" しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。
これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。"
使徒の働き 19章9~10節
パウロはユダヤ人の会堂にて三ヶ月間、大胆に神の国について論じたところ、それに反発するユダヤ人達から悪し様(あしざま)に言われるようになります。
そこで、パウロは弟子たちにもそこに出入りすることは止めさせ、ユダヤ人が礼拝する会堂ではない「ティラノの講堂」で話をすることにしました。
ある資料によると、パウロが話をしたのは午前11時から午後4時までの5時間だそうです。午前11時というのは午前の就労が終わる時間です。
それが毎日、、二年間続いたというのです。
それでアジアに住む人々は・・とありますが、アジアとは現在のトルコです。
ということはエペソという都市にとどまらず、周辺の地域からも多くの人がやってきて、パウロの話を聞いたことになります。
それにしても、よくも二年間も毎日続けられたものだと思います。
二年間というのは単純に言えば700回余り、5時間の講演を連日し続けたということになります。
パウロは聖霊と心をひとつにすることにのみ、心を集中させていたことは容易に想像することができます。
そうでなければ、このようなことは決してできるものではありません。
神ご自身がパウロを用いて、アジア全域に福音を宣べ伝えられたのです。
御霊によって歩む・・、その時には、私たちの能力や計画や限界を超えた、驚くべき神のみ力をそこに見させていただく者とされるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。"
使徒の働き 19章8節
パウロはエペソにおいて三ヶ月間、ユダヤ人の会堂で大胆に語りました。
そこで論じたのは「神の国について」と書かれています。
パウロが語った「神の国」・・、それは具体的には何のことだったのでしょうか。
現在のこの地上に広がっていく「教会」、その全体のことを話していたのでしょうか。
またイエス様が再び来られた後に実現する地上の楽園「千年王国」のことだったのでしょうか。
さらにはその後の最後の審判「白い御座のさばき」の後に天から下ってくる永遠の御国「天のエルサレム」のことなのでしょうか。
イエス様が語られた多くのこと、それは「天の御国」についてでした。
福音はあくまでも、この世の平和を説くものではなく、滅亡に向かうこの世から人々を救い出して、そこに用意された「神の御国」のことを説いているものなんですね。
そしてそれは、神の愛による赦しによって実現したというのです。
自ら第三の天に上ったと証言しているパウロが言う「神の国」・・それは永遠の天の御国のことなのではないでしょうか。(第二コリント12:2 参照)
神を知った者の視点・・それは滅びから救われた先の「永遠」にあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。
その人たちは、全員で十二人ほどであった。”
使徒の働き 19章6-7節
エペソは、パウロが二回目の宣教旅行の帰りに、船を乗り換えるためにちょっと立ち寄って一回だけ会堂でユダヤ人達と論じあったところです。
1節には「弟子たち」とありますから、この十二人の人たちはその時に信じた人なのではないでしょうか。
彼らは聖霊のことは何も知りませんでした。
それでも信仰を捨てず、パウロが再び来るまで教会は守られていたわけです。
十二人という数字は、その教会は急速に大きくなっていく様子はなかったことを示しています。
この十二人の人たちが上から強く聖霊を受け、異言を語ったり、預言をしたりしたわけです。
それは、聖霊を受けた人が以前にも増して主なる神の存在をダイレクトに感じるようになったということです。
「リバイバル」と言われる過去の信仰復興の出来事を見る時、そこには常にこのような聖霊の顕著な働きがあったことがわかります。
教会を成長させる「型」などは存在しないんですね。
あの教会がこのようにしたから、うちでもそれをやろうと思っても、思い通りには行かないわけです。
なぜかというと、人がいくら努力してもそこに聖霊の働きがなければ、決してそこには何も起こらないからです。
教会は神が建て上げるものなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。"
使徒の働き 19章6節
聖霊と人との関係を表す三つのことばがあります。
ギリシア語で「パラ=ともに」「エン=内に」「エビ=上に/溢れる」・・。
人が罪を示されて、神の御前に悔い改め、そして救い主を心にお迎えする・・そこに働くのは聖霊なんですね。
それはまだ内に入ってこられてはいないけれど、その人に働きかけている・・これが「パラ」、すなわちともにいて下さる聖霊です。
そして、聖霊は信じた者の内に入ってくださるお方です。
その方(聖霊)は〜あなた方の内におられるからです。(ヨハネ14:16-17) とあるとおり、聖霊(御霊みたま) はいつも共にいて、神の恵みの方へと私たちを促して下さいます。これが「エン」、すなわち内におられる聖霊です。
そして三つ目が「エピ」すなわち、上から力強くくだり、そしてあふれ出る・・。
これこそが、イエス様の弟子たちがエルサレムで最初に受けたはげしい聖霊の働きです。
その時には異言や預言などといった、聖霊の存在が表に現れて出てくるわけです。
信じたあなたの内に、聖霊はおられます。しかし私たちはさらに力を受けることを願って聖霊を求めても良いんですね。
聖霊を求めよ・・それはイエス様が言われていることでもあります。(ルカ11:13参照)
エピである聖霊、それは異言や預言だけのためではなく、明確な確信と愛をもって人々の前に立つ、そのための力なんです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。"
