" さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。"
使徒の働き 8章26~28節
エルサレムの迫害によって散っていった中の一人であったピリポはサマリヤに行ってイエス・キリストを宣べ伝えたました。
その結果、多くのサマリヤの人が洗礼を受け、さらにペテロによって聖霊を受けました。
そうしたら今度は、「主の使い」がピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」と言ったというのです。
そして見逃してしまい易いのですが・・「そこは荒野である」と書いてあるのです。
荒野とは、家もなく岩だらけで水もなく「そこに行ってどうするの?」というような場所だということです。
しかしピリポは「そこで立って出かけた。」とあります。
クリスチャンがよく体験することですが、聖霊が自分に話しかけているような気がするんだけど、どう見てもそれは違うとしか思えないということが、往々にしてあります。
ピリポは御霊の促しに従って、何もないとしか思えない荒野に出かけてみたら、そこには旅の途中のエチオピア人がいて、馬車の中で聖書を読んでいたというのです。
私はこの聖霊の促しにとても迷って、結局やらなかったという記憶がいくつもあります。
主の御声に従う・・、それはとても勇気が要ることです。
というより、必要なのは信仰なんですね。
祈り・・「主よ。もしあなたが私に語られるときがあるなら、その確信を与えて下さい、そしてその御声に従って一歩踏み出す信仰を与えて下さい。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" シモンは答えた。「あなたがたが言ったことが何一つ私の身に起こらないように、私のために主に祈ってください。」"
使徒の働き 8章24節
魔術を行って有名人となっていたサマリヤのシモンという人は、ピリポが語っていたイエス・キリストを信じて洗礼を受けます。
しかし彼が求めていたのは、何か漠然とした良いもの、なんとなくあこがれるクリスチャンという身分・・そういうものだったのかもしれません。
彼の言動で、そのことが簡単に分かったしまったんですね。彼はあとから来たペテロたちに金を持っていって、聖霊を授ける権威を買おうとしたのです。
ペテロはそのシモンに対して厳しい言葉をかけます。(20-23節)
「おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。」と。
それに対して答えたシモンのことばが今日の箇所です。
シモンはペテロのことばに反発はせずに、「私のために主に祈って下さい」と言いました。
しかしピリポやペテロはもともと、本当に助かるその道を説いていたのです。
シモンがするべきことは、「自分が主に祈る」ということなんですね。
シモンがその後どのような道を歩んだかは書かれていませんが、そのことに気がついて、心から主に祈り、それによって「本当に新しく生まれる」道を歩むようになったという風に思いたいものです。
救いは神とあなたの関係の中で起こる出来事なのであって、他人はその一番大切なところに関わることはできないのです。
主との関係は、あなた自身が決めることなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。"
使徒の働き 8章18~19節
このシモンという人はサマリヤの町で魔術を行って人々を驚かせていた人でした。
そのシモンが、ピリポが宣べ伝えていたイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのです。(9-13節)
さらにその後、エルサレムからペテロとヨハネがやってきて人々に手を置くと、人々が聖霊を受ける様子をシモンは見て、「私にもその権威をください」と言って、金を持ってきたというのです。
それに対してペテロは、 「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。〜」と、厳しい口調で彼をたしなめました。
シモンは他の人たちと同じように、イエス・キリストを信じて洗礼まで受けました。しかし彼の心は神の前に正しくなかったことがすぐに露呈してしまったのです。
ペテロは彼にはっきりと言います。「おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。」と。(22節)
シモンは魔術を行う人でした。それは神の霊ではなく、それ以外の霊、すなわち悪霊との関係を深く持つ人だったんですね。
彼はその悪霊との関係をきっぱりと断ち切らないまま、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたのです。
ペテロのことばによれば、「不義の束縛の中にいる」ということは「苦い悪意」に縛られたままの状態、すなわち悪霊との関係を持ったままの状態だったということです。
本当に神を神と信じる・・。それは今までの自分のすべてを「本当に」その神に明け渡すということです。
イエス・キリストを信じ、その方に自分のすべてを任せてしまうとき、人は変えられていくのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。"
使徒の働き 8章14~17節
激しい迫害の中、エルサレムに残っていた使徒たちは、ピリポによってあの異邦人のサマリアの人々がイエス・キリストを信じ洗礼を受けたということを聞きます。
それでペテロとヨハネはサマリヤの人々のところへ行くことにしました。
ピリポは聖霊に満たされて多くのいやしを行ってはいましたが、ピリポを通してはサマリヤの人々が聖霊を受けることはなかったというのです。
聖霊が下った様子がどのようなものであったかは書かれていませんが、それは一目瞭然であったということだけはわかります。
結果として、ペテロとヨハネが現地に行き、サマリヤの人々に聖霊がくだり、さらに多くの人々にイエス・キリストを宣べ伝えることになったのです。
前回にも書きましたが、それはユダヤ人のペテロたちにとってはとても抵抗があることでした。
主はそんな彼らのために、わざわざピリポを通しては聖霊が下ることはないようにされ、ペテロたちが実際に現場に行ってそこに起こっている出来事を自分の目で見るようにされ、確信をもって一歩前進することができるようにされたんですね。
この「使徒の働き」に書かれている出来事はすべて、完全に主が主導権をもってなされたことの記録なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。"
