" しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」
このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。"
使徒の働き 10章14~16節
カイザリアにいた百人隊長コルネリオに御使いが現れ、ヤッファにいるペテロを招きなさいと告げたので、彼は早速信頼できる部下をペテロのところに遣わしました。
ちょうどその日の昼間に、ペテロはまぼろしを見ます。
そのまぼろしは、ユダヤ人が食べてはならないものばかりが入った敷布の様な入れ物が天から降りてきて、それらを屠(ほふ)って食べなさい・・というものでした。
ペテロは「滅相もない。こんなきよくないものは食べられません」と反論をします。
すると「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」という声が聞こえ、それが実に三回もあって、それからその入れ物が天に引き上げられたというのです。
ユダヤ人にとって「きよくないもの」を神はきよめたのだから、あなたの判断でそれらをきよくないと言うのはもうやめなさいというのです。
しかも三回も同じものをペテロは見させられたのです。
ペテロにはその意味がわかりませんでした。
しかしちょうどその時に、異邦人コルネリウスからの使いがやってきたことで、ペテロはこのまぼろしの真意を悟ります。
異邦人にも神の民とされる道が開かれた・・それがあの幻の意味だったのかと。
その時からさかのぼること2000年の昔、神はアブラハムに「あなたの子孫(イエス・キリスト)によって、地のすべての国々(異邦人)は祝福を受けるようになる。」という祝福の約束をされました。
今まさにその時が来たのだと、ペテロは知ったのです。
神の計画のスパン(時間の幅)は、気が遠くなるほどの、遠大なものなんですね。
しかしその千年は一日のようでもあるのです。(ペテロの手紙第二 3章9節)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。"
使徒の働き 10章3節
ペテロがヤッファに行き、そこでかなりの期間滞在していたときのこと・・。(9:43)
そこから北へ40キロほどの港町カイザリヤで、この出来事は起こりました。
コルネリウスという人はイタリア隊という、ユダヤを支配するローマの軍の百人隊長でした。
彼は「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた」人だったというのです。(1-2節)
コルネリウスはローマの兵隊ですから、ユダヤ人ではありません。
しかし彼はこの「エジプトから奴隷だったイスラエルの民を導き出した神」そして「わたしが神である。他にはいない。」とはっきりご自身の口で言われるこの方こそがまことの神であるということを、家族皆とともに信じていました。
神はこのコルネリウスに御使いを遣わされたのです。
そしてこのことを通して40キロ南のヤッファにいたペテロは、異邦人にもイエス・キリストを宣べ伝えても良いのだということを、はっきりと確信することになるのです。
ユダヤ人は神に特別に選ばれた民ですから、その神の恵みが同じように異邦人にも及ぶということは、彼らにはとても受け入れがたいことです。
そしてそれはペテロも例外ではありませんでした。
神はそのペテロに、主がなさろうとしていることを、このあと丁寧に示されるんですね。
主はご自身の計画を、パウロやペテロのようにさまざまな思考で凝り固まっている人々の上にも、何の妨げもなく行われていくお方なのです。
しかもその彼らを用いて・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、「タビタ、起きなさい」と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。
そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちを呼んで、生きている彼女を見せた。
このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。"
使徒の働き 9章40~42節
ヤッファという港町にいたタビタという女の弟子が病気で死にます。彼女は、夫を亡くした多くの女たちの面倒を見ていました。
ペテロがその知らせを受けて到着し、遺体のある屋上の部屋に案内され、そこでしたこと・・、それは「皆を外に出し、ひざまずいて祈った」ということでした。
そしてその後、「遺体の方を向いて」とあります。
ペテロは祈っていたとき、遺体の方を向いていなかったことがわかります。
ペテロには、自分が手を置いて、それを通して主に働いていただくという発想は全くなかったんですね。
タビタのいのちは、ただイエス・キリストの御手の中にあるのであって、その間に差し挟むなにものも必要ではないというのが、ペテロの信仰でした。
人々はその場にいませんでしたが、ペテロの態度とことばは終始そのことを表していたに違いありません。
このことによって人々信じたのはペテロではなくて「主」だったのです。
タビタがやもめの面倒を見ていたのも、人々が主を信じるためでした。
私たちクリスチャンも、すべてことにおいて、それを目的とすべきなんですね。
人々が主を信じることを・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ペテロは彼に言った。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒やしてくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると、彼はただちに立ち上がった。
リダとシャロンに住む人々はみなアイネアを見て、主に立ち返った。"
使徒の働き 9章34~35節
話は十二弟子の中でもそのリーダーであったペテロのことに戻ります。
この記事はリダという比較的大きな町での出来事です。
この町は港町ヨッパ (現在のテル・アビブ) から内陸のエルサレムに向かって20キロほどのところにあります。
そこで彼はアイネアという、8年間中風で床についていた人に出会います。(33節)
中風とは脳血管障害の後遺症である半身麻痺のことです。
ペテロは聖霊を受けたときから、イエス様が地上でなされたような著しいいやしの賜物が与えられていました。しかし彼はその賜物を用いて人をいやすときには必ず「イエス・キリスト」の名を明確にしていました。
ペテロは先ず「イエス・キリストがあなたを癒やして下さいます。」と言いました。
そしてその後に「立ち上がりなさい」と命じたら、アイネアは直ちに立ち上がったのです。
そしてそれを見た人々は「主に立ち返った」のです。
ペテロが癒やしのわざを行ったその本当の目的は、人々が「主に立ち返ること」なのです。
もしペテロがイエス・キリストの名を口にしなかったら、人々はペテロを偉大な人物としてあがめ、それで終わってしまったに違いありません。
