" すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章18~19節
今年はどのような一年だったでしょうか。毎日コロナのニュースに浸かって、とうとう暮れまで来てしまいました。
今日のみことばをそのまま受け取るなら、この一年を、ストレスが溜まって当然の一年を、恐れと不安の中にあった一年を、感謝しなさい・・ということになります。
それって、どういう意味でしょうか。
苦しい時は、神に目を向けます。助けてください・・と叫びます。それが当然です。
ところが、御言葉は「感謝しなさい」というのです。
感謝すること・・。それは、生活の中のあらゆることの中に感謝できることを探すという意味もありますが、その苦難自体を感謝しなさいという意味でもあります。
それはどんな状況の中でも「主は良きことをしてくださる方」だと信じることに他なりません。
これが神との関係を維持するために、御霊を消さないで歩むために、私たちに与えられた神からの言葉なんですね。
それはまだ見えていないことを信じて、先に感謝をささげるということです。
イエス様が一番喜ばれたこと・・それはただイエス様は、文句なくすべての権威を持たれるお方だと信じることでした。
感謝できないなら「神様、感謝することの意味を教えてください」と祈れば良いのです。
神が「すべてのことにおいて感謝しなさい」と言われるのですから・・。
新しい年も、いつもいつも主なる神を求めて歩まれる年となりますように。
良い年をお迎えください。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
“「〜このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」"
マタイの福音書 20章16節
今日の箇所は、ぶどう園で働くために出かけた人たちの話で、早くから行った者と、夕刻ぎりぎりに行った者がいて、それが賃金をもらったら同額だった、というショッキングな話の最後のところです。
イエス様はユダヤ人たちが自分たちは神の民であるということに安住していることを、常々厳しく糾弾されていました。イエス様の前に神に遣わされたパプテスマのヨハネもそのことを教えて、ユダヤ人たちに本当の悔い改めを説いていたわけです。
ユダヤ人たちは渇望していたメシヤ(救い主)が来られたというのに、そのキリストを受け入れず、結局イエス様を十字架にかけてしまいます。その彼らは「朝早くからぶどう園に行って働いていた人たち」でした。彼等はずっと以前からぶどう園で神に仕えて働く者だったんです。
しかし、彼らが夢にも思っていなかった「異邦人への救い」を、このメシヤであるイエス様は実現されるんですね。それが夕刻ぎりぎりになってぶどう園に行った人たちです。
結局異邦人と言われていたイスラエルの民ではない人々が先にクリスチャンとしての世界の主人公となり、ユダヤ人たちはあとになるわけです。
今になって、まことのメシヤ=イエス・キリストを信じるユダヤ人たちが急速に増えはじめています。
救いの順番が逆転しているんですね。
イエス様が語られることというのは、常に「終わりの時まで」を見据えての話なんですね。すなわち「天の御国」のことなんです。
このぶどう園の話の中で、私たち異邦人は、夕刻になってさあいらっしゃいと言われている者たちです。
先になるか後になるかは、選びの民であるユダヤ人たちへの警告であって、私たちにとって問題なのは、「そこに行くか、それともやめるか」なんですね。
もう夕刻なのです。
夕刻・・それはひとりの人の人生にとってみれば、死を目前にしている時とも言えます。
明日死ぬ人もぶどう園に行くなら、天における祝福と喜びとその報酬は・・選びの民としての一人前の報酬なんですね。
さあ今ぶどう園に、まことの救いと永遠のいのちが与えられるイエス・キリストのもとにいきましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。"
マタイの福音書 20章1節
福音書を見ると、イエス様の話は天の御国の話で満ちています。
天の御国をはっきり認識するということは、死の先をしっかり見据えるということです。
イエス様がそのことを何度も語られているということは、その御国への道があり、実際にそこに行けるのだということを強調されているわけです。
「天の御国」があるのだと、イエス様は初めから終わりまで言い続けておられるのです。
例えばそれは、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものだ・・これがこの1節から始まるたとえです。
この主人は、ぶどう園で働く者すなわち「御国の民」として主に仕える者を集めるために、朝早くから出かけるというのです。
この例えの中に隠されている一つの真理・・それは、神は初めからこのことを計画しておられるということなんですね。
ぶどう園に集められる人々の中には、朝早くから賃金を示され、ぶどう園で働く人もいれば、「相当の賃金を払うから」と言われて、後から来る人もいる。さらに「何もしないで立っている人」がいて「誰も雇ってくれない」と悲嘆に暮れているところを、とにかく行けと言われて夕刻ぎりぎりに行く者もいた・・。
そしてなんと、彼らに支払われた賃金は皆同じだったというのです。
