
ミュージシャンにもわかる聖書の話
GraceCafeたいむ #37 【声を上げればよい】
恐れの中で・・という話です
賛美歌「いかに恐るべき」から その1
アップしました・・
主催:Grace Home Church
お話/市原康、うた/市原よしみ
みなさまのお越しをお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=B3LGpNSAa3U&pbjreload=101
" そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。"
マタイの福音書 24章30節
そのとき、人の子のしるしが天に現れる・・。
そのときというのは、苦難の日々の後、太陽は暗くなり〜と、天変地異が起きるまさにその時であることが29節からわかります。
そのとき、地の全ての部族は胸を叩いて悲しむ・・。
黙示録によると、終わりの時の7年の大艱難時代の後半の三年半、「二人の証人」が現れて、地の人々を苦しめるという記事があります。それは、神を認めようとしない者たちへの厳しい警告・・それが三年半の間続くということです。
ですからその時点で世界中の人々は、救い主イエス・キリストと終わりの時の話を散々聞かされているんですね。
そして、人の子のしるしが天に現れた時、「あの話は本当だったんだ」と知るわけです。
しかしその時にはすでに「刈り取り」が始まっているんですね。もう手遅れだと、その時初めて知り、胸をたたいて悲しむのだというわけです。
彼らは、地のすべての富といわれるものが消え去り、それまで頼りにしていた全てのものが消え去ったときに初めて、今まで聞かされていた「福音」が現実のことだったということに目が開かれ、「神に対する不遜」ということの意味をその時に知る・・その様子がここに記されているわけです。
今この時代は、福音を全世界に宣べ伝えよというイエス様の命令がほぼ完了しようとしている段階に入っています。そして私のようなミュージシャンまでが、そのことを叫び始めている・・。それはまさに終わりの時のしるしなのではないかと、自分でも感じているんですね。
全能の神と、そのまことの神の前に不遜であった自分・・そこに目を止めることが実は、いのちの道への入り口なんですね。
今ならまだ、間に合います。。。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
死体のあるところには、禿鷹が集まります。"
マタイの福音書 24章27~28節
「終わりの時」に関する聖書の箇所は、多くの預言書、イエス様のことば、使徒たちの手紙、そして黙示録にあります。
驚くべきことに、これらのすべてが一本の線でつながるんですね。
そこから導き出されること・・それは終わりの時にある「人の子の到来」は二回あるということです。もっと細かく読むと三回になるかもしれません。その辺は、聖書学者同士でも意見が異なりますが・・。
一回目の到来は、クリスチャンたちを (死んだ者はよみがえり、その時生きている者と一緒に)みなを一挙に引き上げるために天から来られる という「携挙(けいきょ)」のとき。(第一テサロニケ4:16)
そして次に、再び来られて実った穀物を刈り取られるとき。それは携挙の後にあるとされる「7年の大艱難時代の間にキリストに立ち返った者たち」のことを言っているようです。
またその時同時に、御使いたちは「地のぶどう」を刈り取るという、鋭い鎌による別の刈り取りがあると、黙示録には書かれています。
地のぶどうとは、ここまできても頑なに神を拒み続けた者たち・・すなわち、栄華を極め、贅と悪の限りを尽くして富を貪っていた者たちのことで、その刈り取りによって都の周辺は血の海になるという記述があります。(黙示録14章と17章)
今日の「死体があるところには、禿鷹が集まります。」という唐突なことばは、この黙示録の記事を見ると、その情景が見えてくるというわけです。
終わりの時・・、それはただ恐ろしい時のように感じてしまいますが、ここにある大切なメッセージは、イエス様は最後の最後まで「倉に収めるべきご自分の民」をきっちり集められるということなんですね。
私たちには、神に立ち返る時が、いま与えられているんです。
すべての人を神の御怒りから救い出す道が用意された。あなたは救いを選び取れ。
・・これが神からのメッセージなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そのとき、人々はあなた方を苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国々の人々に憎まれます。”
マタイの福音書 24章9節
わたしの名とは、言うまでもなくイエス・キリストの名ですが、世界中がクリスチャンを憎むということは、世界中がイエス・キリストに敵対するということです。
なんだか恐ろしい話ですね。
イエス・キリストへの憎しみというのは、聖書全体を通して見ることのできる「サタンの思い」そのものです。
結局この「終わりの時」の話というのは、サタンの勢力と神の勢力との戦いが明確になる状態のことを言っているんですね。
そして最後には、サタン率いる悪しき勢力は完全に一掃される・・それが聖書に書かれている神の計画の大筋です。
洋画やアニメにはそのようなストーリーが多く見られますが、あれはすべて聖書から来ているんですね。けれど常に、本当の主人公である「神」が他のものに置き換えられているんです。