" その町には、大きな喜びがあった。"
使徒の働き8章 5節と8節
エルサレムでの迫害が一気に燃え上がり、人々はあらゆる地域に散って行き、そこでイエス・キリストのことを宣べ伝えました。
ピリポという人物はステパノ同様、十二使徒たちが雑事に追われることのないように助ける働きをするために選ばれた7人のうちのひとりです。
サマリアというところはユダヤ人がいた地域に隣接する地域でしたが、そこには異教の偶像がはびこっていたので、ユダヤ人たちは決してそこに近づこうとはしませんでした。
ピリポはそのサマリヤに入って行ったんですね。
ピリポは聖霊に満たされていました。それは神(の霊)によってその心が支配されていたということです。
そしてそこで彼はステパノ同様、悪霊を追い出し、中風の人や足の不自由な人をいやすなど、数多くのしるしをおこない、イエス・キリストを大胆に宣べ伝えました。
そして町には大きな喜びがあったというのです。
これは神がそのことをせよと言われたことの明白なしるしです。
そしてそれはユダヤ人たちが夢にも思わなかった「異邦人たちへの宣教の突破口」だったんですね。
聖霊は私たちを神の御心に沿って導き、神はそこに自身を表されるのです。
サマリヤへの道は、ユダヤ人にとっては最初から閉じられている場所でしした。
しかし、だからこそそこに神の存在が際立つんですね。
これ、「いつもの神のなさり方のパターン」です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
GraceCafeたいむ #62【帰ってから始まる】
〜 そのままで帰っておいで 〜
賛美歌「主はあなたを呼ばれる」から、その3
アップしました・・
敷居は低いです 💦
大丈夫です!(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=7hXnl-P4cmk
" サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。"
使徒の働き 8章3~4節
ユダヤ人たちはステパノを殺した勢いで暴徒と化し、エルサレムの教会になだれ込み、多くの人たちが喜んで集っていた教会はめちゃくちゃにされてしまいます。
それはクリスチャンたちがエルサレムに住むことができなくなるくらいの激しいものでした。
その先頭に立っていたのがサウロ(後のパウロ)でした。
エルサレムの教会は壊滅状態でした。それは最悪の事態です。
しかしエルサレムにいられなくなったクリスチャンたちは、「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」と記されています。
ということは、数千人の人がイエス・キリストのことを伝えるために一気に四方八方に広がっていったということです。それはまさにビッグバンを思わせるような宣教の大爆発だったわけです。
実はこれは、聖書によく出てくる「神のなさり方のパターン」なんですね。
すなわち、神は最悪の事態を通して最高のことをされる、ということです。
神はいつもこのようなやり方をもって、ご自身が生きて働かれる神であることを人々に示されるのだというのです。
そしてこの神こそが、今の私たちクリスチャンが信じる神なのです。
しかし「最悪の事態」というのは、直面する者にとっては文字通り最悪の事態です。
ですからそういう時にこそ「神は常に最善をなされるお方だ」という信仰をはっきりと働かせないと、暗黒の中でさまようことになります。
大事なのは、その時に信仰を働かせることなんです。
それは私たちの心の、強い行動なんですね。
神はそれを私たちに期待しておられるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。"
使徒の働き 7章59~60節
ステパノの最後のことばは、十字架にかかられたときのイエス様のお言葉を思い出させます。
イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」と言われました。
そして「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言われて息を引き取られました。
彼らをお赦しください・・、それはイエス様の十字架の目的そのものでした。
わたしがあなた方の罪を負って死ぬのだ。わたしがあなた方の代わりに父へのささげ物となってこうして十字架にかかるのだ・・と。
あなたの罪は赦されるのだ・・。
神の御子キリストを十字架にかけたその大きな罪も赦されるのだ・・。
わたしがその赦しと救いなのだ・・と。
ステパノのことばには、自分に石を投げているこの人々もこの不動の赦しを受け取ることができますようにという思いが込められていたわけです。
主よ、この罪を彼らに負わせないでください・・。
この死ぬ直前のステパノの叫びの意味・・それは、あなた方もイエス・キリストの赦しの中に招かれているのです・・ということだったんですね。
これがステパノのいのちをかけてのメッセージだったのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。"
使徒の働き 7章57~58節
ステパノがユダヤ人たちに向かって話したのは、「あなた方がキリストを十字架にかけて殺したのだ」ということでした。
だとしたらユダヤ人は、完全に神に敵対する人々となってしまったということになるわけですから、それは地獄行きを宣言されたようなものです。
それで人々は大声で叫び、耳を覆ってステパノに殺到したわけです。
しかしイエス様はすでに十字架の上で、こう祈られているのです。
「父よ、彼らをお赦しださい」と。(ルカ23:34)
ユダヤ人・・キリストを十字架にかけた彼らも、赦しの中に置かれているのです。
ところが、その赦しを彼らが受け取るということについいては、固くその蓋が閉じられてしまっていたわけです。
そしてそこにいたサウロという青年もこの処刑に賛同する側に立っている者でした。
この人こそが、後のパウロです。
ユダヤ人の代表のような人だったパウロに、神は圧倒的な力をもって臨まれ、その赦しを彼に徹底的に知らしめるのです。
神はご自分の民イスラエルを決して見放さず、見捨てないお方なんですね。
イエス様のあがないによる赦しは文字通り、すべての人の上に置かれているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)