すべての恵み・・その栄光を主なる神であるイエス・キリストにお返しして、主の御名があがめられるようにすること・・。そしてそれによって人々が主に立ち返ること・・。
これがクリスチャンがするべきことであり、願うべきことなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。"
使徒の働き 9章31節
ここからは、30節までのサウロの話とは別の話に入ります。
ガリラヤ、サマリア・・それは「異邦人の地」ですが「ユダヤの地」とは隣接する地域です。
ですからここで言われているのは、福音がユダヤ人からじわじわと隣接する地域の異邦人にも広がっていき、それがその「全地」に及んだということです。
そしてそこにあったのは「平安」「主への怖れ」「聖霊による励ましと導き」で、それに伴って、多くの人々がクリスチャンとなっていったことが記されているわけです。
教会が全地にわたり築き上げられて平安を得た・・。
教会には、その「組織」に伴う様々な問題に常に足を引っ張られてきたという歴史があります。
しかし聖霊によって築き上げられた教会には「平安」があったというのです。
この地域の教会は決して安泰だったわけではありません。常に迫害の恐れが伴っていました。
でもそこには「平安」があったというのです。
イエス・キリストを信じる者のうちに見られる大きな特徴の一つに「平安」があります。
信仰生活の中には様々な試練もありますから、平安を失うことももちろんありますが、それでもクリスチャンはその「平安」を知っているんですね。
「平安」・・それは教会に見られる一つのしるしなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。
また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。
それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。"
使徒の働き 9章28~30節
ここでもサウロは命を狙われます。
兄弟たちは、直近の港町カイサリヤまでサウロを連れて行き「タルソへ送り出した」、ということはサウロを船に乗せたということだと思われます。
このタルソはトルコ南部の海に近い町、サウロの生まれ故郷です。
その間、アンティオキアという町では、異邦人が大勢イエス・キリストを信じたという出来事があり、そのニュースがエルサレムに入ってきます。
そこで使徒たちは、あのサウロを助けたバルナバをアンティオキアに派遣します。
そこでバルナバはアンティオキアの人々を励まし、教えるのですが、手が足りなくなったのでしょうか。彼はそこから100キロほどのタルソまで行ってサウロを探し出し、そこから彼を連れてきて一年をかけて、二人で教会の土台を作り上げるということになるのです。
アンティオキアの教会は異邦人が中心の教会だったわけです。
ここでバルナバとサウロは、異邦人に向けての宣教に必要な様々なことを体験から学んだに違いありません。
そして彼らは聖霊に語られ (13:2)、このアンティオケから初めての宣教の旅の出かけ、それは世界宣教へとつながって行くのです。
神は、ご自身が選ばれた人に必要なことをきっちりと備えられ、状況を整えられ、その上で神の大きな働きをさせられるのだということが、この記事からうかがい知ることができます。
まさに聖霊の具体的な導きの中で世界宣教への道が開かれていったということ、、それがこの「使徒の働き」には記されているんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。
サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。"
使徒の働き 9章26~28節
エルサレムにおいてサウロは、ダマスコよりもはるかに多くの人々に知られる存在でした。それは「迫害する者」としてのサウロです。
バルナバはそんなサウロと言葉を交わすきっかけが与えられたのです。
バルナバはこうして与えられた「きっかけ」を、拒むこともできたはずです。
しかしバルナバは、今目の前に起きているこのことの上には主がおられると・・そのように受け止めたのではないでしょうか。
少し言葉を交わしたら、サウロは堰を切ったように自分に起こったことをバルナバに話し始めた・・はずです。
バルナバは使徒たちに彼のことを紹介しました。それによってサウロはクリスチャンとしての市民権を得、さっそくエルサレム中でイエス・キリストを宣べ伝え始めたのです。
バルナバはのちに、サウロ (パウロ) と共にローマ帝国中を、イエス・キリストを述べ伝えて回る人となりました。
どうして?と思うような出会い。そこに主がおられる・・。
私たちはそのように受け止めるか否かで、その先の私たち自身の歩みも全く違ったものとなる可能性があるということです。
その人は、これから私たちが歩む冒険の旅の大切なメンバーになるかもしれないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

【イエス・キリストのうちにすべてがある】 〜 本当に必要なもののすべてが・・〜
賛美歌「父の神の真実」から、その3
アップしました・・。
皆様のお越しをお待ちしております。
https://www.youtube.com/watch?v=LWgHGYhEez0
" かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。
そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。"
使徒の働き 9章23~25節
ダマスコは現在のシリアの首都ダマスカスで、ガリラヤ地方から北に100キロ足らずの位置にあります。それは歴代の王国の首都としても栄えた都市で、城壁で囲まれていました。
イエス・キリストの教えは当時のユダヤ教の存在を根底から脅かすものでした。
ユダヤ人たちはモーセを通して与えられた律法と、そこから生まれた実に細かな細則を守ることによって、神との関係を保っていたつもりになっていたところに、神の御子を名乗るイエスが現れたのです。
ユダヤ人にとって、イエスはまことの救いか、あるいは殺されて然るべき神の敵かのどちらかだったんですね。
「かなりの日数」に及ぶこの大都市でのサウロの宣教は徹底的なものだったことがうかがわれます。その時にはすでに「彼の弟子たち」がいたのです。
そしてサウロには、いのちの危険が付きまとうようになりました。
キリスト教は、迫害が激しければ激しいほどに広まっていく・・それは歴史が明らかにするところです。
自分のいのちを人のために差し出すということは、普通ではできないことです。
いのちを差し出してイエス・キリストを証しする人々を見て、人はいぶかります。
それは、イエス・キリストと一つになった人の姿なんですね。
それを見た人々がイエスを信じていくのです。
人々はそこに、復活と永遠のいのちの希望があることを見るのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)