朝早くから働いている人は不平を言いますが、この主人は「この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」と答えます。
天の御国で与えられる報酬・・それは「最後の人」にも同じだというのです。
ということは、ただ「そこに行くかどうかだけがすべてだ」ということです。
同じだけ・・それはそれ以上というものはない「永遠のいのち」なんですね。
日が暮れてしまう前に、この声を聞いたなら、とにかく行きなさい・・、主のぶどう園に。
日が暮れると、もう働けなくなる・・それは地上の人生の終わりの時です。しかしそれがいつ来るのか、だれも予想することはできないのです。
この声を聞いたら、それに応えるのは「今」なんですね。
御国の民へのお誘い・・それはまことのいのちを知らずに夕暮れを迎えてしまうという、滅びからの救済・・そのために主は出かけて来られたんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。"
マタイの福音書 19章29節
この一連の話の流れは、永遠のいのちを得るために、自分の行いで何とかしようという思いがそもそも間違っているのですよ、というものでした。
そしてそれは、神「が」されることなのだから、自分の力などを頼りするのはやめて、神に任せなければいけないのですという話でした。
あなたのことを心配してくださる神を信じ、神にすべてをゆだねた者が、新しい世界「千年王国」においても復活のいのちをいただき、祝福される者になるのだとイエス様は言われたわけです。
そしてこの話の最後が今日の箇所です。
今日のテーマは「優先順位」です。
家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑・・、それを捨てるとはどういうことでしょうか。
「捨てる」ということの意味を、それらを第一にしたり、それらに頼ったり、それらのために行動したりという、一般的には当然のことのように思われていることを一旦横に置く・・という風に捉えると、話の筋が見えてくるかもしれません。
父母を大切にすることは十戒の中にもあるので、捨てるというのは、ないがしろにするということではないことは明らかです。
自分に与えられた物は、神が与えてくださったものなのですから、家族も含め大切にしなければなりません。だからこそイエス様は「その百倍を受ける」にはこうすればよいのだと、本当の祝福の道を教えられたんですね。
その百倍の祝福をいただくには「わたしの名のためにそれらを捨てる」ことなのだ、というわけです。
ちょっとしたパズルのように聞こえますが、要するにこれは、大切にすることの優先順位を間違ってはいけませんよという話なんですね。
自分が与えられているものにしがみつくのではなく、まず主にしがみつきなさい・・。
そうすれば、そこには百倍の祝福があること請(う)け合いです・・とイエス様は言われたわけです。
イエス様を主として、その深いつながりを求めて歩むこと・・これがすべての良いことについての土台なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。"
マタイの福音書 19章28節
弟子たちはイエス様が十字架にかかられるという話をしても、わけがわかりませんでした。
そのわからなかった弟子たちが、イエス様の復活ののち、聖霊によってイエス様による救いのみわざの全貌を知ることになります。
彼らは、旧約聖書に書かれていることの実現をその目で見たわけです。
しかし今日の箇所は、その救いの先にある「新しい世界」での話です。当然のことながら、弟子たちにとってこの話はちんぷんかんぷんでした。
そして今の私たちが立っているのも、この弟子たちと同じ場所なんですね。
今日のテーマは「信じられる話」です。
聖書には世の初めから終わりまでの詳細が書かれています。そしてその通りのことが起こってきました。
ならばこの先もその通りのことが起こり、その時になって聖書に書かれていたことは本当のことだと驚く・・。当然そういうことが予想されるわけです。
イエス様が語られた今日の話は、黙示録に書かれていることに重なってきます。
「人の子が栄光の座につくとき」・・それは黙示録の20章に書かれている千年王国のはじまりのときで、サタンは縛られ、悪霊の働きが一切封じ込められるという「あたらしい世界」です。
そしてそこには、「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、王として『治めた』」と、未来の決定事項として書かれています。(黙示録20:4)
これらのことは、今日のイエス様のおことばにそのまま重ねて見ることができるんですね。
イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちが聞いていたちんぷんかんぷな話・・その最後のところを、今私たちも聞かされているのです。
ですから、そのことが聖書に書かれているなら、とにかくそれは実現する・・と考えるのはおかしなことではないんですね。
イエス・キリストは再び来られ、信じる者を天に引き上げ、終わりの時にはすべての人をさばかれるのだというのです。
私たちは恐れかしこんで、主を見上げて日々歩む者となるべきなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
そして、メリー・クリスマス!

