" また、神は次のように言われました。『彼の子孫は他国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。』
また、神は言われました。『彼らが奴隷として仕えるその国民を、わたしはさばく。それから彼らは出て来て、この場所でわたしに仕えるようになる。』"
使徒の働き 7章6~7節
ステパノはイスラエルの民の歴史を語り始めた・・、その続きです。
神がアブラハムに語られたこと・・、それは「後に起きること」でした。
アブラハムにまだ世継ぎの子もいませんでした。その時に神はこの一族の将来について語られたのです。それはアブラハムの想像の限度を超えた、しかも千年も先までのことでした。
そして実際にその通りの歩みをイスラエルはたどるのです。
アブラハムにこのことを告げた神は、ご自身で次ように言われるお方です。
" わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べ立ててみよ。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ。" (イザヤ書44:7)
そして驚くべきことに、この神は今の私たちにもそれに匹敵することを語られているんですね。
それは世の終わりの時についてです。
このことも私たちの想像の限度をを超えたことです。
神は、この天地を造られ、その始めから終わりまでをその御手のうちに収められるお方。
そして最後には、「主の民」を永遠のパラダイスに入れられるというのです。
聖書には、神のすべての計画が記されているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されましたが、
ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。しかし神は、まだ子がいなかった彼に対して、この地を彼とその後の子孫に所有地として与えることを約束されました。"
使徒の働き 7章4~5節
ステパノの弁明が始まりました。それはほとんどがアブラハムに始まるイスラエルの歴史でした。
アブラハムが導かれてきた地、それは後にイスラエル民族が栄華を極めたカナンの地というところでした。現在のイスラエルという国があるところです。
ところがその地はアブラハムには相続財産としては与えられていませんでした。
主がアブラハムに現れ、妻のサラを通して子が生まれ、その子から諸々の民の王たちが生まれるのだと告げられたとき、「アブラハムは、ひれ伏して笑った」と創世記には記されています。(17:17)
その時、アブラハムは100歳、妻のサラは90歳だったからです。
しかし「彼とその後の子孫に所有地として与える」という約束は千年後に、ダビデによりイスラエルの王国が確立することで成就するのです。
信じる者への神の約束、、それはすべて祝福の約束なのです。
ところが神は、どこからどう見ても無理という状況の中で、その約束を実現されるんですね。
これは実は主がなさる「いつものやり方」なんです。
そしてそれは、イエス・キリストを信じた者の歩みにおいても同じなのです。
導かれる主は「同じ主なる神」ですから・・。
あり得ないと思える状況の中にあっても主を信じて歩む者・・。
主はその人に、ご自身が生ける神で、その者を祝福をもって確実に導かれる方であることを見せて下さるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。"
使徒の働き 7章2~3節
ステパノはユダヤの指導者たちの前で弁明を始めたのですが、それは実にアブラハムというひとりの人から始まるイスラエル民族の歴史をたどるというものでした。
まずそのはじめが、アブラハムに臨んだ神のことばです。
それは「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1 ) というものでした。
神はひとりの人を選んで、そして今までいたその環境をすべて捨て、「わたしが示す地に行きなさい」と言われたのです。
ここに主なる神が直接人に臨んで、その壮大な計画を始める出発点がありました。
神が人に語りかけ、そして人がそれに従い、神の計画しておられる祝福を受け取るという、「新しい旅」です。
アブラハムは自分がどこに行って、どうなるかも知りませんでしたが、神のことばを信じ、その一歩を踏み出します。
そしてその歩みの中で、アブラハムはこの神が自分を顧み、そして守りとなり、特別に計画をもってその歩みを導かれるのを実際に見るようになるわけです。
それは実は、私たちの信仰生活そのものを表しているんですね。
それは古いものに決別した「新しい歩み」であり、そしてそれがどこへ行くかもわからない・・それが常にその出発点なんですね。
私たちは初めて「神のことばを聞いて従う」という経験をします。
そしてそれによって、神が生きてともにいてくださることを見ながら歩むという、驚きの生活が始まるんですね。
この神こそ、まことに生きておられ、私たちのような小さな者を顧みて、そこに祝福の計画をもって臨んでくださるお方なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
GraceCafeたいむ #58 【思いが変わる】
〜 御霊の想いは、いのちと平安 〜
賛美歌「御霊は天(あめ)より」から、その3
アップしました・・
みなさまのお越しをお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=JSC-JB3gBRw
" 大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。
するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。〜
使徒の働き 7章1~2節
ステパノは捕らえられ、偽りの証人の言葉を聞いて、返って聖霊に満たされて語り始めました。
この弁明は7章全体に及び、とても長いものです。
なぜそんなに長くなったのかというと、その話が、神が今までイスラエルを導いてこられたはじめからの経緯の話だったからです。
神が、どれだけ忍耐をもって私たちイスラエルの民を導いてこられたか・・。
ところがイスラエルの先祖は常に神に逆らい、神から離れ、神が使わした者を殺してきたのです・・と。
これを聞いていた祭司長をはじめとする「イエス否定派」は、はらわたが煮えくりかえり、彼をそのまま引きずり出して石で撃ち殺してしまうのです。
ステパノの話には本当は続きがあって、神に背く罪を赦すために父である神は御子イエスを送ってくださったのだという話になるはずでした。
しかし彼らはその話を最後まで聴くことが出来ませんでした。自分が罪びとの仲間だという話には絶えられなかったのです。
祭司たちの中にはイエスを信じる者も大勢いました。(6章7節)
方やイエスの証人であるステパノを殺してしまう人たちがいたわけです。