聖書を骨抜きにしてしまう・・これこそまさに、サタンの巧妙な手口です。
人々が互いに裏切り、憎み合う。偽預言者が現れて人々を惑わす。不法がはびこる。多くの人の愛が冷える・・。それらはすべてサタンの領域での出来事です。
神は光です。サタンは闇です。
人は、死を恐れるゆえにサタンの虜になってしまいます。逆に言えば、死を通過してしまうことほど強いことはないんですね。
ですから、サタンは必死で「イエス・キリストの復活」をも骨抜きにしようとするんです。
サタンは暗闇の世界の王です。
あなたは光を選べ・・。
ここにまことのいのちがあるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
マタイの福音書 24章14節
「世の終わりの時のしるしは、どのようなものですか」という弟子たちの質問に対して、イエス様は話を始められます。
偽キリストの出現、戦争、飢饉、地震・・。それらは「産みの苦しみ」の始まりだとイエス様は言われました。
産みの苦しみとは、まさしく陣痛に例えられる苦難の時代というものがあって、その後に新しいいのち、すなわち新しい世が誕生することを言っているわけです。
黙示録、また旧約聖書のダニエル書によれば、この最後の陣痛は「大艱難時代」と言われる7年間に相当します。
しかし預言書をすべて見渡すと、その時代が来るまでにはまだ起きなければならないことが、いくつか残っていることがわかります。
イスラエル国の出現・・それは1948年に実現しました。そしてエルサレムに神殿が再建される・・それはまだ実現していません。
聖書全体を調べてみると「世の終わり時計」のようなものが見えてきます。
そして今日のイエス様のおことばもその一つと言えます。
世の終わりは、全世界に福音が宣べ伝えられ、すべての民族に証しされたら・・来る。
地球上には、福音が宣べ伝えられていない地域がまだ残っています。
でもそれはほんの少しなんですね。宣教師たちは文字通り命がけでその地に宣教に出かけて行く・・その働きは、今も止まってはいません。
2000年という長いスパンで考えると、今は「秒読み」段階に入っていると言えるのかもしれません。
しかしそんなこととは関係なく、私たちは死を迎えます。
では、何のためにいつ来るかもわからない「世の終わり」のことが語られているのでしょうか。
私たちは死によって消滅するのではないと、聖書ははっきり言っています。
ですから、終わりの時も、そして新しく来る「天の御国」も、、すべてあなたと関係がある話なんですね。あなたが死んだとしても・・。
神はあなたの「永遠」について関わられるお方なんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」"
マタイの福音書 24章3節
イエス様は、弟子たちが目の前にしている神殿が粉々に崩壊する日が来るのだ、と言われました。その時のことについて弟子たちは、こんな質問をします。
「あなたが来られ、世が終わるときのしるしは、どのようなものですか。」
弟子たちにとって神殿が崩壊するというのは、まさに「世の終わり」の出来事でした。
弟子たちの質問からわかることは、イエス様は常日頃から弟子たちに次のことを教えておられたということです。
それは、イエス様は再び来られ、そしてこの世は終わるということです。
聖書は道徳の本ではありません。
神が天地万物を造られ、人を造られたところから始まり、その終わりまでという、神の全ての計画が記された書物です。
あれから2000年経った今、私たちは、あのイエス様のことばはただの絵空ごとだったんだと思うのではなく、逆にそれが着々と近づいていることを肌で感じています。
なぜなら、聖書に書かれているその他の多くの預言を通しても、そのことが実現する方向に向かっていることがわかるからです。
その時には、偽キリストが現れ、民族紛争、戦争、飢饉、地震がある・・、
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。(5-8節)・・とイエス様は言われました。
ということは、まだまだ他にも多くのことが起こるのだということです。それがこのあと24章全体で語られています。
この箇所の私たちへの一番大きなメッセージは、「その時は本当にあるのだ」ということです。そうでないのなら、聖書はただの「妄想の書物」です。
私たちは宇宙の大きさの話を聞くと、気が遠くなるような感覚を覚えますが、この話はそれ以上の大きなスケールの話なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
GraceCafeたいむ #36 【神に目を向ける時】
「弱き者」にある祝福の話です。
賛美歌「弱き者よ」から その5
アップしました・・
主催:Grace Home Church
お話/市原康、うた/市原よしみ
みなさまのお越しをお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=07hC3h6cw0I
" イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マタイの福音書 24章1~2節
十字架への道・・火曜日
宮を出てオリーブ山に登ると、神殿の様子を一望することができます。
