" 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。"
マタイの福音書 27章39~44節
金曜日の昼前。この光景はイザヤ書に、まるでこの時の解説のようにして書かれている箇所があります。このイザヤ書は、その時から700年も前に書かれたものです。53章3-4節・・
" 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。"
人々はイエス様の十字架の姿を見て、「この人はやはり罰を受けるような者だったんだ」と思ったというわけです。ところが・・と、イザヤ書は続けます。5節・・
"しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎(とが)のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。"
人々は、聖書のことはよく知っていました。祭司たちはその筆頭であるべき人たちだったのですが、まさか自分の目の前で起こっている出来事が、聖書の預言のまさにその成就の瞬間であるとは、思いもしなかったんですね。
彼らの目は「塞がれていた」のです。
キリストの十字架は、わたしたちのためのものなんです。
あれは「私たちの咎(とが)のために砕かれた」、その姿なんです。
そして「その打ち傷のゆえに私たちはいやされる」のです。
それは、イエス・キリストが私たちのすべてとなってくださるお方だからです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。"
マタイの福音書 27章35~37節
金曜日午前9時。
福音書の四人の記者たちは、イエス様が釘付けにされるその時の様子を、だれ一人として言葉にしていません。
囚人が着ていたものを分けるのは兵士たちの特権で、そのこと自体は特別なことではありませんでした。しかし詩篇22篇18節には、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。」とあります。
これはダビデ王が苦難の時の苦しみをうたったものですが、この22篇は「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」という所から始まっています。
これは実に、イエス様が最後に息を引き取られる時に言われた言葉なんですね。
そしてこの22篇の最後には・・
子孫たちは主に仕え 主のことが 世代を越えて語り告げられます。
彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。
・・となっています。
子孫たち、それはキリストの時代から今に至るまで、キリストによって新しくされた者たちのことで、彼らは「主が義を行われたこと」すなわち、主の愛の故になされた十字架と復活のみわざを「生まれてくる民に告げ知らせる」というのです。
詩篇22編はキリストと、その救いの福音が全世界に広がることについての預言なんですね。
そして総督ピラトが書かせた罪状書き、それは思い通りに行かなかったピラトのせめてもの抵抗でしたが、その思惑がどうであろうと、イエスがキリストであるとの宣言が十字架の上に、人々に見えるように、世界中に告げ知らせるように掲げられたのです。
すべては神の御計画の中にあるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。
イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。"
マタイの福音書 27章32~34節
金曜日、午前8時前後。いよいよゴルゴタへの沿道を整えるためにまず兵士が出て行きます。
ゴルゴタには十字架のための柱が三本立てられていました。そして囚人はその場所まで、見せしめとして十字架の横木を担いで行かなければなりませんでした。
先に出ていった兵士は、肉体的に瀕死の状態のイエス様を見るに見かねたのか、担げそうな人を見つけて、彼にその木を無理矢理負わせます。
ゴルゴタまで400メートルほどの道程を歩かれたイエス様のからだは、すでに40度のむちを打たれてぼろぼろでした。
ゴルゴタに着き、兵士たちが十字架の横木を取り付けている間・・彼らはイエス様に苦(にが)みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした、とあります。
これも兵士たちの侮辱の行為の一つと見る向きもありますが、十字架の苦しみを少しでも和らげるためのぶどう酒だという説が有力です。
そのぶどう酒を、イエス様はなめただけで飲もうとはされなかった・・。
イエス様は、苦しみを受け、罰を受けるために・・それは私たちの罪の身代わりとして受けるために・・そのために十字架にかかられたんですね。ですからぶどう酒を飲んで、苦しみを軽減するなら、その意味がなくなってしまうわけです。
イエス様はこのことのために・・十字架にかかられるために、人の形をとって来られたんですね。
受難週に入りました。それは今週の金曜日がその日であることを覚え、この一週間を私たちのために十字架にかかられたキリストを思う週です。
そしてこの暗いニュースの後に、神の栄光が輝く驚くべき出来事が待っているんですね。
ハレルヤ!
