" そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。
そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。"
使徒の働き 14章26~27節
パウロとバルナバは第一回目の宣教旅行を終え、アンティオキアの教会の弟子たちに旅の報告をします。
その中で最も重要なポイントは、神は異邦人に信仰の門を開いてくださったことであるというのが、今日の箇所から読み取れます。
新しく生まれた教会の人々、特にユダヤ人の信者たちにとって、はっきりさせなければいけない最も大切なことは、福音は「すべての人たちに」開かれたということでした。
ユダヤ人たちには、自分たちは神に選ばれた特別な民であるという意識がありました。
現にその通りなので、そこから解放されるのには、よほどのはっきりした出来事がないと、神が異邦人をもかえりみてくださっているということを文字通り受け取ることは、とても難しかったんですね。
私たちはどうでしょうか。
教会には異質な人々が集まります。
互いに「異なる空気」をかもしだす人同士・・
私たちは互いに「この人たちにも神は信仰の門を開いて下ったのだ」ということを、はっきり心に刻む必要があるのかもしれません。
神は自分を、そしてあの人も、特別に愛してくださっているのです。
私たちが愛し合うのは、その人が自分の目に好ましいからではなく、自分が丸ごと神に愛され、そしてあの人も神は丸ごと愛されているからなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。"
使徒の働き 14章23節
パウロとバルナバは、今まで来たところを引き返し、多くの人々が信仰を持った町々を再び訪ねて回りました。
そこにはすでに教会の形が出来上がっていたのですが、そこには人々を率いる指導者がいませんでした。
そこでパウロたちは教会の人々の中から、みことばと聖霊に忠実な指導者(長老) を選び出す必要がありました。
この人物が神のご用を務めるのにふさわしいのかどうか・・それは簡単に決められるものではなかったと思います。
ですからパウロたちは断食して祈り、あとは「彼らをその信じている主にゆだねた」というわけです。
断食して祈る・・それは祈りに集中するということです。
私たちは重要な決断をするとき、実は自分の中ではその結論がすでに出ていたりすることってないですか。。
神の御心を心を静めて求める・・、それは難しいですね。
パウロはその点、ぬかりはありませんでした。
あとは信じている主にゆだねる・・、いつもそうありたいものです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、
弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。"
使徒の働き 14章21~22節
リステラという町でパウロは石打にされ、おそらく顔はボコボコになって見るかげもない、そんな有様だったと思います。
パウロとバルナバのふたりは、このデルベという町でも多くの人々を弟子としました。
その町の人は、そんなパウロの姿を見て、その上で弟子となったのです。
パウロは「神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と言いました。
そして二人はこの町から今まで来た行程を引き返します。敵対するユダヤ人たちがいる町々へ・・です。
パウロは身をもって、私たちの希望は地上にあるのではなくて「神の国に入ること」だということを示していたのです。
そして「信仰にしっかりとどまるように」と勧めました。
信仰にとどまるとは、主は約束されたことを必ず果たされるということを信じることです。
私たちは、その都度自分の心に命じて信仰を働かせるならば、その度にその結果を見るんですね。
それで私たちはますます心を強められるのです。
主は信頼するに足るべきお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。
ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。"
使徒の働き 14章18~20節
パウロたちを神として祭り上げようとする人たちを説得して、騒ぎはやっと静まったと思ったら、今度は以前にイエス・キリストを宣べ伝えた町々から反対するユダヤ人たちがやってきて、パウロを石打にしたというのです。
反対するユダヤ人にとってパウロは、ユダヤ人でありながらまことの神以外のものを拝むという「死に値する」者だったのです
人々はパウロが死んだと判断し、彼を町の外に捨てました。
しかし弟子たちが彼を取り囲んでいると、パウロは立ち上がって町に入っていったというのです。
死んだと思われるほどの人が、自分で立ち上がって、しかも攻撃を受けたその場所に帰っていったのです。
これは意志が強いとかいう問題だとはとても思えません。
パウロは主の力に満たされて立ち上がったのです。
死人がよみがえったように・・。
そしてパウロは大けがをしたその身で、翌日さらに先に向かって旅を続けたというのです。
神は死んだと思われる者の上に、その御力をあらわされたのです。
神でしかあり得ない・・これこそが神のなさり方なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」"
使徒の働き 14章16~17節
パウロは「神」について、さらにこのように語りました。
神は「過ぎ去った時代」には、人々がなすがままにされていたのです・・と。
