" 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。"
使徒の働き 2章12~16節
大音響と共に聖霊を受けた人たちは、それぞれが自分が話せるはずのない外国語で神をほめたたえ始めました。それはまるで居酒屋のような騒ぎであったので、彼らは朝から酔っ払っているのだと思う人たちがいました。
そこでペテロは十一人と共に立って声を張り上げて人々に語り始めました。
あの「情けない男」であったはずのペテロの宣教の第一声です。
ペテロはその時受けた聖霊によって確信したんですね。これは聖書のヨエル書にある預言のことばの成就なのだ・・と。(15-21節)
聖霊は私たちの目を開いて、私たちの内に起こった新しいことを見させて下さいます。
そして、それを確証してくれるのがみことばなんですね。
書いてあるとおりでしょ・・と。
人はイエス・キリストによって救われ、新しいいのちに歩む者となります。そしてそれが一体どういうことなのか・・
それを丁寧に説明して確信を持たせてくれるのが「聖書」なんですね。
聖書は神の霊感を受けた、神のことばなんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。"
使徒の働き 2章1~4節
五旬節は過越の祭から50日目。よみがえられたイエス様が多くの人々にご自身を現されたのは40日間ですから、皆が祈っていたのは10日間ということになります。
そこに大音響と共に炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった・・。
祈っていた人々の上に最初に起こったことは、「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」ということでした。
このことから聖霊という存在は、私たちの内に「満ちる」ものなのだということがまずわかります。
そして聖霊は人々に「語らせ」たというのです。ということは、聖霊は人々の内に満ちて何かをさせる働きをするということです。
そして彼らがしたそのことは「他国のいろいろなことばで話し始めた」ということでした。
大きな物音を聞いて集まってきた人々の中には外国からきた者も大勢いました。そして彼らは「私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは」と言って驚いたと書かれています。(7節)
要するに、聖霊を受けた人々は、自分が知らない外国のことばで、しかも「神の大きなみわざ」を語ったのです。(11節)
ここに聖霊がなされることの三番目があります。それは、その人の知識や経験や力によるものではない「神の力の表れ」がそこにあるのだということです。
キリストの教会はこうして始まったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。"
使徒の働き 1章26節
イエス様を天に見送った後、弟子たちはただ主を見上げるようにして礼拝をささげていました。
その時、十二人いた使徒たちは、ユダの裏切りによって十一人となっていました。
ペテロはそのことについて示されたのでしょう。使徒は十二人でなければいけない・・と。
そこで彼らは、イエス様がヨハネからバプテスマを受けた最初の時から行動を共にしていた者から候補を二人立てました。
しかしながらその二人のどちらがふさわしいのかは、主がお決めになることです。
そこで彼らは主にゆだねる祈りをし、くじを引いたというわけです。
十二にこだわる理由は、イスラエルの部族の数に由来します。
黙示録21章に出てくる「天から下ってくる聖なる都、新しいエルサレム」の神殿の高い城壁には十二人の御使いがいて、東西南北に面する十二の門には十二部族の名が記されています。
さらに驚くべきことに、城壁の十二の土台石には「子羊の十二使徒」の名が記されているというのです。すなわちイエス・キリストの十二使徒です。
マッティアは、その十二の土台石の一つに名が記されることになったというわけです。
これはヨハネが後に天からの啓示によって示されたこと(黙示録)ですから、マッティアはそれを知る由もありません。
神はあなたが思ってもいない、大きな大切なみわざを託される方なんですね。
神を愛し、神を慕い、神に仕えたいという思いは、あなたの想像をはるかに超えた、栄えある務めにつながっているのです。
神が自分をどのように用いようとしておられるのか・・。
それは今わからなくても、神に尋ね求めていくべきことなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。"
使徒の働き 1章12~14節
イエス様が目の前で天にのぼられ、そして天使が現れ、イエス様は同じ有様で再び来られると告げられた彼ら・・。
そして近くの宿まで戻って「屋上の部屋」に上がったその時の彼らの祈りとは、どんなものだったのでしょうか。
おそらく神への畏れの中で、ただその前にひれ伏すのみだったのではないでしょうか。
どんなことばもふさわしいことばが見つからない・・。
それは互いに何か話をするなどという空気とはほど遠い、ただ主を見つめるしかない、そんな礼拝の時間がずっと続いたのではないでしょうか。
この圧倒的な礼拝が十日間続けられたとき、ものすごい大音響と共に、聖霊が炎のようにひとりひとりの上に臨んだのです。
〜 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで 〜 (8節)
その時彼らは「イエス・キリストの証人」となっていたのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
使徒の働き 1章9~11節
今地上で見ていたイエス様が雲の高さまで上がって行かれた・・。そして雲がイエス様を包んで、もう見えなくなったというのです。
ですから使徒たちは空を見上げていました。そして、そこから目が離せないでいたんですね。「見つめていた」のです。
そこに天使が二人現れて言いました。どうして天を見上げて立っているのか・・。
それは、「さあ心を切り替えなさい。今はもう、天を見上げて立っているときではなくて、同じ有様で再び来られるイエス様を待つという、新しい段階に世界が切り替わったのです」ということでした。
イエス様は、ご自分に属する者 (クリスチャン) を再び「雲に乗って」迎えに来られるというのです。そのとき既に死んだ者たちはよみがえり、その時生きている人と共に天に引き上げられるのだと。
