" 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。
そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。"
使徒の働き 4章13~14節
有能な人が何かを成し遂げると、人々はその人を賞賛します。
しかし、そんなことを成し遂げるなんてあり得ないと思える人がそれをした時には、人々はその人を賞賛するのではなくて、その力はどこから来たのだろう・・と思うわけです。
十二弟子たちの多くはガラリヤの田舎の人々でした。
もし彼らが、華やかなエルサレムで活動する地位のある人だったら、人々は彼らに敬意を払ったかもしれません。しかし主は、人々に注目されそうな人は選ばれなかったんですね。
与えられた能力、地位・・それは人によって差異があります。
それで人は劣等感を持ったり挫折を味わったりするかもしれませんが、神はむしろ自分に誇ることが何もないような者を選ばれたのです。
オリンピックで金メダルを取った瞬間、指で天を指して、この栄光は神にあるのだと全世界に表明する人と、拳を振り上げて、自分の努力と力がこの勝利を勝ち取ったんだということを誇示する人・・。それはおなじ金メダルでも、正反対の金メダルなんですね。
その勝利は、神が与えられたものなのです。
でもそれは、自分の無力さや罪深さを思い知って神に近付いて行った人でなければ、決してわからないんですね。
今こうして生かされ、空気を吸って生きている・・。
そのことを神に感謝する者となるなら・・、
あなたはまことの金メダル保持者となったのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

GraceCafeたいむ #54 【十字架は入り口】 アップしました。
〜 入るのは「今」〜
https://www.youtube.com/watch?v=cavEyd1E6uI
God Bless You !
" この方以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」"
使徒の働き 4章12節
ペテロが捕らえられた時、弁明したその話の最後は「救い」のことでした。
救いとはなんでしょうか。
それは、まことのいのちである神のもとに帰ることです。
そこに帰ることがどうして救いなのでしょうか。
それは「罪の縄目」「悪の世界」「死」そして「滅び」からの解放だからです。
聖書には、この天地の初めから終わりまでのことが記されています。
そしてその最後のときにはすべての死者がよみがえり、それぞれ自分の行いに応じてさばかれるのだと書かれています。
また地上を汚染し続けたすべての悪とその根源である悪魔は、その時になって初めて完全に滅ぼされ、「死」も滅ぼされ、そしてよみ (死んだ者が行くところ) さえも滅ぼされるという、すべてのもののリセットがここにあるというのです。(黙示録20:12-14)
悪という悪が消え去り、新天新地が与えられ、「いのちの書に名が記されている人」がその住民となるのだと・・。
人々はこの地上において、悪の支配と死への恐れの中で罪に縛られ、滅びに向かって歩んでいるというのです。
そしてその私たちのために、そこから解放されて神のみもとに帰る道が備えられた。・・これが福音です。
しかしその情報は、今この地上での歩みの中でのみ、受け取ることができるんですね。
もしそれを受け取るならば、その人はその時から、最後に与えられる神の祝福の前味を味わいつつ、この地上を歩む者とされるというのです。
それは、この地上における「父の家に帰ることの確定」です。
これが救いです。
いのちの書に名が記される・・それは、イエス・キリストを救い主として信じることに他なりません。
「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」のです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。〜 」”
使徒の働き 4章10~11節
ペテロとヨハネは捕らえられ、話をする機会が与えられました。
そしてそこには、「ナザレのイエス・キリストの名によって立ちなさい」というペテロのことばで即座にいやされた「生まれつき足の萎えた人」が一緒に立っていました。
ペテロはここでも聖書のことばを引いて話をします。
" 家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。" (詩篇118篇22~23節)
家を建てる者たちとは、イエスを捕らえた指導者たち。そして捨てた石とはイエス様のことです。
要の石とは、神の宮を本当に建て上げるための土台という意味で、神と人々との関係を永遠に不動のものとするための石を意味します。
結局あなた方が捨てたイエスこそがその石なのだとペテロは主張しているわけです。
そしてこの方は、死からよみがえるという不思議な出来事をもって、ご自身がキリストであることを示されたのだと。