メリー・クリスマス!
お話/市原康、賛美/市原よしみ・市原康
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=YoIjb6-J01E
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
※ 一曲目の歌とキーボードのバランスがあまりよくありません。
すでに遅し・・で、💦
悪しからずご了承、お願い申し上げます。
あと・・
最後の曲も多少お聞き苦しい点があるかと思いますが、
平にご容赦を・・・。
" そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」"
マタイの福音書 19章27~28節
金持ちがイエス様の話を聞き、全財産を捨てなければ救われないのかと思って悲しみながら去って行ったあと、イエス様が言われたのは次のようなことでした。
救われるというのは行いによっては達成できないことがわかるでしょう。そんなことはもともとできないんだから。人の弱さとか罪深さを知る父なる神は、人をその行いによって救おうとしたのではなくて、全てを成し遂げることのできる神に全てをお任せすることで、その救いを実現するようにされたのです・・。
イエス様はそのような意味で「それは人にはできないことですが、神にはどんなこともできます。」と言われたわけです。
そのあとのペテロがイエス様に尋ねたのが今日の箇所です。
「ご覧ください。私たちは全てを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」と。
全てを捨てて従って行ったから・・。結局ペテロは「何かをしたから何かもらえる」という考えについては、あの金持ちとなんら変わらないことがわかります。
しかしわからなくとも全てを捨ててイエス様に従っていたのがこの十二弟子たちでした。
そしてイエス様が彼らに言われたことが、このあとのおことば、
「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」です。
弟子たちは、人がどのようにして永遠のいのちを得るのかということについては、まだ何もわかっていませんでした。それはキリストが十字架で死んでよみがえられて、聖霊が彼らに下ってから初めてわかったのです。
ですが彼らは、この方こそが聖書に書かれているキリスト (来たるべきお方、救い主) ということについては確信をもってイエス様に従って行った人たちなんですね。
人が救いに導かれるのは、自分の心のうちにある空洞とか、罪の意識とか、絶望とか、真理を知りたいとかいう強い思いから聖書に導かれ、そしてそれを受け取って行こうとした時に、神の御霊(聖霊)はあなたをイエス・キリストのもとに導いてくださるのです。
あなたがまず第一にしなければならないことは、救いのみわざを遂げてくださったその方ご自身を「ただ受け取る」ということなんですね。
そのときに、自分の罪の身代わりの十字架、よみがえりの新しいいのちを実体験しつつ、その理解をさらに深めていくという、新しい歩みが始まるというわけです。
まずイエス様という方のところに行こう・・。これが全てが逆転する希望の歩みへの入り口なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」"
マタイの福音書 19章23~26節
この話は、ある人がイエス様のところに来て「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすれば良いのでしょうか。」と尋ねるところから始まります。
イエス様は「なぜ良いことについて、私の尋ねるのですか」と言われ、「全財産を売り払って私についてこれば天に宝を持つ者となるのです」と言われました。それを聞いてその人は悲しみながら立ち去ったというのです。
それは、「良いこと」によって御国に入ろうとするなら、それ以外に方法はありませんという意味です。
今日のテーマは「救いのあるところ」です。
金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方が優しい・・それは、金持ちには有り得ないという意味です。
それで弟子たちはびっくりして、だったら誰が入れるのですかと、イエス様に問いかけます。