この時はヘロデ大王が50年前から神殿の再建と拡張工事を始め、すでにその工事も終盤を迎え、金箔で覆われたその神殿の眺めは、人々をうっとりさせるほどのものでした。
イエス様、あれを見てください・・と。
そこで言われたイエス様のおことばに、弟子たちはがっかりし、また恐れと不安を感じました。
どの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してありません・・。
それは、金箔が剥がれるどころか、積み上がっていた石はバラバラにされ、見る影もなくなるのだと言われたのです。
実際にそれから約40年後に、ローマ軍がエルサレムに攻め入ってきてそれが実現してしまいます。
現在も城壁周辺には、巨大でしかも綺麗に切り分けられた石材が意味もなく転がっています。
まさにイエス様が言われた通りのことが起きたんですね。
でも弟子たちは何のことやらさっぱりわからず、あとでそっとイエス様に尋ねるんです。
いつ、そんなことが起こるんですか・・と。
そして話は「世が終わる時」へと続いて行きます。
宮が崩壊する・・それには実際の意味と、もう一つは霊的な意味がありました。
それは、イエス・キリストというお方の存在によって、この宮ではなく世界各地でまことの神を礼拝するという、新しい時代に入るという意味です。
そしてそのための決定的な出来事が、数日後に起ころうとしていたわけです。
世の終わりまでのすべての出来事と、そしてその後に続く新しい世界のすべては、主の御手の中にあるのです。
その視点をもって、聖書に書かれている過去を見るとき、私たちは聖書に書かれている未来を確信することができるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」"
マタイの福音書 23章39節
21章から23章にかけては、イエス様のパリサイ人や律法学者たちに対する痛烈な批判の言葉で埋め尽くされています。そしてその最後が今日の箇所です。
「おまえたち」というのは、神から遣わされた神の御子キリスト(イエス)をかたくなに拒み続けるユダヤ人たちを指しています。
ここに書かれていることを裏から見ると、そのユダヤ人たちが再びイエス様を見る時というのがあって、そのときには「主の御名によって来られる方に祝福あれ」と彼らは言う・・ということになります。
イエス様は再び天から迎えに来られ、「イエス・キリスト」というしるしを持つ者たちを、死者もろともご自分のもとに引き上げられる・・。
さらに最後にもう一度、さばかれる方として再び来られ、イエス・キリストのしるしを持つ者を選び分けられる・・。
これが聖書に書かれていることです。
ユダヤ人は、私たち異邦人より一歩遅れてイエス・キリストを認めるようになる・・これが聖書の筋書きなんですね。
神はユダヤ人 (イスラエルの民) を決して見捨てない・・これは初めからの神の約束です。
彼らがまことの父のもとに再び帰って来るときがあるのだと、聖書は言っているんですね。
しかし残念なことに、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14) というのです。
神の全体の計画がある・・それが聖書には書かれているんです。そして私たちはその中に生かされ、そこで「福音」を聞いているのです。
福音というのは、とてもリアルな神の計画の中での話なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。"
マタイの福音書 23章11~12節
今日の箇所から25章の終わりまで、「イエス様の言葉」シリーズに一旦戻ります。
イエス様はパリサイ人や律法学者たちについて、徹底的に糾弾されました。
彼らは自らを高い位置に置いて、それで満足していると・・。
一番偉い者は皆に仕える者になれ・・。
一番偉い者とは、人々の上に立つ人のことです。〜長とか、先生とか、師とか、もっと偉大な感じだと「父」という言葉でその地位を表すわけです。
ですからイエス様は直前でこう言われています。
あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。だれかを自分たちの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません。
あなたがたの先生も師も、それはただ一人、キリストだけだし、父というのは天におられる父だけなのだと・・。
私は大学の先生という立場になって30年近く経ちますが、いまだに「先生」と言われるとなんともくすぐったい感じが消えないんですね。
それは、自分は先生などと呼ばれるにはふさわしくないという感覚があるのと同時に、先生と呼ばれることにある種の心地よさも感じていたりするわけです。
人の上に立つということには大きなリスクがあるように思います。それはもともとふさわしくない称号を与えられるからです。
神の前に出たらただひれ伏すしかない者だとしたら、「先生」という言葉はなんとなくそぐわないのではないでしょうか。言ってみれば「分不相応」であるわけです。
自分を高くすれば低くされる・・。それは、自分を高くするなら周りの人には丸見えだということです。
自分を低くしている人を見るのはなんと心地良いことでしょうか。
そのことをいつも忘れないでいたいものです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)