
賛美歌「主イエスのみそばに」から その2 アップしました。
見たから信じるというのはあり得ない・・という話です
<ミュージシャンにもわかる聖書の話>
https://www.youtube.com/watch?v=vB_8yLME0lY
" イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。"
マタイの福音書 26章42~43節
44節にはもう一度同じことばで三度目の祈りをされたとあります。
イエス様は十字架という杯をお受けになるために、もだえ苦しみながら三度も祈らなければなりませんでした。
イエス様はこのことのために世に来られたんですね。
イエス様は神の子なんだから、十字架をもお受けになる力があるのだし、釘付けにされても、それは忍べるんだと・・そんな風には受け取られないためにも、この祈りの場面は記されなければならないことでした。
この激しい痛みと苦しみは、私たちの罪に対するさばきの姿なんですね。
神の御子イエス・キリストは、私たちの身代わりに痛みと苦しみを受けられたのです。
あの十字架は、私たちが神を怖れず、神を冒涜し、自己中心という傲慢の極みの中に生きる「罪人」であることを示しているんです。
・・私たちもみな 〜 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)
イエス様は父に、これで「彼らをお赦し下さい」と、ご自分がささげ物になられたんですね。
この苦しみがあるからこそ、それがささげ物となるわけです。
神の怒りがあって、その赦しのために御子が人の姿をとって降りてこられた・・。
これが福音で、そこに神の愛が表されているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。
「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」"
マタイの福音書 26章40~41節
イエス様がもだえ苦しむ祈りをされて、弟子たちのところに戻ってこられると、弟子たちは眠っていました。
でも弟子たちが「霊は燃えていても肉は弱い」ということを本当に思い知るのはこのあと、イエス様を見捨てて逃げてしまったときでした。
だから祈っていなさい・・。
しかし、すでに弟子たちは眠りに陥っていました。弟子たちはそれができなかったのです。
弟子たちは全員「失格者」でした。
しかし彼等は後に聖霊を受けてから別人となります。彼等は霊に燃え、主に仕える者と変えられたのです。
霊は燃えていても肉は弱い・・。この「霊」とは自分でがんばる方の霊で、弟子たちが後に受けたのは「上から下った神の霊」なんですね。
あなたの性質をイエス様にふさわしいものに訓練して、それからイエス様のもとに来なさいとは、ひと言も言われてはいないのです。
まずそのままでイエス様のところに行く・・。これが求められていることなんですね。それが「ゆだねる」ということばの意味です。
あなたは良い人であることを求められているのではなくて、あなたが罪深い、弱い者であることを認め、そのままで神のもとに来るなら、そこにはキリストの十字架という、すでにささげられたあがないがあるのだから、安心していらっしゃい・・というわけです。
ここに(神の)愛があるのです・・。(ヨハネの手紙第一4章10節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。
「わが父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"
マタイの福音書 26章39節
「杯」ということばは、聖書の中では神の憤りを象徴することばとして使われています。では神の憤りがイエス様の上にあったということなのでしょうか。もちろんそうではありません。
この杯・・、それは神に背くすべての人の上にある神の憤りの杯なんですね。それをイエス様が受けられるということなんです。
神の御子であるイエス様が、父の憤りの杯を受け、よみに下ろうとしているのです。よみとは、死んだ者が行くところです。それは父から切り離されるということです。
御子が、父の憤りの杯を飲み干す・・。そこにイエス様の「死ぬほどの悲しみ」(38節) がありました。
しかし御子であるイエス様は、この祈りの最後に父の望みの方を選び取られるんですね。・・あなたが望まれるままになさってください・・と。
父は散ってしまった「失われた羊たち」を再びご自分のもとに帰らせる・・それが目的で御子を地上に送られたのです。
それで御子イエス様は、死ぬほどの悲しみの中で、この恐れもあり、激しい痛みと苦しみの杯を受け取るという「父の望み」を選び取りますという祈りをされたというわけです。
父の望みとは、御子を十字架にかけ、死んでよみにくだらせ、三日目によみがえらせ、この御子を人々が受け取ることのできる「救い」とすることでした。
