" 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。"
使徒の働き 16章11~12節
この節の前の10節から突然、「私たち」ということばが出てきます。
それによって、ここからは著者のルカがパウロ一行に加わり、自分自身の目で見たことを記していることがわかります。
そういうわけで、ピリピに滞在したのは数日間だと記されていますが、その短期間にあった多くのことがかなり詳しく記されています。
リディアという女性とその家族の救い、占いの霊につかれた女の話、パウロとシラスの投獄、さらに牢から救い出される経緯、そして牢の看守と家族の救い。そしてこの町の長官の話・・。
ヨハネは福音書の最後で、
" イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。" (ヨハネ21:25)
と言っています。
イエス様が地上で働かれた三年半の毎日と同様、聖霊による著しい働きが始まったときも、それをすべて書き記したら膨大な量の記事になる・・そんな状況であったことがうかがわれます。
18世紀のアメリカやイギリスでは信仰復興(リバイバル) と呼ばれる信仰の大覚醒が複数起こりました。また日本でも、明治時代、また終戦後に大都市を中心としたリバイバルが起きています。
私たちも聖霊による大覚醒を見ることが出来ると信じるのは、決して突拍子もないことではないのです。
でもそれは一人ひとりが、今ともにいてくださる御霊とさらに親しく交わろうとするところから始まるんですね。
リバイバルはそのようにして火がつくのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。"
使徒の働き 16章9~10節
「その夜」とはパウロたちが聖霊の促しに聞き従って、二度にわたって進路を変更してトロアスという海岸の町に来た「その夜」です。
この町の遙か向こうにはギリシアのマケドニア地方が広がっていました。
聖霊は私たちに強く語りかけることもありますが、やさしく導かれることもあります。
どちらにしても、その導きに従っていくとき、次の場面が展開していくんですね。
パウロはこの幻が「彼らに福音を宣べ伝えるため」だと確信しました。
私たちがどんなところに置かれていても、たとえ病に倒れていたとしても、また社長であってもパートタイマーであっても、私たちが聖霊の促しに従うというときに、このパウロの旅行のように、目の前の状況は、主の目的のために展開していくんですね。
そしてその目的とは、福音を宣べ伝える、すなわち主の愛を人々に宣べ伝えるということなんです。
私たちの内におられる御霊・・。
その細い御声に耳を傾けるとき、私たちの歩みと、主の目的が合致するのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
それでミシアを通って、トロアスに下った。"
使徒の働き 16章6~8節
パウロ一行は、新しい地域に向かって進み始めました。
彼らは現在のトルコの内陸部の方に向かおうとしたのですが、その時「聖霊によって禁じられた」とあります。
一体どのようにして禁じられたのか、知りたいところですね。
直接ことばが語られたのか、それともそちらに向かおうとするとき、平安がないというような形で示されたのか・・。
ここでは「彼らは」とあります。それは、聖霊が禁じたことに対して、彼ら一同がそれを同じく受け取ったということなのではないでしょうか。
私たちクリスチャンは常に聖霊に導かれている「はず」の者です。
ですが、確信できないときもあります。
そのような時、共に祈る信仰の友がいると、それはより確かなものとして確信することができるんですね。
パウロ一行は、このあとにも「イエスの御霊」によって進路を変更させられます。
私たちの歩み、その理想は、御霊によって導かれる歩みなんですね。
そして御霊は私たちの思いとは異なる方向を示すことが少なくないのです。
パウロ一行の旅・・その先にはギリシア地方での大旅行が待っていたのです。
私たちも信仰の友と共に、聖霊に導かれる冒険の旅に出てみませんか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らは町々を巡り、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を、守るべきものとして人々に伝えた。
こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった。"
使徒の働き 16章4~5節
パウロ一行は一回目の宣教旅行で行った所を訪ねて回り、「割礼を受けなければ救われない」という誤った教えを正すために、エルサレムの教会で決められたことを伝えました。
それを聞いた人々は、割礼を受けなければならないという、余計な重荷(心配) を下ろすことができ、ただ御霊によって、安心して神との交わりを深めていくその生活に専念することができたのです。
「こうして諸教会は信仰を強められ」・・とあります。
私たちが信仰を強められる時、それは心配や恐れなどは捨てても良いのだと知ったときなんですね。
そして諸教会は人数も日ごとに増えていった・・。
信仰が深まれば、愛があふれてきます。
人々が増えていくのは明らかに聖霊の働きですが、実際には人々が教会を見るとき、そこに愛し合う人々の姿を見るんです。
そしてそれは、主ご自身の光を見るということに他なりません。
先ず、私たちが余計な心配や恐れを捨て、主との交わりを喜んで深め、互いに愛し合うときに、多くの人がそこに導かれてくるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)

ミュージシャンにもわかる聖書の話
【 主の愛に満たされている 】 〜 心痛むときにも 〜
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God Bless You !
" それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。
彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。"
使徒の働き 16章1~3節
パウロはバルナバとは別行動を取ることになり、先にエルサレムの教会から来て帰っていったばかりのシラスを呼び寄せ、このシラスと第二回目の宣教旅行に出ることになりました。
このリステラという町は他でもない、パウロが反対するユダヤ人による石打ちによって半殺しの目にあったところです。
迫害の激しかった町々で、教会は確実に成長していました。
パウロはこの町で、是非この旅行に連れて行きたいと思われる一人の弟子・・それはイエス・キリストの弟子です・・に出会います。
パウロはその彼に割礼を受けさせた・・というのが今日の箇所です。
パウロはイエス・キリストによる救いにおいては、割礼は何の意味もないものだと教えています。
そのパウロがテモテに割礼を受けされたのです。
それは「その地方にいるユダヤ人たちのため」でした。
パウロは、弟子となったユダヤ人の間でも、また反対するユダヤ人の間でも、余計な火種を蒔くことはしないように配慮したんですね。
私たちの周囲には、私たちに強く反発する人がいたり、決してこちらの方を向こうとしない人たちがいます。
それらの人たちに闇雲に福音をぶつけても、人々はさらに反発したり、福音を伝えるその人物に対して不信感を持ったりします。
パウロは反対する人たちが、ほんのちょっと心を開くことができる扉を作ったんですね。
これはまさしく、私たちのお手本です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。
しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。
こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。"
使徒の働き 15章37~40節
聖書の中に「御霊による一致」ということばがあります。
" 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。" (エペソ4:2-3)
これは他 でもない、パウロのことばです。
しかし今日の箇所では、バルナバとパウロが激しい議論になり、このあと二人は別々の道を行くことになります。
ここでは「御霊による一致」はなかったようです。
御霊の思いよりも、自分の考えを優先させること・・私たちもひょっとしたら、むしろそういうことの方が多いかもしれません。
私たちクリスチャンはみな「工事中」だという風に言われることがあります。
それはまさしく、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられていく工事です。(第二コリント3:17-18)
しかもその工事は終わらないんですね。
彼ら(パウロ,バルナバ,マルコ) は後に「主にある同労者」となっていることが、他の聖書の箇所から分かります。
御霊による一致・・そのためには互いに変えられていく必要があるということなんですね。
どのようなことの中でも、まず自分を主に預けて、変えていただくことを願っていきましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」"
使徒の働き 15章36節
「異なる教え」に対する大問題がやっと解決して、教会に平安が戻ってきた・・その数日後。
パウロはさっそく前回の旅行で行ってきた場所をくまなく訪ね、そこで生まれた教会の人々の様子を見てこようではないかと言った・・、これが今日の箇所です。
自分たちが宣べ伝えた教会が今どのような状態になっているのか・・それはとても気になるのは当然だと思います。
我が子の成長を見に行くようなものですから。
しかしそれは、もう一度自分たちを殺そうとした人々に出会うであろう旅でもありました。
トラウマというものがあります。その地に行けばあのときのことが思い出される。
その旅にパウロは、もう一度出かけてこようではないか・・と言ったのです。
一方では恐れ、そしてもう一方では主への熱い思いと信頼。
こういう場合、私たちの心の目は、そのどちらかしか見ることが出来ないんですね。
パウロの目は完全に主の方を見ていました。
パウロはイエス様に自分のいのちを預けていたのです。
パウロは言いました。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。」(ローマ14:8)
パウロは明確に知っていたのです。
主イエスこそが永遠のいのち、本当のいのちであることを・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけた。"
使徒の働き 15章32節
パウロとバルナバがアンティオキアの教会に帰るに際し、エルサレムの教会からもユダとシラスが同行しました。
彼らは預言者であったので・・と書かれています。
預言者が語る多くのことば・・それは神から受けたことばです。
私たちにとって神から受けたことば・・それは聖書です。
聖書のことばは私たちを励まし、力づけるんですね。
そしてそれは「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」だというのです。(2テモテ3:16)
私たちは、イエス・キリストを信じたらイエス様が共におられるのに、なぜそれが必要なのでしょうか。
それは私たちが、ことあるごとにイエス様から離れるからなんです。
その私たちにことばをもって、立つべきところ(イエス様のところ) にしっかりとどまるように、文字で書かれたのが聖書なんですね。
イエス・キリストにとどまることがすべてなんです。
ここに永遠のいのち、そして知恵も知識も希望も、そして信仰の力さえもここにあるんです。
そして、教えと戒めと矯正と義の訓練も・・。
預言者がすること、そして聖書のみことばが私たちにもたらしてくれること・・それはイエス・キリストにとどまることなんですね。
熱心に聖書を読む人になりましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。"
使徒の働き 15章31節
割礼を受けなければ救われないという誤った教えに対して、どのように対処するかという会議がエルサレムの教会で開かれました。
そして彼らは「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように」(15-21節)という指示だけをして、あとは何も重荷は負わせないということに決め、パウロたちはその活動拠点であるアンティオキアの教会にもそれを伝えます。
それで人々は、「その励ましのことばに喜んだ」・・というのが、今日の箇所です。
異なる教えによって混乱していた人々が、このことばでやっと安心できたんですね。
エルサレムの教会の人たちはどのようにしてこの結論を出したかというと、まずペテロやパウロが聖霊に導かれ体験してきた話を聞き、さらにその上で聖書のことばに照らし合わせて結論を出したのです。(13-19節)
私たちは、人の何気ないことばにつかまって、自分がどうしたらよいのか迷ってしまうことがあります。
そのようなときには先ず、みことばは何と言っているかを調べてみましょう。
しかしそれでも、いろいろな選択肢がある場合があります。
その時にはそのどれかを選び、先ず一歩踏み出すのです。
そのとき、聖霊が心に語ってくださるんですね。
「平安」だったり「不安」だったり、あるいは「背中を押す」などの形で・・。
迷ったときの判断材料・・、それは聖書のみことばと聖霊だということです。
これが御霊によって歩むということなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)