" そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。"
使徒の働き 1章6~7節
使徒たちが一緒に集まったときにイエス様に尋ねた・・ということは、それが彼らの一番の関心事だったということがわかります。
主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。・・
イエス様に「父の約束を待っていなさい」と言われた彼らの思いは、これでイスラエルの国がローマから開放されて、名実ともに神の国となる・・という期待でした。
しかしイエス様のお答えは、「あなたがたは聖霊を受け、そして地の果てまで、わたしの証人になる」という、彼らの期待にはつながりようのない内容でした。
神のご計画とは、常に私たちの想像力や限界をはるかに超えたものなんですね。
ですからそれが聖書にはっきり書いてあっても、弟子たちも私たちも、それを受け止めるのはとても難しいことなのです。
「聖霊があなた方に臨むとき、あなたがたは力を受け、〜 さらに地の果てまで、わたしの証人となります」・・
それは聖霊というお方が、私たちの限界のある理解力を越えて、私たちの目を開かせ、見えないことを示して下さるお方だということなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。
〜 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4-5節、8節
これはイエス様が天に上られるまさにその時に、弟子たちに言われたことです。
それは、あなたがたはまもなく「聖霊によるバプテスマ」を授かるから、エルサレムを離れないでそれを待っていなさい(4節) ということでした。
水によるバプテスマ(洗礼) では水に浸(ひた)ります。ですから聖霊のバプテスマというのは「聖霊に浸る」ということです。
その時にあなた方は力を受ける。そして「わたしの証人」すなわち「イエス・キリストを宣べ伝える人」になり、それはエルサレムから発し、地の果てに至るすべての人にまで伝わって行くというのです。
伝道する力は神から来るということです。
イエス・キリストのことが人に伝わる・・それは単なる宣伝活動や努力によって実現するという、営業的なものとはまったく別物です。
ですからそのために祈りが必要なんですね。
彼らが聖霊のバプテスマを授かった時、彼らは祈っていました。
聖霊の働きがなかったら、神に背を向ける人々が神の方に振り返り、信じてみよう思う・・その様なことは起こり得ないのです。
これからしばらくの間、この聖霊の働きをご一緒に見て行きましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。
それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。"
使徒の働き 1章1~2節
今日から、ルカの福音書に続き、「使徒の働き」に入ろうと思います。
この「使徒の働き」もルカによって書かれたもので、ルカの福音書の続編でもあることが、両方とも「テオフィロ」という身分の高いと思われる個人に宛てて書れていることから分かります。
書物の名は「使徒の働き」となっていますが、実際に出てくる「使徒」はペテロとパウロを中心とした人たちで、実際には少なくとも12使徒がいたわけですから、ほかにも後世に伝えられていない、多くの働きがあったはずです。
実はこの書物は、誰がどのような働きをしたかということよりも、聖霊がどのように働かれたのかということを書こうとしているんですね。
ルカが書いたこの二つの書物が聖書の中の他の書物と異なるところ・・、それはひとりの人物のために書かれたという点です。
しかしそれらが聖書66巻の中の二つの書物として加えられ、全世界の、そして2000年の歴史の中の数え切れない人々に読まれることとなったんですね。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストについて証言をするように神から召された者たちです。そして、たとえその証言相手が「ひとりの人」であっても、神様がそれを用いられると、とんでもない大きな働きにつながる・・、このルカの書物はそれを私たちに示してくれているのではないでしょうか。
これからしばらくの間、聖霊がされたみわざについてご一緒に見て行きましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
いつも宮にいて神をほめたたえていた。"
ルカの福音書 24章52~53節
弟子たちが天に上げられて行くイエス様を礼拝した・・、その後の話です。
弟子たちは、自分たちを捕らえようとしている者がいるのではないかと恐れて部屋に鍵をかけて集まっていたのですが、よみがえられたイエス様に導かれてガリラヤに戻るなど、外に出て行くようになり、そこでもイエス様にお会いし、そして最後にはオリーブ山の麓のベタニアでイエス様を天に見送ります。
自分の身を守ることと恐れで一杯になっていた彼らは、今や大きな喜びとともにエルサレムに帰りました。
宮にいて・・それは多くの人々の前でということです。そして人々が「神を礼拝する」その場所で、イエスの弟子として喜んで堂々と、神を礼拝する者となっていたのです。
彼らの態勢は整いました。
その十日後です・・。約束の助け主、聖霊が激しく彼らに下り、彼らはイエスとはどういうお方なのかということをはっきり証言するようになったのです。
彼らの喜び・・それは「私たちは礼拝すべきお方を確信できた」という喜びだったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。"
ルカの福音書 24章50~51節
キリストは、地上に人の子の形をとって来られ、その目的を果たされた後、初めからおられた「神の右の座」に帰られました。
イエス様ご自身、ご自分がそのキリストであることを、祭司長カヤパの尋問を受けた時にはっきりおっしゃっています。
" だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」" (ルカ22:69)
さらにイエス様はご自身についてはっきりと証言されています。
" 彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」" (ルカ22:70)
イエス様は「神の子である神」であることを自ら証言され、そして弟子たちの見ている前で天にのぼられたのです。
イエス様はここまで丁寧に、ご自身がどういう方であるかということを最後まで弟子たちに見せて示されたんですね。
さらにそれは、イエス・キリストを信じる私たちも、同じようにして神のみもとに帰るということを、これ以上ないというほどにはっきりした形で、それを示し、その約束が本当であることを見せて下さったのです。