十字架は私たちの罪のためのあがないです。それによって私たちのすべての罪は赦され、この御子によって私たちは古い自分に死に、死を超えた永遠のいのちが与えられるのです。
ひとり子を十字架にかけるという、まさに心が張り裂けんばかりのことを通して、父なる神は私たちへの愛をお示しになったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」"
マタイの福音書 26章36~38節
いよいよイエス様は祈るためにゲツセマネという、神殿近くの園に来られました。
弟子たちを座って待たせ、そこから見えるほどのところにペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれ、祈り始めます。
この三人の前でイエス様は祈られるのですが、それは今までに見たこともないイエス様の姿でした。悲しみもだえ始められた・・と記されています。
イエス様は、人の形をとって来られました。それは単に神が人の姿で来たという以上に、人が肉体において持つその性質をすべて備えた、痛みも悲しみも苦しみも味わうお方として来られたということです。ただひとつ「罪がない」ということだけが人と違うところでした。
ですからそのからだは、これから釘で打たれ、激しい苦しみの中で死に至ることを激しく拒むわけです。
ヘブル人への手紙にはこのように記されています。
" キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、" (5章8~9節)
御子であられるのに・・この一言に、神がなされたことが集約されているんですね。
私たちを帰るべき家に帰らせることが出来るのは、神ご自身のみなんです。
そしてそれは、御怒りのもとにある「人」をご自分のもとに、「罪の赦しを得させてから」帰らせるということだったのです。
ここに私たちは、神というお方とその愛を見るのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。"
マタイの福音書 26章33~35節
イエス様は、このあとにペテロが露呈してしまうその弱さをあらかじめ告げて言われました。
それに対しペテロは、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と、自信満々でした。
しかしその直後に起きた衝撃的な出来事・・イエス様逮捕・・を目の前にして、ペテロはなすすべがありませんでした。それどころか、イエス様が言われた通りのことをしてしまうのです。
ペテロは自分の弱さ、それどころか卑怯なところ、また精神力の弱さをいやというほど見せつけられました。ペテロの鼻っ柱は完全に砕かれたのです。
言うまでもなく、イエス様の弟子たちのリーダーというペテロのプライドも完全に砕かれてしまいました。
しかし、イエス様を天に見送ったあと、弟子たちに激しく聖霊がくだり、ペテロは大胆にイエスがキリストであることを証しし、力あるわざ=奇跡も伴うという人物になったのです。
あのペテロが、神の偉大なみ力をそのまま世の中に表す「神の器(うつわ)」と変えられたのです。
神の器・・それは器だけがあればいいんですね。
内にあった余計なものが粉々になり、それらは捨ててきれいに掃除された空っぽの器になった・・これが神の器の姿です。
自分の弱さを思い知るということ・・、これは実は最大の恵みなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

YouTube ミュージシャンにもわかる聖書の話
GraceCafeたいむ #40 【心が守られるところ】
賛美歌「主イエスのみそばに」から その1・・アップしました。
心の隠れ家、安全な場所がある・・という話です
https://www.youtube.com/watch?v=_Uc0IGkQrdY&t=4s
" そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」"
マタイの福音書 26章31~32節
〜と書いてある・・と、イエス様はゼカリヤ書13章7節の預言を示されました。その13章は次のことばから始まっています。
" その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。”
言うまでもなく、罪と汚れをきよめるのはイエス・キリスト。その他にはいません。羊飼いが打たれるとは、キリストが十字架にかけられ、殺されるということです。そのとき羊は散らされる・・と、ゼカリヤ書には書かれているのです。
こんな具体的なことまで書かれているのかと驚かされます。キリスト来臨の500年前です。
イエス様は、散らされて行く弟子たちのことをご存じでした。その弟子たちに、イエス様は暗にその後の行動を促されているんですね。