福音は人を二分するんですね。
神は、罪びとであることを知った時に自分を弁護するのではなく、神のもとに涙を流して帰ってくる者を探しておられるのです。
その赦しを受け取るか否かは、あなたに委ねられている・・。
実にそれが、神がなさろうとしている「御国の民」の選び方なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。"
使徒の働き 6章13~15節
ステパノは捕らえられ、「偽りの証人」が彼を訴えました。
この訴え・・どこかで聞いた感じがするなと思ったらそれは、イエス様が捕らえられた時・・。
これもやはり「イエスに不利な偽証」でした。それは次のようなものです。
「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」" (マルコ14:58)
でもそれは、まんざら嘘とも言えない、イエス様が言われたことを悪く印象付けるように巧みに言ったという感じの「偽証」でした。
イエス様ご自身が言われたことはこうです。
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(ヨハネ2:19)
この神殿を壊してみなさい・・。それはあなたが今拠って立っている形だけの信仰を壊してしまいなさいという意味です。
そうするならば「わたしは、それを三日でよみがえらせる」・・。それはイエスをキリストと信じて心に受け入れるなら、父なる神との関係は本当に回復され、「霊とまことをもって礼拝する」新しい人がそこに生まれるのだという意味です。
ですからステパノは、その偽証の言葉を聞いてイエス様を思い起こし、聖霊に満たされて、弁明を始めたんですね。
その時の彼の顔は「御使いの顔のよう」でした。
人が主に目を向け、御霊に満たされるなら、その人の顔は輝くのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。
ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。"
使徒の働き 6章8~10節
ステパノは教会の運営を指揮する、あの七人の「評判の良い人」の一人です。
彼は「恵みと力に満ちて」いて、彼が語った時には「知恵と聖霊」が伴ったと書かれています。
聖霊とは、父・子・聖霊という三位(さんみ)一体の神の一つの存在、すなわち神です。
その聖霊と一つになっているならば、その語ることはもっぱら主なる神という土台の上に立って話すということになりますから、神の御子キリストについてのことも当然、きっぱりと話すことになります
そしてそれはイエス様が語られていたように、モーセの律法に縛られながら、結局神から心が離れているユダヤ人たちの状態を厳しく指摘するものだったわけです。
この世においてイエス・キリストの旗印を立てるということは、この世との「融和」ではなくて、その存在を明確に浮き上がらせるという結果になるのです。
この世は「まことの神を認めようとしない」暗黒の勢力の支配下にあると聖書は言っています。(エペソ2:2)
ですからそれは、クリスチャンがどうしても直面させられることなんですね。
この世におけるクリスチャンの使命・・それはこの世と混ざることではなく、「世の光」となることなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。"
使徒の働き 6章7節
このようにしてエルサレムでは弟子の数が非常に増えていった・・。
それに対して大祭司たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました。
ですから祭司ならば当然「反イエス」派です。
ところがその立場にありながら、大勢の祭司たちがペテロの説教を聞いて、心からうなずいて「信仰に入った」というのです。
それは、聖書(旧約聖書)に300箇所以上にもわたって綿綿と記されているキリスト=油注がれた方=来たるべきお方=メシヤ=救世主・・それがこのイエスという方に他ならないのだという話にうなずいたということです。
しかしそれは、自分たちがそのキリストを十字架にかけたということを認めに等しいことでした。
それはすなわち、自分が拠って立っている土台が完全にひっくり返り、消滅してしまうということに他なりません。
祭司が信仰に入ったということは、自分の職の放棄を意味しているわけです。
その祭司たちがその後どうなったのかについては、書かれていませんが、教会という新しい「キリストのからだ」の一員になったということだけは確かなことです。
彼らは、今までしがみついていたすべてのものに勝る宝を掘り当てたことに気がついたんですね。そして「すべてのものを捨てて」キリストのもとに来たのです。
"天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。"
(マタイ13:44 イエス・キリストのことば)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」"
使徒の働き 6章3~4節
教会にはますます多くの人が加えられていきました。
その中には極端に貧しく、社会的には疎まれていたような人たちも大勢いました。しかし教会の人々は持っている物をもって、その人たちを助け、日ごとの必要を配給していたと記されています。(1節)
初めはそのすべての仕事について、十二使徒たちが監督していたのですが、それではとても間に合わず、配給から漏れてしまう人たちがいたりして、彼らの働きには限界が来ていました。
そこで自分たちは「祈りとみことばの奉仕」に専念し、教会という組織の運営に必要な働きのために七人を選ぶことになったわけです。
その仕事は、多くの実務をする人々をとりまとめるという仕事でした。
そのために必要なのが「御霊と知恵に満ちている」ことだと、使徒たちは判断したわけです。そして人々の評判が良いこともその条件でした。
御霊に満たされているというのは、神とともにあることの喜びを享受している様子のことです。そしてキリストの内に知恵がある(コロサイ2:3) というのですから、そこには当然知恵も伴うわけです。
そしてそれが人々の目にも明らかである・・それが「評判が良い」ということで、それで教会は一致するわけです。
教会という新しい集まりの中での共通語は「聖霊」なんですね。
もし、それ以外のものが取りまとめ役になった時には、キリストのからだとしての教会は変調を来たす・・それは歴史が証明しています。
ですから、教会では指導者はもちろんのこと、すべての人が聖霊との関わりを深めることを心から求めること・・それが必要であり、それこそが教会が一つとなって成長することのカギであるわけです。
すべての教会の内に、聖霊による一致がありますように!
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)