" 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」"
マタイの福音書 15章7~9節
冒頭の「偽善者たちよ」と言われたその人たちは、エルサレムからやって来たパリサイ人や律法学者でした。
彼らはイエス様の弟子たちが手を洗わないでパンを食べるのを見て、それをイエス様に指摘します。それは、「あなたの弟子たちは律法を守っていないではないですか。それを見逃しているイエス様、あなたはそれでも神に対して忠実な方だと言えるのですか。」と、イエス様にイエローカードを突きつけた・・と、そういうことです。
エルサレムからやってきた彼らには、自分たちに対してとても厳しく言われるその人イエスを否定したいという思いが潜在的にあったのではないでしょうか。
そうでないと、自分たちはほとんど否定されてしまい、自分たちの地位も危ういものとなってしまうことを彼らは直感していたわけです。
罪びとの行動の基本は自己中心、自己保身です。
たとえば・・世の中には多くの「学者」と呼ばれる人たちがいます。彼らはこの世にあるまだ知られていない法則を見つけ出す仕事をしています。でもそれをきっちり証明しないことには、人々には認めてもらえません。
そこで学者はまず、こうではないかというひらめきのようなもので「仮説」を立てます。そしてその仮説を何らかの方法で証明できれば、そのひらめきは正しかったということになり、その人は偉大な学者となるわけです。ですから、学者の主な仕事は「証拠集め」なんですね。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。それは、自分が立てた仮説を証明する証拠を採用し、仮説を否定する証拠は採用しない・・という落とし穴です。これでは真の学者とは言えません。でも人はそれが誤っていたとしても、自分が立てた仮説の方に歩いて行ってしまうんですね。
人は真理を探し求める学者のようなものです。しかし人は「神が天地万物を創造された」という情報を提供する聖書を、重要なものとしては最初から扱おうとはしません。
なぜかというと、それが自分の仮説を否定するものだからです。その仮説とは「自分が中心」という仮説です。
イエス様はパリサイ人たちに言われました。「こうしてあなた方は、自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしてしまいました。」(6節) と。
彼らを守っていたものは、すでに得ている地位と「自分たちの言い伝え」でした。その言い伝えとは「口伝律法」と言われるもので、こまごまとした規定で生活を縛り、神との基本的な関係を忘れさせてしまうものでした。
彼らはそちらを採用し、自分たちを不利な立場に陥れる「イエスはキリスト」という重大な情報をないものとしようとしたわけです。
自分を守ろうと思っていたら、神に出会うことはできないんですね。
神の前に、自分をさらけ出し、自分を点検していただくとき、人は誰でも自分の深い罪を知るんです。そうすれば、その罪をキリストが身代わりに負って十字架にかかられたという情報につながっていくんですね。
人は自分を守るという姿勢では、安心して生きることはできません。
すべての罪が赦されるというところに立って初めて、平安と希望があるのです。
イエス・キリストがそれを実現してくださいました・・これが福音です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)