使徒の働き 19章6節
異言、預言・・、ちょっと聞き慣れないことばですよね。
「預言」・・その意味は、先を見越す「予言」とは異なります。
それは神からことばを「預かり」、それを言い表す・・それが預言です。
旧約聖書の中のイザヤ書以降の書物はすべて「預言書」です。
ですからこのエペソの人たちが語った預言・・、これも神から与えられたことばが口から出てきたということです。
イエス様が天に上られた後、祈っている弟子たちの上に激しい音ともに下った聖霊によって、彼らの口からはあらゆる外国語で神をほめたたえることばが出てきました。
それは語っている本人には分からないのですが、当の外国人にはそれを聞き分けることができたんですね。
異言・・、これも自分にはわけの分からないことばで、それを聞いている人も同じくその意味は不明なことばです。
しかしこの異言を説き明かすことばが与えられるということもありました。(コリント第一14:5)
すなわち、でたらめにしゃべっているわけではなく、「背後に意味があることば」が聖霊によって口から出てきているということです。
異言と預言、どちらにも共通して言えることは、自分の考えや意思で出てくるのではなく、上から与えられるということなんですね。
そしてそれは、聖霊が激しく下ったときに伴う、目に見える現象だったわけです。
続きは次回に・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。"
使徒の働き 19章5~6節
パウロがエペソに来て「弟子たち」から話を聞いたら、彼らは「ヨハネのバプテスマ」を受けただけで、「主イエスの名によるバプテスマ」は受けていないということが分かりました。。(2-3節)
イエス様が公生涯を始められた時期、荒野で「悔い改めのバプテスマ」を人々に説いていた人がいました。それが「バプテスマのヨハネ」です。
その悔い改めの教えとは、これから来られるキリストに、はっきりと心を向けなさいというものでした。
ということは、「ヨハネのバプテスマしか受けていない」というのは、イエス・キリストに心を向けたけれど、その段階にとどまっていて、その生活が「生ける主に出会って、新しく変えられる」というところには至っていなかったということが考えられます。
イエス・キリストによる救いをいただいて新しく歩み出すためには、「主イエスの名」によってバプテスマを受ける、すなわちこの方をはっきり心にお迎えする必要があったんですね。
もちろん彼らはそれを喜んで受けました。そしてパウロが彼らに手を置くと、「聖霊が彼らに臨み、異言を語ったり、預言を語ったりした」というのです。
しかしこれは、前回お話ししたような「自覚できてもできなくても、ともにいて下さる聖霊」とは、ちょっと違う感じがしますよね。
彼らの上に臨まれた聖霊・・それは他の人が見てもはっきりわかるような顕著な現象が伴っていました。
それって一体どういうことなのか・・次回はこの続きを書きます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。"
使徒の働き 19章2節
パウロは、以前の宣教旅行で生まれた各地の教会を励ますために、三回目の旅に出かけ、内陸を通って沿岸のエペソまで来ました
以前にはほとんど通り過ぎるようにして、満足に話もできず帰途についた、あのエペソです。
そこで出会った弟子たちは「聖霊のことは聞いたことがない」と言った・・。
それが今日の箇所です。
イエス様は、十字架の死からよみがえられ、天の父のもとに上って行かれるときに、こんなことを言われました。
" そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。" (ヨハネの福音書 14章16節)
今の私たちクリスチャンの中には、自分の内にその聖霊の存在を明確に認める人と、よく分からない人がいます。
ところがコリント人への手紙第一の12章3節には次ように書かれています。
" 聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」ということは出来ません。"
イエス・キリストを主なる神と自覚する人の内には、自覚できてもできなくても、聖霊がすでに伴っていて下さるんですね。
ところが、このあとのエペソでの出来事を読んでいくと、この聖霊とは少し違った印象のことが書かれています。
次回はそのことについて、さらに見ていきたいと思います。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。"
使徒の働き 18章24~26節
エペソは、パウロがユダヤ人達に少しだけ話をしてほぼ通り過ぎて行ったところです。そしてそこには、それまで同行していたプリスキラとアキラが残っていました。
アポロは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」と記され、しかもイエスのことを正確に語っていたとありますから、それはあのナザレ人イエスこそが聖書に記されているキリストである・・と、そこまでであったと思われます。
そのアポロにプリスキラとアキラが「神の道をもっと正確に説明した」というのですからそれは、あの十字架と復活によって実現した出来事の意味を話したのだと、そういうことなのではないでしょうか。
第一に、イエスこそが聖書に記されているキリストであること。
そしてその次に、この方がすべての民の救いとなって下さったということ。
そこまでアポロは受け取りました。
しかしその先にもう一つ、実は続きがあるんですね。
それは「聖霊によって」ということです。
次の9章で、それを見ていきたいと思います。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)