" 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。
イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。"
マタイの福音書 26章24~25節
最後の晩餐でイエス様が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と言われた時、ユダは「まさか私ではないでしょう」と言いました。でもその前に他の弟子たちも皆同様に「まさか私では・・」と言ったと記されています。(22節)
よほど自信がなかったのでしょうか。でも現にイエス様が捕らえられた時には、皆ちりぢりばらばらに逃げてしまいます。
ペテロなどは命をかけても付いていきますと言いながら、結局イエス様のことを三度も知らないと言ってしまう有様です。
弟子たちは、自分の弱さや脆(もろ)さを思い知らされました。
イエス様が天に上られた後、一同の上に聖霊がくだって、彼らは大胆に福音を宣べ伝え始めます。そのような大きな働きを任される弟子たちにとって、その力が主なる神から来ているのだということをいつまでも忘れないために、それは必要なことだったのかもしれません。
しかしそんな弟子たちとユダの言葉には違いがひとつありました。
弟子たちはみな「主よ、まさか私ではないでしょう」と言っています。しかしユダは「先生、まさか私ではないでしょう」と言ったと記されています。
ユダはイエス様を「主」と呼ばなかったのです。
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一 12:3 )
イエスを主と呼ぶ・・、そこにはこの方を主なる神とし、心と思いを尽くして仕える、という心があります。そしてそれは聖霊によって実現するのだというのです。
私たちがしなければならないこと・・それは、イエス様を救い主として心から信じ、自分のうちにお迎えすること・・それだけなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)