そしてその方の御名がこの人を癒やし、あなたがたは今それを目の前に見ているのです・・と。
結局ペテロは、イエスをキリストと認めるのかそうでないのかを、ユダヤ人たちに迫ったわけです。
それは ○かXかのどちらかで答えるしかないものでした。
福音とは結局、イエスを救い主キリストと認めるかということを、一人ひとりに問いかけているものなんですね。
認めるなら、あとは信じてその方を心にお迎えすることで、新しい生活が始まるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。
彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた。
そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。"
使徒の働き 4章1~4節
「祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たち」とは神殿関係の人々で、サドカイ人は祭司系の富裕層であり、しかも政治的な権力者でもありました。
彼らは神殿関係と言っても、本当の祭司家系とは別の家系の者で、イスラエルを導いてきた神との関連という意味においては、ほとんど内実のないものでした。
そして彼らはモーセの書の十戒の部分だけを重要視し、律法を守るということにひたすら専念していた人たちでした。
彼らには復活という概念はどこにもなかったんですね。
自分たちの考えと異なる考えの人々の集団が、一夜にして目の前に現れたわけです。教会はこの時すでに、五千人になっていました。
彼らにとってこれらの人々は、ただ自分たちの座を脅かすという存在でしかありませんでした。
キリスト教の歴史は、ただ権力者の都合で迫害されるか、あるいは擁護されてきました。「キリスト教」は統治のための道具とされ、統治者にとってそこにある真理についてなど、どうでも良かったのです。
しかし迫害の中で、人をまことの神に立ち返らせる福音は力強く広がって行きました。
現在でも、教会生活がただの生活スタイルではなく真の信仰に基づいて力強く増え広がっている所があります。
それはあの中国の地下教会(カトリック)、家の教会(プロテスタント)で、政府にではなく、まことの神に忠誠を誓うという彼らの数は一億にも及ぶと言われています。
私たちの目にマイナスであるという状況の中で、神の計画は水面下で力強く進められていくんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。」"
使徒の働き 3章26節
「そのしもべ」とはいうまでもなく、イエス・キリストのことです。
ですがそれは、「神のもとから遣わされた」という意味に於いて使われていることばですので、「神の御子である神」というイエス・キリストの神性を否定するものではありません。
ここでは「一人ひとり」をという言葉に注目してみましょう。
世間の人々はこの聖書の信仰について「宗教」という見方をし、世にある様々な宗教の中の一つだという捉え方をします。
しかし、聖書の神はもともと、ご自身が天地のすべてを造られた創造主なる神であることを自ら主張されるお方です。
他の「宗教」が教えるどのような存在から見ても、この神は絶対的にその上におられる「すべての支配と権威のかしら」なるお方なんですね。(コロサイ2:10)
そして驚くべきことに、その方があなた方「一人ひとり」に関わってくださるのというです。
神はあなた個人を見ておられ、初めに人を造られたその目的に従って、あなたをご自身のもとに帰ることが出来るように手を差し伸ばしておられる・・これが福音です。
救いは家の宗教とも関係なく、家族とも関係のない、あくまでも個人の問題で、それは創造主なるまことの神のもとに「一人ひとり」が立ち返る・・そういう話なんですね。
すべては「あなた」の心の向きから始まるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。"
使徒の働き 3章25節
あなたがたは神が契約を結ばれた多くの預言者たちの子なのだ・・とペテロはユダヤ人たちに語ります。
神はイスラエルの民に対して至る所で契約すなわち「大いなる祝福の約束」をしています。
この祝福の約束は、あのソロモンの黄金時代に成就したかと思いきや、イスラエル王国のその後は崩壊の一途をたどってしまいます。
王国は南北に分裂し、結局は両方とも大帝国の侵略を受け、捕囚の民として連れ去られてしまいます。
そしてその中の一部の人は、神の不思議な導きによってエルサレムに帰り、神殿を再建し、イエス様が来られた時代に至っています。
その人たちがその当時の「ユダヤ人」なんですね。
彼らは、ローマ帝国の属国という屈辱的な立場に甘んじなければいけないという状況でした。
ところが神は、アブラハムに対して何度も何度も祝福の約束をしておられるのです。
