" こうして彼らはイエスにつまずいた。
しかし、イエスは彼らに言われた。
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。"
マタイの福音書 13章57~58節
イエス様はご自分の郷里、ナザレに行って会堂で教え始められました。
郷里の人たちは、イエス様が小さい頃からの様子を良く知っている人たちでした。
「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」・・と言って、イエスにつまづいた・・と書かれています。
そしてイエス様は「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」と言って多くの奇跡をなさいませんでした。
今日のテーマは「知っていると思う心」です。
郷里の人たちは、イエス様のことを「知っている」と思っていたんですね。人が人を見る時、レッテルを貼って見るということはよくあります。
一度レッテルを貼ってしまうと、そのイメージからから抜け出せなくなり、その人にある他の可能性を感じ取ることができなくなってしまうということは、良くあることです。
彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった・・。
ここでイエス様はは、不信仰というものが「何も目えない、理解できない」という事態をもたらすのだということを教えようとされたのではないでしょうか。
ナザレの人たちはイエス様の噂は知っていたはずです。ですから期待感は持っていました。54節には、彼らは「この人はこんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言ったと書いてあります。彼らはイエス様の話も聞いたし、奇跡も見ているんです。
ところがイエスという人を知っているという「自負心」のようなものが、彼らの目を遮ってしまったんですね。
不信仰・・その根は「何かを知っていると思うこと」なのではないでしょうか。
神のことについて、人は何を知っているというのでしょうか。神とは人の理解の可能性をはるかに超えたお方です。
"自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。" (コリント人への手紙 第一 8:2)
人の心にある固い城壁・・それは「知っていると思う心」なのではないでしょうか。
心を白紙にして神のみことばを聞く・・そのような機会が与えられるとしたら、それは本当に幸いなことです。
でもそれって・・、自分の計画がその通りに行かなかった時だったりするんですね・・。
一度立ち止まって、神の言葉に耳を傾けてみませんか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)