" 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。"
使徒の働き 13章2~3節
エルサレムの教会を支援していたバルナバとサウロはアンティオキアの教会に戻りました。
ここに書かれている「彼ら」とは、教会の預言者や教師のことです。(1節)
彼らが主を礼拝し、断食していると、彼らに聖霊が語られたというのです。
このことからわかるのは、聖霊は同時に複数の人に同じことを語られるということです。
それはスピーカーから出るような声を皆が聞くというのではなく、それぞれが心に語りかけられるということです。
二人が同じことを聖霊に示されて確信を持ったという話は今でも聞きますが、この時には「彼ら」皆がそれを聞いたというのです。
ならばそれはもう、疑う余地はありませんでした。
このとき聖霊は「わたしのために」と言われています。
聖霊の語りかけは主のための働きへの導きなんですね。
イエス・キリストを信じる者と共に歩んでくださる聖霊=御霊(みたま)は、このように具体的にひとりひとりに語りかけてくださるお方なのです。
自分も聖霊の声に耳を傾けようと・・、先ず思ってみませんか。
主のために働く者とされるために・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 神のことばはますます盛んになり、広まっていった。"
使徒の働き 12章24節
この「使徒の働き」をはじめから見てみると「ますます〜広まっていった」という箇所が三箇所あります。
5章14節・・そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。
・・それは使徒たちの手により多くのしるしと不思議が行われた結果でした。しかしそれをきっかけに大祭司たちの迫害が始まります。
6章7節・・こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムでの弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。
・・これは、教会に所属する人々の数が膨れ上がり、教会のことのために仕える人々が7人選ばれた後のことでした。そしてその中の一人、ステパノは人々の石打ちによって殉教を遂げます。
そして今日の箇所・・
ヘロデ王はヤコブを殺害し、続いてペテロをも捕らえましたが、ペテロは御使いによって助け出されます。そしてこの後、王は人々の前で演説しているときに、虫にかまれて死んでしまいます。
そしてこのあと、バルナバとサウロによってアジアとギリシャ、さらにはローマへの宣教の旅が始まり、この地域に一気に教会が誕生するのですが、この旅の上にも激しい迫害と苦しみが伴っていました。(13章〜)
イエス・キリストの名が広まって行くとき、そこでは主を信じる者たちが血を流しているのです。しかしそこにはいつも爆発的な「広がり」がありました。
広まっていった「神のことば」・・それはまさに、イエス・キリストが全ての人のためにご自分のいのちをささげ、血を流されたこと・・そのことに他ならないのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説をした。
集まった会衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。"
使徒の働き 12章21~23節
ヘロデ王はペテロの逃亡事件のあと、カイサリヤという海辺の町に行って滞在しました。同じく海沿いの北方の町ツロとシドンの人々は、ヘロデ王が近くに来たことを知り、手を尽くして王と会おうとします。
それはヘロデとの関係が悪化していて、しかも彼らはヘロデに経済的に依存していたからでした。
そして和解が成立した・・今日の箇所はその時の出来事です。
ヘロデ王は虫にかまれ、その場で死にました。それは神に栄光を帰さなかったからだと、ここには記されています。
それは自分を神だとするその声に自らも賛同し、神の座に立とうとしたということです。
栄光を神に帰すとは、自分が賞賛されたらその栄誉は自分のものではなく、神のものだと宣言することです。
オリンピックで金メダルを獲得した選手が、この栄光は神のものだと宣言したという話をよく耳にします。
私たちは、自分が努力したからその結果を得られたのだと考えます。
確かにそれは努力の結果なのですが、実は「努力できたこと」自体が神に与えられた恵みなんですね。
自分がやったのだと拳を振り上げるその姿には、何度見ても違和感を感じます。
しかし私たちのうちにもその性質・・確かにあるんですよね。
そんな私たちを悔い改めさせるために、父なる神は御子を遣わされた・・。
神は怖れるべきお方ですが、あくまでも愛なるお方なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。"
使徒の働き 12章19節
兵士たちは4人一組が四組、すなわち16人でペテロを見張っていました。しかもそのうち二人は牢の中で鎖につながれているペテロの両脇にいたのです。
ところが気がついてみるとペテロが忽然と消えていたわけです。
彼らはもう、生きた心地はしなかったのではないかと思います。そして実際にその責任を問われて処刑されてしまうのです。
こののような兵士の運命について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。
聖書を読むと、その始めから終わりまで、神の「小さい者」への御心は一貫していることが分かります。小さい者、弱い者、やもめ、在留異邦人・・。
主はこれらの存在が忘れられることがないように、常に人々に言い聞かせてこられました。
「小さい者」は忘れられていない・・それが神の御心だということがわかります。
しかし同時に聖書には、すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができないのだと言っています。
そしてキリスト・イエスがその罪の身代わりになって十字架で死んでくださったと信じるだけで、神の元に帰れるのだ・・と言っています。 (ローマ3:23-24参照)
実はこのことが聖書が言っていることの真髄でもあるんですね。
だったら日の目も見ないで死んでいった「小さい者」の行方はどうなるのでしょうか。
そのことについては私たちは、全能者の御心の前にひれ伏すしかないんですね。
神がその人のことをご存知なのだとしか言いようがないのです。
聖書はとにかく、命綱(いのちづな)をあなたに投げて「自分の命を救え」と言っているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
賛美歌「歌いつつ歩まん」から、2番 〜恐れはかわりて 祈りとなる〜
アップしました・・。
https://www.youtube.com/watch?v=I-OMNGFyIAI
God Bless You !
" だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。"
使徒の働き 12章16節
ペテロが殺されるという恐れを抱いたままの彼らは、実際に目の前にしている光景を即座に受け入れることができませんでした。
自分の心の中で決めつけていること・・。
それは全能の主の存在を見えなくします。
ペテロが事の次第を詳しく話したので、彼らはそこで初めてそれが主のみわざであることを認めるわけですが、私たちはどうでしょうか。
心の中で決めつけていること・・ありませんか。
絶対にあり得ない・・と。
そのことを決める権威は神にあるのです。もしそれを自分が決めるなら、それは自分が神の座につくということになります。
逆にもしそのことに気付くなら、その時その人は「神を神として認める」人になるのです。
"どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。" (エペソ人1:17)
私たちが信じ、そして共に歩まれる神は、あくまでも全知全能の主なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。
そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。
人々は彼女に「あなたは気が変になっている」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。"
使徒の働き 12章13~15節
エルサレムの教会の人々は、ペテロの命はほぼ望めないという状況の中で、必死に祈っていました。
そこに突然戸を叩く音がし、応対に出て行った召使いが慌てて戻ってきて、ペテロがそこにいるというのです。
そこで人々が言ったことは「あなたは気が変になっている」・・でした。
そして、それでもペテロだと言い張る彼女に「それはペテロの御使いだ」と言いました。
彼らはペテロの救出を祈っていました。
しかし祈りは聞かれるかもしれないが、あの牢からは絶対に出られないと思っていたのです。
これは日常的に祈るクリスチャンなら、とても身近かに思い当たることなのではないでしょうか。
祈っていながら、それがそのままかなえられるとは思っていない・・。
イエス様は言われました。
「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」(マタイ21:22)
それは言うまでもなく「神の御心にかなった祈り」のことです。
神と心をひとつにして、神の栄光がそこに現されることを願い求めるとき、イエス様は「何でも受けることになる」と保証してくださっているのです。
そんな信仰・・与えていただきたいですね。
「信仰」も、祈り求めるべきものなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。"
使徒の働き 12章12節
神の御使いは、牢につながれているペテロを厳重な警備の中から救い出しました。
ペテロは気がついたら外の通りを歩いていた・・その時のことです。
「それがわかったので」とあります。
それは、主が御使いを使わして自分を救い出してくださったことがわかったということです。
ペテロは解放されたのだから仲間のところに直行するのは当たり前のことだと思うのですが、なぜ「それが分かったので」と、わざわざ書かれているのでしょうか。
以前に捕らえられたヤコブはすでに殺されていますから、ペテロは死を覚悟していたに違いありません。ですから再び彼らのところに戻るには、ペテロといえども自分を奮い立たせる必要があったはずです。
その時ペテロは、主がヘロデの手から、そしてユダヤの民のもくろみから救い出してくださったということが「わかった」わけです。
それは自分が天の意向に沿って歩むべき者とされていることを、ここで改めて思い起こしたということなんですね。
私たちクリスチャンはこの世の最前線で戦う、神の兵士なのです。
そしてその兵士は、司令長官である主が計画されることは、すべての民を光の中に招き入れることだと確信していますから、どんなことでも喜んで従っていくのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」"
使徒の働き 12章11節
二本の鎖につながれていたペテロに主の使いが立ち、彼の脇腹をつついて起こし、寝ぼけているペテロに急いで立ち上がるように言います。
帯を締めて、履き物を履きなさい・・。上着を着て私について来なさい・・。
鎖が外れ、牢の扉は開き、ペテロは言われるままに付いて行くと、いくつもの関門を難なく通り抜け、気がついたら外の通りを歩いていました。
その時御使いは「彼から離れた」と記されています。
その時ペテロははじめて我に返って、「主が」自分を救い出してくださったのだと気がついたというのです。
我に返るとは「今の自分」に目を止めることです。
それまでは夢のような奇跡の光景を眺めていました。
しかしペテロは我に返って初めて、何が起きたのかが分かったというのです。
我に返るとは、自分とそこにある全能者の存在を見るということなんですね。
人は普段、目の前の景色だけを見ていて、それがただ夢心地のように過ぎて行ってしまう・・そして気がついたら死を迎えている。
確かに普段の自分は、自分のことばかりを見ています。
しかしそれは実は、外のことばかりを見ている自分なんです。
我に返る・・それは人は自分がどこに置かれているのかを見るということなんですね。
私たちは神の御手の中に「生かされている者」なんです。
今自分はどこに立ち、なんのためにここにいて、一体何をしているのか・・。
そちらに目を向けてみませんか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。
すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。"
使徒の働き 12章6~7節
「天」ということばが聖書には出てきます。
それは空でもなく宇宙でもなく、神の領域のことを指すことばです。
このペテロに起きた出来事は、私たちが地上に於いて物理的に考えられることを超えたことです。
それはまさに、神の領域すなわち「天」の力がここに現れたということに他なりません。
天上のことというと、何か精神的な、今の時空を超えたまったく異なる世界のように思われるかもしれませんが、ここに現れた「天」の力は、実際にペテロの脇腹をつついたのです。そして鎖という鉄の器具に働きかけ、鍵がかかっている扉を開いたのです。
聖書は始めから終わりまで、天の力がこの地に働きかけてきた、すなわち全能の神がこの地にご自身を現してこられたことの歴史が書かれているんですね。
ペテロがつながれていた鎖が外れ落ちるのと、海の水が立ち上がって乾いた地がそこに現れ、200万人の民がそこを通る事とは、本質的には同じことなのです。
聖書から「天の領域」の出来事をはずそうとしたら、それは薄っぺらい小冊子以下のものになってしまいます。
神がおられ、私たちに救いの手を差し伸べられている・・それが地上の世界と、そして人の心の世界に介入して、人は天とつながれるんですね。
私たちはその「常識」を打ち破った出来事を、そのまま信じれば良いのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)