" そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。"
使徒の働き 16章15節
ピリピにいた紫布の商人リディアは、パウロの話を聞いて信仰の決心をしました。そしてそこにいた家族の者たちもみなバプテスマを受けました。
バプテスマ=洗礼を受ける・・それは神と人の前に自分の信仰を表明するという行為です。
イエス様はよみがえられたのち、天に上られる前に弟子たちに「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい」と言われました。(マタイ28:19)
ですからこのバプテスマは、イエス様の命令への応答であり、その生涯をイエス・キリストを神と信じ、その主に聞き従って歩む心の決意を神の前に表明する儀式だということです。
バプテスマ=洗礼は、受ければクリスチャンの資格を得るというような「スタイル」の話ではないんですね。
それは自分の意思と神の御手との両方の力によって実現する、新しい生活の出発式なのです。
と同時に、バプテスマは「古い自分の葬式」でもあるとも言われています。
どちらにしろ洗礼は、クリスチャンとしての完成を意味することではなくて、クリスチャンとしての歩みのスタートなんです。
そして神との交わりを深めれば深めるほど、自分の罪深さを知り、その分だけ神の赦しの愛と恵みの大きさが見えてくる・・。
洗礼はその「始め」なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。"
使徒の働き 16章13~14節
パウロは、マケドニア人がここに来て助けてくれるように懇願しているという幻を見ます。それで一行はマケドニアのピリピまで来ました。今日の箇所は、そのはじめのところです。
リディアはユダヤの教えを信じ「神を敬う人」でした。
主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた・・とあります。
クリスチャンが信仰を持った経緯を聞くと、それは実に様々で、文字通り十人十色です。
型どおりの手続きを踏んだから、神のものとされた・・ということではないのです。
クリスチャンになる条件は「信仰による」と言われているとおり、その人の資質や、良心や行いを問うものではなく、イエス・キリストを救い主として信じたという、その事実だけが問われるんですね。
しかもその信じた経緯も、神が働いたとしか思えないことが実に多いのです。
人が信じてみようかなと思うその時・・実は神がすでにその人に働きかけておられるんですね。
私たちは基本が神に逆らっている「罪人」です。
その人が神の方に向き直って、信じてみようかなと思う・・。
これが実に奇跡なんです。神のみわざなんです。
これは主がなさることなんですね。
主なる神が「主権者」なのです。
あとは人がそれに応答して神の方に一歩踏み出すか・・。
それが私たちの側の領域なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)