" すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。"
使徒の働き 16章26節
パウロとシラスは牢獄に入れられ、足かせをはめられた状態。
しかも鞭打ちにより、背中の皮は破れそうになり、激しい痛みに悩まされていた・・はずなのですが、彼らは神を賛美する歌を歌いました。
彼らは主がなされることを「先取り」して神をほめたたえていたんですね。
このことの上に主がおられ、主はこのことを通して、主がなさりたいことをされるのだ・・。
そしてそれは、いつも「最善」のことだということを私たちは知っているから・・と。
この出来事は明らかに、偶然起きた地震により牢の扉が開いたとかいうことではなく、神の御手がそこに働かれたという出来事です。
悪い状況の中で、神を賛美する・・。
それと「神の御手がそこに働く」・・これはセットになっているんですね。
これが、神は「信仰に応えてくださる」ということの、ひとつのパターンなのです。
それは私たちにとって大きなチャレンジ・・なかなかできないこと・・かもしれませんが、祝福の入り口は実にそこにあるんですね。
悪い状況の時に・・主を賛美しましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。
そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。"
使徒の働き 16章22~25節
占いの霊につかれていた女の主人は、儲ける望みを失ってしまったので、パウロとシラスを長官に訴えました。そして群衆も同じ立場を取ってパウロたちを訴える側に回ったという・・突然の形勢逆転。
長官は取り調べもなしに、パウロたちを「何度も」むちで打たせ、牢・・しかも一番奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめました。
パウロとシラスは、背中には鞭で打たれた激しい痛みが残り、足かせで動きがとれない・・そんな状況の中で主に祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていたというのです。
そのような状況の中で神を「賛美する」・・それは一体どういうことでしょうか。
主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかな わが救いの神。(詩篇18:46)
他の囚人たちは聞き入っていた・・。
パウロたちが心を静めて賛美しているのでなかったら「聞き入る」ようなものではなかったでしょう。
パウロたちはとにかく、主こそが求めるべき具体的な助け主であるということをはっきり知っていたんですね。
でも私たちがそんな状況に置かれたとしたら、そんなことは到底できないかもしれません。
だったら先ずは、「主に信頼し、主により頼む歩みをすることができるように」主に求めるべきかもしれないですね。
主ご自身という、実存のお方が助け主なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。
そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、
ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」"
使徒の働き 16章19~21節
パウロによって女奴隷から占いの霊が追い出され、それで儲けていた主人たちは怒ってパウロとシラスを捕らえます。それが今日の箇所です。
彼女の主人がパウロとシラスを訴えた理由は、ユダヤ人であること、町をかき乱したこと、また、まったく異なる風習を持ち込んだこと、でした。
クリスチャンはその旗印を明確にすればどうしても、家庭や職場、また地域や文化に対して違和感のある存在となります。
そしてそれが迫害の理由となって、殉教に至る者もいるわけです。それは今も決して少なくなってはいません。
実際に殺されるのではなくても、立場を失ってしまうとか、村八分にされてしまうとか・・。
そのクリスチャンが標榜するイエス・キリストというお方は、滅び行く魂のためにご自身のいのちを捨てられ、実際に死なれてからその死の力を打ち破ってよみがえられた方です。
クリスチャンはその方をそのままいただいている者なんですね。
ですから人々はクリスチャンの「死の姿」を見るとき、そこに復活のイエス・キリストを見ることになるのです。
それは人々がそれを見て、イエス・キリストを信じて、その人も永遠のいのちを得るためなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。"
使徒の働き 16章18節
イエス・キリストの名によってとは、どういうことでしょうか。
何日にもわたって「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなた方に宣べ伝えています」と叫ぶ女に対し、イエス・キリストの名によって命じたら、悪霊が出て行ったのです。
私たちは海外旅行するときには、パスポートを持って行きます。
パスポートの第一頁目には、日本国外務大臣の要請の文書と印が記されています。
それによって、その所持者が日本国民であり、守られるべき者であることを保証しているわけです。
「日本国外務大臣の名」に、それを保証する権威があるんですね。
パウロはイエス様から直接召され、聖霊に満たされ、大胆に福音を語り、そこには奇跡のしるしが伴っていました。
パウロがイエス・キリストの権威を帯びてこれらのことをしていることは明白だったわけです。
ですから、大胆に悪霊に命令することができたんですね。
イエス・キリストの名によって・・この女から出て行け・・と。
クリスチャンはイエス・キリストの権威を身に帯び、世に立つ者なんです。
要するに、イエス・キリストの名によってこの世に立っているのです。
ですからその様な者とされていることを、はっきりと自覚するべきなのです。
" あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。" コロサイ人への手紙 2:10