「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と。
それは何が起こるかも分かっていない弟子たちに対しての、イエス様のやさしい導きでした。そんな話を十字架という最大の山場を前にして、すでにされていたのです。
聖書のみことばも、これから何が起こるかも分からない私たちに、前もって行くべき道を指し示し、語ってくれているんですね。
イエス様こそが、すぐに迷い出てしまう私たちを優しく導いて下さる、まことの牧者なのだと・・。
混乱の中、恐れの中、不安の中・・。
イエス様はいつもそこにいて、やさしく語って導いてくださるお方なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。"
マタイの福音書 26章30節
最後の晩餐を終え、いよいよオリーブ山へ出かけます。金曜日午前0時〜2時。
ある注解によると、このときに彼等が歌った歌は詩篇の113〜118篇だとありました。
そこは全体が、父、子、聖霊なる神への賛美の言葉に満ちあふれています。
その中にこんな一節があります。
それはイエス様が以前にも弟子たちに、この箇所を引いて話されていたところです。
" 家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。"
詩篇 118篇22~24節
このあと、ユダの代表者とも言える祭司、パリサイ人、律法学者らは、神の子キリストとして、預言者たちによって語っている無数の預言の通りに来られたこの方を捨て、殺してしまうのです。
〜これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ・・とあります。
神が愛したイスラエルは、その御子を捨ててしまうのです。しかしそれは「主がなさったこと」・・。
世の初めからこのことが計画されていたんですね。それは最悪の出来事です。
しかしその日こそが「主が設けられた日」だというのです。
この時こそが、まことの喜びと楽しみへと通じる、まさにその時だったんですね。
神のなさることはいつもそうです。
最悪の事態の上に神の計画があり、しかもそのことを通して神は、思いもよらない祝福を与えてくださるんですね。
この翌々日・・イエス様は死の力を打ち破り、よみがえられるのです。
イエス様をはじめ彼等は、イエス様が十字架にかかられる前に、賛美をしました。
私たちも、どのような時にも主を賛美し、主に感謝するのです。
ハレルヤ! 主の御名をほめたたえます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。"
マタイの福音書 26章27~28節
イエス様が定められたパンと杯(さかずき)の儀式。今日はその二つ目、杯についてです。
パン・・それは、イエス・キリストという方を実際にお迎えしたことで、古い自分に死に、永遠のいのちに生かされる者とされていることを覚えるための、またそのためにご自身のからだを私たちのために与えてくださったという、神の愛を覚えるためのものでした。
そして杯・・。それは「多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」とイエス様は言われました。
それまでのイスラエルの民と神との関係は、自分の罪のために動物のいけにえをもってその都度神の前に出て、その血を流すことでその罪は赦されるというものでした。
しかしイエス様は、ご自身がそのすべての罪のためのいけにえとなり、血を流すのだと言われたのです。しかもそれは「契約の血」だというのです。
これがイエス・キリストの十字架です。
これは今までに聞いたこともなかったことでした。この血によって、すべての人の罪は一切赦されるという契約です。ですからその流された血が、自分のためだと信じる者の上に、その契約は実現するのだというのです。
イエス・キリストによって、人と神との関係は、新しい契約段階に入りました。新約聖書の「約」は、その新しい約束という意味での「約」です。
しかもそれは、神に選ばれたイスラエルの民だけのものではなく、全世界の、神に背を向けるすべての人々のために与えられた約束だというのです。
この杯は、そのことと、そのために御子をつかわされた父なる神の愛を忘れないための杯だというわけです。
パンは私たちに与えられたもの。そして杯は父にささげられたものを表しているんですね。
これで「救い」の完成です。
あとは私たちがそれを受け取るだけというところまで、イエス様がすべてを成し遂げてくださったのです。
結局このパンと杯は、神の愛のすべてを表し、それを覚えるためのものだったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)