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。"
マタイの福音書 27章27~30節
ピラトはイエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した・・とあります。(26節)
むちの先には骨の破片が付けられていました。ですからそのむちで打たれたら、背中の皮などあっという間に破れ、骨が出るほどになります。それだけでも死んでしまうほどの残虐なものでしたから、その回数は40回までと定められていました。
総督の兵士たちはその後イエス様を総督官邸の中に連れて行き、侮辱の限りを尽くします。
人は、目の前の人物が、もう生きるにふさわしくない者だと認識すると、ほんとうにひどいことをするものです。
殺してはならないとか、見下してはならないとか、ごく普通に働くはずの良心というものが、ひとたび外れてしまうと、心の底にかくれていたものが見事にその姿を現すのです。
彼等のしたことは、イエス様を死なせないギリギリの範囲で、体と心をさらに深く傷つけようとするものでした。
心の底にある陰惨な性質・・それは自分でも見たことがないかもしれません。
戦場での残酷な行為・・殺人が合法化されているという異常な環境の中では、国や民族を問わず、そのようなことは多かれ少なかれ、見られることのようです。
人は・・罪びとなんですね。
人は罪から救い出され、その赦しをいただく必要があるんですね。
祈り・・「神様、私の心の奥を照らし、そこにある罪を示して下さい。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"
マタイの福音書 27章25~26節
ピラトが「この人の血について私には責任がない」と言ったのに対し、民は「その人の血は、私たちや子どもたちの上に。」と答えます。
耳を疑うような言葉です。
イエスを死刑にすることの責任は、自分だけでなく、自分の子孫に及んでも良いというのです。
イスラエルの民は常に、神に背き、神を怒らせた結果、神のさばきを目の当たりにし、そしてもう一度神のもとに帰る・・これを何度も何度も繰り返しています。
そして彼等は到頭、神が最後に送られたキリストであるイエスを拒んで、その血の責任は私たちの上にあっても良い・・と言ってしまうのです。
それでも神は、この特別な民イスラエルを決して見放すことはしないと言われているんですね。
詩編にはこのように書かれています。
まことに主はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。(94:14)
しかし残念なことに、このまことの神のもとに居続けようとする者はいつも「少数の者たち」でした。
イエス様は言われました。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイの福音22:14)
そしてこれは、私たちにも当てはめることができるわけです。
この少数の者たちは、自分の意思で、神のもとに立つことを選んだ人たちなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。"
マタイの福音書 27章19~20節
ピラトが裁判の席に着いている時・・それは金曜日の早朝6時頃です。彼の妻は「あの人」イエスのことで夢の中で苦しい目にあい、ピラトがこのことに関わるべきではないことを確信します。そして人を遣わして「あの正しい人」と関わらないで下さいと言いました。
ピラトの妻は夢で、イエスは「正しい人」だと知ったというわけです。
イエス様とそしてバラバ、この二つの存在はどちらも、ユダヤの民衆にとっては期待できる存在でした。死刑囚バラバは闘争によってローマからの独立を果たそうとして、民衆を巻き込んで革命を果たそうとした者でした。当然「群衆」の中にはこのバラバの支持者たちもいたと考えられます。
そしてイエス様については、まさに民衆がこの方こそ来たるべき方「キリスト」で、自分たちをローマの圧政から救い出して下さる方だと期待したわけです。
ですから、祭司長をはじめすべての人々は、来たるべき方キリストが、まさか全人類のための救い主となるために来られたとは夢にも思っていないんですね。
今の世においてもイエス・キリストという人物について、実に様々な評価がなされています。しかしそのすべては「イエスという人」ということが大前提で話されますので、ただ聖書を説明したという「上から目線での話」で終わり、あとには何も残らないわけです。
イエス・キリストが神の子なる神だという前提で語ろうとするのは、聖書とそれを信じた人だけなんですね。結局他の説明はすべて、イエスを葬り去ろうとするというところに立っているんです。これが罪びとの立ち位置なんです。
間違えないで下さい。
イエスは神の子、今も生きて働かれる救い主なる神、キリストなんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。"
マタイの福音書 27章15~18節
群衆が望む囚人を総督が釈放する・・いわゆる恩赦ということが当時から行われていたようです。総督ピラトは「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。」と彼らに問いかけます。
ビラトは確たる証拠をもって判決を下さなければいけないのに、この話を恩赦という方向に持って行ってしまったわけです。
もともと証拠などないことは分かっている・・。しかもそれは彼らのねたみからであることを「知っていた」というのです。
結局裁判をする価値などない案件だけど、これをこじらせると暴動が起きかねない・・。
恩赦の話を出したというのは、ピラトにとって「逃げ道」でしかありませんでした。
結局、正義のためではなく、自分を守るためにこの審判を行ってしまうピラト・・。
罪びとの行動の基本・・、それは自己保身です。
保身という人の行動が原因となり、世の中の不条理や、弱者の犠牲・・それがいつの時代にもずっと続いてきた。これが「この世」なんですね。
そして保身は、自分自身にも何も良いものをもたらしません。
両親の愛の中で安心して暮らしている子どもは、保身のことなどは考えません。
それと同じように、クリスチャンは父なる神の御手と愛の中に安んじている者なんです。
この方への信仰が、保身からの解放をもたらしてくれるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

GraceCafeたいむ #44 【すべてが新しくなる】
・・キリストの愛は掛け値のない愛・・
賛美歌「ためらわずイエスを」から、その1 アップしました・・
https://www.youtube.com/watch?v=rIcJvRqd2F0
" さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」"
マタイの福音書 27章11節
金曜日、午前6時頃。イエス様は縛られたまま総督ピラトの前に立たれます。(2節)
祭司長たちはイエス様が「自分は王キリストだと言っている」と訴えました。(ルカ23:2)
それはローマの皇帝カエサルに対する侮辱で、彼は死刑に値します・・という訴えでした。
総督ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王なのか」と。
それに対しイエス様は「あなたがそう言っています。」と答えられました。新解約聖書の一つ前の版では「そのとおりです」となっています。
この方がことばとしてはわかりやすいのですが、新しい訳では敢えて直訳のことばに変わっています。
あなたがそう言っています・・。その言葉にピラトはハッとしたかもしれません。
それは「あなた自身はどう思っているのか」と迫ることばだからです。
この総督であるピラトも、イエス様にとっては一人の罪深い人間に過ぎなかったわけです。ご自分が審問される場でイエス様はこのピラトに、「真理」に目をしっかり向けることを促されているんですね。
私たちクリスチャンはイエス様のことを「救い主キリストだ」と言っています。
その私たちがイエス様に「あなたがそう言っています」と言われたら、身が引きしまる思いがしませんか。
私たちは、もっともっと真摯に「イエス・キリスト」というお方に向き合わなければならないのではないでしょうか。
もっともっと真心をもって、まことの神というお方に向き合う必要があるのではないでしょうか。
心と知恵と力を尽くして主なる神を愛せよ・・この意味を改めて噛みしめたいものです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)