しかしその間も、神はご自分を人々にあらわされていなかったわけではない。
天からの雨、季節ごとの実り、食物、そして喜びで心が満たされるという、そのような恵みをもって神はご自身を現しておられたのに、あなたがたはそこに神を見出していなかったのです・・と。
野の花をよくよく見れば、それは驚異的な神の作品であることがわかります。
ハエ一匹にしても・・。
その神はこの地を造られ、そこに人を置きました。
そのために神は天・・すなわち宇宙を造られたというのです。
それは気が遠くなるほどの大きなスケールの宇宙空間です。
ですが、逆に私たちを構成している体をミクロの世界で見て行くと、それも気が遠くなるほどの果てしない世界があるのです。
初めは天も地もなかったのです。そして時間も、光も・・。
そしてその神が言われるのです。
"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"
(イザヤ45:22)
私たちはその神の作品を毎日、目(ま)の当たりにしているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。"
使徒の働き 14章15節
パウロたちが生まれつき足の不自由な人を、ひと言で飛び上がり歩かせたという出来事を通して、町中の人々(群衆) は、バルナバをゼウス、パウロにはヘルメスという神の名を付けて、「神々が人間の姿を取って、お下りになった」と、熱狂的に彼等を迎えます。(11-14節)
そしてゼウス神殿の祭司たちは二人にいけにえをささげようと、雄牛数頭と花輪まで持ってきたのです。
そこでパウロは衣を引き裂いて群衆の中に飛び込んで行き、そして言ったというのが今日の箇所です。
衣を引き裂くとは、激しい感情の表現です。
人々がパウロたちを神々としてあがめようとしたことに対し、パウロは「空しいこと」と言い放ちました。
神でもないものを神とする・・全くその通り、これ以上空しいことはありません。
それに対して、まことの神を神としてあがめるなら、これ以上力強いことはありません。
パウロは人々に、そのような空しいことから「離れなさい」と言ったのです。
そして御子イエス・キリストへの愛に満たされて、心の内から叫んで言ったのです。
このまことの神、力ある神に立ち返りなさい・・と。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。"
使徒の働き 14章8~10節
パウロとバルナバはイコニオンで命の危険を感じてそこから難を避け、30キロほど南西部のリステラに行ったときの出来事です。
そこには生まれてから一度も歩いたことがなかった人が座っていました。
パウロは彼を見て「癒やされるにふさわしい信仰がある」のを見たというのです。
パウロが見たのはただ彼が「パウロの話すことに耳を傾けていた」ところだけでした。
でもその様子は、おそらく自分のことなど忘れて話に聞き入っていた、それがはっきり分かるようなものだったのではないでしょうか。
そしてパウロは彼に大声で言ったのです。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」・・と。
その人は飛び上がるようにして立ち上がりました。
彼が受け取ったそのことばには、聖霊による力があったんですね。
その力というのは、聖書のみことばにある力と同じです。
人が救われるときも、それは語られる福音のことばを受け取ったときなのです。
みことばには力があるのです。
みことばは私たちの目を開き、確信を与え、そして力を与えるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます。)
" 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企てたとき、
二人はそれを知って、リカオニアの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
そこで福音の宣教を続けた。"
使徒の働き 14章5~7節
パウロとバルナバが次に向かったイコニオンでも、同じことが起こりました。
多くの人々がイエス・キリストを信じ、同時に反対するユダヤ人たちにより、彼らに悪意を持つ人たちも増えていったのです。
それでも二人はここに長く滞在し、主によって、大胆に語りました。
そして「主は彼らの手によってしるしとしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」とあります。(3節)
ですからそこでの二人の働きも、明らかに主の御手すなわち聖霊によるものであることがわかります。
しかし、反対するユダヤ人たちの迫害はエスカレートし、彼らは二人を石打ちにして殺そうとします。
それで彼らはさらに次の地へと赴き、宣教を続けたと書いてあります。
ここでも、主の働きは最悪の事態とともに、さらに世界中に広がって行ったことがわかります。
ここでも思わされること・・、それは私たちにとって悪い状況は、主のご計画が進められるために起きているということです。
信仰者にとって、悪い状況は落胆する時ではないのです。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。
(第一テサロニケ 5:18-19)
これは、そのまま受け入れても良いことばなんですね。
その時イエス・キリストを信じる者は御霊に満たされて歩むのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)