それに対してイエス様は「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」と答えられました。それが今日の箇所です。
弟子たちも、イエス様のところに来たあの金持ちも「良いことをすること」が神の国へ通じる道だという考えから離れられないでいることを、イエス様は知っておられました。
そんな彼らをイエス様は「じっと見つめられた」んですね。
私たちも、自分の力でなんとかしようとする姿勢から、なかなか抜け出せないんです。「神にはどんなこともできます」・・それはあなたではなく「神が」そのことをなされるのだという話なんですね。
だったら、そのことがおできになる神に全てをお任せしないことには、それは実現しないわけです。
神「が」天の御国に入る準備を整えられ、あなたにその門を開いたんですよと告げるのが福音です。その準備とは、御子イエス・キリストの十字架の死と復活です。
ですから、私たちはこのイエス・キリストという方にお任せするということ以外に、神の国に入る方法はないのです。
しかしこの簡単なことが、一番理解しにくいことなんですね。
イエス様はあなたをじっと見つめ、「わたしが救いなんですよ。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われるのです。
祈り・・「神様、ただあなたが用意された救い。イエス様を信じることができるようにしてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」"
マタイの福音書 18章32~35節
この家来は返せないほどの負債を主君に対して負っていました。主君はこの男に精算を迫ります。全財産と妻と家族までも売り払って、奴隷になってでも返せというのです。それほどの借金をこの男は背負っていたんですね。
この男はただひれ伏して懇願します。もう少し待ってください・・と。
実はこの王、借金でがんじがらめになってしまうような生き方をしているこの家来を、そんなところから救い出そうと計画していたんですね。それで王は無理難題を言って絶体絶命の窮地に立たせた後、その男の借金をすべてを帳消しにしたんです。
そうすればこの男は自分が赦されたことを忘れず、堅実に自分の生活を立て直すことができるのではないかという期待が、この君主にはあったのではないでしょうか。
この男は仲間にお金を貸していました。それは百デナリ。100日分の労賃です。それは結構な額でした。
この男は自分に負債があるその男を見た途端に、赦す心を失ってしまうんですね。そしてもう少し待ってくださいとひれ伏す仲間を赦すことができず、牢に入れてしまいます。
この家来は一万タラントという、百デナリの60万倍の赦しを受けていたのに・・。
実はこれは私たちのことなんですね。
イエス様は、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。それによって私たちの罪は完全に赦されました。なのに・・情けないことですが、大きな赦しの恵みの中にありながら、人をさばき、赦せないということがあるというわけです。
それではどうしようもない、昔の古い自分のままではないですか。
でもがっかりしないでください。イエス様の救いは完全なんですね。
実は十字架上でのイエス様の死には、罪のあがないと、もう一つ意味があるんです。
それは、罪の性質を持つこのからだの「身代わりの死」だということです。
ですから私たちはイエス様と一緒になることで、罪の赦しは瞬時にいただくのですが、罪の性質を持つからだに関しては、瞬時ではなく少しずつというペースで死んでいき、新しい者へと変えられて行くんです。それがイエス様の死と復活が私たちのうちにあるということなんですね。
ですから私たちは、いつもいつも、このイエス・キリストというお方に自分の身も心もすべてをおまかせする・・それが私たちがするべきことなんです。
私たちを変えていくという核心の仕事は、イエス様「が」してくださるんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

アップしました。
それでも固い私・・賛美歌「弱き者よ」から その2
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=mRuBR_2LkYc
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)