" 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。
そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。"
使徒の働き 16章22~25節
占いの霊につかれていた女の主人は、儲ける望みを失ってしまったので、パウロとシラスを長官に訴えました。そして群衆も同じ立場を取ってパウロたちを訴える側に回ったという・・突然の形勢逆転。
長官は取り調べもなしに、パウロたちを「何度も」むちで打たせ、牢・・しかも一番奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめました。
パウロとシラスは、背中には鞭で打たれた激しい痛みが残り、足かせで動きがとれない・・そんな状況の中で主に祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていたというのです。
そのような状況の中で神を「賛美する」・・それは一体どういうことでしょうか。
主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかな わが救いの神。(詩篇18:46)
他の囚人たちは聞き入っていた・・。
パウロたちが心を静めて賛美しているのでなかったら「聞き入る」ようなものではなかったでしょう。
パウロたちはとにかく、主こそが求めるべき具体的な助け主であるということをはっきり知っていたんですね。
でも私たちがそんな状況に置かれたとしたら、そんなことは到底できないかもしれません。
だったら先ずは、「主に信頼し、主により頼む歩みをすることができるように」主に求めるべきかもしれないですね。
主ご自身という、実存のお方が助け主なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。
そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、
ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」"
使徒の働き 16章19~21節
パウロによって女奴隷から占いの霊が追い出され、それで儲けていた主人たちは怒ってパウロとシラスを捕らえます。それが今日の箇所です。
彼女の主人がパウロとシラスを訴えた理由は、ユダヤ人であること、町をかき乱したこと、また、まったく異なる風習を持ち込んだこと、でした。
クリスチャンはその旗印を明確にすればどうしても、家庭や職場、また地域や文化に対して違和感のある存在となります。
そしてそれが迫害の理由となって、殉教に至る者もいるわけです。それは今も決して少なくなってはいません。
実際に殺されるのではなくても、立場を失ってしまうとか、村八分にされてしまうとか・・。
そのクリスチャンが標榜するイエス・キリストというお方は、滅び行く魂のためにご自身のいのちを捨てられ、実際に死なれてからその死の力を打ち破ってよみがえられた方です。
クリスチャンはその方をそのままいただいている者なんですね。
ですから人々はクリスチャンの「死の姿」を見るとき、そこに復活のイエス・キリストを見ることになるのです。
それは人々がそれを見て、イエス・キリストを信じて、その人も永遠のいのちを得るためなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)