごく日常的な生活の話です。それなのに「時のしるし」すなわち、来たるべき時がやってきた・・それを見分けることができないのかと、イエス様は嘆かれます。
イエス様は病人をいやし、悪霊を追い出し、自然界をも従わせ、そして神の国を宣べ伝えられました。そしてイエス様を見た者は神を見たのだと、ご自分ではっきり言われました。
これ以上あなた方は、どういうしるしを求めるというのですか・・というわけです。
今日のテーマは「信じない」です。
イエス様はその様子を見て「悪い、姦淫の時代」と言われました。
聖書で多くの場合「姦淫」とは、まことの神以外のものを拝むという、偶像礼拝のことを指しています。それは心を寄せるべき方以外のものに心を奪われるということです。
しかしながらパリサイ人やサドカイ人たちが偶像礼拝をしていたのかというと、そうではありません。それでも彼らは姦淫という言葉を投げかけられてしまいます。
それは、まことの父なる神に心をしっかりと向けず、ほかのものを大切にしようとしていることを指しているんですね。
それは、自分の地位とか名誉とか、自分に属することです。自分ファースト、、それは罪人の姿そのものです。自分ファーストとは自分の利益を優先させるという意味ではなくて、神よりも自分を優先させるという意味です。
イエス様はまことの救いの扉が開かれる以前、すなわちその時代のことを「悪い姦淫の時代」と言われたわけです。そしてその時代に一つだけ「ヨナのしるし」が与えられるけど、それをしるしとして受け取らないならもう、それ以上に与えられるものは他にありません・・と、そう言われたわけです。
ヨナのしるしとは、三日三晩大魚の腹のなかにいて地に吐き出されたという、旧約聖書のヨナ書に書かれている預言者の話です。それはキリストが十字架で死なれ、三日ののちによみがえられる、まさにそのことを指しているわけです。
これが本当のしるしだというわけです。
しかし、その本当のしるしを見てさえ、信じない人は信じなかった・・。
パリサイ人やサドカイ人たちは、「信じない」と決めていたのではないでしょうか。
神に対して心を柔らかくし、神を父として、イエス様を神の御子キリストとして受け止めてみようと、心を変えること・・それが私たちに求められていることなんですね。
これが人類に与えられた、最初で最後のしるしなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」"
マタイの福音書 15章32~33節
イエス様がわずかな食料を群衆に配って、満腹にさせるという奇跡の話は一つ前の14章に出てきます。それは五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人、おそらく一万人近い人を養うという出来事でした。その奇跡は、日常に起きている奇跡から比べても特筆すべき奇跡でした。この奇跡の話だけが四つの福音書すべてに記されているのです。
そして再び同様のことが起きます。前回からこの時までどのくらいの期間があったのかはわかりません。
イエス様が三日間飲まず食わずのこれらの人たちを、空腹のまま帰らせたくありませんと言われた時、弟子たちのうちに「じゃあまた少しのパンや魚を集めてみましょう。この前イエス様は、それらのもので1万人を食べさせましたよね。」と言った者は何故かいなかったようです。
またイエス様は「あなた方はあの奇跡を見たのに、なぜ人々にパンを手に入れさせるという発想しか持てないのですか」と弟子たちを叱っても良いと思うのに、イエス様はただ「パンはいくつありますか。」と言われ、また前回と同じ奇跡をここでなされるわけです。
私はこの出来事をどのように理解したら良いかわかりません。
ただ言えることは、この特筆すべき奇跡は一回ではなかったということです。
今日のテーマは「イエスは神」です。
人の病がいやされる。悪霊が出て行く。曲がった手足がまっすぐになる・・。そして風も波もイエス様の言うことを聞く。そしてこのパンの奇跡は、さらにそのことがどういうことなのかを、さらにわかりやすく示す奇跡と言えるのではないでしょうか。
いくつかのパンを割いて数千人に配るというのは、物質が増えるということです。しかも石や土などの自然界のものではなく、人が調理しないとできない「パン」までが増えるのです。
また死んで保存食として持ち歩かれている魚が増えるのですから、それは黄海の海が割れたりする奇跡にも匹敵する奇跡です。科学者に言わせれば「あり得ない」の一言で済ませてしまうことですから・・。
コロサイ人への手紙 2章9~10節には、こんなことが記されています。
" キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。"
神は天地万物を作られました。そのことと、このパンと魚の奇跡は直接繋がっている話なんですね。
イエス様は、神の子である神、キリストとして地上に人の形で来られ、人が見える形でそのことを人々の前に示されたんですね。神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしら・・。それはすべてがその御心に従うということです。悪魔でさえ、神が許された範囲でしか存在できないのです。
そしてクリスチャンは、そのキリストにあって満たされている者だというのです。
なんという、気の遠くなるような恵みでしょうか。
福音書に出てくる多くの奇跡・・それは、キリストがすべての支配と権威のかしらであることを人々の目が見るようにされた、、そのことに他ならないんですね。
イエス・キリストは、神として信ずべきお方なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)