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。
彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。"
使徒の働き 16章16~17節
前回と同じ箇所からです。
「この人は大丈夫」とか、「この人は本当にいい人です」とか言うのを聞くことって、ありませんか。
それはその人を保証するという行為なのですが、何かそこに違和感を感じることがあります。
それは「自分にはこの人を評価する権威があるんですよ」という思いが背後に隠れているからなんですね。
それはすなわち、相手よりも上に立とうとする思い・・高慢の罪がそこに隠れているんです。
そしてさらに、自分はその良い人の部類に入る人間なのだと、暗に言っている・・。
人は知らず知らずのうちにおごり高ぶり、しかもそれに気がつかない・・。
自分の罪に気付かないというのは、クリスチャンにもあることです。
罪の赦しを受け取ったのがクリスチャンなのですが、それでも自分の内にある生まれながらの罪の性質の全貌は、まだまだ見えていないんですね。
罪は隠れているんです。
そしてそれは落とし穴となります。
安全な場所があるなら、それはただただ神の前にへりくだる・・。
そこが絶対的な主権を持たれる方の中に守られるための、唯一の場所なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。
彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。
何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。"
使徒の働き 16章16~18節
占いの霊・・それは神からの霊ではなくサタンに属する霊、すなわち悪霊です。
その悪霊がパウロたちのことを「この人たちは、いと高き神のしもべたち」だと証言し、しかも「救いの道をあなた方に宣べ伝えています」と触れ回ったのです。
だったらそれは神の味方ではないかと思ってしまいます。
パウロは自分たちのことを正しく触れ回る霊に対して、どうして出て行けと言ったのでしょうか。
女がしていしたこと、それは自分があたかも神を認める権威を持っているかのような行為だったんですね。
それはすなわち、自分が神よりも上に立とうとする思いの表れです。
そしてそれこそが、サタンの思いそのものなのです。
神は、他の者による証言によって認めてもらう必要はないのです。
神は、ご自身でご自分のことを現されるのです。
パウロたちの宣教は、しるしと不思議が伴うものでした。
私たちが人にイエス・キリストを宣べ伝えるときも、それはもっぱら神の御力の助けによって、福音は広がっていくのです。
それは人が誇ることがないためなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。"
使徒の働き 16章15節
ピリピにいた紫布の商人リディアは、パウロの話を聞いて信仰の決心をしました。そしてそこにいた家族の者たちもみなバプテスマを受けました。
バプテスマ=洗礼を受ける・・それは神と人の前に自分の信仰を表明するという行為です。
イエス様はよみがえられたのち、天に上られる前に弟子たちに「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい」と言われました。(マタイ28:19)
ですからこのバプテスマは、イエス様の命令への応答であり、その生涯をイエス・キリストを神と信じ、その主に聞き従って歩む心の決意を神の前に表明する儀式だということです。
バプテスマ=洗礼は、受ければクリスチャンの資格を得るというような「スタイル」の話ではないんですね。
それは自分の意思と神の御手との両方の力によって実現する、新しい生活の出発式なのです。
と同時に、バプテスマは「古い自分の葬式」でもあるとも言われています。
どちらにしろ洗礼は、クリスチャンとしての完成を意味することではなくて、クリスチャンとしての歩みのスタートなんです。
そして神との交わりを深めれば深めるほど、自分の罪深さを知り、その分だけ神の赦しの愛と恵みの大きさが見えてくる・・。
洗礼はその「始め」なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。"
使徒の働き 16章13~14節
パウロは、マケドニア人がここに来て助けてくれるように懇願しているという幻を見ます。それで一行はマケドニアのピリピまで来ました。今日の箇所は、そのはじめのところです。
リディアはユダヤの教えを信じ「神を敬う人」でした。
主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた・・とあります。
クリスチャンが信仰を持った経緯を聞くと、それは実に様々で、文字通り十人十色です。
型どおりの手続きを踏んだから、神のものとされた・・ということではないのです。
クリスチャンになる条件は「信仰による」と言われているとおり、その人の資質や、良心や行いを問うものではなく、イエス・キリストを救い主として信じたという、その事実だけが問われるんですね。
しかもその信じた経緯も、神が働いたとしか思えないことが実に多いのです。
人が信じてみようかなと思うその時・・実は神がすでにその人に働きかけておられるんですね。
私たちは基本が神に逆らっている「罪人」です。
その人が神の方に向き直って、信じてみようかなと思う・・。
これが実に奇跡なんです。神のみわざなんです。
これは主がなさることなんですね。
主なる神が「主権者」なのです。
あとは人がそれに応答して神の方に一歩踏み出すか・・。
それが私たちの側の領域なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

ミュージシャンにもわかる聖書の話 【 完全な者 】
〜 聖書の中には「完全な者」という言葉が出てきます 〜
https://www.youtube.com/watch?v=uaguicz_nxU
God Bless You !