それは、イスラエルだけではなく「地のすべての民族」の祝福の約束だったんですね。しかもそれは「あなた(アブラハム)の子孫によって」・・というのです。
この「子孫」こそが、神が最後に遣わされた御子イエス・キリストのことだというわけです。
ところがこのユダヤ人の国はこの40年後には壊滅させられてしまいます。
しかしそういう状況の中で、神の約束は確実に成就していくんですね。
人々は散り散りばらばらになると同時に、キリスト・イエスの救いの知らせは世界中に広がって行き、結局「地のすべての民族」が「アブラハムの子孫」イエス・キリストによる救いの福音を受け取ることになって、今に至っているのです。
これが人類史上最大の、神が約束された祝福です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
【神の愛とは】
〜 十字架は神の愛のしるしだった 〜
賛美歌「十字架のかげに」から、その2
アップしました・・
みなさまのお越しをお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=NVo3-C-BDK4
" そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。
このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。"
使徒の働き 3章20~21節
教会が誕生した直後のペテロの説教の続きです。
御前から回復の時が来る・・それはキリストが再び来られ、キリストにあるすべての者たちをよみがえらせ、空中に引き上げるという「携挙(けいきょ)」と言われる時。(第一テサロニケ4:16-17)
さらにその後にある「刈り取りの時」。それは終わりの時に主が地上に鎌を投げて「実った穀物」を刈り取る時。(黙示録14:16)
これらはどちらも、主イエス・キリストが聖徒たちをみもとに集めるという「御前から来る回復の時」です。
そして「万物が改まる時」・・それはこの世のすべてのものが「改まる時」という意味ですが、それは「神が昔から預言者たちの口を通して語られていた」時なのだとペテロは言っています。
黙示録には千年王国という「メシヤ王国」のことが記されていますが、それはこの地上に於いてのことです。ですからそれはまだ「万物が改まる時」ではありません。
そのあとに「新しい天と地」天のエルサレムが「万物」に取って代わるときが来るということが黙示録には記されています。これこそが「万物が改まる時」と言えます。
そのときイエス・キリストは「都の明かり」となるというのです。(黙示録21:23)
それは「それまでキリストは天にとどまっていなければなりません」という、ペトラのことばと一致します。
ペテロは実に、イエス・キリストについての説教のはじめから、世の終わりに至るすべてのこと、そしてその先の永遠のことまでを、この短いことばですでに言い表していたのです。
そしてそれはすべて、今の私たちにも語られている言葉なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています。
しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。
ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。"
使徒の働き 3章17~19節
ペテロが語った相手は、イエス様が十字架にかけられる際に「自分たちの指導者」の側に立っていた人たちでした。
結局キリストを十字架にかけたのはあなた方なんですよというのが、ペテロの指摘です。
続いてペテロは、聖書の預言者たちが言っていたのは全部この時のことなのですよと、聖書を解き明かして話を始めます。
あなたがたは聖書を知っていながら指導者たちの言うことを鵜呑みにし、結局神に敵対する人々の側に回り、イスラエルの民が今までやってきたことをそのまま繰り返し・・いや、繰り返すどころか、最後に父が遣わされた御子を殺すということをしてしまったのです・・と。
「ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。」
これは結局、世界中の人々に向けてのメッセージの核をなす部分なんですね。
あなたがたは世の流れに従って、自分のことで精一杯になっているけど、「神」はおられるんですよ。
あなたがたはその神を完全に無視し、ないものとして歩んでいます。
しかし神はそのあなた方に赦しを与えられた方なんです・・。
あなたがたはそれを受け取りなさい。
「そうすれば、あなた方の罪はぬぐい去られます」、そして神のもとに帰る者となるのです・・と。
「悔い改めて」・・その意味は、「神がおられる」という方向に心の向きを変えるということなんですね。
神は、あなた方がご自身のもとに帰るための道を用意されたのです。
Bless You ! (神様の祝福がありますように!)