イエス・キリストは再び来られ、そのときには、私たちをイエス様と同じようにしてよみがえらせ、天に引き上げてご自身のもとに迎えてくださる・・これが聖書に書かれている約束なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

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" 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」"
ルカの福音書 24章49節
この「高きところから着せられる力」について、ヨハネがかなり詳しく福音書で書いています。
" そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。” (14章16節)
・・ここでは「高きところから着せられる力」のことを「助け主」と言っています。そして父は、その助け主がいつまでもともにおられるようにしてくださるというのです。
" しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。" (14章26節)
・・この助け主とは聖霊のことであり、その聖霊があなたの心の目を開いてすべてのことを教え、以前にイエス様が話しても全然ピンとこなかったことの意味もはっきり分かるようになる、というのです。さらに・・
”わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。" (15章26節)
・・聖霊はイエス様が父のところから遣わすのであり、そこで分かることの核心は、イエス・キリストがどういうお方なのかということだというのです。
彼らが都にとどまって祈りはじめ、その助け主が天から突然激しい力を伴って来られたのが、その十日後でした。
この時から弟子たちは、イエス・キリストについて大胆に語り始めるんですね。
イエス様は言われています。「聖霊を求めなさい」と。(ルカ11:13)
だったら私たちも熱心に求めようではありませんか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。"
ルカの福音書 24章45~48節
イエス様はよみがえられた後に、改めて弟子たちに教えのことばを述べられました。
そしてこのことを話されたのは、彼らに「聖書を悟らせるため」だというのです。
彼らは聖書が本当はどんなものなのか、まだ「悟っていなかった」んですね。
聖書にはキリストのことが書かれていて、そこに書かれていることはすべて実現しなければならないということ。さらに、今聖書を手にするあなたがそこに書かれていることの担い手となるのだ・・ということをイエス様は話されたわけです。(44-48節)
実は彼らは、聖書に対して心を開いていなかった・・。
その彼らの心を「イエス様が開いて」と、ここには書いてあるわけです。
聖書がまだ、あまりに大きな存在で、自分でそれを受け取れるような気がしないという方は多くおられるのではないでしょうか。
聖書に心を開くこと・・ひょっとしたら、それがあなたにとって必要なことなのかもしれません。
しかし心を開くというのは、イエス様がしてくださることなのだと、ここには書いてあるわけです。
だったらそれをしてくださる方に願いましょう。
「主よ。わたしが聖書に心を開き、大きく口を開けて、あなたのみことばを受け取れるようにして下さい」と。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」"
ルカの福音書 24章44節
鍵のかかった部屋にいたところにイエス様が現れて、ただただ驚いている弟子たちに話を始められます。
モーセと律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりませんと、わたしはあなた方に常々話していたでしょう・・と。
モーセの律法と預言者たちの書と詩篇とは旧約聖書のことです。
その聖書にはやがて来られるキリストについてのことが書かれていて、今がまさにその第一幕が開けて、それが目の前に起こっているのだというわけです。
この後、世界中にイエス・キリストが宣べ伝えられていく時代が来ます。
イエス様はこの後天に上られ、神の右の座に着かれますが、もう一度来られるということが聖書には書かれています。
イエス様はそれもこれもすべてが「成就しなければなりません」と言われたのです。
それは、これらのことがすべて神の計画の中にあり、すのすべては神の権威のもとで確実に進められていくのだという意味です。
なぜか、いつの世にも戦争はなくならず、悲惨なことは起こり続けています。しかしその中で神は、人が神に立ち返る機会を与えられている・・。
これが創造主なるお方がなされることで、私たちが口を挟む領域のことではないんですね。
すべては創造主の権威の中で進められる・・。
そう考えた時「すべて成就しなければなりません」というイエス様のことばはいきなり権威を帯びた響きとなって私たちに迫ってくるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」"
ルカの福音書 24章36~39節
ヨハネによれば、皆が集まっているこの部屋の扉にはいつも鍵がかけられていました。そこにイエス様が突然「真ん中に立たれた」んですね。
幽霊だと思っても仕方がないかもしれません。でもイエス様は「どうして心に疑いを抱くのですか」と言われ、ご自分のからだを弟子たちに見せ、さわらせ、さらに魚を食べられたというのです。(43節)
イエス様のからだには、確かに骨や肉がありました。ですが同時に、鍵のかかった部屋に突然入ってこられたり、パウロによれば、500人の弟子たちに同時に現れるというようなお方でした。(第一コリント15:6)
イエス様は「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(第一コリント15:20)
・・そのことの意味は、私たちが与えられる復活のからだをイエス様が先頭を切って「初穂」として見せて下さったということです。
そしてそのイエス様は、弟子たちが見ている前で天に上げられました。(51節)
さらにそのイエス様は再び私たちを迎えに来られ、その時には私たちを空中に引き上げられるというのです。(第一テサロニケ4:17)
ですからイエス様は、死からの復活と同時に「天に上っていつまでも主とともにいる」というところまでも含め、その「初穂」となられ、私たちに見せてくださったということなんですね。
なんだかわくわくしてきます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)