イエス様がよみがえられて天にのぼられたというこの出来事は、そのことを保証するものでもあったんですね。
" 神に向かって歌い御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主。その御前で喜び躍れ。" (詩篇68:4)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

わたしが来たのは〜罪びとを招くためです。(イエス・キリスト) ・・究極のパラドックスの世界です。
GraceCafeたいむ #49 【招かれている人】
賛美歌「主とともに歩む」その2 アップしました・・
みなさまのお越しをお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=ko6N8uWmJEA
" そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。"
使徒の働き 1章6~7節
使徒たちが一緒に集まったときにイエス様に尋ねた・・ということは、それが彼らの一番の関心事だったということがわかります。
主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。・・
イエス様に「父の約束を待っていなさい」と言われた彼らの思いは、これでイスラエルの国がローマから開放されて、名実ともに神の国となる・・という期待でした。
しかしイエス様のお答えは、「あなたがたは聖霊を受け、そして地の果てまで、わたしの証人になる」という、彼らの期待にはつながりようのない内容でした。
神のご計画とは、常に私たちの想像力や限界をはるかに超えたものなんですね。
ですからそれが聖書にはっきり書いてあっても、弟子たちも私たちも、それを受け止めるのはとても難しいことなのです。
「聖霊があなた方に臨むとき、あなたがたは力を受け、〜 さらに地の果てまで、わたしの証人となります」・・
それは聖霊というお方が、私たちの限界のある理解力を越えて、私たちの目を開かせ、見えないことを示して下さるお方だということなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。
〜 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4-5節、8節
これはイエス様が天に上られるまさにその時に、弟子たちに言われたことです。
それは、あなたがたはまもなく「聖霊によるバプテスマ」を授かるから、エルサレムを離れないでそれを待っていなさい(4節) ということでした。
水によるバプテスマ(洗礼) では水に浸(ひた)ります。ですから聖霊のバプテスマというのは「聖霊に浸る」ということです。
その時にあなた方は力を受ける。そして「わたしの証人」すなわち「イエス・キリストを宣べ伝える人」になり、それはエルサレムから発し、地の果てに至るすべての人にまで伝わって行くというのです。
伝道する力は神から来るということです。
イエス・キリストのことが人に伝わる・・それは単なる宣伝活動や努力によって実現するという、営業的なものとはまったく別物です。
ですからそのために祈りが必要なんですね。
彼らが聖霊のバプテスマを授かった時、彼らは祈っていました。
聖霊の働きがなかったら、神に背を向ける人々が神の方に振り返り、信じてみよう思う・・その様なことは起こり得ないのです。
これからしばらくの間、この聖霊の働きをご一緒に見て行きましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。
それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。"
使徒の働き 1章1~2節
今日から、ルカの福音書に続き、「使徒の働き」に入ろうと思います。
この「使徒の働き」もルカによって書かれたもので、ルカの福音書の続編でもあることが、両方とも「テオフィロ」という身分の高いと思われる個人に宛てて書れていることから分かります。
書物の名は「使徒の働き」となっていますが、実際に出てくる「使徒」はペテロとパウロを中心とした人たちで、実際には少なくとも12使徒がいたわけですから、ほかにも後世に伝えられていない、多くの働きがあったはずです。
実はこの書物は、誰がどのような働きをしたかということよりも、聖霊がどのように働かれたのかということを書こうとしているんですね。
ルカが書いたこの二つの書物が聖書の中の他の書物と異なるところ・・、それはひとりの人物のために書かれたという点です。
しかしそれらが聖書66巻の中の二つの書物として加えられ、全世界の、そして2000年の歴史の中の数え切れない人々に読まれることとなったんですね。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストについて証言をするように神から召された者たちです。そして、たとえその証言相手が「ひとりの人」であっても、神様がそれを用いられると、とんでもない大きな働きにつながる・・、このルカの書物はそれを私たちに示してくれているのではないでしょうか。
これからしばらくの間、聖霊がされたみわざについてご一緒に見て行きましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
いつも宮にいて神をほめたたえていた。"
ルカの福音書 24章52~53節
弟子たちが天に上げられて行くイエス様を礼拝した・・、その後の話です。
弟子たちは、自分たちを捕らえようとしている者がいるのではないかと恐れて部屋に鍵をかけて集まっていたのですが、よみがえられたイエス様に導かれてガリラヤに戻るなど、外に出て行くようになり、そこでもイエス様にお会いし、そして最後にはオリーブ山の麓のベタニアでイエス様を天に見送ります。
自分の身を守ることと恐れで一杯になっていた彼らは、今や大きな喜びとともにエルサレムに帰りました。
宮にいて・・それは多くの人々の前でということです。そして人々が「神を礼拝する」その場所で、イエスの弟子として喜んで堂々と、神を礼拝する者となっていたのです。
彼らの態勢は整いました。
その十日後です・・。約束の助け主、聖霊が激しく彼らに下り、彼らはイエスとはどういうお方なのかということをはっきり証言するようになったのです。
彼らの喜び・・それは「私たちは礼拝すべきお方を確信できた」という喜びだったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)